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「隠された幕末史」・穂高健一が100人の区民に講演=浦沢誠

 歴史作家の穂高健一が、2018年1月28日 葛飾区立立石図書館・研修会(2階)で、14:00から2時間0の講演をなされました。題名は『隠された幕末史』です。

 当日は晴天のもと、参加者はまるで計ったようにジャスト100名でした。

 年少者は小学生(男子)で、大半は60代を超える年齢の方がたでした。

 講師は『穂高史観』で独特の切り口を持ち、幕末史をひっくり返すような内容で、2時間を熱く語りました。


 立石図書館の白井館長が、冒頭のあいさつで、「作家・穂高さんは、葛飾区史の『郷土ゆかり人』(100人)に載られていますが、私自身、あまり認識がありませんでした。HPを見ると、小説家、登山家、ジャーナリスト、写真家など幅広く活動されています。おどろきでした」と語った。


 「きょうは、明治維新から150年。大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、これらの歴史の舞台裏がどのように語られるのか、とても楽しみです」


 明治22年に、伊藤博文の下で、明治憲法が発布された。この22年に、大久保利通の家屋が全焼し、大久保利通の日記が燃えてしまった。

 白版に『鳥有』と文字を書き、「とりう、と読みます。すべてなくなることです」。つまり大久保日記が全焼したことを意味します。

 国立国会図書館のアーカイブから確認できます、と付け加えた。

「この全焼は放火ではなかろうか」
 なぜか、放火か。幕末史にかかわる主要な人物たちの慶応3年の肝心な日記がことごとく、燃やされたり、抜かれたり、まったく現存しないからだ。

 まさに明治20年代の政府トップは、焚書(ふんしょ)を謀ったのだろう。事実ならば、ヒットラー、毛沢東とともに、明治政府は「世界三大焚書」を成した、後世に重大なる責任を負わねばならない、と語った。

 

 自著の幕末歴史小説「二十歳の炎」(2014年6月に発行)にサインをなさった。

 表紙の英雄・高間省三の写真がとても格好いい。

 明治時代発行の軍人携帯必読「忠勇亀鑑」には、日本古代の武人、日本武尊、加藤清正、豊臣秀吉、徳川家康らがならぶ。戊辰戦争はたったひとり。西郷隆盛、板垣退助でもなく、唯一の武勲と紹介されているのが、表紙の高間省三です。。

 日本人にはぜひ知ってもらいたい人物です、と穂高講師はつねに語っています。


 穂高講師から学ぶ「かつしかPPクラブ」のメンバーが講演にかけつけました。PPクラブを下支えしてくださる立石名物・岡島古書店の岡島さん、四つ木郷土史家の石戸暉久さんたちも、講演参加されました。

 二次会では、幕末の要人の日記がことごとく「焚書」されたが、どれがやっのか、その犯人探しで、盛りあがりました。
 

【講演・案内】 隠された幕末史 = 葛飾区立立石図書館 1月28日(日)

 穂高健一による『隠された幕末史』を講演する。

 日時: 2018年1月28日 14:00~16:00 2時間

 場所: 葛飾区立図書館・研修会(2階) 無料
 
 メインタイトル「隠された幕末史」

主内容として:
 明治維新から150年、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の知られざる歴史の舞台裏を語る。


 私たちが現在一般に知り得ている幕末史は、焚書のうえ、ねつ造されたものである。

 ここら焚書は学者、歴史作家らは知らないか、知っていても、伏せているのか。これが一段と明白になれば、わが国の幕末史が通説と大逆転するし、「薩長倒幕」など死語になる可能性がある。広辞林からも消える。

 この講演で、それを赤裸々に明かす。

 通説に固まった歴史家にとっては、あまりにも恐ろしいことだろう。論文で綴った学術書、歴史小説などは『根拠も裏付けもなく、知ったかぶりして、嘘ばっかり書いて』と一律に不評を買ってしまうだろうから。


 幕末史のねつ造は、「国民を皆兵」にして、戦争国家へ導く作為につながった。だれがそんな悪質な焚書の工作をしたのか。講演では、犯人探しも試みる。

 
 明治政府のスタートは薩長土肥だった。薩長閥の政治家が中心だった。ただ、薩摩島津(鹿児島)、長州毛利(山口)の体質は根本でちがう。ここらは一律にできない。


 明治の三傑だった西郷隆盛が西南戦争が起きたとき自決して死んだ。同年には長州藩の木戸孝允が病死した。翌11年には大久保利通が東京・紀尾井町で暗殺された。
 一時期の創設者たちが、時おなじくして消えたのだ。


 その後、約10年間にわたり、薩長閥の力の均衡が崩れ、薩摩(鹿児島)は落ちていく。シーソーゲームと同じで、こんどは下級藩士だった長州(山口)閥の政治家たちが伸してきた。かれらは産業界と見苦しくも癒着し、金の力で政府を支配下におき、ほほ独壇場になる。


 伊藤博文による明治22年の憲法発布がおこなわれた。

 さかのぼれば、幕末の長州藩は朝敵だった。小御所会議の段階で、京都には品川弥太郎がひとり毛利藩藩士として情報収集で潜伏していた。たった一人で、逆立ちしても倒幕など言わない。長州藩は倒幕にまったく役立ってはいないのだ。
 
 伊藤博文は極貧農に生まれ育った。井上馨は下級藩士、山縣有朋は中間(ちゅうげん、武家に奉公する小者)の子ども、寺内正毅 は貧しい藩士、田中儀一は駕籠(かご)かきの息子、三浦伍楼は武士の奉公人の又家来(またけらい)の出である。
 かれらは下級藩士というよりも、藩士以下の身分だった。


 身分が極度に低いもの、学歴のなかったものが、最も高い政治支配の地位に就くと、どうなるか。過去を誇大視し、わが身を英雄視し、偉そうに語りたがるものだ。傲慢(ごうまん)な人間ほど、悲しいかな、そうなってしまう。
 極貧の出の豊臣秀吉は天下を取ると、自分をより大きくみせるために、あえて朝鮮侵略をやってみせた。それとまったくおなじである。

 戦争とは自己誇示の最大の道具なのだ。

 長州は、朝敵で挙兵の旗も挙げられなかった。それにも関わらず、自分たちを大きく見せるために、嘘はいくらでも平気でつく。
「長州藩は徳川を倒しただの、徳川よりも優れていたんだぞ、江戸幕府は劣悪な政治だったから、われらは倒す必要があっただの」とウソをでっち上げたのだ。

 金と権力をもった長州閥の政治家は、「この辻褄(つじつま)に合わない、大名・家老、公卿たちの不都合な日記は全部消せ、この世から消してしまえ」と焚書を一気にやったのだろう。


 長州閥を中心とした明治政府は、わが国、つまり政治家の自分自身を大きくみせるために、世界に君臨する日本国をつくる、軍事大国の欧米に肩を並べてみせる、と豪語した。
 
 そのためにも、歴史をねつ造し、かつての異人を討つ攘夷思想は正しい、国民皆兵は正義だ、聖戦だと教科書で教え込んだ。

 小学生の歴史教科書は明治時代の当初、自由発行で、開明主義の教育だった。外国の知識を広めさせていた。
 ところが、長州閥が政府の中枢に座ると、急激な変化が起きた。

 明治23(1891)年から、歴史教科書が検定制度になった。外国史教育は廃止され、小学校では日本歴史のみと決定された。そして、日本史上の「偉大な」「英雄」人物と重要な事件をとりあげていくものに変わったのだ。
 それは戦争史観から選択された人物たちだった。
 1904(明治37)年には「国定制」へと、一歩ずつ国家統制が強められた。


 ナチスドイツは焚書から、ユダヤ弾圧で思想を統一し、侵略戦争へと進んでいった。日本は聖戦で思想統一した。


『三つ子の魂百まで』、教科書は正しいと思う。教職員、神職、僧侶までも、鉄砲をかついで人を殺しにいく。日清戦争、日露戦争、第一世界大戦、日中戦争、太平洋戦争、といちずに太平洋戦争へと導かれていった。
 聖戦の結果が、祖国の廃墟か、となった。

 戦争の予兆はいきなり鉄砲ではなく、保管すべき公文書の偽造、焚書から芽が出てくるものだ。

『公人による焚書は戦争の原点になる』これは格言として知っておくべきだろう。

【近代史革命】世界三大焚書か=明治政府の幕末史のねつ造は(下)

 幕末史の大政奉還や小御所会議にかかわった歴史上の人物らの日記が、奇怪にも存在しないのだ。ことごとく現在進行形の日記がない。なぜないのか。これは焚書(ふんしょ)以外の何ものでもないだろう。

 これまで学者、作家はいったいなにを根拠に学術書、小説などを書いてきたのか。まったく理解できない。

 明治新政府の顔ぶれは、松平春嶽、尾張・徳川慶勝、浅野長勲(浅野家は松平の姓を名乗れる)。山内容堂(佐幕派)、島津忠義(家定将軍の正室・篤姫)というすべて徳川家である。
 徳川公方様のケイキ(慶喜)さんが身を引き、ほかの徳川家の方々に代わられた。人事の一新を図った、という意味合いで、明治時代のひとたちは『御一新』(ごいっしん)と呼んでいた。大正時代まで、その呼称だった。
 
 一般庶民には、徳川慶喜は、ながくケイキさんと慕われてきた。松平容保すら日光東照宮の宮司になった。戊辰戦争で一人も大名が殺されていない。これは徳川倒幕ではない。
 後世の造語である。
 明治維新となると、昭和に入って言われ始めたものだ。2.26事件の青年将校が「昭和維新」と叫んだことから、政府関係者が「明治維新」と後付したのである。
 

 偉人伝で現存する日記に類似する史料は、あらゆるものが後年の聞き取り、あるいは勝海舟の「氷川清話」のように記憶で書いたものである。勝海舟の書で解るように、都合のよいこと、差しさわりのないこと、我田引水ばかりである。

 現在、NHK大河ドラマの主役となった西郷隆盛の日記も存在しない。

「南洲翁遺訓」となると、旧出羽庄内藩の関係者が作成したものだ。庄内藩といえば、鳥羽伏見の戦いの引き金となった慶応三年12月に江戸の薩摩屋敷を焼き払ったことで有名である。
 かれら庄内藩はかつて江戸の治安部隊だった。
 そこに江戸騒擾(強奪、略奪、美女狩り・強姦、二の丸放火)などテロ活動が横行した。江戸を恐怖に陥れさせた西郷隆盛は最大の憎い敵だった。だから、庄内藩は大砲を撃ち、テロリストの多くを惨殺した。
 その庄内藩士が西郷をほめたたえる「南洲翁遺訓」となれば、怪しいものである。戊辰戦争後、恭順した庄内藩が、新政府に媚(こ)びる面が強い。内心は腹立たしいのに。

「動乱の世は、だれも明日がみえない。迷い、疑心暗鬼、試行錯誤が日記に表れるものだ。それが歴史的事実になる」
 歴史を後ろから作り直した聞き書きは、すべてストレートに辻褄(つじつま)が合いすぎている。怪しいものである。


 土佐藩でみてみよう。山内容堂の日記はない。最も重要な史料がないのである。つづく後藤象二郎、板垣退助、福岡 孝弟( たかちか)らも、当時の現在進行形で書かれた日記がない。なにをもって土佐藩を知ることができるのか。
 龍馬は届いた手紙はすべて焼き捨てている。木戸孝允からきた手紙の裏書き一通だけが現存するのである。鉄砲密売の自分から出した手紙など、どこまで真実か解らない。密なる商売の性格から、はったりも、ウソも、駆け引きも、見栄ぱりの面も多々あるだろう。

 幕末の政治改革は、「薩長倒幕」でなく、德川の人事一新である。あるいは「徳川内部崩壊」だとしても、龍馬の活躍など、大半が作り物だと言っても過言ではないだろう。
 ありもしない船中八策など、いい加減な倒幕という創作幕末史に、私たちはごまかされてきたのだ。


 広島の講演で、質問が出た。
「そんな大規模な焚書(ふんしょ)ができますかね?」
「やる気になれば、できますよ。江戸幕府がつぶれて武士は失業し、食い扶持を探していました。全国260余藩の隅々に散っていた公儀隠密だって、食べていくためには、新しい仕事を探す。明治政府の秘密警察に組み込まれたり、あるもは軍隊の憲兵になったでしょう」
「なるほど。なれた職のほうが働きやすい」

「江戸時代の商人は『各藩の紳士録』を持っていました。商いの重要な資料です。これをみれば、260余藩の上級藩士は、一目瞭然でわかります。明治22年以降に、政府が元公儀隠密の秘密警察に、これこれの日記を処分しろ、と命じたとすれば、かれらは水を得た魚のように、天井裏、床下から深夜に忍び込み、いとも簡単に日記を盗み出すでしょう」

「公儀隠密は、それが仕事だったんですよね」
「そうです。江戸時代に公儀隠密という260余年も徳川政権を支える裏と影の組織があった。だから、明治政府があえて新規に作らなくても秘密工作員の土壌があったのです。中野学校のスパイ養成などの教官にもなったでしょう」

「だれが焚書をやったのでしょう?」
「徳川家が内部崩壊なのに、『幕府倒幕』ということばを世の中に発信した人ですよ。ほんとうの意味で倒幕はなかった。その証拠に、薩長土肥の下級藩士は、明治2年ころまで大臣クラスはいない。せいぜい次官か、局長クラスです。とても、倒幕と言えたものではない」

 徳川家の内部における人事の一新を、「徳川倒幕」にすり替えた。なぜか。
「そうしなければならない存在の人物がいたからです」
 身分の低いもの、学歴のなかったものが最も高い政治的な地位に就くと、過去を誇大視し、偉そうに語るものです。
「実際には倒幕していないのに、自分たちは徳川を倒しただの、徳川よりも優れているんだぞ、江戸幕府は劣悪な政治だったから倒す必要があっただの、と故意に大きくみせる造作の必要を感じた政治家がいたのです。それが焚書のボスです」
 その心理は現代でも同じです。端的な例は、私の先祖はすごい、と自慢したがります。本当に、そうなのか、と疑っても、まま聞き流して終わりにしてしまいます。

 だが、歴史はそうはいかないのです。

 人間は突然変異なことはしないものです。だから、「歴史から学ぶ」ことができるのです。私たちが現在から将来を洞察するとき、過去の事例はとても大切です。人間はだいたい同じことをしますから、歴史の事象は指針づくりにとても役に立ちます。

 しかし、為政者が自分を大きく見せるために、史料を焚書し、歴史的事実をねつ造していると、私たちは将来にたいする判断や指針が狂ってしまいます。
 
「私が調べたかぎりでは、幕末政治の中心にいた人物の肉筆の日記は、いまの段階では確認できていません」
 皆さんで、大名と家老、そして上級公卿たちの現在進行形の日記を探しましょう。発見できなければ、明治時代、あるいはそれ以降の政治家が、自分たちの不都合で焚書したことになります。指示命令した人物が特定できなくても、大規模な「世界三大焚書」として汚名をきることになるでしょう。

 ぞっとすることですが、事実だったら、目を反らすことはできません。後世の国民を裏切った悪質な政治行為ですから。糾弾されるべきです。

                                  【了】

【近代史革命】世界三大焚書か=明治政府の幕末史のねつ造は(上)

 2018年度1月のスタートにおいて、広島市内で、幕末芸州広島藩研究会と、狩留家(かるが)郷土史会の講演があった。
 歴史小説家として、私が前々から疑問に思って調べていた、謎の幕末史について言及した。

 紀元前200年ころ、秦の時代に焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)がおこなわれた。入試には読み方がよく出る。あえてここでは説明しない。

 近代史・現代史において、ナチスドイツと毛沢東が書類や本を焼く焚書(ふんしょ)で有名である。身勝手に、都合よく思想をゆがめたのである。
 まさかと思ったが、日本の幕末史も明治政府によって焚書がなされたはずだと強い確信に至った。そして、『世界三大焚書』と称し、ナチスドイツ、毛沢東、明治政府を並列においた。


 慶応3年12月9日小御所会議に参加した大名の日記が、それに該当する箇所が無いのだ。さかのぼれば、大政奉還から、明治初年の「五箇条のご誓文」あたりまで、小御所会議の5大名や家老たちの日記が燃やされたり、破られたりしているのだ。

 もっと掘り下げると、松平春嶽、徳川慶勝の日記は、慶応3年末の項が抜かれたり焼かれたりしているのだ。浅野長勲、島津茂久の日記も存在しない。小松帯刀も同時期の日記が抜かれている。
 山内容堂の日記は存在しない。主役とされる岩倉具視すら、政変の内情を実証できる日記が存在しないのだ。
 これはどうなっているのか。


 幕末史に関わる主要人物(大名・家老クラス)の日記は、現在進行形で書かれたものはないのだ。徳川慶喜、小栗上野介も無い。


 国立国会図書館のアーカイブの「大久保利通日記」の冒頭には、明治22年に家屋が火災に遭い、日記の本物が焼失した、と明記している。運よく筆写もあったが、その後、霧消したと述べている。

 明治22年ごろから焚書が行われたと推量できる。大久保利通が暗殺されたのは明治11年だから、薩摩藩閥の力が弱まったころだ。
 明治22年は、伊藤博文の憲法発布がなされた重要な年である。

 大久保家の全焼はたんなる失火とは思えない。焚書だろう。その仮想定のもとに、さらに調べてみた。

 木戸孝允は毎日、日記を書いていた人物である。(死ぬ直前まで必ず書いている)。だが、「木戸孝允日記」も、明治元年4月1日以降である。それ以前はない。だれが、それ以前の日記を外したのか、あるいは盗んだのか、この世から抹消したのか。

 幕末史の大政奉還や小御所会議にかかわった、当時の歴史上の人物は、ことごとく現在進行形の日記がない。これは焚書以外の何ものでもないだろう。
                            
                                  【つづく】   
 

永生元伸の魅力、日本を代表する「うたうバンジョー弾き」=(下)

 東京・大塚ウェルカムバックで開催された『永生元伸 Just One Night』のライブの翌週、その感動と余韻があるうちに、 永生元伸さんにインタビューした。
 現在63歳で、出身地は青森県・平賀町で、リンゴ園の長男に生まれました。小中高校は同地です。中学生のころ、ビートルが全盛期で洋楽に強い関心を持ちました。当時は、深夜放送に聞き入っていたものです、と自己紹介された。

「わが家はリンゴ農家で、ステレオがなかったので、友人宅で聴かせてもらいました。布団で寝ず、膝を抱え込んで、朝まで聞き込んでいました。長時間だったので、不意に立ち上がれなかった、という記憶があります」
 母はそうした深夜の外出・宿泊にも理解がありました。それが音楽の原点です。中学3年の時に、母がギターを買ってくれました。
「買ってほしい、と粘った記憶は私にはないのです。ギターは格好よいし、うれしかった」
 母親は、熱心な息子の将来に音楽家の夢を託したのだろう。自宅や中学の同級生宅が練習場で、ギターを毎日弾いて学園祭に出演しました。仲間とコンサートやライブをも企画し、数百人の前で演奏した記憶があります、と話す。

 高校2年のときに、「吉田拓郎が弘前で単独ライブを行いました。彼がまだ人気が出る前でした」
 永生さんは会場に足を運んだ。
「ギターがうまい。あのように指を使って弾くのか」
 レベルの高い吉田卓郎のギターを目のあたりにした永生少年は、専門家の弾き方を知った。毎日の練習が楽しく、弾けること自体が嬉しかった。

 東京の大学に入るまえ、3歳年下の弟が農園の跡取りになると決めてから、永生さんは上京した。大学のジャズ研究会には入部せず、独学だった。いまとなれば、「合理的な練習をしていたら」という思いは否定できません、と語った。

 永生さんは卒業まえ、クラッシック・ギターを習っていた人から、「バンジョーを弾ける方を探しているバンドがあるけれど、その仲間に入らない?」
 と紹介されてデキシー・ジャズバンドのプロの道に入った。シェーキーズ(ピザの店)の5~6店舗で、ライブをしてお客に喜んでもらう。一般企業の就職でなく、プロ活動から社会人スタートになったのだ。
 
 オイルショックから、世の中が変わってきた。歌謡曲からフォーク音楽に移ってきた。やがて、ジャズ、グループサウンズが新しい時代を作ってきた。

 永生元伸の経歴として、 
 昭和47年に、シェーキーズで6年間の活動をする。
 昭和58年に、ディズニーランド・オープンのオーディションで、11年間を行う。
 平成7(1995)年に、薗田 憲一(そのだ けんいち)とデキシーキングスに入団を申し込むと、「どうぞ、どうぞ」と快く応じてくれた。そちらと並行し、自分のバンドも立ち上げる。

「バンジョーの楽器の特徴は、トランペット、ドラムなどのなかに入ると、混合音楽で減音し、全体の音量の1割ていどしか聴衆に耳に入りません。余韻がない楽器です」
 バンジョー演奏の永生さん自身でも、せいぜい2~3程度の音になるという。

『うたうバンジョー弾き』として、最近の永生さんはライブをソロで、バンジョーとギターをともに奏でる。ソロをなさる、この魅力とは何ですか。
「バージョンは一般にソロはないのですが、私は歌を入れています。弾き語りができる。それがとても楽しいです」
 吉田拓郎は自分のスタンスでやってきた。だから、未だに色あせないのです。私が『うたうバンジョー弾き』にこだわれるのは、バンド・リーダーの特権ですね。

「リーダーとして、ゲストをお願いに行くと、永生がやるから、良しとする。ありがたいなと思います。逆にお願いされたりもする。ミュージシャンの人間関係が広がっていきました」
 12か年間は固定した5人の同じメンバーでやってきましたから、パーソナリティー、技術がより高くなり、可能性が拡がりました。

 かたや、同一性、単調性にも陥りやすい。今年(2017)2月から、少しずつメンバーを新しく入れ替えていく試みをはじめた。
 皆さんプロアーチストだから、リハーサルは一回であるという。デキシー、モダンにしろ、アドリブでも、本番で自然にながれに乗れる。

 お客さんを楽しませる。選曲とか、工夫とかは?
「プログラムを組むには、約1週間ほどかかります。基本フォーマットは人気が高いものを中心に8割がた決めています。問題はあと2割の選曲です。観客とか、四季とか、諸々の条件を頭のなかにインプットし、意識、無意識を問わず、1週間はたえず考えつづけています。バンドの独自性を出すために、郷里の曲なども織り込み、編曲に務めています」
 毎回、お金を払ってもらい、面白いな、と感じてもらう。プロは一回でも、飽きられたら、次には続かないものらしい。

「編曲とアレンジが、他のバンドといかに違うか、それが勝負です」
 メンバーにはアレンジのイメージをしっかり伝えないと混乱する。プロミュージシャンだから、複雑なアレンジでも、口頭で伝えるだけでも、理解してもらえる。どのメンバーも格好良く、軽妙にこなす。
 本番前に音合わせをする。『これで良いね』。いずれの奏者にしても、あっちこっちで演奏してきている。曲自体の真髄を皆が理解しているという。

 バンジョーの指導者として、後輩の育成はいかがですか?
「希望される方には教えます。まず楽器を買うことです。ギターやウクレレに比べると、バンジョーは高額です。高い楽器だからこそ、止めずに続けられる。バンジョーは4本の絃で音の数が多い。毎日練習することで、よい音色になるし、美しい世界が醸し出せます」

 ギター、バンジョーにしろ、楽器音楽の上達のコツはなにですか。
「諦めず、毎日、弾くことです。技術は、階段状に上達していきます。どうしても、上手く奏でられず、苦しんでいたのに、ある時にふと弾けるようになる。一段上達したわけです。また、横ばった段階が続きます、毎日弾き続けていれば、また不意に「あっ、これだ」と思う。さらに一段技法が上がったわけです」

 将来の目標は?
「都内で、ソロライブのコンサートをやってみたい。ギターとバンジョー、ピアノ、ベースは補助として」
 他には?
「新しいCDを作りたいです。(2018年)1月に64歳になります。そこで、『now、I‘m64』というコンセプトで」
 ミュージシャンには定年がありません。招いてくださる方がいる限り、演奏は続けられる。この先10年は腕も、からだも動くはず。現在の延長線上でとらえたいです、とつけ加えた。
 永生さんはここ30年間は病院に行ったことがない。薬剤を飲まない人生だという。根がのんびりしているからでしょう、とほほ笑んでいた。

 後援会は中学生時代の同級生たちで、ここ10数年来の支援をいただいている。チラシも作ってくれる。青森の同窓生は10年先も、きっと支援を続けてくれるだろう。


 アフリカの奴隷が、17世紀から、バンジョーをアメリカで発展させた。バンジョーを奏でれば、フォスターの曲のように、陽気に賑やかな楽器として人が集まる。ユーモラスに歌う。かたや、ワシントン広場のように哀愁もある。
「楽器の発祥は別にして、演奏には差別はありません。世界中で共有できるのです」
 そのことばは印象的だった。その精神が永生元伸さんの人柄の良さと、幼いころから音楽一筋に生きる精神の根幹につながっているのだろう。
 
                    【了】

涙の手紙=金田絢子  (#ICAN:ノーベル平和賞 授賞式に読んでもらいたい作品)

 その手紙は母宛に、疎開先の「茨城県猿島郡弓馬田村」に届いたものである。手紙の冒頭の「三月丗一日」の日づけから推して、昭和二十一年のことと思われる。

 差出人は、母の友人の花水さんである。母と花水さんは、府立第二高女(現、都立竹早高校)の同級生で無二の親友だったようだ。

「去年の今頃のことなど、いろいろ思ひ出されます。幼馴じみのお心安だてに、お目にかかってお話しする様に何でも書いて見やうかと思ひますの。讀みにくいけど讀んで下さる?」
 このように始まり、おしまいまで仲良しの“あなた”に聞いて欲しいという、一途な思いにつらぬかれている。
 四枚の便箋の三枚目までは、うらおもてをつかってびっしり文字が並ぶ。
 昭和二十年八月六日、広島に原子爆弾がおとされた。忌まわしいあの日、花水さんのご主人は、役所にいく途中で、自転車にのって橋をわたっているとき、被爆した。
「午後四時頃『ヤラレタ』と云ってそれでも歩いて帰ってきた姿。もう書けません、「とても大火傷でした。よく此処迄かへって来た、それ程の大火傷でした」
「とに角はじめは元気でしたの」
 ご主人も花水さんも治る、と信じていた。


 ふた月まえの、昭和二十年六月、転任の沙汰があり、同月十九日、夫婦と子供四人の一家は、広島にうつった。「その時、本当に生きて再び東京を見る気持ちは全くありませんでした」

 広島に着いたものの、住むところもない有様だった。七月になってやっと、広島から四里程はなれた可部町で、住まいを得た。
「広島の一つ先の横川駅から四十分程省線で山の方へ入った、静かな町で、大田川が流れ」などの記述のあとに、八月五日の描写が涙をさそう。

 広島へ来てからもご主人は日曜日も休まず役所に通っていた。原爆投下の前日、「日曜日でしたが、午後三時ごろかへり、子供三人(末の子はまだ乳飲児)連れて裏の川へ行って、泳がせたり、遊んだり一時間程楽しさうにやってをりました。それが親子の浅いきづなの最後で御ざいました」

 被爆した主人は高熱で三週間、うわごとを言いつづけた。
「私事は一つも無くて、全部役所の仕事のことばかりでした」
「最後の四日程は意識不明のまま、何の遺言ものこさず自分では治りたい治りたいとあせりながら、亡くなりました」

 三枚目のむすびは「こんな大惨事になるなら、どうして(日本は)もう一週間早く、降伏しなかったのかと恨むのは私だけでせうか。でもこれも皆運命でございませう。私がかうして子供四人を負うて先のわからぬ世に生きてをりますのも、私の運命です」
 三十代の若さが書かせたすばらしく悲しい手紙である。

 涙で文字がかすれ、読めない部分もあるが、全面、真情にあふれている。大切にとっておいた母の気持ちが、ひしひしと伝わってくる。

 時代をうつして、粗悪な便箋にはやぶれがめだつ。いまにもこわれそうであるが、母の遺志をついで、生涯わたしも、手放すまいと思っている。


【HP管理者より】

「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室、11月度提出作品です。ご本人は都合で当日欠席でした。きょう2017年12月10日に#ICANのノーベル平和賞の授与式がありました。
 被爆者の妻の生々しい描写が、このまま埋もれず、世に知らしめるべきだと判断し、作者・金田さんのご承諾を得ないまま掲載いたしました。(穂高健一)

起こされて  森田 多加子

 暑かった今夏の寝苦しさから解放されて、気持ちよく寝ていた朝、突然スマホのけたたましい大きな音で目覚めた。


 私たち夫婦は、いつも遅起きだ。
 早い朝は熟睡している。けれど、今朝は、突然朝早くから起こされ、何のことやらと、ぼんやりした顔を見合わせた。家は揺れていないので地震ではなさそうだ。
「なんだ?」 
 同時に外からサイレンが聞こえてきた。スピーカーで何か流しているので、聴き耳を立てた。

『北朝鮮によるミサイル発射がありました。北海道地方から太平洋へ通過するもよう』


 このスピーカーは、毎日夕方五時になると、(良い子のみなさん、おうちに帰る時間です)
と、流していた音だ。町全体に響き渡るような音で流れる。当然、これはうるさいと苦情が出たらしいが、
(緊急のお知らせをする必要があるときのための予行練習です)
 と、いう市からの回答だった。

 緊急の時というのが、この報せだったのか。


 すぐテレビをつけた。
 男性のアナウンサーが、私に向かって緊張した面もちで話しかけてくる。外から聞こえているメッセージと同じで、北朝鮮からミサイルが発射されたということと、

「できるだけ頑丈な建物や、地下街などに避難してください」

「できるだけ窓から離れ、できれば窓のない部屋へ移動してください」

「落ち着いて行動してください」

 何度も、何度も同じ言葉を放送している。

 外ではまだサイレンが鳴っている。
 戦時中の記憶がある私としては、敵機が上空にきているという報せの【空襲警報!】のサイレンにそっくりなので、怖くなって何が何だかわからない状態になった。

「この辺に頑丈な建物や地下街なんてないしねえ」
「うちは鉄骨なので、頑丈な建物のうちにはいるんじゃない? 家にいればいいよ」
「でも、窓のない部屋なんてないものね」
 後から考えると、漫才のような夫婦の会話だったが、ぼそぼそと話しているうちに、ミサイルは北海道上空を通過してしまった。

 Jアラートが発令されて、たったの4分だ。何もできなかった。実際、この上空にミサイルが飛んできたら、避難できる時間ではない。日本のおえら方が「国民を少しおどかしておこう」……なんて……言っている妄想が浮かんだ。

 戦時中の【敵機襲来】の怖さは妄想ではない。
 あの怖さを知っている年齢の人も、もう少なくなってきた。二度と同じ事態にならないようにと、改めて切実に感じた。

 いつもなら、まだ寝ている時間だが、中途半端なので、はっきりしない頭をフリフリして起きることにした。
(大丈夫でしたか?)
(これでは狼少年になりかねませんね)
 ラインに心配したメールがはいる。
 緊急連絡なので、狼少年などになってはいけない。
 ならないように気を付けたいが、4分では避難場所に移動すらできない。

 実際の話、連絡があったときにどんな行動をとればよいのか、未だ全くわからない。

芸州広島藩はなぜ大政奉還に進んだか (中)=御手洗大会の講演より


 御手洗・金子邸で、150年前の薩長芸軍事同盟を語る。

 慶応3年11月26日、薩長芸の軍事密約により、長州藩の家老ら7隊の1200人が御手洗に到着した。広島藩においても豊安号で422人の兵を送りだしてきた。
(大政奉還の直後に、辻執政が広島藩兵を上洛させている。こんかいは補充追加)

 広島藩と長州藩の軍隊が、御手洗港で合流した。町役人の金子邸(写真)の茶室で、二藩の幹部が、挙兵・出航の協議をおこなっている。
 これが『御手洗条約』と呼ばれるものである。


 朝敵だった長州藩は、天皇の敵であり、偽装を必要とした。長州藩の軍艦二隻の船旗(フラッグ)は、ひとつが芸州、もう一隻は薩摩藩にした。つまり、長州兵らは身なりからしても広島藩士、薩摩藩士を装って、上洛するのだ。


 芸州広島藩と長州藩は併せて7隻の軍艦をつかう。


 同月26日夜8時に、広島藩の震天丸を先頭に、7隻の艦隊が御手洗港を進発した。そして、淡路沖、西宮へと誘導していくのだ。

 この3藩進発は浅野長勲、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通が中心となった空前の6500人の大規模な挙兵だった。


 その事前の密議が、最近まで、密議がどこで行われたのか、幕末史の最大の謎だった。

 それは慶応3年11月初めに、広島藩領の御手洗で行われていたのだ。広島藩士をはじめとして、木戸孝允、大村益次郎、大久保利通ら11人が4日間にわたる密議を行っていた。

 まさに、ここから歴史が動いた瞬間だった。


 「大政奉還150年御手洗大会の講演会場となった乙女座」


 倒幕をどの時点とみなすか。諸説があるが、

 慶応3(1867)年10月15日、徳川家の大政奉還が朝廷から認められた。ここか。同年12月9日には、京都御所・小御所会議で明治新政府が成立した。ここでは徳川幕府が完全に崩壊した。一般的には、この段階で明治政府が樹立している。

 薩長閥の為政者たちは、慶応4(1868)年、天皇が東京に移ったときから明治時代だとおしえた。古来の定義の「遷都」ではないし、当時から「行幸」という小細工で民の目をごまかしたものだ。

 明治新政府はまちがいなく「御一新」の小御所会議である。いずれ、教科書で、明治維新は1867年と書き換えられるときがくるだろう。鎌倉幕府の成立が変わったように。
 むろん、長州・山口県の関係者の方々は、ずいしょで不都合になってくる。


 新政府「御一新」の小御所会議まで、長州藩兵は朝敵であり、京都に入れなかった。長州藩士はわずか品川弥二郎ひとりが潜伏するのみであった。

「わずか一人で、薩長倒幕なんて、歴史の欺瞞(ぎまん)だと思いませんか」

 えっ、ひとりですか。

「これは隠しようもない歴史的事実です。長州は倒幕に役立っていなかったのです」

 なるほど長州藩士が一人じゃ、薩長倒幕とは言えんのう。
 

 日本人は、お上のいうこと、教科書に書かれたこと、それは信実だと鵜呑みにする。だから、明治政府が都合よくつくった『薩長討幕』という表現に、後世の学者や歴史作家たちはふりまわされてきたのだ。

 明治政府が作った『幕末史』だから真実だろう、と考えたのだ。


 いまだに多くの歴史学者は、幕末の芸州広島藩の役割も、御手洗における倒幕密議すらも、まったく知らない。
 否、長州大好き学者すら、木戸日記に書かれている御手洗からの六か条にわたる出兵協約に目を叛けてきたのだ。
 片や、慶応2(1866)年の京都・小松帯刀邸で「薩長同盟」が、龍馬の龍馬の仲介で成した、とことさらこじつけてきた。

 木戸準一郎(当時)は、小松帯刀邸の談論を箇条書きにし、手紙をもって龍馬に裏書きをさせている。
 ただ、そこには薩摩とか長州とか、ひとことも書いていない。この段階で、2藩の軍事同盟などあり得ないのだ。あくまで、談論だ。

 木戸はこの段階で、徳川家が武力をもって毛利家を排除する、と思っていない。その証拠に、大村益次郎に戦術訓練をさせているが、高杉晋作に戦闘配置などつかせていない。
 幕府のいつもの威圧と嚇しだろう、「毛利家の家老を大坂・京都にさしだけといわれても、いまは病気で出むけない、と偽っておけば、それですむ」とかれは思っていた。

 現代でいえば、北朝鮮が、アメリカの軍事威圧はたんなる脅しだと高を食っているのと同じだった。


 木戸とすれば、小松帯刀邸の談論は皇軍挙兵の打診である。木戸の視線はつねに皇国国家の設立にあった。王政の復古で、長州藩はつぶれてもいい、と当時から木戸は発言している。

 木戸には、長州藩を守りぬく意識すらないのだ。町人出(医者)の木戸は、武士社会を壊す一念だった。めざすものは親政で、身分撤廃の四民平等の社会だった。

(いきなり版籍奉還、廃藩置県、四民平等、日本初の萩城・取壊しなど、木戸がやり遂げた。かたや、すぐさま武士社会温存派の長州・騎兵隊を徹底的に弾圧するくらい、武士が威張る社会が嫌いだったのだ)。

 徳川幕府から「島津幕府」に代替えした西郷隆盛の発想と、木戸孝允とは根本が違っていた。
           

                         【つづく】

                             

第1回 祝「山の日」大崎上島・神峰山大会=ことしからスタート・8月11日

 目的
〇 国民の祝日「山の日」は、昨年(2016年)から世界で初めて「山の恩恵に感謝する」ことを掲げた。
 この祝日に、瀬戸内の名峰・神峰山(しま山100選)に眠る、売春の犠牲となった少女・若き女性たち数百体の石仏(お地蔵さま)に、鎮魂の祈りをささげることを目的とする。


1.主催者:広島県・大崎上島町地域協議会
後援 : 全国山の日協議会 (谷垣禎一会長)


2.開催の内容

大会名:悲劇の石仏を「洗う・磨く・拝む」~神峰山(かんのみね)の石仏を清める登山の日

開催日時:平成29年8月11日(金)山の日(国民の祝日) 11:00~15:00

会場:大崎上島町観光案内所2階

          * 白水港フェリー乗り場から徒歩1分

          * 住所:大崎上島町東野6625番地61/電話:0846-65-3455

3.参加費: 1000円 昼食、お茶、石仏を磨くハンドタオル代等として

4.スケジュール
 11:00 開会挨拶:大崎上島・木江出身の作家・穂高健一
                (日本ペンクラブ広報委員、日本文芸家協会会員)

 11:10 穂高健一が献じる、小説「神峰山物語」の朗読会

   第1部 短編小説「ちょろ押しの源さん」(400字詰め約40枚)

   第2部 中編小説「初潮のお地蔵さま」(400字詰め約60枚)

   木江港の遊郭街に生まれ育った作家が、亡き若き女性が石仏になった悲劇を小説化した

12:00 神峰山頂上へ移動

 * チャーターしたバスで、山頂近くの駐車場まで移動 

~ 山頂・展望台で昼食  

13:00 悲劇の少女達への鎮魂ミニコンサート

  南米ミュージシャン(ミスマ夫妻)が山頂で鎮魂曲を奏でる

13:20 登山道に点在する石仏を洗い、磨き、拝んでいく

 タオルや水(ペットボトル)は事務局から参加者へ配布、石仏の巾や前掛けを付け直す

15:00 山頂・石鎚神社前にて解散
          * 希望者は駐車場まで戻り、バスで案内所まで移動

【大崎上島・特徴】

・大崎上島は、瀬戸内海で最大の離島です。(離島振興法にもとづく)

・神峰山(標高452m)の山頂からは、日本一の大小115島が望める絶景です。
 北海道から九州まで厳選された名峰『しま山100選』(公財・日本離島センター)にも、神峰山は選ばれています。日本最大級の眺望です。

・大崎上島町・木江港の街には、明治時代から昭和33年の売春防止法が成立するまで、瀬戸内の最大級の遊郭があった。
(おちょろ舟で、女性が身を売っていた)。そして、多くの悲劇が生まれた。

6.問合せ先: 同実行委員・事務局 平見健次 090-1659-5722

広島藩が『倒幕の密勅』は偽物だと暴露した=浅野家・芸藩誌

 教科書で教えてきた『薩長倒幕」は、史実とちがう。いまさら否定されても困る。それが、学者や作家の偽らず心境だろう。なにしろ、明治政府が、義務教育制度を確立した時から、百数十年間も教えつづけてきたのだから。しかし、いずれ、この『薩長倒幕』という用語も教科書から消える日があるだろう。

 ことしは大政奉還150年である。明治政府が隠ぺいしてきた、広島藩・浅野家の『芸藩誌(げいはんし)』が注目を浴びている。とくに、『倒幕の密勅(みっちょく)』が、天皇の詔書の形態をとっていない、と前々から偽物説は流れていた。
 それを如実に暴露したのが芸藩誌だった。だから、芸藩誌が明治政府によって封印されてしまった。世の中に出たのが、昭和53(1978)年で、わずか300部であった。
 広島市内でも、おおかた5、6カ所程度しか所有していないと思う。大学や研究機関の学者の目に触れることも少ない。
 と言っても、存在しているからには、歴史は真実を求めて動くし、漸次、芸藩誌の関心が高まり、メディアやネットに載りはじめてきた。やがて、火がつくと、一気に幕末史の塗り替えになるだろう。

「芸藩誌」の編さんの経緯は、ほとんど知られていない。当時の明治政府も宮内庁も、広島・浅野家から、こんな家史の編さんが出てくるとは、予想すらしていなかっただろう。

【経緯として】

 明治新政府は、大政奉還から戊辰戦争終了後まで、勝利した王政復古を高々に謳(うた)うために、維新史という編集がはじまった。それは大名家が権力を失った廃藩置県の1872年からのスタートだった。新政府は各大名家にも史料の提出をもとめた。
 薩摩と長州は資金力があり、すでに家史(かし)の編さんをはじめていたし、功名心もあるから、積極的である。
 
 しかし、廃藩置県で武士階級が破壊した直後である。妻や娘を質に入れても、生活もままならないのに、過去の史料を新政府に提出しろ、と命じられても、素直に応じる元大名家など皆無に等しい。
 そのうえ、大名家の主(元藩主)は東京に集められている。家臣の武士は6年分の給料を国債で渡されて解雇されている。
 無給で、過ぎ去った事蹟(じせき)を編さんしろ、と言われても、応じられるわけがない。

 結局、維新史は17年間もかかり、明治22(1889)年に、薩長には都合の良い「薩長倒幕」という維新史ができあがったのである。
 翌年、明治23年から義務教育制度がスタートした。「薩長倒幕」という用語の維新史が、そのまま教科書に落とし込まれたのだ。

 三谷博「明治維新の史学史」によると、明治憲法に基づく帝国議会の開会(明治23年)は、元大名家など政治的勢力の再編のまたとない機会となった。
 維新の敗者たちも議会に進出し、新たな政治参入できる。となると、元大名家は、歴史の書き直しで、明治国家の内部に、自らの地位を確保しようと、家史編さんブームの活況を呈してきた。

 宮内庁はこれを背景にして「維新史」の編さんをめざした。補助金を出して薩摩、長州、土佐、水戸の4家に3年間で、家史を編さんし、提出するように命じた。尊王攘夷運動に関わった大名家と、皇室との関係を強調しようと試みたのだ。

 孝明天皇の誕生から廃藩置県まで(1831-1871年)の資料収集を図った。さかのぼり過ぎたのだ。
 4家だけでなく、公卿の三条、岩倉、中山の3家が必要不可欠となった。共同して4家+3公卿だけでも、資料不足である。
 孝明天皇と親しかった徳川将軍家、会津家、桑名家も加えた。王政復古のときには敵であったが、外せなかったのだ。
 となると、味方となった尾張家と浅野家も必要となり、それぞれに史料の編纂と提出を命じたのだ。(上記は三谷氏資料・引用)

 編さんを命じられた元広島藩主の浅野家は、最後の大名・浅野長勲(ながこと)が健在だった。長勲は大政奉還にも、小御所会議の王政復古にも、中心的役割を果たした人物である。政治の裏舞台を知り尽くす、生き証人だった。

 編集トップには川合三十郎と橋本素助(もとすけ)が選ばれた。元学問所のエリートで、長勲と辻将曹(つじ・しょうそう)の下で、政治活動も展開している。

 慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が結ばれた。それに基づき、御手洗(広島県・大崎下島)から3藩進発で、6500人の兵と最新武器を京都に挙げてきた。川合と橋本らは立案から実行まで、一部始終、それに関わっている当事者なのだ。

 ややさかのぼること、薩長芸軍事同盟が締結された直後、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は、薩摩藩内において島津久光たち公武合体の考えが支配的であり、倒幕の兵をあげにくいと苦慮していた。『天皇の命令ならば、藩内統一ができる』。そこで『偽の密勅』でも良いから、それを薩摩に持ち帰りたい。長州藩も倒幕で藩内統一できているが、うちも書いて貰おう。
 薩長芸の3藩は、そんな内情を話し合い、実行に移したのだ。

 小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は大坂から、広島藩の船に乗船し、その偽密勅を鹿児島に持ち帰った。翌月(慶応3年11月下旬)、薩摩藩が3000人、長州藩が1200人(+約1000人は尾道待機)、そして広島藩と3藩の船が御手洗港に集合してくるのだ。朝敵である長州藩の船には、広島藩と薩摩藩の旗を掲げさせた。

 それらを取り仕切ったのが広島藩の川合と橋本たちだから、『偽の密勅』は事細かく知り尽くしていた。

『毛利家の復官(朝敵を解く)入京の内勅書は、玉松操が起草し、岩倉具綱(ともつな・岩倉具視の養子)が一時の方便として、これを薩摩の大久保と長州の広沢に交付した。中山卿のごときは、この存在すら知らされていなかった。故に、表面上はそれを用いることはなかった』(藝藩志第八十巻)

 三条実愛は、岩倉具視、中御門経之(なかみかどつねゆき)・中山忠能(ただのり)の4人しか知らないし、当事者の薩長は語らない、と信じて疑わなかった。芸藩誌が編纂されるまで、まさか広島藩がこと細かく『倒幕の密勅』を認知しているとは知らなかったのだ。

 芸藩誌には、もう一つ大きな記載が秘められていた。

 慶応3年9月の段階では、長州処分が解決していなかった。『幕府はいまだに、朝敵の毛利敬親・父子を拘引(後手に縛って)江戸に連れて来いと言っている。ならば、長州の家老をダシにして、6500人の兵をあげよう』と辻将曹と小松帯刀が奇策を話し合っているのだ。
 
 徳川幕府は、第二次長州征討で、敗戦などみじんも認めていない。長州が勝利した、とは四候会議でも、各大名は認識していない。

 大政奉還でも、王政復古の新政府の要人メンバーにも、長州藩はひとりも加わっていない。歴史的事実である。

 西郷隆盛が仕掛けた鳥羽伏見の戦いでは、6500人の兵のうち、長州藩兵が加わり、広島藩は「薩摩と会津の私恨だ」として加わらず、そのぶん土佐藩と鳥取藩が入った。
 ここで、初めて長州藩が顕在化してくるのだ。

 明治10年には西郷が西南戦争で落ちて、翌年に大久保が暗殺された。以降は、長州閥の天下となった。維新史の上に、堂々と乗っかってきた。
 明治40年代に、芸藩誌の「倒幕のダシ」を目にした長州閥の政治家は、どんな気持ちに陥っただろう。むろん即時、発禁処分。片や、大正時代に遅ればせながら、編さん委員を差し替えてまでも、完成させた防長回天史は太鼓をたたいて世に送りだす。

 かれらの先祖である毛利元就は安芸の国・広島から出ている。徳川時代に芸州広島に転封してきた浅野家は、長州戦争では盾になってくれたが、憎き存在だったかもしれない。

 芸藩誌は永遠に封印したつもりだろう。
 それから約100年後、300部が刷られて世に出てきたのだ。