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広島藩が『倒幕の密勅』は偽物だと暴露した=浅野家・芸藩誌

 教科書で教えてきた『薩長倒幕」は、史実とちがう。いまさら否定されても困る。それが、学者や作家の偽らず心境だろう。なにしろ、明治政府が、義務教育制度を確立した時から、百数十年間も教えつづけてきたのだから。しかし、いずれ、この『薩長倒幕』という用語も教科書から消える日があるだろう。

 ことしは大政奉還150年である。明治政府が隠ぺいしてきた、広島藩・浅野家の『芸藩誌(げいはんし)』が注目を浴びている。とくに、『倒幕の密勅(みっちょく)』が、天皇の詔書の形態をとっていない、と前々から偽物説は流れていた。
 それを如実に暴露したのが芸藩誌だった。だから、芸藩誌が明治政府によって封印されてしまった。世の中に出たのが、昭和53(1978)年で、わずか300部であった。
 広島市内でも、おおかた5、6カ所程度しか所有していないと思う。大学や研究機関の学者の目に触れることも少ない。
 と言っても、存在しているからには、歴史は真実を求めて動くし、漸次、芸藩誌の関心が高まり、メディアやネットに載りはじめてきた。やがて、火がつくと、一気に幕末史の塗り替えになるだろう。

「芸藩誌」の編さんの経緯は、ほとんど知られていない。当時の明治政府も宮内庁も、広島・浅野家から、こんな家史の編さんが出てくるとは、予想すらしていなかっただろう。

【経緯として】

 明治新政府は、大政奉還から戊辰戦争終了後まで、勝利した王政復古を高々に謳(うた)うために、維新史という編集がはじまった。それは大名家が権力を失った廃藩置県の1872年からのスタートだった。新政府は各大名家にも史料の提出をもとめた。
 薩摩と長州は資金力があり、すでに家史(かし)の編さんをはじめていたし、功名心もあるから、積極的である。
 
 しかし、廃藩置県で武士階級が破壊した直後である。妻や娘を質に入れても、生活もままならないのに、過去の史料を新政府に提出しろ、と命じられても、素直に応じる元大名家など皆無に等しい。
 そのうえ、大名家の主(元藩主)は東京に集められている。家臣の武士は6年分の給料を国債で渡されて解雇されている。
 無給で、過ぎ去った事蹟(じせき)を編さんしろ、と言われても、応じられるわけがない。

 結局、維新史は17年間もかかり、明治22(1889)年に、薩長には都合の良い「薩長倒幕」という維新史ができあがったのである。
 翌年、明治23年から義務教育制度がスタートした。「薩長倒幕」という用語の維新史が、そのまま教科書に落とし込まれたのだ。

 三谷博「明治維新の史学史」によると、明治憲法に基づく帝国議会の開会(明治23年)は、元大名家など政治的勢力の再編のまたとない機会となった。
 維新の敗者たちも議会に進出し、新たな政治参入できる。となると、元大名家は、歴史の書き直しで、明治国家の内部に、自らの地位を確保しようと、家史編さんブームの活況を呈してきた。

 宮内庁はこれを背景にして「維新史」の編さんをめざした。補助金を出して薩摩、長州、土佐、水戸の4家に3年間で、家史を編さんし、提出するように命じた。尊王攘夷運動に関わった大名家と、皇室との関係を強調しようと試みたのだ。

 孝明天皇の誕生から廃藩置県まで(1831-1871年)の資料収集を図った。さかのぼり過ぎたのだ。
 4家だけでなく、公卿の三条、岩倉、中山の3家が必要不可欠となった。共同して4家+3公卿だけでも、資料不足である。
 孝明天皇と親しかった徳川将軍家、会津家、桑名家も加えた。王政復古のときには敵であったが、外せなかったのだ。
 となると、味方となった尾張家と浅野家も必要となり、それぞれに史料の編纂と提出を命じたのだ。(上記は三谷氏資料・引用)

 編さんを命じられた元広島藩主の浅野家は、最後の大名・浅野長勲(ながこと)が健在だった。長勲は大政奉還にも、小御所会議の王政復古にも、中心的役割を果たした人物である。政治の裏舞台を知り尽くす、生き証人だった。

 編集トップには川合三十郎と橋本素助(もとすけ)が選ばれた。元学問所のエリートで、長勲と辻将曹(つじ・しょうそう)の下で、政治活動も展開している。

 慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が結ばれた。それに基づき、御手洗(広島県・大崎下島)から3藩進発で、6500人の兵と最新武器を京都に挙げてきた。川合と橋本らは立案から実行まで、一部始終、それに関わっている当事者なのだ。

 ややさかのぼること、薩長芸軍事同盟が締結された直後、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は、薩摩藩内において島津久光たち公武合体の考えが支配的であり、倒幕の兵をあげにくいと苦慮していた。『天皇の命令ならば、藩内統一ができる』。そこで『偽の密勅』でも良いから、それを薩摩に持ち帰りたい。長州藩も倒幕で藩内統一できているが、うちも書いて貰おう。
 薩長芸の3藩は、そんな内情を話し合い、実行に移したのだ。

 小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は大坂から、広島藩の船に乗船し、その偽密勅を鹿児島に持ち帰った。翌月(慶応3年11月下旬)、薩摩藩が3000人、長州藩が1200人(+約1000人は尾道待機)、そして広島藩と3藩の船が御手洗港に集合してくるのだ。朝敵である長州藩の船には、広島藩と薩摩藩の旗を掲げさせた。

 それらを取り仕切ったのが広島藩の川合と橋本たちだから、『偽の密勅』は事細かく知り尽くしていた。

『毛利家の復官(朝敵を解く)入京の内勅書は、玉松操が起草し、岩倉具綱(ともつな・岩倉具視の養子)が一時の方便として、これを薩摩の大久保と長州の広沢に交付した。中山卿のごときは、この存在すら知らされていなかった。故に、表面上はそれを用いることはなかった』(藝藩志第八十巻)

 三条実愛は、岩倉具視、中御門経之(なかみかどつねゆき)・中山忠能(ただのり)の4人しか知らないし、当事者の薩長は語らない、と信じて疑わなかった。芸藩誌が編纂されるまで、まさか広島藩がこと細かく『倒幕の密勅』を認知しているとは知らなかったのだ。

 芸藩誌には、もう一つ大きな記載が秘められていた。

 慶応3年9月の段階では、長州処分が解決していなかった。『幕府はいまだに、朝敵の毛利敬親・父子を拘引(後手に縛って)江戸に連れて来いと言っている。ならば、長州の家老をダシにして、6500人の兵をあげよう』と辻将曹と小松帯刀が奇策を話し合っているのだ。
 
 徳川幕府は、第二次長州征討で、敗戦などみじんも認めていない。長州が勝利した、とは四候会議でも、各大名は認識していない。

 大政奉還でも、王政復古の新政府の要人メンバーにも、長州藩はひとりも加わっていない。歴史的事実である。

 西郷隆盛が仕掛けた鳥羽伏見の戦いでは、6500人の兵のうち、長州藩兵が加わり、広島藩は「薩摩と会津の私恨だ」として加わらず、そのぶん土佐藩と鳥取藩が入った。
 ここで、初めて長州藩が顕在化してくるのだ。

 明治10年には西郷が西南戦争で落ちて、翌年に大久保が暗殺された。以降は、長州閥の天下となった。維新史の上に、堂々と乗っかってきた。
 明治40年代に、芸藩誌の「倒幕のダシ」を目にした長州閥の政治家は、どんな気持ちに陥っただろう。むろん即時、発禁処分。片や、大正時代に遅ればせながら、編さん委員を差し替えてまでも、完成させた防長回天史は太鼓をたたいて世に送りだす。

 かれらの先祖である毛利元就は安芸の国・広島から出ている。徳川時代に芸州広島に転封してきた浅野家は、長州戦争では盾になってくれたが、憎き存在だったかもしれない。

 芸藩誌は永遠に封印したつもりだろう。
 それから約100年後、300部が刷られて世に出てきたのだ。

可憐に咲く『誰故草』に想いを寄せる=広島市・船越町

 『誰故草』なんて読むのだろうな。

 一枚の説明書を見たとき、「たれゆえ草」と名を記していた。

 歴史小説の取材で、船越公民館(岡田高旺・館長)を訪ねた。

 そこで、船越の町の花「たれゆえそう」の説明を受けた。
 

「幻の花」はかつて大江谷(おおえだに)で、自生していたという。

 平安時代の大江大納言は、毛利家(長州藩)の先祖だったはずである。

 「ほとんど絶滅する寸前にある花です」

 この船越町では、いちど姿を消している。

 いま保存会の方々が自生を試みている、と語っていた。

 天敵は、土を掘り返すイノシシだとも聞いた。



 
 歌人の藤原為兼(ためかね)が、安芸の国に流されてきた。

 京を想う為兼は、『誰故草』に寂しさを重ねて詠っている。

 船越中学校のグランドの一角で、地上から15-16センチの茎高さで、愛らしく咲いていた。

 これは人間が手を入れて育てた花だ、とわかっていても、この大江谷で『誰故草』に出会えるとは……、と妙にうれしかった。


 船越中学の久保大地くんが、2年がかりで紙芝居を作っていた。

 それを一枚ずつ読むだけでも、町ぐるみで、『誰故草』を誇りにしている、とわかる。

 江戸時代には自生で咲いていたという。

 歴史小説のなかで、主人公が想いを寄せる情景・情感で『誰故草』を組み込みたい。


 ※ 出会った方々が、地名を「広島市」と行政区でなく、かつての安芸郡船越町というイメージで語っているのにも、好感が持てた。
 

        (岩瀧神社の展望台から、船越町・海田町を望む)


 船越町はわずかな時間の滞在だったけれど、なおさら、紫色の花に出会えた、という特別に愛でた心持ちになれた。

【近代史革命】幕末には『大統領制を導入せよ』と主張した優秀な勘定奉行がいた(下)

 明治時代は、武士社会が解体された。

 政府は、失業問題の処理に失敗し、長州奇兵隊の虐殺、萩の乱、佐賀の乱、西南戦争と各地で内乱が発生する。
 明治10年まで、日本人同志が殺し合う社会となった。その前後から、台湾、朝鮮、中国、満州、と侵略軍事主義に代わっていく。かたや、徴兵制が徹底された。戦争の時代に入る。民の目線の政治から遠ざかるばかりである。
 
 宗教面ではキリスト教弾圧が、江戸時代よりも目にあまる虐殺となった。農民一揆も、徳川時代よりも多くなった。

 徳川時代は245年間の政権を支える有能な人材(昌平黌出身者)が多かった。秀才の外交官がいる。洋学(英・仏・オランダ語)も堪能だから、丁々発止と外交交渉はできた。
 ところが、明治政府は、通商条約の改定に40年間もかかっている。無能さらけ出している。太平洋戦争の終焉まで、77年間しか維持できなかった。
 どちらから学ぶべきものが多いのか。ここらはいちど熟慮してみる必要がある。

 能力の低い政治家は、まずなにを考えるか、「自分たちの存在を大きく見せる。過去を大きく見せる」、「都合が良い実績は誇大して残す。不都合を消す」と、国民の目をそらせていく。あるいはねつ造を信じ込ませる。

 現代でも、極度にコンプレックスが強い人は、自分を大きく見せたがる。きらびやかに衣服を着飾り、収入以上の高級車に乗り、高級マンションにすむ。これに類似している。


 薩長閥、長州閥の政治家は、御用学者に過去の自慢話をでっち上げてもらう。それを義務教育のなかで浸透させる。
 たとえば、偽詔書(にせ・しょうしょ)『薩長倒幕』という言葉をねつ造させる。薩長の勇ましさを信じて疑わいない軍国少年が生まれる。
 やがて、成人になれば、軍事侵略思想、徴兵制による国家総動員は善だと思う。祭政一致による国家のために死ぬのは美学だと信じ込む。
 御用学者が太鼓をたたきまくり、悲しいかな太平洋戦争へと突入していった。

 御用学者がつくった標語、『徳川は封建制で、明治から近代化』、こんなのは大ウソである。

 徳川家は、鎖国政策を捨てて、開国で海外貿易による近代化を推し進めた。さらに、大名支配を止めて郡県制(現代の都道府県)をめざしていた。そのうえ、大統領制へと声高に叫びはじめた有能なエリート官僚がいた。
 松平春嶽などは、大名制度がなくなれば、わが身が危ない。その官僚の実行力は抜群だし、春嶽は怯えたと記録されている。


 貿易拡大と外資導入は国を豊かにする。天皇は徳川(家康)に政権を任せている。それなのに京都から、幕閣の政治に口出ししてくる。
「天皇が勅許した阿部正弘の和親条約までさかのぼって、条約を破棄しろ、という。国際信義にも劣る。一ツ橋慶喜をたたきつけて、横浜港を閉港させると、外国奉行を使節団にしてフランスに送り込ませる」
 そんな天皇は承久の乱のように島流しにしろ。そして、わが国に大統領制を導入せよ、と主張した勘定奉行がいた。

 明治の御用学者は、こんな理論が徳川家で渦巻いたとは教えてくれない。自称歴史通の方は、それがだれだか、と歴史を訪ね歩けば、「えっ、徳川家は尊王でなく、大統領制だったの」とおどろくだろう。「徳川は無能だ」と決め込んだ薩長史観の一面からみる歴史の怖さを知るだろう。

 ヒントは、幕末にもっとも近代化を推し進めた勘定奉行である。江戸時代にワシントンで現職大統領にも会っている数少ない日本人だ。国務大臣と日米の通貨交換比率が不公平だと、小判、銀貨幣を持ち込み、化学分析で実証して見せて、アメリカ人を驚かせたと、ニューヨークタイムスに載っている。

 鳥羽伏見の戦いのあと、慶喜が大坂城から江戸に逃げ帰ってきたとき、「それでも将軍か」、「徳川家をつぶすつもりか」と胸ぐらをつかんだ人物である。

 徳川家がみずから封建制を脱却し、現代とおなじ資本主義社会へと1歩も、2歩も、踏み出していた事実がかるだろう。
 近代化は徳川家からである。明治の政治家は、その物まねからスタートした。
                              
                                  【了】
                           

【近代史革命】幕末に、『大統領制を導入せよ』と主張した優秀な勘定奉行がいた(上) 

 来年で、明治維新から150年である。このところ、幕末史にたいする関心度が高まっている。拙著の『二十歳の炎』(芸州広島藩を知らずして、幕末史を語るなかれ)は、出版から約3年が経つ。いまや5刷りとなった。
 ことしは大政奉還150年であり、そのこともあって講演、講座の依頼が舞い込んでいる。なぜか。独特の穂高史観があるからだろう。

                    *

 現代の幕末史は、明治時代の御用学者が編成したものだ。昭和初期の軍国時代に、為政者に都合よく修正されながら完結した。
 そして、日中戦争、太平洋戦争の精神的な基礎教育と結びついた。

 現代でも、それを受け継ぐ学者はあきれるほど多い。だから、一般人の歴史通の大半が、それを正しいと信じ、
『ペリー提督が来航し、列強に蹂躙されて、わが国は開国した』
『第二次長州征討は長州が勝った』
『薩長倒幕』
『幕末・明治には日本が植民地になる怖れがあった』
『尊王攘夷は正しい
 それら御用学者がねつ造した用語をうのみにしている。

 自称歴史通の一般人は、大学教授や研究者の権威に、盲目的に信じ込んでいる面がある。
 歴史は疑問を持ちながら読まないと、巧妙なもっともらしい学者の論理や、歴史作家のねつ造の罠(わな)に陥ってしまう。


 一方で、確実に、幕末史が見直されている。歴史事実と違う。武勲・英雄史観が軍事国家に利用されてきたと、しだいに問題視されている。
 幕末の勝者の美化からの脱却である。
 


 明治時代の当初は、薩摩、長州、土佐、肥前、津和野が中核になった。それぞれが藩閥をつくっていた。
 祭政一致、キリスト教弾圧、廃仏毀釈、貨幣改革(両から円)、廃藩置県、地租改正、資本主義、外貨導入、徴兵制、軍国主義……。

 これらあらゆる革命要素が、明治に入ると、渾然いったいの怒涛(どとう)となって、政治家たちに押しかかった。

 そのときの、政治家の能力はどうだったのか。

 戊辰戦争に勝利した地方の下級武士が、いきなり中央政治のトップの座についた。政治意欲があっても、どんなに頑張っても、優れた語学力、政治理念、経済の基礎理論がなければ、資本主義社会などは円滑にまわらない。

 農兵で攘夷を振りかざし、進歩派・開明派・外国人を斬りまくっていた連中が、その功績だけで、中央官庁の官僚キャリアーとなっても、高度な財政・金融・外交の実務など満足に推進できない。   

               【つづく】

葛飾区中央図書館で、一か月間の展示コーナー(下)郡山利行


 数人の当クラブ会員が、それぞれ自分の特技を分担作業しての、手作り展示会だった。


 穂高先生紹介パネルの前の、ガラスケース上には、同区立鎌倉図書館と中央図書館のご協力により、先生の出版書≪海は憎まず≫、≪二十歳の炎≫、≪燃える山脈≫を、3冊ずつ、図書館貸出書として、展示期間置いてもらった。


 作品14冊の他には、2枚の当クラブ紹介パネルと、1枚の穂高先生紹介パネルを、展示し、壁面上部にはささやかながら、クラブ名の釣り飾りをした。

 今後、ほかの会場でさまざまな内容で展示する機会があるとすれば、葛飾区の行事・イベントや場所・景観・人物などのテーマでの開催も考えられる。 


 当クラブは、昨年までは同区教育委員会主催の穂高先生講師による、≪区民大学講座≫の修了者でなければ入会できなかったが、今年度からは、同区の≪区民大学≫卒業生で、当クラブ会員の推薦があり、会長が許可した方は入会できるようになった。


          写真・文 = 郡山利行

葛飾区中央図書館で、一か月間の展示コーナー(上)郡山利行

 今年2017(平成29)年3月1日から31日までの1ヶ月間、当クラブとしては初めての、作品展示会だった。

 今回の展示作品は、特別なテーマはなく、14名の会員の各人お気に入りの作品だった。


 図書館内の展示コーナーは、図書館事務所横の通路で、延長約10mの壁面とガラスケースだった。

 原本の作品の大きさは、A4を中折りにしたA5サイズだが、各ページをA4縦に拡大印刷して、クリア・ポケットファイルで製本した。


 それを館内での閲覧展示とした。 原本は、施錠されたガラスケース内に展示した。



 作品14冊の他には、2枚の当クラブ紹介パネルと、1枚の穂高先生紹介パネルを、展示し、壁面上部にはささやかながら、クラブ名の釣り飾りをした。


 数人の当クラブ会員が、それぞれ自分の特技を分担作業しての、手作り展示会だった。


        写真・文 = 郡山利行 

《日本百名山の達成》 その想いを語る = 関本 誠一

 55年前、大菩薩嶺が最初の登山…日本百名山は筆者にとって登山人生そのものになった。

 当初、気ままな山行を繰り返していたが、20年後転機が訪れる。…、八ヶ岳(24座目)山頂小屋で同年代登山者との出会いを機にピークハンターとなる。


 だが、80座で頓挫し諦めかけていたが、当倶楽部入会にあたりリベンジ。今夏7年目にして達成する。応援してくれた山仲間に感謝の気持ちで一杯だ。


 阿寒と知床連山の中間にそびえる斜里岳は知名度低く目立たないが独立峰なので、近づくにつれ徐々に大きくなるその姿に一種の感動を覚える。

 見晴らしの滝、七重の滝、霊華の滝、竜神の滝と続き、やがて傾斜が緩くなり流れがみえなくなると新道と旧道が合流する上二股だ。

 沢沿いに進む旧道は次から次へと現れる滝を楽しんでいくと、自然に高度を稼いでくれて疲れを感じさせないが、ところどころ滑りやすくとても危険だ。

         【作品から一節】


 今後は身の丈あった登山を楽しみたいと思ってます。


       ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№209から転載

【近代史革命】  西洋の自由主義は、日本の浮世絵が輸出した

 日本人はとかく被害者意識が強い。幕末は、欧米列強に蹂躙(じゅうりん)されて開国した、という見方で、歴史をとらえてきた。
 しかし、視点をヨーロッパにおいた場合、かれらは鎖国が解けた日本の開国から、大きな自由主義を学び取ったのである。それはとてつもない人類の財産になっている。


 西洋人は古来つねにキリスト教の神々に拘束されてきた。一神教である。他の宗教は認めていない。ヨーロッパの戦争といえば、その大半が宗教戦争である。かれらは政治、経済活動のみならず、文化面においても、キリスト教の枠内でしか、行動できなかったのである。



 画家が絵のなかに婦人を描く場合においても、キリストとか、聖書とか、十字架とか、マリアとか、最後の晩餐とか、その範囲内でしか画けなかった。

 かれら画家には自由奔放に表現する活動が許されなかった。つまり、キリスト教の範囲内しか、文化活動ができず、宗教の鎖で縛られていたのである。

 日本の浮世絵は写実的だし、風景画、美人画、役者絵など、宗教的な拘束は皆無である。江戸時代の信仰が仏教、儒教が主体だった。
 浮世絵がそれに縛られる、という制約はみじんもなかった。

 まして、春画などは、嫁入りの女性に、寝床に入ったら、こんなふうに夫に身を任せるのよ、と親代わりの性教育の助勢であった。
 人間の本能の男女のいとなみを赤裸々に描ききっている。男女の性器までもリアルである。


 開国した安政通商条約で、日本から物品が海外に輸出された。お茶、生糸など諸々の商品が箱詰めされたうえで、横浜、長崎、凾館の港から、欧米に送りだされた。


 ヨーロッパ人は、あっとおどろめいた。「世界のなかに、こんなに自由に絵が描ける国家があったのか」
 パリの画家たちは競って、浮世絵をまねた。単なる筆のタッチだけではない。日本の浮世絵から自由を学んだ。
「よし、自分たちも裸婦を描いてみよう」
 売春婦のヌードでもかける。(写真・ネットより)。
 当初は、キリスト教の冒涜だと、社会から大反発、大反論があった。


 しかし、画家たちの自由主義が一大旋風となり、止めどもなく文化、文学、科学へと一気に広がった。思想的のなかにも、政治、経済のなかにも、自由主義が取り入れられた。
 欧米のあらゆる面の自由主義は、日本から発信されたものだった。

 欧米は大量のお茶を輸入する。茶箱に浮世絵技術の絵が描かれている。包み紙代わりに、浮世絵の刷り絵が無造作に入っている。開国で、日本のお茶の味が好まれたと教えているけれど、その実、茶箱と包み紙の魅力にあったのだ。

 
 当時の日本人にすれば、浮世絵は、現代の週刊誌を買うくらいの感覚だ。歌舞伎役者が見飽きたら、新しい人気役者の浮世絵を買う。
 旅もの富士山の絵をみて、富士信仰につかう。地域の情報収集に役立つ、庶民文化、そのものである。
 
 日本の幕末史においては、日米通商条約を悪者扱いしている。それは尊王攘夷派の活動をいまでも正当化させるためのものだ。
 尊王はよいが、攘夷は最悪だ。日本は神の国だ、聖地を踏ませるな。白い肌を見れば、斬れよ、という思想だった。
 
 こんな攘夷思想を美化する視点は、もうやめたほうが良い。

 徳川政権をあえて見下し、明治政権を優位にみせる。これら薩長閥たちの捻じ曲げた史観が怪しいぞと、このところ文献、報道に多くみられるようになってきた。


 日本の宗教は古来、なにを拝んでもよく、神仏混合だった。キリスト教のような鉄の鎖、生死の重圧、殉教(じゅんきょう)というものはない。
 全国の神社仏閣は宗派を問わず、いろいろな神を祀っている。あるいは同居している。

 古くは畏敬(いけい)の対象が太陽、月、川などの自然崇拝だった。まさに火の神、水の神である。
 やがて、神々のなかに人物が出てくる。天照大神、義経神社、村の顕彰者、だれを祀っても、参拝者にたいして強制ではない。だれを祈っても、自由である。
 ところが、明治政府になると、一神教の強制になった。まずはキリスト教への弾圧で、長崎のキリスト教信者たちが津和野藩をはじめとして、10万石以上の大名家に送りこまれ、多くの殉教者(死者)を出した。(踏絵は、老中首座・阿部正弘が止めさせていた)。
 さらには、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、お寺を壊し、仏像を壊し、日本古来の自由信仰を殺した。日本人ならば、神教に統一しろ、と強要した。


 日本の歴史で、宗教の暗黒時代が明治時代からはじまり昭和20(1945)年の終戦までつづいた。この77年間にはまちがいなく信仰の自由が抑制された。国家神道になった。


「昭和天皇の人間宣言」で、日本人は本来の自由主義に立ちもどれた。あるいみで、よくぞ、天皇は自由主義を取り戻させてくれたものだ、といえる。

 一般に譬(たと)えられるのが、クリスマス(キリスト教)、大みそかの除夜の鐘(仏教)、元旦には神社の初詣。むろん、山の上や海辺で「初日の出」を拝んでもよい。「明治神宮」でも、「浅草寺」でも、どこへ行っても自由である。
 初詣に伊勢神宮に参って、古代の神々を仰ぎ祀らなくてもよい。合格祈願だけでも良いのだ。参拝者がなにを拝んでもよい、という日本独自の宗教、文化がある。


 東京は桜がそろそろ満開になってきた。靖国神社の境内で、花見を楽しむひとが、大村益次郎の銅像など、このひとだあれ? と気にかけなくてもよい。だれを祀っているのか、知らずして、「家内安全」、「五穀豊穣」、「合格祈願」とだけでも良いのだ。

 
 教科書においても、現在やっと歴史の真実に近づこう、本当の歴史を教えようという機運になってきた。鎌倉幕府の年代がちがう。聖徳太子の名前がちがう、鎖国はなかった……、賛否両論はありながらも、しだいに薩長閥が曲げた歴史教科書からの脱皮がはじまってきた。


 安政の五か国通商条約は、世界史からみれば、世界に自由主義を輸出した価値あるものだ。欧米は宗教の拘束や蹂躙から解放された。現代において、あらゆる分野に自由主義が活用されている。

『ヨーロッパの自由主義は、日本独自の浮世絵から学んだものだ』

 明治政府の視点から、「江戸時代の開国は不平等条約だ」とばかり教えないで、この通商は世界の歴史を変えたのだと、小中学校教育で教えるべきときにきた。


 広く国民がこの歴史認識に立てば、外国から靖国問題があれこれ言われても、毅然とした態度がとれる。靖国神社に参拝した政治家が、翌週はミサにいっても、その次は菩提寺に行っても、日本人はだれも文句など言わないだろう。
 信仰の自由は、世界に勝ったものだ。


 戦後の日本人はいちども戦争などしていない。もう銃を撃った戦争体験者は皆無ともいえる。それは世界でも数少ない民族・国家である。戦後70年はまだまだ、徳川政権は260年間、海外と戦争をしなかった。そんな歴史をもった国家だ。

 靖国神社の境内にいって花見だけでも良いではないか。本殿を拝んでも、拝まなくても、桜を愛(め)でれば、それはそれでよい。旧陸海空軍の紋章だった。靖国神社で、そんなことを考えながら、観るひとはいないだろう。

 先祖は侵略加害者だったにしろ、戦場を知らない私たちは、外国から、せめて宗教問題はあれこれ言われたくない。耳ざわりだ。このままでは、政党など問わず同世代の政治家たちが、素朴な気持ちで、千鳥ヶ淵から靖国神社の花見にも行けない。
 はやくに歴史教科書で、日本は浮世絵を媒体にした、世界に誇れる自由主義の発信国だと教えよう。そうすれば、諸外国が苦言する教科書問題などは、早期に解決するだろう。


 桜は日本の国花である。桜を愛(め)でる。古来の信仰である。他国にほとんど例をみない、宗教の自由主義が桜じたいにあるのだ。

17回・作家たちの歴史散策:桜の名所なる哲学堂から新井薬師へ


 日本ペンクラブの歴史が好きな作家たち7人が、ごく自然にグルーブができた。2017年3月1日の歴史散策は、こんかいで17回目となった。
 西武新宿線の新井駅(中野区)に、午後1時に集合だった。

 写真は中野区内にある、皇室にちなんだ「プリンセス・雅」という桜である


 清原康正さん(会報委員長・文芸評論家)、山名美和子さん(歴史小説作家)である。ともに、歴史は精通している。豪華な案内人である。

 林芙美子記念館にでむく。彼女は「放浪記」「浮雲」が名作として、現代でも読まれている。
 
 同館には、彼女の書斎、日常の部屋、さらに林芙美子資料室がある。

 手入れがしっかりなされた庭園である。


 新津きよみさんは、推理小説作家で、売れっ子である。今回の歴史散策は、どんな作品で登場するのだろうか。

 なにしろ坂道が多い街である。
 階段の先頭で、井出勉さん(PEN・事務局次長)は慎重に下る。


 
 中井御霊神社は、文化・文政の頃の、「雨乞い」に用いられたむしろ旗が1枚残っている、と明記されていた。

 歴史資料に接すると、作家たちはすぐさま話題が多岐にわたる。

 相澤与剛さん(広報委員長・ジャーナリスト)は、哲学堂に詳しい。


 哲学堂の池淵にくると、静寂な雰囲気のなかで、作家仲間たちは文学を語る。

 新井といえば、なんといっても、この薬師だろう。

「たきび」の歌」の発祥地である。

 かきねの かきねの まがりかど

 「子どもの頃は、たき火をこんなふうに、当たっていたわよね」

 山名さんが身振りで説明する。


 訪問先が、世の東西を問わず、どんな宗教でも、ふたりはていねいに手を合わせたり、香炉の煙を浴びたり、賽銭を入れたりする。
 
 ご利益はふたりにあれ。


 哲学堂や新井薬師の界隈は、川沿いの道が多い。

 かつて大雨が降ると、坂道が沢になり、泥流があふれていたらしい。いまは、遊歩道である。

 さて、夜の部は中野駅前の陸蒸気(おかじょうき)である。どんな雰囲気の居酒屋化、どんな話題が出るか、楽しみである。

「かつしかPPクラブ」が創立6年にして、展示会=葛飾中央図書館

「かつしかPPクラブ」とは、なにかしら。

 東京都葛飾区教師委員会が、単位制の「かつしか区民大学」を立ち上げた。それからすでに6年が経つ。「写真と文章で伝える私のかつしか」と題した講座が、当初から開講された。この講座は途切れることなく、つねに毎年十数人の受講生が学んでいる。

 第1期生が約20人ほどいた。『葛飾区内を歩く、撮る、取材する、そして書く』。この三拍子を学び、小冊子にするものだ。8回の連続講座で、添削はプロ作家・プロジャーナリストだから、一字一句、写真の構図にも、容赦なく朱を入れてきた。取材も、度胸だと言い、飛び込みを行う。それを繰り返して、力量をつける。

「学んだことをこのまま終わらせたくない」
 浦沢誠さんら複数の有志が提案し、自主クラブが発足した。それが「かつしかPPクラブ」浦沢会長である。

 年4回の小冊子発行は欠かさず行ってきた。そして、穂高健一による、きびしい指導の下で、配本してきた。そこには、取材力、撮影力、記事文の文章力には妥協しなかった。
 諸般の事情で、『去っていくものは、追わない』、そして残されたものが、力を磨いていく。その方針も、ぶれなかった。

 かれらの力量は、大手のメディア記者、あるいは雑誌ライターと比べても、まったく遜色がない。それだけの充分な力をつけてきた。

 最大のメリットは、読み手、読者にある。葛飾区内の大きな話題でも、メディアを見ても、ほんの少し、わずか数行しか載らない。これでは欲求不満だ。

「かつしかPPクラブ」の小冊子は、徹底して掘り下げている。読み手には、ふかい感慨を与える。葛飾区をより深く知ることができる。

 こうした力量アップの上で、作品の展示会を決めた。3月1日から3月31日まで、1か月間の特別展示である。

【関連情報】

 展示場所:葛飾区中央図書館

 最寄り駅:金町駅(JR、京成)

 問合せ先:同図書館 03-3607-9201

     :かつしかppクラブ・窓口 090-8689-8166

 

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