【歴史から学ぶ】検疫の重要性を知ろう。後藤新平がつくった世界最大級の似島検疫所(下)
明治天皇の側近医師の、軍医総監の石黒忠悳(ただのり)が、広島の大本営で、だれを国家の重要な検疫総責任者にするか、と苦慮していた。
「入牢から出てきたばかりの、風来坊など論外だ」と陸軍次官の児玉源太郎が難色を示していた。石黒が推薦する後藤新平の方は、「軍医にはならない」と拒絶する。
双方の間を取り持った石黒は、軍医でなく、「陸軍検疫部事務官長」という事務方の役職名をつくった。児玉陸軍次官が渋々と折れた。
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後藤新平には速攻性と実行力がある。しかし、官僚時代から「大風呂敷の後藤」で、とてつもない予算を要求すると名高い。
「約11万人の将兵が、日本にいっきに帰還するのだから、巨きな検疫所でないと駄目だ。それでないと引き受けない」
後藤は、戦費に苦しむ陸軍に、150万円の要求を示したのだ。(当時の国家予算が8000万前後)。
その要求が認められると、後藤はみずから広島陸軍検疫所の似島(にのしま・広島市)に入り、寝る間もなく、突貫工事の陣頭指揮にたった。
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日清戦争の終結は、同年4月17日である。翌5月30日に、広島沖に似島検疫所が完成した。わずか2カ月で、後藤は当時として世界最大級の検疫所を造ったのだ。全国から軍医があつめられた。6月1日から開所し、検疫業務がはじまった。
6月7日には、北里柴三郎博士が、当時の新型「熱気消毒用機器」(蒸気式消毒液缶)の実験のために似島にやってきた。
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朝鮮半島からの帰還兵が、多種多様の細菌をもちかえってくる。
帰還者はまず似島の沖合に停泊した船内で、個別の検疫を受ける。そして、上陸する。
写真説明= 現存する検疫所の桟橋は二カ所あった。上陸してくる兵士用の桟橋。検疫をパスして帰船に乗る兵士用の桟橋。双方の接点となる「濃厚接触」を完全に避けている。後藤新平はドイツで学んだ衛生学の基本をここにおいた。
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靴と着ている兵士の服はすべて消毒器で消毒される。銃は屋外の指定場所に置く。クレゾールで除菌する。兵士の毛布は、100度ていどの熱湯の蒸気釜(高圧蒸気滅菌)で消毒する。
熱に弱い革製品、水筒はホルマリンを使った約60度の蒸気で、殺菌する。
兵士たちは整列して、消毒風呂に入る。全身を消毒液につけて雑菌まで除菌する。シャワーで消毒液を洗い流し、石鹸を使ってからだを洗う。休憩室で、お茶やお菓子がふるまわれる、約半日のコースである。
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似島は増築される。3カ所の総建坪は2万2,660坪、401塔がつくられた。保菌者は入院させられる。そのための「伝染病隔離施設」(病院)も設けられた。
皇室といえども、大陸帰りの者はすべて検疫した。目こぼしがなかった。同年9月から、コレラ患者が国内で激減している。
似島における検査数は、9万6168人、船舶441隻である。
前例のない大規模な検疫所だが、日清戦争関係だけでも、似島で戦う軍医や職員から53人もの死亡者を出している。
「検疫」がいかに医者や看護師や事務方のリスク(危険度)になっているか、よくわかる。
これら53人の犠牲をふくめた検疫官の上で、戦勝にわく日本が細菌列島から回避された、といっても過言ではない。もしも、後藤新平による似島検疫所ができていなければ、10年後に勃発した日露戦争の勝利などは、まちがいなく、あり得ない。
ドイツ皇帝(Wihelm Ⅱ)は、「検疫については、ドイツが世界一だと自信を持っていたが、この似島の検疫所には負けた」と語っている。
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後藤新平は国内外から絶賛された。台湾総督になった児玉源太郎からも高く評価されて、台湾民生局長に抜てきされる。
その後、満州総裁、拓殖大学学長、東京市長の時に関東大震災が起きた。内務大臣兼帝都復興院総裁として、東京復興が任された。
「地震はなんどもやってくる。100年先を見据えた都市計画にする」
と壮大なプロジェクトだった。
「風呂敷の後藤だ」と藩閥政治家に酷評されるし、高橋是清などに「100年後のビョジョンの巨額の資金よりも、被災者の日常生活のお金が優先だ」と反発されて予算規模が縮小された。
後藤は「挫折しても、何かを残す」という信条と信念で、都市の全身治療が無理ならば、区画整理(根幹の外科手術)を施した。
それだけでも、世界最大規模の復興をやり遂げたのである。
それから60年後だった。昭和天皇が「関東大震災の復興に当たって、後藤新平が非常にぼう大な復興計画を立てた。そのまま実行されていたら、おそらく東京大空襲の被害が軽かったんじゃないか。非常に残念に思います」と回顧されている。
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似島検疫所のその後を語っておこう。日露戦争では66万3443人、船舶数が1753隻とより大規模となった。
太平洋戦争の原爆投下後に、似島検疫所が被爆者救護施設になった。
被爆者たちの白血病が「赤痢」だと誤認されていた。伝染病患者として、被爆者の受け入れがつづいた。薬もすぐに底をつき、似島の施設はその日のうちに飽和状態になった。
広島が被爆後の20日間で、青少年を中心に1万人を越えた。完全に「医療崩壊」である。
死者が検疫所の火葬場で火葬されていたが、あまりにも急増から、それも間に合わなくなり、陸軍が掘っていた防空壕に入れられて埋葬された。
写真説明=「この島には、随所に幼い子供たちが埋葬されています。現在では、個々のお名まえがわからないので、『千人塚』としています」と教わった。
【歴史から学ぶ】
コロナウイルスの報道から、ニューヨーク市は医療崩壊し、大勢の死者に対して孤島に運び、棺を重ねて埋葬している。
それは似島検疫所の原爆の被爆者たちへの対応と、類似している光景だ。「コロナウイルスは第3次世界大戦」といったフランスのマクロン大統領のことばが真実味をもつ。
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最近の我が国の報道から、大学生が都市部から地方に帰省している。あるいは、若者たちが沖縄の孤島に遊びに行く。島民との「濃厚接触」が起きてしまう。
衛生学権威の後藤新平が、その濃厚接触を最も恐れ、大規模な検疫設備をつくった歴史を知らないからだろう。それ以前に、政治家が「濃厚接触」の回避の重要性をさしてわかっていない。だから、自主判断に任せている。
現在、わが国の島々には検疫所がない。ウイルス対策ができる高度な医療施設もない。この先、コロナウイルスが持ち込まれると、たちまち医療崩壊を起こす、重大な危険性がある。
長野からのSMSやフィースブックをみていると、家族ぐるみで軽井沢、八ケ岳山ろくの別荘に来ていると批判が多い。
だれがコロナ感染者かわからないと、地元住民の恐怖がつづられている。
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新型コロナウイルス対策の特別措置法が、4月8日に7都府県に出された。各知事が記者会見して、「外出自粛要請」や「施設の使用停止」などを発表している。
ことばは悪いが、この知事たちは選挙が目的ではないのか、と思う面が多い。
いまや、全国の知事たちは、『市町村の行政長に、措置の権限を委譲する』と処しないと、きめ細かく対策ができず、全国に急激にコロナウイルスがまん延する可能性が高い。
つまり、東京都、神奈川県、大阪府というような大枠で処する、それでコロナ封じ込めができない段階まで切迫してきているのだ。
市町村長に権限を委譲する。自治体の長には「緊急事態だ、非常時だ、住民票のもとに帰れ」という強い行政権まで与えないと、「自宅に留まらない」人間に、自主判断に任せていると、「一島全滅」を起こしかねない。
これは単なる危惧ではない。過疎化したといえども、1町村の人口の半分~8割の犠牲すらあり得るかもしれない。
写真説明=日清戦争・似島検疫所の焼却炉で、細菌付きの軍服が焼かれた。原爆投下のあと、被ばく死した青少年たちが火葬された。
私は瀬戸内の島育ちだから、「島には外科医がいない、嵐が来れば、病院がある本州に渡れず、手術もできず、死しかない」という現実がわかる。
検疫官などいない島に、コロナウイルスを持ちこまれたら、伊豆諸島、瀬戸内海の島々、沖縄の各諸島において、「一島全滅」は笑い事ではなくなる。肌でわかるのだ。
どこの知事とは言わないが、見るからにTVで顔を売っている。パフォーマンスが強すぎる。危機に接する民のことよりも、知事選挙用の自分を売り込んでいる、まるで権謀術策葉は覇道だ、と言われても仕方ないほど、市民にたいするビジョンがない。
後藤新平は『政治(行政)は万民のために、国を治す医者になるべきである」と唱えた。その後藤ならば、きっと「コロナウイルスが100年後にも起きる。現に、100年前にもスペインかぜでぼう大な犠牲者が出た。100年先の都市計画ビジョンにも資金を回す」と主張するだろう。
大勢の上に立つ人間が、なにかといえば「専門家に聞く」とふらず、みずからが後藤新平の「濃厚接触」が最も危険だとした「衛生学」、「国家は生命体である」というビジョンなど、しっかり勉強するべきだ。徹夜してでも。そして、自分のことばで民に語りかけるべきだ。
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かたや、勉強するほどに、政治家は自分の勉強不足に気づくだろう。となとる、コロナ記者会見は衛生局長あたりに「後藤新平の精神」で具体的な対処説明をさせた方が良い、という判断にたどり着くかもしれない。
住民の多くは、身近な明日への現実と、生活と、安全とを知りたいのだ。それを肝に銘じるべきだろう。