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幕末歴史小説「二十歳の炎」が3刷=芸州広島藩は幕末史を変えるか

 拙著「二十歳の炎」(日新報道・1600円+税)が、出版社から、3刷に入ります、と連絡が入った。
 小説はベストセラーにならなくても、ロングセラーで売れてくればよい。

 過去の大物歴史作家はすべてヒロシマ藩抜きにして、幕末物を書いてきた。なぜか。それには芸州広島藩の浅野家の史料が、明治維新の実態を赤裸々に示すものだと、厳重な封印がなされたからだ。もう一つ、広島城下町が原爆で廃墟になり、史料がすべて消滅したという二重の要員があった。

 解らないことはかけない。当然だ。歴史家は広島藩を迂回して、最もらしく書いてきた。あるいみで、大ウソばかり並べていた。禁門の変で朝敵の長州・毛利家の家臣は京都に入れなかった。それなのに、薩長倒幕だという。あり得ない。

 第二次長州征伐は長州が勝ったというが、山口県に入ってきた幕府軍の火の粉を追い払っただけで、どこにも侵略したわけではない。せいぜい、小倉と浜田くらいだ。日本中に影響など、与えていない。船中八策など偽物もないし、大政奉還には関わっていない。広島県・鞆の浦沖のいろは丸事件で、将軍家・紀州藩から7万両も強奪した龍馬が、なぜ英雄になるのか。かれはグラバーの単なる鉄砲密売人・運搬やではないか。

 過去からの通説、明治政府が作ってウソの教科書まで、見破ったのが「二十歳の炎」である。
 広島のことは知らないから、読者からいちどもクレームが来ない。「知らないことは文句が言えないのだ」。私たちが知らない原子物理学に対して、質問すらできない。ノーベル化学賞者にも、なにも疑問をむけられない。
 そんな現象が芸州広島藩だった。
 
 広島県の小中学校の郷土史も、「毛利元就から原爆まで、一気に飛んでしまう。」というほど、99%の広島人すら知らなかった。

 いま広島で売れている「二十歳の炎」だが、いずれ全国区になる、あるいは歴史教科書を変えていくだろう、と信じて疑わない。
 思想弾圧があっても、いちど発行した本は消えない。それが数十年先でもいい、ただしい幕末史になってほしい。温故知新。故きを温ねて新しきを知る。その古いところが真実でなければ、将来がミスリードになってしまうのだから。

【戦後70年・特別寄稿】東京大空襲を語り継ぐ (下)= 川上千里

日本の大都市から地方都市まで


 ルメイは日本の6大都市を焼き尽くせば、日本は大混乱になり、降伏するはずだと考えていた。ところが予想に反し、日本は徹底抗戦の姿勢をとり続けた。
 米国空軍が発注したB29は次々と生産され1000機にもなり、焼夷弾も量産されてくる。
早急に実績を上げる必要に迫られたルメイは6月17日から全国の都市爆撃を開始した。
 大都市で焼け出され、地方都市へ避難した人が再び被災した。

                         『廃墟と化した大阪市内』

 爆撃を受けた都市は全国で200ヶ所にのぼり、60都市の市街地が灰燼に帰したのである。


無差別爆撃の始末

 無差別爆撃に関しては、ドイツ軍はスペインのゲルニカに対して実行したり、日本軍は重慶を爆撃し、イギリス軍はドイツのドレスデンに行ったことなどが有名である。しかし、国中の都市を焼き尽くす作戦を実施したのはアメリカのみであり、しかも広島、長崎に原爆も投下している。

 ハーグ条約には軍事関連施設以外の爆撃は禁止されている。だが、戦後、無差別爆撃について国際的に議論がなされることはなかった。

 「私は米国の将軍だったから英雄になったが、敗戦国の将軍だったら処刑されていたであろう。」ルメイは言っている。

 戦後の日本は自国の反省も充分行わず、相手の無法さを指摘することもなく、悲惨な事実に真正面から向き合う姿勢が欠如していた。
 その上、占領軍のアメリカの非が追及されることなく、今日に至っている。

                        『ルメイ将軍』

 事もあろうにルメイ将軍には1964年、佐藤栄作総理の時代に「日本の航空自衛隊育成に協力した」と勲1等旭日大授章を贈っている。
 天皇陛下は贈呈の際、直接手渡す親授はしなかったという。この異例な行為は亡くなった国民に対する配慮であろう。

 知っていることを話す
 私は飛騨の山奥育ちで、小学校2年で終戦になったので、真の戦争体験者とは言えない。しかし伯父をはじめ、多くの村人が戦死した事実に遭遇し、戦後の生活を通してかなりの知識はある。
 定年後に戦前・戦後の写真集やDVDを買い集め、パワーポイントで子供達への語り部を始めた。
 子供たちだけでなく親や大学生なども、ほとんどの人達は初めて詳しい戦争の話を聞いたという。これまで学校では近代史を教えていないのである。我々世代が語り継ぐべきと考え、出来る限り今後も続けたい。

                          『写真週刊20世紀 100冊 』

 早乙女さんの言われた言葉が胸の底に響いている。
「知っているなら伝えよう。 知らないならば学ぼう。平和は歩いてきてくれない。」

                             【了】
             資料提供【東京大空襲・戦災資料センター】

【戦後70年・特別寄稿】東京大空襲を語り継ぐ (上) = 川上千里 

 筆者紹介。川上千里(男性)は、岐阜県・高山市上宝町本郷の出身です。東京の薬大・製薬会社から、現在は「子ども平和教育」などに力を注いでいます。川上さんの視点はつねに「犠牲者から見た平和」があります。
 そのルーツは「本郷村善九郎」にあります。
 江戸時代中期、幕府直轄領の飛騨国で、18年間にわたる農民一揆(大原騒動)が起きました。日本最大級の一揆で、幕府の弾圧は凄まじく、刑死など犠牲は計り知れなかった。農民に銃までむけました。
 弱冠18歳リーダーで非業の死を遂げたのが「本郷村善九郎」です。かれは死しても、若者の熱意と魂は受け継がれてました。最後は大逆転で、農民の勝利でした。
 老中筆頭・松平定信が、飛騨高山陣屋の役人の腐敗を見破り、大原郡代、元締、手代、手付など「武士として切腹もさせてもらえない」斬首、遠島など、全役人がことごとく処罰されました。

「貧に苦しむ民のために戦う」善九郎の精神が、川上さんの「犠牲者から見た平和」の視点はつねに重なり合うものがあるのです。

                          写真『戦火の下で』

東京大空襲を語り継ぐ (上)  川上千里

 
 
 戦後70年にあたり、戦争の歴史を風化させるなとの声が多い。そこで、東京大空襲について調べてみることにした。
                      
                 
 以前から行きたいと思っていた江東区にある東京大空襲の資料館を訪ねてみた。


 2002年に被災者の家族や市民など4000名以上の人たちが金を出し合って、江東区北砂に作ったもので、土地は篤志家から無償提供された。
 3階建てビルの1階が受付で、入場料は300円である。

 受付の脇には戦災関連図書などが置いてあり、階段を上がると2階が展示場になっている。2階ホールではビデオ上映や、講演ができ、壁面には沢山の資料写真が掲げてある。
都内の学校ばかりでなく、地方からの修学旅行生も多いという。

                   『講演用の2階ホール』


 この資料館の館長は作家の早乙女勝元氏で、設立以来このセンターの運営に携わってきた。
 運営費、建物の修繕費などの捻出のために講演会を開いて寄付を募り、涙ぐましい努力を続けている。
 昨年、同氏の講演を聞いたが、82才の熱い思いに感動した。
                            
                       『館長の早乙女勝元 氏』

東京大空襲

 東京は昭和19年11月14日以降、米軍の激しい空襲を106回受けたが、とりわけ大規模な空襲は昭和20年3月10日未明であった。

 このため東京大空襲といえば3月10日のことを言う。325機のB29が来襲してきて、一夜にして約100万人が被災し、約10万人の死者が出た。

                        『空襲を受ける東京』     

米軍の方針

 米軍は昭和20年に入ると、日本の都市の無差別爆撃を計画した。丁度、空の要塞と言われる爆撃機・B29が量産体制の入り、と同時に日本用に焼夷弾も開発できた。
 都市住民への爆撃は非人道的だ、と拒否する将軍を更迭し、積極的に爆撃を主張するカーチス・ルメイ将軍を任命した。
 そして、東京を皮切りに日本の200以上の都市が歴史上にない大々的な無差別爆撃にさらされることになってゆく。
                         
                      

ルメイ将軍の作戦



 彼はまず、東京の市街地を焼き尽くす作戦を立てた。そして木造家屋の密集した下町に狙いを定めた。B29から、空中戦用の機関砲類や弾薬、爆撃用の照準器などを降ろし、通常の2倍の積載となる6トンの焼夷弾を積みこんだ。
 その上、普段の8000m上空からでなく、高度1600~2200mの低空から夜間爆撃を行った。
                    『焼け野原の東京』 

 東京下町の市街地へ円周状に焼夷弾を落とし、燃え盛る円の中を塗りつぶすように攻撃した。
 爆撃は2時間半にわたり、風の強い日を選んでいたため瞬く間に火が広がって、下町一帯は一夜にして灰燼と帰した。
                         
                       

焼夷弾とは

 センターには焼夷弾の実物が置いてあり、その大きさに驚いた。
 アメリカ軍はユタ州に日本のモデル市街地をつくり、日本の住宅を焼く専用爆弾として開発した。

                    『空中で中から38個が飛び出す』

 飛行機から投下される前のものは長さ1m以上、直径も30cm以上で、重さは220㎏である。中に2.7kgの6角のクラスター爆弾が38個入っており、空中でバラバラになって降りそそぐ。
 この子爆弾は落下すると5秒以内に鋼鉄製の容器が爆発し、ガソリンを含んだゼリーが1300度の高温で燃えながら半径30mに飛び散る。
 東京大空襲ではこのクラスターが40万発投下され、1㎡当たり3発落ちた計算になる。燃焼・爆発力は強力で、近くに落ちると酸素欠乏が生じ、消防車のエンジンが止まり、窒息死する人も出たほどだった。

                      『落下して爆発した残骸』

 日本側のバケツリレーやはたき消火では、高い家の壁などが燃えだすと全く無力だったという。しかも、火事の場合は逃げないで、消火活動をすることが市民の義務とされていたので、焼死者がいっそう増えた。

                           
                            【つづく】

梅雨晴れ間の週末、箱根路は閑散としていた=郡山利行

 今年2015(平成27)年7月11,12日(土日)に、車で箱根を訪れた。

 今年6月30日に気象庁は、箱根町大涌谷園地付近(噴煙地)に、火口周辺警報(噴火警戒レベル3、入山規制)を発表した。
 箱根町は、地域防災計画に基づいて大涌谷園地への立ち入り規制を行った。


 火口周辺警報が出ている地域は、大涌谷噴煙地を中心とした半径約1kmの範囲内である(地図に加筆した朱円)。
 大涌谷を通る箱根ロープウェイは運転を休止し、近隣県道の早雲山~姥子間は通行止めとした。 また自然探勝歩道・散策路・ハイキングコースも立ち入り禁止となり、さらに警報区域内にある別荘地の一部には、避難指示も出された。


7月11日(土) 晴れ

 昼過ぎには、国道1号線の箱根峠付近にある、『道の駅箱根峠』に着いた。駐車場の車の少なさと、施設内の利用客の少なさに、わが目を疑った。
 箱根では宿泊予定していなかったので、箱根湯本の『箱根路 開雲』に電話を入れてみると、即座に予約することができた。 



 芦ノ湖へ下って、正月の箱根駅伝の地や旧関所跡の付近は、歩道も車道も、遠くまで見通すことができた。大型観光バスを見かけることはなかったが、西欧系の外国人散策者をたびたび見かけた。
 元箱根の交差点付近も、湖尻桃源台付近も、仙石原の交差点付近も同様で、車の運転は、ゆったりとできた。午後3時ごろ入ったポーラ美術館は、大涌谷に最も近いためか、一部の展示品を避難させたので、ご理解を との掲示があった。
 館内にはほとんど人がおらず、セザンヌの特別展を鑑賞することができた。


7月12日(日) 晴れ

 午前中、強羅の曲がりくねった急坂の道路も、対向車をほとんど気にせずに、走ることができた。マイセンアンティーク美術館も、来館者はほとんどなく、館長の村田さんと、伊万里・マイセンの磁器談をすることができた。
 正午頃、仙石原の玄関のような所にある、星の王子さまミュージアム(箱根サン=テグジュぺり)へ。若いカップルを大勢見かけて、ようやく少し箱根らしかった。


 最後に訪れたのが、芦ノ湖西岸の箱根スカイラインにつながる長尾峠の展望台である。 パノラマ写真と望遠写真。 約4km離れて大涌谷を、見ることができた。 晴天ながら、もやがかかって鮮明に見ることはできなかった。 この噴煙が、大事に至らないように祈る。


≪(株)小田急リゾーツ 『箱根を観光の皆さまへ』資料より≫
地図 : 国土地理院ウオッチズ地図(部分)に加筆

1000兆円の赤字国債が2倍になった日、天明・天保の飢饉から学べるのか

 いまの日本に天明・天保と同じ規模の大飢饉が来たら、どうするのか。歴史ものの取材をしていると、ついそんな想いがある。「歴史から学ぶ」。ありふれた言葉だが、江戸時代の大飢饉から、学ぶ努力はしていないな、と思う。

 幕末史は面白い。そちらに目が行ってしまう。江戸幕府が破たんしていく根幹は、天明・天保の大凶作から、国民が飢えてしまったからだ。

 現代の日本は1000兆円強の国債がある。一家族当たり1819万円の負債だ。だれが償還できるのか。これが2000兆円になったら、日本国と大赤字国家になる。
「太陽は必ず沈む」
 ある日突然、外国が借金大国の見切りをつける。金は貸さない、貸し倒れになるから。物は売らない、代金回収できないから。
 こうなると、食料がたちまち底をつく。どのように食べていけるのか。草をかじり、樹皮を剥がし。花壇の花も食べつくす。
 
 天明の大飢饉により、米価が高騰し深刻な米不足が起こった。江戸北町奉行の曲淵景漸が「米がないなら、犬や猫の肉を食え」と発言している。これが為政者のことばか、と庶民が怒り狂った、江戸の打ちこわしに発展した。
 現代ならば、さしずめ、コンピューターがあるから、膨大な天文学的な金額の国債が生まれたのだと、官公庁、企業、大学などのサーバー破壊なのか。

 そんなことを考えながら、福井県・越前市の幕府直轄領だった「本保陣屋」の史跡を訪ねた。天保7(1836)年の全国を襲った大飢饉は、悲惨な餓死者を出した。

 越前市だけでも、4000人の餓死者が出た。子どもと老人から死に逝く。道に倒れたこれら死人を片付ける、健常者すらも薄くなっていった。死体は放置された。どの村にも死臭が漂った。

 それは第二次世界大戦で、日本の都市が焼夷弾で焼かれ、町中に死体が転がった光景に似ている。死体が日常化すれば、人間の眼は死人に慣れてくる。それが怖いところだ。

 戦争と貧困は民に劣悪な環境をつくる。だから、為政者は「国民を餓えさせない」「戦争をしない」の2つが最大の目標とならなければならない。

 天保7年。飛騨国のトップは大井郡代だった。出張り陣屋の「本保陣屋」(高山陣屋の飛び地の領地)に約半年も滞在し、飢えた農民の救済に立ち向かった。
 
 郡代(現・県知事)は勘定奉行(財務・金融大臣)の支配下だから、大井郡代はなにするにも江戸の勘定奉行に伺いを立てる義務があった。

 毎日死に逝く人をみていると、伺い書など書いている余裕がない。緊迫化した日々だ。大井はルール違反の切腹を覚悟の上、自己判断で幕府の蓄米を放出し、江戸の私邸の私財も売り払って金に変えさせて福井に送らせた。そして、庶民に米の購入資金に貸し与えた。
 
 村々を回った時に、村役人が良田を見せようとした。「悪い田んぼを見にきたのだ」と叱った。そして、実もついていない稲の田んぼを見て、わが目で判断し、村々の救済を決めていった。

 こんな為政者は諸国を見渡してもわずかだ。

 現代に置き換えてみる。国債を資金に使いまくる政治家が多い。我田引水の理由をつけて、閥、地元へと公共資金を投入させている。いずれくる大恐慌(ハイパーインフレ)が忍び寄っている。
 2000兆円の赤字国家になった時、海外から物資が来ない。私たちは筋肉もない体力もないからだをさらす、皮膚と骨だけの身を路上に横たえる。そして、死んでいく。

 大井帯刀郡代のような、為政者が日本に現れるのだろうか。幕末志士の英雄願望ではきっと解決しないだろうな。かりに作り物の歴史物語そのままの坂本龍馬が出現しても、2000兆円の赤字国家の借金は返せない。解消できないだろうな。

 私たちは歴史から学ぶ。英雄やヒーローからではなく、庶民の生き様から学ばなくてはならない。そんな想いで、天明・天保時代に向かい合って取材している。

「東京アンチモニー工芸品」わが国の伝統的工芸品に(下)=郡山利行

 6月19日に、山中治男さん(葛飾区奥戸在住)電話で取材した。山中さんは山中金属加工所の社長で、葛飾アンチモニー会所属である。
 山中さんはアンチモニー器の切削仕上げおよびはんだ付けで、平成16年度には葛飾区優良技能士となった。

 アンチモニー製品は、メッキ・塗装で完成する。その直前で、地金での製品を完成させる≪まとめ作業≫に、60数年間携わっている。
「アンチモニーが、国の伝統工芸品に認定されましたね、すごいことですね、長年の頑張りが遂に認められましたね」
 筆者の祝辞に、電話の向うの山中さんは、多くを語らず、
「ずいぶん速く、電話をくれましたね。そうですね、夢みたいな感じです」
 とても朗らかに応えてくれた。


 アンチモニーとは、『アンチモン』という金属の英語読みであり、日本では一般的にアンチモン(10~30%)と鉛(85~88%)、錫(すず)(2%)の合金のことをいう。
 この合金を溶かして鋳型加工したものを、アンチモニー製品と呼んでいる。

 現在でも、半数近くの会社が葛飾区にあり、一大集積地となっている。山中さんはその中心的な人物である。


 2015年、経済産業省が伝統的工芸品と指定した「東京アンチモニー」は、鉛、アンチモニー、錫の合金であるアンチモニーを原料として、鋳物製品である。繊細な模様や彫刻を活かした装飾品である。

「東京アンチモニー工芸品」わが国の伝統的工芸品に(上)=郡山利行

 経済産業省は、2015(平成27)年6月18日に、「仙台箪笥」「江戸鼈甲」および「東京アンチモニー工芸品」を伝統的工芸品として指定した。

 アンチモニー産業は、世界で唯一、明治初年度から東京だけで生まれて発展してきた、世界に誇る東京の地場産業である。
 アンチモニー製品は、昭和40年代前半までは輸出品の花形だった。


 アンチモニー製品輸出アンチモニー工業協同組合(現・東京アンチモニー工芸協同組合):50周年記念誌より (平成11年7月刊)


 明治初期の頃には、問屋は日本橋に、工場は台東区にあった。やがて、大正・昭和時代に入ると、墨田区から葛飾区へと工場が広がってきた。


 アンチモニー製品葛飾アンチモニー会:葛飾町工場物語 第4回(平成23年1月刊)

 アンチモニー製品は、重量感と鋳肌の滑らかさ、微細な模様なども正確に表現できることなどが特徴である。
 かつては小さな胸像や灰皿、ライター、宝石箱やオルゴールなどの製品は、至るところで見ることができた。


 ガラスやプラスチックなど、代替え品となる素材が多くなった現在でも、優勝カップやトロフィー、記念メダルや宝石箱、置物などアンチモニーが製造されている。

『せっぺとべ』400年続くお田植え祭り2015 (下)=郡山利行


お祭り全体で、踊りに参加するすべての自治会の中で、

笹踊りを踊るのは、唯一、諏訪自治会だけである。


勇壮な動きはなく、竹の笹音がカサカサと聞こえるだけの、

不思議な威厳を発する。

観客(筆者の親類)は、踊りの自治会の人から、『しべ』をもらう。

しべとは、幅3cm、長さ85cmのクロマツの角材をカンナで薄くすいた物で、先端15cmほど食紅で染められている。


人々はこれを、家の玄関や床の間に飾る。魔よけのおまじないである。



せっぺとべを眺める少年達。

大人になれば、彼らも白装束を着るようになるのだろうか。

踊りの少年少女たちは、お田植え祭りの前夜祭から、本番の日の夕方まで、神社から神田での奉納踊りと、町内各地と自分達の自治会地区の要望施設や家庭でのお祝い踊りとで、おそらく二日間で20回は超えて踊ったと聞いた。 自宅では、踊りのお礼(花代)のほかには、子供たちへのペットボトル飲料の差し入れしかできなかった。

 400年も続いているこのお祭り、改めてその歴史に興味が湧いた。

『せっぺとべ』400年続くお田植え祭り2015 (上)= 郡山利行

 昨年2014年6月、穂高健一ワールドに、筆者の故郷である鹿児島県日置市日吉町の、お田植え祭り『せっぺとべ』(「精一杯跳べ!」の鹿児島弁)を紹介した。神社の境内から神田(しんでん)での様子だった。

 今年2015年は、6月7日に行われた。筆者はこの故郷に家を新築したので、自宅玄関前でお祝いの踊りをしてもらったので、その模様を紹介する。


 祭りの踊りに参加した八つの自治会のうち、縁があって四つの自治会に、踊りをお願いした。

 吉利(よしとし)南区、山田、日新の自治会は鎌踊りで、諏訪自治会は笹踊りだった。

 こころよく引き受けてくれた。


鎌踊りは、鎌と鉈(なた)を、武器と見立てた踊り。

昔は、元服前の少年達が技を競って、踊っていた。

勇壮だ、見ごたえあるね。

吉利南区自治会は、庭にミニミニ神田を設定して、せっぺとべを実演してくれた。

縁起がとてもいい、踊りですよ

熱気がすぎると、水をかけられる。

散水掛よりも、踊りたいな。


中学生のお姉さんが、頑張っている。

女子パワーを見てください。

鹿児島の女、強いイメージがあるよね。

江戸時代は将軍の正室にもなったし。

少年少女たちの踊りを、初めて珍しそうに、目の前で眺めている。

筆者の親類の子たち。

ぼくらも、大きくなったら、踊ろうね



自治会によっては、踊り子たちがとても少ない。

過疎なんていうなよ。人数じゃない、気力では負けないぞ。

いつも頑張っているんだ。

                      【つづく】

第89回 元気100エッセイ教室 = 心に響くことば

 映画を見たり、本を読んだり、ラジオを聴いたりする。心に響くことばがあれば、それは感動作品です。
「人間の心は、相手のことばで動く」

 ことばひとつで、その人の為なら死も厭わない。ことばひとつで殺意すら持ってしまう。ことばは愛情の表現になったり、凶器になったりします。このように、心を傷つければ、心に響くことばもあります。

 相手を生かすも殺すも、ことばしだい

 作品が盛り上がったときに、読み手の胸にジーンとしみ込むフレーズが、感動すべき、心に響くことばです。

・病気の子供を抱えた若い母親が、「この子を助けてください」と涙して訴えた。

・戦場の砲弾の恐怖のなかで、「おまえは生きて故国に帰れ、傷ついた俺をかまうな」

・過疎化の故郷に帰省した時、「誰かが村を守らないと、おまえらの故郷がなくなるだろ
う」

・父親に怒られるかと思いきや、「離婚は恥ではない。問題は次の生き方だよ」と優しく接してくれた。

・職場の鬼上司から、「男は誇りが大切だ、そんな仕事をしろ」と怒鳴られた。

 これだけでは心に響くことばだと言えません。懸命に生きる姿を描き切ったストーリー(流れ)が必要です。作品が盛り上がれば、心に響くことばが生まれます。心にとどめ置きたいことば、として強く印象に残ります。

・愛、惜別、信頼、努力、痛切な願い、絆、真剣、信念、叱責、危機、

 いずれも心に響くことばが潜んでいます。それを引き出すのが作者の技量です。

 作者には過去の体験のなかで、忘れ難い、心に響いたことばが必ずあるはずです。それを素材にして、エッセイを書いてみてください。
 感動作品が生まれる土壌(ネタ)があります。