歴史の旅・真実とロマンをもとめて

禁門の変で、京都を大火にさせた=歴史の必然か、暴走か

 京都の人にとって、先の戦争と言えば、京都の町を火の海にした、応仁の乱か、禁門の変(1864年8月20日)である。
 第二次世界大戦ではない。米国の文化人類学者のアドバイスで、トルーマンは京都・奈良の空爆を禁止にしたから、京都の町は無傷だったからだ。

 私は10月6日、京都を訪ねた。蛤御門(はまぐりごもん、京都市上京区)に足を運んだ。ここで、「禁門の変」が起こり、日本の近代史を大きく変えたのだ、と深い想いを持って眺めた。
 禁門の変は約150年前の出来事だが、第二次世界大戦にまで影響を及ぼしている。

 幕末、「8.18の政変」が起きた。京都守護職の会津藩と薩摩藩とがクーデターで、長州藩兵を京都・御所の任務を解いて追放した。長州藩は藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられるなど、政治的な主導権を失った。これが一般いわれる、「7卿の都落ち」である。

 幕末の長州藩は、上下の思想がバラバラで、好き勝手な行動とか、対立が目立つ藩だった。藩政治の勢力争いがつねにおこなわれ、藩の統一した見解とか、統一行動がなかった。

 松平容保などを排除するために挙兵し、京都に乗り込もうとする積極派と、慎重派とが対立していた。
 池田屋事件で、新撰組に長州藩士が殺されると、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目にして、挙兵したのだ。
 そして、会津・桑名藩兵とが衝突した。
 長州勢は当初、優勢で中立売門を突破して京都御所内に侵入した。他方で、西郷隆盛が、乾門を守る薩摩藩兵を連れて援軍に駆けつけたことから、形勢が逆転し、市街戦になった。

 敗退する長州は、京都藩邸を焼き払った。会津も長州藩士が隠れていそうな場所に火を放つ。それらが北は一条通から南は七条の東本願寺に至る、広い範囲の街や社寺などが炎上した。約3万戸が焼失するなど、京都人は戦火の怖さを知らされたのだ。

 この禁門の変で、長州藩が御所に銃を放ったことから、「朝敵」になった。

 「長州藩処分問題」が主要な政治議題となった。第一次長州征討、さらには第二次長州征討となっていく。ベースにはつねに禁門の変があるのだ。


 幕末の歴史小説はどこから書くと理解が得られやすいか。歴史はさかのぼりすぎると、問題点があいまいになる。「禁門の変」から書くべきだが、そうなると、8.18の政変を抜きになり、長州藩が一方的に悪者になる。
 会津・薩摩が仕掛けたクーデターとなると、京都守護職を受けた会津藩もお家の事情も抜きに語れない。孝明天皇の存在も無視できない。

 第二次長州征討で、幕府が敗北し、倒幕への道へとつながる。むしろ、ここらから書くべきだと考える。

 倒幕は平和裏に徳川幕府を倒す。「大政奉還

 討幕はどこまでも、武力で徳川家を倒す。「鳥羽伏見の戦い」と「戊辰戦争
 へと進んでいった。

「倒す」と「討つ」の違いは、日本の歴史教科書でしっかり教えるべき点だと思う。鳥羽伏見の戦いは、薩長の下級藩士が政権を取る軍事クーデターだった。そして、軍事国家への道筋を作った。しかし、戦前教育も現在も、それをタブーのように曖昧にして明瞭な教え方はしていない。

 蛤御門にきた私は、「倒す」と「討つ」の違いを明確にした、歴史小説を書くぞと、その思いを強く持った。

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