阿部正弘が飢餓列島を救った。孝明天皇は日米和親条約を勅許(上)
広島県・府中市は、芸州広島藩、福山藩、そして幕府領・上下代官所の3つが重なった、全国でもめずらしい立地である。
3月22日、広島県・府中市立図書館で、「第3回歴史講座・郷土の歴史をさぐる」の講師に招かれた。聴講者は57人で、1時間半の講演だった。
昨年、私が執筆した中国新聞・文化面「緑地帯」のコラム『広島藩から見た幕末史』が、同館の佐竹館長が、目にとまり、講演を依頼してくれたものだ。と同時に、拙著「二十歳の炎」も読まれたうえで、御手洗(呉市)にも出むかれていた。
講演は広島藩よりも、福山藩の安倍正弘を主に語ろう、と決めた。その話しの流れを紹介したい。
阿部正弘は、27歳にして老中首座(現・内閣総理大臣)になって開国に導いた。かれの業績が明治政府によって故意に歪められている。
幕末史はペリー来航からスタートすると矛盾だらけだ。明治政府が作った教科書は嘘が多い。それを現在も引きずっている。
「ペリー提督が初来航(1853年)した翌年3月には、日米和親条約が結ばれました。日本語、オランダ、英語です。だれが難しい英文の外交文書を理解して、条約締結したと思いますか?」
この単純な質問すら、日本史の教師は答えられない。だから、高校で日本史は選択科目であり、必修にはならないのです。
「ジョン万次郎は漁師で身分が低いから、同席させていません。となると、誰ですか」
ペリー提督が来航する、7年前には、米国・東インド艦隊の司令官のジェームズ・ビッドル提督が、浦賀にアメリカ大統領の国書をもって来航した。ペリー提督の船団とほぼ同規模。老中首座・阿部正弘は、国書は受け取らなかった。
しかし、薪や、水、生鮮食品を目いっぱい与えて引き取ってもらった。
「これも教科書で教えてくれていませんよね」
大半の人は、初めて聞く顔だった。
「阿部正弘は老中首座になった年から、長崎に入るオランダ商船には、上海・香港で発行される英字新聞を日本語に翻訳させて持参することを義務付けました。だから、阿部は産業革命も、クリミア戦争も、知っていました。そして、阿部は長崎の数多くの通詞に英語を学ばせたのです」
鎖国とはなにか。海外情報にブラインドする(盲目)ことではなく、敏感になることです。それが国を守ることです。北朝鮮を見れば、アメリカの動きに敏感です。これとまったく同じです。
「ビットル提督も、ペリー提督も、ともに1年前にオランダ経由で日本に、提督名、入港する船名、予定する時期などを知らせてきました。アメリカ大統領とすれば、国書を持参させる礼節だったのです。それ故に、日本の最高責任者の阿部正弘は、長崎から浦賀に英語のできる通訳を呼び寄せて待機させていました。ペリー提督は通達予定よりも、2か月遅れでやってきました」
なぜ、日本の教科書は唐突にペリー提督が来航したように教えるのでしょうか。アメリカ大統領を侮辱しているし、失礼だと思わないのでしょうか。
「ペリー提督が来た1853年には、将軍が亡くなった年ですから、開国の条約については1年後に来てほしいと引き取ってもらいました。その任を受けて浦賀に出むいたのが、関籐藤蔭など福山藩士2名です。国書を受け取らせると、ペリー提督はすぐに出航しました」
この時、阿部は2週間後、長崎奉行に軍艦4隻をオランダに発注させたのです。その一隻が咸臨丸でする。阿部が欧米の産業革命とか、黒船の性能とか、それら海外情報に精通していないと、高価な蒸気軍艦をわずか2週間後に発注などできません。
『泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず - 狂歌.』を教科書に載せて、日本史を教えた明治政府の意図はなんだろう。むろん、国民の眼を欺くためのものだった。
黒船を発注した数日後、阿部はおもむろにアメリカ大統領の国書を諸大名に公表したのです。それは開国へのコンセンサスづくりだったのです。
5か月後にまとめた阿部は、賛否の意見を玉虫色で曖昧にさせています。それはペリー提督が半年後にやってきた時に、老中首座に全権を委任する内容だったのです。
【つづく】
