A010-ジャーナリスト

私たちは3.11を忘れない 「いまの陸前高田を語る」= 大和田幸男

 大和田幸男さんは、かつて陸前高田市米崎で製材所を経営されていた。3.11大震災で「鉛筆一本持ちだせなかった」と語る。避難所生活で、企業再建資金はなかった。しかし、知識と技術を生かした大和田さんは、材木販売業で立ち上がった。

小説3.11『海は憎まず』で、大和田さんには多大な協力を得た。同書が出たあと、読者からその後の推移や現況などを聞かれることがある。

 自然災害の住宅復興と材木業は深くかかわりあう。大和田さんには住民の姿がリアルに見える立場から、陸前高田の現況を伝えてもらった。

  

 いまの陸前高田を語る  大和田幸男さん  


 岩手の湘南・陸残高田は、12月も半ばになると、霙(みぞれ)で氷点下3度まで下がってくる。
 寒さながら、被災地はさぞかし「住宅建設ラッシュ」と思われているかもしれない。だが、ひと頃の盛況ぶりではなくなった。

 資金に余裕のある人たちは、今年(2014)、昨年、一昨年と、独自に自分で土地を購入し、 再建してきた。
 しかし、高台移転への希望組は、未だ造成が終わらず、大半は早くて来年(2015)秋からの住宅着工である。(一部の地区は着工済)。

 資金のある人たちが建てた家は、やはりハイクラスな家が目立つ。ここにきてコンパクト(25〜35坪)な家の注文が増えてきた。

 そのことを東京の工務店経営の友人に話すと、「東京じゃ、そのコンパクト・ハウスに、みんな住んでいるのだぞ」と怒られてしまった。

 材木販売業の商売柄、設計図面をいただくと、失礼ながら廉価版が多くなってきた。3.11大震災の直後は、再建住宅単価が当時相場で坪当り50万円の予算を描いていた。
 ここにきて、生コンの高騰、消費税のUP、人手不足による人件費の高騰で、夢をコンパクトにせざるを得なくなったのが実情である。


「現在、小規模な住宅は田舎でも坪70〜80万したりします」
それでも県や市の住宅着工補助金各種を合計すると、1000万円前後になってくる。公営住宅を借りて、月2万5000円を支払ったとしても、年間は30万円。30年間、それを払い続けると、900万円を支出しても、その部屋は自分の物にはならない。

「どちらにするか、その判断は家庭により様々です。もともと人生のスケジュールには、「自宅新築」のキーワードなんか無かった方々が多いので、どのくらい思案したか、同類項の私には気持ちがよくわかります」

さて、奇跡の一本松付近に建設された巨大なベトルコンベアがTVなどで報道された。山を切り崩した土砂を3Km運搬する。このベルコンのおかげで広大な面積の盛土(12m)が、スピーディに整地されつつある。

仕事帰りの夕闇の車窓から横目で追う光景は宙に浮いた無数のベルコン白色LEDイルミネイションです。 まるで、お台場のレインボーブリッジの縮小版・幻影像である。
本流から支流に枝分かれる光の川を上に見て、陸橋を潜れば、初めて遊園地に連れて行ってもらった時の童心を思い出す。

「本当にここは多数の犠牲者が出たあの災害地なのか? こんなに綺麗でいいのだろうか?」
 と妙な感情に心の整理が追いつかない。
 この幻想的風景が消える時期が、ハード面の復興を告げる一つのバロメーターなのかも知れない。


 先日、気仙町の我が山林に用事があり数年ぶりに訪れた。(一般の高田市民はぜったい通らない林道)。国道から5分入った林道で息をのんでしまった。

 以前は、鬱蒼とした暗い林で何も見えなかった場所だった。しかし、いまは木が伐採されて、なんと高田の全貌が見えたのだから。ベルトコンベアの始発点の、さらに上部だった。
 復興とは復元でなく、市街地のみならず、山野まで変えてしまうものらしい。マスコミでも撮影したり、紹介したりした事がないポイントで、ただ唖然と凝視していた。

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