ジャーナリスト

「大雨特別警報」その1 = 東広島市自然研究会より

 7月は豪雨、猛暑、台風12号と自然災害が次々発生し、気が付くと8月になっています。あっという間に1か月が過ぎました。皆さん大丈夫でしょうか?

 小ヌシの集落呉市安浦町原畑は野呂山の東の麓にあり、集落の東端を野呂川が南流しています。野呂川ダムのすぐ下流域にあたります。
 今回の豪雨では大なり小なりの被害が生じました。

 一夜明け、自宅から目視で山は12か所の土石流を確認できます。

 先夜7月6日は大雨特別警報が発令されるなど、テレビの気象情報から目が離せませんでした。また、町中心部や低地部分は一帯が冠水し、かかりつけの病院は床上1m以上浸水したようです。スーパーも7月31日現在閉店したままで、被害の大きさを実感します。

 山超えた中畑市原は壊滅的な被害を被っています。

 集落の外に出る道路は3方向あったのですが、黒瀬、西条方面は中畑市原の多数の土石流で通行止めです。
 町内中心部へは野呂川の洪水のため、家屋、道路が流失して通行止め。呉方面はがけ崩れのため通行止めと、一時陸の孤島状況になりましたが、唯一、旧道1本が通れました。

 現在もその状況は大きく変わりません。大周りをして移動しています。

《コメント》

 一昨日、東広島市災害ボランティアの受付に駆り出されました。平日にもかかわらず94名の参加があり元気をいただきました。遠くは埼玉から5泊6日で5名の会社員グループも。夏休みで中学生も散見。みんな偉いな~!  -- かやネズミ   2018-08-02 (木)

 目がウルウルです。 -- 小ヌシです 2018-08-02

 安浦の状況を聞くたびに、大丈夫かなと思ってましたが、ご無事で何よりです。7日の朝、広の自宅ベランダから見た海は茶色く濁ってて、横を流れる川も水位増していて茶色く濁ってました。でもそれ以外は、みた風景はいつもとかわらないように見えました。

 7月8日の中国新聞朝刊の安浦の写真は衝撃でした。これからどうなるんだろうと不安になったのをよく覚えています。
 自然が猛威を振るっていることを実感する夏ですね。 -- サチエ 2018-08-07 (火)

 自然に対し、ただただ平穏無事を願うだけですね。 -- 小ヌシです 2018-08-07 (火)


【関連情報】
 ヌシとは巣穴を守り子育てをするオスのオオサンショウウオのこと。

 当会の我らがヌシさんとメンバーがメッセージを発信します。

「大雨特別警報」その1 = 東広島市自然研究会

第2回大崎上島「山の日」神峰山フォーラム2018=8月11日に開催

 広島県下は大きな災害を受けた。大崎上島も例外でなく、本州からの水道のパイプラインが切れた。水のない不自由な生活の下でも、『第2回大崎上島「山の日」神峰山フォーラム2018』を成功させよう、と島民は頑張っている。

タイトル:『第2回 大崎上島「山の日」神峰山フォーラム2018』
 
 主催者:大崎上島地域協議会 後援:全国山の日協議会、幕末芸州広島藩研究会

日  時:平成30年8月11日(土・祝日) 午前10時から午後3時まで

会  場:大崎上島開発総合センター 大会議室

問合せ先:NPOかみじまの風 ☎ 0846-67-5530(月~金・10時~15時)

今年度(2018)祝日「山の日」8月11日には、『第2回 大崎上島「山の日」神峰山フォーラム2018』を実施します。今年から島内の学生らも参加型といたします。高校生たちと作家が「山と海の恩恵に感謝する」をテーマにしたパネルディスカッションで、
「大崎上島は、農林漁業、伝統文化、生活自然、景観などの有形無形の資源が豊富にある。その活用方法を考える。観光客(滞在型生活観光を含む)、定住・移住するひとを増やしていく。将来は「海の日」も連携させた『まち残し』を推進していく」
 と討議しながら、若者たちの「山と海」の自然循環教育を高めていくものです。


第一部
① 山を奏でるコンサート 三須磨大成・恵里「ラテン・コンサート」
② 大崎上島・神峰山物語シリーズ朗読会。
原作・書き下ろし「紙芝居と海軍大尉」、朗読・「朗読ボランティア・しおさい」

  昨年度の朗読小説・穂高健一著「ちょろおしの源さん」(「川」定価1000円)、穂高健一著「初潮のお地蔵様」(1000円)が安価で求められます。2冊で、1500円

③ 基調講演 地元作家・穂高健一氏が著書「広島藩の志士」を語る。
       江戸時代の地元の歴史を学ぼう 
④ フォーラム対談「神峰山の魅力を語る・山と海の恩恵に感謝する」

 パネラー、作家・穂高健一氏と広島商船高専・大崎海星高校学生の有志たち
第二部 神峰山に登り、お地蔵さんの清掃「洗って、磨いて、祈る」をおこなう

2年連続「特選句碑除幕」の快挙=大久保昇さん

 第14回「しずおか句碑の郷まつり句会」が、平成30(2018)年4月8日(日)の午前10時に、静岡県・秘在寺で行われた。こんかいの特選句は、昨年とおなじく、大久保さん(東京・文京区)です。

 昨年度 『安倍川を大きく包み山笑ふ』

 今年度 『樹々の芽に陽のゆき渡る和紙の里』

 2年連続で特選に輝いた句碑が、静岡県の秘在寺の境内に建てられます。


  今年度の除幕式(左)         授賞式(右)    

 静岡県内を流れる安倍川は、全長52キロで、駿河湾にそそぐ急流な河川で、日本でも随一の清水です。その中流に郷島「冷泉山秘在寺」があります。
 
 境内には樹 齢推定1000年の榧(かや)の大木がそびえ、眼前には雄大な安倍川の景色が眺められ、お茶・山葵の産地です。 (主催者のHPより)


【大久保昇さんの句碑として】

 第1句碑は、群馬県・榛名町の上里見公園内

『厩舎より馬の貌出る梅日和』


 第2句碑は、さらしな・おばすて

『帰省して牛の匂ひの中にをり』


 第3句碑は、相模原俳諧浄土寺 正覚寺

  神奈川県俳句連盟会長賞の授賞式 大久保昇さんへ

『心の荷ほどきて歩む春の山』


 第4句碑は、飯山市 明昌寺

『北竜湖水の底まで蝉時雨』


 第5句碑は、静岡県・秘在寺

『安倍川を大きく包み山笑ふ』

 第6句碑は、同・秘在寺

『樹々の芽に陽のゆき渡る和紙の里』


 大久保さんは、歌碑においても、茨城県・行方市「霞ケ浦ふれあいらんど」に建てられている。

「狂歌詠む心のゆとりあるかぎり争い事の芽は育たない』

 大久保さんの句碑、歌碑が各地に建立されている。現在ちょうど50才であり、今後は円熟さをますぼとに、俳人として名を残す活躍が期待できす。


『関連情報』

「穂高健一ワールド」に、大久保昇さんの記事が下記の通りあります。

① 俳句、狂歌、四つ目の石碑が建立 = 大久保昇さん


② 
大久保昇さんが句集『天職へ』を発刊する=後世に残る名句だろう


③ 句集「天職へ」本体2300円+税

 購入先 : 大久保昇

 〒112-0002
 文京区小石川3-25-4-301
 03-3816-3417


 発行所 北溟社(ほくめいしゃ)☎04-2968-5349
 

祝「御手洗が日本遺産(広島県・大崎下島)=井上明さん

 江戸時代に瀬戸内で、最大級の発展をした港が御手洗(呉市豊町)である。「潮待ち、風待ち」の役目を果たす随一の良港だった。
 同港は、近畿と九州の中間地点に位置し、北前船、千石船、参勤交代の大名船なども多数が寄港し、賑わっていた。

 このたび、御手洗の5つの文化施設が2018年5月24日に、北前船にゆかりがある「北前船寄港地・船主集落」として、日本遺産の構成文化財に追加認定された。

 日本遺産の認定は、たんに観光振興だけでなく、幕末広島藩が同港から徳川政権の倒幕を成した歴史的な価値ある港としても、日本中の注目を浴びるだろう。
 御手洗から幕末・広島藩ブームが起こる可能性も秘めている。

「御手洗重伝建を考える会」の理事・井上明さんは、御手洗が日本遺産に追加認定されたことに対して、
「古くからつづいているものの価値。私たちがこれをどう活かし、どの部分を磨いていくのか具体的なアクションと検証のサイクルが必要。
 観光振興はただの手段。残していくもの、アップデートしてものの見極め……、UIターン者の若者をはじめ今、素晴らしい人材と感性が育ちつつあるのを実感しています」
 と述べている。

 中国新聞が「観光振興の追い風に」、「祝賀横断幕やパネル展」とおおきく報じている。

伊藤博文・初代総理、佐藤栄作ノーベル平和賞、安倍晋三総理=ねつ造の歴史

 公文書はたいせつな歴史の物証である。その偽証は国民にたいする重大な歴史の犯罪である。この認識は政治家も、国民もしっかり持つべきだ。


 いまや、安倍晋三政権のもとで、公文書のねつ造、隠ぺいが平然とおこなわれている。財務省、厚生省、文部省、ブルタスお前もかと防衛省すらも隠ぺいする。シビリアン・コントロールの欠如が、軍部の独走を招き、戦争への道になる。
 安倍首相はそれすら、解っていないのだろうか。

 ありていにいえば、安倍首相は、過去の長州(山口県)の政治家たちの隠ぺい体質で、どれだけ日本人を不幸にしてきたか、歴史からまったく学ぶ姿勢を持っていない。あなたも、おなじ過ちをくり返させるのか、と言いたい。

                * 

 明治18(1855)年に、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。井上薫、山形有朋が政治の中枢についた。
 この段階で、太政大臣の三条実美ら公家が政治の中心から墜ちた。そして、長州閥の政治家の独壇場になった。

 かれらは内閣の総理大臣や主要な大臣になった、とはいっても貧農、中間、駕籠(かご)かきの息子らだ、と皇室や公卿や元大名たちから侮られた。
「おまえら、戊辰戦争のころは貧農の足軽以下だった。おまえら長州が徳川家を政治倒幕したわけじゃない。高度な政治の隅っこにもいなかった」
 出自(しゅつじ)には、かれらはことのほか劣等感があった。

 長州出身の政治家は、貧しく育ったゆえに、基礎教育、教養が乏しく、「歴史の歪曲は国民のためにならない」という倫理観の認識すらなかった。
 権力を持つと平然と、なんでもやれると錯覚していた。この点は貧農の出自だった豊臣秀吉とよく似ている。力をつけると朝鮮出兵し、自分を大きくみせた。
 長州閥政治家たちも、秀吉とおなじ朝鮮・中国・満州侵略で、大きくみせる行動にでていくのだ。

             *

「人間は自分を大きくみせるために、とかく過去を自慢したがる」
 明治半ば、伊藤博文・初代総理たちは、文部省と宮内庁に命じ、自分たちに都合の良い『幕末史』の編さんを命じた。
 ベリー提督来航から廃藩置県までだ。
『徳川支配の幕府は堕落・腐敗の政権だった』
 とこき下ろし、
『われら長州藩が中心となり、薩長で倒幕し、近代的な新政府をつくった。西洋と肩をなべる富国強兵国家をつくった』
 かれらは都合よい英雄の近代史をつくった。

 それを義務教育で教えた。幼い学童は「虚偽の幕末史」で洗脳されてしまったのだ。軍国国家が正しいと信じた。

 しかし、倒幕の主力となった元大名・家老たちの日記には、伊藤俊輔、山縣有朋、井上聞多らが、いっさい名が出てこない。かれらは倒幕に役立つ人物ではなかったのだ。
 この事実が取りざたされると、加担しなかった徳川倒幕のウソがばれてしまう。かれらは明治18年に政権のトップに立つと、官僚や県令(県知事)らを介し、大名・家老日記をことごとく焚書(ふんしょ・焼き棄てる)させたのだ。まさに、歴史のねつ造のためだった。


 山縣有朋はこのころから日本の軍国化をより強烈にすすめた。国民皆兵、教育勅語、文民統制を排除し、治安警察法など、帝国議会で戦争法案を連続して成立させたのだ。

 教育勅語を暗記させられた子供が、大人になると、軍人勅諭を覚える。すべての戦争は『祖国のためだ』と信じて疑わない人民となった。

                *

 日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、第一次世界大戦、日中戦争、満州事変、太平洋戦争へと国民は、祖国のためだと、男子国民(理系を除く)は海兵で、戦場にかり出された。

 兵士および非戦闘員をふくめると、国内外で、一千数百万人の犠牲者を出させてしまった。

              *

 太平洋戦争が敗戦で終了した。
 沖縄は米軍の統治下におかれた。当時、日本は核兵器は作らない、非核三原則を堅持していた。『核兵器をもたず、つくらず、持ち込ませず』が政治家と国民の最大のコンセンサスだった。それを見事に破った政治家がいる。


 佐藤栄作首相のもとで、1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄が日本に返還された。翌1973年には、佐藤栄作は『核不拡散を提唱した』という理由で、ノーベル平和賞を受賞した。

 ところが、佐藤首相は国会で国民に嘘の答弁していた。正義感のある新聞記者が、沖縄返還には「有事の際の核持ち込みに関する合意」があったと暴露したのだ。

「佐藤栄作はおお嘘つきだ」
 非核三原則を大切にする国民は激怒した。日本の恥部だと、かれをノーベル平和賞の受賞者を褒めたたえようとしない。
 現代の青少年に「日本人でノーベル平和賞をもらった人は誰ですか」と質問しても、誰もがほとんど首をかしげるばかり。
 国民が自慢する人物ではなくなったのだ。
 
            *

 戦前、戦後を通じて、長州出身(山口県)の政治家は、数多く内閣総理大臣にかけ登っている。
 かれらに共通している点は、経済界人との結びつきが強く、その人脈を利用した、半独裁主義者のような強い権力をもつのが特徴だ。

 安倍晋三総理大臣のもとで、人脈がらみで森友学園と加計学園の問題が起きた。国会やメディアが追及すると、ねつ造文書や隠ぺい資料が次つぎに出てくる。

 これは安倍首相自体に、「国民にたいする嘘の答弁、公文書のねつ造は、重大な歴史犯罪だ」と、認識が欠如しているから、行政の底流に、国民を欺く土壌が生まれてしまうのだ。
 
 ここ100年の歴史において、安倍首相の血統の松岡元外相、岸信介元首相らが、世界中からバッシングされた『満州』がらみから平和解決でなく、戦争推進の役目を担ったという歴史的事実がある。やがて、第二次世界大戦争に発達させたうえ、国民にとてつもない大きな戦争犠牲を強いる結果になったのだ。

 私たちは戦争・戦場を知らない。しかし、日本国民一億人が、戦争責任を問われて、戦後まもなくから、素直に先祖の戦争行為を詫びて、会社で働いた税金で、諸外国に延々と賠償金を払いつづけてきた。

 つまり、少数の軍国政治家のミスリードで、半世紀以上も、全国民が戦争という負の支払いを綿々と続けてきたのだ。
 もう、こんな虚しい戦争支払いなど、やらさせないでほしい。戦争推進の政治家はもう欲しくない。これが庶民の素直な気持ちだ。

 満州がらみの戦争責任の大部分は、松岡元外相、岸信介元首相にあるといっても、過言ではない。安倍首相は、身内の先祖が犯した過ちを十二分に認識し、己は戦争に民を巻き込まないぞ、というひと一倍の決意で施策、方針を取るべきだ。
 戦争を招きかねない関連法案が出てくると、国民は本能的に、あなたの血筋に戦慄し、畏怖しているのだ、と知るべきだろう。

               *

 私たち国民はけっして無能ではない。口先でごまかされない。

 為政者が支配しているときは、目を閉じ、物いわずとも、かれらの死後から幾年たって、その政治家の墓に泥をかけたり、削ったり、銅像の首を落としたりするケースすらもある。

 伊藤博文は名誉ある初代総理大臣なのに、後世で、悪く書かれてしまう。
 佐藤栄作元首相だって、ノーベル平和賞は国民の良心として返還すべきだと、いまなお主張するひとたちが巷にいる始末だ。

 民の頂点にいる安倍晋三首相は、『善政』の実行に身を挺してほしい。善政とはなにか。総理の権力・権威・権限にしがみつかず、いい恰好をしたり、逃げたりしないことだ。過去の偉人から学び、わが身よりも民の安堵(あんど・幸福感)を最優先に考えることだ。


 あるべき政治家の姿は、100年後を見据えて、『戦争をしない。国民を飢させない。国を滅ぼさせない』と、打つ施策がすべてこの原理につながるべきである。

 総理の取り巻きの政治家らは、ねつ造や粉飾、虚言、焚書などにたいしても、是々非々の強い姿勢と勇気がなければ、いつかきた悪しき政治の道にながれてしまう。権力者にたいして物言えぬ取り巻きにこそ、むしろ重い責任があるのだ。
 その認識こそが、世にいう政治家の果たすべき使命である。


写真=Google 写真・フリーより

永生元伸の魅力、日本を代表する「うたうバンジョー弾き」=(下)

 東京・大塚ウェルカムバックで開催された『永生元伸 Just One Night』のライブの翌週、その感動と余韻があるうちに、 永生元伸さんにインタビューした。
 現在63歳で、出身地は青森県・平賀町で、リンゴ園の長男に生まれました。小中高校は同地です。中学生のころ、ビートルが全盛期で洋楽に強い関心を持ちました。当時は、深夜放送に聞き入っていたものです、と自己紹介された。

「わが家はリンゴ農家で、ステレオがなかったので、友人宅で聴かせてもらいました。布団で寝ず、膝を抱え込んで、朝まで聞き込んでいました。長時間だったので、不意に立ち上がれなかった、という記憶があります」
 母はそうした深夜の外出・宿泊にも理解がありました。それが音楽の原点です。中学3年の時に、母がギターを買ってくれました。
「買ってほしい、と粘った記憶は私にはないのです。ギターは格好よいし、うれしかった」
 母親は、熱心な息子の将来に音楽家の夢を託したのだろう。自宅や中学の同級生宅が練習場で、ギターを毎日弾いて学園祭に出演しました。仲間とコンサートやライブをも企画し、数百人の前で演奏した記憶があります、と話す。

 高校2年のときに、「吉田拓郎が弘前で単独ライブを行いました。彼がまだ人気が出る前でした」
 永生さんは会場に足を運んだ。
「ギターがうまい。あのように指を使って弾くのか」
 レベルの高い吉田卓郎のギターを目のあたりにした永生少年は、専門家の弾き方を知った。毎日の練習が楽しく、弾けること自体が嬉しかった。

 東京の大学に入るまえ、3歳年下の弟が農園の跡取りになると決めてから、永生さんは上京した。大学のジャズ研究会には入部せず、独学だった。いまとなれば、「合理的な練習をしていたら」という思いは否定できません、と語った。

 永生さんは卒業まえ、クラッシック・ギターを習っていた人から、「バンジョーを弾ける方を探しているバンドがあるけれど、その仲間に入らない?」
 と紹介されてデキシー・ジャズバンドのプロの道に入った。シェーキーズ(ピザの店)の5~6店舗で、ライブをしてお客に喜んでもらう。一般企業の就職でなく、プロ活動から社会人スタートになったのだ。
 
 オイルショックから、世の中が変わってきた。歌謡曲からフォーク音楽に移ってきた。やがて、ジャズ、グループサウンズが新しい時代を作ってきた。

 永生元伸の経歴として、 
 昭和47年に、シェーキーズで6年間の活動をする。
 昭和58年に、ディズニーランド・オープンのオーディションで、11年間を行う。
 平成7(1995)年に、薗田 憲一(そのだ けんいち)とデキシーキングスに入団を申し込むと、「どうぞ、どうぞ」と快く応じてくれた。そちらと並行し、自分のバンドも立ち上げる。

「バンジョーの楽器の特徴は、トランペット、ドラムなどのなかに入ると、混合音楽で減音し、全体の音量の1割ていどしか聴衆に耳に入りません。余韻がない楽器です」
 バンジョー演奏の永生さん自身でも、せいぜい2~3程度の音になるという。

『うたうバンジョー弾き』として、最近の永生さんはライブをソロで、バンジョーとギターをともに奏でる。ソロをなさる、この魅力とは何ですか。
「バージョンは一般にソロはないのですが、私は歌を入れています。弾き語りができる。それがとても楽しいです」
 吉田拓郎は自分のスタンスでやってきた。だから、未だに色あせないのです。私が『うたうバンジョー弾き』にこだわれるのは、バンド・リーダーの特権ですね。

「リーダーとして、ゲストをお願いに行くと、永生がやるから、良しとする。ありがたいなと思います。逆にお願いされたりもする。ミュージシャンの人間関係が広がっていきました」
 12か年間は固定した5人の同じメンバーでやってきましたから、パーソナリティー、技術がより高くなり、可能性が拡がりました。

 かたや、同一性、単調性にも陥りやすい。今年(2017)2月から、少しずつメンバーを新しく入れ替えていく試みをはじめた。
 皆さんプロアーチストだから、リハーサルは一回であるという。デキシー、モダンにしろ、アドリブでも、本番で自然にながれに乗れる。

 お客さんを楽しませる。選曲とか、工夫とかは?
「プログラムを組むには、約1週間ほどかかります。基本フォーマットは人気が高いものを中心に8割がた決めています。問題はあと2割の選曲です。観客とか、四季とか、諸々の条件を頭のなかにインプットし、意識、無意識を問わず、1週間はたえず考えつづけています。バンドの独自性を出すために、郷里の曲なども織り込み、編曲に務めています」
 毎回、お金を払ってもらい、面白いな、と感じてもらう。プロは一回でも、飽きられたら、次には続かないものらしい。

「編曲とアレンジが、他のバンドといかに違うか、それが勝負です」
 メンバーにはアレンジのイメージをしっかり伝えないと混乱する。プロミュージシャンだから、複雑なアレンジでも、口頭で伝えるだけでも、理解してもらえる。どのメンバーも格好良く、軽妙にこなす。
 本番前に音合わせをする。『これで良いね』。いずれの奏者にしても、あっちこっちで演奏してきている。曲自体の真髄を皆が理解しているという。

 バンジョーの指導者として、後輩の育成はいかがですか?
「希望される方には教えます。まず楽器を買うことです。ギターやウクレレに比べると、バンジョーは高額です。高い楽器だからこそ、止めずに続けられる。バンジョーは4本の絃で音の数が多い。毎日練習することで、よい音色になるし、美しい世界が醸し出せます」

 ギター、バンジョーにしろ、楽器音楽の上達のコツはなにですか。
「諦めず、毎日、弾くことです。技術は、階段状に上達していきます。どうしても、上手く奏でられず、苦しんでいたのに、ある時にふと弾けるようになる。一段上達したわけです。また、横ばった段階が続きます、毎日弾き続けていれば、また不意に「あっ、これだ」と思う。さらに一段技法が上がったわけです」

 将来の目標は?
「都内で、ソロライブのコンサートをやってみたい。ギターとバンジョー、ピアノ、ベースは補助として」
 他には?
「新しいCDを作りたいです。(2018年)1月に64歳になります。そこで、『now、I‘m64』というコンセプトで」
 ミュージシャンには定年がありません。招いてくださる方がいる限り、演奏は続けられる。この先10年は腕も、からだも動くはず。現在の延長線上でとらえたいです、とつけ加えた。
 永生さんはここ30年間は病院に行ったことがない。薬剤を飲まない人生だという。根がのんびりしているからでしょう、とほほ笑んでいた。

 後援会は中学生時代の同級生たちで、ここ10数年来の支援をいただいている。チラシも作ってくれる。青森の同窓生は10年先も、きっと支援を続けてくれるだろう。


 アフリカの奴隷が、17世紀から、バンジョーをアメリカで発展させた。バンジョーを奏でれば、フォスターの曲のように、陽気に賑やかな楽器として人が集まる。ユーモラスに歌う。かたや、ワシントン広場のように哀愁もある。
「楽器の発祥は別にして、演奏には差別はありません。世界中で共有できるのです」
 そのことばは印象的だった。その精神が永生元伸さんの人柄の良さと、幼いころから音楽一筋に生きる精神の根幹につながっているのだろう。
 
                    【了】

永生元伸の魅力、日本を代表する「うたうバンジョー弾き」=(中)

 永生はバンジョーを弾きながら、ボーカル曲をソロで歌う。これはリーダーの特権だろう。とても響きのよい歌声で、観客を魅了させている。さらには、軽いトークも上品だ。

 永生は昭和50年に大学を卒業後、一般企業に就職をせず、いきなりバンジョー奏者としてプロ活動をはじめている。根からの音楽奏者だ。その後、東京ディズニーランドでは約11年間にわたり活動し、アメリカ発祥のバンジョー演奏で注目をあつめた。
 平成7年には、ディキシーランドの名門バンド「薗田憲一とデキシーキングス」にバンジョー・プレイヤーとして参加した。ここから「うたうバンジョー弾き」として活動を展開する。

 このときの中心メンバーにより、「永生元伸スピリッツオブデキシー」が結成されている。

            *
 
 曲の合間を見て、インタビューを取ってみた。
 観客に、永生さんの魅力とはなんですか、と年配女性に質問をむけてみた。
「なんともすてき。バンジョーと歌に、落ちついた味わいがあります。魂で奏でる。この場にいると、とても楽しく心を癒されます」
 永生の奏でるバンジョーと歌声にしびれていると、彼女は持っている喜色と歓喜のことばを最大限に引きだしながら語っていた。

 テーブルのキャンドルに顔が浮かぶ島崎忠範(82)さんは、
「私は永生さんと30年余りの長い付き合いです。バンジョーはわが国でNO1です。魅力ですか。楽器と歌を熟(こな)せることです。ギターもたいしたものです」
 ギターリストの面もあるようだ。

 おなじテーブル席の平井妙子さん聞いてみた。推定70歳前後だった。
「私の好きな曲ですか。『世界は日の出を待っている』。これには心がしびれます。永生さんは、青森出身ですから、津軽三味線風にアレンジされています」
 編曲が得意のようだ。
「お人柄がとても良いですわよ。お客さんをとても大切にされています。クリスマス、誕生日には、わたしの自宅に来て演奏していただきますの。お声がけすると、気さくに来ていただけましたの。そこからの長いお付き合いです」
 彼女の好きな曲は「知りたくない」、「スパニッシュアイズ」、これは歌とメロディーがとても素晴らしく、心に響きます、と語っていた。

 スタンディングオベーション(観客が立ち上がって拍手を送る)で快哉を叫んだ女性に、感想を訊いてみた。

 青春時代の音楽がとても懐かしく楽しいし、仲間と毎回聴きにきています。『聖者の行進』『ホワイト・クリスマス』「小林旭の自動車ショー歌」みんなと一緒に楽しんでいます。身体がごく自然にリズムに乗って動いてしまいます」
 トランペット、クラリネットのファンらしく、拍手で手が痛くなるほど、叩きますという。ドラマーの15分間の楽器の連打は圧巻です、とことばがつきなかった。

 おなじ席にいた70代の男性にも訊いてみた。
「毎回、このジャズ・メンバーがとても待ち遠しいです。元の会社仲間と5、6年前から通ってきています。実は大塚に、このようなジャズ喫茶があると思いませんでした。私の住まいは西池袋で、便利で近いし、永生さんが演奏するときは、欠かさず聴きに来ています」
 と強調していた。
 
 もうひとり隣の女性は、
「わたしはきょうが2度目です。前回が楽しくて、こんなにもジャズが愉しいのか、とびっくりしました。きょうは迷わず、来ました。酒が楽しく飲めます。仲間とともに感動しています」
 大塚ウェルカムバックは、音楽チャージが3000円、オーダー&テーブル・チャージは500円である。

           *

 バンジョー永生さんの取材を持ちかけてくれた、のこぎりキング下田さんが大塚の同ライブにきていた。
 ふたりの出会いを訊いてみた。
「わたしが属している『足立稲門会』(早稲田大学校友会)の総会アトラクションで、永生さんと演奏したのが、最初の出会いです。そこからの付き合いです」
 下田さんが最初にCD録音をした『なつかしの童謡唱歌』のとき、「永生さんがバンジョー演奏と、編曲(アレンジ)をしてくださいました」と語る。そのうえで、こうつけ加えた。
「永生さんは、ノコギリ音楽を最大限に発揮できるように、私の音域を上手に捉えられてレベル(力量)を引き揚げてくださったのです。私の恩人です」
 その話からしても、永生さんは編曲が得意技のようだ。

 永生さんの人間的な魅力についても、下田さんに訊いてみた。
①心技体ともに、見事です。
②心がジェントルマンです。
③人柄が良い
 この3点をすぐさまあげていた。
 後日のインタビューが楽しみになった。

 第二部は、永生さんがしみじみ聞かせる『荒城の月』からはじまった。

荒城の月
国境の南
Cornet Chop Suey
ライフルと愛馬
夜空のトランペット
Tiger Rag
わらの中の七面鳥
Memories of You
♪bestplay/Sing Sing Sing

 これらの曲はいずれも大勢の人に愛され続けている曲、師走、クリスマス、年の瀬の音楽である。音楽はメロディー重視か、リズム重視か。いずれかに分かれているものだが、ジャズはその双方の要素が必要である。
 永生元伸はスタンダードなもの、クラシック、童謡でも、ジャズの音楽風にアレンジしてしまう。それをもってお客に楽しんでもらうのが、ジャズ編曲者の魅力だろう。

 ジャズのプロアーチストはパフォーマンスが必須である。全身を使ったアドリブで、どんなふうに何を吹いても自由なのだ、観客を楽しませれば。

 クラリネット奏者の益田英生(ますだ・ひでお)は、正統派ベニー・グッドマンスタイルを受け継いでいる。クリアで透明な響きがあり、管楽器のなかでは最も広い音域をもっているし、ジャズに適した楽器である。
 
 低音ではまろやかな暖かい音、中音では柔らかな音質、高音では華やかな明るい音をひびかせる。益田はメロディー・パートで暖かみのある音色を奏でる。

 静かな曲と思いきや、突如として、益田英生はアップテンポで、クラリネットと上半身を上向きにしてガツガツ吹いてみせる。まるで、その姿は軍隊で進軍喇叭(らっぱ)を吹く兵士の格好にも似ている。益田は全身で、感情の高ぶりを表現する。

 やがて、クラリネットは丸いやわらかな響きとなり、透明感のあるピュアな音になる。森に流れる霧につつまれたような、神秘な情景を連想させる。音が美しいとはこのことだろう。


 
 小林真人(まさと)が大きな弦楽器のウッドベース(Bass)を奏でる。見た目にも、どっしりしたベースは低音パートを担当する。絃の音が渋く輝いて聴こえる。
 ベーシストの小林は端っこにいて、一見すると影役にみえる。ボーカルやソロのように舞台で目立つ中心ではない。しかし、バンドのなかではベースは、「土台」の役割を担っている。
 ベーシストの小林はほかの楽器、バンジョー、クラリネット、トランペット、ドラムの音をつなげている。曲の流れや曲調、曲想を決める、一番重要な存在ともいえる。

 ジャズの魅力は三つの要素がある。

① アドリブ
② スイング(日本語のノリの良さ)
③ インタープレイ(奏者がたがいに感覚、感性で、その瞬間のリズムなど調和し、共鳴して演奏する)

 これが上手に揃ったときに、ジャズの面白さが伝わり、心に響き、感動を持ち帰れる。

 永生はバンド・リーダとして、この三つを最上に演じることができるプロ・メンバーを選んで、ライブに臨んでいる。観客を包み込み、誰もがジャズ音楽に溶け込むような臨場感と一体感が醸し出されていた。一人ひとりの奏者の紹介には、永生は決まって「日本一です」と形容していた。聴き手として、納得させられた。
                            【つづく】 

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ドラマーの楠堂浩己(なんどう・こうき)の豪快な連打がこちらのクリックで聴けます。

永生元伸の魅力、日本を代表する「うたうバンジョー弾き」=(上)

 日本一のうたうバンジョー弾きの永生元伸(ながおもとのぶ)さんを取材してみませんか。そう声をかけられると、物書きの特性で、どんな人物か、と真っ先に人間に興味を持ってしまう。

 バンジョーの永生元伸がジャズバンド・リーダーだという。バンジョーというと、アメリカのスティーブン・フォスターの曲を思い浮かべるていどである。他の奏者と聴き比べをしたわけではないし、技量の優劣はわからない。となると、インタビューだけでは記事にできない。ライブに足を運ぶ必要がある。

 バンジョーとはどんな楽器なのか。17世紀に、アフリカから強制的にアメリカに連れてこられた奴隷たちが、故郷の楽器を思い出して作ったという。バンジョーは不思議な楽器で、多種多様な音を持っている。熱く燃える情熱的な音、悲しげ、かつ悩ましげな音も出す。かれらはバンジョーを奏でながら、音楽で過酷な辛い生活や郷愁を表現してきた。
 
 現代のバンジョーは、ディキシーランド・ジャズによく使われている。わたし自身は、生のジャズにふれると、聴いていて心地良く、好きな音楽だ。

 この認識のもとに、2017年12月1日、東京・大塚駅前に近いライブハウス「大塚ウェルカムバック」に出かけた。師走の先陣を切って「永生元伸スピリッツオブデキシー」が19時から開演された。
   

 演目として永生元伸 「Just One Night」と名づけられていた。日本語訳だと、『今夜かぎり』だろう。
 10数年に渡り、年に4回は大塚で固定メンバーで演奏してきた。しかし、今年からは毎回メンバーを少しずつ入れ替えている。だから、この日しか聴けない。「Just One Night」と名づけられていた。

 師走入りした今宵は、永生元伸(バンジョー・ボーカル)、楠堂浩己(ドラム)、小林真人(ベース)、小森信明(トランぺット)、益田英生(クラリネット)である。
 ジャズメンバーはそれぞれ日本の一流奏者で、贅沢な組み合わせである。

 ジャズはコード進行を大まかに決めているだけで、あとはアドリブである。曲目はおなじでも、10人弾けば、10人がちがう。二度とおなじ演奏はない。演奏者が入れ替われば、まさに「Just One Night」で、それ自体が面白い。ジャズは奥が深い音楽である。

 第一部

    By The Beautiful Sea
    St.Louis Blues
    Oh Lady Be Good
    小さい花
    That's a Plenty
    White Christmas
    自動車ショー歌
    黒い瞳

 ラテン、カントリー、ロックと多彩である。おなじみのポピュラーな曲なども軽快なリズムに乗せて演奏する。ジャズの特性で、聴き手に心地良く酔わせるために、テンポより遅めに吹いたり、わざと音を歪ませたりする。それをもって観客が心を震わせる。

 トランぺッターの小森信明は全身で音をだす。音量が大きく迫力が楽しめる。感動しない者はいない。観客からお金が取れるジャズマンは即興が命である。小森がふいにトランペットでなく、口笛でリズミカルに曲を披露する。両唇と歯がまさに楽器そのものに早変わりする。実にみごとだ。
 観客から、おどろきと賞賛の声がもれる。

 バンジョーは音楽を軽妙に味付けする。ドラム、トランペットのなかで、10分の1しか音量がない。(永生の談)。それでいて、リーダーの存在感をしめす。不思議だ。じっくり観察していると、まわりの演者は、かならず横目で、それぞれと目配せしている。

 リハーサルは一回だけで、『これで良いね』という音合わせだけだという。いずれの奏者にしても超プロで、あっちこっちで、おなじ曲を演奏してきている。みんなが曲自体の真髄を理解しているから、デキシーにしろ、モダンにしろ、本番でごく自然に流れに乗れるのだ。
 

 ドラマーの楠堂浩己(なんどう・こうき)はつねに横目で見ている。それぞれの音の特性の引きだしに努めている。バンジョーの永生が歌を入れると、静かにスティック(棒)を振っている。大小のドラムやシンバルなど打楽器が聞こえるか、聞こえないか、その程度になっている。

                        【つづく】


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永生元伸の「うたうバンジョー弾き」がこちらで聴けます。

地球のかなたに奏でる国際派の箏(こと)演奏家(下)=酒井悦子さん

 箏(こと・以下は琴)の音が嫌いだというひとは、全国津々浦々をさがしても、まずはいないだろう。日本人のこころの琴線(きんせん)にふれる和の世界だから。


 
 琴を奏でる精神は、華道(お花)、茶道(お茶)、あるいは歌道(詩歌)ともつうじている。ともに古来の作法が伝わり、奥の深い芸への道である。

 しかし、酒井悦子さんは、琴を形式的な世界の継承だけにとどめていない。新しい文化とのコーディネート(文化の複合)をおこなう。彼女は、その創造的な活動にたいして実に前向きで、意欲的である。それが酒井さんの魅力の一つである。


 彼女は聞けば、非日常の空間や希少な世界に足しげく、わが身をはこぶ。
 そこから得られた体験や知識が、彼女の頭脳から新たな企画として演出されていくのだ。 つまり、創造の世界に生きている意欲ある女性だ。


「私はとても知りたがり屋です。興味があれば、すぐに突き進みます。私に合致するか、しないか、あるいは私にとって面白いのか、面白くないのか、ともかくやってみないとわからない、という考えです」


 具体的な実例を訊ねてみた。

「わたしは、東海道五十三次を歩きました。江戸・日本橋から京都・三条まで、完歩しています。もちろん、一気でなくて、仕事の合間にすこしずつ歩いて五十三次をつなぎました。それぞれの宿場町で、江戸時代の参勤交代の情景などを想像したり、箱根峠では水の飲み場がなかったけれど、当時のひとは急な坂道で、喉が乾いたら、どうしたのかしら、と考えてみたり。歴史の検証はとても楽しいものです」

 ほかには?

「これは趣味ですが、山岳の奥地にある、小さな古城の山城が好きです。とくに、石垣の魅力に惹(ひ)かれます。崩れた石垣がちょこっと残っていると気持ちがすっとー入っていきます。石垣の積み方がお城によって、時代によってちがいます。それが好きです」

 特に好きだった城郭はどこですか。
「林城(はやしじょう・長野県松本市)です。車も入れないほど、山奥の細道を行きます。その城は信濃国守護の館でした。武田氏により破却され、そのまま廃城となっています」
 酒井さんによれば、曲輪、土塁、石垣などの遺構が残っているという。

 大宰府の近い大野城は、日本一の大規模な古代山城である。百間石垣(高さ8m×基底部幅9m×長さ180m)が見事である。

 酒井さんは、こうした古城を仕事の合間に訪ね歩いている。否、しごとの一環だろう。

 三橋道也の古城とか、滝廉太郎「荒城の月」がありますね。古城を歩いた想いが曲に反映されますか。

「意識、無意識を問わず、古城に立った想いをこめて演奏する私がいます。とくに荒城の月ではその想いが強いです。この曲は外国でも人気があります」

 荒城の月は、暗くて物悲しいメロディーに思えますが、

「たしかに華やかな曲でなくて、陰旋法(いんせんぽう)です。しかし、外国の方でも、すごく聞き入ってくださる曲です。こころにひびく旋律なんでしょうね」
 どの国にも、栄えて消えた貴族社会や王族の歴史があるのだから、栄華盛衰がひびくのだろう。
  
 彼女の今後の取組みとして、海外での筝の普及活動を訊いてみた。

「今年(2017)は、オーケストラのタスマニア・シンフォニーチューバ奏者とコラボいたしました。来年も2018年の1月もコンサートに訪れます」(右の写真は、それを報じた新聞)

 海外で演奏だけでなく、「琴教室」とか開かれているのですか。

「いいえ。外国で琴を聴いてもらうことはできても、現地のかたがお琴を習うことは、とても難しいのです」

 指導者が育っていないとか、そういう理由ですか、

「もっと物理的な壁です。たとえば、琴の弦の糸が一本切れたとしますよね。オーストラリアの現地で修理はできない。日本から「お琴屋」という特殊技能をお持ちの職人さんを呼ばなければならず、それではメンテナンスがとても高いものにつきますから」

 なるほど。それでは外国の琴教室は無理ですね。

                   *

 インタビューを通して、酒井さんと凡庸なひとの違いを考えてみた。

 多くの人は、東海道五十三次、古城を訪ねてみたい、音色の素晴らしい琴を習ってみたい、という願望や憧れはある。しかし、そこにとどまって行動に移されていない。

 酒井悦子さんは6歳の時に絵柄の美しい好い着物がきられるし、まわりの子はだれも筝を弾いていない、という素朴な気持ちで、琴の世界に入られた。
 いまや外国から来賓された国賓などのレセプションで、日本を代表する曲を筝で奏でる。外国の演奏活動では、日本を代表する国際派の奏者である。

 師匠の言葉『努力は裏切らない』が、まちがいなく輝く源泉となっている。

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酒井悦子さん・プロフィール


                    写真提供=酒井悦子さん

                                                【了】 

地球のかなたに奏でる国際派の箏(こと)演奏家(中)=酒井悦子さん

 酒井悦子さんは海外にも飛びだす筝曲家(そうきょくか)の国際派である。

 酒井悦子さんは、大田区・羽田に生まれ育っている。筝(こと・以下は琴)との出会いについては、
「私の母が日本的な稽古事として、3歳年上の姉に琴を習わせたかったのです。ところが、当時はオルガン、ピアノが人気でしたから、姉にはいやだと断った。その実、私は筝がとてもやりたかった」
 その理由はなんですか
「6歳の私は、筝をやれば、絵柄の美しい好い着物がきられるし、みた感じがかっこう良いと子どもながらに憧れていたのです。羽田のまわりの子は、だれも筝を弾いていない」
 実姉が断ったことで、酒井さんの人生が、小学1年生にして決まったのですね
「そうです。母親が週2日、羽田から蒲田の琴の師匠(生田流筝曲)の家まで、送り迎えしてくれた。一方で、遊びたい盛りですからね、ときには練習を怠けて稽古にいきました。先生がどういうシチュエーションのときだったのか、『努力は裏切らない』といわれました」
 そこから酒井さんは琴の第一歩を踏みだした。

 15歳で宮城流の免許皆伝となり、高校時代には沢井筝曲院に入門している。その後は、歌舞伎、芝居音楽、黒御簾音楽を第一人者である竹内道敬氏に師事する。1997年、NHK邦楽オーディションに合格した。

               *

 筝は日本の伝統楽器であるが、一般人には、その知識や歴史は意外と知られていない。酒井さんに語ってもらった。

 江戸時代には、三曲(さんきょく)合奏として「筝、胡弓(こきゅう)、三味線」の三種類の楽器が使われていました。
「筝は座敷芸ではありません。筝とお茶の直接の関係はないのです。盲人音楽家のあつかう楽器でした」
 それは意外だった。
 江戸時代半ばに、尺八(しゃくはち)が出てきますと、胡弓が衰退していきました。その結果として、現在では「琴、胡弓、尺八、三味線」を総称して「三曲」と呼ばれています。

 酒井さんは学校教育の場でも活躍されていますね。
「はい。1995年より幼稚園、小学校、中学校、高校まで、芸術鑑賞教室や体験事業として、筝の指導をおこなっています。最近の学校は和室がありません。台のうえに筝を置いて演奏いたします」
 時代が変わりましたね。
「そうです。小学生らははじめて直(じか)にみる楽器です。ものめずらしい顔をしています。アンパンマン、ジブリ、ディズニーソングで、まず楽しんでもらいます。そのうえで、伝統的な筝の曲「さくら さくら」などを演奏して教えています」
 教室で、ほかにはどんなことをされますか。
「筝という楽器では、こういう楽しいこともできるのよ、と。弾き方の特徴や演奏方法もわかりやすく指導しています。高学年の生徒には、民話などに曲をつけ、読み聞かせる演奏もおこなっています」

 子どもらのしつけ関連の本が、電子書籍で出版されていますね。
「いくつか出版しています。琴はとても高価な楽器です。教室で筝に勝手に平気でさわる子どもらがいます。『他人の物を勝手にさわらない。がまんする』。日本人の古来の良さ、辛抱、がまん、これらのしつけは琴の指導を通して、お教えしています」

 大人の世界でも、恥ずかしい、と思う感じ方が違ってきていますけれど、
「それはずいぶん感じます。『お互いさま』と相手を想う、気づかう、がまんする。ここらの倫理・道徳の良き価値感が失われつつあります」

 稽古場のしつけも変わりましたか、
「ここ10年で、随分ちがってきました。琴を習う子らに、姿勢をなおすとき、『さわっても、良い?』と断ってから、首や背筋に触れてをなおしています。過去にはなかったことです」
 芸能・芸術は、体罰とまでいかなくても、厳しく、という認識がありましたが、
「従前は、指導者が勝手に『背が曲がっているよ。姿勢が大事です』と叱り、勝手に双肩を触ったり、膝でも直接さわって正させていました。現在は、指導者が子どもに気を使う時代になったのです」
 手をぴしゃり叩くなどは、いまでは考えられないらしい。 

 子どもが琴を習う層としては、拡大傾向、縮小傾向、どっちですか、
「ご両親、親戚筋で、琴関連の和文化の音楽・芸能文化など携わっている家庭をのぞけば、まず自分からやりたい子どもはいません。およそ琴を観る機会がないですから」
 なるほど、
「琴は幅広く、奥が深いものですが、一般の人にはハードルを低くし、筝を解りやすく、興味を持ってもらう。『やりたいな、こういうのも良いな』と思ってもらう。『皆さん、気楽にとんとん扉を叩いてください、かんたんに開きます』ところからはじめています」
 それでも、門をたたく人は少ないのですか。
「お座敷のある家屋から、マンションへと住宅事情が変わってきました。マンションでは長い楽器の筝を、着物のような布から出す。ピアノのように、開いて、すぐ弾けないので。コトジを立てて調弦する手間もかかります」
 酒井さんは、琴は生活空間に制限されていると話す。


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酒井悦子さん・プロフィール


                    写真提供=酒井悦子さん


                       【つづく】