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戊辰戦争は、薩摩の膨大な贋金で、西軍が勝利した

 戊辰戦争は、なぜ幕府軍は負けたか。戦争はお金がなければ、勝てない。それを150年間も隠し続けたのが、学者や歴史作家である。
「学者が隠す、薩摩藩の悪質な密貿易、贋金づくりが徳川家をつぶした」

穂高健一が史料から、暴露する。

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戊辰戦争は、薩摩の膨大な贋金で、西軍が勝利した

坂本竜馬が新谷道太郎に、御手洗の重大な4藩密議「薩長芸土軍事同盟」は60年間は伏せておけよ、と語った

 慶応3(1867)年の慶喜から朝廷に、大政奉還から小御所会議、鳥羽伏見の戦いまで、幕末史の謎の空白です。

 大政奉還が慶応3(1867)年10月15日です。坂本龍馬が暗殺されたのが、翌月の11月15日です。その1週間前には、大崎下島・御手洗港の新谷道太郎の本堂で、重大な4藩軍事同盟が結ばれました。(薩長芸土の大物たち)。大政奉還が成功したので、どんな新政府にするか、どのように挙兵し、京都から幕府の一会桑を武力でおいだすか、という極秘の戦略です。

 極秘ゆえに、幕末史の空白が生じています。それゆえに、当時の学者たちは推定、推論を交えた仮説を立てました。その推論が独り歩きし、幕末史が整合性が合わなくなっても、やがて国民的常識になったのです。
 戦後になると、司馬遼太郎著「龍馬がゆく」が、それに輪をかけたので、薩長芸土の密議の存在を問うとか、真剣な討議がなされなくなっています。
 かたや、学問的な公平さから、坂本龍馬の業績は何か、と問われて教科書から外れてしまいました。
しかしながら、慶応3年11月3日から、御手洗港の4藩軍事同盟の主要人物として、坂本龍馬が参加していたことは間違いないでしょう。龍馬の直筆で「新政府綱領八策」が、二通現存していますから。

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<p>  この密議の最終日に、龍馬が新谷に「これは60年間黙っておれよ。口にすれば、佐幕派から殺されるぞ」と極秘としました。<br />
 昭和に入り、新谷道太郎が島根県の湯野津で語り、当時グンゼの総務課長が口実筆記したものが、「維新志士の話 新谷翁の話」諏訪正編者として、現存しています。<br />
 当時から現在まで、学者はこの話はでたらめだと否定しています。</p>

<p>「新谷道太郎の話はウソ?ホント??」</p>

<p> 広島テレビカルチャーセンターのキャンパスで、穂高健一が「維新志士の話 新谷翁の話」の書籍を発見するまで、推移を語っています。<br />
                         広報・山澤<br />
【ユーチューブ】<br />
<a href= >穂高健一が語る坂本龍馬の謎


「明治政府に隠されてしまった大崎下島「御手洗」

 RCC(中国放送)ラジオで、毎月、第一週の土曜日の9蒔05分から穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」歴史スペシャル!が放送されています。「明治政府に隠されてしまった大崎下島「御手洗」です。今月もかなり重要です。
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イラストを左クリックすると、《一文字弥太郎の週末ナチュラリスト》に飛べます


 前回まで、ここまで第一次長州征伐で、長州征討総督の尾張藩元藩主・徳川慶勝と、同参謀の薩摩藩・西郷隆盛がうやむやな戦後処理をしたところまで、穂高さんは語られています。

 毛利家の処分はせず、「なんのために大規模な征討だったのか。朝敵の毛利家になんら処罰をしていなかった」。
 一橋家の徳川慶喜は、征討総督の尾張藩の慶勝が、参謀の西郷隆盛から「まんまんと、芋を喰わされてしまった」と激怒しています。歴史的な事実です。

 それはどういうことか。芋とは当時、民衆まで、薩摩人を芋と称しています。日本人は米の日本酒を飲む。薩摩人は貧しい芋焼酎を飲む、犬猫を食していると、さげすんだ言葉です。
 「芋を喰わされた」とは、陰謀の多い薩摩・西郷の罠にかかったという意味です。

 時代的なみても、討つべき毛利家は過激な攘夷派の長州だった。西郷は水戸藩の斉昭の攘夷派とつながっていた。さらに慶勝は水戸斉昭の血筋で、実の甥ッ子だった。さかのぼること安政5年(1858年)には、水戸斉昭ら、水戸藩主の尾張藩主の慶勝らが、不時登城(幕府のご法度)をおこなった。これが井伊直弼の逆鱗に触れて、大勢が血をながす「安政の大獄」が始まったのである。その主要な責任の一端は攘夷思想に固まった慶勝にもある。

 こう見てきますと、第一回の征討の大軍の総督の慶勝も、参謀の西郷も、朝敵となった毛利家も、みな攘夷派だったのです。処分に甘いという処分に終えたというよりも、なんら罰を与えなかったのだ。これが遺恨を残しました。

 現代的に現代的にいえば、数千の兵士で京都御所を襲い、孝明天皇を拉致しようとした長州軍の最高責任者だった毛利敬親と定広にたいし、総督府は起訴留保としたのです。

 そんな攘夷派の尾張・慶勝が、長州征討の重要な参謀を西郷に任せてしまった。30藩15万人の兵を向かわしながらも、結果として、肝心な毛利家処罰はしていない。「いったい何のための出陣だ」と慶喜は激しく批判をしたのです。慶勝は「芋を喰わされてしまった」と、西郷の意見を鵜呑みで、薩摩の陰謀(ペテン)にかかってしまったのだと激怒したのです。

「これは孝明天皇が幕府・征夷大将軍に命じた毛利家処分の征討だ。このままでは、孝明天皇に示しがつかない」
 そこで、第二次長州征討が企てられます。幕府は体面上から徳川14代家茂将軍の出陣をうながします。将軍はみずから大阪城まで出陣してきます。

 他方、広島藩などは第一次征討で決着したはずだ、ここで幕府と長州が大規模な戦争となれば、わが国の民は疲弊し、西洋列強の内政干渉を誘い、武力陥入する口実を与えてしまうだろう。最悪は植民地になる。
 広島藩はゆいいつ幕府の方針に逆らい、戦争回避の建白書を次々と大阪城の家茂将軍、各老中にさしむけました。その数は10数回におよびます。広島藩は先陣の出兵拒否もした。しかし、幕府側は広島藩執政の野村帯刀、辻将曹らに謹慎処分を出します。

             *

 広島の学問所の若者・OBたち(後の神機隊の設立者たち)は、広島に滞在する小笠原長行に、暗殺予告をします。暗雲たちこめた広島城下です。

             *     


 慶応2(1866)年6月14日に、幕府軍と長州軍が戦闘状態に入った。その戦争の最中に、家茂将軍(20歳)が大阪城で死去した。ここに、広島藩立会いの下で、幕府側と長州藩が宮島で一時休戦を結ぶ。

「長州戦争などはやってはならない。民が塗炭(とたん・極貧)の苦しみに陥る」と徹底的反対してきた広島藩は、とうとう倒幕路線になります。
「こんな幕府に政治を任せていては日本国がつぶれてしまう。徳川家には、政権を朝廷に返還させよう」と大政奉還が藩論になります。そして、広島藩はまず薩摩藩に呼びかけ、さらに長州藩も巻き込みます。
 ここに薩長芸軍事同盟が結ばれて、倒幕へと突っ走っていきます。


 御手洗港の胡子屋前  島々に囲まれた〈汐待ち、風待ちの良港〉、薩摩藩の贋金が発掘された


 第15代将軍の徳川慶喜から朝廷に政権が返還されます。『大政奉還』。それにとどまらず、慶応3年11月3日から7日まで、土佐藩の坂本龍馬も含くめて、御手洗で薩長芸土の4藩軍事同盟の密儀が行われます。
 1週間後、坂本龍馬は京都で暗殺されます。その土佐藩は山内容堂に出兵を拒否されますが、薩長芸の三藩は6500人という幕末最大の大規模な挙兵へと進みます。


 ここらは詳しくは、RCC(中国放送)ラジオ6月12日の穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」歴史スペシャルでお聞きください。
 このコーナーはポッドキャストでも配信中です。


             広報室・山澤直行

小京都ミステリー ~大崎上島への想い~  黒木せいこ

 私は、2時間ドラマ、中でもミステリーが大好きだ。なぜなら、1話(2時間)ですべてが完結するからだ。どんな難解な事件でも、お気に入りの主人公たちが、困難を乗り越えながら、さっそうと事件を解決する。旅のシリーズならば、各地の観光地にも必ず訪れる。名所での謎解きは、売りになっている。

 そんなわけで「西村京太郎トラベルミステリー」や内田康夫の「浅見光彦シリーズ」など、私にはいくつかの好きなシリーズがある。

 その中のひとつに山村美紗の「小京都ミステリー」がある。これは、片平なぎさ演ずるフリーライターの柏木尚子(しょうこ)が、相棒のカメラマン山本克也(船越英一郎)とともに、取材のため日本各地にある「小京都」と呼ばれる場所を訪れ、そこで起こる難事件を解決していくドラマである。


 20年ほど前の作品だが、人気シリーズなので、CS放送で継続して再放送している。その日も私は、あらかじめ録画しておいた「小京都ミステリー・安芸奥の細道殺人事件」を何気なく見始めた。今回は広島の話らしい。
 小京都とは、古い街並みや風情が京都に似ている街である。現在は、日本全国で40ほどの市町が小京都と呼ばれているという。

 今回の舞台、竹原市は広島県の南部にあり、室町時代より港町として知られ、江戸時代後期は製塩業で栄えた。今は「安芸の小京都」と呼ばれており、街並地区が「都市景観100選」に選定されている。

 ドラマでは竹原市で、尚子と克也が、全国的に有名な俳句の先生が主催する「小京都吟行」が行われると聞き、取材に出かける。街を歩きながら俳句を作る吟行は、この竹原の街にぴったりと言えるだろう。

 そこで二人は、俳句の天才少女の川口真木という女子高生と知り合う。知り合った途端、まきの父親が今度の「小京都吟行」に、娘のまきを参加させるかどうかで、俳句協会の役員ともめている現場を目撃する。
 それには、どうやらまきの交際相手の昭一(しょういち)の父親が関係しているらしいので、父親の住む大崎上島へ行ってみることになった。


「えっ、大崎上島?」
 針仕事をしながら何気なくテレビを観ていた私は、思わず顔を上げた。
 大崎上島は、私のエッセイの師である穂高健一先生のふるさとである。と同時に、私の好きな先生の著『神(かみの)峰山(みねやま)』の舞台でもある。

 この本は、太平洋戦争後の庶民の悲惨な姿を描いた五つの中編小説で構成されている。先生御自身の記憶も織り交ぜ、しっかりとした昭和史の証言が、叙情的な文章で描かれている本である。

 なかでも「ちょろ押しの源さん」を読んだ時は、涙がこぼれた。中年男の源さんは、船員らにからだを売りに行く女郎が乗る「おちょろ船」の船頭である。
 
 女郎たちの悲惨な生活が、源さんによって静かに語られていく。亡くなった女郎たちの霊を弔う石仏を、神峰山にかつぎ上げる源さんはどんな想いだっただろう。本を読んだ時から大崎上島には興味があった。


 そんな時、偶然にもドラマに登場するとわかり、私は身を乗り出してテレビ画面にくぎ付けになった。


 大崎上島は、竹原港からフェリーで30分ほど、人口約8,000人の瀬戸内海に浮かぶ島である。造船業や、温暖な気候を利用した柑橘類の栽培が盛んだという。


 ドラマでは、こんなのどかな島の果樹園で、俳句の天才少女・真木の恋人の父親がナイフで殺害されるという事件が起こる。第一発見者はライターの尚子(しょうこ)とカメラマンの克也である。

 そして、その時島に来ていた、真木の父親が犯人として逮捕される。以前から、真木と昭一のことで、もめ事があったとの情報があったからだ。まきの父親は、警察の取り調べで、なんと「自分が殺した」と自供してしまう。謎は深まり、ドラマは大きく動いていく。

 あまりのショックに、高校生の真木は「小京都吟行」には出場しないと言い始める。十八年前に行われた俳句会での事件や、真木の出生の秘密など複雑に絡み合った謎を、尚子がさまざまな推理を働かせ、次第に明らかにしていく。


 だが、私としては、こんな平和な島が殺人事件の舞台となってしまったことが、とても残念だった。それも、果樹園で刃物で刺されて亡くなるとは、何ともむごい話である。


 尚子の活躍で、事件は、俳句協会の役員が、以前の俳句会での不正を隠すために行った犯罪だったとわかり、真木の父親は釈放された。彼は、真木の実の父親でもある俳句の師匠が犯人ではないかと思い込み、嘘の自白をしていたのだった。

 こうして真木の家族に再び平穏が戻り、まきはまた俳句の道をまい進する決意をした。
 

 同じ土地が舞台でも『神峰山』で描かれたのは、女郎たちの悲惨な出来事だった。
 時代の流れの中で、若い女性が生きて行くための必死な生活から生まれた悲劇である。一方、現代のドラマでは、人間の欲や恨み、妬みなどの薄汚れた感情が動機となった犯罪から生まれたものである。悲劇といっても、ずいぶん質が違う。時が流れ、戦争もなく平和な時代でも様々な形で悲劇は起こるものだ。
 
 今回、ドラマでは島の情景を見ることができたが、私は、いつか『神峰山』の本を携えて、実際に自分の目で大崎上島の地を踏み、ちょろ押しの源さんの足跡をたどりながら、神峰山に登ってみたいと思っている。

                       了

【関連情報】

・ 黒木せいこ さん
   熊本市出身、趣味はパッチワーク、エッセイ歴は約10年。

・アサヒカルチャ―センター 千葉教室 フォトエッセイ提出作品 

・ ストーリー写真:日本テレビ系「小京都ミステリー・安芸奥の細道殺人事件」より

   竹原市(ウィキペディアより)         

       

和服ファションショー&幕末講演「篤姫と和宮」=神奈川・大和市

 4月22日(日)午前11時から大和市・座間神社で、和服ファッションショーの『プロジェクト幕末・第五回「篤姫と和宮」がおこなわれた。
 華やかな和服ショーは中学生から年配者まで、その家族をふくめて、参加者は約60人。主催は(財)天文郷芸術文化財団で、共催は(社)青少年育成支援大和の心である。

 私は同タイトル「篤姫と和宮」の90分間の講演をおこなった。参加者の大半が女性だけに、幕末史の知識がなくても、わかりやすく理解できるように語った。

           * 
   
 島津家の篤姫が13代家定将軍の御台所(正室)で入った。家定は病弱で、わずか1年9か月で亡くなった。子どもがいなかった篤姫は大奥にとどまった。

 14代家茂将軍の正室として、皇女・和宮が降嫁してきた。和宮は京都御所の仕来りを持ち込む、というのが結婚の条件のひとつだった。
 姑の篤姫は、江戸城の仕来りに拘泥する。
 一般家庭でも、嫁姑の関係はむずかしいのに、ふたりには待女が200人くらいずついた。大奥で、双方が反目し、軋轢(あつれき)が凄まじかったという。
 家茂将軍が大阪城で死去しても、和宮は德川家の人間として江戸城の大奥に住んでいた。
「大奥は一説には、1000人前後だと言われています。夫を亡くした嫁と姑がそこで共同生活です。どんな雰囲気だったのでしょうね」
 私にも想像できない社会です、と話した。

            *

 和宮は孝明天皇の妹で、明治天皇が甥である。14代家茂は征夷大将軍だから、内親王の和宮の方が身分が高い。
「ここが歴史の重要なポイントです。和宮が内親王で、つぎなる15代将軍慶喜においても、身分が上だったと認識していないと、歴史を読み違えてしまいます」

           *  

 徳川幕府が倒れて明治新政府になった。慶応4年1月3日に起きた鳥羽伏見の戦いから、戊辰戦争へと戦火が拡大していった。と同時に、「德川家」が大危機に陥った。それは「德川元将軍家」と「天皇家」との巨大な「家」と「家」の戦いでもあった。

 女性がひとたび嫁ぐと「家」を守ろうとする執念は凄まじい。篤姫と和宮は動乱の中で、德川家を守るために強く結びついた。
 ふたりは持てる人脈を使い、新政府に江戸攻撃の回避を訴えたのだ。

 

 新政府の総裁の有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が、東征大総督に命じられた。
 明治天皇から錦旗と節刀を授けられた。そして、戦争の指揮権や、徳川家および諸藩の処分(生殺与奪)の裁量権などが与えられたのだ。
 
 有栖川宮親王は京都を出発した。東海道、東山道、北陸道へと江戸に向かった。親王にすれば、和宮はかつての許嫁だった。内親王で親王よりも身分が高い。まちがっても、江戸で内親王を殺傷できない。


 和宮は嫁入りした「德川家」の人間になりきっていた。大奥から従者を京にむけて、明治天皇などに徳川家の家名存続の嘆願書を送っていた。
 和宮は、進軍してくる元婚約者の有栖川宮熾仁親王にも、嘆願書が見てもらえるよう橋本実梁(さねやな)に頼んでいる。
 親王は、徳川家が「和宮を人質にとって戦う」という戦略に出ないかぎり、江戸城を攻撃しない姿勢だったと推量できる。


 篤姫が「薩摩隊長」へと、みずからの命にかけてもと、德川家存続をねがう長文の手紙を出す。一般には西郷への手紙とされているが、篤姫の手紙は最先端にいる島津家臣の隊長宛である。ここらは後世で西郷が美化されて事実とちがう。むろん、西郷が読んだ可能性は多分にあるけれど。

 西郷の立場どうか。篤姫がかつて島津家から正室になるとき、父・島津斉彬(なりあきら)につかえており、婚礼の準備をしている。西郷はつねに島津家の家臣の立場でいた。(それが明治政府から下野し、西南戦争までつづいた)。
 つまり、篤姫には頭があがらない立場だった。

 ともかく、篤姫と和宮は、嫁入りした『家』を本能的に守る必死の手紙をやみくもに幾たびも送っているのだ。


 慶応4(1878)年3月15に予定されていた江戸攻撃、開戦ぎりぎり2日前の3月13日、芝の薩摩屋敷で、参謀の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟と話し合いがおこなわれた。
 歴史絵画だと西郷と勝のふたり。これはどこまでも絵師の想像であり、双方に複数の立会者が参列していたのだ。写真と違って、絵画はごまかされやすい。
 当然ながら、この会談は有栖川宮親王の指示・命令の下で実施された。
  
 
「和宮を人質にしていないか」と西郷が問う。
「德川家はそんな姑息なことをしない」と勝が応える。

 有栖川宮親王が、その報告を受けると、和宮内親王の処遇において今後とも身の安全が担保されたと判断したうえで、「江戸城攻撃は止めよ」と命じたのだ。

 
 歴史は勝者が作るといわれている。
「一般には、江戸城の開城は勝海舟と西郷隆盛の功績だといわれています。はっきり言って、参謀クラスには決裁権はありません。勝海舟にしろ、西郷隆盛にしろ、かれらが独断で決済できる立場ではない。それなのに、英雄仕立てにしたり、美談にしたりしてはいけません」
 ……徳川家および諸藩の処分(生殺与奪)の裁量権は有栖川宮親王に与えられていたのです。これは歴史的事実である。
「歴史はとかくこのように作り変えられるものです。これはいけません。篤姫と和宮。このふたりが女性特有の執念をもって嫁ぎ先の『家』を守ったことで、江戸を火の海から救い、江戸城を無血開城し、徳川家を70万石で存続させたのです。女性の力です」
 それを強調してから、
「女性は身分が低く、文章を書かなかった時代が近年まで続いていました。歴史を洗い直せば、記録に残されていないけれど、女性の力が大きく働いた、政治・経済・文化の重大局面があるはずです。数多くの真実が隠されているはずです」
 私は篤姫・和宮をそう締めくくった。

           *

 講演のあと昼食会だった。
 琴演奏家の酒井悦子さんが、同会場ですばらしい弦の音色を演じた。さらに、和服姿の学生歌手・中山歌帆子さんが壇上で、軽やかな美声を聞かせてくれた。

神機隊~志和で生まれた炎~≪5≫隊を創設した木原秀三郎=プスネット連載より 

 木原秀三郎(適處)はどんな人物か。
 東広島市高屋町(旧・檜山村)の庄屋で、志高く、満27歳で長崎に遊学している。その後は江戸で勝海舟の門下生になり、築地の軍艦操(そう)練所(れんしょ)で航海術、砲術を学ぶ。やがて、広島藩・江戸藩邸で抱えられ、応接方(おうせつがた)(藩の外交官)に任命された。広島に帰国して軍艦付となった。

 第二次長州征討のまえ、広島藩の若者たち55人は切腹覚悟で、小笠原老中の暗殺で戦争を止めようとした。木原もいた。しかしながら、戦争が勃発した。

 長州藩兵が岩国から小瀬川(おぜがわ)を越えてきた。芸長の不可侵条約を無視し、幕府軍を追って大竹、大野、廿日市、広島城下近くまで攻めてくる。この間、広島領民にたいして強奪、略奪、放火までやった。

 広島藩の農兵といえば警防団ていどで役立に立たず。やがて、西洋式軍隊の紀州藩兵と幕府海軍の艦砲射撃で、長州藩兵は岩国まで追い返された。

 木原は農閑期のみ訓練をする農兵でなく、毎日、訓練する壮兵(そうへい)(職業軍人)の軍隊をつくるべきだと、約一年前から主張していた。木原は洋学をも学び、世界最強のイギリス軍隊の知識があったのだ。
 
 広島藩庁は、領民の大被害を知り、やっと木原の考え方を理解し、神機隊の創設を許可したのだ。
 志和盆地の地形・風土を知りつくす木原が、本拠地を志和にきめた。

 結成時、志和冠村の庄屋・近藤権之助が山野の練兵所、食糧の確保、兵舎づくりなどおおいに協力した。優秀な家中(浅野家臣)が約30人と、賀茂郡八十八か村を中心に近郊から1200人が隊中として入隊してきた。
 藩庁の許可は200人の費用のみだった。

 差額の隊費は、藩の要人・小鷹狩(こだかり)介之丞(かいのじょう)が配慮し寄付金でまかなった。武器弾薬は、武具奉行の高間多須(たす)衛(え)(省三の父親)が、西洋式最新銃と銃弾を貸与し、志和練兵所の訓練では十二分につかえた。

 神機隊の優秀な家中が交代で、城下から約30キロの志和にきて、数日間は寄宿し、寝食をともにし、思想教育、軍事教育、軍律の厳しい指導にあっても、家中・隊中の人間関係は良好で、日本最強の軍隊をつくりあげていくのだ。

                     【つづく】


 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第4回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

「広島藩の志士」がベストセラーに、「広島郷土史」の教育の礎になるか

 広島県下の学校教育には、江戸時代をふくむ郷土史がない。広島、呉、竹原、大竹、瀬戸内の島嶼(とうしょ)部の小中学校において、生徒は「郷土史」を教わらない。

「歴史を知る。遠き過去を訪ねて、わたしが明日に働きかける行為である」
「郷土史とは、郷土愛と郷土の誇りを育てる土壌である」

 郷土史を教わらない義務教育は、異常な現象で、恥ずかしいかぎりである。


 1945年8月6日に悲惨な原爆投下があったにしろ、被災地は中心部から10キロていど。広島県下全体でみれば、江戸時代から明治時代の政治、経済、産業、文化、庶民生活などの史料・資料は広域に残存する。
 その気でさがせば、いくらでも歴史関連資料はあるはず。それをなぜ怠っているのか。広島県下で、なぜ郷土史を教えないのか、と私は疑問をもって育ってきた。

 

 しかし、広島県下でも福山地区はちがう。かつて備後の国である。水野家が備後福山を拓いた、と福山の小学校では、郷土史を教わる。

               *

 原爆後の被爆教育、平和の願い、その教育行政だけでは、広島の子どもは歴史視点から将来を見渡せる人材にならない。もっと真剣に、江戸時代からの広島の郷土愛を育てるべきだ。

「長崎には歌がいっぱいある。広島にはまともな歌はない。なぜか」
 長崎はこぞって歴史を大切にしているからだ。長崎は原爆の被災もある。だが、江戸時代からの出島、長崎奉行所、オランダ坂、グラバー邸、長崎造船所など諸々の歴史を庶民が愛着を持って大切にして語り継いでいる。そこには郷土の誇りもある。

「歴史は情感をつくる。その情感が詩になる。歌になる」
 長崎の鐘、長崎は今日も雨だった、長崎ブルース、~、


 広島は被災後の平和教育だけである。論旨的な核廃絶という平和だけでは片手落ちだ。これでは郷土への愛着や情愛が薄い。「広島は今日も雨だった、カープの試合が流れた」となると、歌にはならない。
 100年後の人材を育てる。それには、広島は歴史を100年、200年にさかのぼり、現代を捉える、そして未来を見通す教育をおこなう。
 そこから、生徒たちに広島が抒情、情感的に愛され、歌が生まれて、名曲となり、歌い継がれていく。

「現代の広島人は、幕末・維新に無力感を持っている。残念ながら、原爆前を知ろうとしない。現代と過去(歴史)との意志疎通ができていない」
 広島で、私はくり返し講演し、幕末研究会などで、そう語っている。一方で、「広島の小中学で、江戸時代をふくめた郷土史を学べる、教育の場をめざそう」と訴えてきた。

「教育は100年の計」だから、教育行政トップから教壇に立つ教職員までが、前向きに、積極的に、江戸時代・明治時代から戦前の歴史・知識を取りにいく。その努力が必要だ。

 それがないがしろにされると、生徒らには広島の政治、経済、文化、風土を教えられない。なにしろ、教員自身が郷土の歴史を知らないのだから、教えられるはずがない。

 そこで教職員が、「芸州広島藩」といわれた時代からの歴史に興味を持ってもらう。そのためには、作家の私が広島を舞台にした歴史小説を書くことだとおもった。より事実に近いところで。
「二十歳の炎」(芸州広島藩を知らずして、幕末史を語るなかれ)を世に出した。売れたのは広島でなく、おもいのほか、首都圏で好評だった。(薩長史観が東京(德川・江戸)では煙たがられていた面もある)。ただ、同書は5刷で、出版不況からクローズとなった。

 出版社が閉鎖すると、その本は暴落するのがふつうである。
 ところが、『二十歳の炎』は、絶版本として、いっとき3万円台(アマゾン・中古)にまで暴騰した。これでは同書を読みたい人が読めない。読めないことは、幕末・芸州広島藩が闇のなかに歴史から消えてしまう。

 私は手持ち在庫とか、カルチャーセンターに委託しカウンターで販売している「二十歳の炎」をかき集めた。そして、アマゾンの中古市場にながした。いっとき4-5000円台まで下がった。ところが、またしても8000円から数万円を行き来する。そこで、私は中古市場の冷却を諦めた。あらためて再版してくれる出版社をさがした。

 そして、今回の広島・南々社「広島藩の志士」(倒幕の主役は広島藩だった!)の出版となった。
 数多くの教職員が目にしてくれる。それには、文化の発信の場を提供してくれる書店の協力が大きい。感謝したい。

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神機隊~志和で生まれた炎~≪3≫神機隊発足の芽生え=プレスネット連載より 

 長州藩は倒幕の主役ではなかった。毛利家は藩内の内乱ばかりで、明治新政府樹立まで表立って関わっていない。そういえば、「えっ、ウソ」とおどろく人は多いだろう。

 慶応3年10月15日の大政奉還では、長州藩はカヤの外である。同年12月9日の京都の小御所会議(こごしょかいぎ・写真)で、明治新政府が誕生するが、このとき主な長州藩士で京都にいたのは品川弥(や)二郎(じろう)だけである。
 情報収集で潜伏(せんぷく)する品川ひとりをもって巨大な徳川政権を倒した主役だとはいえない。

            *

 倒幕の足音はいつからか。
 天保・天明の大飢饉(だいききん)で、徳川政権の経済基盤が傾き、ペリー提督の来航から鎖国(さこく)防衛ができず、開港へとおよんだときである。

 日米通商条約が締結されると、外国人を排除する攘夷(じょうい)運動が盛んになった。長州藩が朝廷をかつぎだし、国内政治の中心を江戸から京都の天皇へと移させた。
 しかし、長州藩はあまりに過激攘夷すぎて、孝明天皇からかえって排除された(八月十八日の変)。

 毛利家の三家老が失地回復をもとめて、元治元(1864)年、軍隊を引き連れて京都に挙がり、禁門(きんもん)の変(へん)を引き起こした。御所にむけて発破し、藩邸に火を放ち、京都の約半分を大火災にさせた。

 激怒した孝明天皇が、長州を征伐せよ、と家(いえ)茂(もち)将軍に命じたのだ。
 これでは勤王を標榜(ひょうぼう)する長州にとっては台無し。幕府と天皇を敵にまわして倒幕どころか、本州の西端に封鎖された。
 朝敵の毛利家中は京都にも、広島すらいけない禁足が、王政復古による明治新政府誕生までつづいたのだ。
 ところで、第一次長州征討は、長州藩の関係者の切腹・斬首で終わった。その後、長州藩内で高杉晋作など過激派の力が強まり、德川幕府はそれを危険視し、第二次長州征討へむかっていく。

 広島藩が戦争回避の周旋にのりだした。
 小笠原老中が広島に赴いてきた。広島藩の執政(実質・家老)の野村帯刀が小笠原に強く非戦の意見を具申する。逆に謹慎処分にされた。同様に、辻将曹・執政が大儀のない戦争だとくりかえし、謹慎。怒った優秀な若者55人が、切腹覚悟の行動にでた。ここから神機隊発足への芽生えとなった。

                       【つづく】  

 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第3回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪2≫幻の歴史書だった芸藩誌=プレスネット連載より 

 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載します。同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第2回目です。
 
                 *   

 慶応4年(明治元年)7月、戦史にのこる神機隊の激戦は広野駅(宿場)からはじまった。広野は米作の平野で、遮蔽物(しゃへいぶつ)がほとんどない。
 相馬軍・仙台軍・旧幕府軍の連合4000~4500人の大軍団が埋めつくす。朝昼夜、なんどきも銃弾と砲弾が飛び交う。

 新政府軍の鳥取藩軍は、その恐怖から途中で退却した。孤軍となった神機隊280余人の精鋭部隊は、一歩も引かず、全方位の敵兵をあいてに壮絶な戦いに挑む。死傷者が連続する。
4日間の死闘で弾薬がつきてしまう。
 砲隊長の高間省三が、とてつもない奇襲攻撃をかけて、敵本陣の広野駅を奪ったのだ。

 川合三十郎・橋本素助編『芸藩(げいはん)志(し)』には、こうした壮絶な戦場が克明に描かれている。
 明治半ば、浅野長勲(ながこと)(最後の大名)が、幕末の政治活動をともにやった川合と橋本に、幕末・維新の家史編纂(へんさん)を命じた。
 ふたりは藩の応接掛(外交官)で、政治の裏舞台を知りつくす。さらに、志和で神機隊を旗揚げした中心人物である。なおかつ戊辰戦争には隊長で出陣している。

 編集要員は約300人で、完成は明治42年だった。

 当時は、薩長閥の政治家がつよい権力を持つ。かれらはかつて足軽の身分にも満たない中間(ちゅうげん)や貧農の出身者だった。幕末の頃はまだ下級藩士で、政権内部の機密情報など知りえる立場ではなかった。

 やがて総理や大臣になると、自分たちを偉くおおきく見せるために、腐敗していた徳川政権を俺たちが打倒したのだと豪語していた。

 芸藩志となると、かれらが語る幕末史とは真逆が多い。自尊心をへし折られたかれらは強権で即刻、封印させた。
 幻の歴史書だった芸藩志が昭和53年に、300部出版された。すでに「竜馬がゆく」の司馬史観が世のなかで固まっていた。

 わたしには、それら通説をくつがえし、歴史教科書すらも書き換える内容におもえた。明治政府が修正をもとめず封印したことが幸いし、手垢がついていない。
 その認識のもとに、芸藩志により近く、「広島藩の志士」(二十歳の炎・改訂版)を執筆した。さらに、「芸州広島藩 神機隊物語」も4月1日に発売予定である。


 【関連情報】

①「広島藩の志士」(定価1600円 南々社)は、二十歳の炎の新装改訂版です。3月12日から全国一斉販売されます。
「まえがき」「あとがき」「口絵」が付加されています。
 この「あとがき」には、おどろくべき幕末の焚書(焼き棄てる)が明記されています。幕末の重要人物の日記がまったくない。誰が燃やし、破棄したのか。
 悪質な歴史のねつ造は誰がやったのか。従来の幕末史観が、真逆になる可能性があります。

 
②㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪1≫戊辰戦争 連戦連勝の軍隊=プレスネット連載より

 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載します。同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第1回目です。

                 *

 広島には、毛利元就から原爆まで、その中間の歴史がない、といわれてきた。なぜか。学校教育でも、郷土史として習っていない。芸州広島藩は倒幕の先駆けで中心的な存在だが、倒幕には無縁だ、と殆どが思い込んでいる。
 慶応3(1867)年9月、広島藩は、徳川慶喜に軍事圧力で政権返上を迫るために、広島・薩摩・長州の薩長芸軍事同盟を成功させた。

 そこで旧来の農兵とちがう、実戦につよい西洋式軍隊が必要となった。藩の有能な応接掛(外交官)たちが、農商の子弟、神官、医者などに呼びかけて神機隊(しんきたい)を結成した。同9月、志和(東広島)で旗揚げする。職業軍人として、日々、実戦型の訓練で、軍律も厳しく、最新武装の軍隊だった。

 この9月から歴史に加速度がついて、大政奉還、三藩進発(挙兵)、王政復古、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へと拡大していく。

 神機隊は、広島藩庁に戊辰戦争の出兵を申請した。だが、大政奉還で徳川政権は終わっている、と拒否された。かれらは承服せず、藩から一両も貰えずしても、あえて自費で全隊員約1200人から精鋭300余人を選び参戦した。
 上野戦争、奥州戦争へと転戦し、命を惜しまない壮絶な戦いを行った。


 諸藩が参戦した戊辰戦争だが、神機隊は連戦連勝の最強の軍隊だったと、知る広島県人もまずいない。

 神機隊の砲隊長は高間省三である。かれは18歳にして学問所の助教というエリートだった。満二十歳で、福島県・浪江の戦いで戦死する。この若さで広島護国神社の筆頭祭神に祭られている。

 どれだけ武勇にも優れた人物だったか。

 明治26(1893)年に、『軍人必読 忠勇亀鑑(ちゅうゆう きかん)』が発行された。
 そこには日本武尊、加藤清正、徳川家康など英雄がならぶ。戊辰戦争ではひとり。西郷隆盛、板垣退助、大村益次郎でもなく、高間省三である。
 幼少の強い性格、頭脳明晰の優れた人物、戦場での大胆な戦い方、浪江の戦いの壮絶な戦死まで紹介している。

「えっ、芸州広島藩に、こんなすごい人物がいたのか」
 実のところ、私自身もまったく知らなかった。

          写真=最新銃をもった高間省三(広島護国神社蔵)


【関連情報】

 ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。