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【寄稿・エッセイ】若返った私 青山 貴文

 令和4年の正月の朝が来た。私は、朝型人間で、正月だろうが4時ごろ目が覚める。といっても朝5時頃は真っ暗だ。

 数年前、「正月くらいはのんびりしなさいよ」と妻にいわれ、目が覚めてから、寝床の中でいろいろ考えたり、本を読んだり、ラジオを聞いたりした。

 その日は、一日中だらだら過ごしてしまりがなく、体調がおかしくなった。それ以来、正月でも目が覚めると、すみやかに床を離れる。


 書斎で、お湯を沸かしお茶を飲みながら、読書や調べものをしたり、数日前に記述したエッセイの推敲をしたりする。文章を数日寝かせると、矛盾点や表現のおかしなところがたやすく見つけられる。
 そこで、いつも数編のエッセイ原稿を、パソコンに保存し、これはという数編を選んで推敲を重ねたものだ。ところが、81歳ともなると、作文力が落ちたのか、1編をパソコンに保存するのがやっとだ。その一編を、数日おきに推敲して、今までなんとか毎月一回、私のブログに掲載してきた。


 私は、新橋のエッセイ教室に、毎月一回通い続けて14年になる。このブログに載せた作品をエッセイ教室に投稿し、穂高健一先生や読者の皆さんのご意見をいただいている。

 先生や皆さんの感想文・ご意見を原作文の次にブログに載せる。数日して、主に先生に添削していただいたエッセイを改作文としてブログに掲載する。エッセイ好きの読者の中には、「青山さんのブログは、どのように改作すればよいか分かるのですごく勉強になる」と言われる。

 「エッセイを志す後輩あるいは同志のために、恥を忍んで、拙作エッセイを世間様に晒している」人間何か一つ世の中のためになることをやっていると、生きがいを感じ、若返るものだ。
 
 私には、この早朝が新鮮で、脳細胞が活性化して事象を深く把握し、文章化できる唯一の時間帯だ。この朝のひと時を有意義に楽しく過ごせば、午後からは何をしても充実した1日になる。
 さて、そんな凡庸な朝型人間だが、今年の正月の雰囲気はいつもとどこか異って感じる。特に、居間から見える奥行きのない狭い平凡な庭の景色も、いつもと変わりはないか、今年はなにか明らかに違う。


 昨年暮れに夫婦して、居間の一間半の大枠の透明ガラス引き戸の網戸を取り外し、裏の軒下に冬場だけ置くようにしてみた。居間から見えるいつもの庭の垣根や草木が、二倍広く見え、大げさだがパノラマの景色を見ているようだ。
 
 さらに、昨年暮れ、吹き抜けの玄関の間接照明にもなっていた二階の洗面所の鏡の蛍光灯を取り外した。そして、LED電球に変えた。すごく明るいわりに電力は17ワットと少なく頗る経済的だ。
 この蛍光灯は、30数年前、家を改築した時の古いものだ。ここ数年接触が悪いのか、点いたり消えたりし、最近はつかないことが多かった。
 
 居間の網戸を外し、二階の用をなさない蛍光灯をLEDに変えた。ともにいつかやろうとしていたことを実行したまでだ。
 懸案の2カ所を明るくしただけで、今年の正月は若返った気がする。

                                  了

「元気100教室・エッセイ」 現状維持 金田 絢子

 令和三年十二月、雪の便りも届き、ぐんと寒くなった。ところどころ、一重の椿がしおらしく赤色を覗かせている。

 ある日、買物の帰り狭い歩道にさしかかると、八十三歳の私と同年輩の紳士が向うからやって来た。私を見ると立ちどまり「どうぞ」という風に身をかがめた。
 私が通り易いように、道の端に体を寄せてくれている。私は「ありがとうございます」と丁寧に言って、通りすぎたが、多分、私の歩き方にどこか不安定なものを感じとったのだろう。

 実は、同年十月十五日、私は左脚の付け根から踝にかけて、激しい痛みに襲われ、その場に凍りついた。かかりつけの内科医に紹介してもらい、歩いて十分ほどの総合病院の整形外科に行った。

 レントゲン検査の結果、左の腰骨のゆがみが神経を圧迫しているのだと診断された。痛みどめと胃ぐすり、寝しなに飲む神経をやわらげる薬を処方してもらった。

 痛みは日を追って楽になっていったが、玄関の三和土におりてドアをあける動作は、向こう脛にひびく。歩くのはあきらめて、四、五日外へ出なかった。家の中はかがんで歩いた。

 それまでもよろよろ歩いていたのだが、なおいけなくなった。力を入れても脚が思うように言うことを、聞いてくれない。年よりだから快復は遅いだろうが、歩かなくてはと痛切に思った。
コロナのせいで、月に一度の新橋のエッセイ教室はしばらく通信で行われていた。が、九月から対面でも実施される運びとなった。

 九月はいそいそと出かけたが、十月は生憎、脚の神経痛で参加できなかった。十一月三十日は思い切って出席を決めた。決めたものの落ち着かず、早すぎる時刻に家を出て、地下鉄の都営浅草線に乗り、新橋まで。駅の長い階段をやっとのことでのぼって、教室のあるビルに辿り着いた時には、全身がふるえるほど嬉しかった。


 思えば、この日の外出は、私にとって久々の遠出であった。

 世界中が、コロナ騒ぎと縁の切れないまま、年が明けた。寒冷前線が猛威をふるい、北国に大雪をもたらし、六日、東京も雪に見舞われた。

 私は七日の十時に歯科の予約が入っていた。テレビは「凍結に充分注意してお出かけ下さい」とくりかえしている。

 普段は、我が家のわきの坂道を通って三分で行かれるのだか、危険なので迂回することにした。医院の入口まで、娘が付き添ってくれた。娘に言われて傘を杖がわりに持って、決死の覚悟で出発した。ともすれば、つるりとすべりそうになる。傘が役に立った。

 診察を終えて、受付のあたりで、
「あしを痛めてから、脚力がにぶりました。でも歩かなければと自分に言い聞かせて、極力歩いています」
 するとS先生は言葉をかみしめるようにこう、応じられた。
「歩いていれば、よい結果がついてきます」
 私より五つ年下のS先生は、ずっと以前から、長距離歩行をご自身に課して来た人だ。信憑性のあるひとことは、胸にしみた。

 歩みをはじめたばかりの新年を前に、勇気づけられ、爽快な気分で、家路についた。幸い往きも帰りも、転ばすにすんだ。

 今さら完治はのぞめないにしても、何とか現状維持で、この年をのりこえられそうな、嬉しい予感がする。

「元気100教室・エッセイ」文明のあり様を考えよう 桑田 冨三子

 世の中にはたくさんの生き物がいる。宇宙にある無数の星の中で、現在、生き物の存在が判明しているのは地球だけだそうだ。地球には海があり、生き物の祖先となる細胞がそこで生まれた。現存の生物はどれも細胞からできており、皆この先祖細胞から進化してきたとされている。人間もそうである。

 人間の特徴は、二足歩行、大きな脳、自由な手、話ができる喉の構造による言葉である。700万年ほど前、ヒトはアフリカの森に暮らしていた。気候が厳しくなり森が縮小し、食べ物集めが苦しくなった。
 ヒトは森を出て遠くサバンナまで行くようになった。
 そこで果実などを見つけたりすると、ヒトはそれを自分一人で食べずに家族と一緒にと思い、それを手でつかみ、二本の脚で立ち上がり、歩き、離れたところまで、運ぶようになったという。これは他の生き物には見られない素晴らしい能力である。強い共感や想像力、信頼感、それに火を使うようになった人間は、調理をし、きれいな装飾品を造ったりして、豊かな生活を営むようになった。

 自然を利用することを知ったヒトは、言葉を用いて皆で協力しあい、農業をはじめた。生活の基本である食べ物を作るための様々な工夫は、食生活を豊かにし、環境を変えた。「農業革命」である。これは人間が持つ能力を生かして生まれた文明といえよう。

 他の生き物とは違う生活を始めた人間は、次に「産業革命」を起こす。石炭・石油・天然ガスの化石燃料を使って物を大量生産し、自動車や飛行機で移動する社会を作り始めた。科学によって、人間も含めてすべてを機械と見做し、分析によってその構造と機能を知れば、すべてがわかる、という「機械論」がうまれた。

 機械を基本にものを考えると、①効率を上げることがよい。②何にでも正解がある。③すべて数や量できまる。という事になる。速い新幹線は便利だ。洗濯機も電子レンジもありがたい。機械が提供してくれる速さは便利で不可欠である。世のお母さんたちはこどもに「速くしなさい」といつも言う。現代文明は人間を機械として見ている。

 しかし、ここで「速い」ということを、ようく考えてみよう。はたして人間は本当に速さを欲し、望む生き物なのであろうか?


 人は生まれ生きていく、という事は時間を紡ぐことである。心地よく時を紡いで長い人生を送る。これが、人の人らしい生き方ではないのか。

 いまやその人類の、素晴らしい文明が深刻な環境問題を起こしている。工場排ガス、自動車排気ガスなどによる地球温暖化、生態系の崩壊、異常気象、土地の水没、ゴミ問題、海洋汚染、水質汚染、土壌汚染、新型コロナウイルスの感染拡大など、数限りない。

 もちろん、文明そのものを否定することはない。ただ、自然に還ろうと言ったのでは人間の人間らしさがなくなってしまう。


 現代文明をどのように見直すか。


 それが今の我々に与えられたテーマではないだろうか。文明を作り出す能力は人間という生き物だからこそできることなので、それを否定しては意味がない。現代文明だけが文明ではない、という基本を考えるところに我々は置かれている。

 文明の有り様を考えなければならない。

(人間とは何か)
 と問い続けたエマヌエル・カントという哲学者が、七一歳になって書いた本『永遠の平和のために』にはこうある。

「殺したり殺されたりするための用に人を当てるのは、人間を単なる機械あるいは道具として他人(国家)の手にゆだねることであって,人格にもとづく人間の権利と一致しない」

「地球は球体であって、どこまでも果てしなく広がっているわけではなく、限られた土地の中で人間は互いに我慢しあわなければならない」

「永遠平和は空虚な理念ではなく、我々に課された使命である」

                               了

【寄稿・エッセイ】永遠の命とは 石川 通敬

 最近テレビで考えさせられる番組を見た。サイボーグとして生きる科学者ピター・スコット・モーガンの話だ。サイボーグがどういうものか知らなかったので私は、妻に聞いた。すると彼女は、
「もう五十年もまえから知られている言葉なのに、ほんとに知らないの。あなたが野球も、サッカーも、相撲のことも知らないでよくビジネスマンが務まったものといつも思っていました」と。

 これ以上口論しても仕方ないので、とりあえずネットで調べると、彼女の言うことが分かった。
 石ノ森正太郎が1966年に作成した大ヒット作、SF漫画「サイボーグ〇〇9」で知られていたのだ。私が好む漫画は、サザエさんとかドラえもん,サトウサンペイなどで幅は狭い。

 アニメにも、SF映画にも関心がない。だから飲み会等がこうした話題で盛り上がっている時は、自分はしゃべらず、静かに酒を飲んでいた。名誉のため付言すると、私が参加した飲み会でサイボーグ009が話題になったことは、一度もなかったと記憶している。

 面白そうな話題なので、過去のことにとらわれず、今回はこのテーマでエッセイを書くと決めた。先ず参考にしたのは番組の録画だ。多分私みたいな人がかなりいると考えたのだろう、再生が始まってしばらくすると、
「サイボーグとは、人が機械と一体化して機能しているシステム」
 との説明があった。

 さらにより話を分かりやすくするための事例がいくつか紹介されている。例えば胃の役割を外付けの器機にさせるとか、排せつ物の処理だ。

 しかし話はすぐわかり難くなった。主人公ピーターのアバター(分身)によるデモンストレーションだ。それは、自分の脳が考えることをAIに覚えさせ、自分の顔をスキャンして映像化された装置がアバターだ。しかもそれを彼の母国語(英語)ではなく日本語に翻訳して話させているから驚かされる。

 もう少し知りたいとネットで調べると、先ず彼の著書の広告が見つかった。同書のカバーには、
「ネオヒューマン 究極の自由を得る未来 今とは違う自分になりたいと闘う全ての人へ」
 と書いてある。
 同氏は、・ロンドンの大学をでた人間工学の専門家で、コンサルタントとして欧米で活躍していた。ところが五〇歳を過ぎた二〇一七年に運動ニューロン疾患(ASL)(手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気)と診断され、余命二年と宣告を受けた。

 彼はこれを「画期的研究の機会」と受け止め、自らを実験台として「肉体のサイボーグ化」「AIとの融合」をスタートさせたのだ。
(実は、その後四年を経て今も健在で、今回のテレビ出演を実現している)。
 私は、彼の著書を早速読んでみた。しかし同書はピーター氏の自伝だったため、私が求める疑問に対する分かりやすい説明は一つもなかった。


 私がまず知りたいと思ったのは、頭脳のサイボーグ化問題だった。それを刺激したのが、将棋の藤井さんだ。彼がAIで勉強しているとよく聞く。
 私は、その彼の頭脳の一部がすでにサイボーグ状態となっているのではないかと考えた。昨年急逝された早稲田大学の高橋透教授は「人間の脳はコンピューターと融合しサイボーグ化せざるを得ない」
「ヒト化するAI対サイボーグ化する人」と言われたが、藤井棋士はその生き証人なのではないかと私は思うのだ。


 次に知りたいと思った問題は、現在全世界の企業が血眼になっている自動車の自動運転だ。

 人間は自分の頭脳・目・耳・手足の機能をまとめて自動車にゆだねようとしている。人間と機械が融合することをサイボーグと定義するのであれば、自動運転車は、人間から独立したロボットに過ぎない。しかしそう遠くない将来両者が、接点を見つけ一体となって機能するようになるのではないかと私は想像する。

 最後に、私が知りたいと思ったのは、人の命とは何かだ。完璧なサイボーグ装置が完成すれば人間は理論的には、永遠に生きられるはずだ。
 生身の肉体を全て機械に置き換え、自動車をメインテナンスするように耐用年数に応じてすべての部品を交換して行けば、そのサイボーグの命は永遠のハズだ。

 しかし頭脳を新しいものに交換する時、
「今後は私の過去にとらわれず、新しい考えで人生を切り開きなさい」
 と指示しときどうなるのだろうかという思いが頭をよぎった。もし新しい頭脳に自分の人生を独自に切り開き、永遠に生きるようにと指示すると、果たして自分の命は永遠だったと言えるのだろうかと、ふと考え込んでしまった。

                      了

賀正 : 徳川慶喜将軍の正式な官位はご存知ですか = これにはおどろいたな

 明けましておめでとうございます

 ここのところ、歴史小説の中編(400字詰め換算80枚)に没頭しており、年末の大掃除も、除夜の鐘も、さらに初詣もいけなかった。家庭内で、あれこれ用事を言いつけられるたびに、
「予定よりも遅筆になってしまった。ほんとうは大晦日を待たず、原稿を仕上げて入稿する予定だったんだ」
「毎年じゃないの。よその御主人は、年末いろいろ手伝ってくれているというのに」
「結婚を決めるまえに、相手を選ぶ目がなかったんだな。それは自業自得というもの。それに男運がないんだよ。あきらめが肝心だ」
 そんな軽口をたたいている間にも、日本ペンクラブ(以下・PEN)の有志による文藝誌『川』の締切りが刻々と近づいてくる。
 2022.1.6.001 川.jpg全員がプロ作家だし、編集長も元大物だ。週刊誌なみに締切りは厳守だ。次号に回されると、3~4か月先だ。

『商業誌は売れるものしか書かしてくれない。それは商品で、文藝とはいわない。むかしの文学同人誌・白樺派(志賀直哉・PEN3代目会長)のように本物の文学を目指そう』
 作品の筆者は印税、原稿料はナシ。その上、一人50,000円を出す。
「自費出版かよ」
 本は50冊/一人の割り振りだ。
「定価1,000円をつけているから、自分で手売りして、ちゃらにして。生活費は別の出版社で稼いで」
 発起人(小中陽太郎・元PEN専務理事)のムシの良い話からスタートとした。
「どうせ、3号で、廃刊だ」
 だれもがそう信じていたし、私もお付き合いだと思い、創刊号から仲間に入っていた。初期の合評会はいつも、これで最後のような打上会の雰囲気だった。酔いが回ったところで、世話人(高橋氏・純文作家)はやや呂律がまわらず、勢いから、
「次回も、だそうか」
 また50,000円取られて書くのか。中村氏(早稲田大を除籍になり、なぜか皇室のいく大学卒)がそう声を張り上げながらも、今回の8号まで来ている。
「うれしい誤算だったよな。『川』に書きたいという希望者が増えてきているし。女性も含めて。この調子だと10号まで行くよ」
 世話人がおどろくくらいだ。裏を返せば、プロ作家がいかに商業誌でなく、自費でも本物の文学を志向しているかだろう。
 また、本気で書き、気合が入っているし、内容が充実しているから、定価1,000円は高すぎるという苦情もきていないようだ。

 私はこんかい福地源一郎を取りあげた。明治初期の大物記者である。個人的には、かれの反骨精神が好きだ。

【タイトルは・ネタバレするので割愛】
 書き出しは下記のとおりです。

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 甲板の手すりに寄りかかるジャーナリストの福地(ふくち)源一郎は、すでに三十歳になっていた。旧幕臣だった福地は、日本人にしてはめずらしい洋装である。出港まえから、デッキの上で、かれは乗客の話題にも聞き耳を立てていた。
 2022.1.5.001fukuchi.jpg「薩長の役人たら、江戸(いまは東京・トウケイ)で、悪口を言いたい放題じゃない。口惜しいったら、ありゃしない」
 和装の女性がそう語る。
「鳥羽伏見の戦いで、四日目に慶喜公が逃げて江戸に帰ってきたから、幕府軍が総崩れになった、と言っておる。だから、愚公(ぐこう)な将軍だと吹聴(ふいちょう)しておる」
「薩長の政治家のいうことはホラが多いし。おなじことを百回も聞かされたら、嘘もほんとうになるというし」
「そもそも、慶喜公が大政奉還で、なぜ二百六十年もつづいた政権なのに投げだしたのか。かわら版を読んでも、それがよくわからない」
 紋付姿の男がはなす。
 永代橋のたもとで、横浜への蒸気外輪客船が、朝九時の出航の銅鑼(どら)を鳴らした。腹にひびく音だった。船尾の日章旗が、十二月の風ではためいている。
 東京と横浜をむすぶ航路を開設させたのは、徳川幕府で、慶応三(一八六七)年一〇月だった。稲川丸が初就航した。ことし(明治三年)は、あらたに横須賀製鉄所で建造された二五〇トン・四〇馬力の木造外輪船が加わったのだ。
 上等席は金三分、並みは金二分だった。
「太政官の役人は威張(いば)りくさって、文字はもろくに読めやしないで。あんなのが天下を取ったなんて、世も末ね。慶喜(ケイキ)さん、なんで頑張れなかったのかしらね」
 この夫婦は身なりからして豪商らしく、横浜の海外貿易で財産を成したのだろう。
 両腕をくむ福地は、記事ネタの生の声として、頭のなかに書き込んでいた。最近は、これに類似した話題が多く耳に入ってくる。
「おおきな徳川幕府が倒れるなど、だれも考えておらなかった。まさか、だったな。十五代慶喜将軍は水戸老公の息子のなかで、一番頭がよくて、回転が速く、家康の再来(さいらい)だとか言われていたんだろう。いまでは幕府をつぶした愚か者だと、江戸っ子からも、わしらの幕府をつぶしたと、焼けくそで、悪口がでるようになった」
 夫婦の話は出帆しても、つづいていた。
 福地の耳は夫妻に、目は頭上の飛ぶ白いカモメを追う。中央の煙突から、黒い煙が青空に舞い上がり、十二月の潮風のなかで消えていく。ガタゴトと両輪の音がおおきくなった。船脚が早まってきた。
 福地源一郎は旧幕臣だけに、自分にもやりきれなさがあった。
 この福地はどんな人物なのか。文久元(一八六一)年に文久遣欧((ぶんきゅうけんおう)使節団の通訳として参加した。慶応元(一八六五)年にも、ふたたび幕府の使節団として欧州に出むた。かれはロンドン、パリで発行されている新聞にふかい興味をよせた。さらに西洋の演劇や文化にも関心をむけた。
 慶応三年十月の大政奉還をきいた福地は、幕府の将来に見切りをつけ、ジャーナリストに転向した。そして、慶応四年閏四月、江戸が東京になる直前だった、『江湖新聞(こうこしんぶん)』を創刊した。翌月には上野戦争がおきている。
 福地は明治新政府にたいして辛辣(しんらつ)な批判記事をつづけざまに掲載した。
『明治政府は良い政権だというが、徳川幕府が倒れて、ただ薩長を中心とした幕府が生まれただけだ』
 これら記事が明治政府の怒りを買った。『江湖新聞』は発禁処分になり、福地は逮捕された。明治初の言論弾圧事件である。
 参議の木戸孝允(たかよし)がとりなして、江湖新聞は廃刊にする条件で、福地は獄から放免となった。
 
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 ※ 福地源一郎の関連資料を読むさなか、徳川第15代慶喜将軍の官位がありました。とても珍しいので、紹介します。

『従一位太政大臣近衛大将 右馬寮御監淳和奨学両院別当 源氏長者征夷大将軍』 
  おぼえられますか。それ以前に読めるでしょうか。

「じゅういちい だじょうだいじん このえたいしょう うめのりょうぎょかんじゅんな しょうがくりょういんべっとう げんじのちょうじゃ せいいたいしょうぐん」

  官位ご昇進の式で、朝廷から賜る将軍の宣下(せんげ)です。

2022.1.5.002fukuchi.jpg 慶喜は当時としては長寿です。大正2(1913)年11月22日で亡くなりました。戒名は御存じでしょうか。
 大僧正から授与された立派な長い長い戒名だろうな、さぞかし。ところが慶喜は神式による葬祭なので戒名がないのです。

 ちなみに、慶喜は上野戦争前に東叡山寛永寺で謹慎しました。しかし、死後は同寺の歴代将軍の区画墓地に入れてもらえません。なぜならば、神式で、仏教徒ではないからです。
 すぐちかくの谷中墓地に、慶喜の墓が前方後円墳に模して埋葬されています。
「これだと、仏教のお寺に入れてくれないな」
 と納得できます。
 
 戊辰戦争を戦わなかった慶喜は『天皇(当時は幼帝)に弓を引かない』という「恭順謹慎」の態度で、江戸城を無血開城します。天皇陵のような前方後円墳の墓をみれば、慶喜が皇室の血だとわかります。
 かれの実母は日本の皇族であり、織仁親王第12吉子女王(よしこじょおう)です。慶喜は七男です。

 歴史は物語風に、勝者に都合よく造られています。このたびの福地源一郎を使った《川》の作品はそれがテーマになっています。

 薩長史観の小説は、とかく慶喜がまるで天皇の敵、尊皇思想の西郷隆盛などが追討令を盾に「慶喜を殺す」と口にしたかのような描かれ方です。イギリスのパークス公使が「先の慶喜将軍の刑死は認めない。ナポレオン一世すら殺されなかった」と新政府軍に殺害を止めさせたとか。

 慶喜は皇室の正統な血筋であり、静寛院・和宮とともに、はじめから殺害などできない高貴な存在なのです。

                      了
 
        
 

 

 

ヤマサ醤油がすごい。世界で一社しかない「新型コロナワクチン原料供給」=HPから

「ヤマサ醤油」(本社・千葉県銚子市)が、新型コロナウイルス対策として、世界中で使用されているmRNAワクチンに欠かせない原料(シュードウリジン)として主要な供給元になっている。

head1 (2).jpg それも世界に一社しかない、と私は聞いておどろきだった。

 私が社会人になったばかり会社員時代に、顧客のひとつがヤマサ醤油だった。月に一度は銚子に訪問していたから、より親しみをもっている。

          ☆

 ここ数か月は、日本人がなぜコロナワクチンの新規感染者が極度に少ないのだろうか、と疑問を持っていた。欧米では一日に数万人単位の感染者数である。おなじ東洋人の韓国でも半端な患者数ではない。
 しかし、日本は100人前後だ。あまりにも違いすぎる。

 菅元首相が記者会見でしばしば「専門家の意見を聞いて」と話されていた。その専門家はこの秋の新規感染者の激減にたいする医学的な見地を示さなかった。
 わからなかった。それが本心であり、正解だろう。
 
 最近、ふたたびオミクロンの拡散の恐怖(?)話題が出てくると、専門家はのこのこTV出演し、あれこれ語っている。実に、内容が乏しい。
「この学者は、新型コロナウイルスの研究などロクにしないで、テレビに出まくっている。足を運ぶのはスタジオでなく、研究室だろう」と批判したくなる、過去の名誉教授の肩書だけで生きているタレント・学者を多くみかける。

           ☆

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 菅元首相が一人百万人接種という途轍もない目標をかかげた。総裁選を投げだし、コロナ対策に没頭してきた。
「百万人など、できないだろう」と私のみならず、日本人のほとんどは否定的な目でみていた。
 渡米した当時の菅首相は、ファイザー社などから、大量の供給を仰いだ。河野大臣もヨーロッパ諸国からワクチンを引っ張ってきた。菅=河野コンビは、一日百万人を実現させた。むろん、それには医療機関の医師や看護師たちの甚大な協力があったからだ。
 いまや世界各国から日本ミステリーとまで言われている。
「なんで、日本だけがワクチンが手に入るのだろう?」
それが不思議だった。
 
 新型コロナウイルス対策として、mRNAワクチンに欠かせない原料メーカー「ヤマサ醤油」のシュードウリジンの存在があったからだろう。
「ファイザーにしろ、モデルナにしろ、日本政府の要求を受け入れておかないと、『ヤマサ醤油』から供給を止められるか、絞られる」という不安がある。
 日本が最優先の出荷国になったのだ、と私は理解におよんだ。

         ☆

「ヤマサ醤油」HPから、「シュードウリジン」に関して一部抜粋してみます。(写真はすべて引用です)

 mRNA合成用原料のシュードウリジン

 ヤマサ醤油の医薬・化成品事業部では、核酸系うま味調味料の製造開始を発端に、核酸化合物に特化して60年以上事業展開してきています。1970年代からは医薬品原薬の製造販売も開始しています。
 以前は研究用試薬として数多くの核酸化合物を合成し販売していましたが、その一つとしてシュードウリジンを1980年代から販売しております。

2021.12.26.01.png 古くから製品として持っていたこともあり、今話題のmRNA(メッセンジャーRNA)の合成用素材として以前からご使用いただいております。
 体内に存在する通常のmRNAは配列をなしている4つの核酸化合物の一つがウリジンであるのに対して、治療薬やワクチンとして開発されているmRNAはウリジンのかわりに修飾核酸(シュードウリジンやその他の誘導体)が使われています。
 尚、シュードウリジンはRNAの一つであるtRNA(トランスファーRNA)などの構成要素としてもともと体内にも存在します。
※tRNA:RNAの一種で、遺伝情報からタンパク質が合成されるときに、アミノ酸をリボソームに運ぶ役割をもつ。

 新型コロナウイルスワクチンのmRNAは、コロナウイルスの突起部分(スパイクタンパク質)のmRNAを投与すると、そのmRNAによりスパイクタンパク質が細胞内で生成され、結果それを攻撃する抗体が作られるという仕組みです。
 通常のmRNAですと自然免疫により減少し蛋白質が作られにくくなるところ、ウリジンを修飾核酸に置き換えたmRNAの場合、この免疫機能を回避できるようになり、十分タンパク質が作られます。


bubl01_ph04.png mRNA自体は今回の新型コロナウイルスの開発以前から、他のワクチンや治療薬として研究開発されております。

 ヤマサ醤油では研究段階からシュードウリジンを提供してきております。

 その流れのなかで2020年に新型コロナウイルスワクチンの開発が始まり、おなじ用途のmRNA製造用でも、ご利用頂くようになっています。

 2020年12月初め、新型コロナウイルスワクチンのmRNAが、世界で初めてイギリスの規制当局から、緊急使用の承認を受けましたが、ヤマサ醤油ではまだどうなるか分からない秋の段階で、承認された場合に備え、増産体制を整えました。

 未だ需要は増える見込みであり、また将来ふたたびパンデミックが起こった際にも無理なく供給ができるよう、さらに製造能力拡張をふくむ体制整備をおこないます。     

幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組=あだち区民大学塾で講演

 足立区郷土博物館で、区制80周年の記念事業の一環として、令和2年11月29日から令和3年2月23日まで、文化遺産調査特別展『名家のかがやき』が開催された。
 穂高健一著「紅紫の館」(令和3年2月)が発刊された。
「あだち区民大学塾」において、2つの題材を基に講演会が企画されました。

 講演会の主題『幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組』で、10月2日(土)、同月23日(土)、同31日(日)の3回にわたり開催されました。

 講師は3回とも異なり、午後2時~4時であった。

足立講演会.jpg
 第1回は小説「紅紫の館」の作者として穂高健一である
 足立で農家(新田開発)と武士(江戸城の北東部の守り)の両面の役割を担った郷士・日比谷健次郎の活躍を紹介した。


 おなじ武蔵の国の郷士でも、幕末に日野周辺の八王子千人同心から近藤勇、土方歳三などが京都に挙がった新撰組(当初は浪士組)が名高い。
 しかし、武蔵国・足立区においても、千葉道場の免許皆伝者の日比谷健次郎は、内密御用家として江戸防衛に徹し、おおいなる活躍をした。

 なぜ桜田門の変が起きたか、まずはそこから話をすすめた。そして、大政奉還、鳥羽伏見の戦いのあと、慶喜が江戸城を無血で開城したのに、なぜ薩長主体の新政府軍が上野戦争を仕掛けたのか。
 
 それは上野の東叡山寛永寺の貫主・輪王寺宮(りんのうじのみや)が東武天皇に君臨する動きがあったからである。

 京都に眼をむけると、父の孝明天皇が崩御すると、幼帝・睦仁(むつひと)が満14歳で践祚(せんそ)した。ただ、即位の礼を執り行っておらず、天皇ではない。
 ところが、薩長は幼帝・睦仁がさも天皇のごとく好き勝手に扱っている。君側の奸(くんそくのかん)だと、旧幕府が強い反発を抱いていた。(この段階で明治天皇とするが間違いである。会津戦争が終わる寸前まで、幼帝の睦仁殿下である)

 かたや、輪王寺宮能久(よしひさ)は二十歳であり、孝明天皇の義弟ある。天皇になる資格は十二分にある。
 
 奥羽越列藩同盟に呼応して輪王寺宮が天皇になれば、日本に二人の天皇ができる。まさに南北朝時代の再来で、東西朝時代になる。


 新政府軍はあらゆる面で不都合であり、輪王寺宮の抹殺を謀った。そして、やらなくてもよい流血の上野戦争を仕掛けた。
 足立郷士の日比谷健次郎が輪王寺宮の救出に関わった。成功すると、輪王寺宮は榎本武揚海軍の軍艦で奥州へ渡った。そして、仙台藩、会津藩の盟主になった。


 戦争は軍資金がないとできない。上野戦争の前に、「徳川の知能」といわれた旗本・松平太郎が金座、銀座、銅座から百万両余りをもちだす。それを日比谷健次郎が手助けをした。小判と銅銭が新撰組の土方歳三、伝習隊を率いる大鳥圭介など旧幕府軍の軍事費となった。


 幕末から埋蔵金の伝説があり、小栗上野介忠順が江戸城から運び出したという見方が流れていた。その実、運びだした人物は松平太郎である。江戸城が無血開城されたとき、城内の金庫は空であった。新政府側の多くの証言から、それは事実である。


 つけ加えれば、さらにその前の「鳥羽伏見の戦い」で、大坂城(華城)から慶喜が東帰した直後から、3日間にわたり、榎本武揚の幕府海軍が金銀をすっかり運びだしていた。
 慶喜から戦場を一任されていた大目付・永井尚志(三島由紀夫の曽祖父)が指図し、全軍を江戸への撤兵と、旗本の妻木頼矩(よりのり・目付)には大坂城を長州藩に引き渡しする当日、城の火薬庫を自爆させたのだ。大爆発で、華城は全焼した。新政府は得られる金品がなかった。

 旧幕府には知恵者の人材が豊富だった。大坂城と江戸城の金庫はともに空っぽだった。
 新政府は結果として、資金豊富な旧幕府軍と戦う羽目になってしまった。松平太郎の運びだした資金で奥州戦争、榎本武揚が大坂から軍艦で持ち去った軍資金で函館戦争を戦う。

 かたや、新政府にはまったく金がなかった。戊辰戦争に参戦した西側の諸藩は、戦費がもらえず、薩摩藩、広島藩、土佐藩、福岡藩など、大規模な藩がこぞって贋金づくりに精を出したのだ。日本経済が破綻寸前にまで落ちた。
 
 戊辰戦争が終わると、明治新政府は満足な通貨ももてない赤字財政苦からはじまった。近代化を謳っても金貨がなければ、外国があいてにしてくれない。資本主義とはなにかもわからない。
 最悪はこのさきアジア諸国のように半植民地である。


 当時、西洋式の財務諸事情と資本主義に明るいのは、パリ帰りの渋沢栄一である。かれの上司は徳川慶喜である。新政府は窮地から大蔵省の出仕をもとめざるを得なくなったのだ。
「上様を惨めな朝敵にした新政府だ。断る」
 渋沢は強く拒否した。静岡で謹慎中の慶喜から、
「新しい国家をつくるためだ。もう敵も味方もない、大蔵省に出向きなさい」
 と渋沢は諭されたのである

 ここらを2時間にわたって語った。

         *  

 第2回は日比谷家の子孫である歯科医師の日比谷二朗さんで3.>

足立区の日比谷家の屋敷や数々の文化財について紹介がなされた。特に屋敷・甲冑・雛人形・狩野派の絵画・独語辞典「和独対訳辞林」について。

         *

 第3回は足立区立郷土博物館学芸員の多田文夫さんである。

 新田開発や残された文化財から、日比谷家に止まらず、幕末の足立の郷士は文化の担い手として狩野派の絵画を伝えるなど、文化的にも経済的にも極めて豊かな状況であったことが説明された。


「楽学の会」事務局の糸井史郎さんは、3人の講師による講演会は期待以上の評価が得られました。足立区の江戸時代の文化水準が非常に高かったことを足立区民の方々に知って頂くことができました、と語った。

晩秋の富士山麓で、想うままに撮って、わが心を重ねる ③

 富士山麓を歩く。東京から近いせいで、いつでも来られると思いつつも、いまだに足を運んでいない景勝地、さらに山梨県・大月のリニア・カーの実験地などむかうことに決めた。

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「スターダスト」の早朝のラウンジで、窓越しに、富士山が眺められる。心地よいものだ。

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美味しい朝食は、1日の良きスタートである。

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「白糸の滝」はもうすぐだ。渓谷に架かった橋を渡る。

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白糸の滝が幻想的というか、神秘的に輝いていた。

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 富士山麓では、とても人気のある観光名所である。
 観光客どうしが撮影し、お礼を言い合う。ちょっとしたふれあいが旅を楽しませる。   

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 ひとたび、山中湖に帰ってくる。大勢の観光客がくり出す。

 南アルプスが遠望できる。

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リニアカー(山梨県・大月市)
 科学の最新技術で挑むリニアモーターカーの走行運転が展望ができる。
 科学の進歩の一面で、森林破壊とか、地下水の問題か、諸々ありそうだけれど、現地を知らずして、あれこれ批判するのは望ましくない。それゆえに足を運んでみた。

 模型や説明パネルから、水力発電所でエネルギー作る、という原理とおなじに思えた。確認すれば、
「そうですよ」
 と案内の方が応えてくれた。
 マグネットで稼働動力を生みだす。CO2の観点でいえば、地球環境の問題の点で、ずいぶん寄与するのかな。

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 ただ、早く開業しないと、東海道新幹線に追いつかれてしまうのではないか。そんな心配をしてしまう。
 
 案内嬢が暇そうにして勧めるので、ミニ・カーに試乗してみた。
 宙に浮かぶ、快適さを問われたが、距離もなく、心地さなどわからなかった。
 ディズニーランドの玩具の一つみたいだった。

日本の三大奇橋の猿橋

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 は、もう30年前から、いちど来てみたかったところ。


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 猿橋駅から、徒歩でも来られる。

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江戸時代からの特殊な橋脚のつくり方

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 たぬき池も、脚を運んでみた。

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 富士山とも、また来るまで、しばし別れである。
 今夜、もう一つの楽しみがある。東京でも、天体ショーの皆既月食だ。
 TVの気象予報士は皆既月食は98%みられると、自信満々に語っていた。とても楽しみだ。
 中学時代には、私は3年間ずっと気象班に所属していた。毎日、観測していた。日曜日も、(当番制)学校に出向く。
 NHK第二ラジオ放送の天気概況を聞き取り、天気図を作成していた。

 初の人工衛星が地球を回ると、真夜中の中学校のグラウンドで、先生の指導の下、天体望遠鏡で観測したものだ。

 そのころの若き血潮が騒ぐ。 

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 帰宅すれば、東京の夕空はぶ厚い雲におおわれた曇天である。
 占い師と気象予報士は肝心なとこに当たらないものだ、と相場は決まっている。

 大人になってみると、責任が問われない良い仕事だな、と思う。
 結果として、合成写真しか表現することができなかった。

晩秋の富士山麓で、想うままに撮って、わが心を重ねる ②

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 今夜の宿泊地は、山中湖畔のカントリーホテル「スターダスト」である。富士山とフランス料理が売りである。
 一泊2食が1万1500円~である。満足度の割にずいぶん格安である。+アルコール代も加えても、リーズナブルなお値段だ。

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 かつて山仲間(可児さん)と、スターダストに一泊し、ちょうしに乗って酒を飲み過ぎてしまい、富士山の山頂への登攀がことのほか苦しかった。ふたりは登山ザックにワインを数本入れて担ぎ上げたけれど、二日酔いで一滴も飲めなかった記憶がある。

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 何年前か忘れたが、この山中湖畔の「スターダスト」に泊まり、白雪の11月の富士山に登った。パートナーは肥田野さんである。
 ふたりは冬山ゆえに二日酔いを警戒し、ビールは1、2杯で控えた。そして早朝に、完全装備の登山姿で出かけた。

 冬場は富士5合目までの路線バスなどない。裾野から自力で登攀していく。
 単独峰に吹く風は強烈である。雪面は風で磨かれてツルツルに光るほど研磨されている。
 転倒すれば、制動が利かない滑落となり、助かる確率は低い。まさに死に直結する一歩ずつである。
 七合目からはもはや台風並みの風で、わたしたち二人の足を止めてしまった。酷寒の烈風はとうとう山頂まで近づけてくれなかった。二人は断念し、下山してきた。

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 スターダストでは、フランス料理の美食を摂ったあと、マスター(木村あずささん)が手品を披露してくれた。一つひとつに感激。見事な腕前だ。

 もう10年くらい前になるかな。わたしは「山中湖ハーフマラソン」に出場した。そのときも、かれが上手な手品を披露してくれた。前泊の食後に、とてもリラックスできる好い時間がもてた。
 そんな記憶がよみがえってくる。

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 御殿場からみた富士山が話題になった。

 林忠崇(ただたか・21歳)は、総国請西藩(じょうざいはん・千葉県木更津市・一万石)藩主だった。鳥羽伏見の戦いあと、旧幕府(徳川将軍家)を追いつめる新政府に反感をもった。

 藩主の忠崇みずから脱藩し、藩士70名らとともに、旧幕府の遊撃隊に参加した。幕府海軍の協力を得て、館山から相模湾の沿岸に上陸し、小田原、箱根や伊豆などで新政府軍と激しく交戦する。

         *

 このころ、芸州広島藩の自費出費で320人が参戦した「神機隊」は、上野戦争、飯能戦争のあと、会津にいく予定だった。ところが、江戸城の総督府・大村益次郎(長州藩)から、
「林忠崇のつよい遊撃隊が、最新型のフランス銃を装備したうえで、小田原から御殿場を経由し、甲府にむかっている。討伐してきてくれ」
 と派遣を要請されたのだ。

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 懇願に応じた神機隊が甲府、さらには高所の三つ峠を越えて河口湖周辺(写真)まできてみた。さらに、山中湖まで足を延ばしてみるが、林忠崇たち遊撃隊の形跡がまったくなかった(忠崇は奥州戦争にむかっていた)。
 神機隊は江戸城までもどってくると、総督府総帥参謀の大村に対峙し、
「がさネタで、無駄足をさせてやがって。わが神機隊は自分たちが集めた自費で参戦しているのだ。弁償しろ」
 と上から目線で、六千両を脅し取っている。

 毛利家祖の元就は、広島藩から戦国の雄になった武将だ。さらに、幕末・明治維新まで、芸州広島藩の浅野家(42万石)が、朝敵にもなった長州藩毛利家(36万石)よりも、つねに優位性を保っていた。
 そんな背景から大村は、神機隊の隊員・軍備搬送として江戸湾から平潟(茨城県)まで、長州藩の軍艦までも貸与させられている。

         *
 
 明治に入ると、元藩主の林忠崇は脱藩・反逆の罪で平民まで堕ちたうえ、極貧の流転つづきであった。実に、気の毒だ。
 昭和12年(1937年)に旧広島藩主・浅野長勲(ながこと)が死去すると、忠崇が最年長の『最後の元大名』となった。


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「スターダスト」を創立した元オーナー・木村忠さん(写真)は、大手の通信メーカーのエンジニアだった。38年前に、脱サラで、保育園勤務の妻・翠(みどり)さんとともに、山中湖にペンションを開業した。
 技術屋さんが接客業とは、わたしの想像を超える。

「ここまでの38年間で、一番苦しかったのはいつですか」
 おおかた、なれない経営の創設期だろう。
「一にも二にも、新型コロナのここ2年間です。創設期は若さから夫婦で懸命に働きました。子育てをしながら。それなりに口コミもあって、お客さんの確保ができて上向きました。しかし、コロナ禍は営業ができず、手の施しようがなかったからです」

 ただ、山梨は全県民らの力で、新型コロナの新規感染拡大が徹底して抑えられてきた。その成果が生まれた今、ことし10月から中学生の修学旅行が入りはじめましたと話す。

 妻の翠さんもかたわらで、
「山梨県は全国で3番目に、修学旅行の人気だと公表されています。やや灯りが見えてきた感じです、第六波のコロナ禍を想像すると、まだ心細い灯りですが」と語る。 

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  明日はどこに行ってみるかな。
「いまはちょうどダイヤモンド富士で、カメラマンが大勢きていますよ」
 カメラマンは小説の素材として興味がわかないしな。
「花が少ないフラワーパークも、情感があります。河口湖です」
 そこがいいな。
 さらなる候補先をいくつかあげてもらった。  
                    
               『つづく』     

【関連情報】

カントリーホテル「スターダスト」

〒401-0502 山梨県南都留郡山中湖村平野2977

電話番号0555-62-2200

 

晩秋の富士山麓で、想うままに撮って、わが心を重ねる ①

 富士山麓に行ってみよう、宿は山中湖村の「スターダスト」ときめた。日本人にとって、富士山は最も人気があるけれど、それだけに月並みな山でもある。
 文学、芸術の世界で、美しい対象ほど表現するのは実にむずかしいものだ。
 
 写真の腕前えが優れているとうぬぼれる者でも、月めくりカレンダー「富士山と桜と湖」の写真と比べれば、見劣りがする。
 かりに絵画の心得があったとしても、江戸時代の浮世絵師たちの独特の絵画技法には、逆立ちしてもかなわない。小説の筆力がある書き手でも、太宰治の名作「富嶽百景」にはおよばないだろう。

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 晩秋に3、4日くらい富士山麓で過ごしたところで、先人をまえにして、わたしは挫折感を味わうだけである。
 それがわかっていても、11月半ばの富士山は、四季を通して、白雪をかぶった形と姿が最も好いし、山容に魅せられてしまう。考えたあげくの果てに、やはり日本人の心の象徴・富士山だと、足をむけた。

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 富士五湖の湖畔で恋をする。ふたりはすねて、甘えて、心のなかで最愛の人だと信じ、澄んだ目で語り合う。やがて、恋の決意をかためていく。
 そんな燃える男女の情愛をえがく小説を理想としている。

 この景色なかに、恋が燃焼している男女はいないかな。そんな被写体をごく自然にもとめている自分を知る。作家の職業病なのかな。

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 山中湖の湖畔で、記念写真を撮るほほえましい親子をみつけた。三脚のそばで、少年が両親を撮る姿が妙に恰好よかった。かたや、少年に笑顔をむける両親の表情もこころよい。
「カメラマンのボクの写真を撮らせてください」
 両親が快諾してくれた。

 少年の写真を掲載すべきか。親子の姿か。ずいぶん迷ったけれど、男女が恋をして、家庭をもち、子どもが生まれ、家庭をきずいていく。
 このプロセスのほうが、私の作風にあっているかな。

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 家庭を築いて、子育てが終わり、老夫婦で旅に出る。そこにはともに人生を歩んできた年輪と、苦節を越えられた自信とが、いたわり歩く姿に凝縮されて醸(かも)し出されている。
「若いころは、よく夫婦喧嘩をしたわね」
「いまもね」
 そんな思い出ばなしも、ほどほどに楽しみ、語り合っているのだろう。
 
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 生きている今が最も大切だ。あすは何が起こるかわからない。よきドラマならばよいが......。
 この湖畔の村は、伊勢湾台風の大雨で、裏山から巨大な山津波が発生し、集落ごと湖水に流されてしまった。全村の生活が阿鼻叫喚(あびきょうかん)のなかで、すべて消えた。
 
 この伊勢湾台風は、昭和34(1959)年9月の潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心に、ほぼ全国に甚大な被害をもたらした。明治時代以降の台風災害で史上最悪の惨事となった

 愛知県・三重県の被害がとくに甚大であった。となり合う、ここ山梨県の富士山麓も例外ではなかったのだ。
 
 村中の幼子、少年・少女、若夫婦、働き盛りの農夫、余生を送る老人らが瞬時に、土石流にのまれていく。号泣しながら、救いを求める、むごたらしい悲惨な光景になったのだ。

 わたしが初受賞した文学賞は『千年杉』で、山津波が素材だった。それだけに、いま観光で復元された村にきて、災害当時の惨状をきくほどに胸が痛む。
 
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 富士山は活火山だ。もし噴火したら、どんな姿になるのだろうか。雲を噴煙に見立ててみた。

 宝永噴火は1707年だった。いまからさかのぼること300年前。幕末は150年まえの曽祖父の時代だ。そこから、たった2倍前にすぎない。地球年齢でみれば、まさに、きのう今日とおなじ。

 東京は関東ローム層(富士火山灰)の上に建つ大都市だ。
「富士山は300年周期です」
 そう教えてくれた。
 富士山噴火は射程なのだな。

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 火山噴火は真っ赤な溶岩がながれ出てくる。数千度の高温岩石に襲われる恐怖はどんなものだろう。
 わたしの作品には、山岳にからむ小説がことのほか多い。ただ、火山噴火はいちども素材として描いていない。
『善人が助かって、悪人が死ぬ』
 そんな善悪の法則など一切ない。運命か、宿命か。そこに凝縮されてしまう。そう考えると、自然災害は人間の努力と連動してこない。
 わたしには想像できない世界観(宗教観に近い)ゆえに、とても書けない分野だ。
 
 富士山爆発を予言した雑文で、金儲けする著述業者の心理はわからない。無責任な恐怖で人を惑わす、かれらが最も悪人かも知れない。
 
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 人間は強烈な記憶でも、歳月とともに忘却していく。

 わたしは日記をつけたことがない。不精な性格というわけでもないけれど、取材ノートや手帳でも、読み返すことなど、ほどんどない。約束事などは記憶で行動するし、執筆は脳裏にとどまっている範囲内で文章化してしまう。要するに、忘れたことは書かないだけだ。

 だから後日、見もしない日記など書いても意味がないと思っている。ただ、晩秋の単純な風景など、今冬になれば、まちがいなく忘れてしまう。

 最近のデジタル写真は撮影の時分、露出条件、場所すらもGPSで、こちらが依頼しなくとも詳細に記録されている。メモ代わりに、シャッターを押しておくか。

               『つづく』  
 
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〒401-0502 山梨県南都留郡山中湖村平野2977

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