「二十歳の炎」が3刷で発刊=『幕末史のわい曲は国民のためにならない』
「歴史ものは腐らない」と出版業界で言われている。現代小説は時代を背景として展開される。時代の進歩は速く、作品がすぐに劣化していく。文学作品など顕著なものしか、読み継がれていかない傾向にある。
「歴史から学ぶ」という格言どおり、歴史小説は時代を問わず、読み継がれる。どんな時代になっても、古代から近代史まで、なにかしら学び取るものがある。
「二十歳の炎」が3刷として、ことし(2016年)3月25日に、重版となった。
この作品が、広島を中心に読まれている。この先、全国へと広がれば、さらなる増刷も期待できるだろう。
明治新政府は広島藩が目立ってもらったら困ると言い、広島浅野藩の「藝藩志(げいはんし)」を封印した。そして、薩長閥の政治家が、幕末史を歪曲した経緯がある。
昭和53(1978)年まで、封印されていたから、過去の小説、歴志学者の論文、教科書すら、幕末広島藩は殆ど無記載だった。
司馬遼太郎「竜馬がいく」すらも、昭和41年の刊行だから、広島藩はまったく加味していない。龍馬が芸州広島藩の軍艦を借りて、長崎から土佐に1000丁の最新銃を運んだ。
龍馬がどういういきさつで広島藩から軍艦を借りられたのか。司馬氏すらも、「藝藩志」の存在を知らずして1行文で追求の筆が及んでいない。
京都で中岡新太郎と坂本龍馬が暗殺された。龍馬と逢う約束で出向いたのが、広島藩の安保清康(あぼ きよやす)だ。もう一刻早ければ、と悔やまれる。かれが目にしたのは血の海だった。
最初の発見者となった安保は、医者を呼び、厚く手当した。彼は霊山神社に遺体を埋葬した。
安保は薩摩藩の海軍を育てた人物だ。明治以降は、陸軍=長州、海軍=薩摩、といわれる。安保は薩摩にとっても、日本海軍にとっても重要な存在だった。
薩摩=龍馬と広島藩との関係は濃密だ。それが解らずして、「龍馬暗殺の真犯人は誰か」と問うても、殺害の動機とか、背景の理解には及ばないはずだ。
「二十歳の炎」の副題は『広島藩を知らずへして、幕末史を語るべからず』としている。
『幕末史のわい曲は国民のためにならない』
この理念のもとに、私は「藝藩志」から幕末の事件や場所をより正確に書いた。
『幕府と朝廷と2カ所から政策が出てくるような、こんな国家はいずれ崩壊する。「朝敵の長州・毛利家をダシにして、薩長芸の6500人の軍隊で京都に挙がり、軍事圧力で徳川家を倒す」。広島浅野藩の最強のエリート志士たちは、それを見事に完遂させた』
だれもが薩長同盟という。しかし、薩摩側の史料として、島津藩主が2藩の同盟に関わったとか、認めたとか、そんな証しは存在しない。トップが関わらずして(当時)国の同盟などあり得るはずがない。
歴史的事実としては「薩長芸軍事同盟」が成立している。幕末に6500人の兵が広島藩・御手洗港から京都に向けて発進した。
長州閥(山口)の政治家とすれば、広島浅野藩が「朝敵の長州・毛利家をダシにして倒幕した」という小ばかにした表記の「藝藩志」など、抹殺さなければ、明治政府のなかでいい恰好はできないのだ。
隣りの広島はもともと毛利元就の出生地・聖地だ。広島城も、毛利家が築城した。広島がつねに高い位置に居て目障りの存在だったのだ。
明治新政府は、「薩長芸軍事同盟」から、芸州広島を抜いて、薩長同盟に仕立てあげた。後世の小説家らが薩長を誇張したことで、独り歩きしてしまったのだ。
長州閥が政治の中心に座ってきたのは明治新政府が東京にできた数年後からである。大村益次郎は暗殺される。山縣有朋が富国強兵の実権をもってから長州閥が強くなったのだ。
最近の傾向として、鎌倉幕府が成立した年号が修正されたり、諸々史実が書きかえられたりしている。「薩長同盟」すらも、怪しげなものだと修正されてくるだろう。
明治政府によってわい曲された幕末史。「二十歳の炎」はより史実に近い道筋をつける役目だと考えている。