広島藩は徹底して、第二次長州征伐(幕長戦争)を反対した。
「第一次長州征長で、禁門の変に端を発した、長州問題は解決済みだ。幕府が二度も戦いに挑む必要はない。正当な理由もない。こんな内戦などしていたら、欧米列強に日本は植民地化される。長州も、薩摩も外国と戦って負けているではないか。この戦争は止めるべきだ」
広島藩の藩主・世子と、執政(家老)・辻将曹、野村帯刀らが大反対を唱えはじめたのだ。
京都においては応接係が天皇へ働きかける。大阪では、徳川家茂将軍へと、老中を通じて建言を出す。総指揮の老中・小笠原壱岐守が広島に来ているので、何度も長州征討の反対を言う。
さらには、岡山藩、鳥取藩、池田藩などにも反戦運動の仲間に巻き込む。
辻と野村は幕府の目や圧力を恐れていなかった。ともかく、戦争回避へと動いた。
全国の諸藩は広島藩の成り行きを見ていた。やがて、薩摩藩の大久保利通が、この広島の動きを見て、大阪城の老中に対して出兵拒否をしたのだ。
「海舟日記」にも、広島藩の反対運動のすさまじさが記載されている。
小笠原老中が怒って幕命だといい、辻将曹、野村帯刀を謹慎処分にした。すると、頼山陽の流れをくむ・藩校の学問所の有能な若者(現役・OB)たちが怒り、城下の小笠原老中の宿舎を焼き払い、暗殺すると予告したのだ。そうなると、井伊大老暗殺以来の、重大な事件になる。
広島・浅野家は、赤穂浅野の親藩であり、赤穂浪士の討ち入りもあった。こんど小笠原老中の殺害に及べば、浅野家はいかなる結果になるかわからない。
「ここは広島から退去してください」
浅野藩主がみずから小笠原に言い、彼は宇品港から軍艦に乗り、小倉へと逃げていったのだ。
広島藩は正式に出兵拒否をした。薩摩も出兵拒否しているから、各藩の寄せ集め部隊など士気は上がるはずがない。長州に勝ったところで、報奨などないし。
長州に軍艦を差し向けた諸藩も、大砲を撃てば、それだけ経済的に損をする、藩財政の圧迫になるから、軍艦を沈めるな、極力、大砲の弾を撃つな、という考え方だ。
これでは幕府が勝てるわけがない。
将軍家茂が死ぬと、それを理由にして休戦し、和平交渉が行われた。慶喜は仕掛けることはやるが、後始末は苦手で、海軍奉行の勝海舟に押し付ける。広島・宮島が交渉の場になった。幕府と長州との間で、中心になって動いたのが広島藩の辻将曹だった。
「こんな幕府はもう将来がない」
勝海舟と辻将曹の共通認識になった。
幕府と長州藩の和平交渉を成功させたあと、辻将曹がその勢いで、大政奉還運動へとエネルギーを使いはじめたのだ。やがて、薩長芸軍事同盟が成立し、軍事的な圧力で、慶喜将軍に大政奉還を迫ったのだ。
大政奉還後の挙国一致(徳川の藩主たちも含まれる)になった。薩長の下級藩士たちは政治の実権が取れない。
「西郷隆盛を中心とした軍事クーデターが起きるかもしれないぞ。薩長の下級藩士たちが政権の座を狙っている。かれらは京都の新御所政権を継続させる気はない。おおかた天皇を京都から連れ出し、別の場所で新たな政府を作るかもしれない。御所はしっかり守れ」
辻はそう認識していた。だから、とくに広島藩の藩士たちには、
「西郷には動かされるなよ。偽の勅許を平気で出させる男だからな。それも心得よ」
と楔(くさび)を打っていた。
辻将曹は小松帯刀とは親密だが、おなじ薩摩でも、討幕派の西郷隆盛にはたえず警戒心を抱いていた。さかのぼれば、第一次長州征討で、西郷が広島城下にきた時から、この男は和平を望まず、戦いで決着をつけたがっていると見抜いていた。その折には幕府側参謀・西郷と長州藩との間に割って入り、辻は話し合いで幕長戦争を回避させた経緯がある。
実際に鳥羽伏見の戦いが実際に起きた。これは軍事クーデターだった。松平容保らが5、6人の家臣とともに大阪から京都・御所へ直訴にくればよかったのだ。しかし、容保は幕府軍・会津桑名1000人以上の軍隊を引き連れて京都に上ってきた。
これは禁門の変を起こした、かつての長州藩と同様のミスだった。
薩長の下級藩士たちの思うつぼだった。
「待ってました」
とばかりに、西郷隆盛は会津・桑名軍に攻撃を命じたのだ。もし、松平容保が5、6人連れならば、鳥羽伏見の戦いはなかっただろう。
西郷にすれば、禁門の変、鳥羽伏見の戦いと、二度も京都で戦った、武闘派の人物だ。西洋式訓練を受けた軍人で、幕府側を攻撃する。
広島藩はまったく動かなかった。薩摩軍や長州軍から、芸州藩の岸九兵衞(きしきゅうべい)隊長に参戦を促しにきた。岸は399人を引き連れていたが、一発の銃も撃たせなかった。
「御所を守る皇軍だ。西郷たちの軍隊ではない」
ちなみに、岸九兵衞は辻将曹の実弟である。
この後において戊辰戦争が始まる。広島藩はここでも藩士を出さなかった。農兵・神機隊に、十数人の藩士が飛び込み自費で臨んだ。彰義隊の戦い、相馬・仙台藩の戦いに挑んでいる。
広島藩としては動かず。明治政府は、神機隊の船越洋之助と池田徳太郎を県知事にしただけである。
恥部を握る浅野家の藩主や重臣は、明治政府のカヤの外に置かれた。会津落城(開城)の翌月には天皇を東京行幸で、江戸城に連れて行き、明治軍事政権を作ったのだ。戦いを嫌った広島藩の重臣で、この政府に入りたがる人物はいなかった。
勝者が歴史を創る。薩長が都合よく日本史の教科書を作った。倒幕の主体が薩長芸なのに「薩長土肥」に変わり、そして幕末史から広島藩は消えていった。
江戸時代は260年間は海外と一度も戦争しなかった。平和裏に大政奉還がおこなわれた。しかし、戊辰戦争から、日本は変わった。富国強兵の政策と徴兵制で10-20年ごとに海外と戦争をする軍事国家に膨張していったのだ。
最後は広島に原爆が落ちた。アメリカは戦争を止めさせるためだったという。その議論は別にしても、幕末には戦争を回避しようとした、執政(家老)・辻将曹が広島にいたのに……。
あえていうと、広島に原爆が落ちて、広島城も、武家屋敷も、大半の幕末資料も焼けてしまった。でも、全部の広島藩の史料が消えたわけではない。ていねいに掘り起こせば、土佐がねつ造した「船中八策」を否定する資料も、、薩長が封印したかった資料も残されているのだ。
勝海舟は、幕末には全国を見渡してもろくな家老がいなかったけれど、辻将曹は卓越した能力で、特に優秀だったと語っている。