歴史の旅・真実とロマンをもとめて

北アルプスの新街道に情熱をかけた人(中)=岩岡伴次郎と飯島善三

 北アルプスは登るだけでも難儀だ。そこに街道を通す。難工事がかんたんに想像できる。

 信濃大町の大きな庄屋・飯島善造は、信濃大町から針ノ木峠(標高約2800m)を越え、黒部川に橋をかけ、立山(標高約3000m)を越え、富山まで道路を完成させた。幕末期から計画を立て、明治に入ると、松本藩と富山・加賀の双方に許可をとった。
 緻密な計画と設計と、膨大な人員の投入で2年間で完成させた。新道は越中から牛馬で塩を運ぶ道となり、日本初の有料道路だった。

 しかし、冬場は雪崩や土砂崩れで、メンテナンス費用の調達が難しく、完成からわずか2年で廃道に追い込まれた。そして、飯島家は破産してしまった。
 それから150余年が経って、新たに黒部アルペンルートとして蘇(よみが)えってきた。いまは立山、針ノ木峠はトンネルで抜けられる。

 私が今から10余年前に、長野県大町市の飯島善造りの子孫に取材した。電話で取材を申し込んだ当初、御主人は電力ダムに勤務する技術屋だった。

「私は歴史はなにもわからないんですよ。養子にきた善造が、新道作りで庄屋を破産させて、座布団が数枚しか残らなかった、という言い伝えしか聞いていません」
 と拒絶された。
 そこは厚かましく粘り、あえて大町市の自宅にお伺いした。

 1時間ばかり夫婦の話に耳を傾けた。電話の通り、なにも新しい情報がなかった。ほぼ雑談だった。
「納屋の奥に、むかしから長持ち(約1.2m)が2つありました。何が入っているか、知りません。子どもの頃から明けたことがありませんし。作家の方がくるので、とりあえず、別室に出しておきました」
 と案内された。

 長持ちを開けてビックリした。アルプス越えの新道開削の資料がびっしり詰まっていたのだ。設計図、人足の延べ人数、黒部川に架けた橋の設計図。富山側からの掘削の費用や延べ人員。さらには新街道に沿った旅館開業や宿賃、通行券、各種の看板の資料が目一杯詰まっていた。
 さらには江戸初期の検地の史料までも残されていた。

「150余年、密封された長持ちを開けて、空気に触れてので、専門家による保存をする必要があります」
 私は子孫の方と、その日のうちに、「大町山岳博物館」に出向き、学芸員の方に事情を説明し、文化財として保護をお願いした。
 数か月後、520点余りが大町市の指定文化財になりましたと連絡がきた。その新聞発表の記事が私のもとに送られてきた。無事保管で、安堵したものだ。

 歴史小説の取材をしていると、随所で、思わぬ発見がある。過去の作家が知りえなかったと思うと、灌漑を覚える。
 飯島善三の史料は私の経験のなかで、最大の発見だった。

北アルプスの新街道に情熱をかけた人(上)=岩岡伴次郎と飯島善造

 江戸時代には偉人が多い。一つの目標に人生をかける。命をかける。
 歴史小説の取材をしていると、それら偉人が思わぬところで結びついたりする。信州の庄屋・岩岡伴次郎が造った飛彈新道と、大町の庄屋・飯島善造が作った「信越連帯新道」だ。ともに北アルプスの2座を越える、大工事だった。
 完成後、ともに自然の威力に負けて廃道になり、波乱に満ちている

 岩岡伴次郎の新道から紹介しよう。
 文政3(1820)年から天保6(1835)年にわたり、信州(長野県)の安曇~上高地~飛騨(岐阜県)の飛騨の上宝村を結ぶ、飛騨新道(別名・伴次郎街道)が作られた。
 伴次郎は二代にわたり長い歳月をかけて新道を開削した。そして、上高地に湯屋(旅館)を開業した。ここから問題が起きた。肝心の飛騨側の工事許可が取れなかったのだ。
 飛騨は幕領で、郡代(勘定奉行が任命した者が江戸から赴任する)が為政者だった。実質、20万石以上を支配する。
 郡代がなぜ7年間も許可を出さなかったのか。そこが小説的な好奇心だった。調べるほどに、飛騨の18年間に及ぶ悲惨な百姓一揆「大原騒動」が、底流においてかかわっていた。
 第19代郡代・大井帯刀永昌(ながまさ)は、歴代の郡代のなかで、とくに有能だった。松本藩と連帯で、幕府に自責で申請したのだ。

 岩岡伴次郎(英棟)、2代目・英総、3代目の英勝たち3代は、約41年間にわたり北アルプスに情熱をかけた。命を懸けたといっても、決して大げさではない。
 完全開通から26年間が経った。飛騨新道は暴風雨で破損し、通行不能となった。文久元年(1861)年には新道の歴史に終止符が打れたのだ。

 ことし(2014)9月30日に、伴次郎の子孫である岩岡弘明さんを訪ねた。かつて3代にわたる資料が行李(こおり)2個があったらしいが、火事で消滅したと話す。
「このままでは、岩岡家の歴史が消えてしまう」
 そう考えた弘明さんは、関係者の証言や資料を収集し、限定私家版『飛彈新道と有敬舎』を出版されていた。
 筆者のひとり植原脩市さんも、この日、同席された。飛騨新道と播隆上人(槍ヶ岳初登頂)について、私が用意した質問に数々応えてくれた。

 播隆上人は北アルプスの名峰・槍ヶ岳を初登頂し、信者たちが登れる山にした(開山)。「播隆を最も支えていたのが、野沢村の務台家ですよ」
 弘明さん、脩市さん、ともに口をそろえていた。

 歴史小説では、岩岡家3代の波乱万丈の生き方、山に対する情熱と、播隆とは深い人間な関わりをもった務台家を立ち上げていく執筆をしたい。

写真:植原脩市さん(左)、岩岡弘明さん(右)

                                     【つづく】

日露和親条約からみた、阿部正弘(下)=明治政府が偽った評価

 明治政府は尊皇攘夷派の志士の視点から、老中首座(当時の内閣総理大臣)の阿部正弘の評価をことさら低く行っている。
 教育の力は怖ろしい。学者や歴史小説家の多くは、幼い頃に学んできた、政府発表をことさら信じている。そのまま歴史観にしている。
『大平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず』
黒船の川柳すら信じている。この川柳は無意味で、単なる茶化しだ。

 鎖国だからといって、世界の戦争情報にブラインドをかけるバカはいない。英字新聞は西洋の通信技術の発達で、アジアまでかなり早いスピードで情報提供ができていた。正弘は列国の黒船の軍艦の戦力など知り尽くしている。

 だから、ペリー提督が浦賀に来航した、わずか半月後に、正弘はすぐさま長崎奉行に指図し、オランダに黒船を4隻発注しているのだ。(咸臨丸など)。世界が見えて、事前準備していなければ、そんな器用な発注などできない。

 この緊迫した国際情勢の下で、正弘は翌年から、日米、日露、日英と立てつづけに国交を開いた。特に重要視したのが、日露和親条約だ。交渉の結果、国後島、エトロフ島を日本領土に認めさせた。(ロシアはエトロフは自国領だと、とくにこだわっていた)。
 
 明治政府は、危険な攘夷・戦争思想で、10年に一度はみずから戦争した。アメリカ、ロシア、イギリス、フランスと、すべて戦争した。(~原爆投下まで)。クリミア戦争のさなかに、正弘は戦争に巻き込まれずに国交を開いた。
 歴史から学ぶとすれば、水戸斉昭からの尊皇攘夷の志士たちを美化してはいけない。明治政府の要人の軍事思想につながっていく。
 正弘が叡智と正しい判断で、戦争回避の開国だ、と評価するべきなのだ。
 
 正弘の最も高い評価は、戦争なくして、対ロシアに足して、エトロフ島、国後島を日本領として条約を制定したことだ。この実績は大きい。
 一方で、尊皇攘夷派が作った明治政府以降をみれば、外国との領土問題はすべて戦争に絡んでいる。戦争とは庶民が血を流すことである。庶民がかり出されない戦争などない。
 明治政府が作ってきた偽りの開国論、富国強兵の美化の歴史教科書に踊らされて、戦地に行った人たちだ。
 終戦の1945年に立てば、日本列島しか残っていなかった。なんのために77年もつづいた、庶民の血だったのか。
 平和と戦争を考える時、ここらの正しい歴史認識が必要だ。


 21世紀の日露外交交渉の場において、安政の日露和親条約でエトロフ・国後島が日本領だと、ニコライ1世すらも認めて批准したのだと、日本側の強い後ろ盾になっている。
 日本がもし戦争で奪った島々ならば、北方4島の正当な主張などできない。

 1945年以降の内閣総理大臣は数十人も出ているが、誰も北方四島の国境画定はできていない。それと正弘とを比べると、かれの世界的な視野による高い政治指導力が解るだろう。
 老中首座の正弘の適切な評価をできずして、幕末史を語ってはいけない。歴史的な正しい認識ができない、洞察力・推察力がないと自覚するべきだ。

 現代は川柳ブームだ。世の中を風刺しているにせよ、真実の報道だと思えるだろうか。いかがわしい黒船の川柳を真に受けている、お粗末な史家も多い。


 歴史はくり返す。21世紀に入っても、またしてもウクライナ紛争が起きている。北方領土問題は解決していない。ロシアはよく似た状況だ。
「あなたが政治家だったら、どのように北方四島を日本領だと認めさせ、ロシアと平和条約を結びますか」
 阿部正弘を貶(け)す人たちに、そう質問したい。応えられない人は、安政の日露和親条約を勉強した方が良い。むろん、阿部正弘の采配の視点で。

日露和親条約からみた、阿部正弘(上)=明治政府が偽った評価

 このところウクライナとロシア問題のニュースが世界中に駆け回っている。ロシアと日本は、北方領土問題が未解決で、平和条約が結ばれていない。
 大国間どうしが、半世紀以上も国交条約がない不自然さ。解決ができない、日本の政治家の能力が問われる。

 世界中の学生に、1853年の出来事は何か、と問えば、クリミア戦争の勃発と答えるだろう。
 不凍港を求める南下政策のロシア帝国と、黒海を支配するオスマン帝国が激突した。それに英仏が参戦した。近代史上稀にみる、第1次世界大戦前に起きた世界規模の大戦争となった。

 日本人となると、1853年はペリー来航と答えるだろう。老中首座(現代の内閣総理大臣)の安倍正弘が右往左往し、翌年には開国を押し付けられた。そんな優柔不断な正弘の行動だったのだろうか。意図的に歴史をひん曲げていないだろうか。

 同年(1954)、正弘はむずかしいロシアと北方領土問題を解決してみせた。相手はプチャーチン提督である。
 正弘は尊皇攘夷を唱える水戸斉昭を抑え込んで、日露和親条約を結んだのだ。さらに、日米和親条約、日露和親条約、日英和親条約、すべて天皇の勅許をとった。
 斉昭は攘夷思想の元祖なのだ。さらに水戸家は皇国思想だと自負しながらも、天皇の勅許では正弘に完全に無視されたのだ。

 尊王攘夷派の志士が作った明治政府は、正弘の開国の実績を認めたくなかった。攘夷派をコケにした正弘だけに、明治政府は歴史教科書で、偽りの低い評価をした。
『大平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず』
 こんな無意味な川柳すら、教科書で紹介している。

 正弘は老中首座になってから、約10年間、上海・香港で発行されている英字新聞を、オランダ商館に必ず日本に持ち込ませていた。

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江戸時代に、槍ヶ岳に鎖がつけられたのか~=播隆上人を訪ねる

 江戸時代には、日本で鉄鎖が作れなかった。その技術がなかった。
 日露和親条約の締結にきた、プチャーチン提督の乗ったディアナー号が、1853年の東海大地震の大津波で大破した。下田から修理のために、伊豆半島の付け根にある戸田(へた)港に曳航中に、富士山の吹き下ろしの突風に遭い、沈没してしまった。

 私は今、それを素材にした歴史小説を執筆中である。
 一方で、天保の信州の歴史小説を書くために、長野と飛騨(岐阜)の両面から取材している。安曇野、飛騨高山、奥飛騨と8月18日-20日まで出むいた。(写真・飛騨高山の陣屋跡)
 ふたつの作品が妙なところで結び付いた。

 501人のロシア人を帰国させてやりたい。老中首座の阿部正弘は、戸田で新造船を作らせてやる、と決めた。このときのドラマがある。
 水戸斉昭は攘夷(じょうい)論のかたまりで、「元寇以来の神風が吹いた。ロシア船を沈めてくれたのは、神の思し召しだから、500人を皆殺しにしろ」と正弘に迫った。

 それは国際信義に反すると、御三家の意向を突っぱねた。

 斉昭はこんな狂気の思想だった。「尊王攘夷」の提唱者で、生みの親だ。なんでも薩長で、尊王攘夷が正しい、と思っている人のなかには、斉昭の崇拝者すらいる。
 攘夷とは問答無用で砲撃してしまう戦争理論であり、下関の四カ国砲撃、薩英戦争などにつづいた。第二次世界大戦までも。

 江戸時代のヨーロッパの軍艦には、船体が砲撃された時でも自前で修理できるように、造船技師や設計者が多く乗り込んでいる。母国への道を閉ざされたロシア人は、戸田で建造をはじめたのだ。

 狂気の斉昭を相手にしなかった阿部正弘は、全面協力で、木材、鉄材、銅、むろん人手も含めて最大に協力した。
 黒船来航の時代で、鉄が重要である。江戸から東海道筋の鍛冶屋が、幕府の命令で、戸田に集められた。現地では、鍛冶屋小屋の設備も作った。

 ロシア海軍だから、当時の様子が克明に記録されている。日本の大工は器用で素晴らしい、と讃えている。ただ、鍛冶屋の腕前は旧態としていたようだ。

『船首から鎖(くさり)を下ろし、錨(いかり)をうつのであるが、鉄の輪を製造することは、日本の技術と戸田村の施設ではとうてい不可能で、船の用材として用いた木の根を焼き、「木タール」を作り、これを麻縄に浸透させて「タールロープ」を作り、これをもって代用した』

 幕府が集めた有能な鍛冶屋でも、鉄鎖(チェーン)は作れなかったのだ。それからさかのぼること、1/4世紀(25年前)に、播隆上人の頃、日本で鉄鎖ができていたと思えない。その考えすらも、ありえたか否か?

 私は、できるだけ歴史的な事実に立脚した作品を書きたい。それが私のポリシーである。

 新田次郎著「槍ヶ岳開山」とか、穂刈貞夫著「槍ヶ岳開山」とかがある。作家の勘で、これはあやしいな、調べてみよう、と思うものが出てくる。

 播隆上人の初登頂は素晴らしい。だから、より事実で書いてあげたい。信州側を取材していくと、庄屋の家書には「天保の凶作で、稲が取れなかった。播隆上人が槍の穂先に使う、縄を分けてほしい、と言われたので、一昨年の古いのしかなく、それを差し上げた」と記録に残っていた。
 古い藁でも、ありがたがる播隆上人の姿がより鮮明になってくる。これぞ、あるべき人間の姿だろう。

 しかし、多くの作品は、この後、播隆上人は槍穂に鉄鎖をかけるために、各地を回り、鍋、釜など鉄類を集めてきた。松本藩に鉄鎖を差し止められた。播隆上人の死後に、念願の鉄鎖が槍穂にとり付けられた、と記す。

 幕末の造船技師の大尉や少尉たちが、指導しても、日本人は鉄鎖が作れなかったという事実がある。これに照らし合わせると、播隆上人が鉄鎖の発想をもちえたのだろうか、という疑問になる。
 鉄の輪は一見安全ではあるが、一か所でも外れると、人命にかかわるものだ。拙劣な鉄鎖は付けられない。

 ある書物には、播隆上人のかけた鉄鎖が何者かに盗まれたとある。こうなると、裏付けを消す、虚構の世界になる。
 
『開山暁播隆大和上行状記』(通称・行状記)は明治26年に世に出た。播隆上人の死後、約半世紀以上もたっているし、棚橋智暁→岡山隆応→漆間戒定へと執筆が委託されている。3人の手を回って書いているので、フィクションも加わってくる。小説と同じスタイルになりがち。歴史の真実が曲がったする。

 行状記には疑問の所が随所にある。たとえば、播隆上人の道案内役は中田又重郎となっている。

 江戸時代は庄屋でなければ、名字帯刀はもらえない。又重郎は庄屋ではなかった。松本藩の資料にも、庄屋として存在しない。中田又重郎ではおかしい。
 行状記が史実とするならば、小倉村又重郎、と正確に記するべきだ。

 播隆自身は「槍嶽畧縁起」でどのように表記したのかと、原文を調べてみた。『農夫又重郎』だった。播隆自身の表記にするべきだった。

 歴史小説の執筆は、ちょっとした疑問から、途轍もなく真実に近づくことがある。だから、時間もかかる。権威者・著名作家の名に惑わされない。どこまでも、歴史の真実を掘り起こしていく。それが私の仕事だ。

 

安曇野に学ぶ「土木技術史」=水を制する者、国を制する

 長野県・安曇野(あずみの)は、かつて北アルプス山麓の広大な原野だった。古代から急峻な山が崩れ、その砂礫が厚く堆積した大地である。結果として、上高地から流れてくる梓川の水が、安曇野に入ると、途中で水が消えてしまう。川底から地下に水が消えるのだ。

 水が枯渇すれば、田畑の耕作に甚大な影響がでる。農家の近隣、村単位、上流と下流とで水争いが絶えなかった。

 村人や松本藩も、なんとか奈良井川の豊富な水量を広域で分け合うことができないだろうか、と考えてきた。それには川を中流で堰(せ)き止め、真横に水路を造り、水を村々で分け与えよう、と計画された。砂礫の原野に川を通す。その治水は簡単ではない。

「水を制するものは国を制する」
 戦国大名や江戸時代の為政者たちは、叡智(えいち)を集め、治水に膨大な資金をつかってきた。それでも、川は氾濫を起こす。人間は自然を力で制圧できない。
 武田信玄の信玄堤など特殊な方法らしい。


 江戸時代の後期、1816(文化13)年に、安曇野に十ケ堰(じっかせき)ができた。その調査・測量などには26年間を要している。
 総延長は15キロで、等高線に添った、ほぼ水平・真横に流れる川を造ったのだ。勾配は約3000の1。3キロ進んで、わずか1メートル下がるだけだ。
 槍ヶ岳が標高3180メートルだから、横倒しにして1メートル下がっているくらい。超精巧な川である。おどろくことに、計画に26年間を要し、工期はわずか3か月である。述べ6万7000人の人手を使ったという。

 十ケ堰が完成すると、安曇野は米や作物は豊富になり、藩外に売れるほど10か村が潤った。

 
 現在も十ケ堰は現役だ。実にゆるやかに水が流れる。江戸時代に、どんな風に川が出来上がったのか。人間はどのように水(自然)と戦ってきたのか。それを歴史小説で書くことになった。

 十ケ堰の功労者は数多くいるようだ。庄屋の中島輪兵衛がくわしい記録を残している。図書館で見てみた。文系の作家にはとても理解できない。
 歴史小説でも、事実にそくした面が必要だ。河川工学とか、土木工学とか、専門知識がないと執筆などできない。ここから勉強することに決めた。


 私は知識を得るために、8月14日、長瀬龍彦さん(都市環境エネルギー協会の専務理事)を訪ねた。そして、3時間にわたり「土木技術史」のレクチャーを受けた。ボードに数式を書いて、実例で教えてくれる。

 水は真正面から腕ずくで抑えない。水は自然の原理しか動かない。

 水は液体だが、零下になれば、氷で個体になる。温度をあげれば、湯気で消えてしまう。水は無音だが、高い処から落とせば音が出る。
「水は奥行きの深いな」。それを実感させられた。

下田港でアメリカ家族(男・女)を初めてみた驚き=川路聖謨

 川路聖謨(かわじとしあきら)は、幕末に活躍した人物である。1854(安政元)年に、「日露和親条約」を結び、エトロフ・国後が日本領土と認めさせた。
 大分・日田代官所に勤務する父親の長男で生まれ育った。行く末は勘定奉行(現在の財務大臣)となり、ロシアとの外交交渉の日本代表(外務大臣)にまでなった。身分制度の厳しい中で、旗本の子だった勝海舟よりも、さらに出世したといえる人物である。

 川路聖謨著「長崎日記・下田日記」を読んでいて、くすくす笑ってしまった描写がある。面白いところを抜粋して紹介したい。

 その前に背景を知っておく必要がある。日米和親条約から、ちょうど一年経った頃である。長崎、下田、箱館が開港した。捕鯨船などが薪水で立ち寄ることを認めても、居住は禁止だった。

 条約の内容を十分に理解していないアメリカ商船のカロライン・フート号が、船員の家族ら11人を下田の玉泉寺に預けて、ロシアの傭船として出航してしまった。女性は船長の妻(35)、操舵手の妻(20)、商人の妻・ダハティ(23)である。ほかに子供たち。
 下田奉行は当然ながらカリカリくる。江戸表の幕府は怒る。しかし、強制退去をさせたくても、商船がいないので致し方ない。

 この頃、日露和親条約交渉が下田で行われていた。川路聖謨が最高責任者下田にやってきた。旅日記は誰しも、めずらしい見聞を書き記す。下田日記の後半になると、アメリカ人風紀がかなり多くなる。


・弁天島に参拝した折、境内にアメリカ人夫婦がいた。(川路の)伴の中間が持参していた床几を見て、この夫婦はめずらしがり、中間から借りめと、ふたりはいろいろしたし(坐ったり)、眺めていた。

・この婦人は、容貌美麗、丹花の唇、白雪の膚、衆人の目を驚かし、魂をとばす。

・アメリカ美人は、日曜日と申すに、黒襦子の衣服を着て、大造りのかみかざりをし、顏は人形遣いのごとく布(きれ)を下げ、装っている。ひょうたん型の三弦(ギター?)をひき、歌っている。人間の声とは聞こえず。されど異人は涙を流している。

・アメリカ人(軍艦?)上官が上陸してきた。遊歩(散策)中に、女湯を見て、ふし穴よりのぞき見ていた。

・今日、アメリカ人の美女をみるに、髪黒し。絹で編んだ頭巾をかぶる。瓔珞(ようらく)なるものを下げていた。腰の細きこと、蜂の如し。日本の女の半分もなし。肌は白きに誇りて、紗(しゃ)のごとき着物をきて、肌がみえることもある。

・アメリカ人の男が上陸し、女房と子供を並べ、眺めて愉しんでいた。(子どもの側で)女房の口を吸うので、番人の日本人は大いに驚いていた。

・船大将なのに、アメリカ美人の上着を持ってあげ、その女の首を抱えながら、白昼に、下田の町を遊歩する。(レディーファスト)国風とてみたり。

・玉泉寺に参り、アメリカ人より、立ちふる舞われた。境内のところどころ花をさし、魚とけだものの肉などを煮て、酒を出す。例の美女は、なり物にてさわぎ、踊る。夜四ツ(午後10時)より暁七ツ(午前4時)まで、踊りづめ。よくもくたびれないことだ。

・船が帰ってくると、夫婦は顔を見て、駆けより、抱き合って、いろいろ泣きくどき、人目を少しもはばからず、口を吸う。そのうえ、夫婦手を引きあい、一間の内に入り、戸を締めて出てこず。見るにたえず。

 
 アメリカ人の男女が白昼、堂々とキスしている。川路聖謨は驚き、奇異に映ったらしい。その瞬間の、川路の心理を読みとると、苦笑してしまう。
 一方で、アメリカ美人の賞賛などはイキイキした文章だ。美女を見つめる男の心理は、いつの時代も変わらないらしい。

 長崎言葉の「よかよか」が下田の異人たちに流行り、下田の勤番役人がなにかしら注意しようものなら、「よかよか」と言い、無視されると記している。


 
 

「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(5)

 阿部正弘(福山城主)は25歳にして老中職に就き、その重職を14年間もつとめた。その実、寺社奉行だった阿部は、本来ならば登用ルートとして、京都所司代、大阪城代へと進むところ、徳川将軍が大抜擢をしたのだ。

 鎖国を継続するか。開国するか。国を託するには、若き老中首座の阿部しかいなかったのだ。かれはとてつもない未曾有の国難を乗り切る要職におかれた。幕藩体制を超えた「挙国一致体制」以外に方途はしかない。それが “若き宰相”の阿部の判断だった。

 かれの人材登用の才能は、けた違いに優れている。

 江川英龍はもとより、川路聖謨、筒井政憲、岩瀬忠震、大久保忠寛、堀利煕、松平近直、伊沢政義、永井尚志、勝海舟といった面々を勘定奉行や外国奉行などに抜擢し、活躍の場を与えている。さらには封建制度の枠組みを超え、土佐の漁民ジョン万次郎までも直参旗本として取り立てている。
 これら人材をもとに、外国と戦争をすることなく、和親条約と修好通商条約へと日本の国際化へと路線を敷いたのだ。
 
 この間に、阿部はこれまでの老中とは違って、徳川将軍に媚(こ)びず、外様大名にまで幅を広げて意見を聴取している
 これは徳川将軍の独裁主義からの脱却であった。「挙国一致体制」最も理に叶った、現実的な仕組みへと、阿部は大きく転換させ、ほぼ誤りなく対処した。
 平和裏に国交を開いた、有能な若き宰相だと私は考える。
 

 明治に入ると、戦争国家となった。はたして一般庶民は幸せだったのか。『倒幕から数えて77年しか持たない軍事国家だった』。そこには数千万の死者(国内外)を出す、悲惨な道があった。
 こんな国に誰がしたのだ。

 現代でも、明治維新で英雄だと持て囃(はや)されている人物たちだ。外国人とみれば殺す。薩摩や長州の攘夷派、500人のロシア人を殺せ、と阿部に迫った老獪(ろうかい)な水戸斉昭からの攘夷思想に染まった連中である。

 近年でも、学者、小説家、演劇人も映画人らは「尊王攘夷」が正しかったと描く。他方で、若き老中首座の阿部の開国は無能だったとする。

 誰がどう考えても、外国と敵対する道は決して良くない。尊皇は認めても、攘夷は評価してはいけない。明治政府の「挙国一致」は徴兵制であり、最悪の軍事国家への道筋だったのだから。

 江戸時代は封建制度だ、士農工商だ、と一刀両断で斬るべきではない。日本人が260年間も戦争のない、自慢の国家だった。平和主義・人道主義を再認識するべき。阿部などは誇りとすべき人物だろう。

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「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(4)

『阿部正弘は、黒船の来航に対して何らなすことがなかった。無能な老中だった』
 明治の為政者たちは、老中首座だった阿部を悪くいう。かれの態度が優柔不断で、無能だったと、でっち上げてきた。ここに、明治維新の歴史のねつ造がある
 現代でも、歴史家、小説愛好者はそれを鵜呑みにして、盲目的に信じている。

 もし、首席老中の阿部が開国を導くのに、独裁的な決定をしていたならば、それこそ日本は最大の不幸だった。
 阿部暗殺が起きるだろう。国内は騒乱状態になり、どの国とも和親条約を結ばずして、アヘン戦争の二の舞になったはずだ。

  文明開化の象徴の一つに、新橋と横浜の鉄道開通がある。明治政府の快挙だと教えられてきた。それすらも、誤認がある。

 ペリー提督が開国のメリットとして、蒸気機関車の縮小版、地球儀、無電通信設備などサンプリングとして持参してきた。
 当時の先進技術である。日本人は書籍で知識があっても、実物を見るのは初めてである。日本人は真似ることは得意だ。ここから西洋文明の導入が図られはじめた。
 有能な幕府の人材が海外遊学などで学び、外国人技師を数多く国内に招いたのだ。

 攘夷と叫ぶ志士は、かれら外国人の技術者たちの生命を狙っていた。決して英雄ではない。単なるテロリストだ。 だから、明治の新政府の要人となった彼らは、何をしたのか。
 過去の政権を罵詈雑言で罵倒し、いっぽうでは国民の目を欺(あざむ)いた。かれらは牙(テロリスト)を隠し、海外で侵略戦争ばかりやる軍事政権をつくったのだ。

 徳川幕府の老中たちには、高い外交交渉力があった。現代でも学ぶべきものは多い。老中は決して戦争で解決しようとは考えていなかった点だ。平和裏に最大限に誠意を尽くしていた。だから、諸外国は日本で武力を使えなかったのだ。

 誠意とは何か。

 米国のビッドル提督がくれば、鎖国は国論だが、友好的な態度をとった。幕府は大勢の日本人を米国軍艦の見学会に出かけさせた。そのうえ、薪の松5000本、水2000トン、卵3000個、小麦2俵、大根、ナス、ニンジンなど生鮮食品を大量に贈ったりしている。まさしく、誠意ある友好態度だ。

 ペリー提督にしても下田上陸すれば、音楽隊が軍人パレードして見せるなど、じつに友好的だった。ペリー提督すら、日本に戦争をしにきていないのだ。大砲だって、礼砲を打っただけだ。

 日露和親条約の締結に来たロシア・プチャーチン提督が、安政の大地震と大津波で軍艦を失えば、帰国用の船をつくってあげた。
 水戸の徳川斉昭は攘夷の象徴的な存在で奉られているが、ロシア人500人が大津波で難破して沼津海岸に上陸しているから、全員皆殺しにせよ、と叫んだ。まさに狂人だ。

 老中首座の阿部正弘はその主張を正面から拒絶し、造船材と人手をすべて無償で提供した。そして、かれらロシア人たちは妻子のいる母国に送り返す道をとった。この人道的な処置で、ロシアの提督は感動し、北方四島において妥協し、日本の領土として、かれらが帰国する直前に日露和親条約を結んだのだ。

 この阿部老中は無能だと言えるだろうか。

 全員を殺せと言った水戸派の斉昭の思想が、維新志士たちの攘夷思想の根幹となり、明治時代へと受け継がれている。
 冒頭から、征韓論、日清戦争、日露戦争へと海外で戦争をくりかえせば、当然ながら敵がいっきに増えてくる。気づけば、日独伊三国同盟のほかは、欧米・アジア諸国はすべて敵だった。おそろしくも、第二次世界大戦まで続いた。

 軍事国家がいかに脆(もろ)かったか。国内の大空襲、広島・長崎の原爆投下で終った。だから、維新から軍事政権は77年しか持たなかったのだ。
 徳川幕府は260年間も続いた。それは一度も戦争をしなかったから。

「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(3)

 教科書が正しいと信じていた。小説家になり、歴史を深く掘りさげる機会が増えるほどに、明治政府にごまかされていたのか、と思う。教科書や歴史小説を信じてきた私自身はバカだったな。

 私はこのところ開国の時の、老中首座・阿部正弘(福山藩主)にスポットを入れはじめている。
 日米和親条約で固定化した、無能あつかいにされた阿部正弘像はそう簡単に覆らないだろう。私が小説のなかで取り込んでも……、阿部の低い世の認識は変えられないと思う。

 となると、日露和親条約から開封してみよう、と私は思った。他の歴史小説家すら阿部と日露和親条約の流れは手掛けていないだろう。研究者もほどんどいないだろう、という勘だった。

 日露の争いはさかのぼること18世紀頃からで、約100年以上にわたり、松前藩と南下政策のロシアがもめつづけていた。北方四島では戦争すらあった。捕虜交換などもあった。
「北方四島はロシア系アイヌ人の居住地だ」
 それがロシア側の主張だ。21世紀の現在も、ロシアはおなじ考え方だ。

 阿部は日露和親条約で、国後・択捉は日本領としてロシア側に認めさせたのだ。つまり、国境線は択捉島と得撫島との間で確定した。
 日露和親条約がいつ結ばれたか。それが重要になる。1855(安政元)年12月21日に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された。
 日米和親条約の翌年である。つまり、徳川幕府が開国を決めてから、わずか一年で、北方問題が解決できているのだ。
 阿部正弘の素晴らしさは、身分にとらわず有能な人材を多数登用したことだ。ロシア外交の交渉団の人選は、阿部がみずから行った。そして、江戸表から下田港での日露交渉を指図している。

 阿部がいかなる指図を出したのか。それを細かく知りたくなった。そこで5月には福山城を訪ねてみた。予想通り、具体的な史料はなかった。
「道は遠いな」
 私はつぶやいた。

 第二次世界大戦の後、ロシアはサンフランシスコ条約を結ばなかった。それから独自に、日露(日ソ)交渉は行われてきた。どの総理も北方領土問題を解決できていない。

 吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田勇人、佐藤榮作、田中角榮、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一、細川護煕、羽田孜、村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦~、

 これらが束になっても、阿部正弘を越えていないのだ。現代の政治家と比べてみても、阿部がどれだけ有能な政治家かわかる。阿部老中の功績で最大級のものだ。なにしろ、現在でも、日本はこの条約を根拠にしているのだから。

 これだけの事実がありながら、阿部はなぜ評価されないのだろうか。明治政府は開国の最高責任者の阿部正弘を持ち上げたくなかったのだ。明治の政治家たちが小さく見えてしまうからだ。


                                 【つづく】