歴史の旅・真実とロマンをもとめて

日米通商条約は不平等条約に非ず(上)=明治政府の歴史ねつ造

 海軍大臣・元首相の子孫(男性)と、私の地元・立石で長時間にわたり飲んで語った。かれは40歳前後で、大手商社マンの課長だった。
(目線が高いな、上級軍人の立場で語っている)
 それがかれに対する印象だった。
 私は庶民の立場、二等兵、上等兵の立場だった。
 当然ながら、ふたりの意見は食い違ってくる。

「明治軍事政府は侵略思想の、とんでもない政権だった。それが第二次世界大戦まで悲惨な戦争につながった」
 私は従来の考え方を示した。
「認識が違います。明治時代は富国強兵で、帝国主義を取らなければ、日本は生き残れなかった。そうでなければ、日本は植民地になっていたんです。その証拠に、アジア諸国はみな植民地になったのだから」
 かれの主張は、ある意味で多くの日本人の共通認識だろう。
 
「アジアのど真ん中のタイは植民地にならなかった。それに、日本が開国した19世紀後半から20世紀は、ヨーロッパ各国はもう植民地政策の反省期に入っていた。日本だけが大陸への侵略国家になった。それに、中国や韓国が日本に対して、なんの悪いことをしたの?」
 かれの言葉は詰まっていた。

(明治政府がねつ造した歴史に毒されているな)
 その想いは私の脳裡からは消えない。


 私たちは学校で、安政5(1858)年の『日米修好通商条約』が不平等条約の代名詞のように教わってきた。しかし、実際にそうだろうか。日本人にメリットがなかったのか。否、実に大きな寄与があったのだ。

 学校教育では、同条約の最も重要な第2条はまず教えていない。多くの人は知らないだろう。

『日本国と欧羅巴中のある国との間にもし障り起る時は、日本政府の囑に応し、合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし』
 日本が欧州から植民地的な圧力やもめ事を受けたならば、アメリカは抑止力になる、と明瞭に宣言しているのだ。
 この条文をもってして、日本はアメリカ軍事力の傘の下に入り、イギリス・フランス・オランダ・ロシアの植民地になる要素はなくなったのだ。


 富国強兵を取った明治政府は、『日本が大陸に侵略しなければ、逆に日本が植民地になる』と侵略戦争を正当化してきた。
 そのためには、日米修好通商条約第2条が目障りなのだ。

                        【つづく】

正しい歴史認識は『安政維新』なり(2)=偽りの歴史を正す

「明治維新」は本当だろうか。その疑問から、明治政府の樹立まで考える。

 安政の大獄で、さらに桜田門外の変が起きた。開国主義の井伊直弼が暗殺された。しかし、世情が不安定になっても、西洋文明を取り入れる「安政維新」はとどめもなく拡大していた。

「攘夷」という劣悪な外国との戦争論の思想に染まったテロリストたちは、白い肌が嫌いだった。無差別で殺す。治安を悪化させる。武器を持っていない民間の商船に対しても、下関海峡を航行すると、無差別で砲撃する。まさに、狂気の行動だ。


 現代でいえば、ペルシャ湾を航行する日本のタンカーが突如として砲撃にさらされる、それと同じだ。日本が何を悪いことをしたのか。下関を航行する米英オランダの船員は、われわれが何を悪いことしたのだ、と口惜しかっただろう。

 かれらテロリストは朝廷の勢力を取り戻したい「我欲」のために、京都の町を放火して3分の1を焼き払った。家屋を焼失した民衆の哀しみと心の痛みなど考えていない。歴史的に大切な神社仏閣の文化財も数多く失った、(禁門の変)。

 こうした1000年来の文化財を焼いた、かれらテロリストたちの行動は、当時の庶民、幕府、天皇の怒りを買った。
「あなたが今わが家を焼かれたとき、尊皇攘夷の思想犯ために、許してあげますよ」
 そう言えるだろうか。庶民の眼で、歴史を見るとはそういうことだ。天皇を敬う尊皇と、外国を攻撃する攘夷とはまったく別ものだ。

 薩摩藩も赤報隊を使って江戸の町、江戸城の一角にも火を放った。この騒擾(テロ活動)が鳥羽伏見のきっかけになった。


 テロリストは主義主張のためならば、民間人の資産や命までも奪ってしまう。
 現代感覚に戻れば、私たち3ー4代前の先祖は、このテロリストに支配されてしまった。京都市民は家を焼かれ、逃げ遅れた子供は死ぬ。神社仏閣は千年来の文化を失っていく。そこには道義がない。
 私たちが歴史を学ぶときには、「尊王攘夷」のテロリスト思想を正当化させてはいけない。尊皇で留めるべきなのだ。

 テロリスト集団が明治新政府を樹立し、かれらが新たにやった施策はなにか。

 文明開化とは後づけである。産業の近代化は、德川時代の『安政維新』の引き続きにしかない。テロリストが政権を取ったあとの、主だった施策は廃仏棄釈と徴兵制だった。10年に一度戦争を行う軍国主義の恐怖政治の土台作りだった。


 日本は古来、武士が戦場で戦うものだ。農商の庶民は助郷で荷役させられても、武器は持たなかった。
 ところが、明治の徴兵制で、床屋の親父も、教員も、蕎麦屋のお兄さんも、造船所の職工も、赤紙(はがき)で、武器を持たされた。さらに外地に送られて人を殺させられた。それが有史以来の初の徴兵制度だ。
 テロリストが政治の仮面をかぶると、庶民の命が大義の下に犠牲にしてしまう。

 廃仏棄釈で何が起こったか。仏教徒の徹底した弾圧だ。『伊勢神宮=天皇=神』の構造であり、「天皇のために死す」という思想の強要の下地づくりだ。
 廃仏棄釈と徴兵制の国家は、戦争への道をまっしぐらに走った。広島・長崎の原爆投下まで77年間におよぶ。


 戦後、昭和天皇は神でないと宣言し、国民の象徴に座った。あるべき姿に戻った。天皇と軍部を結びつけた政治家たちも排除された。
 そこから現在まで、70年間は海外と一度も戦争しない国家になった。今後30年、50年、100年と延長されていけば、德川幕府が260年間戦争をしなかった歴史と肩を並べるだろう。

 約500年の歴史のなかで、77年間の軍事国家はきっと嘲笑の対象になるだろう。「維新志士」と言うまやかしのテロリストたち。「明治維新」といって、さも文明開化の象徴に見せかけたりした、薩長土肥が作った嘘の歴史は糾弾されるべきだろう。


「勝者が歴史をつくる」。テロリストが政権を取った明治時代だ。虚偽の歴史が実に多い。それらを正す時期にきた。維新志士を英雄視する。これらつられた偶像崇拝の虚像などもう棄てたい。
 
 明治政府(薩長土肥)の虚実は、江戸幕府の有能な人材すらコケにし、小中学生の歴史教科書に落とし込んだ。
 それを鵜呑みにした教師が、疑いもなく、指導していく。誤った歴史観が蔓延(まんえん)していく。それが戦争に駆り立てる「軍国少年」たちを生み出した。私たちの両親や祖父母たちの時代である。教育の怖さがある。
 

 歴史を再評価できるのは、戦後70年にわたり平和が維持されてきたからだ。軍国主義ならば、一気に抹殺されてしまうだろう。
「明治維新」でなく、ただしくは「安政維新」だと、私は世に発信していこうと考える。
 
                                           【つづく】

 

正しい歴史認識は『安政維新』なり(1)=偽りの歴史を正す

 ことし(2015年)は広島、東京、千葉で「幕末史~明治維新」関連で、6本の講演がきまっている。拙著「二十歳の炎」がしだいに広まりつつあるからだろう。「歴女」ということばが生まれるほど、隠れた歴史ブームも背景にあると思う。
 まだ年初なので、このさき12カ月を見わたせば、今後とも講演依頼が増えてくるだろう。極力応じるつもりだ。


 講演のタイトルで、「明治維新」と名づくと、私はいつも首をかしげてしまう。これは正確な表現だろうか、と。
『明治維新』は、時の為政者が作り出したまやかしの表現だと考えている。

『維新』とはなにか。世のなかが急激に大きく変わることである。この認識に立てば、阿部正弘老中首座が鎖国政策を終焉し、開国に進んだ『安政維新』である。

 安政といえば、「安政の大獄」という暗いイメージがある。しかし、幕府は開国した後、事業の近代化に大きくのりだした。国民が肌の白い人から学び、西洋文明・産業を取り入れて、新しい生活を享受できる社会になったのだ。
 まさしく世の中を大きく変える、『安政維新』である。

 江戸幕府は蒸気機関車を発注した、開通したのが明治時代にすぎない。横須賀に製鉄所、長崎には大型造船所。パリ万博で日本文化を伝える。通信も、郵便制度も手がけた。鉱山、鉄鋼、造船、繊維など、広域に及んだ。


『安政維新』からの15年間、日本は有能な人材を留学生として海外に送った。咸臨丸でアメリカなどで渡った。産業、建築、文化など多岐にわたり、海外技術者を日本国内に招いた。
 15年間は近代化路線を突っ走った。

「現代人にとって歴史とは何か」
 歴史の年代とあらすじだけではない。現代と照らし合わせて、その時代の舞台や人々の生き方や思想や行動の考査である。それには正しい歴史認識が必要である。


 勝者によってつくられた偽りのベールをはがすことでもある。


「安政維新」は、現代感覚で読みとるならば、1945年の終戦からの15年間に置き換えてみれば、わかり易い。~1960年である。

 戦前・戦中は暗黒時代である。特高警察が暗躍し、英語すら禁止だった。海外の正確な情報はほどんど判らなかった。軍人支配の暗い国家だった。
 終戦直後から、一気に西欧文化が国内に入ってきた。国民は15年間で、アメリカナイズされた。それは記憶に新しいところだ。

 1960年代からも進歩したが、激動の変化は1945年からの方がより強いものがあった。昭和維新と名づけても良いだろう。


 『安政維新』の15年間において、薩長土の下級藩士たちの無差別テロが横行した。肌が白いだけで斬り殺す。現代版の中近東の無差別テロリストと似ている。
 そんな目で、TV報道を見れば、維新志士と呼ばれる彼らの行動が、いかに暴挙だったかとわかるだろう。

わずか古文書の4行を求めて松本、安曇へ(下)=歴史小説の取材

 翌16日は、松本市安曇支所に出むく。松本電鉄で新島々駅へ、そしてタクシーで上高地方面に向かった。山々は白雪だ。雪山に登っている気持ちになった。久しく冬山は登っていないので、新鮮だった。

 同支所では、「上高地物語」を書かれた故横山篤美さんの原本があると聞いた。
 その閲覧をさせていただいた。これまた、20巻ほどある膨大な資料だが、担当の課長が絞り込んでくれていた。ありがたかった。


 井伊大老が暗殺された年に、加賀藩が島々に調査に入っている。松本藩の対応が事細かく記載されている。この中から、一つの事象を探す。
 11時前からスタートして、昼過ぎても、なかなか見つからない。

『加賀120万石と、德川幕領地の飛彈高山には隠れた火花があった』
 この仮説は、私の山岳歴史小説の結末である。こんかいはストーリーの展開には欠かせない裏づけ取材である。3時過ぎても、なおも見つからない。

「作家は自由な立場に立って、史実には拘泥せず、また動かされず、自分はこう考えるということを作品で示す」
 先輩の歴史小説作家のことばがある。

 私はあまり史実から反した、嘘の積み重ねから、ドラマチックな作品など創作したくない。極力、史実に基づく。それは私の作品ポリシーだ。可能なかぎり、時代考証を行っていく。
 通説をひっくり返すためにも、史実に乗っかりたい。それは物書きのある種の執念と執着だ。それでないと、作家の存在感が薄まってくる。


 同資料を2度、3度と読むが、仮説とは逆方向の資料ばかりだ。失望が強くなってくる。ここは役所だから、遅くなると迷惑だし、4時までにめどをつけたい。

「このままだと、ストーリーの根底が崩れるな。結末が狂うと、構成の全面組み換えだ」
 私の脳裡には、厄介な作業がちらつく。


 横山氏の資料が4度目の見直しとなると、目が慣れてくるので、不必要な項目はパスしてくる。そして、肝心なところは微細なところまでも、私の目が文字をたどっていく。
「これだ。見つけた」
 膨大な資料のなかの、わずか4行の表記だ。故横山さんが、「上市」の表記に、「上高地」と添え書きしてくれていなければ、確実に見落としただろう。
 私には、上河内、神垣内、上高地という3つの表記しか認識なかったのだから。

「運が良かったな。これで作品の結末は書ける。新しい史観が生まれる」
 自前で交通費をかけて、遠方に足を運んできた甲斐があった。


 こんかいのように目的の事象を運よく見つけ出せることは稀だ。まして、学者や郷土史家たちの定説を覆(くつがえ)すとなると、なおさらだ。
 諦めることは簡単だが、どこまでも食らいついてみる。これが足で書く歴史小説のコツだと、私ははやくも次回の取材場所を考えていた。
 一方で、同所の関係者には謝意をもった。

わずか古文書の4行を求めて松本、安曇へ(上)=歴史小説の取材

 歴史小説は可能なかぎり資料を掘り起こす。そして登場人物を鮮明に描きだす。それには古文書に出てくる人名の役職が欲しい。松本藩士が活きいきと動くためにも。

 多方面の資料から探りだす。しかし、かれらの役職が川除役とか、応接掛とか、郡奉行とか、明確に明記した資料が見つからない。まして、藩主とか、家老とか、大きな役と違い、藩史などあたっても、下級藩士になるほど役職は判らない。至難の業だ。

 ことし(2015)1月15日から2日間は、雪降る長野に取材に出向いた。松本城は雪が積もり、幻想的な風景だった。城内の学芸員から、取材させていただいた。
 人物を事前に質問形式で、ご連絡差上げていた。
 
 德川政権下で、松本藩の藩主はころころ変わっている。幕末は戸田藩主だ。この藩主も、あたらこちら渡り歩いている。
 学芸員が 「戸田家・藩士録」から、5人の該当人物の資料が探し出してくれていた。筆文字の古文書だ。禄高の列記で、かれらがなんの仕事をしていたのか。役職はまったくもって不明瞭だ。

 農村地帯の庄屋や百姓が、相手する藩士らは「お武家さま」と言っても、地役人とか、徒士とかである。5石2人扶持、10石3人扶持とか、わずかな禄高だ。

 現代でいえば、河川補修工事の検査に市役所の主任、係長がやってくる。決して市長や局長ではない。セクションも土木課、環境課、公害課の一課、2課、など各係長などで多岐にわたる。保管期間は限られているだろう。

 失望していたが、ひとり200石の人物がいた。郡奉行だと特定できた。これだけでも、収穫だと思うことにした。

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松本市の玄向寺で一級史料を閲覧させてもらう=播隆上人

 長編小説の書き方には「箱書き」がある。短編小説ならば、タイトルを決めて、書き出し1行目から、結末まで書き綴っていけばよい。

 長編小説はそんなことをすれば、最初は上々に書き進んでいても、途中で、とん挫しやすい。その上、完成した作品が平板(へいばん)になり、盛り上がりに欠けてくる。

 箱書きは順番にとらわれず、各章ごとに、短編のつもりで書いていく。そして、全体を接着させる方法だ。
 少なくとも、私にはこの書き方が合っている。
  


 念仏行者の播隆上人は、槍ケ岳の開山(開闢・かいびゃく)した人物で知られている。新田次郎さんが作品化している。
 新田氏は、事実とドラマチックな虚構で盛り上げるのが得意な作家だった。内容で、物議をかもしだしている。


 私の歴史小説は、より史実に近いところ書くスタンスで臨んでいる。史料と資料は区分けしている。史料とは、本人が書き残した「文書」など一点物。歴史を叙述する根本材料だ。もう一つ、同時代の記録ものである。
 私はあえて二つに絞り込んでいる。


 資料は、史料を加工したものだ。手を加えた人の内容に、推量や推測、想像、虚飾が入ってくる。

 播隆上人の一連の取材で感じたのは、明治時代半ばに書かれた書籍がもちあげられ、それに推論が加わっているから、どこまで真実なのか、と首をかしげてしまう。あるいは怪しく感じてしまう。

 播隆が槍ケ岳に5回登ったと、多くは記されている。播隆の死後から半世紀以上が経ってから、発行された資料が根拠になっている。

 播隆が生きた同時代の「史料」から、どう見ても5回という数字が出てこない。
『小説は人間を描くものだ』。5回登攀しようが、3回登攀しようが、播隆上人の人間性には関係ない、と私は拘泥しないことに決めた。

 この辺りで播隆関係の取材は打ち切ろう。「箱書き」の執筆に入ろうと決めた。

 


 ことし(2014)11月に、玄向寺の荻須眞教・住職(上段の写真)から取材させてもらった、播隆上人の直筆の登山記録である。直筆は史料の王者と言われるものだ。それを開いて精査している。 

 この内容はすでに世に出回っている。ただ、実物を見て、一文字ずつ読むと、身近に播隆上人の熱気を感じとることができた。その雰囲気が執筆には大切である。

 人間は性格によって言動がちがってくる。
「書体から、播隆上人の性格が読みとれないか」
 現代の書家から、こうした意見も求めてみたい。


 飛騨側の本覚寺でも、播隆上人の肉筆を閲覧させていただいているので、双方からより精査したい。そして、作品に反映させたい。

降雪の奈良井宿に出むく=山岳歴史小説の取材

 山岳歴史小説の取材で、ことし(2014)7月から信州と飛州に入っている。雪の降るシーズン前には、現地取材を終えておこうと思った。

 奥飛彈の郷土史家に電話し、資料提供のお礼を言った。「上宝村は大雪で、いま屋根の上は70㎝ですよ」と話されていた。

「中仙道の奈良井宿に行きたいのですが、あっちはどうですかね」

「雪は殆どないんじゃないの」


 出発日には、報道関係は「爆弾低気圧」の豪雪を報じているけれど?

 松本市内は、たしかにさして降雪はなかった。

 奈良井宿に入ると、観光客など、誰ひとりいなかった。

 すべての店が閉まっている。

 お土産店はどうでもいいけれど、宿屋が見たかった。ここも閉まっている。



 天保5年3月28日の描写が欲しい。

 しかし、こんなにも雪が降っていると、奈良井宿の春の情景描写は結局のところ想像になってしまう。

 歴史小説は想像力を必要とするので、まあ、良いか、と自分自身を納得させた。

 中仙道は、島崎藤村の「夜明け前」が有名だ。島崎家は地元だ。出身作家による大きな作品があると、負けてしまう。

 本来は奈良井宿を外したいところだ。

 天保5年に、飛彈高山陣屋から、菊田泰蔵という大物が松本藩領に出むく。安曇野の庄屋たち複数がこの宿場まで出迎えに来る。挨拶する。

 私のこれまでの独自取材では、ここから飛彈と信州の歴史が大きく動きはじめる。飛彈は江戸防衛にも関わる重大な幕府領だ。

 菊田泰蔵 → 大井帯刀郡代 → 内藤隼人正勘定奉行 → 時の本丸老中は水野忠邦である。德川幕府の根幹に関わる判断がなされていく。

 外様大名がこの機を見て動きだす。

 今回の山岳歴史小説では、どうしても外せなかった。



 
 「中村屋」はかつて櫛を製造・販売していた。建物や内部の保存が良いので、町が管理し、有料で見学させている。

 当時の面影がしのばれるだろう、と内部をみさせてもらった。

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播隆フォーラムin大口「おおぐちにやってきた播隆さん」

 山岳関係の歴史小説の取材をしている。メインテーマは、「山の恩恵」だ。天保時代の信州と飛彈が中心となる。各地の関係者を訪ね歩いている。

 山岳信仰があり、国(藩)境越えの生活道路があり、農業用水による田地の豊潤な実り、川水が海に流れて魚介類の栄養源など、山の恩恵は尽きない。これらを複合的に、小説として人物を登場させながらストーリーを付けて書く予定だ。

 本覚寺(岐阜県・高岡市)、玄向寺(長野県・松本市)には、播隆の自筆の史料がある。双方の住職のご配慮で、現物を見させていただいた。安曇野の務台家には、務台景邦の庄屋日記がある。それには播隆上人が出てくる。
 信州大学のデータ・ベースに『槍ケ嶽略縁起』という木版刷りの史料があった。ここらを使って書きたい。

 播隆はふだん濃尾平野の各地で布教活動をしていたらしい。ここらはまったく取材していないので、11月30日、愛知県・大口町歴史民俗資料館で開催された「播隆上人のフォーラム」に出かけてみた。

 播隆ネットワークの主幹・黒野こうき氏と一心寺の住職・竹中純瑜氏との対談があった。司会は同資料館の学芸員の西松さんだった。
 飛騨と信州にまたがる槍ヶ岳を開山したのは、念仏行者・播隆(ばんりゅう)上人だ。天保五年だった。1968年(昭和43年)には、 新田次郎著の伝記小説『槍ヶ岳開山』が出ている。

「史実からかなり外れている。歴史小説でなく、時代小説だ」と黒野氏から批判があった。


 私は執筆に影響されるので、同書はまったく読んでいない。どこまで史実か、どこがフィクションなのか。批判する側の黒野氏の根拠となる史料はなにか。ここらは解らないままに聞いていた。

 一心寺の住職は前日、インドから帰ってきたばかり。同寺に関わる前は、播隆上人は知らなかったという。現在でも、登山関係者と一部の人しか知られていないようだ。

 翌12月1日は、行者たちが修行の場にしていた伊吹山に行きたかった。だが、大雨で止めた。同月2日は名鉄電車で出むいて、黒野こうき氏の住まいに近い喫茶店で、2時間ほど会った。播隆研究『ネッワーク播隆』1-13号まで読んできたので、私なりの確認事項が多かった。

 黒野氏は、新田次郎の著作にふれて、時代小説と歴史小説の違い、さらに実名の使い方について持論を語っていた。私は一つの意見として拝聴するにとどめた。

「播隆の初登頂が文政年間のいつなのか」。黒野氏はその年月にかなり拘泥していた。私はあまり関心なかった。
 なぜならば、平安時代にはすでに険しい「剣岳」に行者が登っていたからだ(錫杖が見つかった)。
 谷川岳の断崖絶壁の一ノ倉すら、江戸時代には登られている。どの時代にも、軽業師のような天才的な身軽な人物がいるし、チャレンジ精神が果敢な人もいる。だから、播隆以前にも、槍ヶ岳に登っている人がいた可能性は高い。

 いま現在、それを裏付ける史料がないだけかも知れない。現在よりも、さらなる後世で、円空あたりが登っていた史料が発見されるかも? そう思うと、播隆の初登頂の年月は、私にはあまり興味がもてなかった。
 山岳信仰として、播隆上人が「槍ヶ岳講」を作った事実だけでよかった。

 黒野氏から、他には教わることが多くあった。

 今年(2014)の7月初旬から、飛彈・信州の「山の恩恵」の関連取材を行ってきた。顧みると、こと播隆上人となると、推理・推論が多く、やたら一人歩きしていた。手にした出版物を見ても、裏付け史料が明確でない。なにが事実だろう、と首をかしげてしまう面に出くわす。
 
 明治時代の半ばに、弟子たちが書いたという播隆上人の『行状記』がある。「後世に書かれた昔の話は嘘が多い」という格言がある。まさに、それだと思う。

 槍ケ岳で猿や六匹の熊が出てきて播隆を敬服するとか、小倉又十郎なる者が槍ヶ岳を初めその他の山々を残らず支配しているとか、槍ケ岳の描写もやたら大袈裟で、これは実際に見ていない書き手だと明瞭に解るほど、怪しげな内容が多い。
 おおかた娯楽読本として書かれたものだろう。

 播隆上人論では、大なり小なり、『行状記』を採用して書かれている。しかし私は、明治時代以降に書かれたものは、二次加工だろうと思い、『行状記』は史実として採用しないつもりだ。

 史料の数など少なくても、別段、関係ないとおもう。務台景邦の庄屋日記、本覚寺、玄向寺に遺る播隆の自筆からストーリーを付けていく。小説は史料と史料の隙間をストーリーで埋めていくものだから。

 天保5年が槍ヶ岳開山(開闢・かいびゃく)だ。この年には、上高地から焼岳・中尾峠を越えて飛騨側に行く新街道づくりの歴史が動きだす。これまでの通説を覆す、古文書も入手できた。
 小説は盛り上がった処から、書きだす。これは鉄則だ。第1行はどうするか。主人公はだれにするか。最も魅力ある人物は誰だろう。
 いまは頭のなかで、それを常に考えている。

江戸時代の恐怖の拷問を考える=飛彈高山陣屋

 飛彈の山々の広葉樹が紅葉した10月30日、高山に出むいた。目的の一つは飛彈高山陣屋の内部にある「白州」を確認することだった。刑事関係の取調べ場所である。
 現代は証拠主義だ。江戸時代は「自白主義」だった。
「やつが犯人だ」「こやつが怪しい」と思えば、徹底的に問い詰める。拷問をかけても自白を取る。

 江戸時代は、映画やTVで、町奉行が死罪を命じる場面があるが、それはあり得ない作り話である。死罪は老中の決裁が必要だった。町奉行、勘定奉行、寺社奉行、道中奉行、あらゆるところが罪を裁くが、死罪は老中が決めるのだ。あるいは認める。

 当然ながら、老中決裁は2-3年経つことも多かった。この間に、獄中死すれば、塩漬けにして、老中が決裁を待つ。現代では信じられないが、死体を保持しておいて、「獄門」など死罪が決まると、死体を打ち首にしたり、獄門台にさらしたりするのだ。
 
 遠島、死罪(獄門、磔など)、追放、百叩き、おもだった刑罰はそんなものだから、現代でいう刑事罰は死罪か追放か、二者択一に近い。なにしろ禁固刑や懲役刑がないのだから。

 容疑者は奉行所や代官所などの白州で取ら調べられる。
 現代感覚の些細な窃盗(10両くらい)、使い込みでも、死罪だ。奥さんと不倫も獄門だ。関所破り、贋金づくりなど、ともかく罪を認めれば、死罪で命を捨てることになりやすい。

 どんな拷問を受けても、「ハイやりました」と言わなければ、老中決裁で、死罪はまず成立しない。白州が生命の分かれ道だ。

 農民一揆は気の毒だ。農民たちが、不正な年貢の取立てだとか圧政を訴えて、江戸に出て直訴すれば、死罪だ。拷問の末に、獄門・晒し首だ。

 飛彈高山で、大原騒動が起きた。18年に間に渡る。農民一揆だ。大原とは大原彦四郎郡代、そして息子の大原亀五郎郡代(現在で言えば、県知事)が、弾圧を加える。農民は徹底して抵抗運動をする。幕府は武器で鎮圧する。それでも、農民は武力なしで、死を決した直訴で抵抗する。

 強訴、籠訴、越訴、など身分の高い人(江戸の勘定奉行・老中など)に直訴すれば、その場で捕まる。飛騨に送りもどされる。白州の取り調べが待っている。


 白州は尖った小石が敷かれている。茣蓙を敷いて、その上に朝から夕方まで正座させられて尋問を受けるのだ。
「誰の命令で直訴してた。名主の指示か」と問い詰める。応えないと、洗濯板のような拷問台に座らせて重い石を抱かせる。自白すれば、芋づる式に白州に呼び出される。だから、答えない。

「これでも白状しないのか」と、役人は逆さづりしたうえで、鞭で叩く。

「殺すな」と指図する。拷問で死んでしまうと、こんどは役人が老中の許可なしに、死罪にした、と責任を問いつめられるのだ。
 だから、調べる側も調べられる側も、命がかかっているのだ。

  私はこれまで「大原騒動」はまったく知らなかった。子どもの頃から農業に縁遠かったせいか、「農民一揆」には殆ど関心を持たなかった。

 歴史小説の仮題「天保の信州」の取材をしているうちに、飛騨側からも覗いてみようと、脚をむけた。そして、田沼意次時代の飛彈の農民一揆を知った。膨大な金額の搾取が、田沼に流れていたのだ。大原郡代は武力で農民の鎮圧を計りつづけた。しかし、抵抗は止まない。

 本郷村善九郎(前・上宝村)が18歳の命を散らした。若い妻は身ごもっていた。彼は飢餓で苦しむ村人のために、壮絶な人間ドラマを演じていたのだ。

 縁遠く思っていた飛騨の歴史だが、「人間はここまでやるか」と為政者側と農村側に、かれらの死闘の極限と炎をみた。
 かれが拷問に遭った。白州を見に出かけたのだ。

 壮大なドラマは18年後に、新たな展開を生んだ。老中・松平定信邸の門前に張り出した、農民の直訴の訴状が、定信の目にとまったのだ。

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文政9年の謎=播隆上人はなぜ信州・三郷村にやってきたのか。

 歴史山岳小説・仮題「天保の信州」において、槍ヶ岳を開山した播隆上人を織り込むつもりだ。播隆上人の史料を求めて信州・飛彈に回っている。

 播隆上人は奥飛騨から笠が岳に登り、66人の信者を連れて「笠が岳開山」を成した。念仏行者の播隆は各地を回っている。伊吹山山麓の寺などがベースらしい。(11月末には取材する)。

 伊吹山、美濃から信州に入ったのが、文政9年だったと言われている。長野県・安曇野市の郷土史家や村史の編纂委員から取材している。確固たる歴史的な事実が、私なりの判断で、これだな、と思えるものには見あたらない。


 三郷村教育委員会刊「善の綱」がある。地元の児童が読めるように、児童文学的な雰囲気で書かれている。播隆上人が玄向寺に訊ねてくる。本堂に通されて、住職と語り合う描写がある。

 この裏付けを取れる史料がない。どこから出てきたのか。播隆研究者から取材するたびに、一次史料はなく、出所の不明な話から、確信ある口調で教えられる。

 どうも、「開山暁播隆大和上行状略記」(通称・行状記)がベースになっている。播隆上人が初登頂した1828年から、63年後に愛弟子だったという人物が書いている。

「後の時代になって書かれた昔の話は、嘘が多い」(山本夏彦翁)の話から、70歳の時に書いたなら、7歳だ。あり得ない。80歳の時に書いたならば、当時17歳だ。41歳の播隆のほんとうの愛弟子か、どこまで知っているのか、と疑問になる。

 文体は大袈裟で、播隆の人間性でなく、歯が浮くような美辞麗句が多い。

 物書き(小説家)の目で見ると、創作が随所に入っているな、と直感的に解る。歴史的な事実の列記に思えない。せめて播隆の生前か、死後の数年ならば、史料的な価値はあるだろうが、60年は歳月が立ち過ぎている。
 むろん、全否定でなく、伝承で聞きとったならば、行状記の部分的な真実はあるだろう。


 一向専修念仏行者
 
 槍ヶ岳縁起   播隆上人   1834年(天保五年)出版

『抑(そもそも)信濃国槍ヶ嶽は名だたる高山にして麓は飛騨・信濃両国にまたがり我々して雲に聳(そびえ)ゆること十里ばかり頂上に名しおう鑓岩あり其の高さ凡そ百閒なりこの山頂は往昔より踏登りたる人なし爰(ここ)において余発願して去る文政十一年戊子(つちのえ)の秋、はじめて頂上にのぼり銅像の阿弥陀如来同じく観世音菩薩木像の文珠大士の三尊を安置し奉る

 しかるに頂上直立の鑓岩なれば、余踏ひらきたるのみにして尋常の人絶えて登るべき便りなししかれば安置せし尊像の結縁も空しく労して功なきに似たり

 是を以て今■天保五年の午の夏再び勇烈の心を発し諸人をして登山せしめんと思う先ず嶽の麓の小倉村の(信州安曇郡の内なり松本城下より三里西)農夫又重郎といへる者の家にいたり余が志願を告げ六月十八日槍ヶ岳に登臨すこの頃連日の雨天なりしが不思議に快晴してけり』