歴史の旅・真実とロマンをもとめて

仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』④=消された歴史ほど、政治家は嫌う

 旗巻峠は、標高280メートルだ。仙台藩から相馬中村藩に通じる、戦略的な重要地点だった。

 戊辰戦争で、仙台藩が最大の犠牲者を出したのは、ここよりもひとつ前、浜通りの戦い『駒ヶ岳の戦い』である。熾烈な激戦となり、仙台藩は数百人の死者を出している。のみならず、官軍側も、多くの犠牲者を出している。
 
 広島側の資料を見ると、戦場が「駒ヶ岳山麓」の水田地帯だった。すさまじい仙台の猛攻に対して遮蔽になるものがない。敵から丸見えの広い田園地帯で行われた。仙台藩が総力をかけた、猛烈なる防戦で、一兵も進めない状態に陥っている。
 芸州・神機隊が「ここは駒ヶ岳の関門に向って、正面突破を図ろう」と提案した。すると、「長州藩の隊長はこれには周章(うろたえ)てしまった」と記す。
 
 下関で四か国と戦い、第二次征長でも練磨の、戦い巧者の長州がおびえるほど、仙台藩は強かったのだ。仙台藩は大小砲を激発し「筑前藩も猶予して進まず」。
「この激戦は環視(みているだけ)では解決できず。敵の飛弾を犯し、切り込まざるは利なし。抜刀し突撃するべきだ」
 神機隊はそう主張するが、長州藩、筑前藩の両隊長はついに動かなかった。

『先鋒の神機隊は突貫、突撃した』
 初めのうちは長州・筑前は無謀だと笑っていた。それが驚きになり、やがて賞賛に変わったのだ。
『われらは駒ヶ岳の砲台に登り詰めた。そして、縦横に敵兵を斬殺していく。乱殺に遭った敵は、兵器や屍を放棄して、仙台藩はことごとく敗走していく』

 仙台藩は藩士、足軽のほかに、荷役の雑兵が大勢いる。かれらは銃撃戦だと、胸壁や物陰に隠れていれば銃弾が避けられる。
 しかし、大勢の抜刀で襲われると、鳩の集団に石を投げたのと同じで、一目散に逃げ出す。数百人が駆けだすと、群集心理が伝染し、もはや藩士たちの手に負えなくなるのだ。

 芸州広島藩の神機隊はわずか270人だが、全員が西洋式訓練で鍛えられた職業軍人だった。一か所を突撃で破れば、大勢の敵の雑兵がすぐに逃げる。これは高間省三砲隊長(20)が広野の戦いから、数千人の兵力の相馬・仙台軍を相手に、幾度もとった攻撃方法である。
 連戦連勝で、北上を続けていたが、高間は浪江の砲台を奪った瞬間に、顔面に銃弾を受けて死す。
  歴史長編小説『二十歳の炎』(6月中旬刊行予定)で、これら戦場をリアルに描いている

  高間戦術はその後も生かされ続けたのだ。

 駒ヶ岳から敗走した仙台軍は、旗巻峠を最後の砦とした。ここを破られると、もはや仙台領内の戦だ。犠牲は領民にまで広く及ぶ。だから死守するところだ。

 史跡の文面の一部を紹介すると、

『仙台藩の鮎貝盛房(参政)の指揮の下、米沢藩、庄内藩、旧幕臣を加えた。歩兵15隊の1200兵、大砲4門を持って守備した。8月20日より、椎木大坪間まできた新政府軍を砲撃し、撃退した。
 9月10日夜には、薩摩、長州、筑前、因州鳥取、相馬の西軍が山道を潜行し、仙台藩の夜襲部隊と激突し、翌朝に至り、西軍は隊を二分し、北方に迂回し、山頂に迫る』 
 ここから激戦(血戦と表記)の様子が書かれている。
 そして、仙台藩46人、庄内・米沢藩が15人の戦死を出し、降伏した。

 宮城県文化財専門委員の撰文である。

 ここでも、芸州広島藩の明記はない。このように、広島藩は歴史から消されている。一方で、なんでも薩長で、この戦いに参戦していない薩摩が名を連ねる。
 文化財専門委員すら、こうである。取材で現地を歩いてみると、こうした歴史のねつ造が発見できる。

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仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』③=なんで、ここで忠臣蔵?

 旗巻峠はさかのぼれば、戦国時代は相馬藩領(平将門の血統の地)だった。1585(天正13)年に、伊達正宗が侵攻し、仙台藩となった。その後、現在の宮城県にまで引き継ぐ。
 相馬側には「奪われた土地だ」という意識が300年続いてきた。そして、相馬は戊辰戦争で、官軍に寝返って仙台を攻撃した。

 だから、大勢の仙台藩士が亡くなった。旗巻峠で老人に、そんな話を持ち出すと、薩長が悪いのだと強調する。名君の伊達正宗の相馬領への侵略行為にはふれたくなかったのだろう。


「どこから来たの」
 老人からそう問われたから、広島からです、と出身地で答えてみた。東京在住の作家だと名のりたくない、咄嗟にそんな気持が働いたからだ。
「広島だと毛利だね?」
「関ヶ原の戦いまで広島は毛利です。(毛利元就の出身地)。しかし、戊辰戦争のころの幕末は、浅野家です」
「すると赤穂浅野の関係だね」
 忠臣蔵が有名すぎて、老人は本家が赤穂浅野だったと信じ込んでいる。
「広島浅野は宗家で、浅野は支藩です」
 と話しても、老人はよく解っていない口調だった。
 広島浅野は42万石で、赤穂浅野は5万石である。赤穂藩主の浅野内匠頭の妻・阿久里すら、三次浅野家(広島県)から嫁いでいる。

 元禄・徳川将軍綱吉の時代に、浅野内匠頭が江戸城の松の廊下で、吉良上野介にたいして刃傷事件を起こした。内匠頭はその日のうちに切腹になった。

 その後の宗家・広島浅野家は、赤穂にたいしてつよい影響力を示した。

 深夜、大勢の町人が略奪目的で、赤穂浅野家の鉄砲洲上屋敷の裏口に乱入してきた。そこで、広島藩は軍隊を出動し、鎮圧し、上屋敷の治安を取り戻した。
 一方で、妻・阿久里を三次浅野家の屋敷に移させた。


「そんなに広島藩が関わっているの」
「忠臣蔵では、大石内蔵助がすべての主役であり、決断者でないと面白くないからね。宗家や幕府などから言われて、渋々と赤穂城を明け渡した、それだと筋書きは面白くないし」

 広島浅野家から使者が、赤穂城にたびたび出向いている。そして、国家老(大石内蔵助、大野九郎兵)たちに、穏便に開城せよ、と圧力をかけた。むろん、上から目線の強い圧力だ。

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仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』②=歴史は観光にあらず

 宮城県、県境の町の丸森町は、「旗巻の戦い」を観光の売り物などしていない。墓石周辺をていねいに整備していた。
 私とほぼ同タイムで、同町役場職員がライトバンでやって来た。かれらとはかるい挨拶をしたていどだ。
 かれらは清掃道具を下ろす。そして、墓石の周辺で、掃き掃除、側溝の雨グレードなどを外し、落ち葉の詰まりを取りのぞきはじめた。146年前の仙台藩の「霊」を大切にしている。決して観光ではない。そこに心地良さを感じた。
 精勤するかれらの平均年齢は30歳くらいだった。地方の町にしては、若者が働いているのだな、と感心した。同町役場はこの峠を下りきった、阿武隈川の近くにあるはずだ。

 戊辰戦争では、勝者も敗者もうそが多い。
『会津若松城に立てこもり、熾烈(しれつ)な戦いを行った』
 これは観光・会津戦争のつくり話である。
 会津盆地の峠ではたしかに武力戦だった。だが、峠を突破された後、若松城に藩主・松平容保ともども籠城する。城を攻防する悲惨な戦いなどやっていない。

 会津城攻め薩土(薩摩と土佐藩)が中心で、板垣退助が采配を振った。戦略は兵糧攻めで、1日2回、会津城の天守閣にむけて大砲を撃ちこむだけだった。
 もし、本気で重砲の破裂弾を城内に撃ちこめば、『窮鼠(きゅうそ)猫をかむ』ということわざ通り、意外な力を発揮し、強者も苦しめられる。
 高知や鹿児島からはるばる会津に来てまで、死傷したくない、気長に待てば、敵は落ちるのだから。夜の城の出入りも見て見ぬふりをしていた。
 
 奥羽越列藩同盟31藩の中心は、仙台藩だった。最後の砦が「旗巻峠」である。仙台藩が敗れて降伏したのが、9月11日である。それが会津若松城に伝わると、すぐさま同月22日には、松平容保が白旗を上げた。
 板垣退助(土佐藩)は当初から計算ずくだった。

 会津藩は6年間の京都守護職で軍費がかさみ、武士支配階級はやたら威張り、農民の過酷な年貢の取り立てを行っていた。会津戦争のさなかに、農民一揆がおきたり、百姓の多くは官軍側に味方していたとも言われている。
 こうした恥部を伏せたり、籠城を『会津魂』として売り込むのは、歴史のねつ造であり、観光行政で利益を得るためだ。
 白虎隊すら、現地・会津で研究者に聞けば、1か所で自刃せず、バラバラに死んでいたという見方を取っていた。そして、白虎隊精神は戦前の軍国主義に利用されている。
 明治時代の軍国主義は、あらゆる点で歴史のねつ造の上に成立し、国民の大切な生命を軽んじ、戦争で血を流させた。

  旗巻峠の私の視線が満開の桜の脇道に流れた。一人の老人がなだらかな坂を下り、こちらに近づいてきた。
「仙台藩士の墓」の方角だから、お参りかな。郷土史家かな。

 老人はなにか話たげだった。あいさつ代わりに、墓石の場所を聞いた。仙台藩の最後の地を見にきたのです、と史跡の来意をつけ加えた。
 すると、こちらが歴史に詳しいとみなしたのだろう。
「松平容保は朝敵にするのはおかしい。薩長は間違っていた。薩摩こそ、江戸で騒擾(そうじょう)したから、朝敵にするべきだった」
 老人は怒りの口調で言った。
 仙台藩を攻めたのは薩長であり、理不尽だと強調する。
「因州鳥取藩、広島藩、九州各地からきているけど、薩摩藩は、この浜通りの戦いにきていませんよ」
 そういっても、官軍=薩長でひとくくりしていた。なんでも薩長だ。
 ここの郷土史は自分のほうがよく知っている、という態度で、老人の口からは薩長の罵詈雑言がつづいた。

                                        【つづく】

仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』①=だれが軍事国家をつくったのか

「旗巻峠」は、福島県と宮城県の境にある峠である。昔流にいえば、相馬藩と伊達仙台藩の藩境にある。戊辰戦争では、東北の雄・仙台藩が攻めてくる新政府軍に対する「最後の砦」になった。重要拠点が破られた。そして、仙台藩は敗れた。

 私は幕末の長編歴史小説を昨年から取材し、執筆してきた。同小説の主人公・高間省三は満20歳で浪江で戦死した。
 小説は歴史書とちがって主人公の死後もだらだら書かず、すぱっと終わる。そんな背景から、執筆上の取材はこれまで広島、京都、東京、甲府、いわき市、浪江に集中していた。とくに、現在の原発被災地の浜通りにはなんども足を運んできた。
 しかし、南相馬、相馬市は、ここらは高間省三の死後だから、さらっと一度出向いただけだった。

 幕末長編小説は『二十歳の炎』とタイトルを決めた。そして、完全原稿(本文、写真、地図、イラスト)として4月14日として出版社に手渡した。すぐさま同日の夕刻には福島県にむかった。夜には郡山市内に前泊した。

 小説が書き終えたから、それで戊辰戦争関連の取材が終わりではなかった。私にはおおきなテーマがあるのだ。
 明治政府の薩長閥の政治家たちが、嘘の歴史をつくっている。それを解き明かしていくことだ。

 260年間、徳川幕府は国内外と戦争を一度もしなかった。しかし、明治政権となると、とたんに征韓論、日清戦争、日露戦争、第一次、シベリア出兵、日中戦争、満州事変、第二次世界大戦とつづいた。
 だれがこんな軍事国家にしたのか。

 軍事国家とは、国民に真実を教えず、国民を血の戦いにかりだすことである。『明治軍事国家』だとひと言もいない。それ自体に嘘があるのだ。

 明治初めから広島・長崎原爆で終焉するまで、わずか70年余りで、日本の政治家たちは軍人・民間人、外地の人々を含めて何千万人殺したのだ。
 日本人はなぜそんな怒りをみずから掘り下げないのだろうか。

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教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(4)

 広島藩が、なぜ大政奉還を言い出した。それは広島藩が生み出した頼山陽の思想が、藩校・学問所の思想として根強いていたからである。

 頼山陽の「日本外史」が、幕末志士の必読書だと言われた。なぜか。山陽の皇国史観が、吉田松陰もつよく影響している。松陰は暴力革命と結びつけたが、それが過激な思想となった。

 私は広島市内にある「頼山陽記念館」に取材で訪ねた。「日本外史」の骨子はなにか。それを問うてみた。大義名分論で、おだやかな「大政奉還論」だという。驚いたのは、徳川幕府は発禁処分にせず、松平定信が各藩の教科書として勧めた。親藩の川越藩などは何刷りもしていますよ、と教えてくれた。
 当然、慶喜も読んでいるのだろう。

 私は「日本外史」を多少しか読んでいない。論旨を聞いてみた。

「日本は天皇の国家です。すべての民の頂点に天皇を置いています。家康公は、応仁の乱から150年もの戦国の乱を平定した、その功績で天皇より大政を委任させられたのです」

 日本のあらゆる政権は、平家、鎌倉、足利幕府、德川幕府も、天皇からの政治委託です。人民を統治する能力がなくなると、政権は天皇にもどす。血と血で奪い合うものではない。天皇が新たな政権に委託すのです、という。

 これは江戸時代わりに広く認識されていた。

「幕府は経済政策に失敗した。民がもう塗炭の苦しみにあえいでいます」
 近畿の民は物価の沸騰に苦しみ、関東筋は凶作で流民が多く、農民一揆が多発しています。これらを収束できる能力の人材は、幕閣にはおらず、収拾不能な事態に陥っています。
 幕政改革では、もはや徳川幕府は立ち直れません。ここに至っては、德川家から政権を朝廷に還納させ、王政復古することです。
 武士国家でなく、天皇がみずから政権に返り咲く。慶喜公は身を退いて、藩籍に就いてください。

 慶喜はその論旨は十二分に理解していた。

 10月13日、徳川慶喜は京都・二条城に、上洛中の40藩の重臣を招集した。そして、大政奉還を諮問した。

「全国諸藩の大名は関ヶ原の戦いの恩賞、群雄割拠の上に260年も居座っています。これは異常です。德川家もふくめて、いずれ諸藩の藩主はいちど天皇に戻すことです。全国すべて廃藩された方が良い(明治の廃藩置県)も促す。当面は、まずは德川家がすみやかに大政を朝廷に奉還することです」

 頼山陽の思想は現代でも脈々と生きている。天皇が国 会開会を宣言し、国会議員に政治を委託する。選挙で新たに選ばれた内閣総理大臣は、天皇が任命する。
 さらには条約の批准も行う。だから、内閣総理大臣が選び直されるたびに、政権が変わるので、その都度、天皇が皇居で認証を行うのだ。

 現代版でも、大政奉還は首相が変わるたびに行われている。そう認識すれば、理解が容易い。

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教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(3)

 芸州広島藩は、なぜ大政奉還を藩論として打ち出してきたのか。
 
 私たちは、歴史を見るとき、つい政治的な視点から追ってしまう。経済的・社会的な視点でみると、大政奉還がしっかり見えてくる。
  現代に置き換えると、でも、民主党の原発の全面廃炉よりも、2-3%の経済成長を民は求めて自民党の安倍政権を選択した。都知事の選挙でもしかりだ。
『経済が政権を変えてしまう』
 それがまさしく大政奉還の根幹だった。

 長州藩は朝敵で、藩士も藩兵も京都にこれない。新撰組などに、長州人だと見破られる切り捨てられてしまう。薩長同盟はまったく倒幕に機能していない。長州が関わるのは鳥羽伏見の戦いからである。それなのに、倒幕=薩長同盟で解こうとしている。とんちんかんな幕末史になってしまう。長州はまったく土俵外だった。
 尊皇攘夷の志士が討つ。それすらも外野の騒ぎだった。現在でいう、警察が懸命にテロリストを探し、逃げ回っているようなものだ。

 民衆が政治を動かす。ヒーローがいない。これが大政奉還である。民衆のエネルギーを過小評価してはダメである。、民衆が大政奉還を成し遂げたのだ、ともいえる。

 幕府は第二次長征の敗北すら認めていなかった。和平交渉は勝海舟が宮島で勝手に決めてきたものだ。無効だ、第三次長州征討もほのめかす。とやたら、強気だ。戦勝した長州藩といえども、自国の幕府軍を追い払っただけだ。京都に挙兵したわけではない。

 慶喜は民衆に負けたのだ。

 広島藩がなぜ大政奉還へと踏み切ったか。『藝藩志』から紹介しよう。

 先の第二次長州征討の戦争は、幕閣の意地とミエと体面だけでおこなわれただけである。参戦した諸藩はいまや金も人も使い果たし、財政圧迫で苦しんでいる。参戦しても、領土や勝利品が貰えるわけでもない。
 遠く長州への人馬に要した1日2食の食費、雑費、宿泊費もそれぞれ自藩が負担し、往復した街道筋の宿から、宿泊費が未払いだと督促を受けている。
 武具や兵器を放り投げて帰藩している。新たに最新の銃を買い揃えるとなると、これまた藩財政を圧迫する。
 その結果が農民などに、苛酷な負担となっている。
 
 戦争を仕掛けた小笠原老中すら幕閣でなお君臨している。幕府の根は腐っている。「幕府の権威はもはや地に落ちた。威厳ばかりで、筋道がなく、でたらめな政治だ。正しい条理に沿った政治ができない。

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教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(2)

 小松は島津久光と同様に、公武合体論だった。しかし、広島藩との接触から、小松が大政奉還論に切り替わってきた。
 大久保利通と西郷隆盛は武力倒幕の考え方だ。小松もそれを認識したていた。薩摩藩は極度に階級制度が厳格だから、大久保も西郷も、小松には異議申し立てできず従ってきた。


『藝藩志』から、やや小説風に読みやすくしてみよう。

 7月1日、広島藩の辻将曹は京都の薩摩邸に小松帯刀を訪ねた。
「辻殿が先般、久光公にお会いになり、広島藩は幕府に、いちど大政奉還の建白書をだされた、とか。その条項とはいかなるものか、お聞かせ願いたい」
 小松は33歳で、眼と眉がきりっとした細面だった。
「政令は1か所から出して、天下の秀才を抜擢し、政務に参与させる。そのためにも、幕府に政権を朝廷に返納してもらうことです」
「おおいに賞賛するところです。ただ、薩摩藩内には、往年の清川八郎、真木和泉らが最初に言い出した、勤王討幕説を持っている人物がいます」
「それが西郷吉之助ですね」
 辻は事前に応接掛から情報収集していた。

「そうです。西郷はもっぱら武力をもって、王室を再興させる考え方です。在京の薩摩藩の藩士を誘い込み、勤王討幕説を一致させる、行動を秘かに展開しています」
 小松はそう辻に語っている。
 在京の薩摩藩邸内でも、一枚岩ではないな。辻の率直な薩摩の印章だった。

 翌日、あらためて辻が小松に会った。、
「土佐藩の後藤象二郎に、広島藩は藩論一致で、徳川家には大政を奉還させる、それをもって倒幕する活動に出ている、と教えました。すると、広島の大政奉還案に乗らせてほしい、と象二郎が申しています。なにしろ、象二郎は四候会議が失敗し、容堂には国もとに帰られてしまい、面子がつぶれて困っておりますから。いかがいたしますか」
「人物の信頼度はいかがですか? 德川はそう簡単に倒れない。腰くだけになれば、德川から制裁を受ける。戦争も辞さない覚悟もできる人物か否か。ここらの信念の座り方はどうです?」
「太鼓で、大きく見せたがる癖はあります。後藤が笛を吹けども、容堂公は踊らず。象二郎の間口は広いが、奥行きがない。予(小松帯刀)が話した時、広島藩の辻どのと、面議したいとつよく申しておりました。会うだけでも、いちど象二郎に会っていただけませぬか」
「土佐はもともと人材が豊富だし……。承知しました」

 翌3日には、辻、小松、後藤、そして西郷が加わった。辻は大政奉還の建白の趣旨を一通り説明した。
「大政奉還の挙は誠に良い。慶喜は15代将軍になったばかり。はやい段階に朝廷に政権返上させる。それを建白書で進言する。これが巧く行けば、天下が収まる。広島、薩摩、土佐の三藩で連署して、これを建白すべきでしょう」
 象二郎がすぐさま乗ってきた。
「西郷吉之助には、意見がありそうだな」
 小松が発言を許した。

「大政奉還の幕府の採否は微妙です。かならずや拒否の意見が渦巻くでしょう。四候会議の換言(かんげん)すら受け入れない慶喜です。建白書だけでは、一蹴されてしまう。まして反幕府勢力だと言い、非常事態(軍事行動)も起こり得るでしょう。
 大政奉還を建白するには、一面では兵隊を出してきて、朝廷をお守りする。もう一面は慶喜が大政奉還を採用しなかったならば、すぐさま兵隊を使って、政権をこちらの手に奪う。これが拙者の意見です」
 西郷は武力にこだわり、さらにこう言った
「幕府の権威は落ちたが、力を失ったわけではない。薩摩、広島、そして土佐が京都へ兵をあげる。そうすれば、大政奉還の建白は実るでしょう。
 朝敵の長州藩の軍隊も挙げてきて、慶喜に圧力を加える。幕閣はいまなお幕長戦争のあとをずるずる引きずっております。これも、一気に解決させる。
 長州軍を京都に挙げる。それが有益な戦法です」

「実にいい考えだ。長州は実戦経験が豊富だ。禁門の変、下関戦争、幕長戦争。これは幕府に強い圧力になる。四藩ならば、幕府を倒せる。こうなれば、感慨無量だ」
 後藤が凱旋して熱に浮かされたような態度だった。
(乗りすぎる性格だな)
 辻は警戒した。

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教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(1)

 私はいま長編歴史小説を書いている。脱稿まで、もうすこし。初稿が書き終えていても、解らないところがあると、現地を訪ねる。先般も、京都に行ってきた。

 ともかく疑問があれば専門家とか、学芸員とか、郷土史家から聴き取りをしている。ただ、なかなかその道に人に出会わない。

 一方で、歴史的な資料や文献は、難解な候文などが多い。漢文形式もある。机に向かいながら、ときには「現代小説」がいかに楽かな、と思う。また「時代小説」のほうが適当に空想にリアリティーを持たせるだけだから、これも楽だな。そんな想いで執筆している。

 歴史小説だから、あまり史観と間違ったことは書けない。「なんだ嘘っぱちじゃないか」となってしまう。逆に調べるほどに、これまでの歴史は「嘘っぱちだ」とわかることがある。
 大政奉還がまさにそれだった。

 坂本龍馬が提唱し、後藤象二郎が板倉老中に出したと言われている。事実なのか。疑わしくなった。一方で、大政奉還の建白書は歴史的事実だ。
 その内容となると、どうなのだろうか。私たちはどのくらい大政奉還の意味を理解しているのだろうか。一通の建白書で、15代将軍・徳川慶喜が政権を投げ出すほど、建白書にはインパクトがあったのか。
 そんな疑問がつねにつきまとう。

 四候(しこう)会議で、当時の四強の大名が束になっても、慶喜将軍にはかなわなかった。すべて押し切られてしまい、山内容堂などは怒って高知に帰ってしまった。

 後藤象二郎の文筆力が、その慶喜に勝るほどすごいかったのか。その疑問が頭のなかに横切っていた。かえりみれば、学生時代から、そんな疑惑があった。

 後藤象二郎は、同年の5月・鞆の浦沖で起きた、龍馬の『いろは丸事件』で、長崎奉行所において、大張ったりをかましている。当事者の龍馬に変わり、象二郎は紀州藩から「金塊、最新銃数百丁を載せていた」と言い、膨大な弁償金を取っているのだ。
 いろは丸にそんなにも大そうなものを積んでいたのか。紀州藩は反発しながらも、当時は証明の手立てがなかった。相互の話し合いの信頼だけだ。

 平成時代に入り、いろは丸を海底調査をすれば、船倉には荷物がなく、船員たちのガラクタな日常品ばかりだった。
 私はそれを京都大学の助教授(潜水した学者)から、写真と一部引き揚げ品の実物を見せてもらった。(3年前)。だから、後藤象二郎なる人物はまったく信用していなかった。
 
 徳川家康いらい最も聡明な将軍だといわれた慶喜は、後藤の建白書をどこまで信じて受け入れたのか。慶喜と象二郎ではあまりにも知的なレベルが違いすぎる。
 どうしても腑に落ちなかった。

 慶応3年の10月15日、慶喜は何を根拠にして、徳川家の政権を朝廷に奉還したのか。後藤の執筆力ではないだろう。容堂は徳川政権の温存の考えだ。佐幕思想だと、慶喜が知らないはずがない。ここにも、後藤の建白書には奇怪な矛盾があった。
 
 大政奉還の建白書は、土佐に遅れること3日で、芸州広島藩の執政・辻将曹が板倉老中に提出している。ここらにカギがありそうだ、と思った。
 広島は原爆で資料が乏しい。だれも、幕末・広島の歴史小説など書こうとしない。広島大学近代史の著名教授すら、長州藩が専門だ。

 4年前から歩きつづけた結果、『藝藩志』の存在を知った。芸州広島藩の大政奉還のながれが詳しく載っている。

 龍馬と象二郎の薄っぺらなおとぎ話とちがう。明治時代に、川合三十郎と橋本素助が十数年にわたって取り組んだ、濃密な文献だった。

 まず驚いたのが、大政奉還が広島藩から、具体的に、藩の統一(藩論)となされて活動したことだ。

 1866(慶応2)年12月29日、広島藩主・浅野長訓の命で、執政(家老級)の石井修理が大政奉還の建白書を持って、宇品港を出発した。
 翌年正月4日に、修理が板倉閣老へ拝謁し、大政奉還の建白書を提出した。
『幕府をして反正治本をもとめる。よって罪を謝罪し、政権を朝廷に返還せしむる
 そんな内容の大政奉還の建白書だ。
 翌5日には菅野肇の飛鳥井伝奏(朝廷への取次)にも上奏書を出した。

 一般に伝えられている土佐藩からの大政奉還の建白書(同年10月3日)よりも、約10か月も早く、広島藩から幕府と朝廷に提出しているのだ。
 私は、えっと疑った。これって教科書では教えていないな、と思った。

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幕末史の謎。密貿易の御手洗港を訪ねる(上)

 歴史には隠れた闇の世界がある。

 幕末期に、日米和親条約、同通商条約で日本が開国した。長崎、函館、下田の三つの港にかぎられている。倒幕運動が盛んになると、兵庫(神戸港)の開港がもめにもめた。ここまでは教科書で出ている。
 しかし、何ごとにも表と裏がある。裏側から見たほうが、正確なときもある。

 瀬戸内海の大崎下島に密貿易港があった。
 密貿易は闇の部分だから、教科書には出てこない。だから、憶えなくてもよい、知らなくてもよい、という発想があると、正しい歴史認識はできない。

 日本の文部官僚は不都合なことは隠す。
 「お役人の作ったことだ、間違いないだろう」と鵜呑みにしてしまうと、日本よりも、外国のほうが正しい日本の歴史認識をもっている場合がある。
 鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の時に、日本最南端の薩摩がなぜ大量の大砲、ライフル銃など最新西洋銃を日本一もっていたのか。幕府軍以上に。ここらは教えてもよい点だ。 


 いきなり脇道にそれてしまうが、江戸幕府はペリー提督が来る前から、19世紀にアメリカと交易をしていた。なぜ、教科書で教えないのだろうか。
 単純に3つの疑問から、たどっていくと、日米貿易が明瞭に見える。
 
 ①日本人は英語に弱い。ペリーが1853年に来て、翌年には和親条約を結んでいる。わずか1年で誰が英文の条約文を読み取り、サインできたのか。万次郎は漁師で身分が低いから同席させていない。幕閣は身分制度にうるさい。長崎から英語専門の通詞(通訳)がきたのだ。かれらは英和辞典を持っていた。どのように辞書ができたのか。

 ②18世紀~19世紀、オランダは海運帝国・イギリスと戦争していた。オランダから日本へ商船などまわせない。ナポレオンがオランダを占領し、オランダ国家がなくなった時がある。
 交易相手の国家がなくなれば、代替えは必要だ。すると、どこの国だ? 

 ③ アメリカの博物館に、なぜ江戸時代の物品がたくさんあるのか。浮世絵、鏡台、下駄、三味線、武者人形、仏像、陶器、絵馬……

 ここから解明していくと、文部官僚は、世界史ではナポレオンがヨーロッパ全土を支配下においた、と教える。しかし、日本史では「日本は中国とオランダと貿易していた」とバカの一つ覚えで教えている、と矛盾がわかる。いつまでも、事実が教えられない日本人は悲劇なのだ。
 
 江戸幕府は優秀な頭脳を持っていた。オランダ国が消えたが、プロテスタントは日本領土侵略の恐れがないからと、長崎出島でアメリカと交易していた。だから、日本の美術品、生活用品など珍しいものは、船員が買って帰り、それらが大量にアメリカで現存しているのだ。

 薩長閥の明治政府は、徳川家は劣悪な政権だったと教えることで、自分たちを優位に見せようとした。ペリー提督が来て、幕府は慌てふためき、大騒ぎ、圧力に屈して開港した。まさに無能扱いだ。

 実態はどうか。アメリカ大統領の親書を持って、1853年にペリー提督が日本にくる、と国家が再建された・オランダから徳川幕府に連絡が入ってきたのだ。黒船艦隊は空の礼砲を鳴らしていた。浦賀には見物人が多く、屋台が出るし、役人が野次馬を整理できず、立ち入り禁止にしたくらいだ。
  
 1846年には、東インド艦隊司令官のジェームズ・ビドルが艦隊を連れて浦賀に来ているのだ。この時も見物人で大騒ぎだ。ペリー提督は2度目だし、だれも恐れおののいていない。
 教科書は嘘を教えているのだ。

 日本はアメリカと交易していたと、もう教えるべきだ。
 安倍首相が長州閥を受け継いでいるにせよ。これを前提にして教えないから、諸外国からつねに日本は正しい歴史を教えていない、と批判されるのだ。

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彰義隊の戦い、敗残兵の視点から不忍の池端を歩く

 カモが泳ぐ、カモメが飛来する不忍池の周辺を歩いてみる。大勢の死傷者がでた戊辰戦争・彰義隊の影など、みじんもない。この光景だけをみると、平和そのものである。

 戊辰戦争という内戦は、必要だったのだろうか。いつも考える。日本人どうしが血を流しあう。敵と味方と別れて、官軍だ、賊軍だと言い、銃の引き金をひく。
 私はこんな無意味な戦争はない、と思う。これらの戦いを通して、日本人が得たものはなんだったのか。

  慶応4年5月15日の「上野の彰義隊」の戦いは、史料も読み取る人によって異なる。西の官軍(新政府軍)からの見方と、徳川家など関東勢(佐幕)からと、2通りある。どちらから見ても、血の歴史である。


 さかのぼること、慶応3年12月の小御所会議で、王政復興の大号令で新政府が誕生した。徳川慶喜から将軍職を取り上げる、領地も没収(返納)する。それが辞官納地(じかんのうち)だった。

 大勢の旗本や関八州の武士たちは徳川800万石の扶持米で生活する。それが無職になり、路頭に迷う。再就職の受け皿などなかなかない。士農工商だから、武士が商人にはなれない。
 人間は食べていかなければならず、強奪・掠奪が起きる。
 
 江戸城を無血開城したものの、西郷隆盛や勝海舟は、これら失業武士の対策も取れず、これぞ、という妙案はなかったのだ。
 結局は、江戸の治安維持に失敗した。


『旗本脱走の輩は、上野の山、その他に頓集する官軍の兵士に、しばしば暗殺し、無辜の民の財産を掠奪し、暴虐を呈し、官軍に抗衡している』

 それを取り締まるために、明治元年(慶応四年)五月12日、大総督府は江戸府判事をおいた。船越洋之助(広島藩士)、木村三郎(久留米藩士)、河田佐久馬(因州藩士)、土方大一郎(土佐藩)、清岡岱作(土佐藩)などである。

 江戸府判事とはいまでいう、副知事クラスである。


『彰義隊約3000人が群れ集まり、恣(ほしいまま)に狂暴化している。官軍に抵抗し、無辜の民の略奪を至極暴れまわっている。民はひどい苦しみに落とし入れている。今般、その害を取り除くために、誅伐する。天下泰平のために、多くの民を安堵するためにも、彰義隊を討つ』

  これらの判事による、お触書である。

 新政府・官軍が江戸市中の佐幕武士を挑発し、上野の山に集結させた可能性もある。そこで、一網打尽に討つ戦略があったかもしれない。


『官軍の兵士を暗殺し、官軍と偽って民の財を略奪している。暴徒以外に何物でもない。実に、国家の治安を乱している。見つけ次第に即刻、討ち取る。秘かに補助したものも同罪だ。あるいは隠したものも、賊徒として同罪だ」

 追い込まれた佐幕派の武士は、刻々と死期が近づいていた。

 軍務官判事の大村益次郎が、「1日で戦争を終結して見せます」と言い切る。
「東叡山寛永寺の徳川家祖廟の位牌や宝物を、他に移すように忠告する」
 これは宣戦布告だった。

 上野の彰義隊はアームストロング砲の大砲を次つぎ撃ちこまれた。そのうち、薩摩、長州、肥後、土佐、備前、築後、伊州、因州藩などが上野の山・黒門から、搦手へと突入する。武力衝突に及ぶ。彰義隊は死力をつくす。しかし、同日夜9時過ぎには、放火して退散する。


 翌日から、残党狩りがはじまる。これが悲惨だった。
 捕まった元旗本たちは、ことごとく斬首(ざんしゅ)だった。斬首とは、後ろ手に縛られる。「止めてくれ。助けてくれ」という命乞いしても、容赦なく、一刀で首を斬り落とす。

 首が飛んで、転がった血だらけの頭があちらこちらにある。首のない胴体も転がっている。

 悲壮な斬首は史料のなかに、折々に、絵図で描かれている。見ていて、気味が悪い。武士道というきれいごとではない。歯をむき出し、目を吊り上げた顔だけの頭部。身震いしてしまう。もうこれ以上は見たくない。それが悲惨な斬首の光景だ。

 こうした死はどう受け止めるべきか。私たちは歴史となると、とかく西郷だの、勝海舟だの、慶喜だの、容保だの、という立場になり切ってしまう。作家はその立場で書いてしまう。

 しかし、庶民は一般に、首を集め、胴体を収集する、土葬する、こうした立場なのだ。私は敗残兵の資料を頭に浮かべながら、不忍池の周りを歩いた。
 ここには数千体の血が地面にしみているのだ。そう思うと、日本人同士が血で血を洗う、やってはいけなかった戊辰戦争だった、と庶民レベルで思う。
 大政奉還で治めるべきだったのだ。