一度は廃城になったが、本ものが残る美城 = 松江を歩く
鳥取県立博物館で調べ物をした翌日、松江へ足を運んでみた。
全国には、本ものの天守閣は12カ所ある。
その一つが松江城(島根県)である。
その実、松江でなく、『隠岐騒動』が起きた「隠岐の島」に足を運びたかった。海を渡る1日の日程だと、現地取材もままならず、断念して、松江城にきてみた。
文献によれば、慶応4年(1868年)の戊辰戦争のおり、隠岐を治めていた松江藩の代官が、島民の蜂起により放逐されている。
隠岐ではしばしば飢饉への対処が悪かった。さらには外国船の来航・上陸するが、松江藩は無為無策ぶり、成すことも後手後手だった。島民の不満がとうとう爆発したのだ。
新政府の下で、隠岐に自治政府が成立した。その後、松江藩に奪い返されたが、鳥取藩と新政府の介入でふたたび自治政府が開かれた。
明治2(1869)年2月25日には廃藩置県よりも2年も早くに、『隠岐県』が誕生している。
明治維新では、ほとんど語られない『隠岐騒動』の自治政府には、関心がある。もしかしたら、幕末・維新のエキスがあるかもしれない。
お城ブームで、全国には「復元天守」、「復興天守」、観光目的の「模擬天守」が多数ある。
ときにはうんざりさせられることもある。
この松江城の天守閣は本もの。深みと味がある。
平家・源氏の台頭から約1000年もつづいた武家社会が、明治時代からわずか最初の10年間で消滅した。
こんな短期の社会革命は、世界史のなかにおいても、めずらしい。
新政府による「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われた。武家政治の象徴であるお城が「廃城令」で、全国の城・陣屋が次々に取り壊された。「廃刀令」、「断髪令」も加わり、武士という身分制度がこの世から消滅した。
西南戦争をもって、2度と武士社会はよみがえらなかった。
なぜ、「廃城令」のなかで、松江城の天守はなぜ残ったのか。
1873(明治6)年。松江城は、廃城令に基づき、大蔵省の管轄下で、(天守を除く)、お城の建造物が4円~5円(当時の価格)で払い下げられた。解体されて、木材、瓦などが売り払われて国庫に入ったのだ。
次なる天守も、大蔵省査定により180円(当時の価格)で売却されることが決まった。
片や、出雲郡の豪農、元藩士らが解体に忍びないと、同額180円で、大蔵省に納めて買い戻されたのだ。そして、現在まで保存されてきた。
松江藩は親藩で、18万6000石
松江城は慶長16(1611)年に築城された。
天守の建造は慶長12(1607)年である。
幕末の松江藩は、政治姿勢が曖昧で、優柔不断だった。大政奉還・王政復古後の新政府ができても、藩内の意見は、幕府方・新政府方どっちつかず。
挙句の果てには、新政府の不信を買ってしまった。
最終的には、新政府に恭順することとなり、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争では京都の守備についた。
こうした藩だから、明治2(1869)年は、さっさと『隠岐県』が誕生してしまったのだ。
歴史は後からなんとでもいえるが、当時は様子見が最善だったのかもしれない。
小泉八雲は、ギリシャ生まれのイギリス人であった。元松江藩士の娘セツと結婚して、明治24年6月から同年11月まで、約5ヶ月間の新婚生活を過ごした。
小泉八雲旧居の目の前には、松江城のお濠がある。
西洋人の観光客が多く、のんびり景観を楽しんでいた。
見ごろは桜とお城だろう。
遠景はいつでも楽しめる
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お濠の橋から覗き見と、屋形船にはしっかり広告が記されていた。
城下の武家屋敷は、江戸時代に心を運んでくれる散策になる。
宍道湖(しんじこ)は、夕日が美しい、と聞いていた。
日本海側の天候は不安定だ。
昼間は晴れていたが、夕暮れには雲が多くなった。
日本海の海水接しているので、「淡水湖」ではなく「汽水湖」である。
平均の塩分濃度は海水の約1/10らしい。
嫁ヶ島(よめがしま)は、宍道湖唯一の島である。全長110メートル、幅約30メートル、周囲240メートルと紹介されていた。
湖岸から島までは220メートルていど。水深は最大130-140cmと浅く、歩いて渡る行事もあると聞いた。
島の名前の由来に興味をもってみた。
若嫁が、姑にいじめられて身投げした、とか悲しい伝説にもとづいているようだ。類似した伝説は多く、どれが真実か、解りかねる。
