歴史の旅・真実とロマンをもとめて

新・温故知新(2)=薩長による「倒幕」は、明治政府の欺まんの造語

 徳川政権は内部の腐敗とか、分裂とかで、滅びたのではない。外国からの侵略でもない。日本人がみずからの判断で、政権を天皇に返上した、大政奉還によるものだ。

 現在でも、德川家はしっかり存続している。德川家は倒れていないのに、なぜ、倒幕なのか。そんな疑問を掘り下げれば、明治政府がつくった教科書の「幕藩体制」なども、まやかしだとわかる。


 学校で教わることは正しい。一般人は教科書をうのみにしやすいから、明治政府は歴史教育を戦争への思想教育につかったのだ。「時は経った、明治の為政者にもはや遠慮することはない」。それなのに、戦後教育を受けてきた私たちは、いまだ過去の歴史教育のうえで教えられているのだ。

 歴史的事実に近いところに、正した方が良い。若者や児童に悪影響を与えないためにも。

 
「德川幕府」の表現は、明治政府による造語である。江戸時代は、「公儀」と呼ばれていた。あるいは「徳川将軍家」である。


 明治政府を擁立した薩長閥の政治家たちは、ほとんどが下級武士である。自分たちを背伸びしておおきく見せるためには、德川政権を悪く言い、攻撃し、罵詈雑言をならべたてた。

「大政奉還で、明治政権ができました」
 これでは大きく見えない。

「公儀を倒した」
 これでも、語呂のおさまりが悪い。

「德川家を倒しました」
 戊辰戦争後も德川家は存続しているのだから、それも不自然だ。(きょう現在も德川家は存続しているし、御三家はどこも倒れていない)

「德川幕府を倒幕した」
 こう自慢げに語るほうが、「鎌倉幕府を倒した」に似通っているから、ひびきが良い。そのためには「德川幕府」という表現が必要だった。

 徳川御三家が德川幕府を構成していた、と多くの人は単純に考えている。厳密にいえば、8代徳川将軍・吉宗は、御三家から将軍を出させない仕組みを作ったのだ。
 それが田安家、清水家、一橋家である。

 わかりやすいところで、「一橋慶喜」であり、水戸慶喜でない。慶喜は水戸家からいったん一橋家に養子に入り、将軍になったのだ。

 この政権は譜代大名の老中支配だった。かれらは数年に一度入れ替わり、なおかつ月当番制だった。老中は世襲でない。実務は旗本である。(現在の霞が関の官僚の仕組みは吉宗が作った)。

 薩長が「討幕した」といわれても、将軍も、老中、いずこの大名も一人も殺されていない。徳川家は尾張も、紀州も、水戸家も残っている。

 やはり、大政奉還で、王政復古で、明治政府ができたのだ。「徳川政権解体」。これが正しい認識である。薩長が武力で討幕した、という大きく見せる表現は間違っている。


 ちなみに江戸時代には、「家」制度で、「藩」という表現は用いられていなかった。明治政府が廃藩置県のために作ったものだ。
 長州藩でなく「毛利家」、薩摩藩でなく「島津家」、たにも「松平家」「德川家」である。支配する大名領は領分(りょうぶん)、大名に仕えるものは家中(かちゅう)、家臣(かしん)などで呼ばれていた。

 山口県人は、なにかと長州藩と胸を張って使いたがる。下関は「長府」、岩国は「吉川」で、萩「毛利」とは別ものである。とても仲が悪かった。
 長府の家臣らに「高杉晋作は殺してやる」と追いまくられている。

 司馬遼太郎は明治の英雄づくり、竜馬を大きく見せるためにも、「長州藩を守る」とか、「長州藩士」とか、書きまくった。面白おかしく小説化している。

 その司馬史観が多くのひとに錯誤を与えている。

 徳川幕府対長州藩の対立構造ではない、間違っている。徳川家と毛利家の「家」の争いである。
 徳川将軍家は、毛利家を改易(取りつぶし)して萩城から追出し、いずこか松平家、浅野家、細川家などの大名と取り換えたかっただけである。

 わかりやすい事例でいえば、赤穂浅野家が改易で、下野国烏山家の永井直敬が入った。赤穂の庶民にはたんに大名が変わっただけである。

 このような「公儀」と「家」の表現で、江戸時代から明治時代の「時の流れ」をみていくだけでも、歴史の真実と欺まんがみえてくる。 

新・温故知新(1)=過去を訪ねて歪曲されていると、知新ならず

 2015年が騒がしく終わる。「戦後70年」と題した、第2次世界大戦の戦争責任問題などがとりあげられてきた。その多くは「満州国」に端を発した、戦争問題に言及している。

 明治維新後から、日本が10年に一度は海外侵略をおこってきた。政治家や日本軍部が「欧米の植民地にならないための施策だった」という擁護論にもつながっている。
 この論じ方は一種のまやかしである。

 もっと遠く、幕末までさかのぼらないと、真の戦争責任は解明できない。

 日本が中国大陸に「満州国」を設立した。他国の領土に、別の国家をつくってよいはずがない。国際連盟の加盟国が総反発した。42か国が非難決議し、常任理事国の日本が脱退し、わが国は経済封鎖された。

 軍部のなかでも統帥部が独走し、当時の政治家はそれを抑えきれず、海軍によるパールハーバーの奇襲攻撃がおこなわれた。軍人・民間人を問わず、国内外に未曾有の大量犠牲者を出してしまったのだ。
 そして、広島・長崎の原爆投下で終了した。

 東京裁判(極東国際軍事裁判)では、真珠湾攻撃を推し進めた海軍関係者は、司法取引したのだろうか、だれも絞首刑になっていない。
 歴史の真の事実はとかく隠されてしまう。


 そもそも、この満州国擁立の思想はいったいだれから出てきたのか。二度と戦争を起こさないためにも、温故知新で、真の探究をするべきである。いつまでも隠していては、将来の日本のためにはならない。

 幕末の軍事思想家の吉田松陰は、毛利家から狂気の思想家だと言い、萩から江戸町奉行に送られた。ちょうど安政の大獄と重なり、処刑された。

 松陰はそれ以前に松下村塾で、、『幽囚録』(ゆうしゅうろく) を教材として、満州侵略を教えていたのだ。
 山縣有朋や田中儀一など長州閥の政治家たちが、松陰の軍事思想をう呑みにし、松陰すら神として祀り、忠実に満州国を実現しようと、武力で展開してきた。

 ことしはNHK大河ドラマで、吉田松陰が放映された。メディアも、山口県側からも、吉田松陰の功績は声高かにいうが、『幽囚録』を発してこない。
「黙っている、教えない」。それは国民にたいして隠していることと同じなのだ。


 幽囚録(ゆうしゅうろく) 現代語訳

『 日が昇らなければ沈み、月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。

 今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ

 その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。』 

                                (写真の部分)


 明治時代に入ると、長州閥の政治家たちは、北海道の屯田兵、千島列島への侵略、琉球の日本支配(廃藩置県で)、征韓論で朝鮮侵略(伊藤博文・長州閥の総理は暗殺される)、そして満州国へ、さらに台湾へ、と松陰の軍事侵略思想どおり実行してきた。
 
 これが第2次世界大戦(太平洋戦争)の諸悪の根幹である。歴史的事実として、日本国民はみな知るべき内容である。

 多くの大人たちはいまや萩に旅し、吉田松陰神社で賽銭を挙げるなど、信条・思想は凝(こ)りかたまっているだろう。

 となると、将来を担う学生たちに、戦争の惨さと、並行して、吉田松陰著『幽囚録』は教えるべきだ。それが温故知新で、なぜ戦争が起こったかと、もっともわかりやすく理解させやすい。

 あえていえば、「幽囚録」にはインドへの侵略思想が入っている。ここらも、ひも解くと、もっと奥行きがでてくる。
 

幕末・海防政策を取材する=韮山反射炉から 『日本人の恥を知る』

 德川幕府が「韮山(にらやま)反射炉」を作ったのに、なぜ『明治日本の産業革命遺産』なのか。萩の城下町は関ヶ原以降、広島から転封された毛利家の家臣団が街をつくったものだ。明治にできた城下町ではない。松下村塾も、徳川時代だ。他にも長崎関連で数々の文明が德川政権時代にできている。

 それなのに、明治時代からのスタートの遺跡にしてしまう。どう考えても、事実を歪曲したひどい話だと思う。

 明治時代の長州閥の政治家たちは、德川関連の歴史教科書をねつ造した。これもひどいものがある。明治政府が10年にいちどの戦争をくり広げてきた。日本人は言いなりで、政府の暴走を止められなかった。『明治日本の産業革命遺産』が明らかに間違っているとしても、「お上に楯(たて)突かない。間違っても、平伏する」。その精神は明治も、平成も、まったくおなじか、と嫌な気持ちにさせられた取材だった。
 

 アヘン戦争後に、当時の徳川幕府はどのような海防政策を取ったか。幕末小説の執筆の一環で、各地をまわり、細かく取材している。それには、伊豆半島の韮山代官だった江川英龍(えがわ ひでたつ)の掘り下げは外せない。

 德川幕府の直轄領は、すべて勘定奉行所の指揮下にあった。郡代、代官とも、江戸から送り込まれた官吏(旗本)である。
 かれらは数年ごとに変わる。ただ、韮山代官は江川家の世襲だった。

 韮山といえば、伊豆半島の付け根の小さな集落である。しかし、韮山代官の支配地域は、伊豆国、駿河国・相模国・武蔵国に、および幕末には甲斐国も管轄していた。石高は5 - 10万石余。思いのほかおおきく関東一円である。

 徳川家康が関ヶ原の戦いなどの恩賞として世襲を与えたようだ。

 天保11(1840)年勃発したアヘン戦争は、イギリス・フランスの列強が武力で、清国を打ちのめした。同じことが日本で起こるのではないか、と德川政権下で、幕府も、各藩も、それを怖れていた。

 国が植民地化されると、どの藩主も、大名家も支配力施政権を失う。最悪はみずからも奴隷になると恐れた。他人事ではなかった。

 おしよせる欧米列強諸国に対抗するためにも、こぞって軍事力の強化が課題となった。攻め入る外国艦船を砲撃できる大砲がとくに必要だった。

 そんな模索ちゅうに、1853(嘉永6)年には、ペリー提督が浦賀に来航した。老中首座の阿部正弘がすぐさま韮山代官・江川英龍に幕府直営の大砲づくりの軍需工場の建築、運営を命じたのだ。


 多くの藩が長崎へ人材を送り、蘭学に通じた学者たちがオランダなど西洋書物から、鉄製洋式砲の生産の研究と図面づくりからはじめた。

 そのひとり江川英龍は、安政2(1855)年に、死去した。跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め、2年後の安政4(1857)年に完成させたのが、韮山反射炉だ。

 このごろ佐賀藩や薩摩藩など、各地に反射炉が作られた。ある意味で、幕府の韮山反射炉よりも優れていたらしいが、現存していない。当時のまま残っているのは、萩と韮山の反射炉のみ。とくに 韮山反射炉は実際に稼働し、大砲を鋳造していたものだ。


 鋳型に融けた鉄を流し込んで、砲を鋳造する。大規模な砲兵工廠があったと記録に残る。だが、現在は反射炉しか残っていない。
 どんな大砲が製造されたか。実物大の大砲が展示されている。銃刀法の関係から、砲身はつぶされていた。

 ことし2015年に、世界文化遺産になった。観光バスできた大勢の見物人が群がっていた。かれらは製鉄知識などみじんも持ち合わせていないから、ガイドにバカな質問やダジャレばかり飛ばしていた。

 歴史をねつ造して世界遺産をきめた政治家にたいしても、疑問すらもたず盲従する見学者たちにもウンザリさせられた。


 世界文化遺産とはなにか。世界に価値ある文化遺産を、世界の人が共有して残そうとするものだ。それには正しい知識の提供がたいせつだ。内容と表記において嘘をついてはいけない。


『アヘン戦争は、植民地主義の欧州の負の財産である』
 かれら列強がアジア諸国へと侵略してくるなかで、徳川政権は必死に植民地回避、海防政策に命をかけてきた。各藩も、こぞって日本列島の沿岸警備に力をつくしてきた。その証しのひとつが、韮山反射炉なのだ。
 これはアヘン戦争という世界史にもからむ重要な遺跡なのだ。単なる日本史の遺跡とはちがう。世界史の重要な史跡なのだ。アヘン戦争に対する日本人およびアジア人の恐怖。世界じゅうから訪ねてくる人たちに知ってもらう。この認識があるべき姿だ。


 安政の開国から15年間も徳川政権はつづいている。アヘン戦争後における未曽有の変動期にできたものまでも、『明治日本の産業革命遺産』と称して、偽りをおしえる必要があるのか。

 おおかた明治政府を大きく見せたいのだろう。だが、世界史まで、折り曲げてはいけない。世界じゅうから、世界文化遺跡を訪ねてくる外国人に、大ウソをつく、背任行為だ。こんな申請をした人物が、日本人のなかにいる。それ自体が実に恥ずかしいことだ。

 
 
 

広島の秋=三滝寺の紅葉で、情感をつづる

 講演で広島に出むいた。雨降る日に、半日の空間があった。広島近郊で静かなところがありますよ、小説の情感たっぷりです。そこで案内されたのが、広島市西区にある「三滝寺」(みたきでら)だった。空海の創建だという。

 四阿で、静かな時間をすごす。

 雨の紅葉は人出が少なく、静寂感が楽しめる。つい情景描写の取材になってしまう。

「雨の音が苔むす岩から跳ね返ってくる。細い沢の音と重なりあう」
 そんな一行文をつくってみた。

「雨霧のながれが、彼女の心をいずこかへ運んでいく」
 いま連載小説の、女性の心理描写と重ねてみた。

 案内してくれた方は筆力があるので、

『今はこうして、土の上にふりつもった落ち葉も、いずれは形をとどめることなく土に戻っていく。身のおきどころがない、この気持ちさえも、あたかもなかったように、いつか消えてしまうのだろう』
  
『自然という力には、神が宿るというが、ほんとうにそうなのかもしれない。先程までの心の痛みも、やわらいでくれたのも、山の神の力なのだろうか』

『そうだ。私は何も思いのこすことなどないのだ。結局、あの人は私のそばにとどまる人ではなかった。しかし、私はあの人を愛しぬいたと思える。私の思いに悔いなどないのだから』

 と詩的な情景文を綴っていた。

『折りかさなる紅葉の陰に隠れるように、赤い帽子をかぶった石仏があった。大人の石仏の横には、おなじ赤い前かけをつけられた小さな仏があった。そっと手を合わせて、2つの仏に祈りつづけた』

 私はあえて石仏を写真に撮らず、その文面だけを貰い受けてきた。私なりに、うまいな、と感動したので紹介してみた。

秋雨前線・大雨の祖谷渓谷(阿波)と、晴れ間の満濃池(讃岐)=同一日

 太平洋気候は台風、春秋の梅雨前線など集中豪雨が多い。一つ台風が来れば、吉野川など河川が大荒れになってしまう。
 片や、瀬戸内海気候となると、夏場にはほとんど雨が降らない。稲作の生育にとって最も水を必要とする真夏に深刻な水不足になる。

 江戸時代、阿波(徳島県)は、年間数回も、大洪水の被害を受けていた。片や、讃岐(香川県)は瀬戸内海気候で、雨が少なく、日照りと旱魃(かんばつ)に悩まされていた。
 

 讃岐山脈(県境の東西に細長い山脈)をはさんで、こうも極端な水問題と対応策に分かれているのか。
 それを実体験で知るために、秋雨前線を狙って取材に出かけた。

 ことし(2015年)9月1日は、徳島地方に、大雨洪水注意報が出された。車で吉野川をさかのぼっていく。眼下の茶褐色の川水は勢いを増している。上流になるほど、V字型渓谷の幅は狭まり、深い谷になった。渓流は轟音の濁流だ。

  
 平家落人の里の祖谷渓谷へとすすむ。曲がりくねった絶壁の道だ。『落石注意』の看板が不気味だ。その数はかぞえきれない。
 車のワイパーが懸命に半円を描く。大粒で叩きつける雨で視界が悪い。ここで落石の被害にでも遭えば、「無謀な取材」だと、メディアのいいカモになるだろう。


 眼下の吉野川は増水している。現代は護岸がしっかりしているが、江戸時代はきっと大洪水だろう。これらの様子を書き取った。

 次なるは香川県だ。
 讃岐山脈を越えた、讃岐(香川県)の雨量はどの程度だろう。あるいは、瀬戸内海地方の讃岐平野だから晴れているかもしれない。
 
 祖谷渓谷から車で、吉野川に沿って下っていく。「三好」という地名から、讃岐山脈へと登っていく。この山脈は東西方向に長く、南北方向には狭い。急角度の急峻な山脈である。

 標高800mほどの山々には雲が厚くかかっている。徳島県側はなおも大雨だ。この山脈で雨が落ちてしまえば、香川県は晴れているはずだ。


 山頂を過ぎると、重い霧と雨がかすれていく。やがて、雲間から青空がのぞく。山脈を下りきると、ふしぎに雨ははなくなり、晴れ間となった。

 

 讃岐地方は古代から、日照り続きの水対策として、溜池(ためいけ)が多く造られ続けてきた。その数は数万か所だという。

 そのなかでも、香川県・満濃池(まんのういけ)は、平安時代につくられた、わが国最大の溜池である。一般には弘法大師が作ったとされている。厳密にいえば、多少、違いがあるとわかった。

続きを読む...

「満願寺」で、驚きの資料を発見する=長野県・安曇野市

 私は大糸線の柏矢町駅で下車してから、タクシーに乗り、常念山脈の裾稜線の栗尾山の「満願寺」に向かった。かつて小笠原時代には藩主の祈祷所(きとうしょ)だった。


 ユニークなお寺ですよ、安曇野の地方で、その年に亡くなった新霊が満願寺に集まる。新盆の遺族は、霊を迎えに行くのです、と地元学芸員から教わっていた。「新霊を迎えにいく」といわれても、地元人間でないので、理解が上手くできなかった。

 十返舎一九が同寺に逗留し、「続膝栗毛」ほかに、妻子の敵討ち絵物語「御法花(みのりばな)」を執筆している。山岳歴史小説のなかで、十辺舎を登場させる、そのための取材だった。
「えらく遠いな」
 タクシーのなかで、私は心の半分は後悔だった。そして、経緯を顧みていた。
 
 松本市・安曇の取材が思ったよりも早く午前中で終った。このまま東京に帰るのも農がない。午後は前々から多少気になっていた栗尾山・満願寺に行ってみよう、と思い立った。同寺の住職に電話を入れた、
「きょう法要があり。これからいらしゃられても、私は出かけますから」
 住職は不在なら、話しも聞けないし、行っても仕方ないな、と思いながらも、
「十返舎一九が訪ねた寺ですから、お寺の情景だけでもスケッチしたいので……」
 と咄嗟にそう答えた。

 風景は写真をみて書くのと、現地でからだで感じて書く描写とは、筆の運びがちがいますので。そんな風にも説明した。


「それなら、どうぞ。わたしはいませんが」
 住職からそう言われた。

(行くといった以上は、止めるのも気が引けるな)
 私は写真をみて風景を描写もすることは極力避けている。なぜならば、カメラマンのフィルターを通しているし、実際には見ていないから、やたら細かい描写となり、文章が間延びしてしまうからだ。(簡素で明瞭でなくなる)。

 現地をみて強く印象に残ったところを書けば、情景がポイントを点いているし、ある意味で立体感、奥行きの描写になる。
 
 
 同寺は最寄駅から、さほど遠くないだろう、とかつてに思い込んでいた。タクシーのメーターはどんどん上がるし。急斜面の林道を登っていく。お寺の標高が900mと後で知った。(東京・高尾山なみ)。


 「無駄かな。十返舎一九の目線で見る必要があるし」
 この想いでも行動してみる。意外な展開が開けてくることがある。とにかく現地を知ることだ、と鼓舞した。
 タクシー代は、3000円を越えていた。帰路を考えると、ずいぶん高い描写だな、と思った。山登りのつもりで、帰りは節約で駅まで歩くかな、という思いもあった。

 寺の外観を見てまわった。微妙橋(びみょうばし)をさがした。丸い形状の太鼓橋)の底板には108の梵字を書かれている。
 ここらも作品のなかで織り込むかな、と考えていた。

 同寺の庫裏のベルを押してみた。細君が現れたので、「少しお伺いしたいのですが」と取材を申し出た。
「住職が打合せからもどり、いま在宅しています」
 ここまで来た甲斐があるな、とうれしかった。
 
 十返舎一九が同寺の関わりを聞いた。さらに、当時の住職の名まえ、逗留時のエピソードなども聴くことができた。当時の事情から、隠居部屋が十返舎に提供されていた、と知った。
 
 寺のまわりは樹木が多い茂り、景観はあまりよくない。もし現地を見ていなければ、きっと風光明媚な寺だと書きかねない。
 この点だは江戸時代も樹木が茂り、同様だったはずですよ、と住職が語る。隠居部屋からは、唯一、松本城は見えていたはず、と位置的な状況も教えられた。

「先代の住職が松本の古本屋から、偶然見つけたのです」
 住職から、奥から『続膝栗毛』の実物を持ってきて見させてくださった。東京・神田でなく、松本で見つけられたのですか、と私は念を押して聞いてみた。
「そうなんです。松本なんです」
 住職も、それを知ったときおどろかれたようだ。

 住職の関わる葬儀が夕方6時からであり、私は最寄駅まで車に乗せてもらえた。
「こういうこともあるんだな。取材はやはり行ってみると、思わぬことがある」
 足で書くのは報道だけでなく、小説も同じ。その考え方を持っているが、まさに、予想外の収穫だった。

天保時代の小説イメージ通りの料亭を見つけた、=飛騨高山

 天保時代、飛騨高山に突然、あらわれた左官職人がいる。神田まつりで、喧嘩し、人を刺し、江戸から流れてきたらしい。
 当時も、現在でも、その名を『江戸万』(愛称)とよばれている。これがとてつもない良い腕をもった職人だった。
 
 日本三大美祭のひとつ高山祭り(4月10月・年2回)に訪れたひとならば、絢爛豪華(けんらごうか)な三階建てくらいの台車(山車)を知っているだろう。台車はきっと数千万円(現在価格)するはず。江戸万はその台車を収納する土蔵をつくった人物である。
 現在では、その台車よりも、かれの造った土蔵のほうが文化財的な価値があるといわれている。いまでも、江戸万の土蔵の再現・復旧はできないほど、超高度な技術だったのである。

 わたしが執筆ちゅうの歴史小説には、この江戸万と、かれと駆け落ちした女性を描く予定である。



 このたび取材で、高山の街なかを歩いていると、きわだった風情と情感のある料亭があった。高山市教育委員会の「案内板」には、文化・文政のころからの建築物だと明記されていた。現在は料亭「角正」の暖簾(のれん)をだす。

 江戸万にからむイメージにぴたり。女将さんが客人をお見送り中だったので、そのショットを撮影させてもらった。

 料亭内に入れば、いっそう登場人物のイメージがつかめるだろう。庶民価格を越えているが、これも取材だと、昼食に立ち寄った。ていねいな歓迎を受けた。

 
 文化文政のころ、高山陣屋の出入りする医者が経てたらしい。おおきな屋敷で、中庭の定理はよく、建物内部は重厚な造作だった。

 その後、医者から料亭に持主がかわった。あるじは江戸に出て修行し、腕の良い料理人になった。その伝統が現在もつづく。女将さんや仲居さんから説明を聞くうちに、小説のイメージがより一段と膨らんできた。
 

 美味しいソバをちょうだいし、さらには仲居さんには玄関の外まで、にこやかな表情でお見送りしていただいた。

 なお、江戸万は非業な最期をむかえている。僧侶の駆落ちさわぎに巻きこまれ、中尾峠で刺されて死んでいる。ここら一部史料があるので、歴史小説のなかで描く予定である。

続きを読む...

1000兆円の赤字国債が2倍になった日、天明・天保の飢饉から学べるのか

 いまの日本に天明・天保と同じ規模の大飢饉が来たら、どうするのか。歴史ものの取材をしていると、ついそんな想いがある。「歴史から学ぶ」。ありふれた言葉だが、江戸時代の大飢饉から、学ぶ努力はしていないな、と思う。

 幕末史は面白い。そちらに目が行ってしまう。江戸幕府が破たんしていく根幹は、天明・天保の大凶作から、国民が飢えてしまったからだ。

 現代の日本は1000兆円強の国債がある。一家族当たり1819万円の負債だ。だれが償還できるのか。これが2000兆円になったら、日本国と大赤字国家になる。
「太陽は必ず沈む」
 ある日突然、外国が借金大国の見切りをつける。金は貸さない、貸し倒れになるから。物は売らない、代金回収できないから。
 こうなると、食料がたちまち底をつく。どのように食べていけるのか。草をかじり、樹皮を剥がし。花壇の花も食べつくす。
 
 天明の大飢饉により、米価が高騰し深刻な米不足が起こった。江戸北町奉行の曲淵景漸が「米がないなら、犬や猫の肉を食え」と発言している。これが為政者のことばか、と庶民が怒り狂った、江戸の打ちこわしに発展した。
 現代ならば、さしずめ、コンピューターがあるから、膨大な天文学的な金額の国債が生まれたのだと、官公庁、企業、大学などのサーバー破壊なのか。

 そんなことを考えながら、福井県・越前市の幕府直轄領だった「本保陣屋」の史跡を訪ねた。天保7(1836)年の全国を襲った大飢饉は、悲惨な餓死者を出した。

 越前市だけでも、4000人の餓死者が出た。子どもと老人から死に逝く。道に倒れたこれら死人を片付ける、健常者すらも薄くなっていった。死体は放置された。どの村にも死臭が漂った。

 それは第二次世界大戦で、日本の都市が焼夷弾で焼かれ、町中に死体が転がった光景に似ている。死体が日常化すれば、人間の眼は死人に慣れてくる。それが怖いところだ。

 戦争と貧困は民に劣悪な環境をつくる。だから、為政者は「国民を餓えさせない」「戦争をしない」の2つが最大の目標とならなければならない。

 天保7年。飛騨国のトップは大井郡代だった。出張り陣屋の「本保陣屋」(高山陣屋の飛び地の領地)に約半年も滞在し、飢えた農民の救済に立ち向かった。
 
 郡代(現・県知事)は勘定奉行(財務・金融大臣)の支配下だから、大井郡代はなにするにも江戸の勘定奉行に伺いを立てる義務があった。

 毎日死に逝く人をみていると、伺い書など書いている余裕がない。緊迫化した日々だ。大井はルール違反の切腹を覚悟の上、自己判断で幕府の蓄米を放出し、江戸の私邸の私財も売り払って金に変えさせて福井に送らせた。そして、庶民に米の購入資金に貸し与えた。
 
 村々を回った時に、村役人が良田を見せようとした。「悪い田んぼを見にきたのだ」と叱った。そして、実もついていない稲の田んぼを見て、わが目で判断し、村々の救済を決めていった。

 こんな為政者は諸国を見渡してもわずかだ。

 現代に置き換えてみる。国債を資金に使いまくる政治家が多い。我田引水の理由をつけて、閥、地元へと公共資金を投入させている。いずれくる大恐慌(ハイパーインフレ)が忍び寄っている。
 2000兆円の赤字国家になった時、海外から物資が来ない。私たちは筋肉もない体力もないからだをさらす、皮膚と骨だけの身を路上に横たえる。そして、死んでいく。

 大井帯刀郡代のような、為政者が日本に現れるのだろうか。幕末志士の英雄願望ではきっと解決しないだろうな。かりに作り物の歴史物語そのままの坂本龍馬が出現しても、2000兆円の赤字国家の借金は返せない。解消できないだろうな。

 私たちは歴史から学ぶ。英雄やヒーローからではなく、庶民の生き様から学ばなくてはならない。そんな想いで、天明・天保時代に向かい合って取材している。

富山の人は、金箔を使い放題の金沢が大嫌い

 山岳歴史小説の中で、加賀前田藩の参勤交代を取り扱う。その取材で6月14日、金沢に立ち寄った。
 余談だが、金沢駅のコインロッカー不足にはうんざりした。探しあぐねた末に、いずこも空きがゼロだった。駅員による手荷物預かり所の表示があるが、地図がなく、矢印だけである。それも地下だから解りにくい。挙句の果てには、延々と行列である。
「こんなところに立ち寄るのではなかった」
 そんな思いだった。

 江戸時代の加賀藩は100万石とも、120万石ともいわれる。その城下町の雰囲気は、金沢の町なかに面影を残す。

 江戸幕府はなぜ加賀前田家に約3000人の大名行列を課したのか。豊臣方の巨大な大名だから、德川家に武力で楯突けないように、経済的な疲弊をさせた。
「金がなければ、戦争などできない」
 単純明確な論理である。
 金沢とは別に、富山藩は10万石、大聖寺藩は8万石がある。これら藩すらも別々に江戸への参勤交代を行ってきた。

 大名行列がいかに藩財政の負担になったか。現代で計算してみると、わかり易い。1泊3食を1万円としても、3000万円/1日の経費となる。道中の途中で、川止めなどがあり、3日も行列が進めないとなると、それだけで、9000万円が吹き飛ぶ。まさに無駄な、途轍もない財政圧迫である。

 幕府は、金沢から江戸への最短距離となる、德川直轄領の飛騨国を通させていない。加賀藩の参勤交代はおもに北陸道と東海道の2つのコースがあった。幕府が決めるのだから、前田家はすなおに応じるしかない。
 北陸は親不知など岩壁沿いの細い道がつづく。風雪に遭えば、3000人が足止めになる。東海道の場合でも、よく知られた大井川の川止めなどに遇うと、これまた無駄な経費だ。
 その上、1年は国元、2年は江戸である。江戸屋敷で、生産性のない藩士を生活させるのだから、この経済負担は大きい。質素に1日3000円/1人当たりとしても、1年間32億8500万円である。参勤交代は膨大な出費となった。

 金沢の取材目的は参勤交代だから、学芸員を訪ねる必要もない。金沢城の無料ガイドから話を聞いた。
 金沢城から一度に3000人が出かける、と考えていた私の認識はちがっていた。

 金沢城の河北門から北国街道へと、最初は大名行列の「前触れ」が出立する。そして、殿様の駕籠の本隊が出ていく。藩内の道々で、藩士や郷士が行列に加わってくる。やがて、後触れが追って出ていく。宿場町で支払いなどする役だ。

 加賀藩は德川家に従順な姿勢を常に取りつづけた。大名庭園の兼六園も、藩財政を浪費させる見せかけの造園だった。
 大名行列と言い、武士は稼がないから、すべて農商の年貢で賄われる。 

 金沢といえば、豪華な金箔細工など贅沢三昧だ。武士も町人も金使いの荒い土地柄だ。

 富山の人は金沢を嫌う。理由はかんたんである。富山平野は米が豊富な処であるにもかかわらず、富山藩は10万石(現在の富山市周辺)に押しとどめられた。大部分は金沢藩が支配していた。
「富山の米を奪って、金沢は湯水のごとく金を使っている。貴重な金箔を酒や食べ物に入れて愉しんでいる」
 富山人が怒るのはわかる気がする。
 

続きを読む...

天保時代の槍ケ岳には、地理学者・津田正生が登頂(下)=愛知県


 津田正生の『天保鑓ケ嶽日記』には、津島神社に近い高根村から妻籠宿まで、その道のりの草稿が現存している。津田は地理学者だけに、しっかりした内容だ。
「3日間の資料で、100キロ、毎日30キロ以上歩いているし、津田は健脚だったと証明できます」
 若山さんはみずから、そのルートを歩いてみたから、よくわかると語った。つまり、58歳でも、槍ヶ岳に登れる脚力があったのだ。
 
 『天保鑓ケ嶽日記』は、妻籠宿から先が欠落している。(未発見)。津田は槍ケ岳山頂までどのように登ったのか。ルートや日数は推量しかない。ある意味で、小説の世界だ。

 当時の上高地は、松本藩の林業が盛んだった。杣(そま・木こり)たちが上部へ、上部へと材木を伐り出し、森林限界まで小屋をつくっている。森林はいちど伐採すれば、数十年経たなければ、樹が生育しない。
 現在では想像できないほど、上高地から槍ケ岳は、材木の伐り出しで「はげ山」だったと推量できる。だから、播隆にしろ、津田にしろ、わりに楽に登ったと考えられる。つまり、晴れた日には下から見上げれば、方向もわかるし、ひたすら急斜面を登って行けば、山頂下の肩に辿りつくはずだ。

 播隆上人が槍ケ岳登頂した事実は、松本市の玄向寺に自筆「三昧発得記」(さんまいほっとくき)で遺されている。安曇平の庄屋・務台景邦の記録から、槍ケ岳登山は疑いようもない。
 現代の播隆研究者は、明治26年に発行された棚橋智仙著『開山暁播隆大和上行状略記』(一般に行状記とよばれている)をもとに、播隆の行動を組み立てている。この書を見ると、やたら大げさな表現が多く、猿や熊たちが播隆に平伏する記述があるなど、私にはそのまま受け入れられない。

 庄屋・務台景邦は、「善の綱」の藁(わら)の提供者で、播隆の案内で、天保6年に槍ケ岳に登っている。克明な記録があるが、さほど難儀していない。安曇野から3日間程度で、さらっと槍ケ岳に登って帰宅している。

 現代の槍ケ岳登山とあまり変わらない。ところが、新田次郎著「槍ケ岳開山」は行状記をベースにして難行苦行の物語に仕上げている。本当かな、と疑ってしまう。

 務台景邦の庄屋日記からも、素人でも登れる山だったと知った。高所登山は晴れた真夏に、登るのがふつうだ。なにも悪天候を突いて登る必要がない。まして、はげ山なのだから、見通しのきくルートを選べば、40代の務台景邦のように楽に槍ケ岳に登れたはずだ。現に、播隆は真夏に登っている。

 私はなんども槍ヶ岳に登っている。積雪期にも登った。決して悪天候は突かない。冬山・富士山観測所の勤務関係者だった新田さんは、それを承知しているはずだ。だから、売れる小説のために、播隆神話をつくった、と私は思っている。

 天保4年7月に、津田が本当に槍ケ岳登頂したのか。ここを疑ってみると、津田正生著『天保鑓ケ嶽日記』は、津島(高根村)から妻籠宿までだから、登頂の証明はできない。
 
 愛知県まで訪ねた甲斐があった。登頂を証明できる、津田の短冊があったのだ。

『尾張路を立て日々を重ねて信州鑓ケ嶽とほ登りしに一番に有らず二番と代りしも口惜候也、(略)』

 これだ、と私は思わずつぶやいた。津田は地理学者だから、多々著作は克明に描いている。信ぴょう性は絶大なるものがある。

 津田正生は、一番乗り、と思いきや播隆上人が先に登頂していた(文政11年・1828)。それを知り、悔しがっているのだ。

「津田がなぜ槍ケ岳に登ったのが、二番手だと知ったのか」
 上高地の唯一の湯屋(旅籠)で聞き及んだのか。山頂で、播隆が安置した仏像を見たのか。後者の可能性が高い。
 播隆を描く行状記では、同天保4年に播隆も登っている。津田と播隆が出会った。小説とはいえ、こんなドラマは創りたくない。なぜならば、行状記以外には天保4年の播隆登頂の史料がないからである。
 
 いずれにしても、津田が槍ケ岳に登ったという物証の短冊に出会えた、おおいなる収穫があった、愛知県の取材だった。

 帰路、若山さんの案内で、戦国時代の三英傑の1人、織田信長の生誕地を訪ねた。愛知県・愛西市の勝幡(しょばた)城だった。

 私には広大な濃尾平野の地理勘がないので、ここで生まれたのか、と石碑をしげしげと眺め入った。最近は歴史ブームで、観光のカップルが、信長「生誕の地」を訪ねてきた。若山さんに、あれこれ質問していた。

 私は、「一番に有らず二番と代りしも口惜候也」にこだわっていた。播隆の次の2番目だと捉えず、二番煎じ、と解釈したい。
 津田は、先人には槍ヶ岳登山者はもっと大勢いた、と知りえた。それが記録として残されていない。そんな位置づけで考える自分を発見していた。

 今後研究が盛んになれば、もっと古代から登っていた史料が見つかる可能性はある。難易度の高い剣岳が平安時代に登られていた。「よし、次はあの三角錐の山を登ってやろう」と考えても、不思議ではない。

 山岳歴史小説としては、いまある播隆と津田正生の史料から書くしかない。