【歴史から学ぶ】わが国は新型コロナ禍で、社会システムは機能しているのか。天災か、人災か
新型コロナウイルスが、日本国内の人々に恐怖を与えている。人類の歴史はこれまで病原菌・ウイルスとの戦いでもあった。
動物から感染するウイルスの場合は、細菌よりも実態がつかみ難い。ウイルスの発祥もわかりにくい。ふつうに考えれば、疫病(えきびょう)は天災だともいえる。ただ、歴史をひも解けば、古今東西において、施政者の対応しだいでは、疫病がとてつもない被害を出してまう。
新型コロナにたいする中国・韓国のアジア諸国の対応、さらに欧米の大統領や首脳たちの緊急対策は、民に目をむけた真摯(しんし)な態度で、スピード感に満ちあふれている。
ぞれでも各国は、ロックダウンをもってしても、大規模な医療崩壊や、悲惨な感染者数と死傷者数で、なおも進行形している。世界的なパンデミックの終息はみえていない。
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わが国の場合は令和2年の年初から3月中旬まで、政治家の対応をみていると、頑張ってはいるが、ときには己の立場が優先で、真に民に目がむいているのか、と疑わしくなる面がある。
横浜港に入港したダイヤモンド・プリンセス号の検疫(けんえき)が、毎日のごとく、メディアに報じられることで、国民は新型コロナウイルスにふかい関心をよせはじめた。
大人だけでなく、幼少年、保育園児までも、「コロナ」ということばが飛びだしてくる。
裏を返すと、とてつもない恐怖におびえる人々の一面を示すものだ。
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4月15日に、北海道大学の西浦教授が「たいへん重大な局面に差しかかっている。いまの状況をつづけていると、重篤(じゅうとく)患者が85万人、半数に近い42万人が死んでしまう」と警告を鳴らした。
西浦氏は「厚生労働省の新型コロナクラスター対策班」のメンバーの一人である。諸々の対応策を述べている。
翌日には政府は公式見解ではないと反論した。
『いまのまま』ということばの裏には、政治家の現況の施策では、42万人の死者が出る可能性があるよ、という表現にも置き換えられる。そこの文脈が読み取れていない。遠回しな政府批判が解っていない。
100年前の「スペインかぜ」における日本人の死者は、1波、2波を合わせると、感染者数は2,357万4194人、死者は38万5029人という正確な罹災者の数字が、内務省衛生局に残っている。
当時の日本人の人口は、5,666万7328人である。
西浦氏はこのデータを解析し、『いまのまま』で行けば、42万人の死者も予見できる、と展開されたのだろう。
当時は、全国民にマスクをつけよ、と衛生局は大々的なキャンペーンをおこなっている。それは現政権と同じである。
他には、抗体は発見されていない。新薬は米国のギリアド社で「レムデシビル」の治験がはじまったとか、富士フイルムが開発した「アビガン」(流通されていない)とかが、新型コロナの治療薬と期待されている、と報道がある。
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新薬がすぐに使われる、そんな過剰期待は危険である。なぜか。「厚生省」は薬害裁判になんども懲(こ)りている。
薬害裁判は、5年、10年も長期にわたる。「羹(あつもの)に懲(こ)りてナマスを吹く」(前の失敗に懲りて、必要以上の用心をする)。「御身大切」で、早々に新薬を認可する体質はないだろう。
この先、新型コロナが爆発的な感染になっても、厚生省は一定の手続を踏まずして、ウイルス治療薬としてすぐ認可する体質などない。
政治圧力があっても、応じないかもしれない。政治家はいつか変わる。それがこれまでの官僚の考え方だ。どうしても、過去からの官僚の体質から、そう見立ててしまう。
とはいっても、官僚の正義感と勇気と、さらに国民的な危機管理をもって、新型コロナ対策の「社会システム」の一環として、正常な機能として働いてもらいたい。
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危機と危険はちがう。「危機」とは、システムが正常に機能していないときに起きる被害である。
「危険」とは、当人がぼっとしているから、突然に、余地なく起きてしまう。
つまり、「危機管理の重要性」を政治家も官僚も、十二分に持ってもらいたいのだ。
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プリンセス号の船内の大感染から、国内にまん延したら危ないと、多くの日本人は頭脳のなかで、アラーム(警報)を鳴らした。これを放置すれば、民に危険が及ぶ。政治家も同様だっただろう。
日本は「検疫(けんえき)システム」が満足に機能せず、かえって硬直化していた。スピード感が世界中において、最も見劣りがしている。これはだれの責任なのか。
国民は自由に検査が受けられない。どのメディアでも、庶民の悲鳴を報じている。……熱が出る、咳が出る、身体が重くても、コロナの検査が受けられない。病院でも、自宅でようすを見てください、といわれる。
これは社会システムの欠陥だ。
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この社会システムの欠陥は、政治家の恣意的(しいてき)なもので、2つの要因からしても、人災の面がある。言い過ぎだろうか。
① 政府は武漢が首都封鎖になっても、令和2年の最大行事として、「4月に予定している中国の習近平・国家主席の国賓としての来日」を期待してきた。それに拘泥(こうでい)した。
日本はつねに安全だと、メッセージを流しつづけてきたのだ。習近平氏の来日を諦(あきら)めたのが、ことし(2020年)3月5日だった。
② ただ、3月に入っても、なおも「東京オリンピック2020」7月開催への執念から、「日本は安全」「オリンピックは開催できます」と世界に発信してきた。
それには日本人の感染者が、極々、少ないことが条件になる。
厚生省(保健所)を窓口にして『外国渡航者」でなければ、検診できないシステム』をつくりあげた。海外渡航歴の有無がつよいフィルターになったのだ。
当然ながら、検体数が少なければ、日本国民のコロナ感染者数が低く抑えられる。
おおかた、WHO(世界保健機構)は苦情の一つも言いたかっただろう。しかし、出資金が大きい日本には内政干渉をしなかった。
国民は自由に診療をうける権利がある。しかし、熱があっても、病院にいっても、救急車をよんでも、満足に検査をうけられない。
これは社会のシステム障害である。
伝染病は保健所(下級官吏)を通さねばならない。
大学病院も個人病院の医師も、「保健所」というつよい検問が立ちはだかる。新薬の開発も厚生省の許可手順を踏まないと、使用は原則としてできない。
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日本国内の医者や、看護師や、介護士たちにすら、発熱、咳、倦怠感が出ても、渡航歴がないために、厚生省の「帰国者・接触者相談センター』というシステムが厚い壁になっていた。
このシステムの欠陥からコロナ検診が受けられない。
新型コロナウイルスとは、人が移動すれば一緒に動いていく。感染は海外からだけでない。国内でもまん延する。自明の理だ。
ウイルスは静かに深く全国に「院内感染」を広めた。
そして、時間の経過とともに、4月中旬には「院内感染の爆発」という事態に陥った。東京都の大病院までも、とんでもない院内感染となって出てきたのだ。
ウイルスが庶民よりも先に医者を害したのだ。
なぜ、こんな欠陥システムを長々と運用したのか。
行政マンが声高に欠陥を叫ぶ勇気がなかったのか。危機とは予見性である。それを口にするには勇気がいる。
オリンピック開催を強調する政治家たちに、かれらが忖度(そんたく)したから他ならない。
まさに政治家も、行政も体質が旧態依然としていた。
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2020年3月24日。『安倍総理大臣がIOC=国際オリンピック委員会のバッハ会長と、東京オリンピック・パラリンピックの開催を1年程度延期し、遅くとも来年夏までに開催することで合意した』と報じられた。
この日は、東京都のコロナ感染者数は17人である。1か月もたたずして、4月17日には200人を越えた。小池都知事(67歳)がおどろいた顔をしていた。オリンピックにこだわったから、コロナウイルスの潜伏患者を日本中に野放しにさせてしまった。
これまで口では「国民の命」を語りながら、自分の面子(メンツ)やトップという立場に拘泥(こうでい)してきた。つまりは、民の為につくす、という行政理念に欠けていたのだ。
「危機管理」の面で、まさに関東大地震のときの後藤新平東京市長の決意と比較してしまう。
いま東京都医師会がコロナ検査システムをつくろうとしている。行政がやらなければ、自分達がやる、という強い意志を感じる。
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誰にでも、判断ミスはある。それを咎(とが)めているのではない。謙虚(けんきょ)に人災だったと認めて、政治責任をしっかり感じてほしい。
その上で、「医療崩壊」のあとに予見される「経済崩壊」の諸策に取り組んでほしいのだ。
政治家は神さまでないことは解っている。「この人は信用できる。ミスも認めるし」という信頼度が、難局を乗りきる最大の武器だ。日本人は一つになれる民族だ。歴史がそれを証明してくれる。信頼で結束を強めてほしい。
德川家康の名言がある。『われ一人腹を切りて、万民を助く』。多くの人の命が助かるならば、自己犠牲もいとわない、というものだ。そういう政治家ならば、誰もがあとについてくる。
北海道・鈴木 直道さん(すずき なおみち、年齢 39歳)、
大阪府・吉村 洋文さん(よしむら ひろふみ、年齢 44歳)、
お二人はまさに30-40歳の若者だ。若者がコロナの媒体のように言われる昨今だが、かれらの熱意には、家康の名言が似合っていると思う。
写真・国立競技場=ネットより