歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【幕末史の謎解明】西郷隆盛も真っ青?=「雅楽助はなに奴だ」(下)

 江戸時代の甲府は東海・東山をうかがう要衝(ようしょう)の地である。江戸の防御の要の一つ。慶応4年2月1日に、思いがけない官軍の先鋒が現れたのだ。それは『官軍鎮撫隊(ちんぶたい)』だった。

 同隊を先導したが、小沢雅楽介(おざわうたのすけ)である。本名を小沢一仙(いっせん)という、伊豆半島・松崎生まれの宮大工だった。
 かれは発明発見、発想がユニークな人物だった。風変わりな沈まない船を設計したり、琵琶湖と日本海結ぶ運河を作ろうと奔走したり、まずは奇想天外な人物だった。

 大政奉還、王政復興、鳥羽伏見の戦いの頃、小沢はちょうど京都にいた。草莾(そうもう・武士でない、民間人たち)の志士として一旗揚げようと考えたのだろう。公家(くげ)の高松実村(さねむら)を総帥に仰ぎ、『官軍鎮撫隊』を立ち上げたのだ。かれには勤王志士とのつながりはない。高松実村は、父保実の三男で、政治もわからない、ボンボンだった。
 それを担ぎ出したのだ。小沢の単なる着想だった。
 
 慶応4年1月18日は鳥羽伏見の戦いが起きた半月後で、きな臭い京都だった。わずか14人で京都を出発した。『官軍鎮撫隊』とは名前から行けば、江戸・徳川を鎮撫(討幕)することを意味する。小沢雅楽介にすれば、遊び半分だったかもしれない。軍資金もなければ、武器もないのだから。

 小沢雅楽介はいずこでも、「尊王」を声高に叫び、「鎮撫の趣旨」を呼びかける。東海道を東に進む。「官軍の先鋒隊である」、「御一新(ごいっしん)である」と言い、大垣藩、彦根藩などから武器を提供してもらい、兵士を借用する。美濃、信濃へと進む。
 街道沿いの諸藩の家老たちは礼服で迎え、藩士たちを同隊に加えさせた。

 神主や御岳御師(おし)なども組み込む。約3000人からの堂々の陣容となり、宿場では人足、駕籠、馬などを出させる。2月1日には、台ヶ原で、10ヶ条を発表した。
「当辰年は年貢を半分にする」
 そんな農民には夢のような内容である。
「浪人でも、勤王に励むものは朝廷への出仕を許す」
 天皇がどんな存在かも下々のものはわからないし、きっとありがたい話だと信じ込んだ。

 大工が頭で公家を一人連れて「官軍鎮撫隊」を名乗っただけでも、わずか半月で3000人の軍隊が作れる。これはまさに画期的なものだった。


 新政権で孤立を深めていた西郷隆盛は、これを見逃さなかった。
「公家と参謀がいれば、戦闘部隊が作れる。軍費も少なくて、大勢が戦いにはせ参じる」
 即時、2月9日には、東征大総督府をつくった。、公家の有栖川熾仁親王を大総督宮として、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

 新政府の公家たちは戦争経験など皆無なのに、「幕府鎮撫府」と、「東北鎮撫府」の総督として祭上げて、京都から連れ出したのだ。参謀は、西洋式軍隊で実戦経験がある、薩長土の下級藩士たちだった。
小沢雅楽介がやったように兵士と軍糧を現地調達しながら、進軍したのだ。「宮さん、宮さん」という軍歌も作られた。


 江戸城開場までが、西郷隆盛の活躍の場だった。京都から品川まで、「みやさん、みやさん」という小沢雅楽介の方式が通用したのだ。尊王、公家といえば、ひれ伏したのだ。
 しかし、江戸城は明け渡してもらったが、江戸・東京の佐幕派、とくに彰義隊などに通用しなかった。西郷は腕力で押す武将型だ。手をこまねいていた。
 

 長州藩の知将・大村益次郎が緻密な戦略戦術で、一日にして彰義隊を壊滅させたのだ。と同時に、軍師として奥羽攻めの細かな采配を振るった。
 諸藩にたいして武器、兵士の数、食糧、軍資金など、細かく指図した。敵の動きを読み、郡部の各関所に配置する、兵士の数までも決めたのだ。それはすべて当たっていく。
 こうなると、西郷隆盛は無力化してくる。その一方で、長州藩が発言権が強まり、最も影響力を持ち、明治軍事政権への道をまっしぐらに進んでいくのだ。

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【幕末史の謎解明】西郷隆盛も真っ青?=「雅楽助はなに奴だ」(上)

 歴史にはとかく空白がある。空白を埋めてくれるのが、資料や史料である。それがない場合は歴史学者は不明・不詳とする。しかし、作家ならば推論、空想の世界で、空間をつなぎ合わせられる、と私は考えている。

 慶応4年1月3日、西郷隆盛の指揮の下、鳥羽伏見の戦いが起きた。幕府軍は京都周辺から敗走した。しかし、西郷隆盛には新政権をいかに強奪するべきか、具体的な知恵や政争がなかった。
「戦いに勝っても、交渉で勝たねばならぬ」
 西郷には、それが欠けていた。相手と対峙したとき、大きくも小さくも響く。だが、自らの発想で推し進める策略家ではなかった。

 西郷は後年、鳥羽伏見の戦いで、(誘発に乗った)幕府軍が発した一発の銃声が生涯で最も嬉しかったと語っている。クーデターのきっかけができた、と殊のほか本人は喜こんだのだ。つまり、武人なのだ。

 京都に成立した新政府(京都政権)の要人らは、鳥羽伏見の戦いは新政府が西郷らに頼んだわけでもないし、あれは薩摩と幕府の喧嘩だと言い放った。

 西郷は軍事クーデターを起こしてみたけれど、新政権のトップになれなかった。総裁は有栖川親王のままである。西郷には徳川家を武力で叩きのめすことだけが目的で、京都に生まれた新政権の内容をすり替えるだの、陰の内閣の構想すらもなかった。

 京都政権は諸外国に承認を求めるなど、外交努力をはじめている。軍人肌の西郷のでる幕は殆どなかった。
「喧嘩は強いが、政治手腕に卓越した知恵はない」
 
 西郷隆盛が鳥羽伏見の戦いをしかけ、幕府軍は京都・大阪から敗走した。一ツ橋慶喜は上野寛永寺で恭順の態度をとった。つまり、それで終わってしまったのだ。
 新政権にはしばらく目立った動きがなかった。戦争よりも、内政重視だった。そうなると、政策通でもない西郷は蚊帳の外だった。ところが突発的に戊辰戦争へと突入した。この空間で、何が起きたのだろうか。
 これは私の長い間の疑問の一つだった。

 9月10日、私は戊辰戦争の調べもので甲府に出向いた。目的は西郷ではなく、芸州藩だった。

 芸州(広島)藩は、上野で彰義隊と戦い、次なる飯能戦争、甲府、小田原戦争、そして東北・浜通りの戦いへと転戦している。甲府にはなにか、芸州藩の戦いの跡か、エピソードはないだろうか。
(きっと史料はないだろう、ダメもとだ)
 無駄は覚悟の上だ。

 甲府・勝沼の戦いとなると、新撰組の近藤勇の敗北が有名だ。甲陽鎮撫府(こようふちんぶふ)は近藤指揮の下、約200人の軍勢が江戸から甲府城に向かった。都下、日野あたりは新撰組の出身者が多い土地柄だ。どこの村でも『祝・近藤勇・新撰組』で、飲めや食えやで大歓迎。調子に乗り過ぎた新撰組(一部会津藩士)にとって、これが大きな失策となった。

 官軍の東山道総督府(とうさんどう そうとくふ)の土佐藩・板垣退助、因州(鳥取)藩の河田佐久馬らに先を越され、1日違いで、甲府城を抑えられてしまったのだ。

 新撰組は甲府城に入れず、その手前の勝沼の戦いで、大砲すら撃てず惨敗した。近藤勇は逃げて流山(千葉県)で捕まり、当時1万石の身分(1万石から大名格)だったが、切腹もさせてもらえず、打ち首だった。

 私には、それ以上の甲府関連の認識はなかった。

 山梨県立図書館に立ち寄った。りっぱで豪華な図書館だった。館長が阿刀田高さん(日本ペンクラブ元会長)だった。私は広報委員として面識があるし、「挨拶しようかな」と一瞬思ったけれども、館員から、非常勤だと聞かされたので、止めた。

 2階の「郷土資料」コーナー担当の男性図書司書に、甲府における芸州藩の足跡を調べたいと申し出た。同館のPC検索サイトには何も引っかからなかった。
「まちがいなく、広島から隊が甲府に来ているんですか」
 図書司書が訊いた。
「広島の石碑文に書かれていますから」
 私は簡略に説明した。
「そうなると、『甲府市史』か『山梨県史』からあたるしかないでしょう」
 それは根気がいる。仕方ないと思い、分厚い市史や県史や関連資料を開いていた。

 幕末の政治、支配者層、産業、文化などの項目から、「山梨は賭博が盛んな土地柄」だと明記されたていた。理由は、藩領でなく、天領で役人の眼が薄かったからだという。甲府・武田信玄は有名だが、徳川時代には藩主がおらず、代官がまとめ役の土地柄だった。

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明治政府は軍事クーデターによる軍事政権である:正しい歴史認識

 各地で戊辰戦争の取材をしながら、おなじ疑問に突きあたる。なぜ大政奉還の後に、戊申戦争が行われたのか、と問うても、多くが満足に答えられない。それは学生時代に教科書で教わっていないからだ。

 いまや政治家の大半が戦後生まれになった。その政治家すらも、明治政府が軍事クーデターで生れた政権だという、正しい認識を持ちえていない。だから、政治的な弊害がすこしずつ出はじめてきた。

 幕末の徳川政権は統治能力が低下し、政治的継続が不可能と判断し、みずから政権を皇室に返した。それが1867年の大政奉還である。世界史でもまれにみる、平和的な政権移譲だった。ほんらいは日本の誇らしい偉業だった。

 大政奉還から、わずか2か月後には、西洋式軍事訓練を受けた、下級武士階級層が軍事クーデターを起こしたのだ。それが鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争だった。成功裏に進み、明治軍事政権ができたのだ。
 

 近年、アジア・中近東で軍事政権が数多く生まれたが、決まって民主的な国家だとカムフラージュする。
 明治政府もたぶんに漏れずだった。薩長土肥の官僚(クーデターの兵士)らによる、初期の教科書作りで、軍事政権だと明記しなかったのだ。
 明治政府は文明開化、富国強兵を推し進める近代国家と称した。それがいまなお引き継がれているのだ。

 新政権を作った志士たちの主義・主張は、「尊王攘夷」だった。攘夷とは外国と通商をしないで鎖国状態を続けることだ。
 江戸幕府のほうは逆に鎖国をやめて開国し、人材を海外に派遣し、すでに外国文化を取り入れていた。
 クーデター政権は、その政策を真似ただけなのだ、

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広島藩の藩校「学問所」の取材に行く。そこでみた驚きの史料=修道高校

 小説の執筆「戊辰戦争の浜通りの戦い」で、幕末の広島藩の取材を続けている。主人公は高間省三(20歳で死す)だが、資料が少なくて書き出しからけつまずいていた。
 困難を極めている。ある意味で、それが歴史小説の創作のやりがいになるのだが……。
 
 広島・私立の修道高校の近川俊治事務局長とのアポイントが8月2日、午後3時だった。時間的に余裕ある気持ちで、羽田空港に10時ごろについた。前日のANA確認では空席があった。ところが夏休み入りで全便満席だった。

「まずいな。どうするかな?」
 旅先で、思いがけないアクシデントがあると、とっさの判断が必要になる。それが後のち良い思い出になることがある。かつて広島空港で最終まで待てどもキャンセルが出ず、リムジンでJR駅にもどり、新幹線とか、夜行バスとか、余計な手間をかけて戻ってきたことがある。それも何度かある。

 こんかいは初対面の方だ。なにが何でも広島に行く必要がある。羽田から東京駅に戻り、新幹線となると時間的には厳しかった。空港内のANA発着便のボードを見上げた。電光掲示された△印は、岡山空港と山口宇部空港だった。どっちを選ぶかな。

「宇部空港は海岸だ。そこから電車で、景色のよい海岸線を見ながら、広島駅に行くか」
 その考えは甘かった。宇部についたら昼前だ。新幹線を使わなければ、時間的に間に合わない。

 海岸から、わざわざリムジンで、40分もかけて山奥の新山口駅まで行った。トンネルばかりの山陽新幹線に乗った。こんどは早くつきすぎて、御幸橋の修道高校まで1時間ほど余裕があった。


 原爆ドームを見て、太田川沿いに下ってみた。うかつにも「御幸橋」を勘違いしていた。別の支流だった。方向を変えても公共の乗り物だと、約束時間に間に合わない。ふだん使わないタクシーに乗った。
「ずいぶん遠回りして、交通費をかけたな」
 私は取材で作品を書くタイプだ。だから、取材費がかかるのは承知のうえだが、極力、タクシーなど使わず、その分より多く取材するポリシーを持つ。こんかいはまるで逆だった。

 これまで鳥取藩や岩城平藩、相馬藩の現地取材に出向いた。それなりに足を運んだ価値はあった。ところが、広島はどこに行っても、原爆で資料がないという。
 広島公文書館でも、広島城資料館でも、浅野家の分家があった三次歴史資料館にまで足を延ばしても、収穫はほとんどなかった。それが現実だった。

 高間省三は秀才で、藩校「学問所」の助教だった。修道高校は藩校を引き継いでいる、と広島の郷土史家から最近教えてもらった。
 藩校は全国どこでもエリート高校が引き継いでいる。修道高校は広島県内でも超一流校だ。

 同校の近川さんが応対してくれた。「修道歴史研究会のメンバーならば、もっと詳しいのですが」と前置きして、冊子『修道開祖の恩人 十竹先生物語』が差し向けられた。

 私は山田十竹なる人物は知らなかった。藩校の学問所を実質的に創設したのは、朱子学者の頼春水(頼山陽の父親)という先入観があったので、「開祖の恩人」にはどこか違和感があった。よく見ると、修道の開祖だった。

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歴史的な写真発掘 高間省三と最新式短銃=龍馬すらも写していない

 私は、ここ5年ほど前から、幕末の芸州(広島)藩の役割と再評価への取材を続けてきた。2011年にはフクシマ原発事故が起きた。それから2年経った今年、広島藩の戊辰戦争に目をむけた。

 興味深い人物が浮上した。鉄砲奉行の長男の高間省三である。秀才中の秀才が、農兵(神機隊)に飛び込み、出兵している。福島・浜通りの浪江の戦いで、一番乗りしたが、顔面に銃弾を浴びて死んだ。

 取材内容の一部は、穂高健一ワールド【フクシマ取材ノート】に掲載もしている

 20歳で戦死した若き砲隊長・高間省三の取材では、双葉郡の各教育委員会(4町村)の学芸員、さらには広島・鳥取の戊辰戦争研究者の方々も協力してくれている。

 別途、高間省三の子孫がわかり、川崎康次さんからは貴重な史料が貸与してくださった。脱筆までの条件で。ここには貴重な高間省三の写真が含まれている。


 1868(慶応4)年、広島・御手洗港から「神機隊」は戊辰戦争へと、芸州藩船で出港し、大阪で一度上陸している。高間省三が大阪の写真師の下で、写真を撮ったのである。
 撮影後、省三は父親(鉄砲奉行)に手紙を添え、この写真を送っている。(死の5か月前)。

 坂本龍馬も長崎で写真を写している。だが、短銃を持った写真はなく、突っ立っている姿だ。高間省三の写真は武装した姿だけに、戊辰戦争の戦力の違いなど、多く読み取れるものがある。幕末史の研究者たちにも、広く役立つ写真なので、あえてこのHPで掲載した。

         【写真コピーは厳禁いたします】      

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学校教育で、幕末史の真実を教えるべきだ

 鎌倉市・長谷の故早乙女貢さん邸宅で、文学サロンが7月25日(日)で行なわれた。第1回講師は、清原康正(文芸評論家)さん、第2回は高橋千劔破(ちはや・作家)さん。同一日の講演である。


早乙女貢さんは、「会津士魂」の筆者である。早乙女史観は、勝者の歴史観に異議を唱え、見直しを説いている。それがふたりの講師に通底するテーマだった。講演内容については、PJニュースで取り上げている。

 歴史は勝者によって改ざんされる=会津の悲劇から

講演には共感も多く、私見も含めて補足してみたい。

「早乙女さんは、旧・満州からの引揚げ者だった。敗者側から歴史を見る、独特の史観を持っていた。それが会津士魂の31年間の執筆につながった」と清原さんは話す。


 清原さんも満州で生まれ育つ。引揚げのさなか、母や兄弟を亡くす、という悲惨な状況があった。清原さんはわが肉親の境遇と重なり合うのか、目を閉じて、一言ひと言、胸のうちから語っていた。実に、印象的だった。

 高橋さんは歴史関係の元名編集者だ。
「学校で教える、幕末史は勝者の歴史が押し付けられている。ペリー提督が突然に日本に現れて、幕府が右往左往した。それは事実と違う」
 と言い切る。

 徳川幕府と西洋との出会いは、ペリー提督よりも前からある。イギリスやフランスは琉球を窓口にして薩摩と貿易をはじめた(1844)。薩摩藩といえば、第11代将軍、13代将軍の正室を出している、徳川の身内だ。そこがヨーロッパ諸国と貿易をしていたのだ。幕府はそれを容認していた。

 高橋さんは触れていなかったが、ペリー来航よりも半世紀以前から、江戸幕府はオランダ国旗を掲げた、アメリカ商船と交易をしていた。

 確認できているだけでも、1799より1809年に13隻が毎年、長崎・出島に来て交易している。アメリカ船は日本からの貨物として、浮世絵、きもの、箪笥、茶道具、鏡台など、あらゆるものを運んでいる。それらの一部が今なお、アメリカの博物館で保存されているのだ。
 幕府のほうは長崎・通詞(通訳)たちに、積極的に英語を習わせているのだ。

 東インド艦隊司令長官のビットル提督が、米国大統領の親書(通商要求)を持って東京湾の浦賀にやってきた(1846)。それはペリー提督来航(1853)よりも、7年も前のことだった。幕府は、ビットル提督に対して、交渉窓口は長崎だと言い、米国大統領からの親書の受け取りを拒否した。

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