山岳関係の歴史小説の取材をしている。メインテーマは、「山の恩恵」だ。天保時代の信州と飛彈が中心となる。各地の関係者を訪ね歩いている。
山岳信仰があり、国(藩)境越えの生活道路があり、農業用水による田地の豊潤な実り、川水が海に流れて魚介類の栄養源など、山の恩恵は尽きない。これらを複合的に、小説として人物を登場させながらストーリーを付けて書く予定だ。
本覚寺(岐阜県・高岡市)、玄向寺(長野県・松本市)には、播隆の自筆の史料がある。双方の住職のご配慮で、現物を見させていただいた。安曇野の務台家には、務台景邦の庄屋日記がある。それには播隆上人が出てくる。
信州大学のデータ・ベースに『槍ケ嶽略縁起』という木版刷りの史料があった。ここらを使って書きたい。
播隆はふだん濃尾平野の各地で布教活動をしていたらしい。ここらはまったく取材していないので、11月30日、愛知県・大口町歴史民俗資料館で開催された「播隆上人のフォーラム」に出かけてみた。
播隆ネットワークの主幹・黒野こうき氏と一心寺の住職・竹中純瑜氏との対談があった。司会は同資料館の学芸員の西松さんだった。
飛騨と信州にまたがる槍ヶ岳を開山したのは、念仏行者・播隆(ばんりゅう)上人だ。天保五年だった。1968年(昭和43年)には、 新田次郎著の伝記小説『槍ヶ岳開山』が出ている。
「史実からかなり外れている。歴史小説でなく、時代小説だ」と黒野氏から批判があった。
私は執筆に影響されるので、同書はまったく読んでいない。どこまで史実か、どこがフィクションなのか。批判する側の黒野氏の根拠となる史料はなにか。ここらは解らないままに聞いていた。
一心寺の住職は前日、インドから帰ってきたばかり。同寺に関わる前は、播隆上人は知らなかったという。現在でも、登山関係者と一部の人しか知られていないようだ。
翌12月1日は、行者たちが修行の場にしていた伊吹山に行きたかった。だが、大雨で止めた。同月2日は名鉄電車で出むいて、黒野こうき氏の住まいに近い喫茶店で、2時間ほど会った。播隆研究『ネッワーク播隆』1-13号まで読んできたので、私なりの確認事項が多かった。
黒野氏は、新田次郎の著作にふれて、時代小説と歴史小説の違い、さらに実名の使い方について持論を語っていた。私は一つの意見として拝聴するにとどめた。
「播隆の初登頂が文政年間のいつなのか」。黒野氏はその年月にかなり拘泥していた。私はあまり関心なかった。
なぜならば、平安時代にはすでに険しい「剣岳」に行者が登っていたからだ(錫杖が見つかった)。
谷川岳の断崖絶壁の一ノ倉すら、江戸時代には登られている。どの時代にも、軽業師のような天才的な身軽な人物がいるし、チャレンジ精神が果敢な人もいる。だから、播隆以前にも、槍ヶ岳に登っている人がいた可能性は高い。
いま現在、それを裏付ける史料がないだけかも知れない。現在よりも、さらなる後世で、円空あたりが登っていた史料が発見されるかも? そう思うと、播隆の初登頂の年月は、私にはあまり興味がもてなかった。
山岳信仰として、播隆上人が「槍ヶ岳講」を作った事実だけでよかった。
黒野氏から、他には教わることが多くあった。
今年(2014)の7月初旬から、飛彈・信州の「山の恩恵」の関連取材を行ってきた。顧みると、こと播隆上人となると、推理・推論が多く、やたら一人歩きしていた。手にした出版物を見ても、裏付け史料が明確でない。なにが事実だろう、と首をかしげてしまう面に出くわす。
明治時代の半ばに、弟子たちが書いたという播隆上人の『行状記』がある。「後世に書かれた昔の話は嘘が多い」という格言がある。まさに、それだと思う。
槍ケ岳で猿や六匹の熊が出てきて播隆を敬服するとか、小倉又十郎なる者が槍ヶ岳を初めその他の山々を残らず支配しているとか、槍ケ岳の描写もやたら大袈裟で、これは実際に見ていない書き手だと明瞭に解るほど、怪しげな内容が多い。
おおかた娯楽読本として書かれたものだろう。
播隆上人論では、大なり小なり、『行状記』を採用して書かれている。しかし私は、明治時代以降に書かれたものは、二次加工だろうと思い、『行状記』は史実として採用しないつもりだ。
史料の数など少なくても、別段、関係ないとおもう。務台景邦の庄屋日記、本覚寺、玄向寺に遺る播隆の自筆からストーリーを付けていく。小説は史料と史料の隙間をストーリーで埋めていくものだから。
天保5年が槍ヶ岳開山(開闢・かいびゃく)だ。この年には、上高地から焼岳・中尾峠を越えて飛騨側に行く新街道づくりの歴史が動きだす。これまでの通説を覆す、古文書も入手できた。
小説は盛り上がった処から、書きだす。これは鉄則だ。第1行はどうするか。主人公はだれにするか。最も魅力ある人物は誰だろう。
いまは頭のなかで、それを常に考えている。