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「先の大戦で」は不適切、「明治から77年の軍事国家」を総括すべし

 終戦から70年を機にして、「先の大戦」という言葉が躍っている。「先の大戦」の謝罪や反省の文言にばかり捉われている。それはちがう。

 日本が大きな罪を犯したのは、第二次世界大戦(太平洋戦争)だけではないはず。明治政府が生まれて間もなく、明治5(1873)に徴兵令を敷き、海外侵略の「征韓論」をとりはじめた。かれらの発想は傲慢な豊臣秀吉の発想とまったく変わっていない。
 韓国はなにも悪いことはしていないのに……。

 あえていえば、吉田松陰が獄中で書き残した、中国大陸への海外侵略の思想が、明治をつくった長州藩士たちに受け継がれた。
 薩長土肥が中心となった明治政府はしだいに長州閥が強まってきた。山方有朋たちが強兵思想を高め、国民の眼を「強い国家・強い政府」という求心力につかった。
 「日本には神風が吹く」と平民を信じ込ませて、軍服を着させて、海外に送り込んだのだ。そして、強引に領土拡張を展開してきた。


 日清、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと、広島・長崎の原爆投下で終結するまで、77年間は戦いが続いた。
 この77年をもつて日本人は外国人から、「戦争好きの国家、国民」に思われてしまったのだ。戦争を知らない私たち世代すら、そんな目でみられている。
 だれがこんな国家にしたのだ。そう叫びたいのは私たちだ。

 岸元首相、佐藤栄作、安倍現首相と、戦後も長州から歴代首相がでている。安倍首相は東京生まれにしろ、基盤は長州閥の流れを汲んでいる。
 明治の軍功・元老といわれる山方有朋などの長州閥が軍部・政治の核を動かし、日新、日露という大戦争を引き起こしたのだ。中国・韓国は別段、日本に何も悪いことをしていないのに。安倍首相に長州の血があればこそ、「先の大戦の謝罪」だけでなく、「明治からの77年の謝罪」がもっとも相手国の心につたわるし、美くしくひびく。ある意味で、長州人だから、チャンス到来なのだ。


 太平洋戦争の末期には焼夷弾で、日本列島の町が数多く破壊されてしまった。親を失った戦争孤児たちは食べられず、大勢が餓えて死んだ。原爆孤児もしかり。満洲から引き揚げて棄てられた子供もいる。
 その過酷な状況のなかで、生き残った子どもが、いっさい戦争をせず、戦後70年間の平和を築いてきたのだ。

  
 ABCラインの経済封鎖があった。だから、太平洋戦争へ突入したと正当化する影の声は多い。それはちがう。いま現在で考えてみればわかる。北朝鮮の拉致問題にしろ、クリミア問題のロシアにしろ、経済制裁や経済封鎖を課しているのだ。
 他人の領土に「満洲国」という国をつくれば、世界中からバッシングを受けて当然だし、国際連盟から制裁が課せられるのはあたりまえのシナリオだ。

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歴史記録写真集「明治 大正 昭和 志和」 = 吉本正就 

東広島市・志和町(しわまち)の吉本正就さんが、このたび歴史記録写真集『明治 大正 昭和 志和』を発行された。
 吉本さんは、地元の歴史に造詣がふかい郷土史家である。歴史関係資料や写真のコレクターでもある。自宅の2階には陳列ケースがしっかりした展示室をつくられている。

 古写真の収集が1000点ほど溜まったことから、約1年間の編集・追跡取材を行い、発行に及んだものだ。

 私たちは「明治は遠くになりにけり」と言われて育ったものだ。祖父母がまだ明治生まれだったけれど、当時の話をさして聞いておらず、いまとなれば悔やまれる。ただ、それはいつの時代になっても、口から口へと伝承される限界なのだ。

 私たちが祖父母になってくると、いまや「昭和は遠くになりにけり」である。昭和天皇が没したのはつい先日のように思えるが、もはや27年が経っているのだ。
 平成元年生まれの子が、27歳で社会現役の最先端で頑張っている時代だ。
 
 私たちは、両親が生きた太平洋戦争のできごとは、さして言葉で引き継いでいない。敵とは言え相手は生身の人間だ、しょせん人殺しだ、銃弾の殺戮を語りたくなかった親も多かった、と知る。

 小さな記録文、写真を探しだして歴史記録として遺す。70年経ったいまはラストチャンスだ。もう半世紀たつと、写真の裏付けの話しは聞けないし、写真といえども、古文書のように影が薄くなってしまう。


 写真は歴史の断面を正確伝えられる。政治・経済・文化の面からも、実に重要なことだ。ただ、古写真の収集作業は、ことばでいうほど簡単でない。最近はやたら個人情報という弊害が目につく。先祖の写真すらも、提供を嫌がる人もいるだろう。
 吉本さんのように脚で訪ね歩く地道な努力とともに、協力者も必要だ。


 とくに強く印象に残ったのが、昭和14(1939)年に撮影された、看護学校の卒業女子たちの写真である。西志和の女性7人が盛装し、記念写真に収まっている。
 彼女たちは広島市内の病院勤務だった。

 昭和20年8月6日の原爆投下の地獄のなかで、看護に勤務しており、4人が亡くなっている。半数以上の乙女が無残にも命を失くす。

 吉本さんがそこまで追跡して、写真キャプションに書いている。だから、昭和史の大きな出来事の原爆投下の惨さが、集合写真でありながら、しっかり遺されるのだ


 吉本さんはに「歴史記録」と位置づけて、3つの時代明治、大正、昭和と良い面、辛い面、拙劣な面も含め、公平・客観の目線で遺されている。

 志和といえば、私の著作・幕末歴史小説『二十歳の炎』の神機隊が発足し、訓練地した場所である。

 主人公の髙間省三、幕末史に大きく関わった船越洋之助、加藤種之助などが同隊の一員として、農兵とともに、教育・訓練をした土地なのだ。

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沖縄に、ジャンヌ・ダルクが出たら、どうするの=日本政府は?

 日本政府は沖縄に関して、実に危険なことをしている。もし、ジャンヌ・ダルクが沖縄に現れたら、日本政府の誰がどのように責任をとるのか。
 沖縄県民が民主主義のルールで選んだ地元政治家に耳を貸さない。無視する。威圧する。それは過去から日本が沖縄にやってきた傲慢な政治的態度と類似している。

 かれらが独立に目覚めて、沖縄という表現から琉球ということばに置き換えたら、どうなるのか。激しい独立運動が起きるのではないか。

1429年から1879年の450年間は、沖縄本島の琉球王国が存在した。この450年は重要な歴史的な事実だ。約600年のうち500年は琉球國なのだ。


 1853年(嘉永6年)5月は黒船が来航した。アメリカ海軍のペリー提督は、琉球を独立国と見なし、首里城に入って開港をもとめた。
 翌1854年には、琉米修好条約を締結した。まさに、日米修好条約とまったく同一なのだ。アメリカは琉球王国を独立国として認めていた。これも歴史的な事実だ。


 琉球王国は、1609年に薩摩藩の侵攻を受けて支配下に入ったふりをしていたが、独立国家として消滅したわけではない。首里城が歴然と存在していたのだ。
 かれらは中国大陸、南方の国々と三国間貿易で、独自の国家と文化を築き上げていた。


 1871年、明治政府は廃藩置県で、琉球王国の領土を鹿児島県の管轄しようとした。しかし、琉球は従わなかった。
 1879年3月、明治政府は約600人の軍隊と警察を従え、武力的威圧のもとで沖縄県の設置を行った。これがいまの沖縄県の根拠になっている。

 第2次世界大戦後、明治政府が作った沖縄県は消滅した。1952年(昭和27年)から1972年(昭和47年)まで、琉球政府が存在して、独立した行政を行ってきた。わずかに約40年前なのだ。


 450年間にわたる琉球王朝の支配は、そう根本から日本に同化しない。文字を持たなかったアイヌ民族とはちがう。歴然とした国家と文化と言語を持っていたのだ。


 日本政府が過去の薩摩藩、明治政府ように、おごり高ぶり、服従支配の態度で支配しようとすれば、単に反発ではすまなくなる。高飛車に出れば出るほど、琉球王国の独立運動につながってくる可能性がある。
 東南アジア、中国の経済発展はめざましい。琉球はしだいに観光立国として、自主独立できる環境が整いつつある。

 奄美諸島に目をむければ、琉球王朝の支配下にあった時が長い。米軍統治下でも、琉球政府の支配だった。
 沖縄ジャンヌ・ダルクが現れて、独立を叫びはじめたら、九州と奄美諸島との間で国境をどうするのか、という複雑な問題に及ぶ。とてつもない争いに及ぶ恐れがある。


 現代は、時々刻々とTVでものごとが伝わる。
 日本政府の官房長官の表情や発言ぶりなど、まるで民族独立運動を呼び起こすような態度だ。薩摩藩、明治政府の真似事は止めた方が良い。
 一介の政治家の発言や傲慢な態度が、国家の大きな危機にまで及ぶ。それは古今東西の歴史が教えることだ。


 政治家はもっと歴史から学ぶべきだ。たとえば、長州藩の下参謀だった世良修蔵(せら しゅうぞう)が、まるで支配者の顔して仙台で傲慢(ごうまん)な態度をとり、それが端を発して、暗殺され、奥州32藩の結束から、戊辰戦争に突入した。とんでもない犠牲者が出た。まだ150年前の生々しい事実だ。


 政治家ならば、ここらも熟慮し、謙虚にしてもっと懇切丁寧な態度をとるべきだ。沖縄ジャンヌ・ダルクが現れてからでは手遅れで、日本の悲劇におよぶ。世良修蔵のような、個人の汚名だけではすまないだろう。


写真提供 : 滝アヤ

第14回歴史文学散策(下)=小石川は江戸時代の史跡の宝庫だった

 

 3月20日の歴史散策はソメイヨシノがまだ咲かず、東大・小石川植物園のわずかな桜花にも感動していた。


「この石碑はストレート過ぎて、どぎついわね」
「東大の理系らしいわよね」
 こんな会話が飛び交った。


 種子植物にも精子が存在する。 それは世界的な発見だった。 昭和31(1956)年に60周年の記念碑が建立された。樹齢は約300歳と推定されている。



 小石川植物園で、歴史作家の山名さんが、丸い鉄製のマンホールを指した。なにかしら? ミステリー作家の新津さんが写真に撮る。これも作品の創作に役立つかも。犯人が逃げ込むとか……。

 マンホールには「帝大」と明記されていた。となると、戦前からの仕様だ。
 相澤さん(PEN広報委員長)もおもむろに撮影に加わった。


 次なる史跡は、慈照院だ。初代の辰巳屋惣兵衛(たつみや そうべえ)、通称・平井辰五郎が眠る。

 江戸の町人だった辰五郎は、踊りが大好き人間だった。祭礼となると、かれは女装して面白おかしくおどった。
 その名が売れると、大名邸の宴会の余興にも招かれた。自分の遊戯のためだといい、金は受け取らなかったという。

 天明8年には、仮面をつけて巫女(みこ)のまねをする狂言神楽を考案した人物である
 

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「山の日」から、安全のための知識と方法(6)=東京・有楽町


 3月29日は、日曜だが、国際フォーラムの会場には、山ガールも来ていました。トークショウを愉しんだり、登山用品関係をのぞき見たり、とても楽しそうな若者が多かった。それが特徴です。

 石井弘之(ひろゆき)さんは、成城学園の中学校高等学校の校長である。

 同校は1930年に、オーストリアからハーネスシュナイダーを招いて、スキーを学んでいる。「海の学校」「山の学校」は同校の伝統行事である。

 中学1年生は「海の学校」で、生命の教育、心臓マッサージの実習、ADEの使い方などを学んでいる

 中学2年生になると、240人が8班に分かれて、北アルプスに登っている。槍ヶ岳、白馬岳、唐松岳。大勢の生徒を安全登山させる対処法について語った。

 教師はふだんの部活動、大山登山などを通して、個人の体力、集中力、指示に対する反応力など、総合的な判断から、一人ひとり挑む山岳を決めていく。この振り分が安全への第一歩である。

 約100人の教員は、春と秋に、プロの山岳ガイドから指導を受ける。教員のなかにも、大学山岳部のキャプテンやマナスル登頂の経験者がいる。本隊に同行してもらい、次のリーダーとして学ぶ。

 生徒への注意事項として、

① 走るな。  遅れると追いつこうとする。
② 振り向くな  おしゃべりにつながる。
③ 荷物を谷側に置くな 
④ 石をけるな
④ 手に荷物を持つな 両手を開かせておくことはとっさの対処になる。

 前日に、登山に出かける装備で、登校させる。それぞれにチェックする。ヘアドライアーとか、缶詰とか、重いものを持ってくる生徒もいる。ザックの荷の計量を行う。

 
 7月下旬は、このごろあてにならない。ゲリラ豪雨もある。後退する、勇気と決断が安全登山の要になる。「山の学校」のあとは、次年度に向けた反省会を行う。


 


 山本正嘉さん(鹿屋体育大学・教授)は、人間の運動能力の限界を引き上げるために、瞬発力、持久力、疲労、回復などに取り組んでいる。その成果をもとにスポーツ選手への教育や指導を行っている。

「登山は想像以上に、ハードなスポーツです。その認識が甘い人が多い。役立つトレーニングができていない」
 そう述べたうえで、脚力が弱いとバランス能力と俊敏性に欠けてきて、事故につながります、とつけ加えた。

 登山歴10年以上で、60~70歳代のベテランが事故を起こしている。

 転ぶ事故が多い。つまずいたり、浮き石に乗ったり、踏み外したり、スリップしてバランスを失う。こうした事故は、全体の56%を占めている。

 太郎平小屋に掲示された『最近の事故』から、足首骨折、大腿骨折、頭部座礁が多い、と事例で示す。

「病気による事故もあります。とくに山の登りで、心臓に負荷がかかり、突然死が起きています」
 心肺機能が弱いことにも起因しています、と補足した。

 山本は「運動の強さ」を11段階に分けている。

 1レベルは座る、立つ、入浴、車に乗る

 5レベルはかなり速く歩く、野球、ソフトボール、

 6レベルは、ハイキング、ジョギングと歩行の組合せ、バスケット、水泳

 7レベルは、無積雪期の登山、サッカー、テニス、スケート、スキー
 
 8レベルは、雪山・岩山、ランニング(分速130m)、水泳(中くらいの速さ)

 10レベルは、柔道、空手、ラグビー

 11レベルは、速く泳ぐ、階段を駆け上る

【写真の上で左クリックすると、2倍の大きさになります】

 安全登山のためにも、ふだんのトレーニングが大切である。山本さんは図表で示した。、


 


 飯田肇(はじめ)さん(富山県・立山カルデラ砂防博物館学芸課長)は、「自然と危険を考える」という面で講演を行った。
 
『登山には4つのキーワード』

①身体の準備
  健康ですか。トレーニングしましたか。よく眠れましか。仕事や勉学の疲れはありませんか。

②計画立案
  まず地図を用意しましょう。どこに行くのか。どのくらい登り、下りがあるのか。逃げ道はあるのか。

③忘れ物はないか
  レインウェア、防寒具、ヘッドランプなど、絶対に忘れてはいけないものをチェックしましょう。  

④登山届
  山で最も大切な安全対策です。


『高さと風』
 高さを増すほどに、風が強くなる。規則性がないので、予測が難しい。山岳は地形によっては、強風になる。

 冬はジェット気流の基軸が南下するので、とんでもない強風になることがある。

 瞬間風速は平均風速の1.5~3倍になる。

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華やかな美女乱舞(下)=S-NTK公演・宝塚歌劇団OGらとともに


 S-NTK 第2回 公演   『復興支援チャリティー公演』


         2015年2月7日(土)・8(日)  大井町きゅりあん 小ホール  


 春・花の夢より


 元宝塚歌劇団のスターたちが、華やかな和服レビューショーをみせてくれます。


 
 「花の民謡メドレー」では、踊り手が軽妙なリズムと唄で楽しませます。



 元宝塚歌劇団のメンバーには、とてつもないスピード感があります。

 それが大きな特徴の一つです。

 S-NTK座長の「五月梨世」の踊りと芸は、一流中の一流だ。

 顔の描写の文字化はむずかしいけれど、

 「眼はパッチリして、眉も濃く、顔立ちは浮彫で、愛嬌がある」
 
 粋な感じがある。

 だから、彼女のファンが押し寄せる

 

 


 日本女性の鑑ともいえる、いにしえの情感に満ちた魅惑がたっぷり。

 どこか恥じらうような優しさを感じさせる。

  



 マドリードの情熱の女。そんな鮮やかな女性だ。

 舞踊も華やかで大きい。

 熱気に満ちた瞳は、ことごとく男の心を惹(ひ)きつける 

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【講演・案内】 朝日カルチャー・千葉で公開講座。3月7日13:00~

 朝日カルチャー千葉で、3/7(土)13:00~15:00、公開講座を行います。タイトルは『幕末歴史小説「二十歳の炎」の講演』です。(有料・関連情報を参照)

 2月1日に、葛飾鎌倉図書館で、講演した内容の概略が葛飾ケーブルテレビ(YouTube)で、紹介されています。
 過去3回の同講演では、ほとんどの参加者が「目からうろこ」と称しています。

 天明・天保 ~ 安政の開国 ~ 幕末 その歴史的な流れが、教科書で習ったことがない、新しい視点としっかりした体系で理解できます。


 ナポレオンが19世紀にオランダを占領した時、『オランダ国』が消えてしまった。これは歴史的事実である。日本はどこか欧米との窓口を必要とし、オランダの代わりに、長崎でアメリカと貿易をはじめた。だから、当時の浮世絵、三味線、草履、下駄、扇子などが米国博物館に豊富にある。

 日本はこのとき日英辞典ができた。ペリーが来航した時には、英語の通詞(通訳)はたくさんいた。だから、黒船来航からわずか1年後でも、英文による条約調印が可能だった。

 なぜ、教科書で教えてくれなかったのだろうか。


 文明開化は鎖国から解き放たれた、安政の開国からである。「明治維新」とは嘘の表現である。「安政維新」が正しい。
 蒸気機関車は幕府が発注し、新橋=桜木町で開通したのは明治だった。こうした実例を知ろう。


  禁門の変で、朝敵になった長州藩は、倒幕に殆どかかわっていない。第二次長州征伐で、現・山口県から幕府軍を追い出したにすぎない。
 「薩長同盟」なんて、その実、後世の作家の造りごとにすぎないものだった。


 江戸幕府は260余年戦争しなかったのに、明治時代になると、10年に1度は戦争する国家になった。明治政府がいかに嘘の歴史をおしえて、国民を軍国主義へと導いたか。


「歴史の真実は、やっぱり隠されていたんだな」
 だれもが、新たな価値観が得られます。


【関連情報】

① 朝日カルチャー千葉で、3/7(土)13:00~15:00の講演案内。詳細のチラシはこちらをクリックしてください。


② 葛飾鎌倉図書館で、講演した内容の概略が葛飾ケーブルテレビで紹介されています。YouTube

正しい歴史認識は『安政維新』なり(2)=偽りの歴史を正す

「明治維新」は本当だろうか。その疑問から、明治政府の樹立まで考える。

 安政の大獄で、さらに桜田門外の変が起きた。開国主義の井伊直弼が暗殺された。しかし、世情が不安定になっても、西洋文明を取り入れる「安政維新」はとどめもなく拡大していた。

「攘夷」という劣悪な外国との戦争論の思想に染まったテロリストたちは、白い肌が嫌いだった。無差別で殺す。治安を悪化させる。武器を持っていない民間の商船に対しても、下関海峡を航行すると、無差別で砲撃する。まさに、狂気の行動だ。


 現代でいえば、ペルシャ湾を航行する日本のタンカーが突如として砲撃にさらされる、それと同じだ。日本が何を悪いことをしたのか。下関を航行する米英オランダの船員は、われわれが何を悪いことしたのだ、と口惜しかっただろう。

 かれらテロリストは朝廷の勢力を取り戻したい「我欲」のために、京都の町を放火して3分の1を焼き払った。家屋を焼失した民衆の哀しみと心の痛みなど考えていない。歴史的に大切な神社仏閣の文化財も数多く失った、(禁門の変)。

 こうした1000年来の文化財を焼いた、かれらテロリストたちの行動は、当時の庶民、幕府、天皇の怒りを買った。
「あなたが今わが家を焼かれたとき、尊皇攘夷の思想犯ために、許してあげますよ」
 そう言えるだろうか。庶民の眼で、歴史を見るとはそういうことだ。天皇を敬う尊皇と、外国を攻撃する攘夷とはまったく別ものだ。

 薩摩藩も赤報隊を使って江戸の町、江戸城の一角にも火を放った。この騒擾(テロ活動)が鳥羽伏見のきっかけになった。


 テロリストは主義主張のためならば、民間人の資産や命までも奪ってしまう。
 現代感覚に戻れば、私たち3ー4代前の先祖は、このテロリストに支配されてしまった。京都市民は家を焼かれ、逃げ遅れた子供は死ぬ。神社仏閣は千年来の文化を失っていく。そこには道義がない。
 私たちが歴史を学ぶときには、「尊王攘夷」のテロリスト思想を正当化させてはいけない。尊皇で留めるべきなのだ。

 テロリスト集団が明治新政府を樹立し、かれらが新たにやった施策はなにか。

 文明開化とは後づけである。産業の近代化は、德川時代の『安政維新』の引き続きにしかない。テロリストが政権を取ったあとの、主だった施策は廃仏棄釈と徴兵制だった。10年に一度戦争を行う軍国主義の恐怖政治の土台作りだった。


 日本は古来、武士が戦場で戦うものだ。農商の庶民は助郷で荷役させられても、武器は持たなかった。
 ところが、明治の徴兵制で、床屋の親父も、教員も、蕎麦屋のお兄さんも、造船所の職工も、赤紙(はがき)で、武器を持たされた。さらに外地に送られて人を殺させられた。それが有史以来の初の徴兵制度だ。
 テロリストが政治の仮面をかぶると、庶民の命が大義の下に犠牲にしてしまう。

 廃仏棄釈で何が起こったか。仏教徒の徹底した弾圧だ。『伊勢神宮=天皇=神』の構造であり、「天皇のために死す」という思想の強要の下地づくりだ。
 廃仏棄釈と徴兵制の国家は、戦争への道をまっしぐらに走った。広島・長崎の原爆投下まで77年間におよぶ。


 戦後、昭和天皇は神でないと宣言し、国民の象徴に座った。あるべき姿に戻った。天皇と軍部を結びつけた政治家たちも排除された。
 そこから現在まで、70年間は海外と一度も戦争しない国家になった。今後30年、50年、100年と延長されていけば、德川幕府が260年間戦争をしなかった歴史と肩を並べるだろう。

 約500年の歴史のなかで、77年間の軍事国家はきっと嘲笑の対象になるだろう。「維新志士」と言うまやかしのテロリストたち。「明治維新」といって、さも文明開化の象徴に見せかけたりした、薩長土肥が作った嘘の歴史は糾弾されるべきだろう。


「勝者が歴史をつくる」。テロリストが政権を取った明治時代だ。虚偽の歴史が実に多い。それらを正す時期にきた。維新志士を英雄視する。これらつられた偶像崇拝の虚像などもう棄てたい。
 
 明治政府(薩長土肥)の虚実は、江戸幕府の有能な人材すらコケにし、小中学生の歴史教科書に落とし込んだ。
 それを鵜呑みにした教師が、疑いもなく、指導していく。誤った歴史観が蔓延(まんえん)していく。それが戦争に駆り立てる「軍国少年」たちを生み出した。私たちの両親や祖父母たちの時代である。教育の怖さがある。
 

 歴史を再評価できるのは、戦後70年にわたり平和が維持されてきたからだ。軍国主義ならば、一気に抹殺されてしまうだろう。
「明治維新」でなく、ただしくは「安政維新」だと、私は世に発信していこうと考える。
 
                                           【つづく】

 

正しい歴史認識は『安政維新』なり(1)=偽りの歴史を正す

 ことし(2015年)は広島、東京、千葉で「幕末史~明治維新」関連で、6本の講演がきまっている。拙著「二十歳の炎」がしだいに広まりつつあるからだろう。「歴女」ということばが生まれるほど、隠れた歴史ブームも背景にあると思う。
 まだ年初なので、このさき12カ月を見わたせば、今後とも講演依頼が増えてくるだろう。極力応じるつもりだ。


 講演のタイトルで、「明治維新」と名づくと、私はいつも首をかしげてしまう。これは正確な表現だろうか、と。
『明治維新』は、時の為政者が作り出したまやかしの表現だと考えている。

『維新』とはなにか。世のなかが急激に大きく変わることである。この認識に立てば、阿部正弘老中首座が鎖国政策を終焉し、開国に進んだ『安政維新』である。

 安政といえば、「安政の大獄」という暗いイメージがある。しかし、幕府は開国した後、事業の近代化に大きくのりだした。国民が肌の白い人から学び、西洋文明・産業を取り入れて、新しい生活を享受できる社会になったのだ。
 まさしく世の中を大きく変える、『安政維新』である。

 江戸幕府は蒸気機関車を発注した、開通したのが明治時代にすぎない。横須賀に製鉄所、長崎には大型造船所。パリ万博で日本文化を伝える。通信も、郵便制度も手がけた。鉱山、鉄鋼、造船、繊維など、広域に及んだ。


『安政維新』からの15年間、日本は有能な人材を留学生として海外に送った。咸臨丸でアメリカなどで渡った。産業、建築、文化など多岐にわたり、海外技術者を日本国内に招いた。
 15年間は近代化路線を突っ走った。

「現代人にとって歴史とは何か」
 歴史の年代とあらすじだけではない。現代と照らし合わせて、その時代の舞台や人々の生き方や思想や行動の考査である。それには正しい歴史認識が必要である。


 勝者によってつくられた偽りのベールをはがすことでもある。


「安政維新」は、現代感覚で読みとるならば、1945年の終戦からの15年間に置き換えてみれば、わかり易い。~1960年である。

 戦前・戦中は暗黒時代である。特高警察が暗躍し、英語すら禁止だった。海外の正確な情報はほどんど判らなかった。軍人支配の暗い国家だった。
 終戦直後から、一気に西欧文化が国内に入ってきた。国民は15年間で、アメリカナイズされた。それは記憶に新しいところだ。

 1960年代からも進歩したが、激動の変化は1945年からの方がより強いものがあった。昭和維新と名づけても良いだろう。


 『安政維新』の15年間において、薩長土の下級藩士たちの無差別テロが横行した。肌が白いだけで斬り殺す。現代版の中近東の無差別テロリストと似ている。
 そんな目で、TV報道を見れば、維新志士と呼ばれる彼らの行動が、いかに暴挙だったかとわかるだろう。

【推薦図書】 本と暮らせば = 出久根達郎 (直木賞作家)

 2015年の元旦は、単行本を1冊、最初から最後まで一気に読もうと心していた。なにしろ、遅読だから、そう決意して、除夜の鐘の後からでないと、一日で読み切れない。
 手にしたのが、出久根達郎著「本と暮らせば」(草思社・1600+税)である。「本との出逢いが、人生だ」という帯が気に入っていたからだ。

 出久根さんは古書店主にして、直木賞作家である。「平たく、わかり易く、それでいて濃密」が特徴だ。エッセイの場合、どこから読むか。サブタイトルから、拾い読みしても、まったく問題ない。むしろ、その方が読み手の負担がない。楽しんで読める。


 サブタイトル「職業当て」で、出久根さんは『最も楽しい読書、というのは、私の場合、蒲団に腹這って好きな本を読むことである』と記している。

 私は時間が経つほどに手と腰が痛くなるし、これはやらない。もし、私がそれが出来て、早々と寝てしまったら、それは書き手の出久根さんの問題だ。
 そんな余計なことも考えながら、読み進む。面白い小説ならば、読みだしたら止められない。だけど、エッセイはどこでも止められるのが特徴だ。時には一気に読んでしまっては勿体ない気持ちにもなる。

 「下街と下町」で、私の名前が出てきた。えっ、と驚き、目が一段と冴えてきた。吉岡さん、轡田さん、新津さん、吉澤さん、と並んでくれば、あの日のあの情景か、とすぐさまわかった。

 私の名前が出ているから、推薦図書にする、どうも心の中がややこしくなったな。実は、元旦はここで打ち切った。中おいて、3日に読むことにした。


 第2部で、『ちょんまげ』があった。きっと新宿で上演された、夏目漱石のあの劇だろうな、と閃いた。まさしくズバリだった。楽しい劇だった。
 出久根さんは、夏目漱石の書物、関連事項の知識では抜群だ。完全消化(昇華)されている。漱石のエピソードなどは、漱石先生の作品を読まずして、知識が身に着いた気分にさせられるから、出久根さんは不思議な作家だ。

 75編のエッセイが次々に魅了してくれる。小説家、文学者の名まえが数多く出てくる。それは当然だ。「本と暮らせば」がタイトルだから。

 おなじくり返しになるが、同書の読み方の秘伝があるとすれば、パラパラっとめくって、自分の好きな作家が目につくと、そこは精読する。たとえば、2日間ほど空腹で、目の前におにぎりが差し出されたように、美味しく味わえる。

「源氏物語」の活字が眼に入れば、パスする人はいるだろう。その実、私はそうだった。「最初から最後まで一気に読もう」と決めておきながら、スルーだ。それは出久根さんのせいではない。

 
 私事だが、2月1日、葛飾鎌倉図書館で講演を予定している。80人くらい収容できるらしい。現地打ち合わせて、1月11日に出むく。
 同担当者から、「穂高さんの推薦する作家を教えてください」と言われている。講演当日に、会場の一角にならべ置いてくれるという。
 恩師の伊藤桂一氏と、出久根達郎さんは頭においている。共通するのは、ともに作品に深みがあり、読みやすい作家だ。読者を裏切らない。