仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』②=歴史は観光にあらず
宮城県、県境の町の丸森町は、「旗巻の戦い」を観光の売り物などしていない。墓石周辺をていねいに整備していた。
私とほぼ同タイムで、同町役場職員がライトバンでやって来た。かれらとはかるい挨拶をしたていどだ。
かれらは清掃道具を下ろす。そして、墓石の周辺で、掃き掃除、側溝の雨グレードなどを外し、落ち葉の詰まりを取りのぞきはじめた。146年前の仙台藩の「霊」を大切にしている。決して観光ではない。そこに心地良さを感じた。
精勤するかれらの平均年齢は30歳くらいだった。地方の町にしては、若者が働いているのだな、と感心した。同町役場はこの峠を下りきった、阿武隈川の近くにあるはずだ。
戊辰戦争では、勝者も敗者もうそが多い。
『会津若松城に立てこもり、熾烈(しれつ)な戦いを行った』
これは観光・会津戦争のつくり話である。
会津盆地の峠ではたしかに武力戦だった。だが、峠を突破された後、若松城に藩主・松平容保ともども籠城する。城を攻防する悲惨な戦いなどやっていない。
会津城攻め薩土(薩摩と土佐藩)が中心で、板垣退助が采配を振った。戦略は兵糧攻めで、1日2回、会津城の天守閣にむけて大砲を撃ちこむだけだった。
もし、本気で重砲の破裂弾を城内に撃ちこめば、『窮鼠(きゅうそ)猫をかむ』ということわざ通り、意外な力を発揮し、強者も苦しめられる。
高知や鹿児島からはるばる会津に来てまで、死傷したくない、気長に待てば、敵は落ちるのだから。夜の城の出入りも見て見ぬふりをしていた。
奥羽越列藩同盟31藩の中心は、仙台藩だった。最後の砦が「旗巻峠」である。仙台藩が敗れて降伏したのが、9月11日である。それが会津若松城に伝わると、すぐさま同月22日には、松平容保が白旗を上げた。
板垣退助(土佐藩)は当初から計算ずくだった。
会津藩は6年間の京都守護職で軍費がかさみ、武士支配階級はやたら威張り、農民の過酷な年貢の取り立てを行っていた。会津戦争のさなかに、農民一揆がおきたり、百姓の多くは官軍側に味方していたとも言われている。
こうした恥部を伏せたり、籠城を『会津魂』として売り込むのは、歴史のねつ造であり、観光行政で利益を得るためだ。
白虎隊すら、現地・会津で研究者に聞けば、1か所で自刃せず、バラバラに死んでいたという見方を取っていた。そして、白虎隊精神は戦前の軍国主義に利用されている。
明治時代の軍国主義は、あらゆる点で歴史のねつ造の上に成立し、国民の大切な生命を軽んじ、戦争で血を流させた。
旗巻峠の私の視線が満開の桜の脇道に流れた。一人の老人がなだらかな坂を下り、こちらに近づいてきた。
「仙台藩士の墓」の方角だから、お参りかな。郷土史家かな。
老人はなにか話たげだった。あいさつ代わりに、墓石の場所を聞いた。仙台藩の最後の地を見にきたのです、と史跡の来意をつけ加えた。
すると、こちらが歴史に詳しいとみなしたのだろう。
「松平容保は朝敵にするのはおかしい。薩長は間違っていた。薩摩こそ、江戸で騒擾(そうじょう)したから、朝敵にするべきだった」
老人は怒りの口調で言った。
仙台藩を攻めたのは薩長であり、理不尽だと強調する。
「因州鳥取藩、広島藩、九州各地からきているけど、薩摩藩は、この浜通りの戦いにきていませんよ」
そういっても、官軍=薩長でひとくくりしていた。なんでも薩長だ。
ここの郷土史は自分のほうがよく知っている、という態度で、老人の口からは薩長の罵詈雑言がつづいた。
【つづく】