ジャーナリスト

平和は戦争の仮面をかぶる(3)

 平和は、子々孫々まで伝承できるとは限らない。政治家の平和や安全の連呼は、ときに戦争を招く凶器にもなる。

 戦争関連の法律ができる。そのうえ民衆の平和を脅かす類似の法律ができる。政府も、政治家も、メディアも、結果として『法律はつくり放し』である。『悪法も法である』という格好の餌食になる。これが戦争ガンの浸透になって、次世代で、戦争ガンが発病してくる。

『廃案に持ち込む』。国民は政治家なんて、嘘だ、そこまでやるはずがない、と見限っている。まやかし、口先だけの繕(つくろ)い。できた法律はもはやあきらめてしまう。ここに大きな戦争への落とし穴がある。

 戦争体験者が少なくなった今、「戦意高揚」を高々に謳(うた)った軍国主義時代すら、理解できない。過去の戦争がなぜ起きたのか。なぜ軍国社会になったのか。歴史から学び取るしかない。

 戦争に関連した歴史は、とかく政治家の都合よく歪曲やねつ造されやすい。教育にも悪用されやすい。

 松下村塾がなぜ『明治日本の産業革命遺産』になるのか。これなども、世界に向けた歴史の欺瞞(ぎまん)である。

 吉田松陰は安政の大獄で、危険思想の持ち主として斬首された。まちがいなく、松下村塾の寺小屋は江戸時代である。
 韮山の反射炉も、老中首座だった阿部正弘のもと、江川太郎左衛門がつくった江戸時代の遺産である。
 それなのに、「Meiji World Heritage Convention」と英文すらも明治である。

 世界にむかってまで、Meiji、となぜ嘘をつくのか。日本人として恥ずかしいかぎりだ。もう世界遺産として決まったものだ、とメディアの批判は影や形すらもない。これで良いわけがない。
 吉田松陰の『幽因録』は、歴史の検証として、日本人全体が知っておくべきだ。むしろ、教科書にこれを載せるくらいの勇気が必要だ。

 ※ 中公クラッシック「吉田松陰」より抜粋

『太陽は昇っているのでなければ西に傾いているのであり、月は満ちているのでなければ欠けつつあるのである。同様に国も隆盛でなければ衰えているのだ。

だから、よく国を保持するというのは、ただたんにそのもてるところのものを失わないというのみではなく、その欠けるところを増すことなのである。

いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャッカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。

また、朝鮮をうながして昔同様貢納させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである。しかる後に、民を愛し士を養い、辺境の守りを十分固めれば、よく国を保持するといいうるのである。そうでなくて、諸外国競合の中に坐し、なんらなすところなければ、やがていくばくもなく国は衰亡していくだろう」


 明治時代に入ると、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、第一次世界大戦、日中戦争(シナ事変、満州事変)、太平洋戦争と連続してくる。

 大陸侵略と、吉田松陰の『幽因録』と重ね合わせてみると、いかに危険思想家とわかる。これらを国民に広く教えずして、かたや江戸時代の松下村塾を世界遺産にしてしまう。

 これでは子々孫々まで、吉田松陰が世界に承認された思想家だと勘違いさせてしまう。現代から歴史を歪曲して送りだすことになるだろう。

 20年後、30年後、50年後においても、「Meiji」にふさわしくない、間違っている、と悪評がたち、正されるよりも、現代において『明治日本の産業革命遺産』の一部は事実誤認だったと、一部取り消し申請するほうがよい。

 世界遺産の取り消しは、他国で事例がある。
 だから、日本時の不得意な「廃止」「修正」、「廃案」の鍛練として、松下村塾、韮山反射炉など、江戸時代の建造物の取り消し申請からやってみよう。
 現政権で無理なら、次なる政権で勇気をもっておこなう。


 平和は黙っていれば、後退してしまうものだ。戦争に結びつきやすい法律は、あきらめで次世代に送ってはいけない。くり返しになるが、『法律のつくり放し』が最も危険だ。同次世代に生きたものとして、『廃案』へと挑戦する責任感が必要だ。
 アキラメという無責任さが戦争ガンとして、いつしか拡大し、発病してくる。

 多数決、政党政治で決めた。これが逃げ道になってはならない。政治家一人ひとりは与野党を問わず、自己責任で、再吟味のうえ、時代にそぐわない法律は責任を持って『廃案』にすべきである。

 平和は戦争の仮面をかぶる。江戸時代の農民一揆のように、命を掛けてまで、と言わないけれど、合法的に、日本人が最も不得意な、お上の決めた『危険な法律は廃案』へと追い込んでいくことだ。『安全、安心、自由』という視点で、ダメなものはダメと、廃案ができる政治の土壌づくりが、現在からの平和創造の出発点である。

 

平和は戦争の仮面をかぶる(2)

 太平洋戦争はとはなにか。
 日本が中国大陸において、満州国の独立を宣言し、国際連盟から総批判を受けた。諸外国から経済封鎖がされてしまった。
 それをもって、統帥部の山本五十六司令長官がパールハーバー(真珠湾)を攻撃した。むろん、国民のコンセンサスなど、みじんもない。

 マスコミが戦争を煽ったり、戦争への道筋を作ってきた面がある。政治家が事実を折り曲げたり、明らかに嘘をついたりしている。それを知りながら、大本営発表で、記事にしてきたのだ。政治家への批判精神が大きく欠けていた。政治家や軍部の嘘が、戦争のがん細胞となり、戦争を優先する国家へと、不随の国家になってしまったのだ。

 現代でも通用するが、政治家のウソを見過ごす、体質がマスコミにあることだ。あきらかに歪曲と嘘があると知っていても、次の記事ネタをもらうために、深く追及をしない。ジャーナリズムの本質の批判精神が、ポーズだけで終わっている。

 この頃はメディアの発信よりも、フェイスブック、ブログの方が真実味がある。鋭い追及や、良い勘所をもっている。
「龍馬の手紙発見」という記事に対して、文面、実物写真、専門家の「本物に間違いない」というコメントにたいして、見事なまでに異論を展開し、偽ものだと実証してみせるのだ。説得力がある。

 博物館の研究員の発表通り。そこに危険を覚えた。メディアの記者が目を閉じた。

 戦争とは何か。平和とは何か。わたしはそれを取材のテーマとし、片や、つねに自分自身に問いかけている。大砲や銃弾が飛び交っていなければ、平和なのか、それは違う。

『安全、安心、自由』の三つがそろった社会である。私はそう定義している。戦争抑止のためには、自衛の軍備は必要だ。国民の総意だったとしても、過剰になっていないだろうか。


 古代ギリシャ時代から、戦争の起きる理由は3つに要約できる。『利益』、『恐怖』、『名誉』、この三つは現代にでも十二分に通用する。軍事資源の確保、武器産業と政治家が裏利益で結びつく。ここらは狂いがない戦争理由だろう。

 過剰な武器と軍備をもつと、相手(仮想敵国)の国民や軍部に、じわじわ恐怖を与えていく。やがて、相手は自己防衛のためにと言い、先制攻撃をしかけてくる。抑止が戦争の原因になる。つまり、あいてに『恐怖』を与えすぎると、戦争になってしまう。

「平和」という耳ざわりの良いことばは、使い方によって戦争を招く凶器になる。
 
 東条英機が内閣総理大臣になった時、就任演説で、十数回も、平和ということばがでてくる。国民はみな平和社会がくると信じた。当時、中国大陸で展開されていた日中戦争の解決につながる、とも思った。
 まさか、2か月後に、パールハーバー(真珠湾)攻撃がなされる、海軍統帥部の頂点にいた山本元帥が、そんな準備をしているとは国民は想像もしていなかったのだ。

 政治家は口で平和を唱え、両手で銃弾を撃ち込む。

 太平洋戦争は軍艦マーチで始まり、国民総動員令で、個々人の自由を奪い取り、戦場へと駆り出されていった。そして、国内の民衆は大空襲で逃げ惑った。

 政治家や軍部は、きまって自己防衛、平和回復のため、という理由で突入する。最終目標は、平和社会を取り戻す、という理由だ。

 平和は政治家の道具にされやすい。政治家はいつも平和の仮面を被っている。

平和は戦争の仮面をかぶる(1)

 わたしは最近、徳川政権を倒す必要があったのか、と疑っている。教科書で、討幕は当然だと教えられてきた。その教えは正しいのだろうか。

 現代の視点で客観的に、日米通商条約の条約文を読めば、アメリカ側の方こそ、不平等だと怒ってもよいほど、日本が有利になっている。
 ここ2年あまり、わたしは幕末史講座で、日米和親条約の全文を一条ずつ読んで、研究してもらっている。異口同音に、「アメリカの方が、めちゃくクチャ不利ですね」とおどろかれている。
 明治の為政者が、「不平等条約だった、不平等条約だった」と決めつけたのは、現代のようにネットがないし、だれもが見ることができなかった。それを利用されたのですよ」と説明してあげる。
 さかのぼれば、天明・天保の大飢饉では、日本は食糧不足、人口増の慢性的な過剰人口に陥った。低い輸入関税の通商条約で、小麦粉、トウモロコシ、パンなど安価で大量な食糧物資が継続して輸入できた。飢えから日本は救われた。

 東北の諸藩など一つの藩で数万人、数十万人も飢え死するほど、飢餓の連続だった。攘夷派が主張通り、日本が開国しなければ、大変な天災による飢餓がつづいた。安政の通商条約のあとから、日本は飢饉が起きていない。(物価高の打ちこわし運動はあった)。

 はたして教育で習ったように、通商条約を結ばず、飢餓列島のままの方が日本は良かったのだろうか。国民が飢える。それを賛成する非人情な人は、現在ではいないだろう。

 餓死がどんなに悲惨か。雑草すら食べつくされてしまう。母乳が出ず、赤子が骨と皮膚になって死んでいく、五十歳になれば、姨捨山へ。二男三男は牛馬のように朝から晩まで働いても、凶作で稲が枯れね。食糧が尽きて大人も死んでいく。そんな世界はとても嫌だ。

 徳川家が判断した開国による通商条約は、継続的に、食糧輸入の大量の増加をもたらした。数十万人、数百万人の人命が救われたのだ。
 なぜ、現代の教育はここを教えないのか。歴史教育のなかに、一般庶民の目線が必要ないのだ。誰のための教育なのか、と疑ってしまう。

 徳川家の正しい判断だったはずだ。

 ペリー来航の直後、老中首座の阿部正弘は、『人が国家を救う』といっきに家柄主義から、人材登用は精鋭抜擢主義にかわえた。川路聖謨、永井尚忠、勝海舟、ジョン万次郎、なかでも、岩瀬忠震(ただなり)はとくに突出した人材だった。
「日本は岩瀬がいて幸せだった。ほとんど日本の言いなりの条約にさせられてしまった」
 ハリスが晩年に回顧している。
 岩瀬たちがハリスと延べ15回も会談し、粘りに粘られて日本有利な条約が締結させられたのだ。

 となると、二番手、三番手で条約を結んだ英、仏、ドイツ、オランダなどは、最恵国待遇から、岩瀬が結んだアメリカに右ならえになってしまったのだ。

 現代の教育者は、いまだ薩長政治家がねつ造した安政通商条約を悪の中枢のごとく教える。

 テロリストが井伊大老を狙われた理由は、水戸家と紀州家という徳川家どうしの将軍跡継ぎ問題であり、通商条約ではない。井伊大老自身は、勅許なしの条約締結に反対していたのだ。
ここからして違う。

 有能な永井忠震が、日本の将来を見渡し、通商条約に反対する井伊大老が示した開国条件の約束事のちいさな言葉尻を利用した。永井は『この条約が間違いなく日本のためになる』という確信の下に、わが命をかけて締結したものだ。つまり、確信犯だった。

 井伊大老は激怒して、長井をはじめとした条約締結の関係者を閉門・謹慎の処分にした。

 結果はどうだったか。日本は食糧危機から救われた。姨捨山の悲劇など皆無になったのだ。長野群馬、東北など、生糸輸出が盛んになり、大量の外貨が入り、餓死がなくなり、養蚕振興で潤った。海外の高度な産業生産物の輸入で、近代化が進みはじめたのだ。

 その日米通商条約の批准書交換で、小栗上野介たち3人の正・副使節団、伴侍たち約70人ほどがアメリカに渡った。小栗上野介たち遣米使節団が太平洋を渡り、なんどもアメリカ大統領にも、国務大臣にも会っている。(咸臨丸が遣米使節団を運んだは、嘘の歴史)。
 そこで見たものは、近代化された産業施設、民の豊かな生活だった。
 日本の将軍の外出は一万人の伴を連れる。大統領は伴などつれずに独りで、ぷらっと日本使節団に逢いにきた。この驚きは大変なものだったらしい。
 身分制度の破壊が強く印象づいたのだ。

 これからは大名家の政治じゃない。人民が、政治家を選ぶ社会に移行するべきだ、諸藩の政治から、大名を引き下ろし、身分が低くても県知事、州知事にする。使節団のほとんどが考えた施策だった。

 かれらはヨーロッパを回り、世界一周して帰国した。井伊大老は暗殺されていた。それでも、小栗上野介はフランスの資金導入を図り、開国による近代化を推し進めた。製鉄所、造船所、ホテル、総合商社、鉄道の発注、電信の導入など諸々のアメリカ・ナイズだった。

 大隈重信は「明治の近代化は、小栗上野介の真似ごとに過ぎない」とまで言われている。

 徳川家がそのまま新政権を担当していたならば、日本は大統領制になっていただろう。そして、欧米流の資本主義国家になったはずだ。

 資本主義とはひとことで言えば、「人」、「金」、「物」をまわして利益を創出することである。西洋諸国は産業革命後も、国内戦争なくして封建制度(経済用語)から脱却し、民を土地の拘束から解放し、自由に職業選択できる資本主義の国になった。

 19世紀の日本にも、その潮流がやってきた。商業が発展し、通貨システムはすでにできていた。徳川家は一歩を踏み出していたのだ。勘定奉行(大蔵大臣)の小栗上野介などは典型的な近代化推進派で、民間投資で、資本金100万両(現1000億円)の総合商社を作って成立させた。まさに、資本主義だ。

 徳川家のトップ層は、関ヶ原からの群雄割拠(大名家支配)の封建制から脱却し、中央集権政治となる郡県制(現在の都道府県知事による政治)をめざしはじめた。そのうえ、アメリカ式による大統領制までも検討していた。

 薩長閥の政治家でなくても、徳川家の有能な閣僚たちで、資本主義の新国家はつくれたと思う。帯刀禁止、丁髷などは西洋化でごく自然に消えていっただろう。西洋に貴族文化が消えたように。なにしろ技術の物まねが得意で、洋物・洋風の文化に敏感な民族だから。

 徳川家のまま政権を継続させていた方が、軍事国家にもならず、大陸侵略もなく、アメリカ方式の資本主義が発達し、太平洋戦争という悲惨な惨事まで引き起こさなくても済んだだろう。

 そのひとつの根拠は、徳川家が260年間にわたり一度も海外と戦争していない穏便な政権だったことだ。その実績は高く評価できる。
 最近では「江戸時代は鎖国」という認識は不適切だといわれている。徳川家は細々だが海外と交易しながらも、いちども戦争していないのだ。
 
 江戸時代で唯一、薩英戦争、長州戦争のみが外国との戦争だった。その当事者の薩長の下級藩士が、過激テロリストを国内にはびこらせた。徳川政権下の安定した治安をかく乱した。

 最近は、国立国会図書館や各地の大学・公文館などでデジタル化が進み、過激派攘夷派たちの日記や手紙などが、かんたんに検索できるようになった。これまで隠されていた新事実が次づぎに出てくる。

 薩長の密貿易。のみならず、たとえば大久保利通日記から、薩摩藩は大量の二分金の贋金を鋳銭し、大坂でばら撒まいていた。当人が記している。150年後に、贋金づくりの指図までも、克明に記録された自分の日記がデジタル化されるとは思ってもみなかっただろう。
 西郷は江戸では騒擾(そうじょう)を起こし、強奪、略奪、江戸城・二の丸放火、美女狩りなど、とてつもない不法行為をしている。まさに、市民の敵だった。

 大坂では贋金、江戸では騒擾、という不法な過激派だ。
 大政奉還で明治新政府ができたのに、薩長の下級武士の過激派が鳥羽伏見の戦いでクーデターを起こし、やらなくてもよい戊辰戦争で、政権を奪い取った。

 そのうえ、明治の政治家が幕末史を歪曲し、ねつ造し、義務教育制度を作り、全国民に嘘を落とし込みしてきた。
 西洋の植民地時代は無くなっていた。にもかかわらず、日本政府は明治以降の中国大陸への侵略の口実として、『日本は幕末から欧米の植民地になる恐れがあったから、軍備拡張は当然である』と教えてきた。
 歴史が軍事国家づくりに悪用された。軍国少年、軍国将兵が最も有能な人間だと信じ込ませた。教育の怖さである。

 いまならば、小学生でもPCで、日米通商条約の条約文を読める。第2条など読めば、日本がもはやこの段階で、欧米の植民地にならないとわかつてくる。
 当時は、不平等条約といえば、国民は信じた。「お上の言うことだ」という江戸時代の慣習が悪用されたのだ。教育者を含めて、国民はみな信じた。
 まさか、日米通商条約の条文が、一般庶民まで読める時代が来る、と明治政府は思わなかっただろう。
 現代の教育者でも、同条文を読まずして、薩長閥の政治家・学者のスローガン「不平等条約」をうのみにして教えているひとがいる。
 ここらは改善された方がいい。

かつては、俺にもこんな青春があったのだ=高間完・高間省三

 高間省三の甥(おい)が、高間完(たもつ)である。

 高間完さんは、旧日本軍の海軍中将・勲一等である。子孫の宅に、(2017年)5月におじゃました。完さんは、すでに亡くなられているが、さまざまなお話を聞いたうえ、写真、史料の提供も得られた。

 ふたりの人物には、戦争の時代に生まれたがゆえに、『戦場に命をかけた、それが青春だった』という共通点がある。
 

【 写真・裏面、ルビ以外は原文通り】

 この写真は、大正七年(1919)第一次世界大戦終了の翌年 地中海方面より旗鼓堂々凱旋の記念として撮影したもの。

 旁々(かたがた)Malta(マルタ・地中海の島国).Vallettaに大きな書肆(しょし・書店)を開いていた親友のmr.Dimeche一家に贈ったものである。

 かつては、俺にもこんな青春(二十六)があったのだ。

 然し、それは海軍のために、全てを捧げつくしてしまったのだ。何の惜気も、未練も、執念も、はたまた悔恨もなく‼
              (八十五歳誕生日偶感)


 高間完は、第二特務艦隊の橄欖(かんらん)に司令官として乗船している。マルタ島など、各寄港地が明記されている。(公的・奉職履歴より)。橄欖は駆逐艦だった。

 第一次世界大戦が勃発すると、日英同盟の下で、旧日本海軍が第1~第3の特務艦隊をつくった。第二特務艦隊が地中海に派兵された。もっとも危険な海域に派遣されたのである。

 ドイツ潜水艦Uボートとの交戦など。1年半の派遣ちゅうに、同艦隊で雷撃をうけた駆逐艦「榊」乗組員ら78人が戦死した。


※1921年、昭和天皇が皇太子時代に、そのマルタ島のイギリス海軍基地に眠る日本海軍『第二特務艦隊戦死者之墓』に、戦没者の慰霊に臨んでいる。

※今年(2017)5月28日 安倍首相が同様にマルタ島を訪問し、同戦没者たちを慰霊した。


         【写真 : 高間省三 (撮影は慶応4年)】

 芸州広島藩の神機隊は、福島県・いわきから相馬藩・仙台藩連合の数千人の兵と戦う。わずか300人が激しく挑み、連戦戦勝の勢いをもって東北の雄・仙台藩を震えあがらせた。
 それがやがて奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の要である仙台藩の敗北、さらには戊辰戦争の結果につながった。(大山柏の戊辰役戦史より) 

 8月朔日に、戊辰戦争の天下分け目の浪江の戦いで、神機隊・砲隊長の高間省三は、敵陣の砦を奪った瞬間に、銃弾を顔面に受けて死す。


 旧日本軍において、軍人の必携書であった、『軍人必読・忠勇亀鑑』(明治26年1月発行)で、高間省三は『軍人は武勇を尊ぶべし』と優れた軍人のひとりとして採用されている。
 たとえば、徳川家康、加藤清正、新田義貞、佐々成政、前田利家、山田長政などがならぶ。戊辰戦争では高間省三ひとりだけである。

 かれの出征から3ページにわたり戦闘場面が紹介されている。結末には、

 江戸より奥州に向うとき、書を父に寄せて、いわく『兒(赤子・せきし)は、天皇のために死せん、と行動します。大人(親)は、願わくは喜びて哀しむなかれ、と。
 まさしく、その忠孝、義勇、天性に発するものなり。死するときは年わずか二十有二。筆は阪谷 朗廬(さかたに ろうろ) 【ルビ以外、原文通り】


 当然ながら、甥の高間完のポケットにも、伯父の載ったこの『軍人必読・忠勇亀鑑』が入っていただろう。


 親族の女性はインタビューのなかで、
「祖父・完をつねに尊敬していました。海軍兵学校には1年早く入り苦労したものだとか、いろいろ話を聞きました。しかし、伯父の高間省三はいちどもきいたことはありません。ネットで偶然にも、こんなも身近な、小説にもなる伯父さまがいたんだ、とおどろきました」
 と語っていた。


 高間完・高間省三、写真を見比べてみると、『俺にもこんな青春があったのだ』と燃える顔が似ている。

【良書の紹介】 列島縦断 「幻の名城」を訪ねて=山名美和子

 旅好きなも人、歴史好きな人、一日意義ある過ごしたい人には、このたび出版された山名美和子著「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」(集英社新書・760円+税)がお勧めである。

 山名さんは、お城に関して、日本で第一人者だ。と同時に、お姫様の物語は、現作家のなかにおいて右に出る人はいないだろう。
 緻密な取材で、それをわかりやすく読みやすく書かれる女流作家だ。

 お城には長い歴史がある。建物そのものには地形、地質に見合った構造の特徴がある。数百年の歳月を経て、武士たちが大切に守ってきた。それらが文化財として遺されている。
 それを簡素にして明瞭に紹介した「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」である。

 このところ雑誌コーナー、旅コーナー、歴史コーナーでは、お城紹介の美的な写真付きカタログ以上の出来栄えの派手な『日本の城』本が多い。住居が狭くなり、応接間に書籍に飾る時代ではなくなった。ネット時代でもあり、豪華本など、どこに置くの? 1円しか売れない時代である。

 といっても、旅先に持っていきたい手ごろな本はほしい。旅行ケースに、ちょっと忍ばせる。山名美和子著「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」は手ごろだ。旅先で、半日、一日の休暇過ごし方として、お城めぐりは知的であり、気分一新、旅情を醸し出してくれるものだ。

 同書の良さは、なんといっても首都圏のひとには、「大東京で探す『幻の名城』だろう」、お子様を連れて行けば、社会科見学にもなるし、家族で楽しめる。同書は、お城へのアクセスもていねいに書かれている。

 たとえば、江戸城はともかくとしても、平塚城(豊島園)、石神井城(石神井公園)、練馬城、渋谷城、世田谷城、深大寺城、滝山城、八王子城と、ここらのお城紹介が豊富だ。新書版の見開き(2ページ)、2ページ半くらいだから、なにしろ肩が凝らない。

 
 私は来週に広島にいく。備中松山城にも行ってみるつもりだ。広島からでは割りに遠い。岡山から伯備線に乗り、高梁駅前から乗り合いタクシー500円(要・予約)だ。そこから徒歩で登る。
 帰路も、そのタクシーの予約したら、『4時間もお城で何するんですか。飽きますよ。皆さん30分-長くても1時間です』と言われてしまった。
 藩主・板倉勝静の話をしても仕方ないので、日本一高い山城で、昼寝でもしていますよ、と曖昧にごまかした。
 
 3カ月前、前泊で、津和野に、明治初期のキリシタン弾圧の取材にいった。と同時に、津和野国学。藩主の亀井玆監(かめい・これみ)なども克明に調べた。
 さらには長州戦争で、津和野藩はなぜ幕府側についていながら、大村益次郎の軍隊を無抵抗でスルーして石州へ行かせてしまったのか。
 それなりに取材目的をはたしてきた。

 山名さんの「列島縦断『幻の名城』を訪ねて」を開いて、津和野城は頭になかったな、失敗したな、と失笑した。


 城郭がなくても、歴史は楽しめる。私なりの実例を示すと、去年の秋、長州藩「萩城」(萩市)はないと知っていて、あえて取材に行った。
 山名さんの『幻の名城』にも、萩城は記載されていない実例だが……。

 明治維新の廃藩置県のとき、木戸孝允が藩主の毛利敬親(たかちか・通称:そーせい公)に両手をついて、「鎌倉時代から続いた武士制度を、ここで一気に無くしたいのです。武士の象徴となるお城を取り壊していただきたいのです。それには、毛利家からお手本をお見せください」と懇願した。
「つらいのう。どうしても、この城を取り壊さねばならぬのか」
「はい。徳川家をつぶした、戊辰戦争で平定したといっても、江戸(当時はもう東京)など東日本の民は御一新に満足しません。実のある、皇国・親政(しんせい)国家のため、西側の毛利家から、まず犠牲を払っていただきたいのです。毛利家の象徴の、お城を取り壊させてください」
「わかった。武家社会の終焉(しゅうえん)なんじゃな。余の代で、お城は無くしてもよい。緒家はともかくとして、萩城は取り壊そう」
 と敬親がいうと、木戸が涙を流していた。

 これが維新後の廃城第一号である。山口県の人は、これは毛利家のお殿様の大決断だといい、いまだ県民は萩城の復元を言いださない。

 坂下門外の変で、暗殺されかかった老中首座・安藤信正の「磐城平(いわきたいら)城」などは、戊辰戦争で自焼したあと、いまではお城の輪郭さえもわからない。

 山名美和子著『幻の名城』の副題には『コンクリート造りの城では満足できない人へ』がついている。
 古城に行って、城郭がなくても、地場の人から、口承を聞くのもひとつの方法だろう。まだまだ明治維新から150年である。話題がいっぱい残っている。それがお城歩きの面白さである。

 滝廉太郎の「荒城の月」を想い出させる城探しなども面白いだろう。

安倍内閣は日本人の生命と財産を守れ=1人の犠牲者も出すな

 日本の内閣は、日本人の生命と財産を守る義務がある。いまアメリカと北朝鮮との間で、一触即発の緊張感が高まっている。
 この緊張の間に割って入れるのは、日本である。まず、アメリカに先制攻撃をさせない。そして、日本と北朝鮮との対話のパイプを作ることだ。
 韓国は朝鮮戦争以来、まだ和睦ができていないので、日本しかいない、という認識が必要である。
 拉致問題はいったん棚上げにし、双方の外交パイプをつくることだ。北朝鮮は百数十か国と国交を持っている。日本がいつまでも外交関係を持たない。これは不自然で、意味がないどころか、危機を招く。まして、日本が北朝鮮を敵視する理由はない。

 日本のメディアは、北朝鮮の核兵器開発をやたら強調して、恐怖心を煽っていないだろうか。日本は原子力発電所を数多く持っており、ウラン、プルトニウムの保有量ではこれも世界最大級である。他国から見れば、潜在的核保有国に匹敵する。

 日本は自衛隊という世界でも屈指の巨大な軍事力を持ちながら、他国の兵器をとやかく言うのは、身勝手で内政干渉にもなる。国交・外交チャンネルの構築を目指して、緊急で、北朝鮮と日本が軍縮のテーブルにつくことだ。
 双方が対等の立場において軍縮、および核管理の問題で、話し合いの場を持つべきである。


 戦争はなぜ起こるか。「利益」、「恐怖」、「名誉」の三つだと、古代ギリシャのトゥキディデス(戦史を書いた人物)がいう。

『抑止』という言葉は、響きが良いけれど、緊張感を高める。相手に威嚇(いかく)を与えて、より武装を強化し、抵抗を強める。抑止で、という名のもとに空母を出し、つめ寄ることは、より相手を恐怖に陥れてしまう。
 日本海から離れて、元の基地にもどるべきだ。アメリカ人は北朝鮮と戦争をしたくて、トランプ大統領を選んだわけではないだろう。選挙中は保護貿易主義をめざしていたはずだ。

 北朝鮮に、抑止で、恐怖感を強めるとどうなるのか。どこの国の軍隊も、一枚岩とはいかず、必ずや強硬派がいる。暴発しやすい極右の部隊がいるはずだ。北朝鮮から先制攻撃をかけてくる可能性は、いまのトランプ政権下のやり方では、起きても不思議はない。
 偶発的なささいな銃撃戦からも、一瞬の小さなイザコザからも、大戦争になることがある。それは過去の大戦争から、なんども学んでいるはずだ。

 私たちは歴史から教訓を引き出すとすれば、身近なところで、長州戦争がある。第一次長州戦争は数十万の幕府軍が囲んで、家老3人の切腹、参謀4人の斬首で、まずは武力回避した。

 しかし、長州藩に高杉晋作という過激攘夷思想家が政権の座に就いたからと言い、徳川幕府は15万の兵力で、高杉政権の過激行動を封じる『抑止』をねらった。

 4か国連合艦隊の下関戦争によって、ひとつには巨大な賠償金が要求された。もうひとつは(徳川幕府が結んだ安政通商条約・西洋並みの20%)から、低関税率・5%へと引き下げたことだった。これはアヘン戦争で破れた清国がうけた屈辱5%と同率である。つまり、経済的植民地にさせられた日本の国家的屈辱であった。
 土地の租借はなかったにしろ、こんな長州藩の過激攘夷政権の暴走は許しておけない、排除、抑止するべきだ、という考え方による抑圧だった。

 14代家茂将軍(20歳)が江戸から、長州戦争のために大坂城までやってきた。広島表には、幕府軍が数万があつまった。徳川幕府はそれから長州藩に圧力をかけまくった。高杉・桂小五郎政権の内部崩壊を狙ったものだ。
 1年以上も、長州藩は「武備恭順」で、毎日、いつ攻められるか、と恐怖のなかに置かれていたのだ。武器はどんどん長崎の武器商人・グラバーたちから買いあさった。より軍事力を備えた。

 いまの北朝鮮のように、軍事訓練が過激化していく。

 慶応2(1866)年4月5日に第2奇兵隊の暴発が起きた。(全隊員数は100~125人で不詳)。幹部の立石孫一郎を隊長とした約100人の武装兵が、石城駐屯地(山口県・光市)から挙兵し、翌朝に遠崎港から5艘の船に乗り、瀬戸内海沿岸の湊に寄港しながら、4月9日には連島(岡山県)に上陸した。

 ちなみに、立石孫一郎は過激尊攘派で、かつて天誅組の戦い、生野の戦いの現場址をみずから足で歩いた経験がある。この挙兵は、倒幕および幕府の混乱・攪乱が目的で、直轄領の代官所を狙っていた、と戦術を学んだ。


 立石隊の狙いは上陸した翌朝から、幕府直轄領・倉敷代官所(約6万5000石支配)と、老中・板倉勝静の備中松山城を狙ったものだ。

 時系列で、わかりやすくいえば、同年1月20日に、桂小五郎と小松帯刀・西郷隆盛の薩長同盟が結ばれた。時おなじくして、幕府がもとめた長州処分案を天皇が勅許した。
 この圧力をもって、長州藩内では一段と緊張が高まった。

 立石孫一郎は翌2月から岡山・下津井に2度もでむき、挙兵の下工作をしている。予防的な先制攻撃をかける。(挙兵すれば、尊攘派が日本中から蜂起するだろうという考え方)。

 その計画を下に、岡山県の湊に上陸した立石隊長らは、4月10日には倉敷代官所を襲撃した。この代官所は長州戦争の補給基地(食糧・飼葉)で、尾道、三原に仮倉庫をもち、前線の広島表に送る役割だった。幕府にすれば、戦略的な兵站基地が狙らわれたのだ。
 備中松山城の藩主・板倉勝静は家茂将軍とともに大阪城にいて、実質・老中首座で長州戦争の統括者だった。総司令のお城を狙っていた。

 かれらは備中松山藩にむかう途中で、2番目の攻撃先として浅尾陣屋を襲った。浅尾家は見回り組の総大将であり、禁門の変のときには長州藩を撃破した。その恨みが長州藩内にあり、浅尾陣屋を放火した。

 立石隊は、3番目の攻撃先の備中松山城にむかった。ここで、かれらは駆けつけた岡山藩兵、備中松山藩兵、さらに広島からきた幕府軍に撃退された。そして、長州藩内の第2奇兵隊の基地に逃げ帰ってきている。

 幕府は、これを『長州藩からの先制攻撃』だとして、6月には4カ所から攻撃を行ったものだ。
 明治時代に入ると、薩長閥の政治家たちは、天誅組の挙兵、生野の挙兵を教科書で教えるけれど、第二次長州戦争の先端を開いた倉敷の挙兵は、重箱の隅っこにおいた。さも、徳川幕府が芸州口、小倉口、大島口、石州口の4カ所から、先に仕かけたと教え込こんできた。

 歴史の真実をしっかり教えないと、こんかいのように、北朝鮮とアメリカがきな臭い状況下になれば、なにが最も危険か、どう対処すべきか、と見定めがつかない。

 軍隊は極右の思想で暴発する。世界中のどの軍隊でも、おなじ危険性を持っている。北朝鮮のいつもTVに出てくるトップよりも、もっと過激思想の軍人が大勢いる、と認識するべきだ。
 
「いま、アメリカ軍を止められるのは、日本をおいて他にいない」
 安倍内閣は、中国やロシアに対話を任せきる傍観者になってはいけないし、外交ルートを即座に作ることが急務である。
 
 内閣の複数の大臣が、双方のパイプづくりで、北京から北朝鮮に入るべきだ。日本の大物政治家が入れば、アメリカはそう簡単には軍事攻撃などできない。


 ここは日本人を守るぞ、と度胸、気迫のある国政の政治家が出るか、出ないか。それで日本人の生命と財産が守れる否か決まる。党派を問わず、全員が国民の代表だ。ふだん代議士が口にする、政治生命はここにある。
『攻撃されて多少の犠牲者がでても、わが国の政治家には責任がない。悪いのは攻撃したほうだ』
 決して、そう思わないことだ。

 1人でも犠牲が出れば、熱くなるのが日本人だ。報復の連鎖を止めるのは、まずは戦争を起こさせない、国民が選んだ国政の政治家によるスピーディーな行動力だ。

      写真:Googleより

可憐に咲く『誰故草』に想いを寄せる=広島市・船越町

 『誰故草』なんて読むのだろうな。

 一枚の説明書を見たとき、「たれゆえ草」と名を記していた。

 歴史小説の取材で、船越公民館(岡田高旺・館長)を訪ねた。

 そこで、船越の町の花「たれゆえそう」の説明を受けた。
 

「幻の花」はかつて大江谷(おおえだに)で、自生していたという。

 平安時代の大江大納言は、毛利家(長州藩)の先祖だったはずである。

 「ほとんど絶滅する寸前にある花です」

 この船越町では、いちど姿を消している。

 いま保存会の方々が自生を試みている、と語っていた。

 天敵は、土を掘り返すイノシシだとも聞いた。



 
 歌人の藤原為兼(ためかね)が、安芸の国に流されてきた。

 京を想う為兼は、『誰故草』に寂しさを重ねて詠っている。

 船越中学校のグランドの一角で、地上から15-16センチの茎高さで、愛らしく咲いていた。

 これは人間が手を入れて育てた花だ、とわかっていても、この大江谷で『誰故草』に出会えるとは……、と妙にうれしかった。


 船越中学の久保大地くんが、2年がかりで紙芝居を作っていた。

 それを一枚ずつ読むだけでも、町ぐるみで、『誰故草』を誇りにしている、とわかる。

 江戸時代には自生で咲いていたという。

 歴史小説のなかで、主人公が想いを寄せる情景・情感で『誰故草』を組み込みたい。


 ※ 出会った方々が、地名を「広島市」と行政区でなく、かつての安芸郡船越町というイメージで語っているのにも、好感が持てた。
 

        (岩瀧神社の展望台から、船越町・海田町を望む)


 船越町はわずかな時間の滞在だったけれど、なおさら、紫色の花に出会えた、という特別に愛でた心持ちになれた。

福岡詩二 バイオリンの名演奏 = 大爆笑

 福岡詩二さんは、東京演芸協会の理事です。

 浅草・木馬座で、毎年、晦日には大道芸人たちが「大爆笑」させてくれます。ご招待を受けたので、撮影してきました。

 ヴァイオリン芸はすばらしい。笑いのプロ中のプロです。

 曲目は『荒城の月』です。

 動画で、5分間じっくり笑い転げてください。(左クリックで、数秒後から演じられます)

福岡詩二 バイオリンの名演奏

 生で観たい方は東京演芸協会のホームページを開いてください。

明治維新150年・「富国強兵」でなく『富国富民』の選択肢ならば……、歴史は変わっていた=中国新聞・岩崎誠論説副主幹

 中国新聞(本社・広島市)の2017年新年号・1月3日の「オピニオン」に、同社の岩崎誠論説副主幹による『大政奉還150年と近代日本』と題する記事が掲載された。
 テーマは『多様な歴史観から再検討を』という副題になっている。

 わたしたちは学校教育で、明治政府は「文明開化」、「明治からの近代化」、「富国強兵」とおそわってきた。どの教科書にも、それが3本柱となっている。国民はそう教え込まれてきたし、むしろ刷り込まれてきた。
 明治新政府の「富国強兵」は疑いようのない、正当な施策だと信じてきた。しかも、その強兵策は教育とともに太平洋戦争まで引き継がれ、あげくの果てには原爆投下におよんだ。

 悲しいかな、これは事実である。

 岩崎さんの同記事は、この維新150年を機会に、明治新政府の勝利者がつくった幕末・明治史観も、単に鵜呑みするだけでなく、みんなで検証してみようよ、と提案するものだ。
 そこには新しい発見もあるし、封印された新事実も出てくるだろうし、現代の人々が将来を見渡すときの基礎材料にもなるし、今後の政治のヒントもあるだろう。

 
 岩崎さんが、その趣旨で『二十歳の炎』の作者として、わたしに同行取材を申し込まれた。12月17日にいわき市に入り、20日まで、『芸藩誌』を片手に、ふたりして現地をみてまわった。

 それは単に戦い・戦場の確認にとどまらず、
「なぜ、戊辰戦争が起きたのか?」
「当事者の広島県民も、まして、福島県相馬市民までも、なぜ戊辰戦争・浜通りの戦いが知らていないのか。だれが歴史から消したのか」
「こと京都市の呼びかけで、『大政奉還150周年記念プロジェクト』が幕開けする。勝者も・敗者もなく、萩市、鹿児島市、会津若松市、阿部正弘ゆかりの福山市など21か所の時事団体が入っている。広島市はそれを袖にした」
 とジャーナリストと作家がまわりに影響されず、本音で事例検証して語り合った。


 京都市・佛教大学歯学部の青山忠正は、「薩長芸軍事同盟がむすばれた。これは歴史的事実である。それすら教科書にでてこない。3藩の圧力をもって大政奉還がなされた。(土佐はジャンケンの後出しと同じで、歴史に残った)。
 土佐のためにシナリオが狂ってしまった。薩長芸のシナリオ通りならば、また違う政府ができていただろう」
 と話されていた。
 紙面でも、青山教授は「明治からの近代化は、昭和10年代から、国家権力が跡付けし、流布したものだ」と紹介されている。

 実際には、ペリー提督が来航したとき、機関車、電信機、ミシン、あらゆる産業見本品を持ち込み、そこから近代化がはじまった。
 小栗上野介は横須賀に、大規模な製鉄所・造船所の一貫工場も手がけた。(製鉄所は昭和50年代まで、ドックは米国海軍・横須賀がいまもって使っている)。
 新橋⇔横浜間の蒸気機関車の発注は江戸幕府だった。(途中で、明治になり、外債の都合で米国から英国に鞍(くら)替えした)。
 どうみても、近代化は德川政権からだ。教科書では「近代化は明治から」と嘘をおしえている。

「明治時代の最初の発明は人力車なんですよね」という話題は、さすがに岩崎さんは記事にされていなかったけれど。 


 同記事は、穂高健一著「二十歳の炎」と、神機隊の藩士たちが中心となって編纂した「芸藩誌」との整合性についても、随所で紹介してくれている。

 私の意見の結論として、

 むろん歴史に「もし」は禁物だろう。穂高さんは「(広島藩の執政・家老級で、第一次、第二次長州征討において広島藩の非戦を貫いた)辻将曹(つじ しょうそう)のような、非戦論者が明治日本のイニシアチブを取っていたら、戦争を繰り返す軍事国家になっていたかどうか」と問いかける。
 
 富国強兵でなく『富国富民』の選択肢もあったはずであり、あるいは原爆投下も避けられたのではないか、と。大胆だが重い視点ではなかろうか。

 このように、岩崎誠論説副主幹が紹介してくれている。富国強兵でなく『富国富民』が、現代社会に広がり、流行語大賞にでもなれば、岩崎さんの正月号のオピニオンが、漸次、世の中の流れを変えていくだろう。


【関連情報】

穂高健一著「二十歳の炎」 

 出版社 : 日新報道
        03-3431-9561             

 定価 : 1600円+税

 販売先 : 全国書店(品切れの場合は、書店に取り寄せを依頼してください)、ネット販売

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北朝鮮はことし2度の核実験。歴史から学べば、「経済封鎖は逆行なり」(上)

『歴史から学ぶ』
 それは現在の事象に対して、将来への予知、予測ができる洞察力を磨くことにもつながる。

 北朝鮮が今年度(2016)において2度も核実験を実施した。片や、ミサイル開発も進んでいる。この先、どうなるのか。評論家はメディアに出て、あれこれ言うが、推論ばかりで不透明だ。

 3年後、5年後、10年後の歴史学者や歴史作家、歴史マニアたちは、きっと
「北朝鮮は、2016年に2度も核実践を実施したのだから、当時の為政者は当然、こうなると予測できたはずだ」
 と見解を示すだろう。

 過去ならば、誰でもなんでも言える。

 ペリーが来航する1年前に、長崎のオランダ商館長から、アメリカ艦隊が来航すると、かなり具体的に予告されていた。ところが、老中首座の阿部正弘は、なんら手を打たなかったといい、ブログなどで、偉そうぶって批判する歴史通が多い。

 こうした人は教科書や作家のことばを真にうけて、それを既成事実とする。およそ独自の検証などないまま、歴史的批判をおこなう。当人は歴史好きでも、洞察力など養えない。


 阿部正弘は評定所に計り、幕閣ともども協議している。当時のオランダ情報はとかくガサ・ネタが多かった。鎖国の日本では、他国から裏付け情報が取れない。
「ペリー来航は本当か、うそか」
 もしもガサネタなのに、真にうけて厳重警戒すれば、現在のお金に換算しても、数十億円の出費がかかってくる。幕府には財力に余力がない。そこで、
 東京湾の入り口の浦賀周辺や、房総半島に、彦根藩と川越藩を張り付けるていどにとどめた。

 それをもって、阿部正弘には危機意識がなかった、という。歴史は後からならば、なんとでもいえる。

 自称・歴史通は、太平洋戦争の直前、アメリカは日本軍の無線を傍受して解析していたという。だから、パールハーバーの攻撃は、すべて筒抜けだった。それは事実だろうか。
 膨大な数の情報のなかに、事実が混ざっていても、的確に一つを事実認定できるのは至難の業だ。ましてや、司令長官がそれを迷いもなく作戦計画に落とし込むのは……。

 かりに、仮想敵国・日本の攻撃情報が特定できていたとすれば、自国民の兵士や家族に待避警告を発するだろう。隠しきれるものではない。
『一人が秘密を喋れば、7人に知れ渡る』
 
 真珠湾攻撃は筒抜けだった、と信じる方には、
「2016年に、北朝鮮が2度も核実験した」
 北朝鮮は〇年〇月〇日に、いずれの国にミサイル攻撃をしてくる、という予言者がでたら信じますか、ということばを返したい。

 世界中のどの国でもスパイ活動をやっている。アメリカからの情報、韓国、中国、北朝鮮の側近筋の情報、むろん日本の内閣府からも、核実験にたいする情報が入り乱れているはずだ。
 数十万、数百万の情報から、
『事実は一つ』
 その一つだけを取捨選択し、的確に言い当てられる人がいるだろうか。

 評論家の多くは、アメリカ、中国、ロシアなど軍事パワーバランスで今後の展開予測を語る。しかしながら、朝鮮の軍事歴史から、考察、洞察して語るひとが少ない。
「歴史から学ぶ」
 この王道の格言から、北朝鮮の今後を語っていくべきである。

                                       【つづく】