播隆上人はなぜ信州側から槍ヶ岳を開山?(下)=務台家史料より
播隆上人が笠が岳の山頂でブロックン現象を見て、そこに阿弥陀様がいると信じた。槍ヶ岳に初登頂をしたいならば、なぜルートがわかりやすい飛騨側から登らなかったのか。少なくとも、笠が岳山頂から地形をつかめば、奥飛彈から猟師に連れられて登攀(とうはん)できたはずだ。そして、飛騨側の信者を連れていく槍ヶ岳に登る開山はできた。
播隆はなぜ、あえて信州に来たのか。播隆の真意は何だったのか。ここらは不思議な疑問だった。
播隆上人の残された自筆の書簡だけで、それを解き明かすのは内容が薄い。まわりの裏付け史料が必要だ。
その認識から、旧野沢村の務台家に残る『務台与一右衛門景邦記』にたどり着いた。この史料は「三郷村史」から知ったのが最初だった。
ことし(2014)10月1日には、旧野沢村の務台亥久雄(むたいいくお)さんを訪ねた。その原本を見させてもらった。
景邦が、父親の後をついで庄屋になった文政10年から明治10年まで、克明に記載されている。公私年々雑事記で、大干ばつ、大凶作、若者が踊り狂う大黒おどり、痘瘡の流行などが記録されている。
想像を絶する、松本城下の長称寺の大騒動も紹介されている。余談だが、紹介したい。……住職が下女を妾にし、新造を迎え入れた。怒った妾が深夜その寝床に入り、男根を切り落とし、自分も腹を切った。即日、ふたりは死去した。
死んでも罰するのが江戸時代の法である。妾の死骸を塩漬けにして牢内においておく。主殺しの罪が決まると、妾の死骸は町中引き回し、1日は本町にさらし、その上、磔(はりつけ)。現代では信じられない、死後の処罰である。
ただ、これが犯罪抑止につながっていた。だから、世界一、犯罪の少ない国家だった。
『務台与一右衛門景邦記』がいかに信ぴょう性あるか。それを証明する事例にもなる。なぜならば、庄屋の仕事として、松本藩からお触れ、お達しなどがくると、村民に伝える義務があるからだ。景邦はそれを書き残していたのだ。
当時は、警察官も、消防官もいない。松本藩士が村をまわらなくても、大庄屋~庄屋が行政を大きく担っていたのだ。庄屋から申し立てがあれば、掛の藩士が出向く制度だった。
景邦は、播隆上人に対して「播隆上人の入村」「槍ヶ岳初めて開く」「与一右衛門が槍ヶ岳に参拝」「播隆上人が長尾に越冬」「播隆上人が美濃へ出立」と記載している。
訪れた亥久雄さんから、他の各種史料の提供を受けた。のみならず、旧野沢村、旧小倉村など、播隆の足跡を追って案内してもらった。道々で、江戸後期に綿糸で繁栄していた野沢村の特徴を聞いた。
「そうか。だから、播隆上人が信州・野沢村に来たのか」
私は思わずつぶやいた。
播隆は特別人間・高僧と見なさず、私たちが見聞する修行僧から見れば、野沢村に来る理由があったのだ。それは浄財を求める僧侶の播隆の姿だった。
この閃きはきっと当たっていると思う。
「播隆も、ふつうの僧侶ですよね。槍ヶ岳の開山前は」
亥久雄さんも、納得していた。
「だから、播隆も人間の味があるんですよね。生前から、純真無垢で崇高な仏僧にしてはいけない」
私はそう語った。
務台家の世話で、紫雲庵(修行のための庵)が播隆のために用意されていた。ここを拠点に布教活動を行い、信者の獲得につとめたのだ。
念仏講で民の心を救う。一方で、「播隆が槍ヶ岳に登ったから、大雨が降り続き凶作になった」と悪評がたった。播隆は失意で信州を去っていく。
景邦はこれらを記し「御気毒之至に候」と同情の念を示している。見送る景邦とは最期の別れとなった。まさに映画のシーンにもなる。
現地を歩くほどに、天保時代の安曇野が身近に感じられてくる。播隆は内心、どんな生き方を求めていたのか。どのような感情を持っていたのか。これらを歴史小説で、人間・播隆をどのような人物として表現するか。
奥深い山岳から川が流れてくる。用水路をもって水田が潤う。平地にすむ人々が豊かになる。この歯車が狂うと、今度は人間どうしの諍いになってしまう。播隆の生き方と無関係ではなかったはずだ。