歴史の旅・真実とロマンをもとめて

仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』②=歴史は観光にあらず

 宮城県、県境の町の丸森町は、「旗巻の戦い」を観光の売り物などしていない。墓石周辺をていねいに整備していた。
 私とほぼ同タイムで、同町役場職員がライトバンでやって来た。かれらとはかるい挨拶をしたていどだ。
 かれらは清掃道具を下ろす。そして、墓石の周辺で、掃き掃除、側溝の雨グレードなどを外し、落ち葉の詰まりを取りのぞきはじめた。146年前の仙台藩の「霊」を大切にしている。決して観光ではない。そこに心地良さを感じた。
 精勤するかれらの平均年齢は30歳くらいだった。地方の町にしては、若者が働いているのだな、と感心した。同町役場はこの峠を下りきった、阿武隈川の近くにあるはずだ。

 戊辰戦争では、勝者も敗者もうそが多い。
『会津若松城に立てこもり、熾烈(しれつ)な戦いを行った』
 これは観光・会津戦争のつくり話である。
 会津盆地の峠ではたしかに武力戦だった。だが、峠を突破された後、若松城に藩主・松平容保ともども籠城する。城を攻防する悲惨な戦いなどやっていない。

 会津城攻め薩土(薩摩と土佐藩)が中心で、板垣退助が采配を振った。戦略は兵糧攻めで、1日2回、会津城の天守閣にむけて大砲を撃ちこむだけだった。
 もし、本気で重砲の破裂弾を城内に撃ちこめば、『窮鼠(きゅうそ)猫をかむ』ということわざ通り、意外な力を発揮し、強者も苦しめられる。
 高知や鹿児島からはるばる会津に来てまで、死傷したくない、気長に待てば、敵は落ちるのだから。夜の城の出入りも見て見ぬふりをしていた。
 
 奥羽越列藩同盟31藩の中心は、仙台藩だった。最後の砦が「旗巻峠」である。仙台藩が敗れて降伏したのが、9月11日である。それが会津若松城に伝わると、すぐさま同月22日には、松平容保が白旗を上げた。
 板垣退助(土佐藩)は当初から計算ずくだった。

 会津藩は6年間の京都守護職で軍費がかさみ、武士支配階級はやたら威張り、農民の過酷な年貢の取り立てを行っていた。会津戦争のさなかに、農民一揆がおきたり、百姓の多くは官軍側に味方していたとも言われている。
 こうした恥部を伏せたり、籠城を『会津魂』として売り込むのは、歴史のねつ造であり、観光行政で利益を得るためだ。
 白虎隊すら、現地・会津で研究者に聞けば、1か所で自刃せず、バラバラに死んでいたという見方を取っていた。そして、白虎隊精神は戦前の軍国主義に利用されている。
 明治時代の軍国主義は、あらゆる点で歴史のねつ造の上に成立し、国民の大切な生命を軽んじ、戦争で血を流させた。

  旗巻峠の私の視線が満開の桜の脇道に流れた。一人の老人がなだらかな坂を下り、こちらに近づいてきた。
「仙台藩士の墓」の方角だから、お参りかな。郷土史家かな。

 老人はなにか話たげだった。あいさつ代わりに、墓石の場所を聞いた。仙台藩の最後の地を見にきたのです、と史跡の来意をつけ加えた。
 すると、こちらが歴史に詳しいとみなしたのだろう。
「松平容保は朝敵にするのはおかしい。薩長は間違っていた。薩摩こそ、江戸で騒擾(そうじょう)したから、朝敵にするべきだった」
 老人は怒りの口調で言った。
 仙台藩を攻めたのは薩長であり、理不尽だと強調する。
「因州鳥取藩、広島藩、九州各地からきているけど、薩摩藩は、この浜通りの戦いにきていませんよ」
 そういっても、官軍=薩長でひとくくりしていた。なんでも薩長だ。
 ここの郷土史は自分のほうがよく知っている、という態度で、老人の口からは薩長の罵詈雑言がつづいた。

                                        【つづく】

仙台藩の古戦場『旗巻の戦い』①=だれが軍事国家をつくったのか

「旗巻峠」は、福島県と宮城県の境にある峠である。昔流にいえば、相馬藩と伊達仙台藩の藩境にある。戊辰戦争では、東北の雄・仙台藩が攻めてくる新政府軍に対する「最後の砦」になった。重要拠点が破られた。そして、仙台藩は敗れた。

 私は幕末の長編歴史小説を昨年から取材し、執筆してきた。同小説の主人公・高間省三は満20歳で浪江で戦死した。
 小説は歴史書とちがって主人公の死後もだらだら書かず、すぱっと終わる。そんな背景から、執筆上の取材はこれまで広島、京都、東京、甲府、いわき市、浪江に集中していた。とくに、現在の原発被災地の浜通りにはなんども足を運んできた。
 しかし、南相馬、相馬市は、ここらは高間省三の死後だから、さらっと一度出向いただけだった。

 幕末長編小説は『二十歳の炎』とタイトルを決めた。そして、完全原稿(本文、写真、地図、イラスト)として4月14日として出版社に手渡した。すぐさま同日の夕刻には福島県にむかった。夜には郡山市内に前泊した。

 小説が書き終えたから、それで戊辰戦争関連の取材が終わりではなかった。私にはおおきなテーマがあるのだ。
 明治政府の薩長閥の政治家たちが、嘘の歴史をつくっている。それを解き明かしていくことだ。

 260年間、徳川幕府は国内外と戦争を一度もしなかった。しかし、明治政権となると、とたんに征韓論、日清戦争、日露戦争、第一次、シベリア出兵、日中戦争、満州事変、第二次世界大戦とつづいた。
 だれがこんな軍事国家にしたのか。

 軍事国家とは、国民に真実を教えず、国民を血の戦いにかりだすことである。『明治軍事国家』だとひと言もいない。それ自体に嘘があるのだ。

 明治初めから広島・長崎原爆で終焉するまで、わずか70年余りで、日本の政治家たちは軍人・民間人、外地の人々を含めて何千万人殺したのだ。
 日本人はなぜそんな怒りをみずから掘り下げないのだろうか。

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教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(4)

 広島藩が、なぜ大政奉還を言い出した。それは広島藩が生み出した頼山陽の思想が、藩校・学問所の思想として根強いていたからである。

 頼山陽の「日本外史」が、幕末志士の必読書だと言われた。なぜか。山陽の皇国史観が、吉田松陰もつよく影響している。松陰は暴力革命と結びつけたが、それが過激な思想となった。

 私は広島市内にある「頼山陽記念館」に取材で訪ねた。「日本外史」の骨子はなにか。それを問うてみた。大義名分論で、おだやかな「大政奉還論」だという。驚いたのは、徳川幕府は発禁処分にせず、松平定信が各藩の教科書として勧めた。親藩の川越藩などは何刷りもしていますよ、と教えてくれた。
 当然、慶喜も読んでいるのだろう。

 私は「日本外史」を多少しか読んでいない。論旨を聞いてみた。

「日本は天皇の国家です。すべての民の頂点に天皇を置いています。家康公は、応仁の乱から150年もの戦国の乱を平定した、その功績で天皇より大政を委任させられたのです」

 日本のあらゆる政権は、平家、鎌倉、足利幕府、德川幕府も、天皇からの政治委託です。人民を統治する能力がなくなると、政権は天皇にもどす。血と血で奪い合うものではない。天皇が新たな政権に委託すのです、という。

 これは江戸時代わりに広く認識されていた。

「幕府は経済政策に失敗した。民がもう塗炭の苦しみにあえいでいます」
 近畿の民は物価の沸騰に苦しみ、関東筋は凶作で流民が多く、農民一揆が多発しています。これらを収束できる能力の人材は、幕閣にはおらず、収拾不能な事態に陥っています。
 幕政改革では、もはや徳川幕府は立ち直れません。ここに至っては、德川家から政権を朝廷に還納させ、王政復古することです。
 武士国家でなく、天皇がみずから政権に返り咲く。慶喜公は身を退いて、藩籍に就いてください。

 慶喜はその論旨は十二分に理解していた。

 10月13日、徳川慶喜は京都・二条城に、上洛中の40藩の重臣を招集した。そして、大政奉還を諮問した。

「全国諸藩の大名は関ヶ原の戦いの恩賞、群雄割拠の上に260年も居座っています。これは異常です。德川家もふくめて、いずれ諸藩の藩主はいちど天皇に戻すことです。全国すべて廃藩された方が良い(明治の廃藩置県)も促す。当面は、まずは德川家がすみやかに大政を朝廷に奉還することです」

 頼山陽の思想は現代でも脈々と生きている。天皇が国 会開会を宣言し、国会議員に政治を委託する。選挙で新たに選ばれた内閣総理大臣は、天皇が任命する。
 さらには条約の批准も行う。だから、内閣総理大臣が選び直されるたびに、政権が変わるので、その都度、天皇が皇居で認証を行うのだ。

 現代版でも、大政奉還は首相が変わるたびに行われている。そう認識すれば、理解が容易い。

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教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(3)

 芸州広島藩は、なぜ大政奉還を藩論として打ち出してきたのか。
 
 私たちは、歴史を見るとき、つい政治的な視点から追ってしまう。経済的・社会的な視点でみると、大政奉還がしっかり見えてくる。
  現代に置き換えると、でも、民主党の原発の全面廃炉よりも、2-3%の経済成長を民は求めて自民党の安倍政権を選択した。都知事の選挙でもしかりだ。
『経済が政権を変えてしまう』
 それがまさしく大政奉還の根幹だった。

 長州藩は朝敵で、藩士も藩兵も京都にこれない。新撰組などに、長州人だと見破られる切り捨てられてしまう。薩長同盟はまったく倒幕に機能していない。長州が関わるのは鳥羽伏見の戦いからである。それなのに、倒幕=薩長同盟で解こうとしている。とんちんかんな幕末史になってしまう。長州はまったく土俵外だった。
 尊皇攘夷の志士が討つ。それすらも外野の騒ぎだった。現在でいう、警察が懸命にテロリストを探し、逃げ回っているようなものだ。

 民衆が政治を動かす。ヒーローがいない。これが大政奉還である。民衆のエネルギーを過小評価してはダメである。、民衆が大政奉還を成し遂げたのだ、ともいえる。

 幕府は第二次長征の敗北すら認めていなかった。和平交渉は勝海舟が宮島で勝手に決めてきたものだ。無効だ、第三次長州征討もほのめかす。とやたら、強気だ。戦勝した長州藩といえども、自国の幕府軍を追い払っただけだ。京都に挙兵したわけではない。

 慶喜は民衆に負けたのだ。

 広島藩がなぜ大政奉還へと踏み切ったか。『藝藩志』から紹介しよう。

 先の第二次長州征討の戦争は、幕閣の意地とミエと体面だけでおこなわれただけである。参戦した諸藩はいまや金も人も使い果たし、財政圧迫で苦しんでいる。参戦しても、領土や勝利品が貰えるわけでもない。
 遠く長州への人馬に要した1日2食の食費、雑費、宿泊費もそれぞれ自藩が負担し、往復した街道筋の宿から、宿泊費が未払いだと督促を受けている。
 武具や兵器を放り投げて帰藩している。新たに最新の銃を買い揃えるとなると、これまた藩財政を圧迫する。
 その結果が農民などに、苛酷な負担となっている。
 
 戦争を仕掛けた小笠原老中すら幕閣でなお君臨している。幕府の根は腐っている。「幕府の権威はもはや地に落ちた。威厳ばかりで、筋道がなく、でたらめな政治だ。正しい条理に沿った政治ができない。

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教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(2)

 小松は島津久光と同様に、公武合体論だった。しかし、広島藩との接触から、小松が大政奉還論に切り替わってきた。
 大久保利通と西郷隆盛は武力倒幕の考え方だ。小松もそれを認識したていた。薩摩藩は極度に階級制度が厳格だから、大久保も西郷も、小松には異議申し立てできず従ってきた。


『藝藩志』から、やや小説風に読みやすくしてみよう。

 7月1日、広島藩の辻将曹は京都の薩摩邸に小松帯刀を訪ねた。
「辻殿が先般、久光公にお会いになり、広島藩は幕府に、いちど大政奉還の建白書をだされた、とか。その条項とはいかなるものか、お聞かせ願いたい」
 小松は33歳で、眼と眉がきりっとした細面だった。
「政令は1か所から出して、天下の秀才を抜擢し、政務に参与させる。そのためにも、幕府に政権を朝廷に返納してもらうことです」
「おおいに賞賛するところです。ただ、薩摩藩内には、往年の清川八郎、真木和泉らが最初に言い出した、勤王討幕説を持っている人物がいます」
「それが西郷吉之助ですね」
 辻は事前に応接掛から情報収集していた。

「そうです。西郷はもっぱら武力をもって、王室を再興させる考え方です。在京の薩摩藩の藩士を誘い込み、勤王討幕説を一致させる、行動を秘かに展開しています」
 小松はそう辻に語っている。
 在京の薩摩藩邸内でも、一枚岩ではないな。辻の率直な薩摩の印章だった。

 翌日、あらためて辻が小松に会った。、
「土佐藩の後藤象二郎に、広島藩は藩論一致で、徳川家には大政を奉還させる、それをもって倒幕する活動に出ている、と教えました。すると、広島の大政奉還案に乗らせてほしい、と象二郎が申しています。なにしろ、象二郎は四候会議が失敗し、容堂には国もとに帰られてしまい、面子がつぶれて困っておりますから。いかがいたしますか」
「人物の信頼度はいかがですか? 德川はそう簡単に倒れない。腰くだけになれば、德川から制裁を受ける。戦争も辞さない覚悟もできる人物か否か。ここらの信念の座り方はどうです?」
「太鼓で、大きく見せたがる癖はあります。後藤が笛を吹けども、容堂公は踊らず。象二郎の間口は広いが、奥行きがない。予(小松帯刀)が話した時、広島藩の辻どのと、面議したいとつよく申しておりました。会うだけでも、いちど象二郎に会っていただけませぬか」
「土佐はもともと人材が豊富だし……。承知しました」

 翌3日には、辻、小松、後藤、そして西郷が加わった。辻は大政奉還の建白の趣旨を一通り説明した。
「大政奉還の挙は誠に良い。慶喜は15代将軍になったばかり。はやい段階に朝廷に政権返上させる。それを建白書で進言する。これが巧く行けば、天下が収まる。広島、薩摩、土佐の三藩で連署して、これを建白すべきでしょう」
 象二郎がすぐさま乗ってきた。
「西郷吉之助には、意見がありそうだな」
 小松が発言を許した。

「大政奉還の幕府の採否は微妙です。かならずや拒否の意見が渦巻くでしょう。四候会議の換言(かんげん)すら受け入れない慶喜です。建白書だけでは、一蹴されてしまう。まして反幕府勢力だと言い、非常事態(軍事行動)も起こり得るでしょう。
 大政奉還を建白するには、一面では兵隊を出してきて、朝廷をお守りする。もう一面は慶喜が大政奉還を採用しなかったならば、すぐさま兵隊を使って、政権をこちらの手に奪う。これが拙者の意見です」
 西郷は武力にこだわり、さらにこう言った
「幕府の権威は落ちたが、力を失ったわけではない。薩摩、広島、そして土佐が京都へ兵をあげる。そうすれば、大政奉還の建白は実るでしょう。
 朝敵の長州藩の軍隊も挙げてきて、慶喜に圧力を加える。幕閣はいまなお幕長戦争のあとをずるずる引きずっております。これも、一気に解決させる。
 長州軍を京都に挙げる。それが有益な戦法です」

「実にいい考えだ。長州は実戦経験が豊富だ。禁門の変、下関戦争、幕長戦争。これは幕府に強い圧力になる。四藩ならば、幕府を倒せる。こうなれば、感慨無量だ」
 後藤が凱旋して熱に浮かされたような態度だった。
(乗りすぎる性格だな)
 辻は警戒した。

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教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(1)

 私はいま長編歴史小説を書いている。脱稿まで、もうすこし。初稿が書き終えていても、解らないところがあると、現地を訪ねる。先般も、京都に行ってきた。

 ともかく疑問があれば専門家とか、学芸員とか、郷土史家から聴き取りをしている。ただ、なかなかその道に人に出会わない。

 一方で、歴史的な資料や文献は、難解な候文などが多い。漢文形式もある。机に向かいながら、ときには「現代小説」がいかに楽かな、と思う。また「時代小説」のほうが適当に空想にリアリティーを持たせるだけだから、これも楽だな。そんな想いで執筆している。

 歴史小説だから、あまり史観と間違ったことは書けない。「なんだ嘘っぱちじゃないか」となってしまう。逆に調べるほどに、これまでの歴史は「嘘っぱちだ」とわかることがある。
 大政奉還がまさにそれだった。

 坂本龍馬が提唱し、後藤象二郎が板倉老中に出したと言われている。事実なのか。疑わしくなった。一方で、大政奉還の建白書は歴史的事実だ。
 その内容となると、どうなのだろうか。私たちはどのくらい大政奉還の意味を理解しているのだろうか。一通の建白書で、15代将軍・徳川慶喜が政権を投げ出すほど、建白書にはインパクトがあったのか。
 そんな疑問がつねにつきまとう。

 四候(しこう)会議で、当時の四強の大名が束になっても、慶喜将軍にはかなわなかった。すべて押し切られてしまい、山内容堂などは怒って高知に帰ってしまった。

 後藤象二郎の文筆力が、その慶喜に勝るほどすごいかったのか。その疑問が頭のなかに横切っていた。かえりみれば、学生時代から、そんな疑惑があった。

 後藤象二郎は、同年の5月・鞆の浦沖で起きた、龍馬の『いろは丸事件』で、長崎奉行所において、大張ったりをかましている。当事者の龍馬に変わり、象二郎は紀州藩から「金塊、最新銃数百丁を載せていた」と言い、膨大な弁償金を取っているのだ。
 いろは丸にそんなにも大そうなものを積んでいたのか。紀州藩は反発しながらも、当時は証明の手立てがなかった。相互の話し合いの信頼だけだ。

 平成時代に入り、いろは丸を海底調査をすれば、船倉には荷物がなく、船員たちのガラクタな日常品ばかりだった。
 私はそれを京都大学の助教授(潜水した学者)から、写真と一部引き揚げ品の実物を見せてもらった。(3年前)。だから、後藤象二郎なる人物はまったく信用していなかった。
 
 徳川家康いらい最も聡明な将軍だといわれた慶喜は、後藤の建白書をどこまで信じて受け入れたのか。慶喜と象二郎ではあまりにも知的なレベルが違いすぎる。
 どうしても腑に落ちなかった。

 慶応3年の10月15日、慶喜は何を根拠にして、徳川家の政権を朝廷に奉還したのか。後藤の執筆力ではないだろう。容堂は徳川政権の温存の考えだ。佐幕思想だと、慶喜が知らないはずがない。ここにも、後藤の建白書には奇怪な矛盾があった。
 
 大政奉還の建白書は、土佐に遅れること3日で、芸州広島藩の執政・辻将曹が板倉老中に提出している。ここらにカギがありそうだ、と思った。
 広島は原爆で資料が乏しい。だれも、幕末・広島の歴史小説など書こうとしない。広島大学近代史の著名教授すら、長州藩が専門だ。

 4年前から歩きつづけた結果、『藝藩志』の存在を知った。芸州広島藩の大政奉還のながれが詳しく載っている。

 龍馬と象二郎の薄っぺらなおとぎ話とちがう。明治時代に、川合三十郎と橋本素助が十数年にわたって取り組んだ、濃密な文献だった。

 まず驚いたのが、大政奉還が広島藩から、具体的に、藩の統一(藩論)となされて活動したことだ。

 1866(慶応2)年12月29日、広島藩主・浅野長訓の命で、執政(家老級)の石井修理が大政奉還の建白書を持って、宇品港を出発した。
 翌年正月4日に、修理が板倉閣老へ拝謁し、大政奉還の建白書を提出した。
『幕府をして反正治本をもとめる。よって罪を謝罪し、政権を朝廷に返還せしむる
 そんな内容の大政奉還の建白書だ。
 翌5日には菅野肇の飛鳥井伝奏(朝廷への取次)にも上奏書を出した。

 一般に伝えられている土佐藩からの大政奉還の建白書(同年10月3日)よりも、約10か月も早く、広島藩から幕府と朝廷に提出しているのだ。
 私は、えっと疑った。これって教科書では教えていないな、と思った。

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幕末史の謎。密貿易の御手洗港を訪ねる(上)

 歴史には隠れた闇の世界がある。

 幕末期に、日米和親条約、同通商条約で日本が開国した。長崎、函館、下田の三つの港にかぎられている。倒幕運動が盛んになると、兵庫(神戸港)の開港がもめにもめた。ここまでは教科書で出ている。
 しかし、何ごとにも表と裏がある。裏側から見たほうが、正確なときもある。

 瀬戸内海の大崎下島に密貿易港があった。
 密貿易は闇の部分だから、教科書には出てこない。だから、憶えなくてもよい、知らなくてもよい、という発想があると、正しい歴史認識はできない。

 日本の文部官僚は不都合なことは隠す。
 「お役人の作ったことだ、間違いないだろう」と鵜呑みにしてしまうと、日本よりも、外国のほうが正しい日本の歴史認識をもっている場合がある。
 鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の時に、日本最南端の薩摩がなぜ大量の大砲、ライフル銃など最新西洋銃を日本一もっていたのか。幕府軍以上に。ここらは教えてもよい点だ。 


 いきなり脇道にそれてしまうが、江戸幕府はペリー提督が来る前から、19世紀にアメリカと交易をしていた。なぜ、教科書で教えないのだろうか。
 単純に3つの疑問から、たどっていくと、日米貿易が明瞭に見える。
 
 ①日本人は英語に弱い。ペリーが1853年に来て、翌年には和親条約を結んでいる。わずか1年で誰が英文の条約文を読み取り、サインできたのか。万次郎は漁師で身分が低いから同席させていない。幕閣は身分制度にうるさい。長崎から英語専門の通詞(通訳)がきたのだ。かれらは英和辞典を持っていた。どのように辞書ができたのか。

 ②18世紀~19世紀、オランダは海運帝国・イギリスと戦争していた。オランダから日本へ商船などまわせない。ナポレオンがオランダを占領し、オランダ国家がなくなった時がある。
 交易相手の国家がなくなれば、代替えは必要だ。すると、どこの国だ? 

 ③ アメリカの博物館に、なぜ江戸時代の物品がたくさんあるのか。浮世絵、鏡台、下駄、三味線、武者人形、仏像、陶器、絵馬……

 ここから解明していくと、文部官僚は、世界史ではナポレオンがヨーロッパ全土を支配下においた、と教える。しかし、日本史では「日本は中国とオランダと貿易していた」とバカの一つ覚えで教えている、と矛盾がわかる。いつまでも、事実が教えられない日本人は悲劇なのだ。
 
 江戸幕府は優秀な頭脳を持っていた。オランダ国が消えたが、プロテスタントは日本領土侵略の恐れがないからと、長崎出島でアメリカと交易していた。だから、日本の美術品、生活用品など珍しいものは、船員が買って帰り、それらが大量にアメリカで現存しているのだ。

 薩長閥の明治政府は、徳川家は劣悪な政権だったと教えることで、自分たちを優位に見せようとした。ペリー提督が来て、幕府は慌てふためき、大騒ぎ、圧力に屈して開港した。まさに無能扱いだ。

 実態はどうか。アメリカ大統領の親書を持って、1853年にペリー提督が日本にくる、と国家が再建された・オランダから徳川幕府に連絡が入ってきたのだ。黒船艦隊は空の礼砲を鳴らしていた。浦賀には見物人が多く、屋台が出るし、役人が野次馬を整理できず、立ち入り禁止にしたくらいだ。
  
 1846年には、東インド艦隊司令官のジェームズ・ビドルが艦隊を連れて浦賀に来ているのだ。この時も見物人で大騒ぎだ。ペリー提督は2度目だし、だれも恐れおののいていない。
 教科書は嘘を教えているのだ。

 日本はアメリカと交易していたと、もう教えるべきだ。
 安倍首相が長州閥を受け継いでいるにせよ。これを前提にして教えないから、諸外国からつねに日本は正しい歴史を教えていない、と批判されるのだ。

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彰義隊の戦い、敗残兵の視点から不忍の池端を歩く

 カモが泳ぐ、カモメが飛来する不忍池の周辺を歩いてみる。大勢の死傷者がでた戊辰戦争・彰義隊の影など、みじんもない。この光景だけをみると、平和そのものである。

 戊辰戦争という内戦は、必要だったのだろうか。いつも考える。日本人どうしが血を流しあう。敵と味方と別れて、官軍だ、賊軍だと言い、銃の引き金をひく。
 私はこんな無意味な戦争はない、と思う。これらの戦いを通して、日本人が得たものはなんだったのか。

  慶応4年5月15日の「上野の彰義隊」の戦いは、史料も読み取る人によって異なる。西の官軍(新政府軍)からの見方と、徳川家など関東勢(佐幕)からと、2通りある。どちらから見ても、血の歴史である。


 さかのぼること、慶応3年12月の小御所会議で、王政復興の大号令で新政府が誕生した。徳川慶喜から将軍職を取り上げる、領地も没収(返納)する。それが辞官納地(じかんのうち)だった。

 大勢の旗本や関八州の武士たちは徳川800万石の扶持米で生活する。それが無職になり、路頭に迷う。再就職の受け皿などなかなかない。士農工商だから、武士が商人にはなれない。
 人間は食べていかなければならず、強奪・掠奪が起きる。
 
 江戸城を無血開城したものの、西郷隆盛や勝海舟は、これら失業武士の対策も取れず、これぞ、という妙案はなかったのだ。
 結局は、江戸の治安維持に失敗した。


『旗本脱走の輩は、上野の山、その他に頓集する官軍の兵士に、しばしば暗殺し、無辜の民の財産を掠奪し、暴虐を呈し、官軍に抗衡している』

 それを取り締まるために、明治元年(慶応四年)五月12日、大総督府は江戸府判事をおいた。船越洋之助(広島藩士)、木村三郎(久留米藩士)、河田佐久馬(因州藩士)、土方大一郎(土佐藩)、清岡岱作(土佐藩)などである。

 江戸府判事とはいまでいう、副知事クラスである。


『彰義隊約3000人が群れ集まり、恣(ほしいまま)に狂暴化している。官軍に抵抗し、無辜の民の略奪を至極暴れまわっている。民はひどい苦しみに落とし入れている。今般、その害を取り除くために、誅伐する。天下泰平のために、多くの民を安堵するためにも、彰義隊を討つ』

  これらの判事による、お触書である。

 新政府・官軍が江戸市中の佐幕武士を挑発し、上野の山に集結させた可能性もある。そこで、一網打尽に討つ戦略があったかもしれない。


『官軍の兵士を暗殺し、官軍と偽って民の財を略奪している。暴徒以外に何物でもない。実に、国家の治安を乱している。見つけ次第に即刻、討ち取る。秘かに補助したものも同罪だ。あるいは隠したものも、賊徒として同罪だ」

 追い込まれた佐幕派の武士は、刻々と死期が近づいていた。

 軍務官判事の大村益次郎が、「1日で戦争を終結して見せます」と言い切る。
「東叡山寛永寺の徳川家祖廟の位牌や宝物を、他に移すように忠告する」
 これは宣戦布告だった。

 上野の彰義隊はアームストロング砲の大砲を次つぎ撃ちこまれた。そのうち、薩摩、長州、肥後、土佐、備前、築後、伊州、因州藩などが上野の山・黒門から、搦手へと突入する。武力衝突に及ぶ。彰義隊は死力をつくす。しかし、同日夜9時過ぎには、放火して退散する。


 翌日から、残党狩りがはじまる。これが悲惨だった。
 捕まった元旗本たちは、ことごとく斬首(ざんしゅ)だった。斬首とは、後ろ手に縛られる。「止めてくれ。助けてくれ」という命乞いしても、容赦なく、一刀で首を斬り落とす。

 首が飛んで、転がった血だらけの頭があちらこちらにある。首のない胴体も転がっている。

 悲壮な斬首は史料のなかに、折々に、絵図で描かれている。見ていて、気味が悪い。武士道というきれいごとではない。歯をむき出し、目を吊り上げた顔だけの頭部。身震いしてしまう。もうこれ以上は見たくない。それが悲惨な斬首の光景だ。

 こうした死はどう受け止めるべきか。私たちは歴史となると、とかく西郷だの、勝海舟だの、慶喜だの、容保だの、という立場になり切ってしまう。作家はその立場で書いてしまう。

 しかし、庶民は一般に、首を集め、胴体を収集する、土葬する、こうした立場なのだ。私は敗残兵の資料を頭に浮かべながら、不忍池の周りを歩いた。
 ここには数千体の血が地面にしみているのだ。そう思うと、日本人同士が血で血を洗う、やってはいけなかった戊辰戦争だった、と庶民レベルで思う。
 大政奉還で治めるべきだったのだ。

 

教えないことは隠すことだ(下)=明治軍国主義の誕生

 鳥羽伏見の戦いは薩摩藩の仕掛けた。それまで何もしていない長州藩が相乗りしてきた。まさに長州はここがスタートなのだ。

やらなくてもいい無益な戊辰戦争へと突入させる。関東の戦い、奥州の戦いへと、佐幕派の恭順を認めず、ひたすら権力欲から暴走していく。


 会津が落城すると、もう翌月には明治天皇を東京に移し遷都だった。加速度的に、靖国神社を建立し、廃仏毀釈で仏教を弾圧して天皇を神とする(天皇万歳で死ねる兵士への道)、徴兵制度、日清、日露へとすすんでいく。長州の皇国思想と軍事が結び付いたのが、明治維新なのだ。

 この過程で、徳川討幕のみだった西郷は不要な人物にされてしまった。

 薩摩と長州の権力思想は、本質が違う、二つを一つにする「薩長同盟」「薩長」という呼称が、維新をわからなくさせている。
 薩摩は徳川家との対立でみる。京都に生まれた、新政府は継続する考えだった。他方で、長州は軍事力一辺倒からの政権欲のみだ。京都の新政府など、残す気はなかった。

 ふたつを切り離せば、明治軍事政権の本質がわかりやすく見えてくる。

 明治、大正、昭和と資料を追っていた。
 東条英機の国会演説の映像を見た。「東洋の平和を考えるわが国としては、欧米の干渉は許しがたい。平和な国家をつくるのが、我が国の目的だ」と東条の口から、何度も何度も、平和ということばがとびだすのには驚いた。

 戦争の大義名分は、政治家が平和を口にすることから生れる、と東条から教えられた。こうした政治家の裏には戦争の牙がある。
 戦争傾向が強い政治家の芽は、国民がはやくに摘むことだ、それが肝要だと思った。

教えないことは隠すことだ(中)=明治軍国主義の誕生

 1月5日、芝・泉岳寺に出向いてみた。赤穂浅野家は、広島・浅野家の支藩である。だから、同境内には戊辰戦争で亡くなった芸州広島藩の墓がある、という文献の確認のためだった。
 12月は忠臣蔵で、きっと混み合うだろうと思い、あえて翌月にしたつもりだが、それでも大勢の人出に驚いてしまった。正月三が日はずいぶん込み合った、と甘酒屋の店主が教えてくれた。

 慶応4年4月27日、神機隊の300人余りが広島藩船の万年丸で、品川沖に朝4時に到着している。船内待機の後、5月8日には芝・泉岳寺に入り同14日10時の出立まで、滞在している、と同隊士の日記から判明した。(翌15日が上野・彰義隊の戦い)。

 このあたりの史料はないか。泉岳寺の社務所も忙しなげで、問いかけると書面の質問で、と言われた。人出を見た後だけに、予想通りだった。
 同境内には芸州藩士の墓があった。それにしても、赤穂浪士の人気はすさまじい。戊辰戦争で泉岳寺に来た広島藩士らが、朽ちた墓碑を見て、可哀そうだからと言い、『表忠碑』を建てた。(慶応戊辰春と明記)。大石力の真横にあった。

 徳川幕府から見れば、赤穂浪士の行為はどこまでも殺人行為だった。かれら47人は打ち首でなく、切腹で武士の体面を保った。庶民は歌舞伎で知り得ても、泉岳寺に表だって義士扱いの墓参りはできなかったようだ。だから、広島・浅野家の家臣が、朽ちた墓碑を憐れんだように廃れていたのだ。

 忠臣蔵と、戦争とは同列に考えられないが、「正義」の討ち入りだと、赤穂浪士は考えたのだろう。戦い、争いは、多くの場合、正義の発想だろう。 
 
 
「正しい歴史認識」そんな驕った気持ちはないが、戦争へと暴走してきた、維新の実態を掘り起こす。過去には薩長土から発掘されてきた。とくに、司馬遼太郎の歴史史観は、それらの藩を中心に展開されている。「薩長同盟」が作品の核になっている。

 薩長同盟は倒幕にさして役立っていない。誇張されている。王政復古で新政権ができても、長州の成果はほとんど無に等しい。

 明治政府以降、司馬史観まで『薩長』と一括りにする。そうして教えられてきた。この史観が明治政府の本質を隠れたものにさせている。ふたつを切り離して、維新史をみれば、その違いがよくわかる。
 
 薩摩藩の西郷・大久保はどこまでも、徳川家を断つ、討幕で推し進んできた。大政奉還の後も、将軍職にとどまている慶喜を討つ。それでないと徳川幕府の終焉はないという考えだった。だから、西郷たちは江戸城開城で、精神的に終わっているのだ。

 長州藩は安芸毛利家が広域支配200万石(実質)から36万石に転赴された。関ヶ原の恨み、徳川を倒して、こんどこそ長州支配の政権をつくる、という考え方だ。目的は政権を奪うことだった。

 ここが薩摩と長州の根本が違う点だ。これを同一視するところに、軍国主義思想の根源をわからなくさせているのだ。