A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

飯能戦争をご存知ですか=渋沢平九郎の死  (上)

 9月には2度、飯能や越生、毛呂などを歴史取材した。池袋から西武線や東武東上線などで小一時間ばかりだ。ふだん利用しない路線なので、似通った駅名が多く、そのうえ八高線まで入り乱れているので、戸惑ってしまった。

 私の歴史小説のテーマは「芸州藩から見た幕末史」である。その関連で、今年(2013)6月に鳥取県立博物館の伊藤元学芸員を訪ねた。その折、「2、3年前に、幕末の飯能戦争展がありましたよ。ごぞんじですか」と聞かされていた。
「いいえ。新撰組とかかわるのですか」
「彰義隊のほうです」
 小さな戦いだろう、と脇に置いていた。

 上野戦争の彰義隊の戦いは、慶応4年5月15日で、あまりにも有名だ。その直前に、渋沢誠一郎、尾高新五郎、渋沢平九郎らが彰義隊を飛び出し、新たに振武軍を組織した。総勢440人は、飯能村の能仁寺を本陣とし、周辺の五か所の寺を宿舎と定めた。

 大村益次郎の指揮の下で、彰義隊を半日で落おちた。官軍がそのさき向かった先が飯能である。肥前大村、筑前福岡、築後久留米、日向佐土原、筑前岡山、川越、前橋藩の7藩が鎮圧にあたった。5月23日未明から攻撃を開始し、朝方には決着をつけた。

 広島藩・神機隊は、飯能戦争で戦火を交えることがなかった。新政府か佐幕か迷う忍藩(行田)へ回っていたので、越生に着いたのが、同日の午後だったからだ。忍藩には新政府への恭順を決めさせて、藩士たちを越生まで連れてきたのが成果だろう、と思っていた。


 埼玉県の郷土史家にとって、飯能戦争といえば、渋沢平九郎は外せないものらしい。悲劇の主人公で、歌舞伎にもなったと紹介されている。その資料の中から、神機隊が出てくるのだ。

 飯能戦争に敗れた、副将の渋沢平九郎(渋沢栄一の養子・22歳)は逃走中に仲間とはぐれてしまう。顔振峠(こうぶり)の茶屋には一軒の茶屋があった。その老婆が平九郎が落武者であると見抜いた。

 「無事に逃れるには、変装しなさい。越生には官軍が大勢きている、大小刀を身につけていると見破られてしまう、預かってあげるから、あとで取りに来なさい」
 と老婆が進言してくれた。                           【つづく】

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