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防護服で、「高間省三」碑に墓参 = 福島・双葉町

神機隊の砲隊長・高間省三が、戊辰戦争の激しい戦いの浪江の攻防戦で死す。有能な藩士で、頼山陽2世ともいわれた、頭脳明晰で、文武両道に通じる若者だった。

 広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。



 さらいねんは維新150年である。広島護国神社(藤本宮司・写真の右端)は、高間省三の遺品が劣化しつつあるので、約200点をすべて写真撮りし、永久保存版の本にしたい意向がある。

 その作業がスタートした。

 神社の所蔵写真から、現在は広島藩の兵士らの墓地の写真撮りへと移った。ことし2016年7月20日から2泊3日で、茨城県・福島県の、それぞれの墓地に出むいた。
 
 高間省三が眠る双葉町は、福島第一原発の事故から、現在も残留放射能の濃度が高く、特別許可が必要である。

 7月22日は、その双葉町に出むいた。


 戊辰戦争で亡くなった広島・浅野家藩士ら一部は、東京・泉岳寺にも祀られている。そちらの写真撮りも成されている。

 泉岳寺といえば、赤穂浪士「四十七士」の墓で名高い。なぜ、と思われるだろうが、広島・浅野藩42万石は宗家であり、赤穂浅野家は5万石で分家だった。

 赤穂浅野家はお家おとり潰し(改易)で、家臣は浪人になり、四十七士は斬首でなく、切腹になった。むろん墓地などない。浪人といえども、元もとは浅野家の家臣たちである
 宗家・広島浅野家の配慮で、菩提寺・泉岳寺に祀られたのである。


 ちなみに、大石内蔵助の遺髪は、当時、生き残った志士のひとりが宗家・浅野家で祀ってほしい、と広島まで持ってきた。その遺髪が現在、広島市内の墓地に祀られている。
 あまり知る人がいないけれど。(そこには高間省三の顕彰碑もある)。

 浅野家家臣の有能な高間省三は、なんと18歳で、藩校・学問所(現在の修道高校)の助教だった。第二次長州征討が勃発寸前には、同校OBら55人で、広島にきた小笠原老中を暗殺を企ててまで、戦争を阻止しようとした。

 しかし、それはかなわず第二次長州征討は起きてしまった。大政奉還後も、鳥羽・伏見の戦い、さらに戊辰戦争へと戦火が拡大した。

 高間省三ら神機隊は自費で出陣した。そして、相馬・仙台軍と激しい戦いに望んだ。

 ひとたび戦争がおこると、反戦の若者でも出征して命を落とす。「戦争は起こさせたら駄目だ」。それを小説で感じ取ってほしい、と私は高間省三を主人公にした「二十歳の炎」を出版した。

 現在は三版。少しずつではあるが、高間省三の生き方を通して、明治政府が封印した芸州広島藩の幕末の動きが知られはじめた。
 
 幕末の中心は薩長土肥でなく、「薩長土芸」だと認知されてきた。

幕末史の真実を明らかにする。「近代史革命」と名づけたい

 最近は海外で、江戸幕府の政治が注目を浴びてきているという。それを『德川の平和(パックス・トクガワ)』と称しているようだ。

 戦国時代という大混乱を経験した後、徳川政権が樹立した。延々と260年間も戦争しなかった、平和を維持できた要因はなにか。政権の仕組み、豊富な人材、戦争否定の思想と掘り下げられているようだ。

 私たち日本人は、明治政府が作った教科書の延長線上いる。だから、維新三傑「木戸孝允(長州). 西郷隆盛(薩摩). 大久保利通(薩摩)」.は素晴らしいとおしえられてきた。

 それは本当だろうか、と疑う日本人は少ない。『民を豊かにし、富国にする』のが、真の政治家の努めだ。それでなければ、政治家になる資格がない。それなのに、広島・長崎に原爆投下されるまでの、77年間もの戦争国家の下地を作った人物たちを英雄視している。


 「島原の乱」を経験した江戸幕府は、そこから治安の安定を図るために長く鎖国をしてきた。しかし、西欧列強のアジア進出が強まり、中国から、琉球、さらには日本(当初は長崎)へ外国船がやってくる。

「天保の改革」に失敗した水野忠邦だが、開国への模索をはじめていた。つぎなる阿部正弘政権になると、米国の国書をもったビットル提督、7年後にはベリー提督がともに江戸湾の浦賀に来航してきた。


 江戸幕府は、德川将軍の独裁性を放棄し、全藩の合議、意見を聞くという、中央政権型に移行させた。大小の藩主、公家、楼閣の主までも意見書(上書)を出し、そこで幕府が選択したのが『戦争しないで開国』する道だった。
 日米和親条約の第1条の自由尊重にもとづいて、みずから全国一斉に「踏絵」を禁止させた。開港し、友好を高めながら、通商・貿易で国を富ませる近代化へのレールを敷設させたのだ。

 これらができる有能な人材が政権内にいて、近代化路線と中央政権づくりを進めていく、自浄能力があったのだ。
 ある意味で、日本人の素晴らしさだ。


「外国に蹂躙(じゅうりん)されて開国した」、「德川は無知蒙昧だった」、「西南雄藩は先進性で、江戸幕府は後進性だった」、そんなふうに、私たちは学校教育でおしえられてきた。
 
 その論旨は日本国内で通用しても、『德川の平和(パックス・トクガワ)』を高く評価する海外の人たちには通用しない。

 なぜならば、雄藩と自負する薩摩や長州などは、藩政改革と言いながらも、藩=領地にこだわる保守型で、後進性が強かったからだ。
 德川政権がおしすすめる開国思想には猛反対し、藩の権利を守ろうと、攘夷(じょうい)を叫び、国内を騒擾(そうじょう)させた責任は重い。


 徳川幕府は政権の限界を知り、みずから平和裏に天皇に大政奉還をした。ところが「鳥羽伏見の戦い」という下級藩士のクーデターで、京都にできた明治新政府を転覆させてしまったのだ。それが東京の明治政府だ。


 暴力で政権を得れば、おおくは戦争国家をつくる。この政権は、崇拝すべき天皇を神として利用し、国民を支配し、戦争へと突き進んだ


 このところ『維新150年』と一部で声高になってきている。この節目が、もしや潮流の変わり目で、歴史評価があるべき姿に変わるかもしれない。
 なぜならば、日本は海外からの影響を受けやすい民族だから、『德川の平和(パックス・トクガワ)』が広まるほど、対比法で、明治時代の恥部が次つぎに露呈してくる可能性がある。


 これまで日本人が声を大にしなかった出来事が、表面化してくる。たとえば、キリスト教徒の外国人からみれば、浦上四番崩れ(よんばんくずれ)などは問題視する。江戸幕府は「踏絵」を止めさせた。しかしながら、明治政府は一転し、日本は神の国だと言い、長崎市・浦上天主堂を中心としたキリスト教徒たちへ大規模な弾圧事件をおこなったのだ。

 かつての隠れキリシタンの信者たちは、数千人の大規模で、津和野、萩、福山に送り込まれた。老若男女を問わず、真冬の水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前で子供を拷問するなど、その陰惨さ・残虐さは近代史最大の恥部だ。

 それを長崎で指揮したのが木戸孝允だった。ローマ法王など外国からみれば、木戸孝允は無辜(むこ)の民のいのちを蔑にした、異常な性格の政治家だと言い、日本近代史のなかで、とてつもなく評価を下げる。
 海外の目からみれば、ゼッタイに許せない非人道的な宗教弾圧なのだ。150年経っても、その恥部は消えない。

 
 鳥羽伏見の評価も変わるだろう。……、「鳥羽伏見の戦い」が、德川政権り平和国家から、明治政府の軍事政府に変わったターニングポイントだ。

 京都の天皇に「討薩の表」を持参する德川家の大目付役、それを警備する先頭の数百人(見回り組)は銃に弾詰していなかった。つまり、戦う軍隊ではない。
 それなのに、西郷隆盛の命令で、無抵抗な相手に銃弾を撃ち込んだ。

 当初から戦闘する気などない相手に奇襲して勝った、幕府軍に勝った、慶喜将軍は大阪城から逃げだした、と明治政府はおしえてきた。
 明治政府の情報にはウソが多く、これみよ、と高々に謳(うた)いあげる英雄史観で金メッキをほどこされている。虚偽が多いから、鵜呑(うの)みにできない。

「まだたった150年ですからね、真実は幾らでも出ますよ」
 これが歴史学者の共通認識だ。150年前の家屋、物置などが現存し、そこに資料が眠っている。海外の大学、博物館の倉庫は、日本の幕末史料の宝庫かもしれない。 
 なぜならば、当時はかなり外国人が日本にいたからだ。
 イギリス、フランス、アメリカ、オランダ人(軍隊指導者)から、実態はこうだった、と書き残した客観的な目撃証言なる海外資料がきっと発見されてくるだろう。

 
 明治10年の西南戦争は、西郷隆盛にしろ、大久保利通にしろ、必要な戦争だったのか。大勢の薩摩の若者を死へ導いた。むろん、政府軍側も血を流させた。
 戦争終結後から、結果として、山縣有朋の徴兵制を勢いづかせてしまった責任は重い。


 長州閥の政治家の伊藤博文、井上 馨、山形有朋が共謀し、日本の公使・三浦 梧楼(ごろう)が実行犯で、朝鮮の王妃・閔妃(びんひ)を殺害した。
 4人とも長州出身だ。
 かれらの残虐な行為が日清戦争の引き金になった。そして、10年に一度の戦争国家へと突き進む。

 他国の王室の皇后陛下を殺害した事実は、日本の歴史教科書で学べなくても、海外からはなんども発火してくる。隠しようもない事実だから。


 『德川の平和(パックス・トクガワ)』が発端となり、明治政府がねつ造した幕末史のメッキが、海外からはがされてくる可能性は否定できない。
 となると、維新三傑「木戸孝允. 西郷隆盛. 大久保利通」などは、逆評価が加速し、日本史上の最悪の人物とみなされる可能性すらある。

 過去の英雄たちの歴史評価が真反対にくつがえされる。歴史学からすれば、『近代史革命』と称しても良いのではなかろうか。

 
 私は各講演、講座で、この『近代史革命』を推し進めようと考えている。それが私のテーマ、だれが77年間もの戦争国家をつくったのだ、という解答になるからだ。


写真撮影、土本誠治さん : 第6回幕末芸州広島藩研究会  

途中下車の旅、真夏の京都で散策=観光外国人が多し

 

 中学の修学旅行は、奈良・京都だった。

「また、寺か」

 バスのなかで、私はウンザリしていた。そのつぶやきが、側にいた教師に、聞こえたらしい。

「おまえは、車内に残っておれ」

 夕方、旅館につくまで、ずっと車外には出られなかった。

 京都に来るたびに、それを思い出す。



  京都は、ことし(2016年)2月にきた。真冬だから、人出は少なかった。

  広島に行く途中で、真夏の京都に立ち寄ってみた。


  西洋人でも、女性はきものを着ると、3歩下がって歩くのかな。
 

  声をかけると、気安く、笑みを浮かべて撮影に応じてくれた。

  あまりにも、かしこまってしまい、写真としては歩く姿の方が良かった。


  中学の修学旅行で行けなかった寺のひとつが、銀閣寺だった。

  京都はよく立ち寄るが、これまで銀閣寺は意地でもこなかった。

  約半世紀たった今、やっと心の解禁だった。



 そうそう、龍安寺も、修学旅行で来なかったな。


 祇園から八坂神社あたりは、このところ着物、和服姿の女性が多い

 ことばを聞けば、7-8割が東洋人だ。

 きものは人気なのか。


 日傘にきもの姿は情感がある。

 きっと日本人だろうな。

 ふたりの雰囲気からして。

 

 私は旅先の買い物(みやげ物)はまったくしない。

 ちらっと横目でみるだけだ。


 店の外で、戯れているのは、アジア系のひとたちだ。

 存分に、楽しんでもらえばいい。

 「旅は恥のかき捨てだ」

 死語になったのかな、最近はきかない。

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天草下島の見聞の旅=景観と歴史

  天草にきたな、という実感がわきます。

  河浦の地には、コレジョ(大神学校)が開講されました。(1591-1597年)

  


 案内者の坂本龍爾さんが、崎津教会に案内してくれました。


 天草の民家の造りを見れば、豊かなところだとわかります


 開放感に満ちた光景が、旅の心をのどかにさせてくれます。

 陶芸工場に立ち寄ると、江戸時代の大変珍しい、陶器を利用した藩札をみせてくれました。


 
 世界平和大使の人形の館です。

 57か国・117体のお国柄の人形は、見応えがあります。民族衣装にはウットリさせられます。



 水産高校の練習船が停泊していました。船長にモデルになってもらいました。



 

  富岡港に停泊する水産高校の練習船です


 グーデンベルグ印刷機です。

 日本初の金属活字による印刷が行われました。

  



 「天草市立天草キリシタン館」を訪ねました。

 天草四郎の陣中旗などが展示されています。なぜ、天草・島原の乱がおきたのか。それが理解できます。

 夏休みの子どもの学習には最適です。


 天草沖合に出れば、イルカの群れがみえるそうです。

かつしかPPクラブが、鹿児島、日置とで、交流会 = 郡山利行

 かつしかPPクラブ会長の浦沢誠、穂高健一、そして私・郡山利行が、2016年7月19日は鹿児島で、20日には日置市で、現地の方々と交流会をおこなった。

 3年まえ(2013年6月)の新潟県・『白根大凧合戦』の交流取材に次ぐものだ。

 7月19日は夕方6時から、約3時間、芸州の作家の穂高健一さんと、薩州の近代史第一人者の学者・原口泉さんらを中心とした交流会をおこなった。
 やがて、作家と学者が延々と幕末維新談を問い語りしはじめた。

 原口先生は、初めてと思われる芸州情報にいっぱい接し、『今日は、目からコンタクトが・・・』と、嬉しそうに、お湯割り焼酎を何杯もお代わりした。 

 写真の撮影時刻は、午後9時半ごろのお開き直前である。


 日置市では、郡山宅に、成田浩さん(日置市議会・議長)ら、市役所のお2人を招いて、「かつしかPPクラブ」の活動を浦沢会長が熱心に語った。

 歓談会の飲み物は、ビールから焼酎(ロックとお湯割り)。肴は、吹上浜で獲れた魚の刺身や、ニガウリなどである。

 地元の行政にかかわる人たちに、持参した小冊子を披露した。私の砂時計の取材記事は特に関心を持ってもらえた。
「日置市でも、こうした活動がなされると良いですね」
 と穂高さんが勧めていた。

 掲載写真の撮影時刻は、7月20日午後8時7分である。戸外はまだ暗くない。(東京よりも、約1時間ほど日没が遅い)。それを利用し、ろうそくの明りにこだわってみた。

 幕末維新の志士たちが、熱く明日を語った。そんな雰囲気を、ささやかに真似てみた。

   

西沢溪谷の一周、10キロ。秘蔵写真の発掘ほどでもないが?

 5月29日の写真がある。このころの西沢溪谷は新緑だった。いまは夏山シーズンに入った7月初旬だ。

 掲載のタイミングを逃せば、まずは見聞に価しないものだ。

 
 しかし、10年来にして、初の20代の女性が加わった。われら登山隊としては歴史的なできごとだ。その写真を封印することはできないぞ。

「さあ、のぼろ。行こう」

 先頭はむろんリーダーだ。


 西沢溪谷の登山口で情報を得ようと、バス停から徒歩5分で、まずは茶屋に入る。

「ほんきかよ。はじめから、ルートくらい情報を持ってこいよ」
 
 ヨモギ持ちを食べ、むヨモギ茶を飲みながら、地図を広げる。

 10年経っても、この登山隊は進歩がないな。



 登山というほど険阻な道でもない。それでも、明瞭な案内図がある。

 遭難事故など起こしそうもないルートだ。

 最悪の事故は、転倒の捻挫ぐらいだろう。

 なめてかかるなよ。
 



 ひとり準備運動に余念がない。


 行動に統一性がないのが、われら登山隊だ。


「個人の意志の尊重」
 と言ってもらいたいな。



 やっと、明るく笑顔で、新鮮な空気を吸いながら、西沢溪谷のルートに入る。

 女性一人はいると、こうも張りきれるものなのか。

 男は正直だよな。


 吊り橋をさっそうと渡る。

「怖くなんて、ないさ」

 渡り終わると、そう言うんだよな。


 集合写真を撮ってもらおう。

 相手は快く引き受けて、笑顔で、シャッターを押してくれる。

 よく見ると、右端には中近東の得体のしれない人物が写っているじゃないか。

 たのむ相手が悪かった。


 あきらめて、 記念写真はこれでがまんしよう。
 
 


 西沢溪谷は、多彩な滝の連続だ。

 これは良いぞ。

 そう思いきや、カメラ目線をむけてくれる。

「あのな。滝を撮りたかったんだ」

 これが見返り美人だったら、いいのにな。



「滝って、渓谷へ下るんじゃないの。なぜ登るんだ」

 そろそろボヤキが出てきたぞ。


 渓流沿いの平たい道にでれば、

「はい、チーズ」

 こんなポーズもできる。


 都会から離れたんだ。

 新鮮な空気だ。

 森林浴だ。

 もっと胸を張って、楽しく行こうぜ。

 野辺の送りじゃないんだから。
 



 滝はスローシャッターで撮るんだよ。

 手ブレをしない。

 脇を固めるか、なにかしら三脚替わりを見つけると良い。

 あれこれ教えるのは簡単。だけれど、やっては見せてくれなかった。

 その調子、その調子だよ。

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第98回 元気に100エッセイ教室 = 結末について 

 作品の三大要素と言えば、

 ①テーマ

 ②書き出し

 ③結末である。

「テーマは絞り込む」、「書き出しは動きのある描写文」、「結末は読み終わって、拍手したくなる」。

①、②は作品を書き出す前の準備段階から、計算できる。また、そうすべきである。ただ、③結末となると、読んでみないと、良し悪しはわからない。

 作品が最後の争いとなると、結末勝負となる。それは読後感、余韻、全体の受け皿など、多種の要素がからむからである。

拙劣な結末」ならば、かんたんに列記できる。

 単なる幕引きはダメだし、締め括りの作者の説明だと失望する。

 落ちをつけると、小細工が目立ち、邪道になりやすい。まして、作中でも言ったことを二度出しすれば、息切れした作品におもえてしまう。


良い結末」にも、それなりの技法がある。

① まだこの続きがある、と思わせる終わり方にする。それには、最後の五分の一くらいは思いきりよく棄ててしまう。それが余韻になる。

② 作品のテーマを最後の1―3行で書き表す。作者が最も言いたかったことがこれか、と理解される。

③ 題名を結末のセンテンスで入れてみる。だから、この題名だったのか、と説得力が出でくる。

④ 書き出しの文章と、結末の文章を入れ替えてみる。双方がリンクしていれば、強い印象に結びつく。

⑤ ラスト一行は、「 」会話文で終わらず、短いセンテンスの地の文にする。

⑥ 予想もしていなかった、目新しい意外性で着地させる。作品が光る。

⑦ 作者があえて自分の心を観察する心理描写にする。読後感が強まる


 体操競技では、着地がぴたり決まる。それが妙技の演技になる。
 おなじことがエッセイの結末にも言える。「巧いな」と言わしめれば、それは作品全体をしっかり受け止めたよい結末である。

 ①~⑦を組み合わせると、それに近づけられる

自民党・谷垣禎一さんから『穂高さん、名刺頂戴よ』= 日本山岳会・晩餐会

 日本山岳会は、創立110周年記念式典と、祝賀晩餐会が、2015年12月5日に、京王プラザホテル本館5階で開催された。皇太子殿下の参列の下、約600人があつまった。

  来賓祝の壇上で、「全国山の日」協議会の谷垣禎一(さだかず)会長が、来年8月11日から施行される国民祝日は、すでにカレンダーに赤い印がついており、第一階の全国大会は長野県・上高地に決まっています、と述べられた。

 この法律は、「山の日」が単に登山の日だけではなく、私たちが山に親しみ、山の恩恵を享受する場だと広く国民に認めてもらう機会であります。

 親と子が山の自然を楽しむ。そして、たくましい人材になってもらう。こうした取り組みでもあります、と述べられた。

 さらに、来年は日本山岳会がマナスル初登頂(世界初)の大偉業を成功させてから60周年記念にあたります。「山の日」と重ねあわせると、2016年は同山岳会にとっても、たいへん意義あるものです、と他に学会長は語った。

 日本山岳会晩餐会では会長挨拶、永年会員、新人紹介、鏡開など、恒例の催しものが展開された。
 これら一連の祝賀が終わると、各テーブルマスターの下で、歓談が行われた。


 わたしは歓談が一段落したころ、 「全国山の日」協議会の谷垣禎一会長のところに、タブレットをもって出むいた。現在・松本市本社の「『市民タイムス社』で、山の日に関連した、新聞連載をしています、とつたえた。「山岳歴史小説・『山は燃える』です。

『毎日なの?」
「はい。この10/1から来年3/31まで8か月、毎日ですから、240回連載です。松本市の画家の絵も毎回入っています。「山の日」に向けた記念小説です。

 さかのぼること、昨年五月に同法案が衆参両議院で可決された後、「山の日」推進メンバーの衛藤代議士、務台代議士などから、「山の日」らしい歴史山岳小説を書いてよ、と言われました。
 
 毎月2度は信州・飛騨に入り、深く取材してきました。約一年余りで、連載に入り、来年8月11日には単行本にして出版します。と概略伝えた。



「楽しみだね。ぜひ読ませて」
 そう言いながら、どんな内容なの? と質問された。


 安曇野は北アルプスの数千年、数百年のがけ崩れから、厚い砂礫岩の地層でした。川が地表深く入り、地表は水田ができない、不毛の地でした。とりもなおさず、水がない貧農の集落でした。

 安曇野は九州の海賊・あずみ族が移り住んだところである。
 農民らはいちずに水が欲しいと思いながら、飢えていた。

 文化・文政のころ、村の有志が、数百年の夢だった、農水路の開削に取り組んだ。奈良井川(旧・木曽川)から、15キロにもおよぶ等高線に沿った水平線の農水路だった。難行苦行。貧農には金がない。土木技術がない。まして水争いの地だ。土地の提供などあり得ない。暴漢に襲われるなど、不承諾の抵抗運動が起きた。十数年の粘り強い努力がなされても、光が見えなかった。


 東海道五十三次の続編の取材で、十辺舎一九が安曇野にやってきた。ここで、大逆転が起きた。そして、 松本藩も協力し、巨大な拾ケ堰が完成した。

 農水路が完成する。喜んでばかりいられない。青々とした水田が広範囲にできることは、米が余り、米価が暴落するになる。そこで、山国の飛騨へ米を送る道を手がけた。


 安曇野からまず常念岳山脈を越えて上高地に下る。そこから焼岳の肩を越える(旧・鎌倉街道)を通り飛騨への道をつくる。これは2600~2700の高所を二座越える、とてつもない大事業だった。

 さらには、政治的な高い壁があった。

 松本藩は許認可を出した。だが、飛騨がわは幕府の支配地で、機密主義である。鎌倉街道はかつて武田軍が信濃から五度も飛騨を攻めた、軍事の道だった。

 徳川家は江戸防衛から、鎌倉街道の開削を承諾しない。しかし、好機がきた。それが天保の大飢饉だった。交易の道が飛騨がわに必要となったのだ。

 この当時、槍ヶ岳を開山した播隆上人が安曇野にやってくる。農民らはそれを支援する。


   【皇太子殿下が撮影された写真のまえで、谷垣禎一さん】


 谷垣会長さんには、、『山の恩恵』の水で、拾ケ堰ができて、いまでは日本一住みたい緑豊かな安曇野になった。上高地を経由する山道で、江戸時代のいっとき交易が盛んになった。そして、山岳宗教が同時代にあった。

 文化・文政、天保時代の安曇野には、まさに祝「山の日」の恩恵を描く素材がありました「新聞小説は実名です。過去には地元作家すら書いたことがなく、大人気だそうです」
 とタブレットをみせながら、説明した。

「来年の8月11日に、その小説も花を添えるね」
 谷垣さんは、大いなる期待をしてくれた。
「期待しているよ。穂高さんの名刺を頂戴よ」
 谷垣さんから言われた。

2年前に名刺を交わしているが、その時は儀礼的だった。こんかいは自民党幹事長みずから、名刺を頂戴、と言われたので、この連載小説にたいして谷垣さんは期待してくれている、と強い気持ちが持もた。

朝日カルチャー・公開講座『柴又を歩く、撮る』(上)取材撮影の方法

 2015年11月14日(土)は雨だった。
 朝日カルチャー・千葉主催の第3回目となる公開の「歩く、撮る」シリーズが、柴又で行われた。講師の私は雨男で有名であり、またしても雨だった。(登山仲間は私といくと雨だと言いきってしまう)。

「場所が写真からわかる。それとなく組み込む」
 寅さんの銅像前で、最初のレクチャーを行う。

「写真は若いカップルの方が印象が強い」

「私は朝日カルチャーで写真を勉強しています。撮影させていただけますか」
 取材あてに声掛けしてみる。身分を明かせば、応じてくれるものだよ、とトークの仕方もおしえる。

 思いもかけず、モンゴルからきた関取だった。引退後、ランニングで、百数十キロの体躯が現在になった。四股(しこ)を踏んでもらった。

「動きを撮りなさい。いちばん動いているものは煙でしょう」
 焼き鳥屋のお兄さんに声がけして、何本も焼いてもらった。

 めずらしいおもちゃ屋がある。
「店だけ撮っても、ダメですよ。たとえ後ろ向きでもいい、人物は入れなさい」

 人物を入れることで、店の大きさも表現できる。

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松本『市民タイムス』新聞連載、山岳歴史小説「燃える山脈」が生まれるまで

 瀬戸内海の島っこが、信州・飛騨の山奥の農民を書く。それも歴史小説として。取材に入った時、農家の生活、農業について、いかに無知蒙昧かと思い知らされた。1ラウンド、10秒でダウン。そのくらいいきなり叩きのめされた。
 それからの取材・執筆で、1か月半で、ことし10月1日からの新聞連載小説としてスタートした。1か月が経った。
 この作品が生まれるまでを振り返ってみよう。

 国民の祝日「山の日」が国会で通過したのが、2014年5月だった。
 私は「山の日」推進委員会のメンバーの一人だった。成立が決まった初会合では、同法案の超党派議員の推進役だった会長・谷垣さん、副会長・衛藤さん、事務局長・務台俊介さんら国会議員が壇に立ち、笑みで、思いのほかに早い制定を喜びながら、
『「山の日」は登山だけでなく、山の恩恵に感謝する日です』
 と趣旨を語っていた。

 会合後の同パーティー会場(憲政会館)で、ふいに務台さんから、「穂高さんって、長野の方」とネームプレートを見ながら、そう問われた。「ペンネームです、学生時代から登山が好きだったので」と答えた。
 その出会いから、「燃える山脈」が生まれた。

 私はちょうど幕末歴史小説「二十歳の炎」(芸州広島藩を知らずして幕末史を語るべからず)を出版していた。
 務台さんから、「山の日」が成立したばかり。同法案の趣旨に関連した歴史小説を書いてくれませんか、と提案を受けた。
 天明・天保の長野には、「拾ケ堰」、「飛州新道」、「槍ヶ岳・播隆上人」の素材があり、同時代的に絡み合っているし、山の恩恵に絡むので、と説明を受けた。

 私は一つ返事だった。その実、2-3年後、某新聞社で、維新150年にむけた、鎖国から開国へ大きく舵を取った『阿部正弘』の連載小説の話が進んでいた。
 天明・天保時代から德川政権の土台がしだいに狂ってくる、幕末史のスタートでもある。阿部の執筆とも結びつくかな、という思いがあった。

 取材は信州(長野県)と飛騨(岐阜県)に入った。
「農業は利口じゃないと、できないんですよ」という話を聞いた。自然環境は例年同じでなく四季の変化に対応する。変化対応業だと教えられた。

 私は広島県・島出身で、造船業の町で、田地はゼロだった。農業はまったく知らない。高校一年の時、山越えした先の学校近くに田んぼがあったから、田植えをはじめて見た。自転車で横目で見た通りすぎた3年間だった。大学から東京でまわりに田地などない。
「農業は無知だ。大変なこと引き受けたな」
 と取材を重ねるほどに、その思いがつのるばかり。

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