新・温故知新(2)=薩長による「倒幕」は、明治政府の欺まんの造語
徳川政権は内部の腐敗とか、分裂とかで、滅びたのではない。外国からの侵略でもない。日本人がみずからの判断で、政権を天皇に返上した、大政奉還によるものだ。
現在でも、德川家はしっかり存続している。德川家は倒れていないのに、なぜ、倒幕なのか。そんな疑問を掘り下げれば、明治政府がつくった教科書の「幕藩体制」なども、まやかしだとわかる。
学校で教わることは正しい。一般人は教科書をうのみにしやすいから、明治政府は歴史教育を戦争への思想教育につかったのだ。「時は経った、明治の為政者にもはや遠慮することはない」。それなのに、戦後教育を受けてきた私たちは、いまだ過去の歴史教育のうえで教えられているのだ。
歴史的事実に近いところに、正した方が良い。若者や児童に悪影響を与えないためにも。
「德川幕府」の表現は、明治政府による造語である。江戸時代は、「公儀」と呼ばれていた。あるいは「徳川将軍家」である。
明治政府を擁立した薩長閥の政治家たちは、ほとんどが下級武士である。自分たちを背伸びしておおきく見せるためには、德川政権を悪く言い、攻撃し、罵詈雑言をならべたてた。
「大政奉還で、明治政権ができました」
これでは大きく見えない。
「公儀を倒した」
これでも、語呂のおさまりが悪い。
「德川家を倒しました」
戊辰戦争後も德川家は存続しているのだから、それも不自然だ。(きょう現在も德川家は存続しているし、御三家はどこも倒れていない)
「德川幕府を倒幕した」
こう自慢げに語るほうが、「鎌倉幕府を倒した」に似通っているから、ひびきが良い。そのためには「德川幕府」という表現が必要だった。
徳川御三家が德川幕府を構成していた、と多くの人は単純に考えている。厳密にいえば、8代徳川将軍・吉宗は、御三家から将軍を出させない仕組みを作ったのだ。
それが田安家、清水家、一橋家である。
わかりやすいところで、「一橋慶喜」であり、水戸慶喜でない。慶喜は水戸家からいったん一橋家に養子に入り、将軍になったのだ。
この政権は譜代大名の老中支配だった。かれらは数年に一度入れ替わり、なおかつ月当番制だった。老中は世襲でない。実務は旗本である。(現在の霞が関の官僚の仕組みは吉宗が作った)。
薩長が「討幕した」といわれても、将軍も、老中、いずこの大名も一人も殺されていない。徳川家は尾張も、紀州も、水戸家も残っている。
やはり、大政奉還で、王政復古で、明治政府ができたのだ。「徳川政権解体」。これが正しい認識である。薩長が武力で討幕した、という大きく見せる表現は間違っている。
ちなみに江戸時代には、「家」制度で、「藩」という表現は用いられていなかった。明治政府が廃藩置県のために作ったものだ。
長州藩でなく「毛利家」、薩摩藩でなく「島津家」、たにも「松平家」「德川家」である。支配する大名領は領分(りょうぶん)、大名に仕えるものは家中(かちゅう)、家臣(かしん)などで呼ばれていた。
山口県人は、なにかと長州藩と胸を張って使いたがる。下関は「長府」、岩国は「吉川」で、萩「毛利」とは別ものである。とても仲が悪かった。
長府の家臣らに「高杉晋作は殺してやる」と追いまくられている。
司馬遼太郎は明治の英雄づくり、竜馬を大きく見せるためにも、「長州藩を守る」とか、「長州藩士」とか、書きまくった。面白おかしく小説化している。
その司馬史観が多くのひとに錯誤を与えている。
徳川幕府対長州藩の対立構造ではない、間違っている。徳川家と毛利家の「家」の争いである。
徳川将軍家は、毛利家を改易(取りつぶし)して萩城から追出し、いずこか松平家、浅野家、細川家などの大名と取り換えたかっただけである。
わかりやすい事例でいえば、赤穂浅野家が改易で、下野国烏山家の永井直敬が入った。赤穂の庶民にはたんに大名が変わっただけである。
このような「公儀」と「家」の表現で、江戸時代から明治時代の「時の流れ」をみていくだけでも、歴史の真実と欺まんがみえてくる。