ジャーナリスト

出久根達郎さんが『半分コ』で「芸術選奨」の文部科学大臣賞を受賞=再掲載

 文化庁が3月12日に、第65回芸術選奨の受賞者を発表した。直木賞作家・出久根達郎さんが『半分コ』で文部科学大臣賞を受賞されました。

 この「穂高健一ワールド」で紹介した、推薦図書『半分コ』を再掲載いたします。


【推薦図書】 Kindleサイズ「短編集 半分コ」=出久根達郎


 Kindleサイズの紙の単行本とは考えたものだ。持ち運びが良い。満員電車でも、簡単に読める。なにしろ流行の先端を行っている。
 液晶画面でなく、紙面で読める。あらたな読者層を広めるだろう。


 出久根達郎著「短編集・半分コ」が三月書房かせ出版された。定価は本体2300円である。

 Kindleサイズの出久根さんのアイデアか。それとも出版社か。後者ならば、編集か、営業か。そんな興味もわいてくる。ご本人に訊いてみたいが、想像にとめておこう。その方が楽しい。
 
 直木賞作家で、現代では第一人者の短編小説集だ。軽妙に手軽く読める。気にいった題名から読めばいいだろう。

 人生半ばを迎えた主人公たちが、ふと過ぎし日を想う時、その何気ない言葉やしぐさに心の内を垣間見る。……どこか懐かしく、そしてほろ苦い16の小さな物語。

 『掲載作品』
    半分コ
    饂飩命
    赤い容器
    母の手紙
    十年若い
    お手玉
    空襲花
    符牒
    紀元前の豆
    名前
    薬味のネギ
    校庭の土
    こわれる
    腕章
    桃箸
    カーディガン     

ニューヨークの大停電、私たちはそこにいた=2作品の偶然

 この偶然にはおどろかされた。「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室の指導を引き受けてから、約9年に達する。この教室がはじまった頃(2007年2月)に、和田譲次さんが30年間前(1977(昭和52)年に米国・ニューヨークで起きた大停電の体験記を提出してきた。


 大停電自体も当初信じられない思いだったが、和田さんがエンパイアステートビル88階の展望台にいたというから、これにはおどろかされた。まるで大都市停電の空中見学ではないか。すごい場所にいたものだと思ったものだ。

 同教室は1年に10回開催されている。その都度、平均15作ほど提出される。1年ごとに製本されているので、8冊できている。私は単純計算でも、9年間で1350作品を読んで、添削し、講評してきたことになる。
 数多くの作品のなかでも、和田さんのニューヨーク大停電はつよく記憶に残る一つだった。

 それから8年が経った。ことし(2015年3月)の作品で、武智弘さんがニューヨークの大停電の体験記を提出してきた。「えっ」と思った。
 武智さんは女子プロテニス・ゲームを観戦していた最中に停電が起きた。真っ暗闇のマンハッタンは大墓地で、人々がその中を歩いていたという。

 天空の和田さん、大墓地と感じた武智さん、2つの作品に共通するのは、「人間は国籍を問わず助け合うものだな」と、心温まる人間の触れ合いだ。そして、ふたりしてアメリカが大好きになったと記す。ともに、感動作品だった。

 私が書き過ぎると、作品の妙味がなくなるので、ここらで筆を止めます。じっくり味わってください。

ある日のニューヨーク武智 弘

 忘れもしない1977年(昭和52年)7月13日の夕刻、私はデトロイトから 空路ニューヨークに入った。翌日に会社の事務所で報告をすませてから、日本に帰る予定だった。
 ホテルにチェックインした後も連日の猛暑で、また街に出て行く元気は無かった。だが、一人で部屋に居ても仕方がないので、コンシェルジュに電話をして、今夜のイベントを聞いてみた。

 マディソン、スクエアガーデンで女子プロテニスがあるという。出場者を聞くと新聞やテレビでよく見る名前の選手が多かったので、切符を予約して貰って、とにかく行ってみる事にした。


 満員の観衆の中で見るトップクラスの女子プロテニスのゲームは、想像以上の迫力があり、私はぐんぐんと周囲の雰囲気に引き込まれて行った。
 選手たちの気合いの入った掛け声、観衆の拍手、ボールを打つラケットの響きに次第に我を忘れていた。丁度、1時間も経ったと思われる頃、どうした事か、突然館内の照明が全部消えてしまった。

 静まり返った館内に10分程して場内放送が、
「突然の停電で原因は分かりません。回復次第ゲームを再開します」
 という意味の事を何回も言ったけれども、回復する気配は無かった。30分程経っても真っ暗闇は続き、観衆が騒ぎ出した頃また放送があり、
「まことに申し訳ありませんが、この停電は直ぐ回復する見込みはないようなので、今晩のゲームはこれで中止致します。お気をつけてお帰り下さい」
 という事になった。

 冷房の消えた館内は、大観衆のせいもあって急速に暑くなってきたので、観衆は我勝ちに出口に殺到し始めた。私も大勢の人々に押され、突かれ、踏まれながらやっと外に出た。館外に出てから、暫くの間に見た光景は一生忘れがたいものとなった。

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私たちは歴史の主役です。70年の平和を後世に伝えよう(下)

 3月7日、朝日カルチャー・千葉の講演『「二十歳の炎」で、幕末史観が変わる』において、戦後70年の平和づくりを強調した。

 文明開化は安政の開国からです。「安政維新」なのに、明治維新だと偽る幕末志士たちの美化はもうやめましょう。


 徳川幕府は大政奉還で平和裏に政権移譲した。直後、薩摩・長州の下級武士が軍事クーデターを起こした。鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争、遷都もなく、東京に明治天皇を移した。ここに明治軍事政権が誕生した。

  
 それ以降10年に一度は海外と戦争をする軍事国家になった。、天皇と軍事を結びつけた「天皇+戦争」。明治天皇だって、決して戦争を望んでいたわけじゃない。それなのに、為政者たちは「天皇ばんざい」と言え、と国民皆兵で銃を持たせた。家庭を壊させて、死線をさまよわせた。

 1945年まで、77年間は外地で戦わせた。最終的には、第二次世界大戦で日本国土を焼け野原にさせてしまったのです。挙句の果てに、海外から、日本人は戦争好きの国民と思われてしまった。
 こんな戦争国家77年を作った政治家、上級軍人たちは、私たち現代人からすれば、大迷惑なのです。

 坂本龍馬にしろ、いろは丸事件で、金塊や最新銃を積んでいたと大ウソをつき、紀州藩から8万3000両を奪い取った。(実際は7万両が支払われた)。南北戦争後の銃をグラバーを介して輸入し、長崎から日本じゅうに売った「死の商人」です。船中八策など、ありもしない、偽物すらない、でたらめなつくり話を司馬遼太郎など歴史作家がもっともらしく書き上げてきた。


「こうした特定の人物を美化したり、「天皇+戦争」を推進した、日清・日露戦争からの東郷元帥、乃木将軍、山本五十六など英雄視して、後世に中継ぎすることはやめましょう。もう、断ち切りましょう」
 
  私たちは子供のころ、焼夷弾や原爆など爆弾投下の廃墟でした。実に悲惨な状況下で、生まれ育ったのです。みんな飢えて空腹でした。
 同世代の戦争孤児たちの多くは餓死しました。満州から引き揚げる子供も大勢が死にました。

 生きながらえた私たちは、成人してから精いっぱい企業・商店・農水産業で働き、汗水たらして平和国家70年を作ってきたのです。この間、外国から日本人は戦争好き民族だと批判されても、反論せず、先人が迷惑をかけた賠償金を払いながら、ひたすら文句を言わず、耐えて平和を築いてきたのです。

 戦後の食糧難から、私たちは一途に平和を探究してきたのです。企業戦士だと言われてきた私たちですが、1945年8月15日から、日本人は外国人を銃で1人も殺していないのです。
 
 幕末志士は英雄でなく、軍事思想家たちです。鳥羽伏見でクーデター起こし、77年間の戦争国家を作った。かれらへの陶酔はやめましょう。かれらと私たちを比べてみましょう。廃墟からの戦後70年間の「天皇+平和」は比較にならない、りっぱな国家づくりだったのです。

 この平和は世界に類を見ない、世界最大級の自慢すべき財産です。私たちは胸を張って平和づくりの現代史を優先して後世に語っていきましょう。

  朝日カルチャー千葉の講演より。


                写真 : 栗原 量子さん(朝日カルチャー千葉)

                                         【了】

私たちは歴史の主役です。70年の平和を後世に伝えよう(上)

 3月7日、朝日カルチャー・千葉で講演を行った。タイトルは『「二十歳の炎」で、幕末史観が変わる』だった。

 私たちは、正しい幕末~明治の近代史を知っているだろうか。質問を交えて、話を進めていった。

 安政の開国で、日本は新しい国家への道を歩みはじめた。そこから明治までの15年は一気に欧米の文化が入ってきた。

  天保・天明の飢餓は過剰人口が原因だった。日本の銀産出量は世界の1/3も占めていたから、外貨に不足はない。開国と同時に、輸入食品が入り、大勢の日本人は飢餓から救われた。阿部正弘、井伊直弼の功績は計り知れない。

 しかし、明治政府が作った日本史では、鎖国から開国に踏み切った阿部、井伊の二人をとかく見下している。

「みなさんは、ペリー提督が来航した1953年の1年後には、英文、オランダ語、日本語で外交文書が取り交わされました。なぜ英語が理解できたと思いますか? 皆さんの英語力と比較してみてください」
 講座で、そう質問した。だれも答えられない。英文の日米和親条約はこちらをクリック


 ジョン万次郎は、阿部正弘老中首座が江戸に呼び旗本に取り立てたけれど、漁民で身分が低く、同条約の通訳メンバーに入っていません。

「江戸時代の貿易相手はオランダ、朝鮮、中国でした。19世紀初め、ナポレオンがオランダを占領し、オランダ国家がなくなりました。これは歴史的事実。長崎出島のオランダ貿易はどうなりましたか?」
 これも答えられない。

「アメリカ船が長崎に来て交易をしていました。だから、米国には浮世絵、下駄、蛇の目傘、諸々の日本の物品が現有しているんですよ。当時、日英辞典もできました」
 日本が江戸時代(19世紀初)、アメリカと貿易していたとは教科書で教えない。教えないことは隠すことだ。真実を教わっていないから、誰も答えられない。 


 阿部老中首座(現・内閣総理大臣)は海外通で、上海、香港の英字新聞を日本語に翻訳させて、つねに読んでいた。
「鎖国の国家ゆえに欧米情報に敏感だったのです。現在の北朝鮮がアメリカ情報に敏感なのと同じ。鎖国とは海外に対して目を閉じることでなく、より敏感になることです」


 長崎の通詞(通訳)たちに、イギリス大英帝国、アメリカ独立戦争後の台頭から、オランダ語よりも英語に切り替えさせ、徹底して勉強させた。だから、アメリカの提督がきても、すぐに対応できた。

 ペリー提督よりも、7年前、1846年には東インド艦隊の司令官のビッドル提督が浦賀に来航した。このときの阿部正弘は、アメリカ大統領の親書は受け取らず、丁寧にお断りして、生鮮食品、薪、飲料水を目いっぱい与えて、お引き取り願った。
 ビッドルとペリーの2人はまったく同格の提督だし、艦隊の規模もほぼ同じ。

 阿部老中首座の立場で、ペリー提督来航は、2度目のアメリカ艦隊だ。それも同じ浦賀だった。おどろくわけがない。オランダを介して、やってくる軍艦名までも伝わっているのだから。

 阿部は欧米の産業革命を知っていた。ベリーが初来航した、2週間後には長崎奉行から、オランダに軍艦(蒸気船)4隻を発注させた。その一隻が咸臨丸である。この1週間後には、ペリーから受け取ったアメリカ大統領の国書を全藩に公開しているのだ。


 薩長土肥の貧乏な下級藩士が、思いもかけず国家の頂点に立ったものだから、江戸幕府の有能な上級職を片っぱしから貶(けな)す。悪質なねつ造も多々ある。

『太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず』
 幕府のトップがあわてふためていたと、明治政府は偽りをおしえている。こんな狂歌を面白おかしく教科書に載せている。
 
 阿部正弘が正確な欧米情報を持っていなければ、ペリー来航から即刻、2週間後に最新鋭の蒸気船など発注できない。

 明治政府がつくった歴史教育は、徳川幕府が19世紀にアメリカと交易していたと教えない、真実からおよそ遠いものだった。
 だから、それを受け継いだ現代の学校教育の現場でも、『長崎通詞が複数で日米和親条約の英文を吟味した』という単純な事実すら、教えられないのだ。

                                    【つづく】

                      写真 : 栗原 量子さん(朝日カルチャー千葉)

わが青春のムーラン・ルージュ(下)=戦前と戦後を生きた若者たち

 こんかいの公演『ムーラン・ルージュ』のモデルは実在人物ばかりで、主人公は中村公彦(きみひこ)である。申し訳ないが、私は知らなかった。それが良かったのかも知れないと思える。先入観なしに、演劇からのみ、何かを知ろう、得よう、としたからである。

 中村は子供の頃から絵が好きだった。だが、親は芸術の道に進ませなかった。濟々黌(せいせいこう・現熊本県立高校)、早稲田大学商科へと進む。早大に入っても、美術願望ばかりだった。世の常で、卒業後は三菱重工業本社に入り、勤務する。

 軍事工場だから、中村が戦地に行ったのか、内地に残ったのか、見落としてしまった。ただ、戦争末期、結核療養のために熊本に帰省させた妻と幼子を亡くす。ここにも人生の転機があったようだ。

 戦後はサラリーマン(半官半民会社?)の傍ら、「ムーラン・ルージュ」でアルバイトの舞台美術の絵描きになった。
 その後、舞台美術として中村は名を馳せた。舞台に登場してくる森重久彌(浜畑賢吉)の説明によれば、「ムーラン・ルージュ」が消えた後には、映画の世界に入り、大活躍をした人物だという。

 木下恵介監督「日本の悲劇」「女の園」「二十四の瞳」、川島雄三監督『幕末太陽伝』、井上梅次監督「嵐を呼ぶ男」「明日は明日の風が吹く」、今村昌平監督「豚と軍艦」「にあんちゃん」、裏山桐郎「キューポラのある街」など、戦後映画の数々の名作の美術を担当してきた。

 そして、後世にその名を残す舞台美術家、映画美術監督となったと、森繁が語りつづけた。

 
 中村公彦のあだ名は「男爵」だった。かれの風貌がジャガイモに似ていたのか、あるいは戦前まで存在した男爵家の息子か。そこらがわからなくても、むしろ、経歴を知らないほうがミュージカルの踊りと、愛の演劇と、懐かしい歌と、観劇としてはスピード感もあり楽しめた。

「ぜいたくは敵だ」という軍国社会のなかで、「ぜいたくは素敵だ」とダンスに興じる若者達とか、絵描き・童話作家になれずして、文系の学生は卒業を待たずして「祖国のためと銃を持たされ」戦地に送られるとか。最後の早慶戦の野球が神宮球場で行われて「海ゆかば」が合唱されるとか。当時の世相が次々に展開される。
 

 終戦後の焼け野原で、「ゴム紐売り」が現れる。豊かな現代ではあり得ない露天商だ。こうした昭和の大きな分岐点の社会が、歌や踊りとともに、ごく自然に理解できる演劇だった。

 暗い世相、焼け野原のなかでも、出演者たちが明るく踊る、歌う。あるいは涙する。この舞台には「生きるとは何か」と問いかけるテーマがあった。演者たちは、昭和史の中で生きた若者たちは、みな懸命に生きようと努力している姿をしっかり見せてくれた。

 だからこそ、出入り口で見送る演劇人たちの顔が、とてもすてきにみえた。


【関連情報】

主催 新宿くまもと物語「わが青春のムーラン・ルージュ」制作上演委員会

委員長 副島隆

〒862-0959熊本市中央区白山1-6-31
(株)お菓子の香梅内
TEL. 096-366-5151 FAX. 096-372-1857

熊本アイルランド協会
http://www.kumamoto-ireland.org
E-mail office@kumamoto-ireland.org

主催者から一言いただきました。
「笑いあり踊りあり歌あり楽しい舞台になっています」

【了】

わが青春のムーラン・ルージュ(上)=戦前と戦後を生きた若者たち

 昭和はやや遠くになってきた。戦争がその昭和を二分していた。文化も、生活も、生き方すらも違う。ただ、戦前と戦中の暗い世相でも、若者たちのエネルギーを発散させるモダニズムがあった。そのうえ、廃墟から立ち直った終戦後には演劇人が育つ土壌が生まれた。
 ここをみごとに再現・演じたのが、「新宿くまもと物語」シーリーズの「わが青春のムーラン・ルージュ」である。
 東京公演が2月24日(土)に、東京・新宿区の四谷区民ホールで、熊本公演は、昨年(2014)11月18日に開催された。

 新宿と熊本の関連とはなにか。夏目漱石、小泉八雲がともに熊本・五高で教鞭をとっていた。ふたりのさらなる共通点は新宿である。漱石においては新宿が生誕・終焉の地であり、八雲は終焉の地だった。

 ふたりの文豪を題材にした創作舞台「新宿くまもと物語」が製作され、双方の地で演じられている。ことしは3回目である。
 
 第1回は平川祐弘・東大名誉教授の脚本『青柳』である。八雲の「怪談」が題材になっている。

 第2回(昨年度)は、直木賞作家・出久根達郎の初脚本『庭に一本(ひともと)なつめの金ちゃん』で、熊本の古本屋が舞台だった。

 第3回(今年度)は、新宿の学生たちを背景にした歌と踊り、そして演劇の「わが青春のムーラン・ルージュ」である。

 作家仲間の親しい出久根達郎さんから、同劇のお誘いとお招きを受けた。私が指導する小説講座の受講生ともども四谷区民ホールで観劇させてもらった。


『ムーラン・ルージュ』は何となく聞き覚えがある。映画の題名かな、ミュージカルかな、昔の歌かなと思う。その程度のばくぜんとした知識で観るのが、この舞台は最も良い、それが私の感想である。

 昭和6(1931)年11月、映画館の新宿座を改装した、実にモダンなレビュー劇場が誕生したのだ。建物の屋上には風車があった。
 吉行エイスケ(吉行淳之介の父)が、パリの「ムーラン・ルージュ」を真似て名づけられた。新風を巻き起こすダンスに演劇にと、インテリ層や学生らを一気に引きつけた。

 若者たちのアイドルとなった明日待子(まつこ)、望月美恵子(のち望月優子)、小柳ナナ子などがスター誕生となる。

 昭和20(1945)年5月の東京大空襲で、建物は焼け落ちる。終戦後、焼け跡から復活してくる。
 同22(1947)年2月4月に、新生「ムーラン・ルージュ」が復活する。座主は宮阪将嘉、三崎千恵子(のちの「男はつらいよ」のおばちゃん役)、由利徹、春日八郎、楠トシ子、満州の引き揚げ者の森繁久彌らがいた。
 しかし、昭和25年9月、「ムーラン・ルージュ」は幕を閉じた。この間に、多くの演劇人、舞台人が生まれた。


 写真提供 : 写真家・宮田均さん

                             【つづく】

「成人式」を血で汚させないためにも=私たちは何を考えるべきか

 約150年前、日本は平和国家になろうとしていた。大政奉還で、德川家から天皇に政権移譲がスムーズに行われた。
 東南アジアの例を見るまでもなく、平和な民衆政権が成立すると、とかく軍部がクーデターを起こす。武力で、政権を奪う。それは国民の期待を裏切り、不幸な道に進む。

 日本の場合は、それが鳥羽伏見の戦いである。最初に発砲したのが、薩摩藩隊兵で、長州藩兵、土佐藩兵、鳥取藩兵などを巻き込んだ。全国規模のクーデターに転じた。それが戊辰戦争である。
 ここらの経緯は拙著『二十歳の炎』で、くわしく書き込んでいる。


 戊辰戦争では、日本中の多くは20歳前後への若者が戦場に駆り出されていった。幕府軍も、新政府軍も、敵も味方も、主義主張のなどない若者だった。
「戦いに勝てば、苗字帯刀がもらえる」
 農兵たちはそこに命をかけた。
 戦場で、多くの血を流したのは、薩長の武士ではなく、殆どが若い農兵である。官軍が勝利した。

 長州藩兵は会津落城(開城)まで、後続部隊だった。長州人が血みどろになって落した城などない。薩長という言葉にのらないと説明がつかないのだ。


 明治新政府が京都から江戸城(東京)に移った。
 32万石で実質70余万石の石高に余裕ある長州藩は、「札びらで頬を叩き」という表現があるが、金の力で、政治の中心に座ったのである。つまり、鳥羽伏見の端を発したクーデターの最後の処で、金で要職を買い占めたのである。美味しいところの横取である。

 表現が悪いけれど、戦後の政治のなかで、田中角栄が札束でへ、大規模な政治集団をつくりあげた。「列島改造」で、日本を支配した。日中国交を開いた田中角栄のように、平和国家を作ってくれたならば、まだ救われる。

 長州閥の軍部は、徴兵制で従軍強制した民に対して、「天皇のために死せよ」、と皇国思想を折り曲げ、日清戦争、日露戦争へと武力侵攻をしていった。それは紛れもない歴史的な事実である。


 2015年1月13日は、国民の祝日「成人式の日」だ。
 「成人式の日」に、中国新聞に戊辰戦争に出むいた、「神機隊」の従軍記録が紹介された。私も同社の記者の取材に立ち会った。(写真参照)。
 20歳前後の若者が戊辰戦争で綴った、生死の戦場記録である。亡くなった若き兵士を悼む。


 皇国思想とはなにか。私たち国民が頂点に天皇を拝するものだ。それは純真なものだ。
 あえていえば、尊皇と外国排除の「攘夷」とはまったく別物である。国民が1000年以上、崇拝してきた天皇なのだ。天皇制と軍事力結びつけてはいけない。

 幕末の水戸藩の徳川斉昭が「尊皇攘夷」を打ち出し、日本に近づく外国船を撃ち払え、と言い出した。開国派の安倍正弘・老中首座は拒否し、開国への道を選択した。
「日本が国際社会と仲良くして、何が悪いのか」
 そう主張する阿部正弘が急死すると、斉昭の尊皇攘夷が一人歩きした。それが全国に広がった。長州藩は吉田松陰が水戸から持ち帰った。


『尊王攘夷』
 倒幕への求心力に利用したにとどまらなかった。明治政府を支配した薩長土肥は、純粋な天皇制と戦争思想を結びつけたのだ。徴兵制を作り、天皇のために、と太平洋戦争まで、数百万人の若者を血を流させることに利用した。

 玉砕、特攻隊、原爆投下など、し烈な太平洋戦争を最後に止めたのは(1945年)、結局のところ、薩長の流れをくむ軍部・軍人でなく、昭和天皇の英断だった。それは国民の血をこれ以上流さない、と民を想う心だ。


 TVを見るときには、「尊王攘夷が正義だ」という視点でみないことだ。それは軍事思想の原点だ。私たちが尊敬する天皇、無関係な戦争理念を結びつけた、悪質な軍事思想だという、冷静な目で見ることだ。
 こうした適正な歴史評価が、近い将来、小中学生、高校生が教科書で学べる日を期待したい。
 
「成人式の日」に、中国新聞が掲載した「神機隊が記す戊辰戦争」から、あえて若者たちと戦争と天皇制を考えてみた。
 
 

『新春・講師の集い』読売・日本テレビ文化センター=大手町

 新しい年を迎えると、いずこも新年会がはじまる。
 2015年1月4日、大手町サンケイプラザの4階ホールで、『新春・講師の集い』が行われた。主催は読売・日本テレビ文化センターである。

 同センターは創業35周年を迎えた。節目の年であり、新年会を兼ね合わせたものだ。講師の参加者は約200人で、立食パーティーだった。

 壇上では、30年講師歴の方々が紹介されていた。

 講座のジャンル別に円形テーブルがあり、それぞれが歓談した。私は「文芸・教養」だった。俳句、エッセイの講師で、小説の講師はまわりにいなかった。
 私はそれぞれの講師から指導テクニックなど聞きたかった。だが、逆に「小説の指導はたいへんですね」と質問をむけられることが多かった。


「まったくの素人で、小説と称する長い文章を読まされると大変です」
それにはいかに時間が取られるかと説明した。
 その上で、小説は文章講座と違う。『文学賞を目指す』と、あるていど小説を書いてきた、予選通過、一次、二次のレベルの技量の人を前提に募集しています。

 別の講師と名刺を交わすと、また小説の話になる。

 
「小説だけは下手な作品は読みたくないですね」。私はふだん長編小説を書いています。それをいったん中断し、受講生の長文を読むわけです。添削が終って、一区切りついて、自分の作品に戻ると、連続が切れていますから、それが一番苦労なんです、と答えた。


「わたし小学生時代、作文が上手だと誉められたんです。小説は書けますかね」
「無理ですよ。作文と小説は、日本語は同じでも、技法はまったく違います」
「でも、一作は良い作品が書けるというでしょ」
 文芸のコーナーだけに、こうした突っ込みが入る。
「プロ作家になるには毎日書きつづけて、10年、20年もかかるわけです。一作だけのために、それだけ時間はかけられますか」
 相手が講師だから、辛口に応えておいた。

 胸につるしたIDから、金町で、なにを教えているんですか、とまたしても類似的な質問を受ける。

「カルチャーに来て、月に一度作品を提出して、作家になれるつもりで来られると困るんです。小説講座では、先生が手を入れてくれる、そんな気持の受講生は欲しくないんです。僕の時間の浪費になりますから」
 そうはっきり言い切ると、相手の講師も体験的にわかるのか、納得顔だった。

「推敲に推敲して、提出し、講師に完成度の高い作品を評価してもらう。その意気込みなくして、作家になれません。それでも、何千人、何万人に一人の高い競争ですから」


 (会費をはらって新年会に出て)、私自身の話など、まったく面白くないし、つまらない。知識吸収の意味合いから、手芸講座のテーブルに逃げた。
 そこでも、小説の話題となってしまった。
 

笑いの芸人は真面目な演技で、腹の底から嗤(わら)わせる=浅草

 
 浅草・木馬亭で、舞台も、会場も、笑いであふれた「演芸音楽会」が行われた。

 写真で、どこまで表現できるだろか。

 ともかく、にぎやかな演劇人の舞台だった。

 


 巫女さんがロックンロールを詠う。

 和洋折衷で、歌に魅了されるよりも、おもわず笑ってしまう。



 田中悠美子は、海外公演が多い。

 三味線と撥(ばち)と、変幻の角度で奏でる。

 実に器用だ。

 ときには撥の代わりに、得体のしれない物体を使っていた。

 私が大好きな演劇人の「山口とも」だ。廃品を利用した音楽家で、喋りがとても上手だ。

 意味不明のことばで、笑わせる。


 空き缶を利用した、宇宙人姿で、客席から登場した。

 舞台に上がる。袖の幅までも、計算に入れていなかった、と笑わせていた。


 打楽器となる素材は、たらいとか、仏壇の鉦とか、廃品の塩ビのパイプとか、諸々である。

 話術の巧みさで、爆笑の連続だ。

 会場の観客を巧く取り込む。


 主催者の福岡詩二さん。

 2014年12月29日「年忘れ演芸音楽会」の招待を受けた。

 風邪を引いて大変だったらしい。


 プロの演芸人は穴があけられない。

 破壊バイオリンで、演歌を奏でる。

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恒例の餅つき「農家が好き、本ものが好き」(下)=埼玉・幸手市

 松田家の恒例の餅つきには入れ替わり、知人や地域の人がやってくる。

「住いの春日部では、餅つきの風景はもうなくなりました。店頭で売っている餅より、比べようもなく美味しいです」と女性陣は語る。搗きたての餅を賞味してから、それぞれわが家に持ち帰る。


 小林克介さん(埼玉県退職事務職員会・会長)は、大御所のように椅子に坐っていた。「松田さんとは30年来の付き合いです。楽しく賑やかな光景が良いね。時期が来れば、待ち焦がれている人がいる」と雰囲気を楽しんでいた。

 松田さんの奥さん(65)は、山口県・萩高校の出身者だ。藩校・明倫館の流れをくむ学校だから、多くの幕末志士たちが先輩になる。来年のNHK大河ドラマ『花燃えゆ』の吉田松陰の妹の放送を期待している。
「松陰先生の本は過去からたくさん読んでいます。TVではどういう形で表現されるか、萩のどんな場所が出てくるか、それが楽しみです」と語る。きっとお餅を食べながら、テレビ観賞だろう。

 故郷の萩の餅を語ってもらった。

「丸い餅で、アンコロ餅が中心です。(1個ずつなかに餡(あん)をつつみこむ)。こちらの農家に嫁(き)て、四角い餅を知っておどろいたものです。いまでは四角い餅の方が、メリットが多くて好き。ビニールで密閉状態だから、無駄がなく、2月上旬まで食べられます。田舎の丸餅はむき出しで、すぐカビが生えます。だから、水餅にする。それは嫌いでした」
 と思い出と兼ね合わせて語ってくれた。
 
 松田光男さんは振る舞い酒で、「どんどん食べて」と勧める。年末の餅つきは親の代からつづいてきた恒例行事だ。次世代まで、この伝統は残してほしい。そう言うのは簡単だが、もち米や薪や副資材などの手配、前日の仕込み、目に見えない準備の大変さがある。

「皆は農家が好き、本ものが好きなんです」と松田家の次女夫婦は、父親同様に語る。きっと受け継がれるだろう。世代が変わっても、黄な粉、アンコ、胡麻(ごま)の3種類の搗(つ)きたての食べながら、微笑む顔がこの庭で見られるはずだ。              
                                          【おわり】