ジャーナリスト

社交ダンスは心身を磨く(下)=親がストーカーをつくる時代

 ダンス業界の現況を聞いてみた。
「ダンススクールは『風俗営業法』の枠組みにあるんです。夜12時過ぎて、踊れないんです」。ソシャールダンスは、10年前まで、子どもが教室で学べなかったという。
 日本がいまだ文化の後進国だ、と物語っている事例の一つだ。

 ノーベル賞授賞式でも、天皇が晩餐会でも、それぞれ盛装してダンスを踊る。華やかで高貴なダンスは子供たちのあこがれだろう。
 ソシャールダンスが幼いころに学べなかった。10年前にやっと規制解除がなされた。とはいえ、ダンス教室はいまだ特定団体扱いだ。(警察の許認可・風俗営業法)。こんな国家は世界中でも稀有な存在だろう。
 法律をつくる政治家・官僚の考え方の貧困さであり、「男と女は身体を接触すれば、いかがわしい」とする、頭細胞の固さを反映している。
 日本人として恥ずかしいかぎりだ。

 ダンス教室で、やっと子どもが学ぶことが可能になった。だが、こんどは小学校でフォークダンスをやらなくなった。
「幼いころから男子が女子をリードする。それが社会のあるべき姿です。男の子、女の子、ともに思いやり尊重する心を育てることです」
 全日本チャンピオンになった橘弘子さんは、ダンス教育の大切さを語る。

写真提供:橘ダンススクール


 音楽を聞いたら、身体が自然に動くものだ。
 歩きはじめた幼い子どもたちを観察すれば、音楽が流れると、ごく自然に体を動かしている。これがダンスの原点だ。育つ家庭において、男女が手をつないだり、唄いながら踊ったりすれば、健康的な男女の精神が育つ。

 戦後の学校教育のなかで、ダンスがふつうに学べた時代があった。さらには男女大学生がディスコで踊る世相もあった。男女の間が自然に相手を想う気持が湧いてくる。それが異性を見る目を育てたり、交際になったり、結婚に結びついたりしてきた。

 現代社会は、ストーカー事件がうなぎ上りだ。この陰湿な社会悪は、塾教育が最盛期に育ってきた世代層に多発している。
 女性から発信される、嫌いよ、もう大嫌いよ、という拒否とか拒絶とか、が解らない。怖いから態度で示すが、微妙なことばのニュアンスが正確に読み取れないのだ。
 これは犯人の独善の性格だけでない。諸悪の原因が社会に内在している。

  子どもの人間形成にはなにが重要なのか。親は真剣に考えているのだろうか。小学高学年ともなれば、子どもは夜9時、10時まで学習塾、進学塾へと追い立てられる。親はひたすら「勉強しなさい」と叱咤する。

 幼いころに明るく楽しくダンス、音楽、スポーツも塾年齢になると止めさせてしまう。
 公園遊びで、ごく自然に学べた、子ども道の意思疎通の訓練の場が取り上げられてしまう。そうなればなるほど、男女の価値観の違いも疎くなる。

 皮肉なことに、塾に追い立てる親はコミュニケーション・ギャップの障害者づくりに懸命になっている。
「女性を殺して、自分も死ぬ気だった」
 いつまでも相手の女性に好かれている、と思う自意識過剰だ。

 塾優先、成績優先、偏差値主義で育ってきた、情緒の欠如から生み出されたものだ。男女交際の場でも、自然なコミュニケーションが取れず、悩む。
 30歳にして女性が口説けず、求婚の仕方すらわからない。ダンスのように、女性をうまくそこまでリードできない。結果として、30-50歳代にしてストーカー予備軍になってしまう。
 そんな成人が次々に世に作り出されているのだ。

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社交ダンスは心身を磨く(中)=80歳で優雅な踊り

 阿出川好一さん(81)歳が橘ダンススクールにやってきた。姿勢が良い。身長が高く、手足が長い。格好いい感じだ。
 1955(昭和30)年に早稲田大学・商学部を卒業し、メーカーで経理畑を歩んできた。退職後の生き方として、保護司の活動と、ダンスを習いはじめた。いまやダンス歴は20年に及ぶ。

 橘ダンススクールに通いはじめて約6年間である。自宅から同教室まで40-45分かかる。これまで、幾つかダンス教室の門をたたいたようだ。
「プロにも、ピンからキリまであります。中高年齢者に対しては中途半端な指導する人がいる。それでは困る」と前置きしたうえで、
「橘さんは元全日本チャンピオンで、雲の上の人です。しかし、技術は出し惜しみしない。初心者でも丁寧に教えてくれます。橘さんは本当のテクニックを教えてくれる。ダンスは楽しいし、やりがいと生きがいになっています」
 と阿出川さんは話す。

「阿出川さんは探究心が強い。ダンス用語に対しても質問される。素朴だけれど、大事なところがあるのです。私自身がはっとさせられたりします」
 橘弘子さんは話す。
 技術的な面は如何ですか。
「阿出川さんは年齢から見たら、ダンスのテクニックがすごい。リズム感は良いです。頭脳が明晰です。新しいことは大変だけれど、コツコツ努力される。あきらめない精神があります。ステップは時にあれっ、と思う、間違いはままありますけど、まだ伸びますよ。できないと悔しがる」、その熱意と向上心があるかぎり、大丈夫です、と言い切った。

  人間は誰もがいつか年齢的な限界に突き当たる。阿出川さんは何歳までダンスをやられますか。
「教室の客種として、私は自分の存在を考えています。老人がダンス教室にトボトボやってくれば、迷惑になります。悪貨は良貨を駆逐する。変な客が一人でもいると、全体の質を下げてします。そこらが見極めだと考えています。それまでは精一杯やりたい」
 ダンスに対する熱意が、若さの秘訣になっているのだろう。

 長野在住の娘の好美さんが、父親のレッスンを見に来ていた。感想を聞いてみた。

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社交ダンスは心身を磨く(上)= 元全日本チャンピオンが語る

 ノーベル賞の授賞式パーティーでは、盛装した男女が社交ダンスを踊る。年配者でも、流れるようにリズムに乗り、踊っている。じつに輝いて見える。メイク、ドレス、優雅な非日常の世界がある。日本人の憧憬の一つだろう。
 
 ダンスは健康に良い。流れる音楽で、からだが応じて足腰、リズムを取る。相手(パートナー)がいるから、身体を使う、気を使う、頭を使う。若さを維持できる。

 わが国ではしだいに人口の高年齢化がすすむ。単なる長生きだけではつまらない。欧米のように、社交ダンスを愉しみ、ダンディーな若さを保つ。そうした生き方の心がけも必要だろう。

 81歳になった阿出川好一(あでがわ よしかず)さんが、元全日本チャンピオンの夫婦が経営・指導する橘ダンススクール(東京・駒込)で学んでいると聞いた。5月12日、同スクールに取材に出むいた。阿川さんは午後2時から30分間のレッスンだったので、先立つこと橘弘子さんから話を聞いた。

 指導者の橘正幸さん(61)歳と妻の弘子さんは、プロ競技選手として、「1999年・全日本オープン選手権」で優勝した華やかな経歴がある。現在は夫婦して同公認審査員である。

「わたし東京下町・葛飾立石に生まれ育った。看護婦でした」
 弘子さんは聖路加看護大学の在学中に、友達に誘われて同校「ダンス部」に軽い気持ちで入会した。スポーツ部員として活動したが、学生競技会では、記録を残すほどの成績はなかった。
 彼女は病院勤めの看護師になっても、ダンスを習っていた。夜勤を終えてダンス教室に通っても苦ではなかったというから、根は好きだったのだろう。

 その教室で、あるときプロの橘正幸さんの練習相手に選ばれた。「無料で学べる、ラッキー」と思い、彼女は練習に一段と熱が入った。一方で、好きで進んだ看護師を続けるか、ダンスを選ぶべきか。将来はどちらに行こうかと迷いはじめた。親との対立もあったようだ。

 結果として、夫・正幸さん=ダンスを選んだ。つまり、プロ競技選手(ダンス教師)となったのだ。それは甘くない、いばらの道だった。57キロの体重が2年後には46キロにも落ち込む。漸次、成績を重ねながら、夫婦はイギリスにも留学し、やがて全日本チャンピオンとなった。

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一粒の米に、人生の情熱を込める (下) =埼玉県・幸手市

 日本人が主食とする「米の美味しさ」、つまり食味値は粘り、風味、糖度、そして水分によって総合判定がなされる。

 従来は品質の判定は、人間の勘で決められていた。「新潟・魚沼産コシヒカリ」、「宮城ササニシキ」という銘柄だけで売れた時代だった。消費者も銘柄米に頼り切った決め方だった。

 日本酒はかつて特急酒、1級酒、2級酒という決め方だった。いまや2級酒だった地方銘柄が、地酒ブームで、高価でも、もてはやされている。呑む人の品質、美味しさで、銘柄が決められる時代だ。

 現在、米は科学的な成分分析ができる。国際基準も作られている。個別農家ごとに品質測定ができる。その意味で、「地酒ブーム」と同様に、「米の田家(でんか)ブーム」が到来するだろう。
 工業製品の電化ブームはバブルがはじけても、品質勝負で、外国産の安かろうに対抗し、商品開発を推し進めて、国民の間に信頼度を高め、家電の国産志向を生み出した。

 工業製品、日本酒と同様に、「米の田家ブーム」の到来も当然、やってくるだろう。農家はそれを視野に入れておくべきだ。先駆けになるには、早くから無農薬に取り組んでおく必要もある。一度、田んぼに雑草取りで農薬を入れてしまえば、もう後手、後手になってくるからだ。

 遅かれ早かれ、米の自由化はいずれやってくると思われる。安価を追求するがゆえに、農薬などで手間をかけず、肥料も細く、「不味かろう」それではだめだ。
 国産米だから買ってくれる、という甘い考えは通用しない。国民の多くは、「安かろう、たっぷり農薬の米」など、本心は買いたくないのだ。ここらは農家、JAなどはニーズをしっかり読みとっておく必要がある。

 品質分析をした米が輸入されたら、どう太刀打ちするのか。米の銘柄よりも、分析結果の表示が独り歩きするおそれだってある。

「人間は考える葦です。良い米を追求する、それを生きがいにしています。手をかければ、美味しいお米がまちがいなく作れる」
 幸手市の松田光男さんは明瞭に言い切った。ここ数年は漸次、食味値の数値を伸ばしつづけてきた。昨年度は、第25回国際大会(米・食味分析鑑定コンクール)で、食味値87点を収得し、上位にランクされている。

 今年の秋、あるいは来年には念願の「食味値90」を達成したいと、強い意欲で取り組んでいる。特に、お米の一粒ずつにたいする愛情、熱意、熱気が感じられる。

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一粒の米に、人生の情熱を込める (中) =埼玉県・幸手市

 私たちがふつうに食している米は、農薬を使っているし、一毛作で肥料は1回のみだ。こうした消費者が購入する米の価格は、数十年前に比べても、安価になっている。農家はこのさきTPP(環太平洋パートナーシップ協定)で海外の農作物が自由化、あるいは関税の引き下げになれば、さらなる競争激化となり、低価格化へのプレッシャーは必然だと危機感を持っている。

 日本人はいまやグルメ志向であり、食生活も多様化し、「安かろう不味かろう」にはソッポを向き始めている。美味しいコメを求めている。しかし、農業は今後の外国との競争をにらみ、低価格にたいする危機感を声高に言う。ここに消費者とのギャップが生れている。

 日本人の米のこだわりは独特である。大家族の時代ならば、大量に安い米を必要としていた。現在は核家族だから、1家族2-4人が平均だ。高級車に乗りたい人はたくさんいるように、少量でおいしい米を食べたいのだ。「安さよりも、美味しさ」が求められている。

 国際競争がいくら厳しくても、品種や銘柄、味覚を選択するのは消費者である。とくに米に関して言えば、低価格=品質の劣化は望んでいない。
 しかし、米店、スーパーなどで購入する米は、過去からブレンド騒ぎを起こし、古米の混入など、いま一つ信頼度に欠ける。地域銘柄で買っても、その都度、どこか味が違う。まずは信頼度を取り戻すことである。

 たとえば、JA単位の表示でなく、5kg、10kgの米袋には、農家の顔写真、家族写真を張って出荷する。そうした耕作責任など導入すれば、輸入品にも太刀打ちができる道が作れるだろう。

 つまり、全農家が生き残る発想でなく、品質競争に打ち勝ったところが、高品質=高価格の米で生き残る道をつくることだ。

 全国を見渡せば、良質な米栽培に取り組み、世界大会の上位志向の農家はある。収穫したコメの分析から、さらに上質なものを目指し、肥料を研究し、高コストでも、美味しいコメをつくろうとチャレンジしている。
「ありきたりの米は作りたくない」
 幸手市の松田光男さんは公務員の退職後、農家の跡をついでいる。
「私の作った良質のコメ(食味値87)を、有名な料亭が買い求めてくれました。ところが安い米とブレンドして炊いていると知り、その料亭には売っていません」
 こうした品質に対する自信とブライドが大切だ。

「雑草駆除の農薬はいっさい使いません。他所(よそ)の農薬飛散からも守るために、隔離した水田で米を作っています。いちど農薬を散布すれば、翌年度からは、もう無農薬の米だとは言えません」
 無農薬と一言でいうが、容易ではないようだ。真夏の太陽が容赦なく照りつける炎天下で、水田に入り、雑草を取る。蛭(ひる)もいれば、蛇もいる。直射日光と流れる汗との格闘だ。

 須藤泰規さん(73)は、大手企業をリタイアした後、米作りに加わっている。田植えから雑草取り、収穫まで参加している。
「松田さんの高品質の米作りのこだわりが好きです。収穫期には労働の対価として、美味しい米が貰えますし、収穫の喜びがうれしくて、きびしい雑草取りにも、精が出ます」
 雑草取りの期間は5月20日~7月上旬で、1か所の田圃(たんぼ)にそれぞれ3度入る、と話す。
「稲が実ると、両手でかき分けて、泳ぎをするように進むのです」
「稲が育ってくると、須藤さんの姿が見えず、倒れているのではないか、と心配していると、ふいと頭が見えるんです」
 松田さんがユーモアたっぷりに語る。

「ここの家族はみんなが良く手伝ってます。それは感心です」
 須藤さんの視線が、庭のバーベキューに流れた。

 5月の連休のさなかでもあり、長男の松田裕之さん(32)の職場(介護職)仲間3人が、田植えを手伝いにきていた。ちょうど昼食時で、バーベキューのパーティのさなかだった。それぞれに農作業の感想を聞いてみた。
「裸足で田んぼに入る前、内心、汚いな、と思いました。でも、これをやらないとお米ができない、と自分に言い聞かせました」
 高橋祥平さん(26)が話す。田植え機で、まず苗が植えつけられる。田圃の角や、植え洩れ場所は手で補植する。それらの手作業です、とつけ加えた。
「きょうは朝9時から来ました。ひと苗ごとにていねいに植えると、いい汗です。夕方4時頃まで、田植えをします」
 木村祐樹さん(28)が、塩おにぎりを頬張りながら語っていた。

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一粒の米に、人生の情熱を込める (上) =埼玉県・幸手市

 松田光男さん(65)は、埼玉県・幸手市で、「完全無農薬」の米(水稲)を作っている。国際大会(米・食味分析鑑定コンクール)で、ここ数年間は上位にランクされている。埼玉県でも1、2を争う存在だ。松田さんはどんな取り組みや創意工夫をおこなっているのか。

 現在、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)が国内外の最大の話題の一つだ。その進展によっては、日本の農家、日本人の食生活おおきく関わり合う。農家の方向性を探るためにも、5月2日(金)には、幸手市の松田さんを訪ねた。市街地から4-5キロ離れた、見渡す周囲は水平線すらを感じさせる、広々した田園地帯だった。

 近くには利根川が流れており、過去から上質で豊富な水に満たされた農業地帯だ。畦で区切られた田圃は、いまの季節はちょうど水が張られたり、田植えの最中だったり、まだ乾燥したままだったり、それぞれ違った顔をしていた。
 松田さんは飛び地で、いくつか田圃(たんぼ)を持ち、それぞれ工夫や研究を行っている、と聞いた。

 大きな構えの松田宅に到着したとき、十数人の児童たちが農業体験学習に来ていた。松実高等学園(まつみこうとうがくえん・春日部市)の初等部の生徒たち12人で、田植えの体験と玉ねぎの収穫実習だった。そちらを先に取材させてもらった。

 同校は6年前に開校している。何らかの理由で在籍小学校に通えない児童たちが通う。遠くは横浜から3時間もかけて通学する。同校に入ると、児童は学校生活を溌剌(はつらつ)と楽しみ、みな皆勤賞だ。
 今年の4月をみれば、8割が皆勤賞で、2割はちょっとした休みだった。(松井寛校長・写真・左の談)。 学校方針、指導者の役割が、いかに子供の成長にとって重要かと知らされた。

 児童たちに、農業体験の感想を聞くと、男女問わず、だれもが明るくはきはきと楽しげに答えてくれた。
「田のなかにバシャバシャ入り、楽しかった。苗をまっすぐ立てて植えました。目の前に、カエルが泳いでいたから、指でつかまえたよ」(小6・ヒカルくん)

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【名物おじさん】下町随一の瓢箪づくり、竹細工づくり(下)=東京・葛飾

 村澤義信さん(74)さんのもう一つの特技は竹細工だ。葛飾区東四ツ木4丁目の3階建ての庭囲いの化粧フェンスには、太さ18センチ、長さ2.8メートルの、竹の植木鉢があり、そこに春の花を咲かせている。イチゴの苗も育っている。

 竹加工の植木鉢が特殊な構造なのだ。
「簡単そうだけど、この技術は、葛飾区内ではだれもいないよ。真似ができないよ」
 村澤さんに、あえて問えば、直径が18-20センチもある太い竹の加工技術を語ってくれた。

 冬場になると、竹が固く締まってくる。1年物など若い竹は細工すると、すぐに割れてしまう。3年物がしっかりしてよい、と実物を示す。
 ことし(2014年)は、牛久、大多喜から太い竹をもらってきた。最近の農家は人手不足で、竹林が荒れぎみになった。すきなだけ持って行ってくれ、と言われるらしい。

 同区東四ツ木への自宅に持ち帰ると、縁側で、工具を使い、竹の節と節の間をくり抜く。
「この技術が特殊なんですよ。うまくやらないと竹に穴を開けているさなかに、バリーと全体が割れてしまいますからね」
 長さが約3メートルの太い竹の一節ごとに、くり抜いて、そこに土を積めて植木鉢にする。まさに、電車の連結車両のように、花の鉢が並ぶ。別の太い竹鉢には、ずらりイチゴの苗も育っていた。
 
「他人(ひと)と同じものは面白くない」
 話題は瓢箪(ひょうたん)にもおよぶ。約1.5メートルくらい一節ごとに、くり抜いて、多段雛のように飾り棚にする。節ごとに瓢箪を吊るす。
 竹の竹細工と瓢箪の組み合わせで、小さな雪の鎌倉に似た、瓢箪の家もつくる。

 視線を門扉に向けて、よくみると小粒な瓢箪が数多くつるしている。
「盗られないですかね?」
「ここらは泥棒はいないね。あれれ、よく見ると、1個は針金だけだ。これは盗られたあとだな」
 村澤さんは鷹揚に話す。

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【名物おじさん】下町随一の瓢箪づくり、竹細工づくり(上)=東京・葛飾

 葛飾区をつらく平和橋通りから、ふいに脇道をみると、3階建て民家の軒下には、瓢箪(ひようたん)がずらり吊り下がる。極小~超特大まで。表面が多彩な色彩画もあれば、金色もあるし、肌が素のままの瓢箪もある。

「葛飾区内で、ここまで瓢箪に凝っているのは、きっとわたし一人でしょう」
 そう話すのは、同区東四ツ木4丁目の村澤義信さん(74)である。地域でも、「ヒョウタンおじさん」で名高いひとだ。

 村澤さんは茨城県・内原町(現・水戸市)の出身である。東京に出て農家のハウス栽培の仕事についていた。
 15年前から、埼玉県・三郷に30坪の菜園畑を借り、瓢箪作りをはじめている。村澤さんから一連の話を取材させてもらった。

 畑には、まず農業用パイプで棚をつくる。(ブドウ棚に似る)。冬場には畑を耕し、肥料を与えておく。タネは春の彼岸に撒(ま)き、秋の彼岸には収穫する。瓢箪の種類(品種)によって、成熟した瓢箪の大きさがちがう、と話す。
 7センチ(品種改良品)、15センチ(秀吉・千成)、70-80センチ(通称・大玉)が、村澤家の軒下に吊り下がっている。
 
『大玉』は高さが約70センチ、腰回りが約1メートルにもなる。その作り方を説明してもらった。 
「人間と同じで、さまざまな形があるよ」
 1本の蔓(つる)に対して、形のよい瓢箪のみ3ー4個に絞り込む。1-2個だと、栄養分がまわりすぎて、破裂する。(スイカが割れるのに似る)。逆に、数が多いと大玉が小粒になってしまう。

  瓢箪の蔓(直径は約5㎝)は太いが、それでも自重15キロが負担となり、落ちてしまう。ひもで吊してやる。葉っぱも大きいから、台風被害が心配になると話す。

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『春を訪ねて』あちらこちら=三春から嫁もらうな

 古木桜の名所として、福島県・三春町は全国随一だろう。推定樹齢450年の「三春の滝桜」は豪華だ。この季節にはポスターを通して人の目にふれている。
 ぜひ一度は行きたい、と思う人も多いだろう。
 過去に訪ねた人の感想は、「郡山市内から、大渋滞だった。一度観たら、もうあの大渋滞では行きたくない」と話す。それほど人気だ。

 4月15日(火)に同地に訪ねてみた。3分から4分咲きだった。週末には満開だろう。
 私が訪ねたのは、すこしタイミングが早かったからだろう、車を誘導する数多くのガードマンはわりに暇そうな顔だった。大駐車場まで難なく入れた。

「会津の悲劇」の現地取材に入った、3年ほど前だった。
 「二本松には私の父母の代まで、『三春から嫁を貰うな』という言い伝えが残っていたんですよ」
 と福島県立博物館の学芸員から聞いた。
 それが「三春の滝桜」のポスターを見るたびに脳裏に横切っていた。

 戊辰戦争の時、新政府に反発し、奥羽越列藩同盟が結ばれた。31藩は強く抵抗した。一方で、「裏切った」「寝返った」「手引きした」といわれる脱列藩同盟の藩もある。その代表格が三春だ。
 戦略・戦術的には、西洋式軍隊の「ライフル」と鎧兜の「火縄銃」があった。奥羽越に地の利はあるが、次々に負けて、総崩れになったのが実態だ。

「三春の裏切り」には、二本松の悲劇がある。

 新政府軍は磐城平城を落城させると、白河、そして三春藩へと進撃していった。三春が早々と恭順(新政府に屈する)した。その先へと、進軍した政府軍に対して、二本松藩は徹底抗戦した。同藩の少年隊(12歳~17歳)までも、銃を持って応戦した。

 とくに砲術の木村銃太郎が指揮した少年25名は、「大壇口での戦い」で多く戦死した。木村も戦死した。この悲劇は、「三春が裏切ったからだ」とか、「三春が新政府軍を道案内した」とか語られている。

「裏切り」は史実としては不明瞭だが、近在では単純な三春の敗戦とみなさず、卑怯者だ、卑怯者の子孫から嫁を貰うな、と語り継がれてきたのだ。ある意味で、会津地方まで及ぶ。

 有名な会津白虎隊は会津城が自焼したと勘違いして自刃した。しかし、二本松少年隊(正式名はなし)は銃を持って戦ったのだ。そして、死んだ。戦場で負傷した少年らも重体が多く、収容されても命を落とした。

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『皇国の興廃この一戦にあり。~』は秋山真之の名言にあらず。2番煎じ

 明治に入ると、芸州広島藩は長州閥の政治家から、徹底して封印されたり、ねつ造されたりしている。
 広島藩主の浅野家はいまなお資料を公開していない。長州の刺客に狙われるとでも思っているのだろうか。そう疑いたくなるほどだ。実物は広島市中央図書館に眠っている。歴史研究者はのどから手が出るほど欲しいのに。
 
 浅野藩主の末裔が代々隠しても、当時の有能な学問所メンバーが編纂した資料が現存していた。だから、私は芸州広島藩からの幕末歴史小説を書くことができた。


「長州が倒幕に寄与した。そんな作り事は、司馬遼太郎が書いてはいけませんよね」
 山口県のある著名博物館の、主任学芸員がふいにそう発言した。取材で訪ねた私が作家だったから、そう示唆してくれたのだ。

 それには「えっ」と驚いたものだ。
 4年前のその言葉が、私の脳裏には強く焼き付いている。だから、こんかい長編幕末小説を書き上げた。とくに、司馬史観の誤り、事実に反するところ、作り話は明確にするべきだ、その一念で書き上げた。随所にはかなり織り込んでいる。
 6月には刊行予定だ。

 最大のポイントは、「薩長の倒幕」など、常識的に考えても、あり得ないし、事実に反していることだ。

「禁門の変」で、長州藩は朝敵となった。長州人が京都に入れば、新撰組などに殺されていた。幕府から「殺せ」という命令なのだから、当然、殺す。

 大政奉還から、小御所会議で京都に新政府ができるまで、長州は軍隊を京都にあげていない。主要な会議にも出ていない。長州藩は徳川家の倒幕にまったく役立っていない。どんなに折り曲げても、それが事実だ。

 新政府が樹立した後、長州の軍隊が戊辰戦争で暴れまわっただけなのだ。


 長州・政治家が、薩芸(さつげい)の徳川倒幕を「薩長の倒幕」へと巧妙にすり替えた。「薩長土芸」すら、「薩長土肥」に変えられている。『肥』って、なあに、という人も多い。

 慶応4年8月1日に、神機隊・高間省三砲隊長が20歳で、戊辰戦争・浪江の戦いで死んだ。かれは頼山陽以来の広島藩きっての秀才だった。
 死を予期したのか、かれは死の直前に、父親(武具奉行・築城奉行)に手紙を書いている。『絶命詩並序』というタイトルで、七言絶句を添えている。まさに、学問所・頼山陽の後輩らしい。

 高間省三は軍人必読『忠勇亀鑑』で紹介されている。それだけに、高間省三の手紙は明治時代から昭和(終戦まで)の軍人たちの手記や遺書でずいぶん引用されている。

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
 秋山真之は、ロシア・バルチック艦隊との日本海海戦の名言とされている。しかし、それは高間省三の手紙文の引用であり、秋山が考え出した言葉ではなかった。

 高間省三は手紙には、こう書き残している。 
『天皇は明徳を想い、純心に武士や民を赤子のごとく愛す。皇国の興廃は今日の戦いにありです。この徳に報るためにも、男児の死ぬべき時は今です』
 慶応4年7月末である。約38年前だ。

 広島出身の内閣総理大臣・加藤友三郎は、さかのぼること、明治38年1月、第1艦隊兼連合艦隊参謀長となり、5月27・28日の両日の日本海海戦に旗艦「三笠」艦上で作戦を指揮した。そして、バルチック艦隊と同航しつつ、「わが半ばを失うとも敵を撃滅せずんばやまず」との捨て身の「丁字戦法」(敵前180度回頭)を展開させた。
 ロシア・バルチック艦隊との戦いで功績を挙げた。やがて総理にまでなった。

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