歴史の旅・真実とロマンをもとめて

坂本龍馬と後藤象二郎が大政奉還を推し進めた? 歴史の虚構か

 10月20日は太平洋側から2つの台風が接近していた。この時期の台風は仕方ないことだと、予定通り鹿児島に出向いた。小松帯刀と芸州・広島藩との連携が知りたかった。私にすれば、珍しくアポのない取材だった。

 大政奉還は広島藩の辻将曹(芸州・家老)と薩摩藩小松帯刀(家老)が推し進めている。(芸藩誌による)。

 そのために薩長芸は軍事同盟を結び、3藩の軍隊を京都に挙げて軍事圧力で、徳川慶喜に大政奉還を迫る、という倒幕の作戦を推し進めていた。

 土佐の後藤象二郎が途中(1867年7月)から、これを知り、京都藩邸に滞在する辻将曹と小松帯刀に、土佐も加わらせてくれ、と言ってきたのだ。ふたりは後藤象二郎に「もし土佐がこの倒幕に加わりたかったら、土佐から1000人の兵を京都に挙げてこい」と指図した。

「山内容堂を口説き、絶対に軍隊を連れてきますから、倒幕に加わらせてください」
 後藤は辻にそう約束している。(芸藩誌)

 8月、9月となると、辻や小松がまだ土佐は動かないのか、と焦る。西郷たち武闘派が「倒幕」でなく、武力による「討幕」の動きを示しているから、早くしろ、と小松は後藤をせかしている。辻も同様だった。
「待ってくれ、待ってくれ」
 後藤は何度もうそをつく。辻将相らは苛立っていた。政変には時期が大切なのだ。

 保守派の山内容堂は徳川幕府温存の考えで、軍隊などを出さないという。薩摩の小松はウンザリしてしまった。あてにならない土佐ならば、と「薩長土同盟」(土は土佐)を9月に解消しまったのだ。つまり、大政奉還の話には土佐が加わらなくてもよい、と三行半を示したので。

 その後、後藤がとった行動は、一人勝手に京都に於いて、徳川将軍・慶喜に拝謁し、大政奉還の建白書を出したのだ。まさに、後藤象二郎がやりそうな、抜け駆けだった。
 怒ったのは辻将曹と小松帯刀で、その3日後には広島藩も薩摩藩も用意している建白書を出したのだ。
 慶喜は後藤ひとりの話など信用していない。二条城にあらためて辻将曹、小松帯刀を呼び寄せ、3者から建白書を提出した根拠と真意を聞き出したのだ。(辻と小松は前座で意見を言う、後藤は後ろの座で聞き役)。
 広島藩(執政・家老と同じ)辻将曹と薩摩藩家老の小松帯刀には、後藤と違い、これまで練りに練った考えがある。なぜ大政奉還なのか。理路整然とした思慮がある。
 幕府が戦いをせず朝廷に政権を返上すれば、欧米列強にすきを与えず、国家の平和解決の道になると進言したのだ。
 慶喜は国内戦争を望まず、それを受け入れた。


『抜け駆けだろうと、何事も一番がたいせつ』

 後藤象二郎が大政奉還の建白書を一番に出した。後世のひとは後藤象二郎ひとりの淡白な能力では考えが及ばない、と誰もがわかっている。山内容堂は佐幕派だし、幕府を倒す考えなどみじんもない。容堂から大政奉還を言い出す根拠すらない。

 後藤象二郎が、広島と薩摩から話をもらいながら、ひとり抜け駆けをやりました。これではあまりにもぶざまだ。土佐人たちが考えた挙句の果てに、坂本龍馬の発案で後藤象二郎が大政奉還を進めたと、虚構を加えてしまったのだ。
 つまり、辻や小松の着想が消されて、坂本龍馬にすり替えてしまったのだ。

 龍馬にはまったく大政奉還の思想はなかった。龍馬はどこから大政奉還の思想を得たのだろうか。推理小説のように、いま現在もメチャメチャな意見が飛び交っている。事実ではなく、史実には1行もないのだから、それに根拠を結び付けようとするから、陳腐な説明になってしまう。
 

 広島藩と薩摩藩が「薩長芸軍事同盟」による大政奉還への圧力は歴然たる事実である。3藩の軍隊は実際に動く、京都まで軍隊が進められているのだ。(厳密にいえば、長州は朝敵だから、京都に入れず、兵庫で待機している)。「芸藩誌による」

 この頃、いろは丸事件で龍馬は蒸気船を沈めて、船長として、船主としても信頼をなくしていた。だれも船を貸してくれない。
 ところが、芸州・広島藩の高間多須衞・武具奉行が、顔見知りである、船乗りの坂本龍馬に大政奉還の圧力をかけさせるためだからといい、「長崎から西洋銃1500丁、土佐から1000人の兵士を京都に運んでくれ」と震天丸(広島藩船)を龍馬に貸与している。

 龍馬は誠実に長崎から銃を運ぶが、土佐沖に到着しても、後藤象二郎は容堂に話を通していないから、土佐兵はだれも乗り込んでこない。こうした歴史的な事実からも、後藤はいまふうに言えば、張ったりの強い人物であった。

 小松帯刀の書簡と、広島側の資料とがぴたり合致すれば、「坂本龍馬が後藤象二郎に持ちかけたとされる大政奉還説」は虚偽だと、歴史を変えることができる。

 

 こんかいは台風のなか、アポイントもなく鹿児島に出向いたので、小松帯刀の関係者に取材すらできなかった。しかし、ホテルでたまたま鹿児島テレビを見ていると、「小松帯刀の遺品が見つかった。そのなかには大政奉還に関する資料もある」と報じられていた。
「これは収穫だ」
 私は思わず心の中で、そう叫んだ。もし、東京ならば、報道されていないかもしれない。
 現地に行けば、ローカルニュースと地方新聞は見よ、という鉄則が生きた。

『船中八策はつくりもの』で、まちがいなく虚構である。『坂本龍馬は大政奉還に関与せず』。このふたつは土佐側から出てきたフィクションであり、土佐人たちが幕末史を歪曲してきた、と証明される可能性がかなり高い。
 高知・龍馬記念館や土佐側の虚構資料を根拠に書いてきた、過去からの多くの歴史作家たちは「しまった」と思う日がやがてくるだろう。

「歴史の旅・真実とロマンをもとめて」トップへ戻る