北アルプスの新街道に情熱をかけた人(中)=岩岡伴次郎と飯島善三
北アルプスは登るだけでも難儀だ。そこに街道を通す。難工事がかんたんに想像できる。
信濃大町の大きな庄屋・飯島善造は、信濃大町から針ノ木峠(標高約2800m)を越え、黒部川に橋をかけ、立山(標高約3000m)を越え、富山まで道路を完成させた。幕末期から計画を立て、明治に入ると、松本藩と富山・加賀の双方に許可をとった。
緻密な計画と設計と、膨大な人員の投入で2年間で完成させた。新道は越中から牛馬で塩を運ぶ道となり、日本初の有料道路だった。
しかし、冬場は雪崩や土砂崩れで、メンテナンス費用の調達が難しく、完成からわずか2年で廃道に追い込まれた。そして、飯島家は破産してしまった。
それから150余年が経って、新たに黒部アルペンルートとして蘇(よみが)えってきた。いまは立山、針ノ木峠はトンネルで抜けられる。
私が今から10余年前に、長野県大町市の飯島善造りの子孫に取材した。電話で取材を申し込んだ当初、御主人は電力ダムに勤務する技術屋だった。
「私は歴史はなにもわからないんですよ。養子にきた善造が、新道作りで庄屋を破産させて、座布団が数枚しか残らなかった、という言い伝えしか聞いていません」
と拒絶された。
そこは厚かましく粘り、あえて大町市の自宅にお伺いした。
1時間ばかり夫婦の話に耳を傾けた。電話の通り、なにも新しい情報がなかった。ほぼ雑談だった。
「納屋の奥に、むかしから長持ち(約1.2m)が2つありました。何が入っているか、知りません。子どもの頃から明けたことがありませんし。作家の方がくるので、とりあえず、別室に出しておきました」
と案内された。
長持ちを開けてビックリした。アルプス越えの新道開削の資料がびっしり詰まっていたのだ。設計図、人足の延べ人数、黒部川に架けた橋の設計図。富山側からの掘削の費用や延べ人員。さらには新街道に沿った旅館開業や宿賃、通行券、各種の看板の資料が目一杯詰まっていた。
さらには江戸初期の検地の史料までも残されていた。
「150余年、密封された長持ちを開けて、空気に触れてので、専門家による保存をする必要があります」
私は子孫の方と、その日のうちに、「大町山岳博物館」に出向き、学芸員の方に事情を説明し、文化財として保護をお願いした。
数か月後、520点余りが大町市の指定文化財になりましたと連絡がきた。その新聞発表の記事が私のもとに送られてきた。無事保管で、安堵したものだ。
歴史小説の取材をしていると、随所で、思わぬ発見がある。過去の作家が知りえなかったと思うと、灌漑を覚える。
飯島善三の史料は私の経験のなかで、最大の発見だった。