ジャーナリスト

かつては、俺にもこんな青春があったのだ=高間完・高間省三

 高間省三の甥(おい)が、高間完(たもつ)である。

 高間完さんは、旧日本軍の海軍中将・勲一等である。子孫の宅に、(2017年)5月におじゃました。完さんは、すでに亡くなられているが、さまざまなお話を聞いたうえ、写真、史料の提供も得られた。

 ふたりの人物には、戦争の時代に生まれたがゆえに、『戦場に命をかけた、それが青春だった』という共通点がある。
 

【 写真・裏面、ルビ以外は原文通り】

 この写真は、大正七年(1919)第一次世界大戦終了の翌年 地中海方面より旗鼓堂々凱旋の記念として撮影したもの。

 旁々(かたがた)Malta(マルタ・地中海の島国).Vallettaに大きな書肆(しょし・書店)を開いていた親友のmr.Dimeche一家に贈ったものである。

 かつては、俺にもこんな青春(二十六)があったのだ。

 然し、それは海軍のために、全てを捧げつくしてしまったのだ。何の惜気も、未練も、執念も、はたまた悔恨もなく‼
              (八十五歳誕生日偶感)


 高間完は、第二特務艦隊の橄欖(かんらん)に司令官として乗船している。マルタ島など、各寄港地が明記されている。(公的・奉職履歴より)。橄欖は駆逐艦だった。

 第一次世界大戦が勃発すると、日英同盟の下で、旧日本海軍が第1~第3の特務艦隊をつくった。第二特務艦隊が地中海に派兵された。もっとも危険な海域に派遣されたのである。

 ドイツ潜水艦Uボートとの交戦など。1年半の派遣ちゅうに、同艦隊で雷撃をうけた駆逐艦「榊」乗組員ら78人が戦死した。


※1921年、昭和天皇が皇太子時代に、そのマルタ島のイギリス海軍基地に眠る日本海軍『第二特務艦隊戦死者之墓』に、戦没者の慰霊に臨んでいる。

※今年(2017)5月28日 安倍首相が同様にマルタ島を訪問し、同戦没者たちを慰霊した。


         【写真 : 高間省三 (撮影は慶応4年)】

 芸州広島藩の神機隊は、福島県・いわきから相馬藩・仙台藩連合の数千人の兵と戦う。わずか300人が激しく挑み、連戦戦勝の勢いをもって東北の雄・仙台藩を震えあがらせた。
 それがやがて奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の要である仙台藩の敗北、さらには戊辰戦争の結果につながった。(大山柏の戊辰役戦史より) 

 8月朔日に、戊辰戦争の天下分け目の浪江の戦いで、神機隊・砲隊長の高間省三は、敵陣の砦を奪った瞬間に、銃弾を顔面に受けて死す。


 旧日本軍において、軍人の必携書であった、『軍人必読・忠勇亀鑑』(明治26年1月発行)で、高間省三は『軍人は武勇を尊ぶべし』と優れた軍人のひとりとして採用されている。
 たとえば、徳川家康、加藤清正、新田義貞、佐々成政、前田利家、山田長政などがならぶ。戊辰戦争では高間省三ひとりだけである。

 かれの出征から3ページにわたり戦闘場面が紹介されている。結末には、

 江戸より奥州に向うとき、書を父に寄せて、いわく『兒(赤子・せきし)は、天皇のために死せん、と行動します。大人(親)は、願わくは喜びて哀しむなかれ、と。
 まさしく、その忠孝、義勇、天性に発するものなり。死するときは年わずか二十有二。筆は阪谷 朗廬(さかたに ろうろ) 【ルビ以外、原文通り】


 当然ながら、甥の高間完のポケットにも、伯父の載ったこの『軍人必読・忠勇亀鑑』が入っていただろう。


 親族の女性はインタビューのなかで、
「祖父・完をつねに尊敬していました。海軍兵学校には1年早く入り苦労したものだとか、いろいろ話を聞きました。しかし、伯父の高間省三はいちどもきいたことはありません。ネットで偶然にも、こんなも身近な、小説にもなる伯父さまがいたんだ、とおどろきました」
 と語っていた。


 高間完・高間省三、写真を見比べてみると、『俺にもこんな青春があったのだ』と燃える顔が似ている。

【良書の紹介】 列島縦断 「幻の名城」を訪ねて=山名美和子

 旅好きなも人、歴史好きな人、一日意義ある過ごしたい人には、このたび出版された山名美和子著「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」(集英社新書・760円+税)がお勧めである。

 山名さんは、お城に関して、日本で第一人者だ。と同時に、お姫様の物語は、現作家のなかにおいて右に出る人はいないだろう。
 緻密な取材で、それをわかりやすく読みやすく書かれる女流作家だ。

 お城には長い歴史がある。建物そのものには地形、地質に見合った構造の特徴がある。数百年の歳月を経て、武士たちが大切に守ってきた。それらが文化財として遺されている。
 それを簡素にして明瞭に紹介した「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」である。

 このところ雑誌コーナー、旅コーナー、歴史コーナーでは、お城紹介の美的な写真付きカタログ以上の出来栄えの派手な『日本の城』本が多い。住居が狭くなり、応接間に書籍に飾る時代ではなくなった。ネット時代でもあり、豪華本など、どこに置くの? 1円しか売れない時代である。

 といっても、旅先に持っていきたい手ごろな本はほしい。旅行ケースに、ちょっと忍ばせる。山名美和子著「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」は手ごろだ。旅先で、半日、一日の休暇過ごし方として、お城めぐりは知的であり、気分一新、旅情を醸し出してくれるものだ。

 同書の良さは、なんといっても首都圏のひとには、「大東京で探す『幻の名城』だろう」、お子様を連れて行けば、社会科見学にもなるし、家族で楽しめる。同書は、お城へのアクセスもていねいに書かれている。

 たとえば、江戸城はともかくとしても、平塚城(豊島園)、石神井城(石神井公園)、練馬城、渋谷城、世田谷城、深大寺城、滝山城、八王子城と、ここらのお城紹介が豊富だ。新書版の見開き(2ページ)、2ページ半くらいだから、なにしろ肩が凝らない。

 
 私は来週に広島にいく。備中松山城にも行ってみるつもりだ。広島からでは割りに遠い。岡山から伯備線に乗り、高梁駅前から乗り合いタクシー500円(要・予約)だ。そこから徒歩で登る。
 帰路も、そのタクシーの予約したら、『4時間もお城で何するんですか。飽きますよ。皆さん30分-長くても1時間です』と言われてしまった。
 藩主・板倉勝静の話をしても仕方ないので、日本一高い山城で、昼寝でもしていますよ、と曖昧にごまかした。
 
 3カ月前、前泊で、津和野に、明治初期のキリシタン弾圧の取材にいった。と同時に、津和野国学。藩主の亀井玆監(かめい・これみ)なども克明に調べた。
 さらには長州戦争で、津和野藩はなぜ幕府側についていながら、大村益次郎の軍隊を無抵抗でスルーして石州へ行かせてしまったのか。
 それなりに取材目的をはたしてきた。

 山名さんの「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」を開いて、津和野城は頭になかったな、失敗したな、と失笑した。


 城郭がなくても、歴史は楽しめる。私なりの実例を示すと、去年の秋、長州藩「萩城」(萩市)はないと知っていて、あえて取材に行った。
 山名さんの『幻の名城』にも、萩城は記載されていない実例だが……。

 明治維新の廃藩置県のとき、木戸孝允が藩主の毛利敬親(たかちか・通称:そーせい公)に両手をついて、「鎌倉時代から続いた武士制度を、ここで一気に無くしたいのです。武士の象徴となるお城を取り壊していただきたいのです。それには、毛利家からお手本をお見せください」と懇願した。
「つらいのう。どうしても、この城を取り壊さねばならぬのか」
「はい。徳川家をつぶした、戊辰戦争で平定したといっても、江戸(当時はもう東京)など東日本の民は御一新に満足しません。実のある、皇国・親政(しんせい)国家のため、西側の毛利家から、まず犠牲を払っていただきたいのです。毛利家の象徴の、お城を取り壊させてください」
「わかった。武家社会の終焉(しゅうえん)なんじゃな。余の代で、お城は無くしてもよい。緒家はともかくとして、萩城は取り壊そう」
 と敬親がいうと、木戸が涙を流していた。

 これが維新後の廃城第一号である。山口県の人は、これは毛利家のお殿様の大決断だといい、いまだ県民は萩城の復元を言いださない。

 坂下門外の変で、暗殺されかかった老中首座・安藤信正の「磐城平(いわきたいら)城」などは、戊辰戦争で自焼したあと、いまではお城の輪郭さえもわからない。

 山名美和子著『幻の名城』の副題には『コンクリート造りの城では満足できない人へ』がついている。
 古城に行って、城郭がなくても、地場の人から、口承を聞くのもひとつの方法だろう。まだまだ明治維新から150年である。話題がいっぱい残っている。それがお城歩きの面白さである。

 滝廉太郎の「荒城の月」を想い出させる城探しなども面白いだろう。

安倍内閣は日本人の生命と財産を守れ=1人の犠牲者も出すな

 日本の内閣は、日本人の生命と財産を守る義務がある。いまアメリカと北朝鮮との間で、一触即発の緊張感が高まっている。
 この緊張の間に割って入れるのは、日本である。まず、アメリカに先制攻撃をさせない。そして、日本と北朝鮮との対話のパイプを作ることだ。
 韓国は朝鮮戦争以来、まだ和睦ができていないので、日本しかいない、という認識が必要である。
 拉致問題はいったん棚上げにし、双方の外交パイプをつくることだ。北朝鮮は百数十か国と国交を持っている。日本がいつまでも外交関係を持たない。これは不自然で、意味がないどころか、危機を招く。まして、日本が北朝鮮を敵視する理由はない。

 日本のメディアは、北朝鮮の核兵器開発をやたら強調して、恐怖心を煽っていないだろうか。日本は原子力発電所を数多く持っており、ウラン、プルトニウムの保有量ではこれも世界最大級である。他国から見れば、潜在的核保有国に匹敵する。

 日本は自衛隊という世界でも屈指の巨大な軍事力を持ちながら、他国の兵器をとやかく言うのは、身勝手で内政干渉にもなる。国交・外交チャンネルの構築を目指して、緊急で、北朝鮮と日本が軍縮のテーブルにつくことだ。
 双方が対等の立場において軍縮、および核管理の問題で、話し合いの場を持つべきである。


 戦争はなぜ起こるか。「利益」、「恐怖」、「名誉」の三つだと、古代ギリシャのトゥキディデス(戦史を書いた人物)がいう。

『抑止』という言葉は、響きが良いけれど、緊張感を高める。相手に威嚇(いかく)を与えて、より武装を強化し、抵抗を強める。抑止で、という名のもとに空母を出し、つめ寄ることは、より相手を恐怖に陥れてしまう。
 日本海から離れて、元の基地にもどるべきだ。アメリカ人は北朝鮮と戦争をしたくて、トランプ大統領を選んだわけではないだろう。選挙中は保護貿易主義をめざしていたはずだ。

 北朝鮮に、抑止で、恐怖感を強めるとどうなるのか。どこの国の軍隊も、一枚岩とはいかず、必ずや強硬派がいる。暴発しやすい極右の部隊がいるはずだ。北朝鮮から先制攻撃をかけてくる可能性は、いまのトランプ政権下のやり方では、起きても不思議はない。
 偶発的なささいな銃撃戦からも、一瞬の小さなイザコザからも、大戦争になることがある。それは過去の大戦争から、なんども学んでいるはずだ。

 私たちは歴史から教訓を引き出すとすれば、身近なところで、長州戦争がある。第一次長州戦争は数十万の幕府軍が囲んで、家老3人の切腹、参謀4人の斬首で、まずは武力回避した。

 しかし、長州藩に高杉晋作という過激攘夷思想家が政権の座に就いたからと言い、徳川幕府は15万の兵力で、高杉政権の過激行動を封じる『抑止』をねらった。

 4か国連合艦隊の下関戦争によって、ひとつには巨大な賠償金が要求された。もうひとつは(徳川幕府が結んだ安政通商条約・西洋並みの20%)から、低関税率・5%へと引き下げたことだった。これはアヘン戦争で破れた清国がうけた屈辱5%と同率である。つまり、経済的植民地にさせられた日本の国家的屈辱であった。
 土地の租借はなかったにしろ、こんな長州藩の過激攘夷政権の暴走は許しておけない、排除、抑止するべきだ、という考え方による抑圧だった。

 14代家茂将軍(20歳)が江戸から、長州戦争のために大坂城までやってきた。広島表には、幕府軍が数万があつまった。徳川幕府はそれから長州藩に圧力をかけまくった。高杉・桂小五郎政権の内部崩壊を狙ったものだ。
 1年以上も、長州藩は「武備恭順」で、毎日、いつ攻められるか、と恐怖のなかに置かれていたのだ。武器はどんどん長崎の武器商人・グラバーたちから買いあさった。より軍事力を備えた。

 いまの北朝鮮のように、軍事訓練が過激化していく。

 慶応2(1866)年4月5日に第2奇兵隊の暴発が起きた。(全隊員数は100~125人で不詳)。幹部の立石孫一郎を隊長とした約100人の武装兵が、石城駐屯地(山口県・光市)から挙兵し、翌朝に遠崎港から5艘の船に乗り、瀬戸内海沿岸の湊に寄港しながら、4月9日には連島(岡山県)に上陸した。

 ちなみに、立石孫一郎は過激尊攘派で、かつて天誅組の戦い、生野の戦いの現場址をみずから足で歩いた経験がある。この挙兵は、倒幕および幕府の混乱・攪乱が目的で、直轄領の代官所を狙っていた、と戦術を学んだ。


 立石隊の狙いは上陸した翌朝から、幕府直轄領・倉敷代官所(約6万5000石支配)と、老中・板倉勝静の備中松山城を狙ったものだ。

 時系列で、わかりやすくいえば、同年1月20日に、桂小五郎と小松帯刀・西郷隆盛の薩長同盟が結ばれた。時おなじくして、幕府がもとめた長州処分案を天皇が勅許した。
 この圧力をもって、長州藩内では一段と緊張が高まった。

 立石孫一郎は翌2月から岡山・下津井に2度もでむき、挙兵の下工作をしている。予防的な先制攻撃をかける。(挙兵すれば、尊攘派が日本中から蜂起するだろうという考え方)。

 その計画を下に、岡山県の湊に上陸した立石隊長らは、4月10日には倉敷代官所を襲撃した。この代官所は長州戦争の補給基地(食糧・飼葉)で、尾道、三原に仮倉庫をもち、前線の広島表に送る役割だった。幕府にすれば、戦略的な兵站基地が狙らわれたのだ。
 備中松山城の藩主・板倉勝静は家茂将軍とともに大阪城にいて、実質・老中首座で長州戦争の統括者だった。総司令のお城を狙っていた。

 かれらは備中松山藩にむかう途中で、2番目の攻撃先として浅尾陣屋を襲った。浅尾家は見回り組の総大将であり、禁門の変のときには長州藩を撃破した。その恨みが長州藩内にあり、浅尾陣屋を放火した。

 立石隊は、3番目の攻撃先の備中松山城にむかった。ここで、かれらは駆けつけた岡山藩兵、備中松山藩兵、さらに広島からきた幕府軍に撃退された。そして、長州藩内の第2奇兵隊の基地に逃げ帰ってきている。

 幕府は、これを『長州藩からの先制攻撃』だとして、6月には4カ所から攻撃を行ったものだ。
 明治時代に入ると、薩長閥の政治家たちは、天誅組の挙兵、生野の挙兵を教科書で教えるけれど、第二次長州戦争の先端を開いた倉敷の挙兵は、重箱の隅っこにおいた。さも、徳川幕府が芸州口、小倉口、大島口、石州口の4カ所から、先に仕かけたと教え込こんできた。

 歴史の真実をしっかり教えないと、こんかいのように、北朝鮮とアメリカがきな臭い状況下になれば、なにが最も危険か、どう対処すべきか、と見定めがつかない。

 軍隊は極右の思想で暴発する。世界中のどの軍隊でも、おなじ危険性を持っている。北朝鮮のいつもTVに出てくるトップよりも、もっと過激思想の軍人が大勢いる、と認識するべきだ。
 
「いま、アメリカ軍を止められるのは、日本をおいて他にいない」
 安倍内閣は、中国やロシアに対話を任せきる傍観者になってはいけないし、外交ルートを即座に作ることが急務である。
 
 内閣の複数の大臣が、双方のパイプづくりで、北京から北朝鮮に入るべきだ。日本の大物政治家が入れば、アメリカはそう簡単には軍事攻撃などできない。


 ここは日本人を守るぞ、と度胸、気迫のある国政の政治家が出るか、出ないか。それで日本人の生命と財産が守れる否か決まる。党派を問わず、全員が国民の代表だ。ふだん代議士が口にする、政治生命はここにある。
『攻撃されて多少の犠牲者がでても、わが国の政治家には責任がない。悪いのは攻撃したほうだ』
 決して、そう思わないことだ。

 1人でも犠牲が出れば、熱くなるのが日本人だ。報復の連鎖を止めるのは、まずは戦争を起こさせない、国民が選んだ国政の政治家によるスピーディーな行動力だ。

      写真:Googleより

可憐に咲く『誰故草』に想いを寄せる=広島市・船越町

 『誰故草』なんて読むのだろうな。

 一枚の説明書を見たとき、「たれゆえ草」と名を記していた。

 歴史小説の取材で、船越公民館(岡田高旺・館長)を訪ねた。

 そこで、船越の町の花「たれゆえそう」の説明を受けた。
 

「幻の花」はかつて大江谷(おおえだに)で、自生していたという。

 平安時代の大江大納言は、毛利家(長州藩)の先祖だったはずである。

 「ほとんど絶滅する寸前にある花です」

 この船越町では、いちど姿を消している。

 いま保存会の方々が自生を試みている、と語っていた。

 天敵は、土を掘り返すイノシシだとも聞いた。



 
 歌人の藤原為兼(ためかね)が、安芸の国に流されてきた。

 京を想う為兼は、『誰故草』に寂しさを重ねて詠っている。

 船越中学校のグランドの一角で、地上から15-16センチの茎高さで、愛らしく咲いていた。

 これは人間が手を入れて育てた花だ、とわかっていても、この大江谷で『誰故草』に出会えるとは……、と妙にうれしかった。


 船越中学の久保大地くんが、2年がかりで紙芝居を作っていた。

 それを一枚ずつ読むだけでも、町ぐるみで、『誰故草』を誇りにしている、とわかる。

 江戸時代には自生で咲いていたという。

 歴史小説のなかで、主人公が想いを寄せる情景・情感で『誰故草』を組み込みたい。


 ※ 出会った方々が、地名を「広島市」と行政区でなく、かつての安芸郡船越町というイメージで語っているのにも、好感が持てた。
 

        (岩瀧神社の展望台から、船越町・海田町を望む)


 船越町はわずかな時間の滞在だったけれど、なおさら、紫色の花に出会えた、という特別に愛でた心持ちになれた。

福岡詩二 バイオリンの名演奏 = 大爆笑

 福岡詩二さんは、東京演芸協会の理事です。

 浅草・木馬座で、毎年、晦日には大道芸人たちが「大爆笑」させてくれます。ご招待を受けたので、撮影してきました。

 ヴァイオリン芸はすばらしい。笑いのプロ中のプロです。

 曲目は『荒城の月』です。

 動画で、5分間じっくり笑い転げてください。(左クリックで、数秒後から演じられます)

福岡詩二 バイオリンの名演奏

 生で観たい方は東京演芸協会のホームページを開いてください。

明治維新150年・「富国強兵」でなく『富国富民』の選択肢ならば……、歴史は変わっていた=中国新聞・岩崎誠論説副主幹

 中国新聞(本社・広島市)の2017年新年号・1月3日の「オピニオン」に、同社の岩崎誠論説副主幹による『大政奉還150年と近代日本』と題する記事が掲載された。
 テーマは『多様な歴史観から再検討を』という副題になっている。

 わたしたちは学校教育で、明治政府は「文明開化」、「明治からの近代化」、「富国強兵」とおそわってきた。どの教科書にも、それが3本柱となっている。国民はそう教え込まれてきたし、むしろ刷り込まれてきた。
 明治新政府の「富国強兵」は疑いようのない、正当な施策だと信じてきた。しかも、その強兵策は教育とともに太平洋戦争まで引き継がれ、あげくの果てには原爆投下におよんだ。

 悲しいかな、これは事実である。

 岩崎さんの同記事は、この維新150年を機会に、明治新政府の勝利者がつくった幕末・明治史観も、単に鵜呑みするだけでなく、みんなで検証してみようよ、と提案するものだ。
 そこには新しい発見もあるし、封印された新事実も出てくるだろうし、現代の人々が将来を見渡すときの基礎材料にもなるし、今後の政治のヒントもあるだろう。

 
 岩崎さんが、その趣旨で『二十歳の炎』の作者として、わたしに同行取材を申し込まれた。12月17日にいわき市に入り、20日まで、『芸藩誌』を片手に、ふたりして現地をみてまわった。

 それは単に戦い・戦場の確認にとどまらず、
「なぜ、戊辰戦争が起きたのか?」
「当事者の広島県民も、まして、福島県相馬市民までも、なぜ戊辰戦争・浜通りの戦いが知らていないのか。だれが歴史から消したのか」
「こと京都市の呼びかけで、『大政奉還150周年記念プロジェクト』が幕開けする。勝者も・敗者もなく、萩市、鹿児島市、会津若松市、阿部正弘ゆかりの福山市など21か所の時事団体が入っている。広島市はそれを袖にした」
 とジャーナリストと作家がまわりに影響されず、本音で事例検証して語り合った。


 京都市・佛教大学歯学部の青山忠正は、「薩長芸軍事同盟がむすばれた。これは歴史的事実である。それすら教科書にでてこない。3藩の圧力をもって大政奉還がなされた。(土佐はジャンケンの後出しと同じで、歴史に残った)。
 土佐のためにシナリオが狂ってしまった。薩長芸のシナリオ通りならば、また違う政府ができていただろう」
 と話されていた。
 紙面でも、青山教授は「明治からの近代化は、昭和10年代から、国家権力が跡付けし、流布したものだ」と紹介されている。

 実際には、ペリー提督が来航したとき、機関車、電信機、ミシン、あらゆる産業見本品を持ち込み、そこから近代化がはじまった。
 小栗上野介は横須賀に、大規模な製鉄所・造船所の一貫工場も手がけた。(製鉄所は昭和50年代まで、ドックは米国海軍・横須賀がいまもって使っている)。
 新橋⇔横浜間の蒸気機関車の発注は江戸幕府だった。(途中で、明治になり、外債の都合で米国から英国に鞍(くら)替えした)。
 どうみても、近代化は德川政権からだ。教科書では「近代化は明治から」と嘘をおしえている。

「明治時代の最初の発明は人力車なんですよね」という話題は、さすがに岩崎さんは記事にされていなかったけれど。 


 同記事は、穂高健一著「二十歳の炎」と、神機隊の藩士たちが中心となって編纂した「芸藩誌」との整合性についても、随所で紹介してくれている。

 私の意見の結論として、

 むろん歴史に「もし」は禁物だろう。穂高さんは「(広島藩の執政・家老級で、第一次、第二次長州征討において広島藩の非戦を貫いた)辻将曹(つじ しょうそう)のような、非戦論者が明治日本のイニシアチブを取っていたら、戦争を繰り返す軍事国家になっていたかどうか」と問いかける。
 
 富国強兵でなく『富国富民』の選択肢もあったはずであり、あるいは原爆投下も避けられたのではないか、と。大胆だが重い視点ではなかろうか。

 このように、岩崎誠論説副主幹が紹介してくれている。富国強兵でなく『富国富民』が、現代社会に広がり、流行語大賞にでもなれば、岩崎さんの正月号のオピニオンが、漸次、世の中の流れを変えていくだろう。


【関連情報】

穂高健一著「二十歳の炎」 

 出版社 : 日新報道
        03-3431-9561             

 定価 : 1600円+税

 販売先 : 全国書店(品切れの場合は、書店に取り寄せを依頼してください)、ネット販売

  ※ 左の「二十歳の炎」の写真の上で、クリックすれば、アマゾンに飛べます。

北朝鮮はことし2度の核実験。歴史から学べば、「経済封鎖は逆行なり」(上)

『歴史から学ぶ』
 それは現在の事象に対して、将来への予知、予測ができる洞察力を磨くことにもつながる。

 北朝鮮が今年度(2016)において2度も核実験を実施した。片や、ミサイル開発も進んでいる。この先、どうなるのか。評論家はメディアに出て、あれこれ言うが、推論ばかりで不透明だ。

 3年後、5年後、10年後の歴史学者や歴史作家、歴史マニアたちは、きっと
「北朝鮮は、2016年に2度も核実践を実施したのだから、当時の為政者は当然、こうなると予測できたはずだ」
 と見解を示すだろう。

 過去ならば、誰でもなんでも言える。

 ペリーが来航する1年前に、長崎のオランダ商館長から、アメリカ艦隊が来航すると、かなり具体的に予告されていた。ところが、老中首座の阿部正弘は、なんら手を打たなかったといい、ブログなどで、偉そうぶって批判する歴史通が多い。

 こうした人は教科書や作家のことばを真にうけて、それを既成事実とする。およそ独自の検証などないまま、歴史的批判をおこなう。当人は歴史好きでも、洞察力など養えない。


 阿部正弘は評定所に計り、幕閣ともども協議している。当時のオランダ情報はとかくガサ・ネタが多かった。鎖国の日本では、他国から裏付け情報が取れない。
「ペリー来航は本当か、うそか」
 もしもガサネタなのに、真にうけて厳重警戒すれば、現在のお金に換算しても、数十億円の出費がかかってくる。幕府には財力に余力がない。そこで、
 東京湾の入り口の浦賀周辺や、房総半島に、彦根藩と川越藩を張り付けるていどにとどめた。

 それをもって、阿部正弘には危機意識がなかった、という。歴史は後からならば、なんとでもいえる。

 自称・歴史通は、太平洋戦争の直前、アメリカは日本軍の無線を傍受して解析していたという。だから、パールハーバーの攻撃は、すべて筒抜けだった。それは事実だろうか。
 膨大な数の情報のなかに、事実が混ざっていても、的確に一つを事実認定できるのは至難の業だ。ましてや、司令長官がそれを迷いもなく作戦計画に落とし込むのは……。

 かりに、仮想敵国・日本の攻撃情報が特定できていたとすれば、自国民の兵士や家族に待避警告を発するだろう。隠しきれるものではない。
『一人が秘密を喋れば、7人に知れ渡る』
 
 真珠湾攻撃は筒抜けだった、と信じる方には、
「2016年に、北朝鮮が2度も核実験した」
 北朝鮮は〇年〇月〇日に、いずれの国にミサイル攻撃をしてくる、という予言者がでたら信じますか、ということばを返したい。

 世界中のどの国でもスパイ活動をやっている。アメリカからの情報、韓国、中国、北朝鮮の側近筋の情報、むろん日本の内閣府からも、核実験にたいする情報が入り乱れているはずだ。
 数十万、数百万の情報から、
『事実は一つ』
 その一つだけを取捨選択し、的確に言い当てられる人がいるだろうか。

 評論家の多くは、アメリカ、中国、ロシアなど軍事パワーバランスで今後の展開予測を語る。しかしながら、朝鮮の軍事歴史から、考察、洞察して語るひとが少ない。
「歴史から学ぶ」
 この王道の格言から、北朝鮮の今後を語っていくべきである。

                                       【つづく】

北朝鮮はことし2度の核実験。歴史から学べば、「経済封鎖は逆行なり」(下)

 150年前、朝鮮は興宣大院君((こうせんだいいんくん)の時代だった。日本と同様に、かたくなな鎖国政策をとっていた。1866年には、開国を強要するフランス軍が上陸し、侵攻してきた。朝鮮はそれに打ち勝った。フランスは大勢の犠牲者を出した。(日本が、長州征討の年)
 それから5年後の1871年には、アメリカが開国を要求し、力で侵攻してきた。朝鮮はそれも排撃した。当時の朝鮮は、ロシアに門戸を閉ざし、明治新政府となった日本からの、修好条約の要求を退けている。外国からの強要や威圧には、精神的にも強かった。

 かれらは朝鮮民族は優秀だ、世界最強の軍隊だという自負心をもった。そして、かれらは朝鮮全土に斥和碑を建てた。『侵略してくる洋夷と戦わなければ、結果はそれらと和することになる。和を主張するのは売国なり』と記す。

 その左側には、『わが子々孫々を戒めて、丙寅年(1866)年に創り、辛未年(1871)に建立するとする』と刻まれている。

 日清戦争後、朝鮮は日本の植民地にされてしまった。しかし、『和を主張するのは売国なり』と言い、太平洋戦争のさなか、金日成が独立への旗揚げした。かれらは旧日本軍とたたかった。

                    『写真 : 李朝時代の末期に活躍した興宣大院君』


 日本が敗戦で戦争が終結した。その後、朝鮮が南北に分断し、北朝鮮という国家が誕生した。朝鮮戦争においても、北朝鮮は最強のアメリカ軍を釜山まで追いつめていった。反撃に遭い、38度線で、和平に応じたのだ。

 朝鮮は内戦に強い歴史がある。TVなどで北朝鮮の国民が声高に、米帝国主義に打ち勝つ、というのも、そんな歴史的な背景があるからだ。

 日本の評論家や政治学者は、米国、中国、ロシアを中心としたパワーバランスで、北朝鮮の核武装を論じている。150年の近代史、現代史から、北朝鮮の軍隊的特徴があまり加味されていないのだ。


 いずこの軍隊も、突然変異的な軍事行動はまずしないものだ。民族的な特性や、過去の歴史的な特徴、そして現在の環境から軍事行動がきまってくる。

 朝鮮の特徴とはなにか。豊臣秀吉、旧日本軍とちがい、内戦は強いが、外国侵略をしないことだ。ここらは最も重要視するべき点だろう。


 イデオロギー面で、社会主義国家としてソ連は失敗した。中国もどちらかと言えば、もはや資本主義理論でまわっている。
 北朝鮮もこの先、経済的な資本主義に巻き込まれていくだろう。全体主義から個人主義へと静かな移行がはじまるはずだ。
 片や、狭い国土で、くり返される核実験は、国民に放射能被害をおよぼす。為政者が強行する核実験においても、ブレーキがかかってくるのは自明の理だ。


「攻撃は最大の防御だ」という日本人的な発想で、わが国が他国と共同歩調で北朝鮮に侵攻すれば、激しい戦争になるだろう。核兵器だって使ってくるだろう。

 朝鮮の150年の歴史をしっかり分析すれば、ミサイルを持ち、核を持った北朝鮮を「世界最強の軍隊の一つだ」とおだてておけば、満足する民族だ。

 アメリカが社会主義のキューバの核武装化に脅えた時代がある。ベトナム戦争で、北ベトナムの南下にも脅えた。それから半世紀たてば、和合しあえるのだ。
 中国と台湾がいまや手を取り合う時代だ。

 日本にはABCラインという経済封鎖で、太平洋戦争への突入になった苦い歴史がある。いま、北朝鮮の「核の使用」という過剰な恐怖におびえ、経済封鎖が声高になっているが、私たち負の歴史の経験からしても、それは逆効果になる。

 国連において制裁の決議でなく、経済面で、北朝鮮を世界市場へと導く、交易の門戸を大きく開くべきだ。ならば、世界中を駆け巡る北朝鮮のビジネスマンが大勢生まれる。社会主義からごく自然に資本主義に移行してくるだろう。

 個人にしろ、国家にしろ、制裁には報復がつきものだ。朝鮮はみずから軍事力で出てこない民族だけに、北朝鮮の軍事活動を国外へ呼びださないことだ。(旧日本軍のパールハーバーのように)。

 核の脅威を拭い去る最大の道は、北朝鮮の国民一人ひとりが、はやくに個人主義へと移行できる、加速させるように導くことだ。それが北朝鮮の核の拡大を根本から止めさせる道になる。歴史から導かれる最良の策だ。
 
 

                                            【了】

 

戦争が子どもらにどう影響するか = 世界報道写真展2016

 リニュアルした東京都写真美術館で、9月3日(土)から『世界報道写真展2016』が開催される。主催は世界報道写真財団(本部・オランダ)、朝日新聞社である。10月23日(日)まで。

 世界のプロ・ジャーナリストから約6000人、8万3000点を超える応募があり、その中から、大賞など選ばれた150点の入賞作品が紹介・展示されている。

 昨年(2015年度)は、難民がテーマになった。どうして、祖国から出たくなるのか。戦争が、どう子どもたちに悲惨な状況を醸し出しているか。

 報道記者たちは密着取材で、それを世に伝えている。

 今年の「スポットニュースの部」の大賞は、オーストラリアのウォーレン・リチードソンさんで、シリア難民の男性と子どもが、国境の有刺鉄線を越える瞬間を写し撮っている。

 警備隊に見つからないように、フラッシュなし、月明かりのもとで撮影されている。生死を分ける、強い緊張感が読み取れる。

 他にも、オランウータンの愛らしい子どもたちが展示されている。主催者の解説によれば、約10頭それぞれ母親がいない孤児です、と教えられる。とたんに、哀れになってくる。

 日本人カメラマンも、入賞している。チェルノブイリ原子力発電所事故の犠牲者を追う、組み写真である。

 主催者の世界報道写真財団によれば、世界中の100か所以上で、展示会をするという。

 こんかいは、大怪我の民兵クルド人がベッドに横たわり、医者の手当てを受けている写真が入賞している。ドクターの背後には、トルコが反社会運動主義者だと認定している人物のポスターが貼られている。


 トルコ関係者から、世界報道写真財団に、同国内の展示会では、その写真を外してほしい、と要請があった。
「私たちは、いかなる写真も外さない」
 と拒絶した。
 それで、トルコ国内の展示会はなくなったという。

 ジャーナリストたちは命をかけている。写真を通して、戦争の厳しさ、つらさを世に報じている。同財団は、政治圧力に決して屈しない、と強く打ち出したもの。その判断は高く評価し、賞賛したい。


【関連情報】

東京都写真美術館t
 
 観覧料は一般800円、学生600円、中高校生および65歳以上は400円である。

みごと東京都写真美術館のリニュアルオープン、『杉本博司 ロスト・ヒューマン』はおどろきだ

 東京都美術館が、約2年間の改装で、2016年9月3日から、リニュアルオープンする。同館は発足から21年目である。
『TOP MUSEUM』と名付けられた。9月1日、記者に公開された。荒木誠副館長がパワーポイントで、新たな施設を説明した。コンセプトは「また、訪ねたい、誰かに紹介したい」であり、美術館専用LED照明、可動式の展示壁です、と数々の特徴を説明した。

「TOPとはちょって恥ずかしいのですが」と同館事業企画課長の笠原美智子さんが、壇上で照れていた。「TOKYO PHOTO~、そういう意味か」と納得できた。そして、今後の展示スケジュールを発表した。


 内覧会の『杉本博司 ロスト・ヒューマン』では、まず杉本さんの説明から入った。杉本さんはニューヨークを拠点に活動されているアーティストである。

 サブタイトルが『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない』で、33作品を展示しているという。文学的にも、解ったような、判らないような、すんなり頭に入ってきにくい。 
 

「真新しくなった美術館なのに、作品が古くて、ぶち壊しのようですが……」という前書きが、杉本さんの口から何度もでてきた。
 それすら、意味合いが分からず、記者からも突っ込んだ質問は出なかった。


 同館の3階展示場に入って納得した。

 展示壁が、古く錆びたトタン張りだ。

「リニュアルの第1回の展示が、古くて、ぶち壊しのようですが~」という意味も理解できたし、これを企画した東京都写真美術館の大胆さにも、おどろいた。

「同館の企画段階では、きっとリスクの問題も出ただろうな」

 その意外性からしても、先頭打者、初球を一発、場外ホームランを放ったようだ。

 


 トタン板ののぞき窓から、艶めかしい女体が見える。

 『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれないけど、私は男に愛されるためだけに生まれてきました。中略、~老人が、私を最後に愛してくれた人でした。でも、ごめんなさい。私は不妊症。そして、この世に、人は生まれなくなったのです』

 1枚のわら半紙に手書きされた内容は、33作品とも読ませる。そうか、こうして人類が消えた、と杉本さんは展開しているのだ、と観る側を納得させる。

 


『文明が終わる33のシナリオを自身の作品や蒐集した古美術、化石、書籍、歴史的な資料などから構成しました』と杉本さんは語る。

『(この展示会をみれば)、私たちが作り上げてきた文明や認識、現代社会を再考せざるを得なくなるでしょう」と語る。

 
『地球の歴史からみれば、人間なんて、氷河期の後のわずかな時間に存在していた生き物ですよ』
 という言葉が強く印象に残ったし、展示会を見れば、十二分に説得力があった。


  文学にでも求められる、人間とは何か、文明とは何か、社会とは何か、歴史とは何か、永遠のテーマが33さんのシナリオを通して、ものの見事に表現されている。

 底流には、過剰人口と、人間の起こす戦争という内在されたふたつのテーマがよみとれた。


 これら33点は、私が過去に観た数々の展示会場で最も感動したものだった。老若男女を問わず、いちどは観ておかれるとよい。


 2階では、「廃墟劇場」 が展示されている。京都の「三十三間堂」の千手観音を幻想的な空間として表現している。

「平安時代の乱世の末法を現代に再現してみました。三十三、という数字、日本人は奇数が好きです。それはワビ、寂に通じています」
 杉本さんじしんは、その奇数にこだわると協調していた。


 私も、小説の作品タイトルには、かならず1、3、5、7文字の奇数をつかう。そこらは共通点を感じさせられた。