ジャーナリスト

大雨の「足立区花火大会」で活躍=プロ・アナウンサーの堀江慶子

 堀江アナウンサーは「足 立の花火」で区長、議長にインタビューをおこないました。その後、花火について解説者にインタビューという役目でした。

 大雨で、女子アナウンサーの浴衣はびしょぬれです。「花火があがりはじめると、雨もやみ、全プログラムの花火を楽しむことが出来ました」と話す。

 リハーサルの時撮った記念写真。出演のWコロンのお二人と、荒生キャスター(女性)、花火観賞士の木村さん。
 前列右端が堀江慶子アナウンサーです。

「昼には足立区の荒川土手に着きました。警備の皆さんが整列して準備したり、本部席では大雨に備えて忙しそうにされたりしていました」。

 そんな中、私たちクルーは生中継だから、本部前からリポートする時間など打ち合わせをしました。

「主催の皆さんに、放送内容を事前にきちんと伝える。とても大切なんです。主催は花火大会を楽しんでいただくことが一番。それをじゃましてはいけない。そのためにも、中継がこの時間から何分間あるので、とお願いし、区長、議長のスケジュールもあわせていただくのです」

 事前打ち合わせがきちんとできていれば、安心してリポートできます。それがいかに大切かを感じる瞬間ですとも語ってくれた。

(スプレー事件はどこだったんだろうか?)
 花火のリポート以外も気になり、堀江さんはその確認に行ってみたという。

 カウントダウンの準備。リポートしている本番の映像です。

「足立の花火」生中継はリハーサルが始まる午後3時過ぎから雨になり、番組が始まった午後7時には大雨となった。


     
 区長、議長へのインタビュー本番です。


 私は本部でインタビューし、ぬかるみのなか、中継会場まで移動し、最初は花火を見るどころではありませんでした。番組のなかでも、「私は気合で雨はきっとあがりますよ、なんて言いきってしまいました」と念ずる心の一端を語ってくれた。

 花火が打ちあがる7時半になると、小雨になり、大会途中から雨はすっかりあがり、今年の花火はひときは綺麗に輝いていたと話す。

 花火の後半の部で、私は花火鑑賞士木村さんにいろいろ質問と同時に解説していただきました。花火のことをもっと勉強して、視聴者の皆さんには、どういう花火なのか、少しでも分かりやすくインタビューできたらなあと思いました。

 プロアナウンサーは大雨でも浴衣姿で飛びまわる。ご苦労さまでした。

戦争か平和か。戊辰戦争で学ぶ。「二十歳の炎」は国会議員の必読書に

 江戸時代260年間は国内外で一度も戦争がない平和国家だった。明治時代になると、10年に一度は海外で戦争する軍事国家になり、日本人の庶民の多くの血をとてつもなく流させた、広島・長崎の原爆まで。
 戊辰戦争とはなにか。戦争と平和とは何か。「二十歳の炎」はそれを問う歴史小説である。

『歴史の真実はとかく隠される。それを掘り起こすのが作家の仕事だ』私は、同書のサイン本には、それを明記することに決めた。

 戊辰戦争は会津戦争ばかりが強調されて、仙台藩と相馬藩が官軍(広島藩など)とし烈なる戦いを行った。その歴史は明治政府から消された。
 広島の浅野家が明後40年代に編纂した膨大な『藝藩志』があった。明治政府は、それが世に出ると、「薩長倒幕」の化けの皮がはがれると、発禁処分にした。

 禁門の変で朝敵になった長州は、京の都に入れなかった。大政奉還も蚊帳の外、小御所会議で新政府ができるまで西宮(大洲藩の陣)と、広島・尾道に待機し、長州は倒幕にまったく関わっていなかった。それが『藝藩志』で如実に書き記されている。
「なんでも薩長」は後世の作家の作りものだ。

 政治家は主義主張は違っても、それは当然だが、真実の歴史認識は持っていただきたい。平和を願わない議員はいないけれど、ミスリードが怖い。
 戊辰戦争は平和か、戦争かの境目だった。わずかな判断の違いから、国家が大きく軍事国家に変わってしまった。歴史から学ぶ。それが国や国民のためになる。

 祝「山の日」推進委員のメンバーの私は、超党派「山の日」制定議員連盟の方と面識がある。アポを取り、厚かましく訪ねることに決めた。

 6月26日(務台俊介代議士・長野第2区)、27日(衛藤征士郎代議士・第64第衆議院副議長)に、千代田区の衆議院第一議員会館を訪ねた。

 それぞれの議員には、「二十歳の炎」の作品趣旨を説明させてもらった。そのうえで、幕末志士たちが頼山陽(広島藩)の「日本外史」を必読書にしたように、国政に関わる皆さんには、「二十歳の炎」をぜひ読んでほしい、とお願いした。(これって陳情かな?)

「私たちの勉強会にきて話してもらおうかな。その前に私が読んでみるよ」(務台俊介代議士)
「広島選出の自民党代議士に読んでもらおう」(衛藤征士郎代議士)

 こうした手ごたえを受けた。

【写真の説明】
 
 務台代議士(写真・左)監修「いま『山の日』制定」と、穂高健一(写真・右)著「二十歳の炎」をエール交換する。

 撮影は政策担当秘書の佐藤帯刀さん、衆議院第一会館、6月24日     

「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(下)

 人気アナウンサーの堀江慶子さんの活動を知りたくなった。同行取材となると、こちらも日程を合わせるのが大変だし、おおかた早朝から真夜中と、不規則な時間帯になるだろう。
 それは不可能だ。そこで、慶子さんから、取材中の写真の提供をもとめた。
「テレビカメラに向かっているので、終わった時に皆さんとの記念写真が多いのです」

 『けいこの街なび』はことし(2014年)4月から始まった。まずは、足立区ギャラクシティでクライミングにチャレンジだった。
「この岩場を登る、この体勢から、リポートしました」

 慶子さんは若いね。

「だって、若いもの」
 そんな答えが返ってきそうです。

 「けいこの街なび」は第2、第4木曜日に生中継です。

「ギャラクシティで中継後、ご案内頂いた坂下さん(女性)と、ディレクター、カメラマンの皆さんと記念撮影です。こちらは子どもたちが、落書きができるコーナーですよ」

 慶子さん、あなたがいたずら書きしたのでは?

「ばれたかしら。本番まえに、わたしがスタジオのキャスターのふたりを描きました」

 いたずら書きって、便利なことばですね。上手、下手は問わずですから。


「こちらは、『足立区綾瀬普賢寺バレーボール』の皆さんです。慶子の時間で取材にうかがいました」

 慶子さんのアタックしたところ、運動神経を知りたかったな。

「それはケーブルテレビで見てくださいね」

 再放送はあるのかな? ところで、ママさんバレーに男性がいるの?

「前列の男性は『NOXAH』というバンドの皆さんです。ゲストでいらして歌って下さいました」

 応援歌つきとはすごい。


「みなさんは『AGB467合唱団』の方々です。練習風景の撮影でした」

 国立音大卒のプロアナウンサーだから、最も得意とする分野ですね。

「そうです。もっと質問してください」

 どこにお住まいの方々ですか

「あら、私の音楽力のインタビューの質問じゃないの。♪♪♪足立区綾瀬4丁目、6丁目、7丁目の歌の好きなおじさま、おばさまたちです」

 次に行きましょう。

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国会議事堂で、初の映画試写会 = うみやまあいだ

 今年(2014)5月23日の参議院で、改正祝日法が賛成多数で可決し、成立した。祝日「山の日」が2016年8月11日から施行される。
 祝日「山の日」の制定は、登山活動を推進するためだけではない。山や森は海への栄養分の補給基地である。私たちの生活と深く関わりあう。祝日「山の日」は、私たちが山や森や川といかに向い合っていくべきか、その認識をより高めていく機会になるだろう。

 衆議院の衛藤征士郎議員(写真・中央)は、祝日「山の日」の意義について、そう語っている。

 同議員は超党派の議員連盟「山の日制定議員連盟」を推し進めてきた、中心的な存在だ。
「国会内からも、山や森の認識を高めていきたい」
 その趣旨で6月11日、国会議事堂のなかで、初の映画試写会を行った。

 宮崎正明監督『うみやまあいだ』~伊勢神宮の森から響くメッセージである。
 
 上映時間は79分である。
 宮澤正明監督はあいさつのなかで、「約10年間にわたり、伊勢神宮の写真を撮影してきました。静止画(スチール)の写真を映画(ムービー)にしました。テーマは森の大切さです」
 と語った。

 伊勢神宮を取り巻く5500ヘクタールの、優美で幻想的な森の写真が次々、映画のコマ送りのように展開されていく。伊勢神宮の神官たちの日常行事すらも、非日常的な美の風景のなかに溶け込む。その合間にはさまざまな職種のインタビューが入る。

 牡蠣(かき)を育てる漁師、生物生態学者、木材業者、宮大工、建築家、映画監督など多岐にわたり、それぞれが山、森、川、海を語る。みな含蓄があり、学べるものが多い。
 ナレーターがいないので、誘導されている感じもない。

 同映画の狙い(テーマ)は、山の栄養分が海の魚介類を育ているというものだ。最もわかりやすいのが、1300年の歴史をもつ、伊勢神宮の式年遷宮である。
 20年ごとに内宮(皇大神宮)、外宮(豊受大神宮)の14の全ての社殿を造り替える。それは破壊でなく、森の木を育むために不可欠な行事だという。

 今年つかわれた建築材は数百年前に、先人が植えた樹木である。伊勢と木曽の森で伐採されて運び出されてきた。神殿の建築材がいかに上質で丁寧に数百年もかけて育てられたか、と宮大工や山林業者が語る。学者などが説明を補完する。
 現在も「循環再生」で100年後、200年後の式年遷宮を見据えた植林が行われている。単に神殿の建築材を作っているのではない。山の栄養分が清流とともに海にそそぐ、そして魚介類の幸をうみだす。
 豊かな海を作るための式年遷宮だと教えてくれる。
 
「山と海の連帯を再認識させてくれる、良い映画だね。宗教色が色濃くなく、日本人が森と向かい合う人たちの姿を上手に描いている」
 衛藤さんは、同席した私に、そのように映画の感想を述べてくれた。

 2年後の祝日「山の日」がすべりだした今、同映画は、全国の山林の大切さを考える機会になる。私たちが山を大切にする。それは数百年後の子孫が生きるために不可欠な「海の幸の栄養づくり」なのだと教えてくれた。

【関連情報】

公式サイトhttp://umiyamaaida.jp/

うみやまあいだ

 宮澤正明監督のプロフィール
 1960年東京生まれ。日大芸術学部写真学科卒。
 1985年に赤外線作品「夢十夜」で米国ICP第一回新人賞。
 代表作「RED DRAGON」「伊勢神宮」「蝶LIVING IN JAPAN」

「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(中)

 堀江慶子さんは、人前で話すのが大好き人間だ。
「話すのが楽しく、人の話を聞くのも、楽しくて仕方ないんです」
 慶子さんはレポーターとしても、取材相手とたちまち仲良くなる。親しくなる、そんな性格だと話してくれた。

 足立ケーブルテレビとの出会いも面白いんです。父親からふいに、
「おまえにぴったりかもしれないね」
 と局の発足の新聞記事を見せられた。
 当時の慶子さんは、結婚後も、子育てに入っても、テレビ朝日やテレビ東京の番組、さらには千代田区の広報の番組をも担当していた。
「ケーブルテレビって、どんなことするんだろう」
 そのていどにしか思っていなかった。

 1月の成人式で司会をした折り、
「こんど足立区にケーブルテレビが出来るんですよね」
 とかるい話題の一つとして教育長にうかがった。
「堀江さんはとても明るく、元気一杯なので、もしかしたら、あなたに似合う番組があるかもしれないね。興味はありますか?」
 ある日、慶子さんが住むマンションの隣のビルに、ケーブルテレビの看板が出ていたので、びっくりしたという。

「あまりにも偶然なので、神様からやりなさい、と言われた気持ちになりました」
 約2週間後、教育長を介してケーブルテレビの社長室で面談した。同年4月からアナウンサーとして関わることになったのだ。
 ここでフリーのアナウンサーの道に入った。

 かえりみると、テレビ朝日「築地ホット情報」は5年半、テレビ東京「株式ニュース」9年半、千代田区は18年にわたる。この実績はケーブルテレビでも、エネルギッシュに生かされている。こちらもいまや18年が経つ。


 足立区を取材やインタビューで駆け回っていると、沢山の人との新しい出会いがある。とくに驚きの一つがノコギリ音楽だった。

『のこぎりキング下田』(足立区在住)は、世界一のノコギリを使った演奏をおこなう。
「えっ、ノコギリから音が出るんですか」
 慶子さんが下田さんにそう訊いたのが、いまから10年くらい前だった。話すうちに、おなじ梅島小学校の出身だとわかり、感激した。
 その縁から、下田さんのコンサートの司会を行う。

「音楽公演の司会は実に楽しいです。下田さんとは、いまでは家族ぐるみのお付き合いです」
 彼女の交流範囲はさらに広がっていく。


「私の父は警察官でした。退職してから地元綾瀬の警友会に所属し、いろいろな活動をしていました。その縁で、区内警察署の地域安全の集い、警視庁音楽隊の司会などさせていだたいております」
 慶子さんにとって、とくに印象深いのは平成10年7月、101番目の警察署として話題になった竹の塚警察署のイベントだ。その司会役だった、と話す。


 足立区内の魚屋さんを訪ねる。
 かつてテレビ朝日の「築地ホット情報」という番組を担当した時を思い起こしたという。当時は月曜から金曜日まで、太陽が昇る前の、早朝の東京中央区の築地に出向いていた。

 魚屋や魚市場の皆さんから、「大きな声がいいね、元気が出るよ」と褒められたものだ。その時の言葉がいまだに記憶に残る。
「私はアナウンサーに向いているんだ」
 そう自分に言い聞かせて励んでいる。

「慶子さんはちゃきっちゃきの江戸っ子だね。ヌルヌルしたヒラメを素手で触った女子はめずらしい」
 と妙に感心された、そんな記憶もある。

 最近の感動として、
「クリスマスに近い頃です。千住緑町のパン屋さんに取材にうかがいました。店の方が、頭にはトナカイの被り物で、学校帰りの子どもたちを迎えるんです」
 近所の子どもは、パン屋に立ち寄り、「ただいま」と挨拶してから、自宅に帰って行く。『街のお父さん、お母さん』という存在である。

「町全体が家族なんです。それには感激しました」
 アナウンサーとしてレポーターとして、町の人に触れ合うほどに、話すほどに、一般には得難い体験や知識やおどろきがあるのです、と慶子さんはなんども語った。
 
 下町・千住は『奥の細道』で、芭蕉が深川をスタートし、最初に立ち寄った宿場だ。当時の面影はさほど残っていないにせよ、宿場町のおとな・こどもの連帯感は受け継がれてきているのだろう。千住を代表する足立はそういう町場でもある。

「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(上)

 元気で、朗らかな、気さくな人柄は多くの人に好かれる。それが人間のつながり(連鎖)と拡大になっていく。プロ・アナウンサーの堀江慶子さんはじつに明るく、それを感じさせる。まさに、人柄と人徳だろう。

 慶子さんは国立音楽大学ピアノ専攻を卒業した後、テレビ局のアナウンサーとなった。
 人間は明るくても、落ち込んだりするものだ。明るい慶子さんの場合はどうなのだろうか。いきなり、失敗談を語ってもらおとしたけれど、

「わたし楽観主義なんです。みなさんが失敗だと思うことでも、『ああいい経験した』と思ってしまうのです。失敗という意識が薄いのです」
 彼女の辞書には、後悔、くよくよ、失意、落胆はないようだ。

「取材中に、むかしの私を知るひとに出会っても、変わらないわね、慶子ちゃんは。明るいね、とよく言われます」
 彼女にはつねに笑顔がある。

 テレビ朝日『築地ホット情報』、テレビ東京『株式ニュース』を担当した。千代田区広報番組『わが町千代田』、さらには日本フィルハーモニー交響楽団『ファミリーコンサート』などの司会を経て、現在フリーアナウンサーとなっている。

「こちらは足立区役所です。午後5時になりました、外で遊んでいるお子さん達はおうちに帰りましょう」 都民にはおなじみの有線放送だ。足立区の放送は慶子さんなのだ。

「この声のおかげで、足立区の住民とのつながりがいっそう深くなりました。子供ころ、お世話になった商店街や地域の皆さんが、あら、慶子さんの声だったの、と感銘してくれます」
  彼女にはよい宣伝塔(放送)になっているようだ。なにしろ、毎日、一回は区内のどこかで聞くのだから。無意識に、たとえ聞き流したにせよ、どこかに慶子さんだと、ごく自然に入っているはずだ。

 「子どもの頃」どんな性格の女子だったのか、慶子さんに語ってもらった。九州出身の両親のもと足立区・梅島で育った。3姉妹の長女だった。

「元気いっぱいの子供でした」
 慶子さんは迷いなくそう言い切った。

 幼稚園時代に木琴を担当した。それで音楽好きとなり、慶子さんはピアノを習い始めた。ちなみに父親は警察官だった。
「わが家に冷蔵庫やテレビを買う前に、テープレコーダー、ピアノを買ってくれました。それほど両親も音楽好きで、わたしがピアノを弾いていると、ご機嫌でした」

 慶子さんはピアノ、次女はピアノとエレクトーン、三女はバイオリンと、三姉妹はみな楽器を習っていた。音楽一家だった。

「ともかく、世話好きの性格でした。教室のオルガンを弾いてクラスメイトの歌の伴奏をしたり、小、中学校では生徒会役員に選ばれました」
 文化祭では司会を担当した。
「まさか、自分がプロアナウンサーになるとは、夢にも思っていなかったです」
 白鴎高校では、合唱のとき歌の伴奏をしていた。大人になったら、音楽の先生になるんだと、かたくなに決めて、それを目標としていた。 

 国立音大に入っても、ピアノ講師を目指して、子ども達にピアノを教えていた。

 大学の就職掲示板をみていると、アナウンサー募集が出ていた。
「わたしの今までやってきたことが、生かせるのではないか。子ども番組や音楽番組のアナウンサーをやってみたい」
 その想いが突如として募ったのだ。

 テレビ局に国立音大出の先輩はいないだろうか。学生課に問い合わせたうえで、テレビ局に電話を入れて先輩に会いに行き、アドバイスを受けた、と経緯を語ってくれた。

「いざという時は積極的になります。そのお陰で、合格したのかな、と思います」
 入社後に、人事課の方から『下町育ちの元気さがよかった』とほめて下さった、と慶子さんはつけ加えていた。

 テレビ朝日「築地ホット情報」やテレビ東京「株式ニュース」を担当が長く続いた。その頃、足立区役所の方から夕焼け放送のアナウンスをしてほしいと頼まれた。
 それを受けて、最初に録音したのが、今から23年ほど前だった。

 地元紙『足立読売』が、夕焼け放送のアナウンサーとして慶子さんを取り上げた。その記事を読んだ足立吹奏楽団」のメンバーから、足立区に音大出身のアナウンサーがいるなら、司会を頼みたい、と話が舞い込んできた。
 
それは『足立区成人の日の集い』の演奏にかぎった司会役だった。慶子さんは国立音大出だから、演奏会の司会は楽しいだろう、と引き受けた。

 
「せっかくなら、成人式の全体の司会をして欲しい」
 成人式の関係者から、話がさらに拡がった。
「じつは式典とアトラクションの間に、新成人が外に出てしまう人が多い。最後まで会場にいてもらえるよう、頑張って欲しいのです」
 と主催者から要請された。
「頑張るぞ」
 慶子さんはそこで張り切った。

 それから20年も経つ。今年(2014)も、「成人の日の集い」の司会を担当している。成人式の催しは毎年違う。同吹奏楽団との縁もその後に及び。その司会も平成6 年1 月のポップスコンサートより、連続42回目(21年間)担当している。
 双方とも、ロングランのお付き合いとなっている。

 慶子さんの話を伺うほどに、明るい人柄の人物はひとたび縁ができると、長く結びつくものだと思う。笑顔と明るい性格は人間関係を円満なものにする。歳月とか、回数とかが、まさに実証している。



いまはJ:COM足立のアナウンサーとして 生放送「デイリー足立」の「けいこの街なび」という中継リポータ―をしている。女子プロレスの皆さんと撮った写真を提供してもらった。
 慶子さんの明るい表情を如実に写し撮っている。

 フットワークが良い。慶子さんはすぐに現場に出むいていく。
「話すのが楽しい。ともかく、わたしに見合った職業です」
 堀江さんはいまや足立区内において最も人気のプロアナウンサーである。


                                   写真提供:堀江慶子さん

ここしか生きていく道はない=クラッシック歌手・川島由美(下)

 川島由美さんは正統派のクラッシック歌手である。活動の範囲は広く、昭和音楽大学の非常勤講師、東京都ヘブンアーティストの活動も積極的である。ソプラノ弾き語りスタイルで、上野公園、都営地下鉄(新宿西口駅)などにおいて日本の童謡、唱歌、世界の名曲を広める演奏活動をおこなう。

 「円盤投げと歌唱でつかう深部の筋肉は同じです」
 そう語ってくれた川島さんは、身体の軸の使い方などの指導をふくめた、ボイストレーニング講座の活動もおこなっている。

 石井武則さんは3年前から、川島さんから、町田教室でボイストレーニングで声の出し方を学びはじめた。最初の1時間は、胸、横隔膜、腹部の体操である。あとの1時間は歌の発声となる。
「声の出し方がわかりやすく、川島さんは上手に説明してくれます。知っている体験をすべて出してくれます。出し惜しみがない。それが魅力です。だから、生徒数が増えています」
 石井さんは彼女の誠意と情熱に感動し、「川島由美後援会」を立ち上げた。後援会の事務局長である。夫婦でコンサートには出むく。


 川島さんは5月20日に和光大学ポプリホール鶴川(町田市)で開催された『川島由美・CD「四季のうた」発売記念コンサート』では、童謡、歌謡曲、ミュージカル、オペラアリアまで、2時間21曲を歌った。
「すごい体力です。歌手が連続21曲など、ふつうはできません。歌う表情が豊かで、聴く人の心に届くソプラノシンガーです」
 石井さんは体力の賞賛のみならず、彼女の幅広い音域とレパートリーも讃える。秋葉原駅コンサートで聞いた直後だけに、それは納得できた。

 同駅に出むいていた『母よ』の作曲家の石黒さんは、川島さんについて、「母の力強さを明るいイメージで歌ってくれます。たとえ80歳、90歳の老齢になっても、その方が母を思い出すと、それは若い日の母親です。それを歌で表現してくれています」と話す。


 CD『母よ/この街で』が発売されている。このなかの「この街で」は、新井満さん(日本ペンクラブ常務理事)の作曲だ。
 日本ペンクラブは毎年3月3日に、「平和の日」を全国各地の持ち回りで開催している。(大江健三郎さんが提案し、国際ペン・本部ロンドンが3月3日に「平和の日」と決めてから、約25年間余りにわたりイベントを行っている)

 2005年の日本ペンクラブ主催「平和の日・松山の集い」の開催前日に、関係者が市役所に市長を表敬訪問した。「21世紀に残したいことば」で松山市長賞を受賞した「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい」が新井さんの目にとまった。この言葉に感動した新井さんが、即興で作曲した。翌日の1000人以上の大ホールで披露した。それが全国に広がったものだ。

 新井さんが日本ペンクラブのフォーラムなどで、折々に歌う曲だ。川島さんの「この街で」は、新井さん同様に感動をうまく歌唱していると思う。


 CDは 『四季のうた』(ダニーボーイ、アメイジンググレイス、津軽のふるさと、百万本のバラほか)などがある。それらは聴く人の感動を誘う。

 彼女のCDはすべて「手作りCD」である。世界の愛唱歌や名曲、明治から昭和までの叙情歌を選曲する。そして、演奏家や音響のプロの友人の力を借りて、デザインや入稿、選曲から、音の選定まですべて自分で手がけている。

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円盤投げの選手から、華麗なる音楽家への道=川島由美(中)

 東京都ヘブンアーティストたちは都営地下鉄の駅構内などでも、演奏活動をする。川島由美さんには演奏者の立場から、第1回「駅ライブ・イン・秋葉原」(主催はJR東日本)は従来(地下鉄駅)と比べて、どうですかと聞いてみた。

「地下鉄駅などでは、ふだんピアノ(ポータブル)を運んできたり、演奏者兼スタッフです。会場はコンコースですから、演奏でお客さんを集めるほどに、かえって乗降客の流れに邪魔になっていないかと、そちらも気になってしまいます。きょうの秋葉原はスタッフがしっかりついてくださり、聴く方の整理をしてくださり、良いスピーカーを使っているし、歌と演奏に集中できました」
 と明るく語ってくれた。
 
 コンサート会場のお客さんはチケットを買ってくるから、どんな曲、ジャンルでも、予備知識があり、じっくり聞いてくれる。駅の場合は、行き交うお客さんの足を止めないと聴いてくれない。その点の選曲について、川島さんに聞いてみた。

「テンポの速い曲でないと、お客さんは立ち去ってしまう、という焦燥感にかり立てられます。しかし、ゆったりした『月の沙漠(さばく)』などは不思議に、集まってくれるのです」
 聴く人は心をクリアし、気持ちを真っ白にしてから、歌に聞き入る。だから、足を止めて集中してくれるのです、と川島さんは解説してくれた。

 たしかに、『アメイジンググレイス』、『翼をください』、『ダニーボーイ』、『花は咲く』など、いずれも郷愁に満ちた曲であった。駅構内で立ち止まった聴き入るひとたちの顔を見ていると、心に邪念がなくなり(童心に戻る)、耳を傾けている表情だった。
「わたしが歌い、その歌が聴く人のものになるのです」
 そう語った川島さんは、30分間の持ち時間内で、最大限に郷愁を提供していた。

 母親の川島温子(はるこ)さんが、よき応援団として観客のなかにいた。どんな娘さんですか、と訊いてみた。
「努力家で、興味津々で、体力があります」
 音楽家の体力とはなにですか。
 高校時代の由美は円盤投げ、槍投げ、砲丸投げの選手だった。記録も持っていますと話す。砲丸投げとソプラノ歌手とはイメージと合わない。
 人生にどんな転機があったのか。

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第1回ステーションライブ・秋葉原で、川島由美が懐かしの曲を歌う(上)

 5月24日、JR秋葉原駅構内の2階コンコースで、生演奏の音楽が流れていた。利用客が足を止めて演奏に聴き入る光景があった。それは第1回「駅ライブ・イン・秋葉原」(Station Live in Akihabara)で、主催はJR東日本だった。
 主催者側の説明によると、JR秋葉原駅の生演奏は初めての試みであり、今後は月1回ほど開催したいと話す。東京都内でも乗降客の多いターミナル駅で、こうしたライブは東京駅に続くものだという。

 過去の日本国有鉄道時代を知る人たちにとって、4月、5月はじつに憂鬱(ゆううつ)だった。賃上げ闘争にからむ順法闘争で、乗客に迷惑をかけっ放し。通勤・通学の時間帯の満員の車内で、乗客は定刻通りに走らない電車にイライラし、ストレスがたまる一方だった。

 民営化した以降のJRには、乗客を大切にする考え方が浸透し、私鉄・地下鉄との競争激化から、より高いサービス向上をめざす。従前は駅構内の人の流れをいかにスムーズに流すか、そこに趣きがおかれていた。、現在は快適にも駅を利用してもらう発想から、構内でイベントがあちらこちらで行われている。
『駅ライブ・イン・秋葉原』のメインテーマは「心躍る時間をあなたに」である。足を止めて愉しんでも乗らう。まさに隔世の感がある。

 第1回は12時から17時まで、全4ステージを行う。各30分毎だった。

 STAGE1 『Dot & Line』(ドット アンド ライブ) NHKラジオなどに採用されているオリジナル曲

 STAGE2 『川島由美』(ソプラノ歌手) 弾き語りスタイルで、ピアノを弾きながら世界の名曲を歌う

 STAGE3 『TOMA』(トマ・苫米地義久) 自然派サックス奏者で「人がやさしく元気になる」ソロ演奏

 STAGE4 『沙羅璃』(しゃらり) 津軽三味線とバイオリンの和洋の楽器によるコラボレーション

 ステージの演奏者たちはすべて『東京都ヘブンアーティスト』(東京都の審査会に合格したアーティストやパフォーマンス・芸人たち)である。

 司会の田中杏奈さんは、「曲がはじまると、年齢や男女を問わず、多くの人が集まってくれました。聴き入る皆さんが心から楽しんでいるのが、伝わってきました」と話してくれた。

 STAGE2のソプラノ歌手の川島由美さんから、話を聞くことができた。曲目としては、『あの素晴らしい愛をもう一度』、『 琵琶湖就航の歌』、『四季の歌』、『みかんに花咲く丘』とつづく。なじみのある曲ばかり。駅構内のお客さんは、親しみをもって聴くことができたようだ。

 川島さんには演奏者の立場から、感想を聞くと、
「秋葉原駅のコンコースが広く、足を止めてくださった聴衆が多くて、気持よく、弾いて歌えました。心がかるく演奏できました」
 と心境を語ってくれた。
 音楽人生まで語ってもらうと、川島さんの意外な面が発見できた。

                         【つづく】

 

路上で、うたごえ喫茶アルバムを楽しむ=葛飾・亀有

 5月22日の午後、亀有駅の駅前で、男性五人のボーカルグループが、マイクを手にしていた。見た目には30歳代だ。
「これから『銀色の道』を歌います」
 どうせかれらの最新作だろう。そういう思いで通り過ぎようとした。歌われはじめたとき、
「むかし懐かしい曲だな」
 と足を止めて聴き入った。
 私は20代のころ北アルプスを中心とした登山に青春をかけていた。雪峰の登攀(とうはん)などは苦しくて、体力の限界を感じることも何度もあった。そんなときには口ずさんでいた曲だ。そして、自分を励ましていた。

 『銀色の道』が終わった。そのまま通り過ぎるつもりだった。次は『千の風になって』ですという。新井満さんの曲だから聴いていくか。

 2010年国際ペン東京大会で、新井満さんと私は同外交委員会に2人して出席した。英語、フランス語、スペイン語の同時通訳だが、難解だった。なにしろ、メキシコ政府のジャーナリスト弾圧が中心課題だったのだから。
 新井さんとは1日一緒して会食を含め、あれこれ語ったものだ。日本語どうしだから、ほっとしたものだ。新井さんもきっと同じだったと思う。2人の会話は弾んでいたから。それを思い出しながら、亀有駅前で、しばし聞き入った。


 かれらは「ベイビー・ブー」(Baby Boo)というボーカルグルーブだった。「新宿の歌声喫茶『ともしび』で聴いて、とても良い曲だと思いました。私たちはそれを歌っています。日本のよき歌を広めたい」
 かれらのリーダーのチェリーさんは語る。
 
『高校三年生』、『花は咲く』、『明日があるさ』、『星よおまえは』、『卒業写真』、『心の旅』、『北帰行』、『出発の歌』、『ともに見し夢を(仰げば尊し)』
 中高年層にはとても懐かしい曲が並んでいた。亀有駅前はバスターミナルだから、乗降客が足を止めている。

 「ベイビー・ブー」からさらに話を聞いてみた。
 かれらは神戸淡路大震災の翌年にできたボーカールグループです、という。震災直後は町が焼け野原で楽器などなかった。
「みんなして声を出して歌えば、復興の励みになる」
 それが発足の動機で、そうした活動が展開されてきた。


 東日本大震災3.11は3年経っても、メディアが復興への道と福島原発を追っている。作家の私も福島取材をおこないつづけている。

 神戸の場合は違っていた。
 町を焼きつくす大火災、高速道路の倒壊、都市型直下地震による大災害だった。次世代への教訓などいくつもあった。だが、数か月後には東京の地下鉄でサリン事件が発生した。これも、世界中を震撼させる大事件だった。メディアの報道が一気にそちらにシフトしてしまった。

 「ベイビー・ブー」2002年には、メジャーデビューした。神戸から東京にきた。しかし、まったく売れずに契約が解除になった。
 神戸淡路大震災よりも、東京発の報道は逃亡するオウム真理教教組や信者たちの追撃と逮捕劇だった。神戸から出てきたグループが取材で取り上げられることはなかったのだ。
「メンバーには家族もいる。食べさせていかなければならない。このまま解散になりたくない」
 その想いで、今日まで続けてきた。
 この間にメンバーは逐次入れ替わった。しかし、活動は停止しなかった。神戸から立ち上げたグループは、挫折の手前でも耐え続けてきたのだ。

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