「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(5)
阿部正弘(福山城主)は25歳にして老中職に就き、その重職を14年間もつとめた。その実、寺社奉行だった阿部は、本来ならば登用ルートとして、京都所司代、大阪城代へと進むところ、徳川将軍が大抜擢をしたのだ。
鎖国を継続するか。開国するか。国を託するには、若き老中首座の阿部しかいなかったのだ。かれはとてつもない未曾有の国難を乗り切る要職におかれた。幕藩体制を超えた「挙国一致体制」以外に方途はしかない。それが “若き宰相”の阿部の判断だった。
かれの人材登用の才能は、けた違いに優れている。
江川英龍はもとより、川路聖謨、筒井政憲、岩瀬忠震、大久保忠寛、堀利煕、松平近直、伊沢政義、永井尚志、勝海舟といった面々を勘定奉行や外国奉行などに抜擢し、活躍の場を与えている。さらには封建制度の枠組みを超え、土佐の漁民ジョン万次郎までも直参旗本として取り立てている。
これら人材をもとに、外国と戦争をすることなく、和親条約と修好通商条約へと日本の国際化へと路線を敷いたのだ。
この間に、阿部はこれまでの老中とは違って、徳川将軍に媚(こ)びず、外様大名にまで幅を広げて意見を聴取している
これは徳川将軍の独裁主義からの脱却であった。「挙国一致体制」最も理に叶った、現実的な仕組みへと、阿部は大きく転換させ、ほぼ誤りなく対処した。
平和裏に国交を開いた、有能な若き宰相だと私は考える。
明治に入ると、戦争国家となった。はたして一般庶民は幸せだったのか。『倒幕から数えて77年しか持たない軍事国家だった』。そこには数千万の死者(国内外)を出す、悲惨な道があった。
こんな国に誰がしたのだ。
現代でも、明治維新で英雄だと持て囃(はや)されている人物たちだ。外国人とみれば殺す。薩摩や長州の攘夷派、500人のロシア人を殺せ、と阿部に迫った老獪(ろうかい)な水戸斉昭からの攘夷思想に染まった連中である。
近年でも、学者、小説家、演劇人も映画人らは「尊王攘夷」が正しかったと描く。他方で、若き老中首座の阿部の開国は無能だったとする。
誰がどう考えても、外国と敵対する道は決して良くない。尊皇は認めても、攘夷は評価してはいけない。明治政府の「挙国一致」は徴兵制であり、最悪の軍事国家への道筋だったのだから。
江戸時代は封建制度だ、士農工商だ、と一刀両断で斬るべきではない。日本人が260年間も戦争のない、自慢の国家だった。平和主義・人道主義を再認識するべき。阿部などは誇りとすべき人物だろう。