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『穂高健一のエッセイ』 恐怖のサイレン

 私には絶対音感がないから、音痴である。楽譜通り、まともに歌えない。中学の音楽の時間に、私にすれば真面目に歌っていたのに、音楽教師がなぜ、何回も音を外す、と声を荒げた。
 悪質な生徒だと見なされたのか、運動場を三周してこい、と命じられた。
 広い運動場を一人走っていると、各教室から顔を出して愉快がる生徒らが大勢いた。私は照れ隠しで、手を振った。それを咎められて、職員室に立っておれ、と怒られた。
 それがトラウマになったとはいわないが、絶対音感は育たないものだ、いまも、お金を出してまで、カラオケに恥をかきにいきたくない心境である。

 こんな私にも、ふるい曲に思い出が重なっている。ふと耳にすると、当時を思い出す。小学生のころ隣家のお好み焼きだったので、窓越しに「お富さん」の曲が流れ込んでいた。中学生は「カラタチ日記」で、同級生の女子との噂をながされ、からかわれる曲に使われた。島の高校は「恋の片想い」で悶々とし、勉強がまったく手につかず、人生の岐路を変えた。進路指導は広島か岡山の大学だったが、東京の私立大学に進学した。

 瀬戸内の島育ちだから、東京から交通費を出してまで房総や三浦海岸まで行きたいとおもわない。もっぱら八ヶ岳や北アルプスで「山男の歌」である。

 こうした曲名をならべると、私は昭和人間だとわかってしまう。むろん、昭和生まれを隠す気持ちなどみじんもない。むしろ戦中、戦後の極貧、高度成長、日本が第一回サミット加盟国という誇らしさ、平成の悲惨な大自然災害、令和の世界的な疫病のまん延という波乱に満ちた時代を体験できた。

 小説家としては多様な変化に満ちた体験世代だとおもう。

 さかのぼれば、高度成長期には、私たちがはたらいた税金の何割かが、太平洋戦争の加害国として、アジア諸国に戦争賠償金、資金援助としてつかわれてきた。親の世代で戦争をして、子どもの時代で支払う構図だった。当然支払うべきものだと抵抗はなかった。

 話しはさらにもどるが、私が一歳半のときに終戦である。本来ならば、戦時体験など記憶にあるはずがない。ところが私のからだには戦争の恐怖がしみ込んでいる。

 高校卒業で島を離れるまで、町内の火災を知らせるサイレンがことのほか怖くて、いつも脅えていた。それは不思議な現象だった。
戦時中、島の港内に停泊する商船が機銃掃射で狙われていたらしい。母から、今治の町が爆撃で真赤に燃えて怖かったし、防空壕の出入口から恐るおそる見ていたと聞かされた記憶がある。
「サイレンが怖いのは、これだったのか」

 想像するに、当時24歳だった母は、敵機襲来という空襲警報のサイレンが鳴ると、とっさに両手で幼児の私を胸に抱きあげる。父は出征しており、心細く、「外地から帰ってくるまで、この子を殺させてはいけない」と強く抱きしめていたという。

 おおかた幼い私の耳には、母の恐怖の心臓音がドキドキと脈打って聞こえていたのだろう。サイレン音とともに、からだが恐怖を覚えてしまった。

 私には、兵士を送りだす軍歌だの、機銃掃射の音だの、沖を航行する軍艦だの、それらはまったく記憶に残っていない。早朝なのに、山の端のかなたがぴかっと光った、あれが原爆だったと聞かされていた。これも、戦争が終わってからだ。

 私たちの同世代は、親を亡くした戦争孤児、原爆孤児、大陸引揚者の飢餓寸前の子らである。敗戦後はGHQ国連占領軍の支配下にあり、だれもが極度の食糧難で飢えていた。米の飯など食べられない。貧乏人は麦を食べろ、と言われた時代だった。
 私がバナナをはじめて食べたのは小学三年、チーズを口にしたのは小学五年だった。敗戦とはそういうものだった。
 でも、太平洋戦争に負けて良かった、と真におもった。子ども心に軍隊にはいきたくなかったからだ。

 それというのも、出征した父が持ちかえった写真アルバムがある。一つは、射殺した大きなトラにまたがった軍服姿の父の写真だ。小隊が人食いトラを数日間追って射止めたという。
 小隊長だった父の真上の岩壁から、飛び降りてきた瞬間、仲間が下から射殺してくれた。間一髪で助かったという。
 もう一つは、深い雪のなかで、複数の軍人のさらし首があった。私は子ども心に「誰なの」と聞いた。すると、金日成(きんにっせい、北朝鮮の初代最高指導者)の腹心だよ、とさらっと答えた。旧日本軍としては手柄だった口ぶりだが、多くは語らなかった。
「戦争は残酷だな」
 その強い印象が私を戦争嫌いにさせた。


 現代社会でも、世界のどこかで戦争がおきている。被害に苦しむ子どもたちの報道がなされる。難民の子どもらも、私の体内サイレンのように、戦争の恐怖体験がきっと消えないとおもう。
 戦争と平和はコインのように裏表の両面性がある。

いまの私は、政治家が「国を守る」と発言すると、すぐさま戦前の『祖国を守る』政策を連想し、ぞっとしてしまう。そして、体内に潜む恐怖のサイレン音と結びつくのだ。

 為政者が『国民一人ひとりを守る』といえば、個々人の命を大切にする、平和維持の政治活動につながるのに、とおもう。用語の使い方はとても重要で武器解決でなく、外交努力になる。

 子々孫々まで、私たちは空襲警報の恐怖のサイレンを聞かせたくないものだ。

穂高健一講演会「渋沢栄一と一橋家」日程変更・案内=葛飾区立図書館 

 穂高健一 講演会「渋沢栄一と一橋家」が、7月25日(日)に予定されていましたが、緊急事態宣言のため10月24日(日)に延期となります。


 立石図書館より、下記の案内です。
『こちらの講演会は定員に達したため、申込受付は終了しています。なお新規のお申し込みはありません。事前申し込みされた方のみご参加いただけます


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開催日 令和3年10月24日(日曜日)

時間 午後2時 から 午後4時 まで(開場午後1時30分から)

会場  葛飾区立・立石図書館2階研修室

対象 区内在住中学生以上

定員 35人(事前申し込み・先着順)

講師 穂高 健一氏(作家)

申込方法 終了

費用 無料

特記事項 感染症対策にご協力お願いします

RCCラジオ・放送 神機隊と渋沢平九郎 = 9月11日(土)

穂高健一の幕末・明治・大正の荒波から学べ!RCCラジオ・放送

 渋沢栄一が、パリ万博へ出席する慶喜の弟・清水昭武の随員としてフランスへ渡航することになった。当時の幕府の規則で、妻の弟・平九郎を渋沢家の見立養子にしていた。

 渋沢誠一郎(喜作、渋沢栄一の従兄弟)は、尾高新五郎(渋沢栄一の妻・千代の兄)、渋沢平九郎らは上野の彰義隊と決別し、新たに振武軍(しんぶぐん)を組織していた。
 総勢は約1500人になっていた。慶応4年5月18日に、飯能村(埼玉県)の能仁寺に移り、そこを本陣としていた。

 5月23日、新政府軍は飯能の振武軍を攻撃した。半日で決着した。

 神機隊の小隊長・藤田次郎が50人で、忍藩の藩兵を引きつれての夕方に飯能に着いた。戦争の決着がついていた。越生村(埼玉県・越生町)法恩寺(ほうおんじ)を陣にした。

 振武軍の落ち武者は、いくつかの集団に分かれて逃走している。神機隊は越生の宿泊地の周辺や、黒山三滝あたりの探索をしてほしい、と依頼がきた。

 遭遇したのが、副大将の渋沢平九郎だった。悲劇が起こった。


【イラストをクリックすれば、RCCラジオ聴けます】
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RCCラジオ・放送 神機隊と上野戦争 = 8月14日(土)

穂高健一の幕末・明治・大正の荒波から学べ!RCCラジオ 神機隊と上野戦争


 神機隊は、広島藩庁に320人の脱藩届を出してまでも、自費で奥州戦争にむかった。京都に挙がり、朝廷か「奥州鎮撫使(ちんぶし)応援」の命を受けた。
 そして、大阪の湊から奥州にむかう。蒸気船が舵のトラブルから、江戸湾の品川湊に一時寄港した。

 かれらは上陸し、浅野家菩提寺の泉岳寺(忠臣蔵で有名)を宿所とした。ちなみに、赤穂浅野家は分家(5万石)で、本家は芸州広島藩浅野家(42万石)である。

 4月21日に江戸城は無血開城されました。

 かれらが江戸城の総督府に挨拶に行くと、長州藩の大村益次郎は上野戦争の参戦をもとめられた。主力でなくとも、上野山の北側の王子・飛鳥山に陣を張ってほしい、と依頼された。

「長州の大村ごときの頼みで、上野戦争に加担などする必要はない。われわれ神機隊は朝廷から、会津を恭順させよ、と特別命令を受けているのだ。会津に一番乗りするのだ」

 五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が、帯刀姿で、東叡山とよばれる広大な上野の山に入った。偵察中に、道に迷った。

 江戸城が無血開城、江戸は戦火もまぬがれていた。それなのに、新政府軍はなぜ上野戦争を仕掛けたのか。

 RCCラジオの放送はここらの疑問にも触れています。


【イラストをクリックすれば、RCCラジオ聴けます】
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神機隊の秘められたエピソード② = 阪谷朗盧、渋沢栄一

神機隊の秘められたエピソード② = 阪谷朗盧、渋沢栄一

「おのれ。大村益次郎め。敵兵は一人もいない甲府にまで、神機隊の大隊に足を運ばせさせた。会津にむかう神機隊への妨害行為だ。われらは神機隊自費で出陣しているのだ。広島藩への嫌がらせだ」
 神機隊の隊長たちは、江戸城の新政府の総督府に抗議に出向いた。大村に噛みついた。どこの国でも、隣りあわせは仲が良くないものだ。
「自費出兵の補填として6000両を出します。長州の蒸気船を貸与します。江戸湾から、房総沖を回り、平潟(茨城県)まで、お使いください」
 芸藩志の神機隊の金銭出納に、それが克明に記録されている。
 貸与された長州船に乗れば、汽缶の故障ばかり。太平洋上のかなたまで漂流してしまうありさまだ。

 平潟に上陸すれば、新政府軍がすでに上陸し、「いわき城」(福島県)の戦いが終わっていた。
            *

 日和見、臆病者といわれた広島藩が、関東まで来ても、勇敢に戦う名誉回復の場などなかったのだ。神機隊はいずれも屈辱感を味わっていた。

 磐城から先は白河から会津盆地に入るか。激戦が予想される仙台相馬軍と旧幕府軍の連合軍がいる浜通りを北上するか。神機隊はあえて激戦地を選んだ。
 東日本大震災3.⒒の東電原発事故の被害地の海岸沿いを北上していく。

 この浜街道がなぜ激戦地なのか。見渡すかぎり、広々した田園地帯で、身を隠す場所がない。敵が少しでも高台に陣取っていると、狙い撃ちされる。

 あいては旧幕府軍と仙台、相馬連合軍である。「奥羽越列藩同盟」軍である。幕府の元老中だった板倉勝静(いたくら かつきよ)、小笠原 長行(おがさわら ながみち)、安藤 信正(あんどう のぶまさ)が集結し、江戸奪還を狙っている。新撰組、彰義隊の残党もいる。推定約4000人の主力部隊がいると予想された。

 薩摩軍が危険な攻撃だと知り、巧妙に鳥取藩と入れ替わっていた。

 神機隊と鳥取藩兵は併せて約600人の兵だった。広野の戦いで相馬・仙台軍らと正面から激突する。
 日夜を問わず、相馬・仙台軍は攻撃してくる。連続する銃弾、大砲で煙硝が立ち込める。休ませてくれない激戦だった。

 鳥取藩が砲隊長の近藤類蔵が戦死する。鳥取藩が引いてしまった。神機隊280人がたった一隊で、旧幕府軍や仙台・相馬軍と戦う。敵兵の十分の一もいない。無謀な戦いだった。
「一度引けば、気迫が廃れ、恐怖心が勝り、立て直せない」
 神機隊は死も恐れず戦う。仲間が血を流す、即死する。武器や食料の不足をきたす。「銃弾が雨のごとく」という記載が残されている。

 広野の戦いでは、砲隊長の高間省三の戦略の奇策で、突破口を見つけ、丘陵に構えられた敵の陣地を奪う。それでも敵は無勢に多勢で、交代しながら、戦闘行為に及んでくる。
 睡眠不足で、空腹で、意識がもうろうとする。それでも、戦い続けた。

 やがて、新政府軍の第二次、三次と応援部隊が到着する。長州藩4個中隊(約800名)、福岡藩440名、岩国藩200名、久留米藩(不明)、津藩95名などである。相馬・仙台軍がやや退却ぎみになる。

           *


 神機隊の砲隊長の高間省三が奥州の「浪江の戦い」で、銃弾が頭部に貫通し戦死した。高間の死は強い衝撃を与えた。

 広島城下・山根町の聖光寺には明治3年の建立で、【高間壮士之碑】がある。恩師・阪谷朗廬の撰文である(漢文)。

『高間省三は、この日(慶応4年8月1日)に、大砲隊の部下らと盃を交わし、拳を闘わせて連勝したあと、能を優雅に舞いながら、
「かならず敵の大砲三、四門は奪ってみせる」
と謡いおわるや否や、大声一下、突撃を命じた。
燃えさかる高瀬川の橋をみずから先頭に立って突破し、敵砲台ひとつを奪った(敵陣に一番乗りした)。そして、次の砲台へと躍り込んだ。その刹那、顔面に敵弾を受けた』
 このような撰文で記されている。

      *

 明治26年に発行された、『軍人必読 忠勇亀鑑』には、日本武尊、加藤清正、徳川家康らとともに英雄に列せられている。戊辰戦争で取り上げられたのは、西郷隆盛でも、板垣退助でも、大村益次郎でもなく、藝州広島藩の高間省三のみである。

 高間省三は満二十歳にして広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。この神社は初詣客として中国・四国地区で最も多い。広島カープの必勝祈願で名高い。
 初詣客にきた人に、「この神社の高間省三は御存じですか」と聞いても、どのくらい答えられるのだろうか。

「高間壮士之碑」の撰文を書いた阪谷朗盧は、幕末からの著名な開明派の学者だった。備中・井原は一橋徳川家の領地だった。そこに創立された興譲館に招かね、阪谷朗盧は初代館長となった。
 高間省三は18歳で、芸州広島藩の学問所の助教だった。先輩の頼山陽も同校の助教をつとめながら、「日本外史」を執筆している。頼山陽は20代後半だった。18歳の高間がいかにエリートちゅうのエリートだったわかる。
 その高間省三は、明確な年月日の資料がないけれど、少なくとも慶応3年には井原の興譲館の阪谷朗盧に学んでいる。
 高間は学問所で洋学(英語)を習っているし、武具奉行の父が購入してくれたイギリス製の手帳を戊辰戦争のとき持っていっている。遺品として広島護国神社に奉納されている。
 父子の考えで、遊学先として開明的な学者として阪谷朗盧を選んだのだろう。

           *

 当時の一橋家の家主といえば、幕末史のど真ん中にいる徳川慶喜である。
 孝明天皇は安政の通商条約を白紙に戻し、「横浜港の鎖港」という攘夷の方針を取っていた。慶喜は実父の水戸斉昭の尊王攘夷論を引き継いでいた。その方向で、幕府の外国奉行をフランスに送り込んでいるくらいだ。


 一橋家臣となった渋沢栄一の勧めで、慶応2年、阪谷朗廬は京都にいる一橋家の慶喜に拝謁したのだ。阪谷はそこで勤皇開港論を説いた。

『欧州がこんにち日本に和親・通商を望むのは、往年の旧教派の侵略主義ではありません。日本がいつまでも攘夷主義を唱え、外国を排除するのは間違っています。夷人を恐れることは、『人を見れば、泥棒とおもえ』という諺に似ています。ここは異国人を排除するのでなく、通商すれば、国が開けて豊かになります』
「わかった」
 理解力の優れた聡明な慶喜だ、従来とは真逆の方向に動きはじめた。
 孝明天皇が京都に近いという理由で兵庫湊(神戸港)の開港に反対していた。「兵庫開港問題」である。慶喜は欧米に期限付きで開港すると約束した。さらに、日米修好通商条約をはじめとした「安政五カ国通商条約」の勅許を、孝明天皇から得るのだ。ここに安政の大獄、井伊直弼の暗殺、下関戦争など、動乱つづきの根本の通商条約が突如として解決したのだ。

 慶喜がなぜ開国に方向転換に計り、孝明天皇がそれに乗ったのか。歴史ミステリーだった。当時から不可解な慶喜の行動だった。長州藩の木戸孝允すら、「慶喜は家康の再来だ」と言わしめるほど、そこから幕末史がおおきく動いた。

 慶応2年に、阪谷朗盧と徳川慶喜が京都で対面する場を作ったのが渋沢栄一である。そして、鎖国主義だった慶喜が急に開国に舵を切った。
 阪谷朗盧の存在を知らなければ、慶喜の180度の方針転換は読み取れない。阪谷朗盧を語らずして、幕末史の終盤は理解できない。上滑りだと言っても、過言ではないだろう。

 慶応3年には、高間省三が井原の阪谷朗盧の下に留学している。
 この年に、 27 歳の渋沢栄一は、15 代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)の弟・ 水戸藩の徳川昭武(あきたけ)に随行し、パリの万国博覧会で渡航する。

 高間省三とすれ違いか。あるいは一度くらい顔を合わせた接点はないだろうか。そんな興味で、歴史取材しているが、裏付けの資料は発見できていない。

 高間省三が「浪江の戦い」で戦死した。翌年の慶応4(1868)年8月1日である。開明派の学者の阪谷朗盧は、同年に芸州広島藩の藩学問所(現修道学園)の主席教授として迎えられている。
 
 阪谷朗盧が、書生時代の高間を可愛がっていたとしても、おかしくない。高間省三は阪谷朗盧から、きっと十五代将軍慶喜の素顔、思想、性格などを聞いているだろう。
 
            *

「今年はパリ万博に出向きます。2年前に、笠岡の鯛網は楽しかった。もう一度、楽しみたいものです」
 仮定の話だが、渋沢が井原の阪谷朗盧を訪ねてきて、そう語ったとする。
「パリで資本主義の経済を学ぶといい。送別会は、ちょうど春ですから、2年前のように笠岡に出向いて鯛網を楽しみましょう。興譲館の書生を連れていきましょう」
 興譲館の書生となれば、高間省三かもしれない。2年前の鯛網は大漁だった。そのときのように、捕れた鯛を肴して渋沢、阪谷、高間らは酒を酌み交わす。すこぶる上機嫌で、日本の将来を語る。
 こんなエピソードがあると、歴史も面白くなる。

神機隊の秘められたエピソード① = 上野戦争に参戦か、拒絶か

 幕末の芸州広島藩といえば、近年、神機隊が知れ渡ってきた。
 第二次長州戦争(慶応2年・1866)において、広島藩は非戦をつらぬいたが、幕府軍と長州軍の双方の戦いで、広島藩領の大竹から廿日市の領民らが大惨事をこおむった。

「われら武士は、農民から生活の扶持をもらいながら、民を助けられなかった。民の生命と財産を守れる、精鋭の軍隊を作ろう。軍律は厳しく、秩序を保ち、訓練された部隊だ」
 広島藩の学問所のOBたちと、草莽の志士たちが立ち上がり、精鋭部隊の神機隊を結成した。それは慶応3年の夏だった。
 薩長芸軍事同盟が結ばれるなど、まさに幕府が瓦解していく動乱期であった。

 戦争には後世に伝わるエピソードが残るものだ。

         *

 慶応4年5月の上野戦争では、神機隊の五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が敵陣に迷い込んだ。藤田太久蔵小隊長は天性の機智で、巧妙に脱出している。
 東叡山寛永寺の輪王寺宮(一説に東武天皇)が、戦火のなかから巧妙に消えた。総督府の大村益次郎から、神機隊には探索が命じられた。しかし、長々と雨が大量に降り続いており、道路は陥没し、輪王寺宮は捜しきれなかった。

            *
 小田原戦争、箱根戦争、飯能戦争などが起きたのだ。

『林昌之助(下総・請西藩の藩主)が箱根に立て籠もり、小田原城を下し、甲府城を取り、奥州賊軍と相応して官軍に抗せんと謀る。神機隊は甲府に派兵せよ』
 命じられた甲府における残党狩りに尽くしても、芸州広島藩の名誉回復の戦いなどあり得ない。神機隊のだれもが渋々だった。神機隊の主力部隊が甲府城へとむかった。(後でわかるが、敵兵は誰もいなかった)。


忍城 (埼玉県)

『藝州藩は50人の兵士を武州の忍城(おしじょう)に出張して、同藩を監督できる、「軍監」ひとりを推薦してほしい』と大総督府参謀から、依頼書きた。

 忍藩はかつての譜代大名で、徳川幕府の名門だった。ペリー提督の黒船が来航したとき、江戸湾の房総の守りの要だった。
 幕府が瓦解しても、藩士らには佐幕派が多く、忍藩はまだ新政府に恭順していない。それゆえに、今後において元幕府軍らと手をむすぶ可能性が高い。

「総督府から、忍藩に恭順を促す詔書をとどける」その役も兼ねていた。同藩を監督できる「軍監」として、小隊長の藤田次郎が選ばれて、忍藩にむかう。途中で、早馬がやってきた。
「もうしわけない。忍藩にとどける詔書のあて名が、川越藩主だった。間違っていた」
「バカバカしい」
 神機隊の藤田小隊などは苛立っていた。

 総督府から、忍藩が恭順したら、それら忍藩兵を引き連れて、飯能戦争の支援にむかってほしい、という。

           *

 上野戦争の直前に、渋沢誠一郎(喜作、渋沢栄一の従兄弟)は、尾高新五郎(渋沢栄一の妻・千代の兄)らと上野を脱出し、新たに振武軍(しんぶぐん)を組織していた。
 敗北した彰義隊の残党を吸収し、振武軍の総勢は約1500人になっていた。慶応4年5月18日に、飯能村(埼玉県)の能仁寺に移り、そこを本陣としていた。

 神機隊の小隊長・藤田次郎が忍藩を引きつれて5月23日の夕方に飯能に着けば、昼前に新政府と振武軍の戦争の決着がついていた。
「ここでも、出遅れたか」
 神機隊は自費で出兵しながらも、広島藩の強さなど、関東でなにも見せられていない。神機隊の主力部隊はすでに甲府にむかっている。後から追うにしても、小隊長・藤田次郎たちはこの日、越生村(埼玉県・越生町)法恩寺(ほうおんじ)を陣にした。

           * 

 振武軍の落ち武者は、いくつかの集団に分かれて逃走している。神機隊は越生の宿泊地の周辺や、黒山三滝あたりの探索をしてほしい、と依頼がきた。
「また、落ち武者狩りか。武勇には関係ない」
 藤田たちは不満に満ちていた。
 江戸城・総督府の大村益次郎が、広島藩が先に会津に入られると困るので、無駄な役目を与えているのではないか、と疑いはじめた。

           *

 現在、埼玉県の郷土史家において、『飯能戦争といえば、渋沢平九郎』といわれるほど、研究がすすんでいる。
 渋沢栄一が、パリ万博へ出席する慶喜の弟・清水昭武の随員としてフランスへ渡航することになった。当時の幕府の規則で、妻の弟・平九郎を渋沢家の見立養子にしていた。

 帰国した栄一は、養子の渋沢平九郎が、飯能戦争で死んだとわかった。悲しみ、徹底して調べさせた。それらも起因しているのだろう、現代でも渋沢平九郎の研究者が多い。
 剣の達人だった平九郎の死は悲劇として演劇、歌舞伎にもなっている。

 取材してみると、広島側の資料と、埼玉側の資料は微妙に違っている。

埼玉側の資料

 渋沢一族が幹部の振武軍(しんぶぐん)は、飯能戦争で半日で新政府軍に破れた。副将の22歳の渋沢平九郎は仲間とはぐれてしまった。
 秩父山地の顔振峠(かあぶりとうげ)にきた。茶屋の老婆から熊谷へ抜ける道をおそわった。
「そんな武士の格好だと危ないだ。大勢の官軍が越生村にいるだぞ」
 老婆の話をききいれて、九郎は大刀を茶屋に預けたうえで、変装してから越生への道を下っていく。黒山村(三滝で有名)で、新政府軍(神機隊)の斥候3人に遭遇したのだ。

 平九郎は神官だとごまかしたが、神機隊の斥候に見破られた。剣の達人の平九郎は、神機隊の2人を斬る。しかし、銃弾を一発を受けてしまった。
 3人の官軍は援軍を呼びに立ち去った。この間に、平九郎が石の上で自刀する。

           *
 
 慶応4(1868)年戊辰5月23日、武蔵国比企郡安戸村に、宮崎通泰という医者がいた。より信ぴょう性の高い証言をしている。
 官軍(広島藩・神機隊)の要請に応じて、入間郡黒山村に出向いた。そこで、軍士3人の創傷を治療した。
「なぜ、こんな大怪我をしたのか」と宮崎が医師として状況を訊いた。

 『澁澤平九郎昌忠戦闘之図』

医師の宮崎が、この絵の下に解説文を添え書きしている。
『かれら3人は官軍・神機隊の斥候で、黒山村(黒山3滝の近く)で、徳川の脱走兵士の一人が変装し、下山している男と出会った。
 糾問(きゅうもん)すると、飯能から脱走してきた兵士だとわかった。平九郎は佩(おぶ)るところの(携帯する)刀を抜いた。甲の一人を斬り、振り返って乙の一人を傷つける。
(絵はこの瞬間である)。
 また、転じて丙の一人を討った。甲は斃(たお)れた。(死んではいない)。乙と丙は逃げ走り去った。脱走の士は路傍の盤石にうずくまる、屠腹(とふく)(切腹)して死んでいた。

 その武勇は歎賞すべしといふ。すなわち、その時の状況を図に表し、また、平九郎の懐中にあった、歌および八時を写し、帰り道で、男衾(おふすま)郡畠山の丸橋一之君に逢う。君之を乞いて、家に蔵し、人に示し、これを話して歎賞す』

 十数年が経ったあと、榛沢(はんざわ)郡の斉藤喜平にもおしえると、その脱走兵士は地元の尾高平九郎とわかった。
 平九郎は渋沢栄一翁の養子だった。徳川幕府に仕えて、一年にして、戊辰の変に遭遇している。彰義隊に入り、閏四月二十八日に紙障に歌を書いていた。

   惜しまるる時ちりてこそ世の中の人も人なれ花も花なれ

   いたずらに身はくださじなたらちねの国のために生にしものを

   夏日夕陽 渓に臨んで氷を得たり

 自刃した平九郎の首が、法恩寺門前の立木に晒(さら)された。

 宮崎医師の証言とは別に、越生の旧家からも、さらし首の図が見つかっている。それによると、梟首(きょうしゅ)は越生の法恩寺でなく、徳田屋の脇の立木らしい。

           *
 
 現代の感覚でみると、「さらし首」は残忍な行為である。平九郎のさらし首にたいする批判の文献は、埼玉県において実に多い。
「恥ずるべき、断じて許せない行為だ」
 切腹した副将の屍骸の首を刎(は)ねるとは、言語道断だというものだ。

「名も知らない死を晒すとは、武士道に反する」
 晒し首に対する怒りだ。
 
 明治時代に入っても、大久保利通は江藤文平(法務卿・法務大臣)を梟首させている。
 第二次世界大戦でも、日本軍は武勲として、敵の大将クラスの首を日本刀で刎(は)ね、公衆の面前に曝(さら)し、敵への警告代わりにしている。

 戦争は残忍だし、人間を狂気にする。地元贔屓(ひいき)なのか、ややヒステリックな批判ともいえる。

            *
 
 渋沢平九郎の亡骸(胴体)は、黒山村の全昌寺(ぜんしょうじ)、頭部は寺僧が法恩寺の林に埋められていた。『脱走(だっそう)のお勇士(ゆうし)さま』として、村人たちが寄り合い涙をながしたという。

 渋沢栄一が、平九郎の遺骨を東京・谷中墓地に移し、上野寛永寺で法要をおこなっている。

            *

 芸州広島から自ら意思でやってきた神機隊は、上野戦争を含めて関東の戦いで、さしたる成果もなく、自費の軍費をひたすらムダに浪費しただけである。
 上野戦争では輪王寺宮を捜しだせず、忍藩に行っているうちに飯能戦争は終わっていた。甲府に出むけば、敵はひとりもいない。
 神機隊の小隊長・藤田次郎の約50人が、陣をはった越生村から斥候たちが、山奥に残党刈りに出ていくと、渋沢平九郎と遭遇する。平九郎は剣の達人だった。隊員が三人が小刀で傷つき、陣から応援部隊が駆けつければ、平九郎はすでに自刃で死んでいた。

 神機隊としては、好き好んで殺したわけではない。

 渋沢平九郎の「さらし首」の汚名が現代まで、埼玉人たちに怒りで語り継がれているのだ。まさに貧乏くじだろう。

広島側の資料
 

 日清戦争の前夜ともいうべきか。明治26年になり、渋沢栄一は大本営があった広島にやってきた。宿泊所したのが、元神機隊員の長沼主悦助が経営する旅館だった。

 渋沢栄一(男爵)は、妻の弟で、養子の平九郎と広島藩の軍隊との遭遇から、事実解明をもとめた。それは「回天軍第一起神機隊」の精鋭部隊だとわかった。
 広島藩の浅野藩主から任命された正規の藩兵ではなかった。神機隊は義勇同志の結束で、戊辰戦争の参加した稀有の存在だった。
 
 渋沢翁は実質的に総隊長といえる川合三十郎と面談した。
「平九郎の死はどんな状態でしたか」
  川合三十郎はこのとき浅野家史「芸藩志」(げいはんし)300人が編纂する責任者だった。

「私・川合三十郎は、神機隊の主力を率いて、飯能戦争には立ち寄らず、甲府城に出むいていました。くわしい事情は、忍城から分遣隊長となった藤田次郎が知っております」
 渋沢栄一が藤田次郎と面談した。
「当日の夕方、神機隊の小目付だった長沼主悦助(神官出身)たち6人を斥候に出ました。(埼玉側の資料は3人)。黒山村で貧しい身なりに変装した士(平九郎)と遭遇しました。生け捕るつもりだった。いきなり相手から斬りつけられた。壮烈な勇士だ、と長沼から聞きおよんでいます。この旅館の主は長沼で、最初にでた斥候のひとりで事情をよく知っていますよ」
「それは奇遇です」
 この長沼は旅館業、海運業、鉄道事業、電気工事業など各種事業の経営にあたり、広島財界の重鎮だった。
 元サッカー選手・日本代表選手、元日本代表監督の長沼健が孫にあたる。

「男は遭遇した際、武士ではござらぬ、神主です、と偽ったのです」
 当時の長沼は神官であり、いくつかの尋問で、奴は嘘をついたと見破ったのだ。

 見抜かれたと判ったのか、突如として小刀で襲いかかってきた。腕が立つ相手で、神機隊の斥候6人ちゅう3人が傷ついた。長沼もその一人だった。神機隊の無傷の者が銃を放ちながら、皆して負傷者を抱きかかえ、越生の陣までもどってきた。
 
 長沼たち斥候の報告で、藤田次郎も含めた神機隊の大勢が黒山村に駆けつけた。

 渓流の脇にある盤石の上で、平九郎はすでに切腹していた。

「その屠腹(とふく)の状態は、落ち着いてあわてず、天晴な技でした」
 藤田次郎は渋沢栄一にそう述べている。
 この藤田は東京上等裁判所の検事、立憲改進党の結成、衆議院議員二回、山陽鉄道の社長を歴任している。

 切腹に使った小刀は、藤田次郎から実質的な総督ともいえる河合三十郎の手にわたった。

「小刀の装飾はみるからに実用的でした。替目釘(かえめくぎ)を使った名刀でした。この武士は尋常でなく位の高い人だろう、と推察しました。
 譲り受けた私・川合三十郎が、愛蔵の品として、幾く星霜(せいそう)、つねに磨き、座右においておりました」
 河合はその小刀を渋沢栄一に返還した。

「切腹の刀が遠く広島にわたり、川合どのの手で、ていねいに保管されておりました。平九郎はあの世でも、冥利だと喜んでいることでしょう」
 渋沢栄一翁(男爵)は、当世、稀(まれ)にみる士だと川合を褒め称えている。

           *


 私が出版した「広島藩の志士」(二十歳の炎・改題)は、第二次長州戦争前から戊辰戦争までで、明治時代は組み込んでいない。渋沢平九郎の小刀が広島にあるまで、筆を運んでいない。

  NHK大河ドラマ「青天を衝け」で、渋沢平九郎が自刃するシーンがある。渋沢平九郎の小刀の行方まで追っていない。
 広島藩からどのように返還されたのか。渋沢平九郎ファンにとっては、まさに謎に満ちているようだ。その実態は殆ど知られていなかった。私が取材で得たものを歴史的な事実として、ここに公開した。
 
                      【つづく】

 写真は一部ネットを利用させていただきました。

私はなぜ歴史小説を書くのか=あくどい人間をいつまでも英雄にしておかない

 十年一昔のことわざ通り。この『穂高健一ワールド』の掲載数は約10年間の累積が2730の掲載に及んでいる。(HPは10年目のメンテナンスで、ここ1か月間ほど掲載が止まっていました)。

              *
 
 私の記事のみならず、多くの寄稿作品から成り立っている。読者が、『穂高健一ワールド』を利用してもらう場合には、トップ画面の「サイト内検索」で、キー・ワードを入れてもらえば、数分以内で呼びだせる。
 寄稿者ならば、自分の名前を入れると、過去の掲載作品が一瞬にして表示される。

 歴史に興味ある方だと、事件名、人物名、地域名、あるいは歴史用語などを「サイト内検索」に入れて左クリックすれば、その関連の記事が列記される。

              *

 「歴史」とは過去の事象を描くもの。しかし、裏を返せば、新発見とか、新しい切り口とかで、従来の史観がちがってくる。

「歴史」は時代とともに進歩しているといえる。その面でいえば歴史は、科学や医学の進歩とおなじかもしれない。

 このHPに掲載した歴史関係は、この10年間の流れのなかで、多少なりとも内容が違ってきている面もある。それは新たな取材の裏付け、思いもかけない新発見の史料による歴史の進化があったともいえる。
 ただ、私のテーマは変わっていない。「あくどい人間をいつまでも英雄にしておかない」という信念と信条は変わっていない。

            *

 約10年ほど前のある日、山口県内の著名な博物館を訪ねた。坂本龍馬の取材で、歴史学者に話を聞いていた。1時間ほど経った。
「長州は、倒幕に役立つ藩でなかったんですよ。萩と長府の分裂で、長州藩内は殺戮の内乱の連続だったんですよ。明治なるまで、藩論統一はできなかった」
 私はえっとおどろかされた。

 その後、調べてみると、長州が幕府に勝ったという第二次長州戦争のあとも、毛利家は朝敵のままだった。これでは倒幕など足も、手も出ない。調べてみると、毛利藩主・世子や長州藩士らは隣の芸州広島藩にすら足を運べなかった。
 木戸孝允ら長州の幹部が広島藩との打合せにいくことすら、幕府の厳しい目があるために容易ではなかった。広島藩世子・浅野長勲(最後の大名)が船に乗り宮島詣でカムフラージュし、新岩国港まで迎えに行かざるを得なかった。
 慶応3年12月9日の小御所会議まで、約一年間、毛利家の家中が京都に足を踏み入れば、新選組、見回り組に斬り捨てられる状況だった。

「長州藩は倒幕に役立つ藩でなかった」
 それは歴史的事実だった。なぜ「薩長倒幕」という用語になったのか。後世の歴史学者のねつ造か。

 それを深く掘りさげると、芸州広島藩浅野家の「芸藩志」(げいはんし)に出会った。実態は薩摩と芸州広島による「薩芸倒幕」と行きついた。そして、「広島藩の志士」(二十歳の炎・改訂版)を出版した。

 ここから、私は幕末史の通説を信用しなくなった。
     
            *

 有名な黒船来航においても、通説では、徳川政権の交渉団は弱腰であり、ペリー提督に蹂躙(じゅうりん)された。それによって、わが国は鎖国を放棄し、いやいや開国されたというものだ。
 この定説が教科書にまで採用されて、明治、大正、昭和、平成、令和の現在まで、大手を振ってまかり通っていた。俗にいう、薩長史観である。

 その根拠は「ペリー提督日本遠征記」である。外国に遠征した軍人たちは、不都合なところは隠し、わい曲した自慢話ばかりである。
 明治の御用学者は、薩長閥の政治家たちをヒーローにし、一方で、西洋コンプレックスからアメリカ側の史料をう呑みにしている。黒船の 乗組員の日記・覚書を中心にした「ペリー提督日本遠征記」が我が国の学説の根拠にしている。かたや、幕府側の史料は完全に無視だった。

 当時の徳川家の狩野派などは、世界に通用する繊細な肖像画技術を持っていた。しかし、おもしろ可笑しく人の気を引く「かわら版」のペリー提督の鬼のような似顔絵を教科書に採用されている。

 1853年の「黒船来航」から約160年経った現在、日本側の外交交渉団の『墨夷応接録』(ぼくい おうせつろく)が世に出てきた。
 幕府の交渉団は、アメリカ大統領の国書の扱い、アメリカ側の通商要求などつよく拒否するなど、結果からみた歴史的な事実とぴたり符合できる。

「幕府は弱腰ではなかった。かれらはペリー提督の要求を論理的に、ことごとく打ち砕いていた」
 私たちの想像をはるかに越える幕府の外交は知的な集団だった。

              *

 
 ペリー来航以前においても外国船の来航が数多くあった。イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ベルギーなどの来航が、当時の外交政策におおきな影響を与えている、と私は知った。

 徳川幕府の重要な史料『墨夷応接録』から、私は阿部正弘を追ってみた。日本側の歴史書は信用ならないと、さらに外国側から資料をあさりはじめた。
 オランダの「別段風説書」などすべて目を通した。冒険家マンドナルド(長崎で、通事に英語を教えた)も、貴重な資料を残している。
 さらにジャワやアジアで発行されている英字新聞なども漁った。グーグルの翻訳サイトを使えば、無料で膨大な英字新聞すら数秒で日本語になる。
 「てにをは」はあやしげだが、私は作家であるし、文意は難なく読み取れる。
 発刊した『安政維新』(阿部正弘の生涯)は、これら外国資料と『墨夷応接録』で組み立てている。

          *
 
 私は、薩長史観が幕末英雄を鼓舞した軍事思想になったと、嫌悪に似た感情を持っている。薩長閥の政治家は、教育で軍国少年を作り、「お国のために戦う」と命を投げ捨てる兵士を作り上げた。日本の近代化という名の下に、大陸侵略へと手を伸ばしていった。

 日清戦争、日露戦争、満州侵略、日中戦争、太平洋戦争へと悲惨な結果へとつながった。太平洋戦争だけでも、320万人の戦死者を出した。近隣諸国を含めると、千数百万人の犠牲となった。
 元を正せば、御用学者が作った薩長史観が、悲惨な戦争への道になった。

 令和3年の今、太平洋戦争から77年が経つ。明治新政府の軍事教育から150年が経った。
「150年前の罪だから、忘れてしまったともよい、ということにはならない」
 私たちは人間としてやってはならない倫理、道徳の面で、過去の英雄を裁判にかける必要がある。
『あくどい人間を、いつまでも英雄にしておかない』
 その執筆精神は大切にしておきたい。来年8月から、私は新聞連載のしごとが入っている。無抵抗な市民を殺戮し、政権の座を得た人物は英雄の座から引き下ろしたい。 

「広島藩・神機隊」 歴史は後からつくられる、真実は後から消される=上野戦争

 私が著作「二十歳の炎」を出版したのが、2014年6月だった。
 2011年3月11日の東日本大震災で、三陸海岸が大津波の惨事に遭った。取材で福島県いわき市、広野町などに出向いた。東電原発被害があった一帯に、広島藩の墓を見つけた。

「なんで、明治元年(慶応4年)広島藩の墓があるのだろう」
 その疑問から出版まで、約3か年を要している。

 当時は、広島に足を運んでも、「原爆で史料がありません」というオウム返し。ただ、雪降る福島や会津に出向けた。郷土史家たちから、広島藩が西軍としてきたという多少の資料があった。広島地区をかなり歩いて、広島藩・神機隊という名前が浮上してきた。

 広島の藩兵でなく、若者たちが立ち上げた独自色の強い軍隊だった。やがて、神機隊の研究者だった武田正視(呉市)から『浅野家・芸藩志』の存在をおしえられた。

 同家史は、明治後半に完成したけれど、薩長閥の政治家により、自分たちに不都合だと言い、封印されていた。やがて昭和52年、東京の出版社が「芸藩志」全26巻という膨大な量を発行していた。わずか300部の発行だった。
 東京から全国に散っており、広島ではほとんど見かけなかった。運良く、東京中央図書館に全巻が置かれていた。その芸藩志を読み込んでみると、幕末の広島藩が克明に浮かび上がる貴重な資料となった。

 神機隊の320人が奥州戦争に自費で出兵していく。そこを作品化したのが「二十歳の炎」(改題・広島藩の志士)だった。
 同書のなかで、大きな疑問の一つが慶応4年5月15日の上野戦争だった。神機隊の約280人が上野戦争に参戦しているのに、あらゆる幕末関係の歴史書、歴史小説において広島藩がまったく登場しないのだ。なぜか。不可解だった。

「大村益次郎が立てた戦略図面にも、広島藩の存在がない。なぜだ?」
 芸藩志のなかでは、上野戦争で、飛鳥山(東京都・北区)に陣を張っているし、彰義隊の逃亡兵を幾人かつかまえている。軍隊として成果がゼロでもない。
 その不可解さが解明ができないまま「二十歳の炎」を芸藩志に近いところで、書きあげた。


京都・御所で、神機隊が「奥州鎮撫使応援」の命を受けた

 神機隊は、広島藩に320人の脱藩届を出してまでも、自費で奥州戦争にむかった。それも勇気がいることだ。神機隊は大坂の広島藩の藩邸で、浅野家世子・長勲の労で、京都に挙がり、朝廷か「奥州鎮撫使(ちんぶし)応援」の命を受けた。そして、大阪の湊から奥州にむかう。機帆船が舵のトラブルから、江戸湾の品川湊に一時寄港する。
 隊員らは上陸し、浅野家の菩提寺の泉岳寺(忠臣蔵で有名)を宿所としていた。
 
 江戸城の開城で、徳川幕府から新政府軍に渡っていた。神機隊の代表が江戸城に挨拶に行くと、大村益次郎から、上野戦争の参戦を要請されたのだ。
 長州藩の大村益次郎は、新政府に出向する徴士(ちょうし)で、上野戦争の戦略・戦術のプランナーだった。上野山の北側に位置する王子方面に陣を張ってほしい、と依頼された。
 
 かれらは泉岳寺に,その話を持ちかえった。神機隊は総督をおかず合議制だった。

「バカバカしい。長州の奴らの頼みごとなど聞けるか。鳥羽伏見の戦いあと、広島藩の名誉を失墜させた。......、広島藩は幕府にも色目を使うコウモリだ。風見鶏だ。日和見だと京都で罵詈雑言のうわさを流した。それが長州の品川弥二郎たちだ」
 その噂への怒りから、広島藩・神機隊は自分たちの強さをみせてやろうじゃないか、そして名誉回復のためにも、と自費出兵してきたのだ。

「よりによって長州の大村ごときの頼みで、上野戦争に加担などする必要はない。われわれ神機隊は朝廷から、会津を恭順させよ、と特別命令を受けているのだ。会津に一番乗りするのだ」
「そうだ。その通り」
「江戸で寄り道などできるか。それに、奥州に行くまえに、神機隊の戦力を消費してしまうのは考えものだ」

「そもそも、江戸城は約1か月前に無血開城しているのだ。なにも2か月後(閏月が入る)に、上野の彰義隊を壊滅させる必要があるのか。大村は腹の底で、なにを考えておる。慶喜公の一橋家の家臣が彰義隊を立ち上げたというではないか。大村がいうように、彰義隊はほんとうに賊徒なのか。どうも解せない」

「結論をだすまえに、いちど彰義隊を偵察してみよう。拙者が行ってみよう」
 五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が、帯刀姿で、東叡山とよばれる広大な上野の山に入った。偵察中に、道に迷った。
 かれは大勢に取り囲まれた。

「早まるな。拙者は広島藩の浅野家家中のものだ。隊長に取次ぎをしてもらいたい。長州戦争のとき、幕府軍が広島に参集した。海田市で陣を張っていた時の隊長が、もしやこちらにいないかと思って、訪ねてきたのだ」
 藤田は有名な奇才だった。彰義隊の小隊長のまえに案内してもらった。


 広島県海田町の皆さん  越後高田藩が長州戦争で陣営をおいていた
 
「貴藩(広島藩)の海田市で、我が隊は八か月間にわたり、お世話になった。長州との戦闘がはじまると、弊藩は犠牲者も多く出した。貴藩には寺院を斡旋してもらい、死者をていねいに葬ってもらった。あらためて、お礼をいう」

「第二次長州討伐は、わが広島藩は戦争回避だった」
「よく存じております」
 意気投合した。ふたりの話題が慶応三年の大政奉還、同年12月9日の小御所会議へとすすんだ。 

京都御所・小御所会議

「われら彰義隊は、幕府側からみれば、薩摩藩の大久保、西郷の罠(わな)だとおもっておる。慶喜公を参列せず、王政復古派は幼帝(のちの明治天皇)を担ぎ上げる。新しい王政復古の政権が誕生すると、こんどは徳川家に辞官納地せよ、という。でたらめだ」

「わが広島藩浅野家の浅野長勲公、執政(家老職)の辻将曹が、その小御所会議に参列した。しかし、その後は、大久保、西郷の動きが怪しい、これは私的な動きだ、島津幕府を狙っておると、辻将曹や長勲公が薩摩藩と距離をおきはじめた」
 それは鳥羽伏見の戦いが起こるまえだった。

 大久保利通と西郷隆盛は、公家の岩倉具視としめし合わせて、徳川家に約800万石の領地を朝廷に返上させる。それをもって新政府の費用をまかなう、と強引に押してきたのだ。かといって、大久保は島津久光に77万石を朝廷に返上してほしい、と口が裂けても言えない。

「慶喜公は大久保・西郷の悪質な陰謀だと見抜いたのでござる。小御所会議のあと、辞官納地の要求だ。徳川家だけが、王政復古政権に領地を返上するのはおかしい。なぜ、徳川家だけに犠牲を強いるのは不公平だ、という慶喜公が怒るのはわかる。ここから旧幕府側のわれらは、慶喜公の怒りをくみ取り、薩摩がほんとうにを許せなくなった。打倒薩摩藩となった」
 彰義隊の小隊長の説明にたいして、藤田太久蔵(たくぞう)は理解をしめした。
 

 彰義隊の小隊長は、さらにこういった。
「大政奉還のあと江戸や関東周辺で、薩摩藩の狼藉、放火がはじまった。江戸警備の庄内藩の屯所に銃弾が撃ち込まれた。(現代でいえば、テロリストが警視庁に銃弾を撃ち込んだのと同じ。)。幕府側は堪忍袋の緒が切れた。薩摩藩をつぶせ、もはや『討薩』が合言葉になった」
 
 勘定奉行の小栗上野介らが、薩摩藩の江戸藩邸を焼き討ちした。海軍をつかって逃げる薩摩藩士を追う。このとき旧幕府と会津藩は、朝廷に「薩摩藩を討つ」という許可をもらうための「討薩の表」を持って京都にむかった。
 そして、華城(大坂城)の慶喜の許に立ち寄った。
 華城(大坂城)/秀吉が築城する 写真=ネットより

 二条城から、慶喜が華城(大坂城)に移っていた。討薩軍らの幹部は、面会した慶喜公から、朝廷から薩摩征討の許可が得られるまで、戦争をしてはならぬ。討薩の許可が出ても、『京都で、銃を放つな。朝廷に銃をむけた『禁門の変』の二の舞いにもなりかねない。一つ間違えると、朝敵になってしまう』と指図した。
 
 鳥羽伏見街道で、薩摩側からふいに攻撃が仕掛けられた。双方で戦闘になった。加担したのが長州、鳥取、土佐、岡山、徳島藩である。


 広島藩の執政(家老)辻将曹は、『これは会津と薩摩の遺恨だ、私闘だ』と言い、広島藩兵に銃を撃たせなかった。前線部隊から辻将曹のもとに、戦わせてほしいと、なんども要望があがってきていたけれど。
「ならぬ。勝てばよいが、もし劣勢になれば、戦闘の舞台が京都に移ってくる。そうなれば、禁門の変の二の舞いになる。朝敵・長州の二の舞いになる」
 それは広島藩、浅野家を守るためでもあった。
 京の都の市街戦を回避する点では、辻将曹と徳川慶喜公と考えがよく似ていた。
 

 この間に、元幕府海軍が兵庫沖で、薩摩海軍を砲撃し、制海権を奪った。旧幕府軍は大阪の薩摩屋敷を攻撃した。そして、慶喜らは蒸気船で江戸に帰っていった。その際、新政府軍には大阪城を無傷で引き渡すな、と指図していた。
 そして、3日間の間に、幕府は金銀や重要書類を榎本武揚海軍で運び出していた。尾張・越前の立ち合いで長州(徳山・岩国)への引き渡式は見せかけであり、当日、智将の旗本(大目付)の妻木頼矩(よりのり)が火薬庫を大爆発させたのだ。
 大久保・西郷らは土壇場で、薩摩屋敷の江戸屋敷からはじまって大坂屋敷も焼かれるし、蓄財をあてにした華城(大坂城)も全焼し、一泡食わせられてしまったのだ。

 慶喜、板倉勝静(かつきよ)、松平容保(かたもり)、松平定敬(さだあき)らは品川にたどり着いたが、王政復古政権から、いずれも朝敵になった。そして、歴史が動き、東征軍が江戸にむかった。そして、江戸城の無血開城となった。

「われら彰義隊は慶喜公を守り、と同時に江戸の治安を守る治安部隊です。賊徒など、言いがかりだ。腹立たしい。憎きは薩摩です」
「わかりました」
「広島藩が敵とは思っておりません。神機隊の皆さんに、そうお伝えください」
 彰義隊の小隊長が東叡山の出口まで、見送ってくれた。
 
 五番小隊長の藤田太久蔵が、泉岳寺に帰ってきた。

「神機隊が大村の要請で、参戦せず、江戸を素通りして奥州の会津に行ったとなれば、広島藩はまた逃げたともいわれるだろう。陣地は上野山の裏手の王子(東京都北区)だ。逃亡兵をつかまえる役だ。神機隊は飛鳥山に陣を張っていよう」

 神機隊は意見を統一し、上野山の戦いに参列した。

 彰義隊は1日で壊滅した。

 翌日には、総督府から神機隊に、輪王寺宮さまが家来を随行させて尾久村に落ちている。探し出して、江戸城にお供せよ、として命じられた」
 神機隊は豪雨のなかで、農家や林間を探す。しかし、輪王寺宮は見当たらなかった。輪王寺宮の所在もわからなかった。その実、奥州まで落ち延びていたのだ。

 芸藩志は次の舞台の飯能戦争にむかう。


 
 彰義隊の墓(東京・上野) 写真・ネットより

 歴史は後からつくられる。この上野戦争を検証する切り口は幾つかある。
 
① 薩摩藩の大久保が岩倉具視と西郷隆盛に謀って、徳川家のみに800万石の領地を返上させるという陰謀がなければ、歴史はどうなったか。

② 大政奉還のあと、薩摩藩は江戸騒擾というテロ活動を2か月もつづけた。江戸市民は恐怖のどん底に落ち込んだ。当時も現代も、無抵抗な市民の命と財産を奪うことは、道徳・倫理の面で許されない。

③ 慶喜は大正時代まで長生きしたが、「長州藩は許せても、薩摩は許せない」と複数の側近に伝えている。

 歴史を見てきた慶喜は、幕末・薩摩の偽がね造り、密貿易、江戸騒擾、辞官納地という陰謀から、おそらく日本流でいえば、ふたりは良い死に方しない、と思っただろう。
 西郷は西南戦争で鹿児島・城山で自刃し、その首が政府軍の山形有朋のまえに運ばれた。令和の今も、賊軍として靖国神社に祀られていない。大久保利通はその翌年、東京・紀尾井坂付近で暗殺されている。

④ 明治からの歴史家は、鳥羽伏見は薩摩側の勝利とするが、果たして、そうだろうか。高輪薩摩屋敷、鳥羽伏見の陸上戦、兵庫沖の薩摩軍艦の沈没、大阪薩摩屋敷、この10日間は旧幕府軍よりも、戦死者の数が多いはずだと類推できる。
 天下を取った為政者たち、不都合な数字はごまかすか、伏せるが常だ。とくに品川沖、兵庫沖の薩摩海軍の犠牲者数の史料はあるはずだが、今日(こんにち)も学者は出してこない。戦死者の逆転が、不都合なのだろう。
 
③ 上野寛永寺の彰義隊は、渋沢誠一郎ら一橋家臣が徳川慶喜を守るために立ち上げたものだ。誠一郎は大河ドラマでも、渋沢栄一と行動を共にし、平岡円四郎に拾われて一ツ橋家の家臣になった人物だ。慶喜に忠誠を尽くす。

 彰義隊の特徴のひとつは、慶喜と同様に、幼帝を担いで勝手な振る舞いをした薩摩の大久保一翁・西郷が天皇家を利用した私欲とみなし、「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成していることだった。

 彰義隊はほんとに賊徒だったのか。これらは大河ドラマの「青天を衝け」で、どう描くのだろうか。興味深い。
 
④ 上野戦争で、彰義隊は賊徒として壊滅された。その実、新政府軍は東武天皇(元号・延壽えんじゅ)に擁された輪王寺宮をつぶしたかったのだ。

 私は近著「紅紫の館」(こうしのやかた)で、上野戦争の本来の目的が掘り起しができた。江戸城が無血開城したにもかかわらず、2か月後に、あえて東京・上野で大規模な戦争を仕掛けたのだ。幼帝(のちの明治天皇)を擁した大久保、西郷、岩倉たちの腹の底が鮮明にみえてきた。

 薩長閥の明治御用学者らは、南北朝時代と同様に、京都に幼帝(のちの明治天皇)、東に東武天皇(輪王寺宮)とという国家分断があったと認めたくなかった。
 南北朝時代の正当性はあいまいにし、慶応四年の延壽という元号、東武天皇の存在は歴史から抹殺して今日に至っている。
 分断の国家が歴史的事実ならば、公表しても、国民はすなおに受け入れるとおもうけれど。

 

【現代風刺】政府「頼むからお盆の帰省は止めて下さい」=ヤフーコメより②

国民50 「専門家と相談しながら、最終的には判断したい」

国民51 「帰省を中止する権限は私には無い。帰省して絆を取り戻す」

国民52 「どうやったら感染者数を減らせるのか。帰省数をごまかすなど、真剣に考えたい」

国民53 「よく帰省について聞かれるわけですけれども、実は私自身、57年前の帰省時、高校生でした。いまだに鮮明に記憶しています。例えば、奥様は魔女と言われたテレビドラマ…(以下、思い出話が続く)」

国民54 「ワクチンも二回打ったし、マスク消毒、手洗いうがいを完璧にして、安心安全に旅行します」


国民55 「帰省できた者には金メダルを授与する」

国民56 「先手先手で帰省する。今回が最後の帰省です」

国民57 「みなさんの安心・安全をまもり帰省を守ります」

政府  「国民の命より、電通の利益を優先させた。帰省はまったく問題ない」

ガス  「感染者数の増加においてはですね、安心安全、直行直帰ちゅうことです。」

国民58 「緊急事態宣言という名のスガ、ユリコの騒ぎには騙されません。安全に帰省して家族との絆を守ります」

国民59 「帰省する事は、私の判断では決められない」

国民60 「帰省で田舎の家族にうつしたらどうするのか?」「仮定の質問には答えられない」

国民61  「私も帰省を諦めるのは簡単ですが、こんな時だからこそ家族一致団結のもと、安心・安全な帰省をやり遂げて見せます!」

国民61 「帰省させないのは、失礼じゃありませんか!」

国民62 「帰省出来るんじゃないかと、そこのところは私の責任でそう思ってます。」

国民63  「そこは大丈夫だと思ってます」

国民64 「いずれにしろ帰省します」

国民65 「実家に帰ったが、帰省はしていない」

共産党 「帰省はしますよ、そりゃあしないとあれだから。コメントは差し控えたい、今でも帰省は反対です。」

国民66 「無観客で帰省します」

国民67 「アルマゲドンでも起きないかぎり帰省します」

国民68 「不要不急だと全く思わないので、帰省します」

国民69 「私は、9月の連休に強い危機感をもって帰省に挑みます!」

国民70 「勇気を出して帰省する人々には、戦時中の出征兵士に対する出陣式のように、東京駅や羽田空港、バスタ新宿で日の丸を振って壮行式を斎行すべきです」

国民71 「人生いろいろ。帰省もいろいろ」

国民72 「新型コロナの影響が長引く中で、家族や親族、地元の友人の皆さんに、まさに勇気と感動を与えてくれた」

国民73 「この夏は「黙食」しました。五輪開会式見て「黙祷」しました。あと「黙帰省」をして「3黙」を守ります」

国民74 「キセルはしませんから、帰省させてください!」

国民75 「私はできる!帰れる!」

国民76 「 濃厚接触しない電車で帰省します」

国民77 「鉄道会社、バス会社を全て止めて、道路も閉鎖すれば、帰省できないんじゃないのかな。そのくらい政府は考えて欲しいです」

ガス 「帰省によって感染拡大したら、どう責任を取るのか」 国民「仮定の質問には答えられない」

国民78 「2週間の自宅隔離後、帰省します」

国民79 「今すぐ帰省を控えるという意義は、私には見つからない」


                          【了】  


《管理者より》

 この社会がおかしくなっていると、誰よりも早く感じ見抜くのは、政府でなく、国民です。為政者が民の声を抑圧すれば、平安の落首、落書き、江戸時代などは狂歌になって現れています。

 わが国の政府が、「お盆の帰省は止めて下さい」と県を越えた帰省の停止を呼びかけても、世界をまたぐアスリートは来ているじゃないか、と政府不信の高まりは増しています。
 若者を中心として、「ヤフーコメ」などで「狂歌に似たことば」を投げつけてくる。それは現代版の抗議です。

 きょう(8月5日)、東京都の新型コロナウイルスの新たな感染者は5042人です。5000人を上回り、昨日に続いて過去最多を更新しています。
 わが国の首相は記者会見で、いまなおも「感染爆発」に関する質問にたいして、『仮定の質問にはコメントを差し控える』と回答を拒絶しています。これが国民の心にとどく言葉でしょうか。

『批判の声を聴かず、国民にとどく言葉をもたない政権は危機にもろい』 (ローマ時代のセネカの名言)

『国民の信頼を失ったら、政治そのものが成り立たなくなる。政治が絶対に失ってならないものが国民の信頼だ』 (孔子)

                      【了】

【現代風刺】政府「頼むからお盆の帰省は止めて下さい」=ヤフーコメより①

国民1 「中止の考えはない。強い警戒感を持って帰省に臨む」

国民2 「バブル方式で帰省する。感染拡大の恐れはないと認識している」

国民3 「帰省を中止することは一番簡単なこと、楽なことだ。帰省に挑戦するのが国民の役割だ」

国民4 「安心安全な帰省に向けて、全力で取り組む」

国民5 「コロナに打ち勝った証として、帰省する」

国民6 「(帰省は)今更やめられないという結論になった」

国民7 「『帰省するな』ではなく、『どうやったら帰省できるか』を皆さんで考えて、どうにかできるようにしてほしい、と思います」

国民9 「家族に感動を与えたい。帰省はコロナ禍収束の希望の光」

国民10 「我々は帰省の力を信じて今までやってきた。別の地平から見てきた言葉をそのまま言ってもなかなか通じづらいのではないか」

国民11 「(帰省中止要請は)自主的な研究の成果の発表ということだと思う。そういう形で受け止めさせていただく」

国民12 「言葉が過ぎる。帰省中止を決める立場にない」

国民13 「帰省が感染拡大につながったエビデンスはない。中止の選択肢はない」

国民14 「(帰省について)政府は反発するだろうが、時間が経てば忘れるだろう」

国民15 「帰省することで、緊急事態宣言下でも帰省できる、ということを世界に示したい」

国民16 「帰省について限定的、統一的な定義は困難」

国民17 「実家を訪問するという認識。帰省するという認識ではない」

国民18 「 帰省して勇気と感動をもらいました!」

国民19  「仮定の話にはお応えできませんが、高い危機感を持って、関係機関と連携しながら、何としてもやりぬきます」

国民20 「私がこの帰省を自分の責任のもとに、しっかりと対応することが、私の責任で、私はできると思っています」

国民21  「国民の帰省に政府が協力してくれている」

国民23 「帰省は家族の行動の問題なので、専門家の意見は聞く必要がない。自らの判断で決めました」

国民25  「国民の命を守るために、安心安全な帰省を実施します」

国民26 「あのう、ご指摘は当たらないと思います。帰省します」

国民27  「実家を訪問するという認識。帰省するという認識ではない」

国民28  「引き続きまして、高い緊張感で注視しながら帰省します」

国民29  「帰省して絆を取り戻します!」

国民30   「昔、帰省される方の中に、東洋の魔女という方がおられました。幼少だった私は、帰省する彼女の姿にえらく感動したものです」

国民31 「今更やめられない、という結論になりました」

安倍晋三 「実家に帰ったということであり、帰省したという認識ではないのであります。こんな人たちに負けるわけにはいかないのであります。ゴニョゴニョゴニョ」

バッハ  「日本の人達は帰省が始まると、歓迎だけでなくサポートしてくれると私は確信している」

政府   「こういう時、普通は帰省しませんよね」

国民32  「経済も優先しなければいけない。皆で帰省することが経済回復に繋がります」

国民33  「電車を利用するなど、なるべく密にならないように注意しながら帰省する。安心安全につとめたい」

国民34  「家族で決めた。帰省のオペレーションの話なのです」

国民35  「帰省を望んでいる国民は、しっかり頑張っている。帰省しないという意義を私は見つけられない」

国民36  「安心安全な帰省に向けて全力で取り組む。コロナに打ち勝った証として帰省する」

                       【②につづく】


《管理者より》

 ヤフーニュース『東京都で新たに4166人の感染確認 過去最多 重症者は3人増の115人』(2021年8月4日)の記事に寄せられた読者のコメント(ヤフコメ)から、抜粋しました。
「現代版の狂歌」として紹介します。投稿者たちの原文を尊重しています。

※ 国民の約7割強が反対したオリンピックが強行された。政府がいまなお「オリンピックはコロナ感染拡大と無関係」と詭弁をつかう。
 
「東京2020オリンピック」を「帰省」に置き換えた「現代版狂歌」から、政府や政治家たちのことばが、日本国民の心理と行動につよく影響を与えています。

 学生は年に一度として親元に帰る。家族は一家して、お墓参り、老両親に孫を見せに行く、という8月お盆の行動を取る。
 
※日本政府と東京都がコロナ禍の下で、オリンピック開催の意義を国民に示さなかった。政府が耳にタコができるほど発信した「安心・安全」政策に、だれもが、そんな言葉に耳を貸さず、もう信じていない。

 政府が思惑でオリンピックをやるならば、われら故郷を大切にする国民は8月お盆の民族大移動(数千万人)へとすすむ。
 昨年(20210)はまだオリンピックの1年延長という施策から、コロナ対策の本気度をくみ取り、民族大移動の帰省は自粛すると耐えた。


 しかし、そこから1年間の政府と東京都よる、その場・その場の取り繕い、ごまかし、誠意のない発言のくり返しから、国民は政治家たちに信頼が裏切られたと、大勢の胸に痛く焼き付いてしまったのです。
 私生活でも、嘘をたびたび聞かされると、腹立たしくもあり、やがて疲れます。国民はコロナに疲れたのではなく、為政者のウソと方便に疲れたのです。

 不信感の累積からの脱皮。ことし(2021)の民はオリンピックTV観戦よりも、近遠距離の故郷志向へと変異してしまった。それがコロナ感染爆発を引き起こす根源となったのです。

「現代版狂歌」から、その心理的な側面からみた感染拡大の実証(エビデンス)ができます。国民は甘くなかった。