97歳の記憶は健全=元・庄屋宅でおどろきばかり。長刀で蓮華草刈り
山岳歴史小説として、天保・天明の時代を背景に執筆している。取材と並行だ。単なる登山小説でなく、山と人間生活とのかかわりである。毎月1-2回は信州か、飛騨に出むいている。
3月16日~17日はたっぷり雪が残っているかな、と思ってブーツを履いていくと、信州にはまるで積雪はゼロ。実に陽気な日和だった。青空の下で、白峰の常念岳が形のよい稜線を浮かべていた。
田圃(たんぼ)はまだ枯れた状態だった。
小説の1シーンで、旧暦3月29日から4月10日までの展開がある。春の花がなにかしら咲いていないか、と見渡すが、梅はまだだった。華やかな色はなかった。
現代の農家は機械化されている。200年前だから、機械化以前の、戦前の農業を知る必要がある。そうでないと、リアルな小説は書けない。
村の長老に聞くのが一番だ。長野県・安曇野市の元庄屋宅に訪ねた。高年齢者「おじいちゃん」から取材させてもらった。97歳。耳が遠いだけで、頭脳は明晰だ。こまかく教えていただいた。親せき筋の亥さんも加わってくれた。
私は、広島県の島・造船の町に生まれ育った。高校1年で初めて田植えをみた。その程度だから、長野の農業、岐阜の林業は取材を積み重ねるほどに、奥行きの深さを感じてしまう。つまり、解らないことだらけだ。むしろ、知るほどに、おどろきの連続でもある。
農業を知り尽くしている人から見れば、陳腐な驚きだろうな、と思う。
玄関内に馬小屋があるのには驚いた。人馬という言葉があるが、まさに家族の一員なんだ。
「馬小屋の土間(床)は掘られて一段低く、柵があって、馬の顔と人間の顔の高さが同じくらいです」
低いところに堆肥がたまって、それをかき出し、田畑の肥料にしてきたという。まずはメモをとる。
「馬小屋の二階では、作男2-3人が寝泊りしていた」
「作男って、なんですか」
住み込みの働き手で、将来は土地を分けてもらい独立する。むかしの小作人の多くは貧しいから、長男以外、次男、三男などは豪農の家に働きにでていたらしい。
一つひとつが解ってない。
家屋の構造も興味深いものがあった。玄関には大戸があって、普段は締まっており、そのなかには潜り戸がある。それが通用口になる。
真横には格子戸があり、誰がきたのか、そこからのぞき見て確かめる。合理的だ。
庄屋だから帳場があった。金銭の出納とか、農作物の出来高など、こまかく計算していたのだろう。名字帯刀がある家だから、刀、槍、長刀があったという。
「刀をふだんからピカピカに磨いておいたら、泥棒が入って盗まれた。錆びたままにしておけばよかった」
とじいちゃんは苦笑する。
盗まれる前、日本刀で、稲刈りしたと話す。長刀ではレンゲ草を刈った。これには驚かされた。小説で組み込んだら、ひんしゅくものかな。
ドサ回りの芝居役者が、村に巡業してくると、長刀を借りにきた。現地取材しないと、こんなことは解らない。それにしても、役者は本ものを使って怪我しないのだろうか。
中庭には巨大な鉄鍋に窯(かま)があった。
「味噌を作る。近所の人が寄りあつまって」
私にはみそづくりの工程は解らないが、土蔵のみそ部屋で、大きな木樽に詰め、熟成させていたようだ。
「信州みそって、有名だったな」
建物の屋根は檜(ひのき)か「さわら」を細長く切って葺いたという。板造りは冬場の仕事だった。檜の屋根などぜいたくだな。
庭の一角には水場が引き込まれて、水車小屋があった。
「米を搗(つ)いて、玄米とか、白米を作っていた」
子供のころ社会科で習ったかな、と思い浮かべる。
「イロリバイ、はここに保管していた。火事にならないように」
なんだろうな、と聞き返す。囲炉裏から出た灰は、まだ火の気があるから、外の小屋一か所に集めて、そばにはつねに水桶を置いていたと教えてくれた。
天保・天明のころは火事が多かった。火の用心はこんな風にしてやるのか、とわかった。
藁(わら)で縄をなう。木槌で打ちながら柔らかくしていく。口に水を含んで、ぷーと吹きかける。この加減がむずかしいらしい。いちど見てみたいが、おじいちゃんには頼めない。
藁を2-3センチに切って、馬に餌として与える。これは知らなかったな。大根、ニンジン、菜っ葉、なんでも、馬の飼葉になったらしい。