小説家

「安政維新」(阿部正弘の生涯) イアヤ〜、面白かった 杉 哲男

 私の長年の友人・杉哲男(すぎ てつお)さんから、読書の好評をいただきました。紹介します。そのまえに、かれの人物紹介をいたします。


 杉さんは鹿児島市出身です。かれは中学時代に、原口虎雄さん(戦後・日本史の第一人者・鹿児島大学教授)が中学校に招聘されて講演をされることもあり、日本史が大好きになったと話されています。

 虎雄さんの長男と小中高校まで同級生だった。次男は原口泉さん(NHK大河ドラマ・篤姫、西郷ドンなどの時代考証)で、原口一家と杉家は親しかったと言います。

 杉さんは九州大学、大手電気メーカー、いまはシニア大樂の理事です。かたや、九大OBコンサート会で活躍しています。

 杉さんと私は飲めば、幕末論が酒の肴です。祖父母が語る戦争は、太平洋戦争でなく、きまって薩英戦争だったといいます。「文久3年(1863年)、薩摩藩とイギリスの間で鹿児島でおこなわれた戦争)。

 杉さんから得た薩摩藩関連の知識は、私のエキスの一つになっています。と同時に、杉さんの歴史の目は肥えています。


写真・鹿児島市内の遠望  (ここで薩英戦争がおこなわれました)
             

【杉哲男氏のコメント】

 案内をいただき、早速、Netで手にいれました。ところが、相変わらず、いろいろと忙しく、先週まで「コンサート」の練習に明け暮れていました。ようやく、本日、しっかりと読ませていただきました。

 いきなり、大奥女御の姦淫な事件の描写から始まり、驚きました。歴史物を柔らかくスタートさせましたネ。
 読み進むにつれ、良く知っているつもりの、幕末の江戸幕府の内実が新しい発見の連続でした。

 日露&日英和親条約が想像を超えて経過での締結であり、その後の通商条約の締結にも、当時の阿部宰相を中心に優れた幕閣たちの交渉力が寄与したことなど『目からうろこ』です。

 幕末の「攘夷論」への歴史的な位置づけ&評価の見直しの必要性を真に感じると共に、不平等条約があの長州・下関戦争に起因していたこと、初めて知りました。

 イアヤ〜、面白かった。

 これまでも、幕末の為政者としての阿部正弘への評価は私なりに持っていましたが、この書を通じて改めて理解しました。ありがとうございました。
 また、一度、ゆっくり飲みましょう。

お勧めNHKの「歴史秘話ヒストリア」(2019年5月22日放映)

 読者の声が、「安政維新 阿部正弘の生涯」が著者のもとに届いています。読者の感想から、そうか、NHKの「歴史秘話ヒストリア~日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉~」を観てから、この本を読まれると良い。ペリー来航の真実がわかったうえで、一気に読めますから、それを紹介します。


  写真:歴史秘話ヒストリア@NHKオンデマンド より

【読者感想】

(A)

「安政維新 阿部正弘の生涯」、読み始めると面白く、1日で読み切りました。読書スピードの遅い私としては、近頃珍しい早さでした。30年前でしょうか、山岡荘八の大作「徳川家康」を次々読んだ時代を思い出しました。

 勝者薩摩と長州が色濃く反映された日本の歴史教育を学校で学んだものとしては、今でも薩摩長州の人々への畏敬の念が、体にしみこんでいます。

 それに対し徳川幕府の優秀な人材が、幕末に活躍したことは知らないままでおりました。その意味でNHKの「歴史秘話ヒストリア」(2019年5月22日放映)は新鮮な驚きでした

 久しぶりの感動を知ってもらいたいと考え、生野町(兵庫県)を中心とする地域連携プロジェトを推進していただいている神戸大学院の先生とわが家古文書を整理研究しておられる茨城大学教授、アメリカに駐在する長男にご著書を贈呈することにしました。

【作者の補足・意見】
 ※ 読者は、NHKの「~日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉~」を観てから、興味ぶかく読まれたのでしょう。「安政維新 阿部正弘の生涯」は、通説を次つぎに資料からくつがえしていますから。

(B)

 全体的に面白い内容ではあったが、資料から得た史実と作者の推測が入り混じることはやむを得ないが、主観的に流れている感がある。これだったら、「小説」として断定的に描いたほうが、読者の納得を得られるのではないか。 
 もっと文章が洗練されていれば、それなりに説得力もでるかもしれない。田舎くさい文章だ。


【作者の補足・意見】

 ※ 私の歴史小説は史料・資料により近いところで書いています。

 ペリー提督と林大学頭の緊迫した場面などは、江戸時代であり、漢文調ですから、読者の指定するとおり、ずいぶん田舎くさい文に感じたことでしょう。と同時に、これまでの薩長史観とは違うし、作者の主観に感じたのでしょう。

 阿部正弘が、ペー提督に蹂躙されて、おろおろと日米和親条約を結ばされた。これが定説です。
 NHKの「歴史秘話ヒストリア~日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉~」、1時間番組は、160余年ぶりに、世に出回った林大学頭『墨夷応接禄』(ぼくい おうせつろく)を中心として制作されたヒストリアです。日本の応接掛が対等以上に外交交渉したと、ここらがよくわかります。

 これまで、「ペリー提督日本遠征記」の自慢話、あるいはペリーの負け惜しみを歴史的真実として教えてきた日本の歴史学者は、きっと林大学頭の克明な記録の『墨夷応接禄』を世に出したくなかったでしょうね。教科書の幕末史が根底から崩れますから。

 実際に、わたしたちの目に触れるのはわずか数年前です。
 
             *

 徳川政権が260年間も継続できたのは、「德川隠密組織と御庭番」が有機的に働いたからです。
 アメリカ艦隊が来て、地方の奉行所の与力・同心だけに任せ切るはずがない。現代でいえば、テロ事件が起きると、どんな地方でも、東京・警視庁の公安警察がすぐさま出動するのと同じです。

 老中首座・阿部正弘は備後福山藩の最大のブレーン関藤藤䕃(せきとう とういん)と、老中次席の牧野忠雅はこれも長岡藩の最も有能な川島鋭次郎(河井継之介の先輩)と、ふたりを老中密使として浦賀に送り込んでいます。これは事実です。

 どんなやり取りだったか。ここらは超極秘で資料は残らず。資料がないと歴史学者は書けない。しかし、浦賀の与力だけでペリー提督と初期対応など、常識で考えても、あり得ない。そこは小説家の想像力で埋める。
 それが作家の役目だと考えています。

『安政維新』(阿部正弘の生涯)④「江戸三大改革」は悪政だった。庶民の「嘉永文化」を伝えよう

 弘化2(1845)年2月22日、阿部正弘は満25歳で、老中首座になります。江戸時代を通じて最年少です。
 吉宗の実孫である松平定信(さだのぶ)すら、28歳でした。


 定信は本来ならば、徳川将軍だったのです。だが、徳川宗家(将軍家)に入るまえに、白河藩(福島)に養子に入っていたので、将軍にはなれなかった。しかし、血筋から早ばやと老中首座になった人物です。


 阿部正弘は、備後福山藩は10万石の譜代大名ですが、定信よりも、3年も若くして、12代家慶(いえよし)将軍から、老中首座に大抜擢されたのです。いかに有能だったか。かれは正室の子どもでなく、側室の子です。
 決して、縁故、血筋による抜擢とは言えません。


 当時、アジアではアヘン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、その後において西欧諸国は日本を狙っている(外患・がいかん)。国内は天明・天保の大飢饉で、わが国は過剰人口で米穀(べいこく)不足から、餓死者の死臭がただよう列島でした(内憂・ないゆう)。

 外患内憂の国難の時代に対応できる人材はだれなのか。250年間にわたる德川政権の世襲とか、伝統とか、家柄とかに拘泥(こうでい)した人物を政治のトップをおけば、わが国は悲惨な状況に堕(お)ちいってしまう。
 まして、水野忠邦が「天保の改革」に大失敗した後釜です。家慶将軍は阿部正弘を抜擢したのです。


『安政維新』(阿部正弘の生涯)では、なぜ、阿部正弘が抜擢されたのか。その経緯から克明(こくめい)に描いています。

 それが第1章「女犯の怪しい寺」です。22歳の寺社奉行の正弘が、大奥女性と僧侶との姦淫(いんらん)な行為の現場を押さえて捕縛(ほばく)する。そして、大胆な決断力を展開しています。将軍も、大奥も、水野忠邦すらも、その後の正弘の裁決には驚いたのです。

「こんな意表をつく、大胆な判断はだれができようぞ」
 ここで、正弘のとてつもない政治力が示されます。
 正弘は終生、多くの意見にたいする聞く耳をもちますが、最後は己の判断を示す。その多くが、『ひとの意表をつく』ものだったのです。

              *   

 前政権の水野忠邦は、賄賂(わいろ)を積んで、佐賀藩から浜松藩に国替えし、さらに大阪商人から大金を借り入れて、それを踏み倒し、老中へと登りつめてきます。老中首座にたどり着いたのが45歳です。

 阿部正弘は25歳です。いくら賄賂を積んでも、現在の内閣総理大臣にはなれるものではない。庶民らには、それがわかったのです。
 正弘が清廉潔白で英知の人材だったから、家慶将軍に大抜擢された。阿部正弘が政治のトップに立ったとき、庶民は大喜びで、迎えたのです。
 

「阿部家には付け届けはするな。決まって、突き返されるから」と水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の記録が現存しています。
 当時は盆暮れなどのつけ届けなど、役職を得る当然の風習として定着していました。しかし、福山藩の家臣は、それら金品はすべて突き返しに行ったそうです。
 お金には身ぎれいな政治家だった。正弘が享年39歳で死ぬまで、国難の政治のトップにいた最大の理由のひとつでしょう。

 つまり、私利私欲のための政治ではない。「無私」で、国難の日本を救うために、わが国が植民地にならないために、全知全能で走りつづけた、とだれもがわかっていた。だから、他には老中首座になり手がなかったのです。

 政治家として生命をかける。現代でもよく使われることばですが、それを現実に行ったのは阿部正弘であり、まさに稀有(けう)な存在でしょう。

                  *

 正弘は思想弾圧もせず、庶民のための政治を心がけていました。奢侈禁止令(しゃしきんしれい・派手な生活を禁じる)などの法令は出さず、諸民に自由を謳歌(おうか)させています。
 私は作品のなかで、それを「嘉永文化(かえい・ぶんか)」と表現しました。

    「日舞・さつき会」

 江戸時代のなかで、元禄(げんろく)文化よりも、もっと華やかな庶民文化が生まれており、その伝統が現在にも生きています。


 ところが、明治政権は阿部正弘政権の亜流であり、ことさら阿部正弘の政治評価を貶(けな)すことで、自分たちを高くみせています。だから、明治政府は歴史書、教科書に「嘉永文化」をのせていません。

 明治からの軍国主義は、『勝つまで欲しがりません』という政策です。江戸時代の享保(きょうほう)の改革、寛政(かんせい)の改革、天保(てんぽう)の改革は、三大改革として賛美しています。
 この改革の実態は「庶民いじめ」なのです。庶民に生活苦、がまんを強いた苛政(かせい・悪策)です。それをなぜ美化するのか、わかりますか。

 明治軍事政権は、『ぜいたくは敵』として、国民にがまんに我慢を強いています。がまんで消費を冷やせば、景気が後退します。国民を黙らせる必要がある。いちばん効果的なのは、歴史を利用することです。
 明治・大正・昭和の終戦まで、軍事政権はことさら教科書のなかで、「江戸時代の三大改革」と美化し、国民の目を欺いて、軍国主義に利用したのです。
 つまり、なにごとも、お上の政策のために我慢せよ、という趣旨です。

『不景気になれば、日本は海外戦争をしかけて、軍事景気で活気を取りもどす」
 これも戦争へのおおきな施策でした。日清戦争・日露戦争・シベリア出兵・第一次世界大戦・満州事変・日中戦争・太平洋戦争と、これを10年に一度やりつづけたのです。

 くりかえしますが、歴史は政治に利用されやすいのです。


 昭和、平成、令和となり、戦争を否定した今、庶民の視線から歴史を見直す必要が出てきました。それには、教科書の「江戸三大改革」は苛政(かせい)だった、庶民が困窮(こんきゅう)の極(きわ)みに陥ったと、真実をおしえる時期がきています。

 少なくとも、庶民の目線からみれば、改革でなく、改悪です。
  

              *

 私は歴史小説を政治家たちの歴史年表で書くのではなく、庶民の目線もふまえる必要がある、と考えています。
「安政維新」(阿部正弘の生涯)のなかで、第7章「嘉永文化」という章立てをしています。

 
 阿部は人材抜擢の天才です。それら有能な人材が外国文献から、西欧の資本主義の研究を行っています。
 イギリスなどは産業革命のあと、自由主義が国家の繁栄(はんえい)をきづいている。自由が国家繁栄の基である、という施策が、阿部正弘政権にはわかっていました。

 正弘は江戸町奉行の遠山景元(遠山の金さん)に、「庶民が生きがいを感じる施政をせよ」と指図します。新たな法律で、庶民生活を縛(しばら)ない、自由主義で行く、という方針でのぞんでいます。
 庶民からすれば、過酷(かこく)な取り調べの根幹となっていた「奢侈禁止令」の運用を緩和させたのです。

 水野政権時代「天保の改革」は、座敷の芸者など全面禁止でした。水商売の類の女性は女狩りで、集められて、競売で浅草・吉原に売られて売春婦の身になっていました。


「江戸三大改革」と称したものは、いずれも雨後の竹の子のごとく厳しい法令をだし、庶民をいじめています。
 阿部正弘は、「水野忠邦が作った法律で充分だ」と言い、はあえて新規な法令をほとんど出していません。

 庶民は敏感です。阿部人気、「遠山の金さん」人気から、元禄時代を上回る、民衆文化が一気にはじけたのです。

 金銀製の女の飾り物はご禁制(きんせい)でなくなります。水野時代にはわずか数件だった芸人小屋が、嘉永時代には700軒も開業する。
 草紙、春画、浮世絵、かわら版も巷(ちまた)にあふれる。江戸庶民が好む、すし屋、そば屋、てんぷら屋なども大繁盛です。
 三味線や太鼓は繁華街からながれる。人々が生気を取りもどしたのです。

 それが現代の「遠山金さん」人気に通じています。


 阿部政権になってあまりにも、取り締まりを緩めすぎたので、目に余ったのでしょう。幕閣から苦情が出ます。正弘はきっと渋々でしょう。

 嘉永元年に、お触書をひとつ出しました。『親族のため、あるいは生活に困窮する、よんどころな場合以外は、売女にまぎらわしき、猥(みだ)らな所業は決してしてはならぬ』というお達しです。
 まさに、故意にザル法をつくったとしか思えません。「わたし、家族のために働いているのよ」といえば、街中の座敷、料理屋に出入りできる芸者稼業になれるのですから。
 
 消費があらたな消費を生む。景気が良くなる。嘉永は庶民文化としての園芸が花開いた時代です。浮世絵に梅や松の盆栽が多く描かれています。
 さらに、朝顔が大流行になりました。まさに、嘉永文化は庶民の心に、花を愛でる余裕が生まれたのです。長屋住まいの庶民らは、物価は高いがそれなりに生活を享受(きょうじゅ)できて楽しんでいたのです。
 
 阿部正弘は、福山藩主の側室(妾)の子どもです。母親の高野具美子(くみこ)は、剃髪(ていはつ)して江戸下町の石原町(現・江東区)の、福山藩下屋敷の庵に、ひとり住んでいました。

 正弘は老中屋敷(現・大手町)から、月に1、2度は母のもとに通いつづけています。途中で浅草の「桜もち」(現在も有名)を買いもとめ、実母にとどけていました。正弘は江戸下町に出むき、庶民の生活を見聞する機会が多かったのです。つまり、庶民から政治を見つめる環境が正弘にあったのです。

 そこが明治以降の下級武士・足軽から成り上がった、偉そうぶった軍人政治家たちとはちがう点です。

 私たちはそろそろ薩長史観から脱皮し、徳川長期政権の良さをも取り入れる時代になってきました。阿部正弘は嘉永文化を育てた。庶民よりの政治をすれば、庶民は人生が楽しめるし、文化が熟してくるのです。
「遠山の金さん」はいまなお、庶民の味方だったと、明治以降の軍国時代にすら消えずに語り継がれてきました。
 それは嘉永文化の象徴でした。

 この6章は岡っ引き、下っ引きを主人公に、楽しく読めるようにしています。


【関連情報】 

「穂高健一ワールド」における、『『安政維新』(阿部正弘の生涯)①~⑤まで続きます。引用は開放いたします。⑤も近日中に掲載します。

 このシリーズは著作権に関係なく、ご自由にお使いください。全文の引用もOKです。

『安政維新』(阿部正弘の生涯) ③ 弱冠・満25歳にして老中首座(宰相)、そして死ぬまでの長期政権

 阿部正弘は、弱冠・満25歳にして老中首座(現・内閣総理大臣)になりました。なぜ、そんなに若くして徳川幕府のトップになれたのか。賄賂をつかっても、なれる地位ではありません。第12代将軍の徳川家慶が、なぜ、若き正弘を大抜擢したのか。 

 
 阿部正弘が22歳の寺社奉行時代に、中山法華寺(市川市)の末寺・感応寺(豊島区)の僧侶と、大奥との癒着(ゆちゃく)という女犯(にょぼん)の罪を裁きました。
 そらに、家斉いえなり)大御所の偽遺書による「将軍家乗っ取り事件」までも、見事に解決させたのです。

 ここが歴史小説「安政維新」の書きだしになります。

 目次紹介

 第1章 女犯の怪しい寺

 第2章 天保の改革

 第3章 水野忠邦の失脚

 当時は、外観内憂の時代です。外患とはアヘン戦争・植民地化の波が日本に押し寄せました。元寇以来の国難の時代です。

 内憂とは天明・天保の大飢饉という、飢餓列島で過剰人口による食糧不足の時代です。それに対処した水野忠邦の「天保の改革」が、大失敗します。

 それを引き継いだのが、満25歳の阿部正弘です。

 
 第4章 十歳児のいのちを救え

 第5章 前政権の断罪

 第6章 ビットルの浦賀来航

 ペリー来航よりも、7年も前に、アメリカ東インド艦隊が浦賀に来ているのです。ビッドル提督は、アメリカ大統領の親書を届けに来航したのです。
 みなさんはこの事実を知っていますか。

 第7章 嘉永文化

 江戸時代に、もっとも華やかな庶民文化が花開きます。化政文化よりも、上回っています。ここらはこっけいな岡っ引きの目線で描いています。
 思想弾圧をしなかった阿部正弘の人柄がよく出ています。

 第8章 北の漂流者たち

 冒険家マクドナルドが利尻島に上陸します。長崎に送ります。世界の潮流に乗るには、英語教育が必要だ。阿部正弘は、長崎通詞14人に、英語を学ばせます。
 英会話ができる。優秀な人材が育つ。日本の近代化へのおおきな礎のひとつになります。

 第9章 外国軍艦の出没

 第10章 オランダ別段風説書

 第11章 ペリー来航

 ここまでが、作品の前半になります。

              *

 ペリー提督来航から、外圧を利用して、世界の潮流の資本主義に仲間入りを計ります。久里浜(神奈川県)で、アメリカ大統領の親書を受理させます。

 阿部正弘は日本語に翻訳し、幕臣、諸大名、庶民にまでも意見をもとめます。 回答数は、700余通です。大名から・浅草の遊郭主までいます。

 封建制度のなかで、「言論の自由」が行われたのです。なぜか。阿部は「挙国一致」で国難を対処する、「日本国」という考えを確立させたのです。
 「あなたのお国は?」と問われると、武蔵野国、安芸の国、陸奥の国、長門の国です。日本列島を一つにした国家という考え方は殆どありませんでした。
 阿部正弘は、日本列島を一つの国家とした最初の政治家です。

 アメリカ大統領親書に対して、99%がペリー艦隊を撃ち払え、という攘夷主義でした。阿部は、700余通の上申書から、ふたりの意見を採用しています。ひとりは朝廷の実力者の鷹司正通(たかつかさ まさみち)(関白)です。
 ご紹介しましょう。

『アメリカの書簡は慇懃(いんぎん)にして誠意がある。拒絶するべきではない。寛永(かんえい)以前は各国と通商し、わが国に利するところが少なくなかった。交通を許すも、国体(こくたい)を損じることはない』

 孝明天皇・朝廷は外国嫌いだ、とみなさんは教わっていませんか。それからしても、明治時代の為政者や学者たちが歴史をねつ造しているのです。

 もうひとりの意見は、まだ罪人(微罪の冤罪(えんざい)で町人の高島秋帆(しゅうはん)の「嘉永上書」です。
 阿部正弘はこのふたつをもって開国・通商の道を決断します。

 勝海舟の意見は開明的でしたけれど、具体策がない。ただ、人物としては使えると、阿部はかれを取り立てています。

 徳川幕府は封建制度の世襲制で、胡坐をかく旧習に安住する幕閣・大名たちばかりです。斬新な事案をやれる勇気は並大抵のことではありません。

 現在でも、社歴の長い大会社で700人以上が、新規事案に反対するなかで、たった、ふたりだけの意見を採用できますか。


 歴史上、阿部のような大胆な判断を下す人物は百年に一度、二百年に一度でるか、出ないかです。人間として、途轍もなく、優れた人物です。
 
  阿部正弘に関しては、難しい政策判断の評価はあれこれあれども、人物・人柄を悪く書いた史料・文献はほとんどありません。
 備中福山藩は、賄賂を持って行っても、魚が腐っても、家臣がつき戻しに来る。もう、持っていくな。他藩の文献に、こんなエピソードが残っているくらいです。

 阿部正弘は、金銭欲、強欲の面がなく、身綺麗でしたから、25歳から享年39歳(満37歳)まで、長期にトップの座にいたのです。
 と同時に、阿部正弘に取って代れなかったほど、日本は国難でした。まさに、正弘の命は日本の命だったのです(松平春嶽の弁)。

 『安政維新』は、勇気をもらえる歴史小説です。


【関連情報】 

「穂高健一ワールド」における、『『安政維新』(阿部正弘の生涯)①~③は、引用は開放いたします。④、⑤も近日中に掲載します。

 このシリーズは、著作権に関係なく、ご自由にお使いください。

穂高健一著『安政維新』(阿部正弘の生涯)② 明治政府は阿部政権の施策のパクリだった

 西欧5か国と和親条約を結んで開国したあと、阿部正弘は安政3年、「富国強兵」を国家の柱に掲げます。

 そして、日の丸制定、外国との条約国名は大日本(おおやまと)帝国(みかどのくに)、安政5か国通商条約、海軍・陸軍の創設、蕃所調所(ばんしょしらべしょ)(東大の前身)など数々の国内改革を断行していきます。
 まさに、阿部正弘は近代化、資本主義化の祖です。

 この政策には見覚えがありませんか。明治時代の薩長下級藩士が政権を取り、阿部正弘政権の施策のほとんどパクリだったのです。蒸気機関車の発注も徳川家です。開通したのが、明治時代です。
 かれらの政権の自己顕示欲でしょう。自分たちをより高くみせるために、故意に歴史を折り曲げ、明治から文明開化、近代化と嘘を教え続けて、現代の学校教育に至っています。かたや、徳川幕府を無能扱いでこき下ろしてきたのです。
 「明治維新」とは名ばかりです。10年に一度は戦争する国家になったのです。明治時代を正確に表現すれば、『明治軍事政権』です。徴兵制で、日本の農民らに殺戮(さつりく)の武器をもたせたのです。

              * 

 豊臣秀吉が刀狩で、「兵農分離」させました。それをうけついだ徳川幕府は、260余年間は、兵農分離を維持しました。二度と戦国時代にもどらない。封建領主の凍結で、戦争をさせない。外国の侵略による戦争を回避するために鎖国政策をとります。
 海外交流は欠かせないので、唐とオランダとの交易に限定しました。


 武士、農民、町民の三段階の身分制度のもとで、農民は鍬と隙をもって田畑を耕す、新田開発をする、農事に専念できました。戦国時代のように、大名の命令で雑兵として、農民が戦場に駆り出される不安がなくなったのです。

 秀吉の朝鮮出陣は歴史上の汚名ですが、一方で、刀狩は日本人に戦争のない時代を与えてくれたのです。江戸時代の平均年齢からすれば、先祖代々、約10世代にわたり戦争を知らない人生がまっとうできたのです。

          *

 外患内憂の時代となると、徳川幕府の鎖国主義にも限界が出てきました。
 阿部正弘政権は、強い外圧のなかで、戦争をせずに開国し、植民地にならず、安政の5カ国条約を結びます。そして、近代化、資本主義の導入を計りはじめたのです。

 安政3年には「富国強兵」を柱に据えます。それは帆掛け船と大型蒸気船との戦いでは、日本国民が悲惨な状況になる。防衛力がないと、西洋に侵略される、という現実がありました。
 抑止防衛で軍艦を買う。農民から搾取すれば苛政になる。海外との通商を拡大し、収益を得て、軍備をそろえるという政策です。外国との戦争を抑止し、国民を守る政策でした。


  阿部正弘政権の有能な人材が、イギリスの経済学者・アダムスミスの「富国論」と、防衛の「強兵」と接合した有機的な「富国強兵」策でした。
  拙著『安政維新』は、この富国強兵が生まれる過程を、わかりやすく、克明に描いています。つまり、むずかしい経済理論を、小説として、ひらたく誰にでも理解しやすく書いています。

          *

 どんな立派な政治理論も、政治家の運用しだいです。わい曲されると、とてつもない不幸をまねきます。これらは歴史から学ぶ点です。

 下級藩士が政権をとった明治政府は、阿部正弘の「富国強兵」をまねて政策の柱にします。用語は同一ですが、実態はまるで正反対です。為政者が自分たちをより大きく見せるためのもので、戦争推進への国策に利用します。
 
 戊辰戦争(箱館戦争)が終結して、すぐさま明治5 (1872) 年には、秀吉の刀狩の恩恵を無視し、山縣有朋らの建議により「全国徴兵の詔」が公布されたのです。まさに、いきなり軍国主義に突っ走ったのです。
 これは維新とは言えるものではないのです。維新とは、故事によると、「国家の変革で、民をより良くする」という内容です。

 明治政府は「富国強兵」をもって、海外侵略の主要な国策にすえたのです。台湾出兵、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争。銃をもって戦場で死んだ農民・町民(二等兵、一等兵、上等兵)などは幾百万人でしょうか。

 富国強兵が、国民の犠牲の政策に利用されたのです。

【関連情報】 

「穂高健一ワールド」における、『『安政維新』(阿部正弘の生涯)①~③は、引用は開放いたします。④、⑤も近日中に掲載します。

 このシリーズは、著作権に関係なく、ご自由にお使いください。

講演会「開国の真実」・葛飾区立水元図書館で講演 9月28日(土曜) 

 拙著の「安政維新」(阿部正弘の生涯)が、10月15日に、全国書店・ネットで一斉に発売されます。それに先駆けて、いくつかの講演会が予定されています。
 9月28日(土曜)午後2時から28日に、東京・葛飾区立水元図書館で、題目『開国の真実』の講演を行います。
 会場 : 同図書館内の「葛飾区水元集い交流館2階会議室」
 住所 : 葛飾区東水元1-7-3
 JRまたは京成の金町駅からバス。金町駅北口・(金62)葛飾総合高校下車

 対象 : 中学生以上
 定員 : 50名(当日・先着順)
    入場料無料です。

【講演の要旨】

 最近は歴史の見直しがはじまっています。従来「開国」は黒船のペリー提督の砲艦外交に蹂躙(じゅうりん)されて、日本は無理やり開国させられた、と歴史書には記載されていました。日本史の教科書も同様です。

 歴史の見直しがはじまっています。
 従来は、ペリー提督の黒船が突然やってきたのではない。日本は恐怖に陥れたとは、ウソの記述だ。アヘン戦争が清国で起きた天保時代から、通商をもとめる外国船(おもに軍艦)が次々に日本にやってきた。その都度、江戸城の老中から現地対応の司令を出していた。

 ある意味で、経験則が高まっていたのです。封建制度・鎖国のままでは、アヘン戦争と同様に戦争になる、たいへん危険だと幕閣は考え始めました。「打払令」を止めて、水野忠邦は「薪水給与令」に変えて、外国船が難破すれば、日本国の港に、避難すれば、薪、水、食料をわたす、と法令を変える努力もしています。

              ☆   

 阿部正弘が満25歳で老中首座(内閣総理大臣)になってから、浦賀にきた外国船はペリー提督で5番目であり、幕閣も、浦賀奉行・与力も落ち着き払って対処しています。
 
 ペリー提督との外交交渉(横浜)は、日本が決して弱腰でなかった。その克明な交渉記録が現存しており、その現代語訳も、数年前に世に出てきました。

 かたや、天保・天明の大飢饉から、日本が疲弊してしまった。国が豊かになるために、阿部正弘が戦争せず開国し、世界の潮流となった資本主義に仲間入りを図った、という歴史認識に変わってきました。
 当時のアジア諸国をみると、英仏露は危険だから、最もリスクが少ないアメリカを選んだ。阿部正弘が、ペリー提督の来航を一年前に知り、ここで開国条約を結び、植民地化の危機を切り抜けた。

 みずから開国した阿部正弘は、安政の改革を実行し、富国強兵策、海陸軍の創設、日の丸の国旗制定、大日本(おおやまと)帝国(みかどのくに)、挙国一致、近代化政策へと進みはじめます。
 若くして亡くなった阿部正弘の、その遺志を継いだ小栗上野介たちは、安政時代に渡米し、アメリカ大統領・国務大臣にも面談し、西洋の民主主義を知り、さらに世界一周してきます。このときの77人の随行員が、近代化の力になってきます。

 随行船だった咸臨丸の日本人乗組員らも、サンフランシスコの地を踏んでおり、この段階だけでも、百数十人がアメリカ文化に触れて帰国しています。 

 薩長史観では、薩摩藩の15人の留学生、長州・ファイブと、もてはやされて強調されていますが、為政者の徳川家の海外使節、留学生の規模とではまったく比べ物になりません。

 明治政権は、それら阿部正弘の安政施策と近代化路線のパクリとなっています。

 国内変革の維新は、明治維新からでなく、阿部正弘から始まった。歴史の正確な認識として、安政維新が正しく、明治は徳川政権の瓦解による「御一新」だった。(昭和時代初期2.26事件で青年将校が昭和維新と叫び、そのあとに明治維新と一般にいわれるようになった)。

 歴史の見直し、歴史の塗り替えのなかで、早晩、鎖国から開国へと「安政維新」がはじまり、徳川瓦解による「明治の御一新」という正確な表記に変わってくるでしょう。

 その予兆はすでに出てきています。「薩長史観による開国史はあやしい」、明治以降の薩長閥の政治家による「陰謀史観」ではなかったのか、と。ネット、書籍のみならず、テレビ、新聞なども取り上げ始めました。
 講演は、こうした内容を語る予定です。

 写真:坂町郷土史会の提供 2019年4月20日「隠された幕末史 芸州広島藩と神機隊」より

『開国の真実』ポスター

「張作霖を殺した男」の実像  桑田冨美子 

 『関東軍講究参謀・河本(こうもと)大作・大佐はなぜ爆破を敢行したのか?」。昭和3(1928)年6月4日未明、中国軍閥の雄・張作霖を乗せた列車が奉天郊外で爆破され、張作霖が爆死します。河本大作の孫娘が、豊富な資料をもとに、その事件を単行本にされました。
「張作霖を殺した男」の実像」(文芸春秋企画出版/文芸春秋・1500円+税)、ことし(2019年)8月30日の出版です。

 当初から、「これは日本軍の仕業ではないか」、と昭和天皇に詰問された、当時の田中義一内閣総理大臣は、うやむやに、曖昧な弁で言い逃れした。「君は信用ならない」と昭和天皇に叱責されて、田中内閣は総辞職しました。かれは病んで早くに病死した。

 戦後、東京裁判での田中隆吉元陸軍少将が、河本大作による爆破工作だと証言します。これがきっかけで世に知れ渡ります。
「満洲事変、ひいては日中戦争に至る導火線に火をつけた男だ」、とてつもない大事件を引き起こした。「河本大作は幕末志士きどりで独断で蛮行に及んだ」と悪評におよんだ。

 著者の桑田冨美子さんが、河本大作に貼られたこの「大悪人」のレッテルに疑問を呈します。爆薬をしかけた実行犯は関東軍、首謀者で、その高級参謀・河本大佐でした。桑田さんはそれを認めたうえで、祖父の「独断」でも「満洲制圧を目指したもの」でもない、関東軍や東京の参謀本部の指示があったと実証していきます。

            *
 
私(穂高健一)がカルチャ―教室で指導する『小説講座』で、桑田冨美子さんは受講生だった。
「祖父の河本(こうもと)大作の史料が、一杯あるんです。実姉の清(きよ)が、研究していて、それが中断し、わたしの処にまわってきたのです」
 貴重な史料の一部をみせてもらい、これを作品化するとよいですよ、と勧めた。
 当初は、小説の技法が中心だったけれど、内容が斬新で、歴史の通説を覆す一級史料が多々あった。
 張作霖爆死事件のあと、陸軍中枢の幹部たちから、謹慎中の大作に送った激励・慰労の書簡などもあった。大作が家族や知人らに送った手紙、大作の活動の記録など、多くの秘蔵資料が、習作中の桑田さんが筆を執られて、教室で作品の一部として出されていた。

             *

 日本ペンクラブの会合で、当時・会長だった浅田次郎さんに、「受講生で、河本大作の実孫で、とてつもなく、資料があるのです」と、彼女の指導方針を兼ねて、相談してみた。「日中戦争に関する重大な事件です。その資料があるならば、作品化して、ぜひ、世のなかに出すべきです。長期保存場所も考えると良いですね」と話されていた。浅田次郎元会長は、戦前の中国関連作品には卓越した作家である。

 それら浅田さんのコメントを桑田さんに話して聞かせた。彼女はそこで勇気をもらったようだ。
 私は「河本さんから「愛する妻へ」と書きだす、当時の軍人がここまで記される、とても人間の魅力があるかたです。だから、軍事、政事だけでなく、家族愛も含めて、総括的に人間を描かれたほうがよいですよ」と指導してきた。
 
 桑田さんは、戦前は「満洲某重大事件」といわれた関係者、家伝の秘蔵資料、研究書・論文などを探し、しっかり読みこんでいた。感心させられていた。指導する私自身も、勉強になった。

 余談だが、私が幕末小説の執筆を知っているので、「わたしの夫の親戚は、薩摩藩の小松帯刀なんですよ」と桑田さんが話していた。それにはちょっとおどろいたものだ。「張作霖を殺した男」の実像」の書籍には、河本大作の妻(久)の親戚筋として、河野洋平、河野太郎がいる。日本の歴史・政治にかかわる家系だな、と思った。

 なお、私は講師として初期の「小説作法の基本」を指導したのみで、『「張作霖を殺した男」の実像』の著作は、桑田冨美子さんの力と出版社・文芸春秋社で完成させたものである、と明記しておきます。


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長編歴史小説「阿部正弘」の執筆を終えて。いよいよ近代史革命へ(4)

 ペリー提督が浦賀に来航する、一年前に、長崎のオランダ商館長から、その旨の通報があった。それがいまや一般的に知られはじめてきた。

 老中首座の阿部正弘は、それなのに一年間は無策でなにもしなかった、重大な事だと受け止めていなかった、という論評が多い。
 阿部正弘をどうしても貶(けな)したいのだろう。歴史家や歴史家きどりのブログには、その批判がやたら多い。


 ほんとうに、阿部正弘は何もしなかったのか。
 まず、国家の重要な機密はベラベラしゃべるわけがないだろう、と思う。ここらを充分に調べもしないで、あるいは調べる能力の欠如を棚に上げて、歴史上の人物をやたら貶してしまう。それをもって当人は、優越感に浸っている、あるいは自己陶酔しているのだろう。

 
 私は長編歴史小説で「阿部正弘」を執筆するにあたり、「合わせ鏡」方式を取り入れた。それは日本側だけでなく、海外側からの情報と照合することだった。つまり、鏡で両面からつきあわせて検証する方法である。

 そのおおきな理由は、明治以降の政治家の姿勢にあった。焚書(ふんしょ)して史料を焼いた事実がある。阿部正弘の日記も、焼かれて現存していない。


 明治の政治家は、御用学者を使って、徳川幕府を貶(けな)すことで、国民にたいして自分たちを高く大きく見せる、歴史のねつ造をやっているのだ。
 有能で天才的な阿部正弘は、どうしても、こき下ろさなければ、阿部正弘政権の業績のほうが勝ってしまう。

           *

 阿部正弘は満25歳で老中首座になってから、享年39歳(満27歳8か月)の間に、かれを超えられる政治家がいなかった。
 かの強健な井伊直助(彦根藩主)すらも、あるいっときトップに推されたが、国難の時だけに、とてもやれないと逃げまわった。
 政治ライバルが、まったく出なかったのだ。

 老中首座の阿部正弘は大改革を次々におこなう優れた政治家だった。阿部に任せるより、国を救う方法がほかになかったのだ。
 一言でいえば、だれも足元に及ばない優れた政治家なので、立候補者が出てこなかったのだ。

 日米和親条約が締結したあと、正弘はあまりにも攘夷(じょうい)的な批判が多いので、老中首座の辞表を出したことがある。
 では、だれにするのか。このとき京都御所が大火災になる、その復興という重大な責務が、国難のうえに積み重なる。資金計画だけでも、財務能力がなければできない。

 武士は金銭感覚に弱い。正弘はことのほか数字に強い。

 内憂外患の国難、御所の復興を同時に進められるのは、阿部正弘しかいなかった。それなのに辞表を出されてしまい、まわりは混乱してしまう。
 推された者は、病気を理由に逃げの一手だ。あげくの果てには、家定将軍の「思し召し」という方法で、安倍正弘の辞表撤回となった。

 
 余談だが、京都御所の紫宸殿など見学される機会があれば、平安朝の素晴らしい建造物をみられるとよい。安政の復元で、阿部正弘がぼう大な資金を投入して再建させたものだ。

 孝明天皇はその阿部に厚く感謝し、日米和親条約についても、最大の謝意と勅許(ちょっきょ)を下しているのだ。歴史学者たちはここらをひた隠しにして、孝明天皇は外国嫌いだと虚像を作り上げている。
            *

 さかのぼれば、アメリカ大統領の親書を開示した時、ほぼ総反対で、大名は黒田斉溥(福岡藩)、旗本は勝海舟が開国派だった。

 朝廷の関白である鷹司政通は、「合衆国の書簡は、慇懃(いんぎん)にして誠意がある。拒否すべきではない。寛永(1624年~1645年)以前は各国と通商し、わが国に利するところが少なくなかった。通商を許すも、国体を損じるものではない。取締りの法を設けさえすれば許可してよい」と積極的な開国派だったのだ。

 200年前まで海外交易を盛んにしていたのは、歴史的事実である。

 だから、孝明天皇は日米和親条約に喜んで勅許を与えた。
 安政通商条約も、まわりが攘夷で反対している以上、自分(孝明天皇)が勅許を出して、後々、悪く言われるくらいならば、譲位(天皇を辞める・平成天皇のように)させてほしいと、くり返し、辞意を述べている。ここらも、歴史学者は隠している。

 孝明天皇や鷹司政通は、海外通商には賛成だったのに、後世の者が、孝明天皇は外国が大嫌いだったとねつ造しているのだ。

 薩長史観の歴史学者たちには、とかく嘘とねつ造が多い。信用できない私は「阿部正弘」を執筆するにあたって、これを見破る必要があった。傍証、状況証拠の積み重ねが必要で、時間もかなり要した。8年間、かかった。

 もうひとつ近代史の学者にたいする不信感は、世界史の視点から、ほとんど論じられない点にあった。きっと不都合なことがあるのだろうな。
 そこを見破るために、私は多くの労力を割いてきた。

            *

 IT時代だから、19世紀の海外情報の資料が検索で、引っ張ってこれる。それらを読み込んだ。この19世紀は、ジャカルタ、広東、香港などで英字新聞が発達している。日本関連の記事もある。その翻訳文も、探しにさがして読みこんだ。

 オランダ別段風説書(別段=特別、風説=情報)などはぼう大だったが、実に貴重な資料だった。
 1843年のオランダ国王のウィルレム二世が「日本に開国勧告」を幕府に送ってきた。……蒸気船の発達が、西洋のアジア進出を加速させている、西洋諸国が日本へ圧力をかけはじめる。このまま鎖国を続けると、アヘン戦争の二の舞になる、と開国を促している。
 ペリー提督が来るちょうど10年前で、このときから日本は実に豊富な海外情報をもっていたのだと読者には明瞭にわかる。

 この内容は日本人が正しく知るべきだと、私は『阿部正弘の生涯』(9月30日発売予定)のなかに、その全文を現代文としており込んだ。同時に、阿部正弘の返書も全文を掲載した。
 
               * 

 1852年、オランダがペリー来航のアメリカ情報を早くに察知し、「日本がそろそろ通商条約を結びそうだ」と考えて、有能な外交官・クルチウスをオランダ商館長として長崎に送り込んできた。日本に好意的なオランダ国王のウィルレム三世の考えだろう。(従来の商館長は貿易商人)。

 クルチウスはバタヴィア高等法院の評定官、高等軍事法院議官であった。高度な軍人情報と世界知識をもっていた。
 クルチウスは長崎に着任すると、長崎奉行を介して阿部正弘政権の外交アドバイザーになった。

                  *

『わがオランダ海軍情報部隊の資料によりますと、アメリカ旗艦の「サスケハナ」はアメリカ蒸気船で最大です。1850(嘉永3)年にフィラデルフィアで建造・進水されています。木造外車フリゲート艦で、3824トンです。船体は木造で、船の外板と肋骨は、鉄の傾材を一部使っています。ビットル提督が乗ってきたコロンバス号(排水量2440トン)よりも、ひと廻り大きい。

 北アメリカの造船技術は欧州より大きく遅れをとっている。理由は波穏やかなハドソン川など、河船の蒸気船として発達してきたからです。外輪は一分間に12回とゆっくり回り、遠洋をのそのそ航海する感じで、船速はとても遅い。

 わがオランダ、イギリス、ロシアなどの戦艦は、北海の厳しい荒海、氷山、氷の海の航行が強いられます。いまや、スクリュー・プロペラ船の開発がすすみ、氷結した海すらも航行できます。
 アメリカ外輪船は海面の氷があれば、かき回せず、フリゲート艦でありながら、冬季の活動が弱い。洋上に大波があれば、外輪の片方が空回りし、航行が難しい。時代遅れの軍艦です』

『遠洋航海の蒸気軍艦に、石炭を搭載するほど、食品や水の削減となります。それでは飢えた海兵で、病人の続出になります。アメリカ艦隊は長期間にわたって戦争できるほど、大量の石炭を積んで来られません』

 クルチウスは日本の幕府に蒸気軍艦・スクリュー船の建造を勧めるのだ。日本列島を守るには、海軍力の強化が必然です、槍と刀では、艦砲射撃に対応できません、と。
 オランダは造船立国である。幕府が軍艦を購入すれば、海軍士官が必要になる。その海軍士官学校の創設を進める(長崎海軍伝習所・のちの海軍兵学校)。そして、オランダ海軍の教官を日本に差し向ける計画案を出してきた。
 さすが、国王の推薦する外交官だから、クルチウスは世界的な視野から、いま日本がなにをするべきか、と的確に言い当てている。
 阿部正弘はそれを受け入れた。ペリー来航の予告から、わずか1年間で日本帝国海軍を創設の骨格を作ったのだ。
 
 嘉永6(1853)年6月に、ペリー提督が江戸湾から立ち去ると、一週間後には、阿部正弘は蒸気軍艦など、7、8隻の仮発注を長崎奉行にさせるのだ。(咸臨丸など)。同年9月には祖法の大型船建造禁止令をやめて、長崎奉行に正式発注させた。

 この時の長崎奉行の水野忠徳(ただのり)が、破天荒な大物だった。時代小説の読者が好きな「火付盗賊改め」の長官から、浦賀奉行、長崎奉行になる。

 私は小説を書いていて、この水野がとても好きになった人物だ。出世したり、左遷させられたり、型破りの人物だ。
 クルチウスに、「咸臨丸などが届くまで、海軍は練習できない。大量発注するから、軍艦一隻を寄付しろ」と平然という。
「あなたは高飛車すぎる」
 クルチウスとは妙に噛みあったり、行き違ったり、面白い。あげくの果てには、一隻がオランダ国王の裁断で、日本に寄付されるのだ。それが観光丸で、日本で初めての軍艦になる。

 阿部正弘はこの一年半で、日本帝国海軍を創設したのだ。
 海防掛(外交・防衛)の目付システムの下で、長崎海軍伝習所(のちの海軍兵学校・内閣総理大臣を数多く輩出したエリート士官学校)の初代長官には、永井尚志が赴任する。正弘が抜擢した、抜群の能力の持ち主である。
 かれは作家の三島由紀夫の曽祖父である。

 現代で言えば、ジェット戦闘機の発注、パイロット養成所、その教官依頼まで、秘かに1年半で成し遂げたのだ。まさに、神業的である。
 
 ペリー来航を1年前に知りながら、阿部正弘はなにもしない無策だった、と論評する。いかに、歴史的な無知なのだろうか。
 日本の学者や娯楽歴史小説のみを鵜呑(うの)みにしていると、こんな頓珍漢(とんちんかん)な歴史認識になる。

長編歴史小説「阿部正弘」の執筆を終えて。いよいよ近代史革命へ(3)

 日本のペリー提督が来て、徳川幕府は無能で、対処も満足にできなかった。本当だろうか。蹂躙(じゅうりん)されて、わが国は開国した。
『太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず』と教科書で教えられてきた。

 日本人は、そんなに愚かだろうか。愚劣な政権だったら、260年余も続くはずがない。『情報は最大の力である』徳川政権の情報収集力と解析力は、世界でも有数である。日本の長崎、浦賀にくる外国船は、徹底して臨検している。

 軍艦の入港目的、軍艦の長さ、幅、マストの高さ、大砲の数ず、火薬や弾丸の数、銃や小銃の数量を聴取するのだ。

 奉行所役人らは、臨検に入っても、あいてはすぐ軍事行動に出ない、いきなりの銃発射などないと、マニュアル化されているから、堂々と、速やかにやってしまう。、
「かれらの俊敏さには、おどろかされる」
 外国軍人の史料には随所に出てくる。

「慇懃(いんぎん)で、礼儀があり、品格があり、好印象を持ってしまう」
 役人の指示で、かれら(日本人)が勝手に戦艦に食品、薪(まき)を運び込む。悪いことではないし、やめろとは言えない。当時の軍艦は他国民を乗せるのが一般的だった。

 かれらはさらに「新鮮な水の貢物をどうぞ」と善意の態度で、大勢の人手をもって樽の水を船上に運び込む。その実、「命の水」をどのくらい残量しているのか、と役人は測っているのだ。
 むろん、公儀隠密も頬被りした人足として、あるいは与力として加わっている。

             *

 弘化3(1846)年閏5月に、アメリカインド艦隊司令長官のビッドル提督がコロンバス号とビンセンス号の2隻を率いて、浦賀にやってきた。捕鯨船・マンハッタン号を浦賀に入航せさせた翌年である。

 浦賀奉行所、三浦半島警備の川越藩、房総警備の忍藩の小舟が、周囲を3重にとりかこんだ。約400~500隻が、アメリカ人の上陸を拒んだ。

 ビッドル提督の地位は7年後のペリー提督おなじである。
 最初に乗込んだ浦賀奉行所は与力の中島三郎助、通詞の堀達之助たちだった。マニュアル通り、臨検をおこなう。
 ビッドルは、アメリカ大統領の親書を持参してきていた。来航目的は、和親条約と通商条約の締結である、と話す。それが浦賀奉行所から同江戸詰を介して老中にすぐに知らされる。

 当時は、アメリカは東海岸から、喜望峰を通ってインド洋、アジアに入ってくる。とてつもない時間と経費を要する。太平洋航路ができていなかった。
 ビッドルが空の水桶を叩いてみせたから、アメリカ軍艦の二隻はすでに飲料水が欠乏している、と幕閣への報告で記している。

                *

「日本人は、外国事情によく通じていた。オレゴン問題について、詳しい知識を持っていたので、ビッドルはおどろいた」
 そのようにアメリカ側に記録されている。

「オレゴン問題」、私たち現在の日本人はどのていど知っているだろうか。アメリカ西部オレゴン地方の領有をめぐる4か国の争いから、やがてイギリス,アメリカの紛争になった。1846年のオレゴン条約で北緯 49度線を国境として決着をみた。
 まさに、ビッドルがきたのは、この1846年である。 
 
 この海外情報の入手先は、オランダが中心である。記録に残っていないが、英仏露の軍艦も入港すれば、臨検とともに、海外の情報収集に努めていたとしても、おかしくない。

 老中の阿部正弘からピッドルに対して、浦賀奉行を介して、
「アメリカは広大かつ強い国である。なぜ、遠方からはるばる小さく価値もない日本にやってくるのか。日本としても、大きく豊かなアメリカを相手にして利益になるはずがない。早々に引き揚げるのが良い。水、薪、食品は無償で船に積んであげよう」
 アメリカ大統領の親書は通信(国交)の国になるから受理はしないが、人道的に最大限に補給してあげよう、という申し出をする。
 むろん、これも諜報(ちょうほう)活動の一環である。

 日本側の資料だと、薪は5000本、小麦2俵、梨3000個、茄子200個である。そして、水は2000石(3万6000リットル)である。

 ビッドルは穏和で、辛抱強く、交渉に臨んでいた。しかし、これ以上の交渉は両国の関係を悪くする、米国への不信感をあおる結果になると判断したようだ。
 浦賀10日間で打ち切った。そして出帆している。

                  *

 ビッドル提督が浦賀を出港した、わずか21日後の弘化3(1846)年6月28日に、ビレ提督が率いるデンマーク軍艦のガラテア号が、相模湾の鎌倉沖に姿を現したのだ。

 目的は世界周遊の科学調査である。川越藩士や浦賀奉行の与力同心、通詞など計29人の日本人が同艦に乗り込み、来航理由などを聞き取った。


 浦賀奉行所は与力の中島三郎助、通詞の堀達之助は、ここ2年で3度目の外国船の対応だった。落ち着いて手慣れたものだ。

 浦賀奉行所から江戸表に、来航目的、デンマークの国旗、国王の肖像画スケッチ、軍艦の装備、乗組員約260人などが細かく報告された。

(ビレ提督も、日本人の特徴と印象を詳細に記している)

 臨検の間に、しだいに嵐となり、同艦は浦賀に入港せず、立ち去った。
 
                  *

 嘉永3(1850)年5月には、イギリス軍艦のマリナー号が浦賀に入港する。 浦賀奉行所は与力の中島三郎助、通詞の堀達之助のコンビは4度目である。

 マリナー号は、蒸気船の発達による「世界の海図」をつくるのが目的だった。下田港とか、伊豆大島とか、あちらこちら立ち寄っている。その都度、日本の臨検を受けている。マリナー号は別段、通商要求でもないし、浦賀奉行所との間で、武力衝突の気配すらなかった。
 のちに判明するが、日本人の音吉(愛知県)が中国人と名乗り、通訳として乗っていた。

                  *

 嘉永6(1853)年6月には、ペリー提督が浦賀にきた。またしても与力の中島三郎助、通詞の堀のコンビで、マンハッタン号から数えて、5度目の外国船の浦賀入航である。
 後世で言われるほど、かれらはオドオドしていない。与力の中島三郎助は艦上で身分を偽ったり、大砲の砲弾の種類とか、軍艦の装備とかをあつかましく質問している。

 その後、ペリー側が、大統領親書を受理しなければ、アメリカの陸上部隊を江戸にむけるぞ、戦争も辞さないと脅す。アメリカは10日間が飲料水、食品の限界だ、戦争などできるはずがない、と高をくくっていた。
 ビットル来航で臨検した「命の水」の保有量など、情報収集が生かされているのだ。

「かれらは蒸気汽缶が動くことにも、おどろきもせず、外輪をまわす仕掛けも知っていた」
 ベリー「遠征記」には記載されている。
 

 日本の歴史教科書が、外国船はマンハッタン号(1845年)の浦賀入港から、5度目であると表現すれば、『太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず』。こんな川柳は、当時、流行した黒船観光で興奮しているのだろう、と解釈できる。

            *

 世界の潮流の自由貿易主義には、もはや逆らえない。

『日本は交易で国家の利益を得よう。そのためには、まず開国しておく。そして、4-5年後に通商を結ぶ。日本から予告・通商を呼びかければ、西欧諸国はそのくらい武力を使わずに待つだろう』
 老中の阿部正弘は、この外圧を利用して思い切って舵を切ったのだ。

 進歩に対しては、かならず保守反動勢力が現れる。それが諸大名だった。

            *

 外国から資本主義が入れば「職業の選択の自由=人の移動」で、農民を領内に縛り付けられなくなる。とりもなおさず、封建主義の基本が崩れる。
 封建大名たちは、戦国時代の群雄割拠で得た利権だった。それが世襲で延々と続いてきたのだ。工業、商業など産業の発達で、領内から農民が消えていけば、石高が落ちる。自明の理である。

 大名はいずれも開国・通商につよく反対していく。資本主義を波打ち際で防御する、激烈なる攘夷(じょうい)論者たちであった。
 封建制の破壊で、お家がつぶれれば、家中(家臣)らも路頭に迷う。攘夷論が一気に武士階層にまで広がる。
 
 徳川家とすれば、領主の大名家とちがって、江戸には人があつまるし、封建制でなくとも、近代化と議院制度で、政権の維持はできると考えていたのだ。(のちの小栗上野介などは顕著だった)
 
 阿部正弘がアメリカ大統領の親書を開示し、広く意見をもとめた。広く公議を尽くす、第一歩だった。
 封建維持の大名のなかで、開国・交易に賛成したのはわずか福岡藩・黒田斉溥(ながひろ)だけである。(黒田家52万石は明治政府につぶされる)

 現在、開明派と謳(うた)われている大名など、後世につくられた英雄伝の創作ものだと見なしても間違いない。

                  *                
 
 英国はアヘン戦争で、鎖国主義の清国の市場を武力で解放した。南京条約、追加条約を締結して半植民地にした。
 すると、フランスも同様な不平等条約・黄埔条約(こうほじょうやく)を手に入れた。アメリカもおなじ厦条約(ぼうかじょうやく)を結んだ。
 寄ってたかって西洋の食い物にされていた。

 これは清国がかたくなに鎖国主義で門戸を固く閉ざしていたからだ。日本もこのまま鎖国主義をつらぬけば、西欧列強の強力な軍隊と戦争となり、民を苦しめる。

「戦争を回避するのが正しい道だろう」

 攘夷旋風のなかで、正弘は有能な人材をあつめて知力を武器にして、開国に踏み切る決断をする。
 この勇気は強靭(きょうじん)な精神力もあるが、天才的な鋭い人材抜擢の英知にある。若きエリート外交官が、西洋に立ち向かっていくのだ。
 戦争無くして開国して、さらに輸入関税20%という西洋どうしの利率で、5カ国と通商条約を結ぶのだ。
 ちなみに、インド、中国、南米諸国は軒並み5%の輸入関税である。

 蒙古襲来の国難で、若き北条時宗は二度の国難を救った。それ以来であろう。

長編歴史小説「阿部正弘」の執筆を終えて。いよいよ近代史革命へ(2)

 ある元外交官が、「ペリー提督が来航する、それ以前が重要です。そこを教えないかぎり、幕末史の本質はわかりません」と語っていた。同感である。

 私は「阿部正弘の生涯」(仮題)が9月末に刊行されたならば、1845年から1945年『100年間の歴史を学ぼう』運動を提唱し、多くの日本人に呼びかけていく。それ自体が近代史革命である。

 この2つの年代に、ぱっと気づくひとはいるだろうか。

 1845年2月22日、備後福山藩主の阿部正弘が、満25歳(数え27歳)で老中首座(現内閣総理大臣)になった。
 かれはペリー来航で、西洋列強の砲弾外交にも屈せず、情報が力なりで、「戦争無くして開国した」のである。1945年には悲惨な太平洋戦争が広島・長崎の原爆投下で終戦した。

 この100年には、「平和で解決しようとした人間」と「戦争で権威を得ようとした人間」、という政治家トップの思想と頭脳の差がでてくる。

『100年間の歴史を学ぼう』運動は、私たち現代人からはさほど遠くなく、祖父、曽祖父の時代であるし、身近に感じてくれるだろう。
 多くの家には、いまなお軍人姿の親、親戚筋が写ったアルバムもあるだろうし、仏壇には位牌がある、そんな手が届く時代なのだ。この方々が、なぜ戦死したのか。その理由と回答はこの100年のなかにあるのだ。
 

 ここを学べば、千年間に値するほど、濃密な歴史がこめられている。「民への政治」と「権力の政治」を学ぶほどに、私たちが令和のいまから「将来を考える」シュミレーションになるのである。人間は過去を参考にして、明日からの予測と行動を考えるからだ。


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 水野忠邦が「天保の改革」に失敗した。阿部正弘をそれを引き継いで老中首座になったのが、弘化2(1845)年2月22日である。
 アメリカ捕鯨船・マンハッタン号が鳥島(ジョン万次郎がかつて漂着していた)で、11人の阿波国(徳島県・鳴門)の難破船の日本人を発見して救助した。
 クーパー船長は捕鯨漁を中止し、かれらを日本にとどけるために、鎖国日本の江戸湾に勇気をもって向かうのだ。さらに、その途中の房総はるか沖合で、これまた銚子の難破帆船11人を救助した。日本人は合計22人である。

 クーパー船長は手振り身振りで、「日本幕府に入港許可をとってきてくれ」と、外房の勝浦と白浜の二か所で、日本人を2人ずつ二組を上陸させるのだ。
 
 それぞれ領主がちがっていた。一方は浦賀奉行所へ、もう一方は領主の御3卿・清水家(江戸)に護送された。
 奉行と清水家はそれぞれ事情聴取したうえで、組織の頂点となった阿部正弘に処置の「伺い書」を挙げた。それが弘化2年2月22日である。

 これだけ『2』という数字が並ぶのは、阿部正弘が奇跡の登場を予感させる。

 250年の守旧・幕閣の頭が固い、『遭難民は長崎に送り、そこからオランダ船でいちどインドネシアかマカオに送り、あらためて長崎に連れてきて、尋問する』という従来の国法で処すべし、と主張した。

 土岐頼旨(とき よりむね)・浦賀奉行(江戸詰)から、『数え10歳の孤児が乗っています。(銚子船)が正月休暇で釜石に入港すると、寒冷地なのに袷の着物もなく、空腹の孤児がいた。可哀そうなので、船員がマンマンを食べさせた。正月明け出帆する段になっても、孤児が下船しないので、食事を与えて乗せていたら、難破した」と証言しています。

「この孤児をマカオまで行かしめるのは酷です。仁愛の処置を」と、土岐奉行が阿部正弘に伺い書を出したのである。
 正弘は人道的な見地から、孤児を救うために、国法を曲げて、アメリカ捕鯨船を浦賀に入港させた。これがアメリカ船の浦賀入港の第一歩となった。

 この影響が漸次拡大し、やがてペリー来航へとつながっていくのだ。

 阿部は「民のいのち」を大切にする人物だった。相手が、浮浪児・孤児でも、おなじ日本人だ、哀れな子を助けるべし、と裁許した。それでも、「祖法は守るべし」と大反対した大目付を即座に左遷し、正弘は土岐の上申書をたたえて大目付に据えた。


 大目付役は代々世襲の色彩が強く、豪華で広い役邸住まいだろう。ひとたび左遷となれば、政治生命は断ち切られて、1-2日で役邸から立ち退きが要求される。それは厳しいものだ。(大名屋敷、旗本屋敷、幕閣の役邸は幕府の貸与が原則である)。

 25歳の宰相(さいしょう)が就任から1か月にも経たずして、「鎖国は祖法」の禁を破り、アメリカ船を浦賀に入港させたうえ、大目付役を断罪したのだ。

 アヘン戦争後に、英仏米は次のターゲットを日本ときめていた。未曾有(みぞう)の国難の時代に流星のように現れた天才的な若き政治家だけに、決断は大胆で早い。

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 こうした経緯を小説「阿部正弘の生涯」で展開するために、当時の浦賀奉行(浦賀と、江戸詰の双方)、清水家の尋問書を読み込んでみた。海外側の裏付けも探す努力をした。

 デンマークの海軍提督が書いた「世界周遊記」が目に止まった。……提督が上海に立ち寄り、中国系英字新聞「チャイニーズ・レポジトリー」を読むと、米国捕鯨船のクーパー船長の談話が乗っていた。
 ビレ海軍提督は、その全文をデンマーク国王に送った。その新聞の元は、ホノルルの新聞「ザ・フレンド」から転載されたものであり、同地(ホノルル)の医学博士が、クーパー船長から聞き取って新聞に寄稿したものです、と国王への手紙に記す。
 そのうえで、「私も日本に行ってみます」、ビレ海軍提督は追記している。

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 マンハッタン号の船員は、浦賀に滞在中の上陸は許されず、数日間滞在した。水、薪、食料が無料でもらえた。『こんかいの浦賀入港は特例です。ふたたび来ないように』。この英字新聞の記事と、日本側の資料よる、正弘が土岐頼旨に与えた入出港・指示書とまったくおなじである。
 むろん、救助された日本人の人数も22人でまちがいなかった。

 まさか、デンマーク軍艦のビレ海軍提督が、国王に送った手紙から、アメリカ捕鯨船のマンハッタン号の浦賀入港の客観的な裏付けが得られるとは、思ってもいなかった。
 私自身も、おどろいた。

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 補足だが、土岐頼旨が2度目の「伺い書」の原文が現存している。
『マンハッタン号の件は未決でしょうか。大嵐で難破した日本人が生きて母国にたどり着いて、異国船の船内で、上陸を切に願っています。差し出がましいのですが、とくに10歳の子が哀れで、胸が痛みます。釜石の両親にも見棄てられた貧しい孤児ゆえに、幕府があたたかく救ってあげる。それが日本人の仁愛かと存じます』
 そうした内容が深くつづられている。目がうるみ、涙ぐんでしまう。
 教科書では教えてくれない出来事だ。それゆえに現代文にして、多くの日本人に知ってもらいたいと、私は作中で紹介している。
 これが幕末外交史のスタートである。

 このマンハッタン号の浦賀入港から、老中首座・阿部正弘と、日本中をゆるがす幕末史がまさしくはじまるのだ。

 
【関連情報】

 デンマークの海軍提督が使用した当時の海図があった。開聞岳(写真)はヒュルネル岳、佐多岬はチチャゴフ岬となっている。奄美諸島の殆どが現代に通用しない島名である。
 これはロシア人(クルーゼンシュテルン)が名づけたものらしい。
 
 外国から見れば、鎖国の日本は外国人を入れさせず、未開の地であった。船乗りたちが勝手に日本の地形に地名をつけて世界共通で共有していたのだ。
(ナガサキ、エドは知られていたらしい)