歴史の旅・真実とロマンをもとめて

またしても式年造替に出会う=奈良・春日大社

 散策気分で、春日大社を訪ねると、第六十次式年造替(しきねんぞうたい)のさなかだった。大イベントだった。
 かんたんに言えば、20年に一度の神社の全面建て替えである。(本殿リフォーム)。だから、神々を祀るものが、仮の場所・建物に移されている。それらが特別拝観できる。(500円)。

  皇室や神職など特別なお方しか拝殿できない内侍殿(ないしんでん)が、建て替え工事ちゅうは見ることができる。国宝、重要文化財が、仮の場所で狭苦しくならべられている。これらがまじかで、皇室の方々とおなじ立つ位置で拝観ができるのだ。

 神社参りの方には、たまらない魅力だろう。全国の信者にはとてつもない、見学のチャンスだとおもう。

 ちょうど60回という実に区切りのよさから、明治維新から140年間も閉ざされていた「後殿後門」が開かれていた。本殿の真後ろにある5つの神社が拝観できた。
「災難・魔除けの霊感新たな神々」と明記されていた。それらの効能・ご利益もさることながら、140年間にして、という文言には惹かれるものがある。
 
 
 私は2013年にぶらり訪ねた、伊勢神宮でも、ぐうぜん式年造替にあたっていた。同神社所有の森の樹木1本1本が、どの年度の式年造替に使うかと印で決められているという。数十年、数百年先までも見据えた森の管理には驚かされたものだ。
 タイミングの問題だとはおもうが、屋根の檜皮葺(ひわだぶき)は見れなかった。

 春日神社の場合は特別公開で、「ずいぶん貴重なものがすぐ側で見られるのだな」と感慨をうけた。伊勢神宮のときよりも、春日大社の方が惹かれる度合いが高かった。冬場で、拝観者も少なく、パネルなども、しっかり読めた。

「満灯籠」を再現した、「藤浪の屋」(重要文化財)は、素晴らしかった。春日大社には奉納された灯籠はおよそ3000基ある。
 2月の節分、8月14、15日の年3回は、すべての灯籠に灯りがともされる。
 それが再現されている。幻想的だった。
 若宮15社巡りなどは、事前に、ネットなどで、どんな神様か知っていると、目的にもかなうだろう。
「知恵を授けてくれる神様」
「開運財産をお守りくださる神様」
「延命長寿をお守りくださる神様」
「ひらめきの神様」

ちょっと愉快だったのは、
「一言主神様で、一言だけ願えれば、かなえてくれる」
 と明記していた。あれこれ頼んではご利益はないかもしれない。

 同社によると、平成28年11月6日に新装になった本殿に、祀る神々が遷宮されるという。まじかになると、大イベントの多くは駆け込みで、にぎわい、満足にみられないのが常だから。特別拝観は、この春、初夏あたりがチャンスかもしれない。

 同社は藤の花が咲けば、見ごたえあるらしい。その見ごろを狙う方法もある。ただ、奈良のひとは知っているだろうから、それもきっと大勢の人出でにぎわうと予測できる。

宇喜多秀家との出会い=奈良・春日大社の第六十次式年造替で

 春日大社の境内は「第六十次式年造替(しきねんぞうたい)」で、吊り灯籠が寄せ集められていた。歴史上に名を馳せた武将たちが寄進しているのだ。それは見ごたえがあった。
 一つひとつ興味ぶかくていねいに見ていった。思いがけずに出会った武将がいる。それは宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)で、なつかしいな、と吊り灯籠のまえでつぶやいた。

 私は30歳代から作家をめざす習作時代がつづいた。純文学にこだわっていた。筆仲間から、ストーリーテーラーだと言われ、エンターのほうがぜったいに合っているよ、そのほうが早くに世に出るよ、と何度も何人からも言われつづけてきた。
「別に売れる作品(商品)を書きたいわけじゃない」
 とかたくなに受け入れなかった。

 たしかに、私は純文学の粘着質な体質ではない。性格的にはこだわりが少なく、きっと合っていないと自分でもおもう。それでも歳月を重ねれば、筆力はあがり、「人間を描く文学」純文学に近づけるだろう、と考えていた。それだけ世に出るのが遅かったと認識している。

 純文学にこだわるなかで、ふいに歴史的な人物を書いてみたいと思ったのが、宇喜多秀家だった。この人物を通して、人間とは何か、それが探究できるとかんがえたのだ。


 秀家は岡山城の城主として、9歳で家督を相続した。毛利征伐で岡山に出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)から、容姿端麗の秀家は気に入られ、養子あつかいを受ける。やがて、かれは秀吉の養女の豪姫(前田利家の娘)を正室とした。

 秀家は、秀吉の天下取りの戦いで数々の戦功を挙げている。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では大将として武勲を挙げたことから、豊臣政権下の五大老のひとり(徳川家康、前田利家らととも)に任じられた。
 名実ともに政権の実力者に名をつらねた。

豊臣と徳川の関ヶ原の戦いは、この秀家が仕掛けたともいわれている。かれは西軍の総大将となった。しかし、豊臣がわは壊滅し、かれは敗走しながら薩摩の島津家へ逃れた。
 3年後に家康に引き渡された。死罪をまぬがれて二人の子息、近侍とともに八丈島へ配流された。


 まさに奈落の底に落ちた武将だった。
 島暮らしが約50年で、83歳で没した。関ヶ原を戦った大名の中では、最も遅くに没した人物である。八丈島の流人の秀家には、前田家の豪姫から援助が続けられていた。

 豊臣の頂点に立った秀家が、流人の恥辱のもとで、約50年間にわたり、生きながらえた。この人物を掘り下げれば、「人間の強さ」、あるいは「生きる目的とは何か」、それが究明できるだろう、と考えたのだ。
 秀家と豪姫と会えずしても、支援物資でつながっている。夫婦とはなにか。それらも掘り下げたかった。
 こうした着眼点で、岡山城までも取材にいった。人物が大きすぎて、私の筆が追い付かず、結果として八丈島に取材にいかずして、断念した経緯がある。

 宇喜多秀家の吊り灯籠を凝視しながら、いまならば、どうだろう、武将としてでなく、人間として書けるだろうか、と私は自分の筆力を考えていた。

新・温故知新(3)=景気対策だと国債をつかう、大塩の乱に学ぶ

 国債発行は途轍(とてつ)もない額になっている。1965年度の補正予算で不況脱出の名の下に、赤字国債を発行し、約50年間で、1000兆円を超えた。
 このまま赤字国債が償還できずにいると、いつしかハイパー・インフレ(超物価高騰)になり、円通貨の価値を失う。
 
 当然ながら、諸外国は価値の下落した国家には、物は売りたくない。そうなると、国際通貨基金などは、おもいきった緊縮財政を要求してくるだろう。

 そこでなにが起こるのか。歴史を庶民の目でみる習慣がないと、私たちがどんな生活になるか、想像もつかないはず。大幅な飢餓社会がくるのだ。と同時に、極度な格差が生まれてくる。
 庶民が苦しめば、苦しむほど、巧く立ちまわり、暴利を得るものがでてくる。「うまく儲ける人間」が背後で政治と結びつくものだ。


 いつも、西郷隆盛、坂本龍馬、山本五十六になったような英雄史観で、歴史小説を読んでいると、ハイパーインフレにたいして、『歴史から学ぶ』という目線は育ってこない。なんら予測できず、極貧の渦中に投げ出されてしまう。

 歴史から学ぶとすれば、「大塩平八郎の乱」がわかりやすい。


 江戸時代の天保8年(1837年)に、「大塩平八郎の乱」がおきた。「島原の乱」から初めての反乱であった。
 大坂町奉行所の与力だった大塩平八郎は、現職時代には不正取締りで、德川家の上層部も連座から、わが身をおびえさせた、凄腕だった。
 その後は、家塾の教育者となり、窮民には書物を売って恵み与えていた。
 やがて、かれは為政者の役人と大坂の豪商の癒着(ゆちゃく)と不正を断罪するために、約300人を率いて反乱を起こし、豪商を襲ったのだ。
 半日で鎮圧されます。大塩は後日、自決する。教科書はまずここらあたりまでです。


 このわずか半日が、德川政権崩壊への幕末史のスタートです。
 ペリー提督がきて幕末史がうごく、というのは明治政府が都合よく、自分たちをおおきく見せるためのものです。それ以前にも、アメリカから通商を求めて、長崎にも、江戸湾の浦賀にも、来航してきています。
 アヘン戦争では蒸気船の軍艦がつかわれています。英国と中国の戦争の内容が、日本にも伝わり、老中も、諸大名も蒸気船の存在を知っていました。
 それなのに、明治政府は、ペリー来航に蒸気船の軍艦2隻が加わっていただけで、日本じゅうが恐怖のどん底に落ちたように、わい曲しています。
 その実、浦賀は初の蒸気船で、武士と庶民の見学者であふれかえり、奉行所はその人の整理に苦慮していたのです。


 大塩の乱は、德川政権を震撼させた反乱です。ペリー提督の浦賀来航よりも、おおきな影響を与えています。
 それはなぜか。
 かれが乱を起こす直前に、大坂周辺に、「村々の貧しき農民にまで、この檄文を贈る。天下の民が生前に困窮するようでは、その国も滅びるであらう。』と、文章を撒(ま)いたのです。

 この『檄文』が諸国に伝わると、折からの大凶作で、農民一揆、打ち壊しが各地で多発したのです。つまり、歴史を変える幹が動いたのです。

 歴史はつねに庶民がつくるものです。慶応3年の庶民の「ええじゃないか」運動は物価高騰のハイパーインフレによる庶民の怒りです。
 第15代慶喜将軍が経済政策に手を打てず、庶民を武力弾圧もできず、天皇への「大政奉還」へと及びます。つまり、外交は強い慶喜が内政のハイパーインフレに屈したのです。

 坂本龍馬がひとり「日本を洗濯する」と言い、英雄として描くのはあまりにも、歴史作家が創作しすぎています。尊王攘夷を訴える志士だけで、巨大な徳川政権が倒れるほど、徳川家は弱くなかった。現在も、御三家は脈々と継続しています。

 現在も、諸外国がハイパーインフレに襲われると、政権のトップが入れ替わっています。

 
 大塩平八郎が乱を起す直前に、『檄文』を教科書でおしえてくれると、日本がやがてくるだろう、ハイパーインフレが庶民をいかにどん底生活に突き落とすか、と温故知新で学べるのです。


大塩平八郎『檄文』を抜粋


『政治にあたる器でない小人どもに、国を治めさしておくと、災害(人災)が起こる。
 年々、地震、火災、山崩れ、洪水その他いろいろ様々の天災(天保大飢饉)が起きて、庶民か飢餓状態にある。それなのに、得手勝手な政治を致し、役人は窮民を救済せず、税金を取り立てることにばかりに熱中している。』


『大坂の金持どもは、諸大名へ金を貸付けて、その利子の金銀ならびに扶持米を莫大に奪い取り、未曾有の有福な暮しをしている。
 餓死していく貧人、乞食もあえて救おうともせず、かれらは山海の珍味を食べ、妾宅等へ入込み、あるいは揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水ごとき飲ませ、振舞っている。』


 大塩は元与力でだけに、鋭く観察しています。


『一般の民が難渋している時、豪商は絹服をまとひ、芝居役者を妓女とともに迎へて、遊楽に耽つている。なんということか。日々、堂島に相場ばかりをもてあそんでいる。堪忍し難くなった。』

 現代でいえば、財閥級の大金持は株、為替、穀物の相場で、もてあそんで儲けている情況です。


『この頃は、米価が高値になり、市民が苦しむ。それに関はらず、大阪の奉行ならびに諸役人どもは、万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに、得手勝手の政治を致している。
 江戸の廻し米を企らみながら、天子(天皇)御在所の京都へは廻米をしていない。それのみでなく、五升一斗位の米を大阪に買いにくる者すら、これを召捕るという、ひどいことを致している。
 むかし葛伯といふ大名は、その領地の農夫に弁当を持運んできた子供をすら殺したという。それと同様に、ヤミ米取締りは言語道断のはなしだ。
 何れの土地(大坂、京都、江戸、どの諸国)であっても、人民は徳川家御支配のものに相違ないのだ。』


 為政者は立身出世、一家の生活を肥やす工夫のみに知恵をはたらかすと、糾弾しています。具体的には、大坂の町奉行(当時は行政・司法の支配者)が、江戸の德川将軍の威光ばかり気にした政治をしているから、大坂の米価が暴騰するのだ。これは人災だ、と大塩は義憤しているのです。

 
『政権を手にしている者は、不正を取締り、下民を救ふべきである。それができなくて、下民を苦しめている。そんな諸役人はまず誅伐し、おごりに耽っている大坂市中の金持どもも誅戮に及ぶことにした。地頭、村方にある税金などに関した、諸記録や帳面類はすべて引破り、焼き捨てる。』

 大塩の怒りはついに頂点に達し、乱の決行へと及びます。


『この書付(檄文)を村々にまわしてほしい。
 騒動が起つたことを耳に聞いたならば、距離を問わず、一刻もはやく大阪へ向けはせ参じてきてほしい。それぞれに金米を分配し、驕(おごる)者の遊金を分配する。それが趣意である。
 器量、才力あるものは無道の者どもを征伐するために、軍役にも使たいのである。』


 半日で鎮圧された大塩の乱ですが、この『檄文』が全国へと流布していきました。農民一揆、打ち壊し、さらには水野忠邦の失政となり、德川政権の土台が崩れてくるのです。
 つまり、農民・庶民は為政者の言いなりにならない、「抵抗する庶民」へと目覚めさせたのです。これが政権破綻へと結びつくのです。

 
 現代の国債がこのさき2000兆円になったらどうなるのでしょうか。政治家は施策で償還できず、一方で国税、地方税の不足から、税の取立てに躍起になってくるでしょう。国際社会の厳しい緊縮要請からも。

 日本国じゅうに失業者が溢れると、生活保護など期待しても、予算がないと門前払い。多少でも、資産があれば、政治家が資産税金、預金税として取り立ててくる。
 ところが、政治の裏の裏を知る人間だけは、それでもうまく生き永らえる。


 ある意味で、大塩平八郎は為政者からみれば、テロリズムです。しかし、庶民の立場で政治を変えよう、政治を正そうとしたことは事実です。
 ハイパー・インフレ(超物価高騰)になっても、小説上の坂本龍馬など出てきません。龍馬は娯楽ものとして認知する、大塩の『檄文』から、私たちの数十年後を考えた方が、「古きを訪ね、新しきを知る」という温故知新になります。
 

 過去の戦争は、赤字国債で軍備を拡張してきた背景があります。
 その歴史的な反省で、『耐えがたきを耐え』と戦後は国債発行をやめていました。しかし、そこから20年経つと、『景気対策だと言い、国債をつかう』国家になってしまったのです。政治家は景気が冷えることをやたら怖れています。他に方法・施策はないのでしょうか。

 この安易さは天保の飢餓・飢饉への災害とおなじで、国家の破産宣告への道へとつながってしまう。
大塩が見立てた『政治にあたる器でない小人どもに、国を治めさしておく』という人災となるでしょう。

 

新・温故知新(2)=薩長による「倒幕」は、明治政府の欺まんの造語

 徳川政権は内部の腐敗とか、分裂とかで、滅びたのではない。外国からの侵略でもない。日本人がみずからの判断で、政権を天皇に返上した、大政奉還によるものだ。

 現在でも、德川家はしっかり存続している。德川家は倒れていないのに、なぜ、倒幕なのか。そんな疑問を掘り下げれば、明治政府がつくった教科書の「幕藩体制」なども、まやかしだとわかる。


 学校で教わることは正しい。一般人は教科書をうのみにしやすいから、明治政府は歴史教育を戦争への思想教育につかったのだ。「時は経った、明治の為政者にもはや遠慮することはない」。それなのに、戦後教育を受けてきた私たちは、いまだ過去の歴史教育のうえで教えられているのだ。

 歴史的事実に近いところに、正した方が良い。若者や児童に悪影響を与えないためにも。

 
「德川幕府」の表現は、明治政府による造語である。江戸時代は、「公儀」と呼ばれていた。あるいは「徳川将軍家」である。


 明治政府を擁立した薩長閥の政治家たちは、ほとんどが下級武士である。自分たちを背伸びしておおきく見せるためには、德川政権を悪く言い、攻撃し、罵詈雑言をならべたてた。

「大政奉還で、明治政権ができました」
 これでは大きく見えない。

「公儀を倒した」
 これでも、語呂のおさまりが悪い。

「德川家を倒しました」
 戊辰戦争後も德川家は存続しているのだから、それも不自然だ。(きょう現在も德川家は存続しているし、御三家はどこも倒れていない)

「德川幕府を倒幕した」
 こう自慢げに語るほうが、「鎌倉幕府を倒した」に似通っているから、ひびきが良い。そのためには「德川幕府」という表現が必要だった。

 徳川御三家が德川幕府を構成していた、と多くの人は単純に考えている。厳密にいえば、8代徳川将軍・吉宗は、御三家から将軍を出させない仕組みを作ったのだ。
 それが田安家、清水家、一橋家である。

 わかりやすいところで、「一橋慶喜」であり、水戸慶喜でない。慶喜は水戸家からいったん一橋家に養子に入り、将軍になったのだ。

 この政権は譜代大名の老中支配だった。かれらは数年に一度入れ替わり、なおかつ月当番制だった。老中は世襲でない。実務は旗本である。(現在の霞が関の官僚の仕組みは吉宗が作った)。

 薩長が「討幕した」といわれても、将軍も、老中、いずこの大名も一人も殺されていない。徳川家は尾張も、紀州も、水戸家も残っている。

 やはり、大政奉還で、王政復古で、明治政府ができたのだ。「徳川政権解体」。これが正しい認識である。薩長が武力で討幕した、という大きく見せる表現は間違っている。


 ちなみに江戸時代には、「家」制度で、「藩」という表現は用いられていなかった。明治政府が廃藩置県のために作ったものだ。
 長州藩でなく「毛利家」、薩摩藩でなく「島津家」、たにも「松平家」「德川家」である。支配する大名領は領分(りょうぶん)、大名に仕えるものは家中(かちゅう)、家臣(かしん)などで呼ばれていた。

 山口県人は、なにかと長州藩と胸を張って使いたがる。下関は「長府」、岩国は「吉川」で、萩「毛利」とは別ものである。とても仲が悪かった。
 長府の家臣らに「高杉晋作は殺してやる」と追いまくられている。

 司馬遼太郎は明治の英雄づくり、竜馬を大きく見せるためにも、「長州藩を守る」とか、「長州藩士」とか、書きまくった。面白おかしく小説化している。

 その司馬史観が多くのひとに錯誤を与えている。

 徳川幕府対長州藩の対立構造ではない、間違っている。徳川家と毛利家の「家」の争いである。
 徳川将軍家は、毛利家を改易(取りつぶし)して萩城から追出し、いずこか松平家、浅野家、細川家などの大名と取り換えたかっただけである。

 わかりやすい事例でいえば、赤穂浅野家が改易で、下野国烏山家の永井直敬が入った。赤穂の庶民にはたんに大名が変わっただけである。

 このような「公儀」と「家」の表現で、江戸時代から明治時代の「時の流れ」をみていくだけでも、歴史の真実と欺まんがみえてくる。 

新・温故知新(1)=過去を訪ねて歪曲されていると、知新ならず

 2015年が騒がしく終わる。「戦後70年」と題した、第2次世界大戦の戦争責任問題などがとりあげられてきた。その多くは「満州国」に端を発した、戦争問題に言及している。

 明治維新後から、日本が10年に一度は海外侵略をおこってきた。政治家や日本軍部が「欧米の植民地にならないための施策だった」という擁護論にもつながっている。
 この論じ方は一種のまやかしである。

 もっと遠く、幕末までさかのぼらないと、真の戦争責任は解明できない。

 日本が中国大陸に「満州国」を設立した。他国の領土に、別の国家をつくってよいはずがない。国際連盟の加盟国が総反発した。42か国が非難決議し、常任理事国の日本が脱退し、わが国は経済封鎖された。

 軍部のなかでも統帥部が独走し、当時の政治家はそれを抑えきれず、海軍によるパールハーバーの奇襲攻撃がおこなわれた。軍人・民間人を問わず、国内外に未曾有の大量犠牲者を出してしまったのだ。
 そして、広島・長崎の原爆投下で終了した。

 東京裁判(極東国際軍事裁判)では、真珠湾攻撃を推し進めた海軍関係者は、司法取引したのだろうか、だれも絞首刑になっていない。
 歴史の真の事実はとかく隠されてしまう。


 そもそも、この満州国擁立の思想はいったいだれから出てきたのか。二度と戦争を起こさないためにも、温故知新で、真の探究をするべきである。いつまでも隠していては、将来の日本のためにはならない。

 幕末の軍事思想家の吉田松陰は、毛利家から狂気の思想家だと言い、萩から江戸町奉行に送られた。ちょうど安政の大獄と重なり、処刑された。

 松陰はそれ以前に松下村塾で、、『幽囚録』(ゆうしゅうろく) を教材として、満州侵略を教えていたのだ。
 山縣有朋や田中儀一など長州閥の政治家たちが、松陰の軍事思想をう呑みにし、松陰すら神として祀り、忠実に満州国を実現しようと、武力で展開してきた。

 ことしはNHK大河ドラマで、吉田松陰が放映された。メディアも、山口県側からも、吉田松陰の功績は声高かにいうが、『幽囚録』を発してこない。
「黙っている、教えない」。それは国民にたいして隠していることと同じなのだ。


 幽囚録(ゆうしゅうろく) 現代語訳

『 日が昇らなければ沈み、月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。

 今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ

 その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。』 

                                (写真の部分)


 明治時代に入ると、長州閥の政治家たちは、北海道の屯田兵、千島列島への侵略、琉球の日本支配(廃藩置県で)、征韓論で朝鮮侵略(伊藤博文・長州閥の総理は暗殺される)、そして満州国へ、さらに台湾へ、と松陰の軍事侵略思想どおり実行してきた。
 
 これが第2次世界大戦(太平洋戦争)の諸悪の根幹である。歴史的事実として、日本国民はみな知るべき内容である。

 多くの大人たちはいまや萩に旅し、吉田松陰神社で賽銭を挙げるなど、信条・思想は凝(こ)りかたまっているだろう。

 となると、将来を担う学生たちに、戦争の惨さと、並行して、吉田松陰著『幽囚録』は教えるべきだ。それが温故知新で、なぜ戦争が起こったかと、もっともわかりやすく理解させやすい。

 あえていえば、「幽囚録」にはインドへの侵略思想が入っている。ここらも、ひも解くと、もっと奥行きがでてくる。
 

幕末・海防政策を取材する=韮山反射炉から 『日本人の恥を知る』

 德川幕府が「韮山(にらやま)反射炉」を作ったのに、なぜ『明治日本の産業革命遺産』なのか。萩の城下町は関ヶ原以降、広島から転封された毛利家の家臣団が街をつくったものだ。明治にできた城下町ではない。松下村塾も、徳川時代だ。他にも長崎関連で数々の文明が德川政権時代にできている。

 それなのに、明治時代からのスタートの遺跡にしてしまう。どう考えても、事実を歪曲したひどい話だと思う。

 明治時代の長州閥の政治家たちは、德川関連の歴史教科書をねつ造した。これもひどいものがある。明治政府が10年にいちどの戦争をくり広げてきた。日本人は言いなりで、政府の暴走を止められなかった。『明治日本の産業革命遺産』が明らかに間違っているとしても、「お上に楯(たて)突かない。間違っても、平伏する」。その精神は明治も、平成も、まったくおなじか、と嫌な気持ちにさせられた取材だった。
 

 アヘン戦争後に、当時の徳川幕府はどのような海防政策を取ったか。幕末小説の執筆の一環で、各地をまわり、細かく取材している。それには、伊豆半島の韮山代官だった江川英龍(えがわ ひでたつ)の掘り下げは外せない。

 德川幕府の直轄領は、すべて勘定奉行所の指揮下にあった。郡代、代官とも、江戸から送り込まれた官吏(旗本)である。
 かれらは数年ごとに変わる。ただ、韮山代官は江川家の世襲だった。

 韮山といえば、伊豆半島の付け根の小さな集落である。しかし、韮山代官の支配地域は、伊豆国、駿河国・相模国・武蔵国に、および幕末には甲斐国も管轄していた。石高は5 - 10万石余。思いのほかおおきく関東一円である。

 徳川家康が関ヶ原の戦いなどの恩賞として世襲を与えたようだ。

 天保11(1840)年勃発したアヘン戦争は、イギリス・フランスの列強が武力で、清国を打ちのめした。同じことが日本で起こるのではないか、と德川政権下で、幕府も、各藩も、それを怖れていた。

 国が植民地化されると、どの藩主も、大名家も支配力施政権を失う。最悪はみずからも奴隷になると恐れた。他人事ではなかった。

 おしよせる欧米列強諸国に対抗するためにも、こぞって軍事力の強化が課題となった。攻め入る外国艦船を砲撃できる大砲がとくに必要だった。

 そんな模索ちゅうに、1853(嘉永6)年には、ペリー提督が浦賀に来航した。老中首座の阿部正弘がすぐさま韮山代官・江川英龍に幕府直営の大砲づくりの軍需工場の建築、運営を命じたのだ。


 多くの藩が長崎へ人材を送り、蘭学に通じた学者たちがオランダなど西洋書物から、鉄製洋式砲の生産の研究と図面づくりからはじめた。

 そのひとり江川英龍は、安政2(1855)年に、死去した。跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め、2年後の安政4(1857)年に完成させたのが、韮山反射炉だ。

 このごろ佐賀藩や薩摩藩など、各地に反射炉が作られた。ある意味で、幕府の韮山反射炉よりも優れていたらしいが、現存していない。当時のまま残っているのは、萩と韮山の反射炉のみ。とくに 韮山反射炉は実際に稼働し、大砲を鋳造していたものだ。


 鋳型に融けた鉄を流し込んで、砲を鋳造する。大規模な砲兵工廠があったと記録に残る。だが、現在は反射炉しか残っていない。
 どんな大砲が製造されたか。実物大の大砲が展示されている。銃刀法の関係から、砲身はつぶされていた。

 ことし2015年に、世界文化遺産になった。観光バスできた大勢の見物人が群がっていた。かれらは製鉄知識などみじんも持ち合わせていないから、ガイドにバカな質問やダジャレばかり飛ばしていた。

 歴史をねつ造して世界遺産をきめた政治家にたいしても、疑問すらもたず盲従する見学者たちにもウンザリさせられた。


 世界文化遺産とはなにか。世界に価値ある文化遺産を、世界の人が共有して残そうとするものだ。それには正しい知識の提供がたいせつだ。内容と表記において嘘をついてはいけない。


『アヘン戦争は、植民地主義の欧州の負の財産である』
 かれら列強がアジア諸国へと侵略してくるなかで、徳川政権は必死に植民地回避、海防政策に命をかけてきた。各藩も、こぞって日本列島の沿岸警備に力をつくしてきた。その証しのひとつが、韮山反射炉なのだ。
 これはアヘン戦争という世界史にもからむ重要な遺跡なのだ。単なる日本史の遺跡とはちがう。世界史の重要な史跡なのだ。アヘン戦争に対する日本人およびアジア人の恐怖。世界じゅうから訪ねてくる人たちに知ってもらう。この認識があるべき姿だ。


 安政の開国から15年間も徳川政権はつづいている。アヘン戦争後における未曽有の変動期にできたものまでも、『明治日本の産業革命遺産』と称して、偽りをおしえる必要があるのか。

 おおかた明治政府を大きく見せたいのだろう。だが、世界史まで、折り曲げてはいけない。世界じゅうから、世界文化遺跡を訪ねてくる外国人に、大ウソをつく、背任行為だ。こんな申請をした人物が、日本人のなかにいる。それ自体が実に恥ずかしいことだ。

 
 
 

広島の秋=三滝寺の紅葉で、情感をつづる

 講演で広島に出むいた。雨降る日に、半日の空間があった。広島近郊で静かなところがありますよ、小説の情感たっぷりです。そこで案内されたのが、広島市西区にある「三滝寺」(みたきでら)だった。空海の創建だという。

 四阿で、静かな時間をすごす。

 雨の紅葉は人出が少なく、静寂感が楽しめる。つい情景描写の取材になってしまう。

「雨の音が苔むす岩から跳ね返ってくる。細い沢の音と重なりあう」
 そんな一行文をつくってみた。

「雨霧のながれが、彼女の心をいずこかへ運んでいく」
 いま連載小説の、女性の心理描写と重ねてみた。

 案内してくれた方は筆力があるので、

『今はこうして、土の上にふりつもった落ち葉も、いずれは形をとどめることなく土に戻っていく。身のおきどころがない、この気持ちさえも、あたかもなかったように、いつか消えてしまうのだろう』
  
『自然という力には、神が宿るというが、ほんとうにそうなのかもしれない。先程までの心の痛みも、やわらいでくれたのも、山の神の力なのだろうか』

『そうだ。私は何も思いのこすことなどないのだ。結局、あの人は私のそばにとどまる人ではなかった。しかし、私はあの人を愛しぬいたと思える。私の思いに悔いなどないのだから』

 と詩的な情景文を綴っていた。

『折りかさなる紅葉の陰に隠れるように、赤い帽子をかぶった石仏があった。大人の石仏の横には、おなじ赤い前かけをつけられた小さな仏があった。そっと手を合わせて、2つの仏に祈りつづけた』

 私はあえて石仏を写真に撮らず、その文面だけを貰い受けてきた。私なりに、うまいな、と感動したので紹介してみた。

秋雨前線・大雨の祖谷渓谷(阿波)と、晴れ間の満濃池(讃岐)=同一日

 太平洋気候は台風、春秋の梅雨前線など集中豪雨が多い。一つ台風が来れば、吉野川など河川が大荒れになってしまう。
 片や、瀬戸内海気候となると、夏場にはほとんど雨が降らない。稲作の生育にとって最も水を必要とする真夏に深刻な水不足になる。

 江戸時代、阿波(徳島県)は、年間数回も、大洪水の被害を受けていた。片や、讃岐(香川県)は瀬戸内海気候で、雨が少なく、日照りと旱魃(かんばつ)に悩まされていた。
 

 讃岐山脈(県境の東西に細長い山脈)をはさんで、こうも極端な水問題と対応策に分かれているのか。
 それを実体験で知るために、秋雨前線を狙って取材に出かけた。

 ことし(2015年)9月1日は、徳島地方に、大雨洪水注意報が出された。車で吉野川をさかのぼっていく。眼下の茶褐色の川水は勢いを増している。上流になるほど、V字型渓谷の幅は狭まり、深い谷になった。渓流は轟音の濁流だ。

  
 平家落人の里の祖谷渓谷へとすすむ。曲がりくねった絶壁の道だ。『落石注意』の看板が不気味だ。その数はかぞえきれない。
 車のワイパーが懸命に半円を描く。大粒で叩きつける雨で視界が悪い。ここで落石の被害にでも遭えば、「無謀な取材」だと、メディアのいいカモになるだろう。


 眼下の吉野川は増水している。現代は護岸がしっかりしているが、江戸時代はきっと大洪水だろう。これらの様子を書き取った。

 次なるは香川県だ。
 讃岐山脈を越えた、讃岐(香川県)の雨量はどの程度だろう。あるいは、瀬戸内海地方の讃岐平野だから晴れているかもしれない。
 
 祖谷渓谷から車で、吉野川に沿って下っていく。「三好」という地名から、讃岐山脈へと登っていく。この山脈は東西方向に長く、南北方向には狭い。急角度の急峻な山脈である。

 標高800mほどの山々には雲が厚くかかっている。徳島県側はなおも大雨だ。この山脈で雨が落ちてしまえば、香川県は晴れているはずだ。


 山頂を過ぎると、重い霧と雨がかすれていく。やがて、雲間から青空がのぞく。山脈を下りきると、ふしぎに雨ははなくなり、晴れ間となった。

 

 讃岐地方は古代から、日照り続きの水対策として、溜池(ためいけ)が多く造られ続けてきた。その数は数万か所だという。

 そのなかでも、香川県・満濃池(まんのういけ)は、平安時代につくられた、わが国最大の溜池である。一般には弘法大師が作ったとされている。厳密にいえば、多少、違いがあるとわかった。

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「満願寺」で、驚きの資料を発見する=長野県・安曇野市

 私は大糸線の柏矢町駅で下車してから、タクシーに乗り、常念山脈の裾稜線の栗尾山の「満願寺」に向かった。かつて小笠原時代には藩主の祈祷所(きとうしょ)だった。


 ユニークなお寺ですよ、安曇野の地方で、その年に亡くなった新霊が満願寺に集まる。新盆の遺族は、霊を迎えに行くのです、と地元学芸員から教わっていた。「新霊を迎えにいく」といわれても、地元人間でないので、理解が上手くできなかった。

 十返舎一九が同寺に逗留し、「続膝栗毛」ほかに、妻子の敵討ち絵物語「御法花(みのりばな)」を執筆している。山岳歴史小説のなかで、十辺舎を登場させる、そのための取材だった。
「えらく遠いな」
 タクシーのなかで、私は心の半分は後悔だった。そして、経緯を顧みていた。
 
 松本市・安曇の取材が思ったよりも早く午前中で終った。このまま東京に帰るのも農がない。午後は前々から多少気になっていた栗尾山・満願寺に行ってみよう、と思い立った。同寺の住職に電話を入れた、
「きょう法要があり。これからいらしゃられても、私は出かけますから」
 住職は不在なら、話しも聞けないし、行っても仕方ないな、と思いながらも、
「十返舎一九が訪ねた寺ですから、お寺の情景だけでもスケッチしたいので……」
 と咄嗟にそう答えた。

 風景は写真をみて書くのと、現地でからだで感じて書く描写とは、筆の運びがちがいますので。そんな風にも説明した。


「それなら、どうぞ。わたしはいませんが」
 住職からそう言われた。

(行くといった以上は、止めるのも気が引けるな)
 私は写真をみて風景を描写もすることは極力避けている。なぜならば、カメラマンのフィルターを通しているし、実際には見ていないから、やたら細かい描写となり、文章が間延びしてしまうからだ。(簡素で明瞭でなくなる)。

 現地をみて強く印象に残ったところを書けば、情景がポイントを点いているし、ある意味で立体感、奥行きの描写になる。
 
 
 同寺は最寄駅から、さほど遠くないだろう、とかつてに思い込んでいた。タクシーのメーターはどんどん上がるし。急斜面の林道を登っていく。お寺の標高が900mと後で知った。(東京・高尾山なみ)。


 「無駄かな。十返舎一九の目線で見る必要があるし」
 この想いでも行動してみる。意外な展開が開けてくることがある。とにかく現地を知ることだ、と鼓舞した。
 タクシー代は、3000円を越えていた。帰路を考えると、ずいぶん高い描写だな、と思った。山登りのつもりで、帰りは節約で駅まで歩くかな、という思いもあった。

 寺の外観を見てまわった。微妙橋(びみょうばし)をさがした。丸い形状の太鼓橋)の底板には108の梵字を書かれている。
 ここらも作品のなかで織り込むかな、と考えていた。

 同寺の庫裏のベルを押してみた。細君が現れたので、「少しお伺いしたいのですが」と取材を申し出た。
「住職が打合せからもどり、いま在宅しています」
 ここまで来た甲斐があるな、とうれしかった。
 
 十返舎一九が同寺の関わりを聞いた。さらに、当時の住職の名まえ、逗留時のエピソードなども聴くことができた。当時の事情から、隠居部屋が十返舎に提供されていた、と知った。
 
 寺のまわりは樹木が多い茂り、景観はあまりよくない。もし現地を見ていなければ、きっと風光明媚な寺だと書きかねない。
 この点だは江戸時代も樹木が茂り、同様だったはずですよ、と住職が語る。隠居部屋からは、唯一、松本城は見えていたはず、と位置的な状況も教えられた。

「先代の住職が松本の古本屋から、偶然見つけたのです」
 住職から、奥から『続膝栗毛』の実物を持ってきて見させてくださった。東京・神田でなく、松本で見つけられたのですか、と私は念を押して聞いてみた。
「そうなんです。松本なんです」
 住職も、それを知ったときおどろかれたようだ。

 住職の関わる葬儀が夕方6時からであり、私は最寄駅まで車に乗せてもらえた。
「こういうこともあるんだな。取材はやはり行ってみると、思わぬことがある」
 足で書くのは報道だけでなく、小説も同じ。その考え方を持っているが、まさに、予想外の収穫だった。

天保時代の小説イメージ通りの料亭を見つけた、=飛騨高山

 天保時代、飛騨高山に突然、あらわれた左官職人がいる。神田まつりで、喧嘩し、人を刺し、江戸から流れてきたらしい。
 当時も、現在でも、その名を『江戸万』(愛称)とよばれている。これがとてつもない良い腕をもった職人だった。
 
 日本三大美祭のひとつ高山祭り(4月10月・年2回)に訪れたひとならば、絢爛豪華(けんらごうか)な三階建てくらいの台車(山車)を知っているだろう。台車はきっと数千万円(現在価格)するはず。江戸万はその台車を収納する土蔵をつくった人物である。
 現在では、その台車よりも、かれの造った土蔵のほうが文化財的な価値があるといわれている。いまでも、江戸万の土蔵の再現・復旧はできないほど、超高度な技術だったのである。

 わたしが執筆ちゅうの歴史小説には、この江戸万と、かれと駆け落ちした女性を描く予定である。



 このたび取材で、高山の街なかを歩いていると、きわだった風情と情感のある料亭があった。高山市教育委員会の「案内板」には、文化・文政のころからの建築物だと明記されていた。現在は料亭「角正」の暖簾(のれん)をだす。

 江戸万にからむイメージにぴたり。女将さんが客人をお見送り中だったので、そのショットを撮影させてもらった。

 料亭内に入れば、いっそう登場人物のイメージがつかめるだろう。庶民価格を越えているが、これも取材だと、昼食に立ち寄った。ていねいな歓迎を受けた。

 
 文化文政のころ、高山陣屋の出入りする医者が経てたらしい。おおきな屋敷で、中庭の定理はよく、建物内部は重厚な造作だった。

 その後、医者から料亭に持主がかわった。あるじは江戸に出て修行し、腕の良い料理人になった。その伝統が現在もつづく。女将さんや仲居さんから説明を聞くうちに、小説のイメージがより一段と膨らんできた。
 

 美味しいソバをちょうだいし、さらには仲居さんには玄関の外まで、にこやかな表情でお見送りしていただいた。

 なお、江戸万は非業な最期をむかえている。僧侶の駆落ちさわぎに巻きこまれ、中尾峠で刺されて死んでいる。ここら一部史料があるので、歴史小説のなかで描く予定である。

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