ジャーナリスト

一粒の米に、人生の情熱を込める (中) =埼玉県・幸手市

 私たちがふつうに食している米は、農薬を使っているし、一毛作で肥料は1回のみだ。こうした消費者が購入する米の価格は、数十年前に比べても、安価になっている。農家はこのさきTPP(環太平洋パートナーシップ協定)で海外の農作物が自由化、あるいは関税の引き下げになれば、さらなる競争激化となり、低価格化へのプレッシャーは必然だと危機感を持っている。

 日本人はいまやグルメ志向であり、食生活も多様化し、「安かろう不味かろう」にはソッポを向き始めている。美味しいコメを求めている。しかし、農業は今後の外国との競争をにらみ、低価格にたいする危機感を声高に言う。ここに消費者とのギャップが生れている。

 日本人の米のこだわりは独特である。大家族の時代ならば、大量に安い米を必要としていた。現在は核家族だから、1家族2-4人が平均だ。高級車に乗りたい人はたくさんいるように、少量でおいしい米を食べたいのだ。「安さよりも、美味しさ」が求められている。

 国際競争がいくら厳しくても、品種や銘柄、味覚を選択するのは消費者である。とくに米に関して言えば、低価格=品質の劣化は望んでいない。
 しかし、米店、スーパーなどで購入する米は、過去からブレンド騒ぎを起こし、古米の混入など、いま一つ信頼度に欠ける。地域銘柄で買っても、その都度、どこか味が違う。まずは信頼度を取り戻すことである。

 たとえば、JA単位の表示でなく、5kg、10kgの米袋には、農家の顔写真、家族写真を張って出荷する。そうした耕作責任など導入すれば、輸入品にも太刀打ちができる道が作れるだろう。

 つまり、全農家が生き残る発想でなく、品質競争に打ち勝ったところが、高品質=高価格の米で生き残る道をつくることだ。

 全国を見渡せば、良質な米栽培に取り組み、世界大会の上位志向の農家はある。収穫したコメの分析から、さらに上質なものを目指し、肥料を研究し、高コストでも、美味しいコメをつくろうとチャレンジしている。
「ありきたりの米は作りたくない」
 幸手市の松田光男さんは公務員の退職後、農家の跡をついでいる。
「私の作った良質のコメ(食味値87)を、有名な料亭が買い求めてくれました。ところが安い米とブレンドして炊いていると知り、その料亭には売っていません」
 こうした品質に対する自信とブライドが大切だ。

「雑草駆除の農薬はいっさい使いません。他所(よそ)の農薬飛散からも守るために、隔離した水田で米を作っています。いちど農薬を散布すれば、翌年度からは、もう無農薬の米だとは言えません」
 無農薬と一言でいうが、容易ではないようだ。真夏の太陽が容赦なく照りつける炎天下で、水田に入り、雑草を取る。蛭(ひる)もいれば、蛇もいる。直射日光と流れる汗との格闘だ。

 須藤泰規さん(73)は、大手企業をリタイアした後、米作りに加わっている。田植えから雑草取り、収穫まで参加している。
「松田さんの高品質の米作りのこだわりが好きです。収穫期には労働の対価として、美味しい米が貰えますし、収穫の喜びがうれしくて、きびしい雑草取りにも、精が出ます」
 雑草取りの期間は5月20日~7月上旬で、1か所の田圃(たんぼ)にそれぞれ3度入る、と話す。
「稲が実ると、両手でかき分けて、泳ぎをするように進むのです」
「稲が育ってくると、須藤さんの姿が見えず、倒れているのではないか、と心配していると、ふいと頭が見えるんです」
 松田さんがユーモアたっぷりに語る。

「ここの家族はみんなが良く手伝ってます。それは感心です」
 須藤さんの視線が、庭のバーベキューに流れた。

 5月の連休のさなかでもあり、長男の松田裕之さん(32)の職場(介護職)仲間3人が、田植えを手伝いにきていた。ちょうど昼食時で、バーベキューのパーティのさなかだった。それぞれに農作業の感想を聞いてみた。
「裸足で田んぼに入る前、内心、汚いな、と思いました。でも、これをやらないとお米ができない、と自分に言い聞かせました」
 高橋祥平さん(26)が話す。田植え機で、まず苗が植えつけられる。田圃の角や、植え洩れ場所は手で補植する。それらの手作業です、とつけ加えた。
「きょうは朝9時から来ました。ひと苗ごとにていねいに植えると、いい汗です。夕方4時頃まで、田植えをします」
 木村祐樹さん(28)が、塩おにぎりを頬張りながら語っていた。

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一粒の米に、人生の情熱を込める (上) =埼玉県・幸手市

 松田光男さん(65)は、埼玉県・幸手市で、「完全無農薬」の米(水稲)を作っている。国際大会(米・食味分析鑑定コンクール)で、ここ数年間は上位にランクされている。埼玉県でも1、2を争う存在だ。松田さんはどんな取り組みや創意工夫をおこなっているのか。

 現在、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)が国内外の最大の話題の一つだ。その進展によっては、日本の農家、日本人の食生活おおきく関わり合う。農家の方向性を探るためにも、5月2日(金)には、幸手市の松田さんを訪ねた。市街地から4-5キロ離れた、見渡す周囲は水平線すらを感じさせる、広々した田園地帯だった。

 近くには利根川が流れており、過去から上質で豊富な水に満たされた農業地帯だ。畦で区切られた田圃は、いまの季節はちょうど水が張られたり、田植えの最中だったり、まだ乾燥したままだったり、それぞれ違った顔をしていた。
 松田さんは飛び地で、いくつか田圃(たんぼ)を持ち、それぞれ工夫や研究を行っている、と聞いた。

 大きな構えの松田宅に到着したとき、十数人の児童たちが農業体験学習に来ていた。松実高等学園(まつみこうとうがくえん・春日部市)の初等部の生徒たち12人で、田植えの体験と玉ねぎの収穫実習だった。そちらを先に取材させてもらった。

 同校は6年前に開校している。何らかの理由で在籍小学校に通えない児童たちが通う。遠くは横浜から3時間もかけて通学する。同校に入ると、児童は学校生活を溌剌(はつらつ)と楽しみ、みな皆勤賞だ。
 今年の4月をみれば、8割が皆勤賞で、2割はちょっとした休みだった。(松井寛校長・写真・左の談)。 学校方針、指導者の役割が、いかに子供の成長にとって重要かと知らされた。

 児童たちに、農業体験の感想を聞くと、男女問わず、だれもが明るくはきはきと楽しげに答えてくれた。
「田のなかにバシャバシャ入り、楽しかった。苗をまっすぐ立てて植えました。目の前に、カエルが泳いでいたから、指でつかまえたよ」(小6・ヒカルくん)

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【名物おじさん】下町随一の瓢箪づくり、竹細工づくり(下)=東京・葛飾

 村澤義信さん(74)さんのもう一つの特技は竹細工だ。葛飾区東四ツ木4丁目の3階建ての庭囲いの化粧フェンスには、太さ18センチ、長さ2.8メートルの、竹の植木鉢があり、そこに春の花を咲かせている。イチゴの苗も育っている。

 竹加工の植木鉢が特殊な構造なのだ。
「簡単そうだけど、この技術は、葛飾区内ではだれもいないよ。真似ができないよ」
 村澤さんに、あえて問えば、直径が18-20センチもある太い竹の加工技術を語ってくれた。

 冬場になると、竹が固く締まってくる。1年物など若い竹は細工すると、すぐに割れてしまう。3年物がしっかりしてよい、と実物を示す。
 ことし(2014年)は、牛久、大多喜から太い竹をもらってきた。最近の農家は人手不足で、竹林が荒れぎみになった。すきなだけ持って行ってくれ、と言われるらしい。

 同区東四ツ木への自宅に持ち帰ると、縁側で、工具を使い、竹の節と節の間をくり抜く。
「この技術が特殊なんですよ。うまくやらないと竹に穴を開けているさなかに、バリーと全体が割れてしまいますからね」
 長さが約3メートルの太い竹の一節ごとに、くり抜いて、そこに土を積めて植木鉢にする。まさに、電車の連結車両のように、花の鉢が並ぶ。別の太い竹鉢には、ずらりイチゴの苗も育っていた。
 
「他人(ひと)と同じものは面白くない」
 話題は瓢箪(ひょうたん)にもおよぶ。約1.5メートルくらい一節ごとに、くり抜いて、多段雛のように飾り棚にする。節ごとに瓢箪を吊るす。
 竹の竹細工と瓢箪の組み合わせで、小さな雪の鎌倉に似た、瓢箪の家もつくる。

 視線を門扉に向けて、よくみると小粒な瓢箪が数多くつるしている。
「盗られないですかね?」
「ここらは泥棒はいないね。あれれ、よく見ると、1個は針金だけだ。これは盗られたあとだな」
 村澤さんは鷹揚に話す。

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【名物おじさん】下町随一の瓢箪づくり、竹細工づくり(上)=東京・葛飾

 葛飾区をつらく平和橋通りから、ふいに脇道をみると、3階建て民家の軒下には、瓢箪(ひようたん)がずらり吊り下がる。極小~超特大まで。表面が多彩な色彩画もあれば、金色もあるし、肌が素のままの瓢箪もある。

「葛飾区内で、ここまで瓢箪に凝っているのは、きっとわたし一人でしょう」
 そう話すのは、同区東四ツ木4丁目の村澤義信さん(74)である。地域でも、「ヒョウタンおじさん」で名高いひとだ。

 村澤さんは茨城県・内原町(現・水戸市)の出身である。東京に出て農家のハウス栽培の仕事についていた。
 15年前から、埼玉県・三郷に30坪の菜園畑を借り、瓢箪作りをはじめている。村澤さんから一連の話を取材させてもらった。

 畑には、まず農業用パイプで棚をつくる。(ブドウ棚に似る)。冬場には畑を耕し、肥料を与えておく。タネは春の彼岸に撒(ま)き、秋の彼岸には収穫する。瓢箪の種類(品種)によって、成熟した瓢箪の大きさがちがう、と話す。
 7センチ(品種改良品)、15センチ(秀吉・千成)、70-80センチ(通称・大玉)が、村澤家の軒下に吊り下がっている。
 
『大玉』は高さが約70センチ、腰回りが約1メートルにもなる。その作り方を説明してもらった。 
「人間と同じで、さまざまな形があるよ」
 1本の蔓(つる)に対して、形のよい瓢箪のみ3ー4個に絞り込む。1-2個だと、栄養分がまわりすぎて、破裂する。(スイカが割れるのに似る)。逆に、数が多いと大玉が小粒になってしまう。

  瓢箪の蔓(直径は約5㎝)は太いが、それでも自重15キロが負担となり、落ちてしまう。ひもで吊してやる。葉っぱも大きいから、台風被害が心配になると話す。

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『春を訪ねて』あちらこちら=三春から嫁もらうな

 古木桜の名所として、福島県・三春町は全国随一だろう。推定樹齢450年の「三春の滝桜」は豪華だ。この季節にはポスターを通して人の目にふれている。
 ぜひ一度は行きたい、と思う人も多いだろう。
 過去に訪ねた人の感想は、「郡山市内から、大渋滞だった。一度観たら、もうあの大渋滞では行きたくない」と話す。それほど人気だ。

 4月15日(火)に同地に訪ねてみた。3分から4分咲きだった。週末には満開だろう。
 私が訪ねたのは、すこしタイミングが早かったからだろう、車を誘導する数多くのガードマンはわりに暇そうな顔だった。大駐車場まで難なく入れた。

「会津の悲劇」の現地取材に入った、3年ほど前だった。
 「二本松には私の父母の代まで、『三春から嫁を貰うな』という言い伝えが残っていたんですよ」
 と福島県立博物館の学芸員から聞いた。
 それが「三春の滝桜」のポスターを見るたびに脳裏に横切っていた。

 戊辰戦争の時、新政府に反発し、奥羽越列藩同盟が結ばれた。31藩は強く抵抗した。一方で、「裏切った」「寝返った」「手引きした」といわれる脱列藩同盟の藩もある。その代表格が三春だ。
 戦略・戦術的には、西洋式軍隊の「ライフル」と鎧兜の「火縄銃」があった。奥羽越に地の利はあるが、次々に負けて、総崩れになったのが実態だ。

「三春の裏切り」には、二本松の悲劇がある。

 新政府軍は磐城平城を落城させると、白河、そして三春藩へと進撃していった。三春が早々と恭順(新政府に屈する)した。その先へと、進軍した政府軍に対して、二本松藩は徹底抗戦した。同藩の少年隊(12歳~17歳)までも、銃を持って応戦した。

 とくに砲術の木村銃太郎が指揮した少年25名は、「大壇口での戦い」で多く戦死した。木村も戦死した。この悲劇は、「三春が裏切ったからだ」とか、「三春が新政府軍を道案内した」とか語られている。

「裏切り」は史実としては不明瞭だが、近在では単純な三春の敗戦とみなさず、卑怯者だ、卑怯者の子孫から嫁を貰うな、と語り継がれてきたのだ。ある意味で、会津地方まで及ぶ。

 有名な会津白虎隊は会津城が自焼したと勘違いして自刃した。しかし、二本松少年隊(正式名はなし)は銃を持って戦ったのだ。そして、死んだ。戦場で負傷した少年らも重体が多く、収容されても命を落とした。

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『皇国の興廃この一戦にあり。~』は秋山真之の名言にあらず。2番煎じ

 明治に入ると、芸州広島藩は長州閥の政治家から、徹底して封印されたり、ねつ造されたりしている。
 広島藩主の浅野家はいまなお資料を公開していない。長州の刺客に狙われるとでも思っているのだろうか。そう疑いたくなるほどだ。実物は広島市中央図書館に眠っている。歴史研究者はのどから手が出るほど欲しいのに。
 
 浅野藩主の末裔が代々隠しても、当時の有能な学問所メンバーが編纂した資料が現存していた。だから、私は芸州広島藩からの幕末歴史小説を書くことができた。


「長州が倒幕に寄与した。そんな作り事は、司馬遼太郎が書いてはいけませんよね」
 山口県のある著名博物館の、主任学芸員がふいにそう発言した。取材で訪ねた私が作家だったから、そう示唆してくれたのだ。

 それには「えっ」と驚いたものだ。
 4年前のその言葉が、私の脳裏には強く焼き付いている。だから、こんかい長編幕末小説を書き上げた。とくに、司馬史観の誤り、事実に反するところ、作り話は明確にするべきだ、その一念で書き上げた。随所にはかなり織り込んでいる。
 6月には刊行予定だ。

 最大のポイントは、「薩長の倒幕」など、常識的に考えても、あり得ないし、事実に反していることだ。

「禁門の変」で、長州藩は朝敵となった。長州人が京都に入れば、新撰組などに殺されていた。幕府から「殺せ」という命令なのだから、当然、殺す。

 大政奉還から、小御所会議で京都に新政府ができるまで、長州は軍隊を京都にあげていない。主要な会議にも出ていない。長州藩は徳川家の倒幕にまったく役立っていない。どんなに折り曲げても、それが事実だ。

 新政府が樹立した後、長州の軍隊が戊辰戦争で暴れまわっただけなのだ。


 長州・政治家が、薩芸(さつげい)の徳川倒幕を「薩長の倒幕」へと巧妙にすり替えた。「薩長土芸」すら、「薩長土肥」に変えられている。『肥』って、なあに、という人も多い。

 慶応4年8月1日に、神機隊・高間省三砲隊長が20歳で、戊辰戦争・浪江の戦いで死んだ。かれは頼山陽以来の広島藩きっての秀才だった。
 死を予期したのか、かれは死の直前に、父親(武具奉行・築城奉行)に手紙を書いている。『絶命詩並序』というタイトルで、七言絶句を添えている。まさに、学問所・頼山陽の後輩らしい。

 高間省三は軍人必読『忠勇亀鑑』で紹介されている。それだけに、高間省三の手紙は明治時代から昭和(終戦まで)の軍人たちの手記や遺書でずいぶん引用されている。

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
 秋山真之は、ロシア・バルチック艦隊との日本海海戦の名言とされている。しかし、それは高間省三の手紙文の引用であり、秋山が考え出した言葉ではなかった。

 高間省三は手紙には、こう書き残している。 
『天皇は明徳を想い、純心に武士や民を赤子のごとく愛す。皇国の興廃は今日の戦いにありです。この徳に報るためにも、男児の死ぬべき時は今です』
 慶応4年7月末である。約38年前だ。

 広島出身の内閣総理大臣・加藤友三郎は、さかのぼること、明治38年1月、第1艦隊兼連合艦隊参謀長となり、5月27・28日の両日の日本海海戦に旗艦「三笠」艦上で作戦を指揮した。そして、バルチック艦隊と同航しつつ、「わが半ばを失うとも敵を撃滅せずんばやまず」との捨て身の「丁字戦法」(敵前180度回頭)を展開させた。
 ロシア・バルチック艦隊との戦いで功績を挙げた。やがて総理にまでなった。

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満開のソメイヨシノが墨絵のごとく咲く=御茶ノ水駅

 4月30日は日曜日だ。ソメイヨシノの桜が満開の行楽日となった。青空のもとの桜は見ごたえある。だが、都心部は朝から雨だった。桜見物を楽しみにしていた人たちは、きっとがっかりだろう。

 わたしは新宿『BLACK SUN」で開催された『東日本大震災復興支援 LIVE2014』の実行委員の方々の会合に参加した。武内紀子さん(俳優)の紹介だった。そこで、求められて、わたしは東北(岩手、宮城、福島)の取材報告と、知るかぎりの現状を紹介させてもらった。
 主催者から、11/8に二松学舎大学で開催される、同イベントの講演を頼まれた。わたし単独の話でなく、現地・東北の被災者を招いたトーク・ショーなども閃いた。
 まだ、半年以上もあるので、追々、煮つめていくことにする

 帰路、新宿・小田急鉄道のロマンスカーの指定券売り場で、長い行列ができていた。「雨、それでもいく」と心が勇んでいるのだろう。


 乗換の御茶ノ水駅は細いプラットホームだ。古い駅舎だから、横殴りの雨となると、突っ立っていると、衣服も顔も濡れてしまう。多くの人は、総武線の各駅停車の電車がやや遅れているので、乗客たちは階段下などに逃げ込み、雨宿りしていた。

 都心部のみならず、地方都市でも、これほどまでに古い駅舎や細長いいプラットホームはもはや見当たらないだろあ。隣駅の水道橋・神田駅への線路すら曲がりくねっている。
 近代化に取り残された、超ローカル駅が都心部に温存されているのだ。それはうれしいかぎりだ。少なくとも、私の母校・中央大学が遠く八王子に移転してしまったから、御茶ノ水は味気ない街だ
 ただ、4年間通った駅がそのままの姿で残ている。実にありがたいし、来るたびに懐かしい。少なくとも、ホームに立つだけでも、青春を思い起こさせてくれる場所だ。

 私が東京にきた1960年代と、周辺の風景はまったく変わっていない。対岸には丸ノ内線が走る。地下鉄がいちどは陸上に姿を見せる。それが愉快だった。一瞬の地上で、車体はぐさまトンネルに入る。
ただ、丸ノ内線の紅い車体が消えてしまった。そこには歳月の流れを感じさせる。

 正面には湯島聖堂がある。江戸時代には全藩の秀才たちが集まった昌平黌だ。現在では朱子学などなじみがないが、当時は論語や孟子など真剣に学んでいた。てまでは、学問の神様と崇め奉られている。
 眼下には神田川が流れている。大学生のころ、ひどい悪臭だった。いまは清流とまでいかないが、川船が行き交う、情感がある。
 湯島の坂道通りには一本の桜が満開で咲いている。傘をさした人が歩く。墨絵のような情感があった。これも江戸の風情だろう。

 東京は車社会よりも、電車と徒歩の社会だ。地方では整備された道路で歩く人は殆どいない。だけど、東京では歩く人が多い。人間を見る街をもみると、町そのものが生きている。
  こうした懐かしい光景は、数分に一本の上りの快速・東京駅が、同ホームに入線すれば、私の目の前から消されてしまう。
 雨だけに前景は墨絵のようだ。地下鉄・丸ノ内線と桜と湯島聖堂を組み合われた写真が撮りたかった。それだけ愛着がある、私にとっては貴重な場所だ。

 私は横殴りの雨の中で、遅延した総武線を待つ。 地下鉄がやってきた。と同時に、中央線が入線してきた。
 私には味わい一瞬の花見だった。

町おこし・村おこし傾向と対策、学びたい『おかげ横丁』=三重県・伊勢市


 『赤福』といえば、「伊勢参り」と同一用語のように、有名である。

 江戸時代からの老舗だ。店内で、団子とか、ぜんざいとか、喫食できる。

 人気店の割には、接客がとても行きとどいている。

 有名店は「胡坐(あぐら)をかかない」

 これが、町おこしの基本だ。


 若者に人気がある。どのように若者を呼ぶか。
  
 すべてにおいて、最優先する。

 若者が来ない町はやがて、その勢力を失う。

 かつて全国は温泉街が流行っていた。

 結果として、若者に見捨てられ、高額のホテル・旅館がなだれを打って衰退したように。


 ネーミングはとしも重要だ。

 『これよりおかげ横丁』

 訪問者に感謝の気持ちがある。

 心から感謝は、まず形から入ることだ。

 ここでわかるのは、日本語である。

 横文字を使って、得意がっているのはしょせん借り物だ。

『~ランド』などは、メディアから見放されると、凋落の一途だ。



「常夜燈」とか、『道中安全』とか。かつては旅人に欠かせない道案内だった。

 若者を大勢呼ぶ町。そこにはさりげなく江戸時代の言葉を組み込んでいる。

 長い伝統は決して廃れない。ここらは抑えどころだろう。


  各市町村のお役人や商工会の(町おこしの旗を振る)が、ここで立ち止まり、腕ぐむ。

 この常夜燈から、なにを学び取るか。ヒントになった。となれば、それは町おこしの本ものの感性がある。

 ここは人工の街だが、テーマが明確だ。それは江戸時代の風景の再現だ。

 ひとつ一つの店舗は、私有財産だから、何をどう作ろうが勝手だが、調和、統一がある。

 イメージは古来のものだが、すべて新品だという特徴も見逃せない。

 

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無冠の帝王 最後の大物・小中陽太郎さん「第1回野村胡堂賞」受賞

 1月31日、浅草ビューホテル「飛翔の間」で、「第1回野村胡堂賞」(主催・日本作家クラブ)の受賞式が開催された。受賞者は小中陽太郎さんで、作品は『翔べよ源内』(平原社刊)である。平賀源内の一生に光を当てた、魅力あふれる時代小説だ。

 第1回の文学賞は名誉あるもの。と同時に話題性がある。報道陣、著名な来賓者、文学仲間がたくさんお祝いに駆けつけていた。
 野村胡堂はロングセラー「銭形平次」で有名であり、神田明神には碑もある。ストーリー立ても江戸下町・浅草が舞台のひとつになっている。それだけに来賓者には、浅草に縁がある芸能、舞台、寄席関係者が多かった。

 小中さんは日本ペンクラブ理事であり、文壇の大御所だ。授賞式で、「無冠の帝王」と聞かされて、えっ、と驚きを覚えた。プロ作家のほとんどはなにかしら文学賞歴がある。それだけに、小中さんは胸に秘めた思いがあったのか、壇上ではふだんに増して微笑みがあふれていた。

 同賞の審査委員長の奥本大三郎さんは、挨拶のなかで、
「野村胡堂は仏文のインテリです。小中さんも東大卒の仏文の教養人です。源内は理系と文系の両道の人でした。源内がしっかり描かれた作品です」
 と評していた。

 小中陽太郎さんは受賞挨拶のなかで、
「子どもの頃は鞍馬天狗、銭形平次、ロビンソン・クルーソーが愛読書でした。源内は四国出身の才能に満ち溢れる人物。他藩に召し抱えられること相成らぬ、と申し渡されていただけに、多彩な才能・発明のなかで、戯作で憂さ晴らした面がある」
 と源内の生き方にふれていた。

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『S-NTK』 旗揚げ公演=喜劇とショーで魅了する

 元宝塚歌劇団の五月梨世さんが、日本大学芸術学部(日芸)の帆之亟(はんのじょう)さんの同期会とが、 S-NTKを旗揚げ公演を行った。1月25日、大井町きゅうあん小ホール。華やかな舞台で、6000円の入場料で十二分に堪能できる内容だった。将来の活躍が期待できる。

 帆之亟さんは日芸卒で、朝丘雪路の相手役とか、山田五十鈴「春の名残り」で大石主悦とかを演じてきた。五月梨世さんは宝塚の男役だ。親戚筋に、故南風洋子(女優・宝塚トップスター)がいる。
 ふたりはかつての大物女優を介して知り合った仲である。この公演の企画・藤本佳子プロデューサーとの縁で、 S-NTKが誕生した、

 第1部は喜劇『お菊皿騒動』(落語「お菊の皿」より)。美しい女形を得意とする帆之亟さんが、徳川将軍から賜った皿を1枚なくす、お菊の幽霊役だ。「1枚、2枚、3枚……」のお菊が、まさか男性とは思えない美姿である。

 怖いもの見たさの町人たち(落語の世界のひょうきん者)らが、愉快に幽霊をのぞきに行く。男役の1人が五月梨世さんだ。宝塚の男役だっただけに、抜群の魅力を醸し出している。愉快に演じるのが雨川景子(あまかわ けいこ)さんと、大旦那ぶりの妙を見せるのが、「まるのめぐみ」さんである。旗揚げの初顔合わせ手とは思えない、3人の呼吸だった。

 つまり、男性と女性が役の上で、男女が入れ替わっているのだ。落語でも楽しい四谷怪談だけに、観客もストーリーを知っている。そのうえで、愉快に楽しめるから、さすが舞台俳優・女優だ。
 映像、映画と違って、役者は細切れでなく、一本の筋を通すもの。人間だから、長時間のセリフも微妙に度忘れするが、うまく取り繕い処せる。それも舞台役者の腕前で楽しいし、見事だ。

 第2部はショー『春夏秋冬』が開催された。華やかな十二単は熱い感慨を覚えてしまう。歌と踊りと衣装と。近々に写真で、これら舞台が堪能できるように紹介したい。

                                             【予告】