「満願寺」で、驚きの資料を発見する=長野県・安曇野市
私は大糸線の柏矢町駅で下車してから、タクシーに乗り、常念山脈の裾稜線の栗尾山の「満願寺」に向かった。かつて小笠原時代には藩主の祈祷所(きとうしょ)だった。
ユニークなお寺ですよ、安曇野の地方で、その年に亡くなった新霊が満願寺に集まる。新盆の遺族は、霊を迎えに行くのです、と地元学芸員から教わっていた。「新霊を迎えにいく」といわれても、地元人間でないので、理解が上手くできなかった。
十返舎一九が同寺に逗留し、「続膝栗毛」ほかに、妻子の敵討ち絵物語「御法花(みのりばな)」を執筆している。山岳歴史小説のなかで、十辺舎を登場させる、そのための取材だった。
「えらく遠いな」
タクシーのなかで、私は心の半分は後悔だった。そして、経緯を顧みていた。
松本市・安曇の取材が思ったよりも早く午前中で終った。このまま東京に帰るのも農がない。午後は前々から多少気になっていた栗尾山・満願寺に行ってみよう、と思い立った。同寺の住職に電話を入れた、
「きょう法要があり。これからいらしゃられても、私は出かけますから」
住職は不在なら、話しも聞けないし、行っても仕方ないな、と思いながらも、
「十返舎一九が訪ねた寺ですから、お寺の情景だけでもスケッチしたいので……」
と咄嗟にそう答えた。
風景は写真をみて書くのと、現地でからだで感じて書く描写とは、筆の運びがちがいますので。そんな風にも説明した。
「それなら、どうぞ。わたしはいませんが」
住職からそう言われた。
(行くといった以上は、止めるのも気が引けるな)
私は写真をみて風景を描写もすることは極力避けている。なぜならば、カメラマンのフィルターを通しているし、実際には見ていないから、やたら細かい描写となり、文章が間延びしてしまうからだ。(簡素で明瞭でなくなる)。
現地をみて強く印象に残ったところを書けば、情景がポイントを点いているし、ある意味で立体感、奥行きの描写になる。
同寺は最寄駅から、さほど遠くないだろう、とかつてに思い込んでいた。タクシーのメーターはどんどん上がるし。急斜面の林道を登っていく。お寺の標高が900mと後で知った。(東京・高尾山なみ)。
「無駄かな。十返舎一九の目線で見る必要があるし」
この想いでも行動してみる。意外な展開が開けてくることがある。とにかく現地を知ることだ、と鼓舞した。
タクシー代は、3000円を越えていた。帰路を考えると、ずいぶん高い描写だな、と思った。山登りのつもりで、帰りは節約で駅まで歩くかな、という思いもあった。
寺の外観を見てまわった。微妙橋(びみょうばし)をさがした。丸い形状の太鼓橋)の底板には108の梵字を書かれている。
ここらも作品のなかで織り込むかな、と考えていた。
同寺の庫裏のベルを押してみた。細君が現れたので、「少しお伺いしたいのですが」と取材を申し出た。
「住職が打合せからもどり、いま在宅しています」
ここまで来た甲斐があるな、とうれしかった。
十返舎一九が同寺の関わりを聞いた。さらに、当時の住職の名まえ、逗留時のエピソードなども聴くことができた。当時の事情から、隠居部屋が十返舎に提供されていた、と知った。
寺のまわりは樹木が多い茂り、景観はあまりよくない。もし現地を見ていなければ、きっと風光明媚な寺だと書きかねない。
この点だは江戸時代も樹木が茂り、同様だったはずですよ、と住職が語る。隠居部屋からは、唯一、松本城は見えていたはず、と位置的な状況も教えられた。
「先代の住職が松本の古本屋から、偶然見つけたのです」
住職から、奥から『続膝栗毛』の実物を持ってきて見させてくださった。東京・神田でなく、松本で見つけられたのですか、と私は念を押して聞いてみた。
「そうなんです。松本なんです」
住職も、それを知ったときおどろかれたようだ。
住職の関わる葬儀が夕方6時からであり、私は最寄駅まで車に乗せてもらえた。
「こういうこともあるんだな。取材はやはり行ってみると、思わぬことがある」
足で書くのは報道だけでなく、小説も同じ。その考え方を持っているが、まさに、予想外の収穫だった。
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