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待望の京都へ、いざ取材旅行へ =  蘭佳代子

 かつしかPPクラブは、年に一度はきまって遠距離の取材に出かけていました。思いつくままに列記すると、新潟の凧揚げ大会、鹿児島の歴史をたずね、広島および瀬戸内海の島々巡り、岩手県の3.11被害者をたずねて、と北から南へと歩いていました。
 
「足で書く」これをモットーとしているだけに、取材は写真と記事と両面で展開しています。

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 世界的なコロナ禍の下で、遠距離も、東京都内においても、ほとんど取材ができなかったので、じつに開放感に満ちた旅行です。

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 最近は新撰組人気で、「池田屋事件」が脚光を浴びています。かつては薩長史観、さらには皇国史観から、新撰組は悪の権現に扱われたそうです。

 幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、尊攘派の志士を大勢殺害したかどで。

 きっとおじいちゃん・おばあちゃん世代は、「新撰組なんてね」とおおむね嫌いでしょうね。
 
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 宿泊予定地のホテルに、荷を預けてから、歩きはじめて数分で、「あれ。ここに本能寺がある?」妙にひっそりした門です。

 織田信長が明智光秀に殺害された、あの有名なお寺です。
「ほんものかな。子寺かな」
 そんなことを言いながら、まずは四人で境内に入りました。実は裏門でした。

 広い境内と、いまでも信長人気がわかる本能寺で、大勢の方々が参拝していまいた。歴史の流れ、というか、戦国時代の大事件を感じとれた一瞬でした。

 写真は本能寺の正門です。

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  今晩はここに決まり。食事と軽くアルコールを入れて、「あすは何処にまわりましょうか」と語り合う、楽しいひと時です。

ウクライナ侵攻で、バレてしまった幕末史の大嘘= 明治のプロパガンダ (下)

 わが国の歴史書となると、嘉永6(1853)年といえば、世界最大のクリミア戦争を教えず、アメリカの黒船が来航した際の、鬼のような奇異なペリー提督のかわら版の顔を載せる。

 そのうえ狂歌『泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(かみきせん)たった四はいで夜も寝られず』と記す。
 それは明治10年に創作された狂歌だと、いまや化けの皮がはがされている。

           *

 下級藩士による明治政府が、上級武士だった徳川政権を恣意的(しいてき)に見下すために、
『幕府は西洋を知らず、アメリカに蹂躙(じゅうりん)されて、砲弾(ほうだん)外交で開国されられた』
 と歴史をねつ造した。まさに明治政府のプロパガンダである。

 そもそもペリー提督が江戸湾にやってくる7年前には、アメリカ東インド艦隊のピッドル提督が浦賀に米国大統領親書をもって来航している。

 ほかにも民間の捕鯨船マンハッタン号が日本人遭難者22人を人道的に浦賀に連れてきてくれている(弘化2年・1845年)。イギリスの測量軍艦、意外なところでデンマーク軍艦も江戸湾の入りまで来航している。

            *   

 嘉永6(1853)年、ペリー提督が浦賀に初来航したとき、交渉に臨んだ香山与力が、{ところで、あなた方の国のパナマ運河にそった地峡横断鉄道はもう完成しましたか」と質問しており、アメリカ側は日本の世界情報収集力におどろいたと記録している。

 このように、アジア(広東・シンガポールで)で発行されていた英字新聞の内容が、幕臣たちにまでも伝わっていたのだ。

 1852年9月28日の記事から、ワシントンでは、日本遠征計画の準備が熱心に続けられていると報じられている。
 当然、日本の幕閣は読んでいる。

 オランダからの別段風説書で、ペリー提督の日本遠征内容の詳細が伝えられた。
『......、最近の情報によりますと、北アメリカ合衆国は艦隊をだして、日本と交易を取結ばんと、御国(日本)へ参上すると申しています。合衆国より日本帝(将軍)へ使節を差しだし、アメリカ天徳(米国大統領)の書簡を奉り、かつ日本の漂流民を連れて参るそうです。

 この使節は、北アメリカの民間交易のために、日本の一つ二つの港に出入りを許されんことを願っています。かつ、また相応の港をもって、石炭の置き場と為す許しを得うて、カルフォニアと中国との間を往復する、蒸気船の用意に備えん、と欲しているとのことです」

北アメリカの軍船が、いま中国周辺の海にいるのは、次のとおりです。
 サスケハナ号    軍用蒸気フレガット船 
 サラトガ号      コルヘット船
 プリモウト号     コルヘット船
 シント、マリス号   コルヘット船
 ハンダリア号     コルヘット船

 上記の船は、アメリカ使節を江戸へ送るように命じられたそうです。また、最近の情報では、艦隊司令長はオーリックでしたが、ペルリと申すものと交代となり、前文の5隻の軍艦のほかに、なお次の軍艦を増加致すそうです。

ミスシシッピ号  蒸気船  指揮官ペルリはこの船で参るそうです
プリンセトウン号 蒸気船 
ペルリ号 ブリッキ船 
シュプリ号 輜重船

 新たな情報が加わり、陸軍の攻城の諸道具も積んでいるそうです。ただし、四月下旬以前には出帆せず、多分もっと先になるだろう、と聴いています(1852年情報)』

 こうした大規模な派兵だ。アメリカ海軍は陸軍部隊を乗せて、地球の裏側から1年がかりで日本にやってくる。

 阿部正弘はこのオランダ情報に対して、幕閣と対策を考える。
DSC_0509 福山会.jpg 『阿部正弘の末裔・阿部さんと』

「世界情勢をみれば、アジアの国々への列強の侵略がはじまっており、いまや異国船撃攘(げきじょう)の令を出して必勝を期することはできない。もう勝てぬのならば、敵がやってきて、強攻に追い払って負けるならば、恥辱となるだけだ。日本の小さな舟では異国の軍艦に対抗できないのみならず、江戸湾の出入り口をふさがれて、江戸近海の通商が断たれて、食糧欠乏に陥るのみである」
 軍艦を製造できる能力を得るまで、外国との戦争は無謀だと、非戦を決めていた。

 ところが後世学者たちの多く、一年前にオランダからペリー提督来航の情報がありながら、生かされていなかった無策の幕府だと批判する。
 批判のための批判だ。日米の武力の差は歴然としており、外交で勝敗を決する、と非戦を決めた阿部正弘に、学者はいった何をどうすれば、良かったというのだろうか。
 
 それは水戸藩の徳川斉昭の「攘夷論」を称賛し、攘夷論者がやが明治政府を樹立する立役者だったと展開する前ぶれのためだ。
これは七年前の斉昭の書簡にあったものだ。
「異国人と交渉すると見せかけ、白刃一閃(はくじんいっせん)、敵将の首を取り、乱入し、船も人も奪ってしまおうではないか。そうすれば、難問一挙に解決し、軍艦四隻も手に入る。一挙両得の名案だ。これでいこう」
 
 実際にペリー提督が来航すると、
「いまとなれば、(軍艦も作れない、大砲も鋳造できない)、打払いが良いとばかり言えない。衆議をつくして、ご決断せよ」
 これが徳川斉昭の生の声だった。

攘夷だ。外国人は徹底的にぶち殺せ」という過剰な攘夷論は、斉昭の名誉のために、あえて言及すれば、後世の学者のねつ造ではないだろうか。

              *
 
 1853年にクリミア戦争が勃発すると、戦争がアジアに拡大し、当事国の英仏露は軍艦や商船で、わが国の港にひんぱんに来航している。
 伊豆下田港では、なんとロシア海軍兵がフランス商船の掠奪を謀り、戦闘までしかけている。
 これには日本の下田奉行は厳重な抗議をした。

           *
 
 2022年のロシアのウクライナ侵攻戦争が新聞、テレビ、映像などで日々に報じられている。
 いつぞやロシア潜水艦が北方四島近くで、ロケットの発射演習していた。ヨーロッパの戦争がさして遠い話ではない。わたしたちは無関心でいられない。

 嘉永6年、7年(安政元年)の日本人の武士、町人、農民を問わずクリミア戦争が最大の関心事だったにちがいない。幕府の対応をじっくりみていたと思う。

 結果として幕府はよくやった。わが国はクリミア戦争のさなか、地の利を得て、植民地にならず巨大国家の欧米3カ国と、ほぼ同時的に和親条約(平和条約)を結んだのだから。

 この認識に立てたのは、2022年ロシアのウクライナ侵攻戦争で、「歴史は自国の都合で流れない」という原点にもどれたからだ。ウクライナ侵攻があったから実に幕末の対外政策がリアルに理解できたのだ。

 こんにち日本の首相がウクライナ支援とか、経済制裁とか、石炭の輸入禁止とか、石油や駅がガスはどうするか、と世界を飛びまわっている。
 老中首座の阿部正弘も、英米仏露の戦艦がわが国に来航するたびに、現場対応の奉行から早馬がやってきて、内容を吟味し、幕閣と逐一対応を協議する。そして、現地に指示をする。おそらく休む暇もなかっただろう。

                *
 
私たちが1853年の黒船来航からの「幕末史」の書籍を手にしたとき、当時の重要なクリミア戦争が欠落していれば、その学者・作者には世界史観がまったくないか、重大なクリミア戦争という前提がない粗悪商品だ。

 言い方を変えれば、きよう新聞を見て、世界の政治・経済・燃料・食料問題が絡むロシアのウクライナ侵攻が1行も載っていないようなものだ。学術書といえども、既成の攘夷思想が正しいと刷り込まれた、薩長史観に感化された作品に違いない。歴史の中心・コアが欠落した、内容の希薄な、架空、想像で書かれた不良品だろう。
 私たち日本人は、これまでそんな類の幕末史に染められてきたのだ。


 『明治のプロパガンダ』とはなにか。
 いまも薩長史観で、1868年の暴力革命を誰もが立派そうに「明治維新」といっている。
 明治以降の日本人を悪くした原因は、権謀に富み、事実を隠蔽し、嘘で歴史を作り上げた薩長人の天下を取り成したことをいう。
 国民は騙されて、戦争国家の兵員として利用された。

 平成・令和の世でも、政治家らが重大な事実を隠し、公文書を隠蔽し、賄賂と癒着政治をおしすすめていても、時間が経てば国民が忘れるという思想が底流にある。これらは明治プロパガンダが未だに清浄されていないからである。、

                      (了)

ウクライナ侵攻で、バレてしまった幕末史の大嘘= 明治のプロパガンダ (中)

『1853年はなにが起きましたか』
 学校で問われれば、
「アメリカインド艦隊のペリー提督の黒船来航です」
 日本の学生のほとんどがそう応えるだろう。

 世界各地の学校教育の場で問えば、
「1853年は有名なクリミア戦争です」
 と答えるはずだ。
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 クリミア戦争とは1853年に勃発したイギリス・フランス・オスマントルコと、帝政ロシアが戦った戦争である。
 その起因は、ロシアが聖地エルサレムの管理権を要求して南下してきた。そこでイギリスがクリミア半島に出兵した。ここから起きたヨーロッパ最大級の大戦争である。
 それゆえに、『クリミア戦争』と呼称されている。

 イギリスがカムチャッカ半島に領土的な野心を抱いており、英仏の艦隊がロシア海軍を追撃しアジアまで侵攻してきたのだ。
 1853~56年の3年間にわたり、カムチャッカ半島で戦闘がおこなわれている。

 戦争は歴史的な領土問題、宗教問題、経済利権など、双方が自国の利を追及することで起きる。
『戦争はやらないで、外交で解決すべきだ』
 ひとたび
『戦争がはじまれば、勝つことだ』
 敗戦国となってしまえば、膨大な戦争債務を背負うとか、最悪は植民地になるとか、その差は子々孫々まで影響する。戦勝国の言いなりで、国民は悲惨なことになる。

 英仏露の艦隊はアジアで有利な戦いをするために、戦略面から兵站、食糧、燃料基地として日本の港の開国は喉から手が出るように欲しかったのだ。
 日本は立地的にも、戦略的にも、とてつもなく有利な立場になった。
            
 当時の日本は世界にたいしてブラインドを下ろしていない。老中首座・阿部正弘は、長崎奉行からオランダ出島・ジャワを通じて「わが国はクリミア戦争にたいして中立である」と世界に発信した。これは日本が孤立していたわけでもなく、世界の一員であるというメッセージである。

 日本史・教科書から『鎖国』という表現が近々に消えていく。「鎖国」は薩長史観の明治政府の御用学者の創りだしたものだからだ。
 日本人の海外渡航は将軍家光の時代から厳禁だったが、アジア(清国)・ヨーロッパ(オランダ)ともに貿易をおこなっていた。海外情報の収集にたいして実に熱心であった。
            *

 さかのぼれば、阿部正弘は老中首座になった弘和2(1845)年から、アジアの数か所(広東・シンガポール)で発行されている英字新聞を、貿易国・オランダに英語→蘭語に翻訳させて日本にもってこさせていた『別段風説書』。長崎と江戸では幕府の官吏が蘭語→日本語に直す。
 こうして欧米系の新聞内容が、日本語に翻訳されて幕府から徳川御三家・御三卿、親藩に伝えられた。
 一方、長崎の通詞(つうじ・翻訳者)が小遣い銭稼ぎとして、外様大名の長崎駐在員「聞き役」という役職に翻訳内容をながしていた。
 日本の多くの大名・重臣たちは世界の流れをむさぼり読んでいたのだ。

 当時の日本人は鎖国で何も海外情報を知らないというのは、あまりにも無謀な論理だ。だから、鎖国が教科書から消えるのだ。

 かりに高校2年の世界史の問題を、幕府関係者や諸大名に問えば、ナポレオン侵略、アメリカ独立戦争、スエズ運河の開削、イギリスフランスの海底ケーブル、産業革命など、充分に応えられるだろう。
 なにしろ、大名たちは別段風説書(英字新聞が原本)で、世界を知っているのだから。
 その証拠に、安政時代に開国すると、徳川幕府の幕臣たちは海外の予備知識が十二分にあるので、こぞって使節団をなんども出されている。鉄鋼・造船などの海外技術者らも現地で招聘してくる。

 歴史書では薩摩藩留学生19人や長州ファイブが取り上げられているが、幕臣らは数百人も渡航しているのだ。
 まるで薩摩・長州しか海外体験をしていない書き方だ。それ自体が抜本的に狂っているけれど。
 
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 嘉永6(1853)年に話をもどすと、同年6月に米国のペリー提督が浦賀に来航し、翌7月にはロシア帝国のプチャーチン提督が長崎にきた。ともに黒船(蒸気船)も従えていた。
 英仏露米にとって『クリミア戦争』の勝敗にも影響するので、イギリス、フランスの軍艦もゾクゾクやってくる。
 日本の歴史書はまるでペリー艦隊だけが、ふいに日本に来航してきたようなねつ造をしている。大違いである。

            *

 ペリー提督、プチャーチン提督の2カ国はともに国書を受理するが、来年返答するから、1年後にまた来てくれ、と伝えて艦隊を去らせている。
 日本とすれば、自国の体制におおきな影響をするので、即決せず、アメリカ、オランダの言い分を熟慮検討する必要があって、1年の猶予は当然である。
 これこそ幕府の余裕である。

 ペリー提督が持参したアメリカ国書のなかで、難破船の船員が日本で虐待されていると記している。アメリカ捕鯨船の難破した船員虐待は事実無根だと突っぱねた。
 日米和親条約は、かれらの要求する通商を認めなかった。
 その実、条文の内容は、『薪水給与条例』を和親条約に変えたていどだった。

 ......天保13(1842)年に、当時の老中首座・水野忠邦が、オランダを介して世界に発布した『薪水給与条例』(しんすいきゅうよ じょうれい)がある。
 それは遭難船の入国はいずれの港も認める。そして薪と水と食料を提供するという博愛主義的な内容だった。
 日米和親条約は、遭難船でなくとも、米国船(主に捕鯨船)が指定する伊豆下田、箱館港に入れば、合法的に薪、水、食糧を提供する。ただし船員の休暇目的の場合、決められた数里の範囲しか行動できないものとする。

            * 
 
 おなじ嘉永7(1854)年に、イギリス艦隊が長崎港に入港してきた。(外交交渉の船は長崎に自由に寄港できた・決して鎖国ではない)。
 英国艦隊司令・スターリングは、イギリス軍艦の燃料・食料の供給基地として、長崎港と函館港の利用をもとめた。

「貴国がこの場でアメリカと同一の条文で、和親(平和)条約を結ぶならば、2か所の港は利用させる。条約を結ばずして、貴国の軍艦が長崎・函館に立ち寄る行為はいっさい断る。わが国はクリミア戦争に中立であると、すでに世界に通達している」
 長崎奉行は高飛車な姿勢をつらぬいた。

 艦隊司令スターリングは、日本側の条件を受け入れた。
 ここで怒ったのが、東洋全域を管轄するイギリス香港総督である、
「通商規定の条文がゼロで、日本の港においたて日本の法律に従うと明記されている。これはイギリス政府と国民にたいする屈辱の条約である」
 と破棄の添え書きをつけて、本国政府にその締結内容を送ったのだ。

 イギリス国会は、クリミア戦争に勝つことが最優先だ、日本の港が利用できるメリットは大きいとスターリングが言っているのだからと言い、日英和親条約を批准してしまったのだ。

 アヘン戦争における清国の立場と比べると、わが国の優位性は雲泥の差である。

 その翌年は元号が嘉永から安政に変わる。敗戦が濃厚なロシアにたいし、日本側は有利な立場から、「日露和親条約」をむすんだ。かれらが民俗学的にもロシア系アイヌ人の領地だと主張する択捉島・国後島を日本領土としたのだ。

 現代のロシアは、クリミア戦争当時の弱り目・祟り目の条約で、北方四島が日本に奪われた、という意識なのだ。ただ、ニコライ1世が批准した条約だから、戦時の無効だと言いだし得ない。歯ぎしりしているのだ。

 このようにクリミア戦争は、日本にとって実に有利な風が吹いたのだ。米、英、露という大国の3カ国と、ほぼ同時的に和親=平和条約を結べたのだ。

                             【つづく】

ウクライナ侵攻で、バレてしまった幕末史の大嘘= 明治のプロパガンダ (上)

銀閣寺 ①.jpg 歴史は自国の都合だけでうごかない。かならず世界情勢および隣国との関係で政治・経済・文化は連動して推移していく。
 2022年のロシア(プーチン大統領下で)、ウクライナ侵略がなされた。全世界が驚愕し、世界中の人々が、この先どうなるのか、と案じた。
 ある人は戦略核が使用されるのではないか。あるいは第3次世界大戦にまで拡大するのではないか。ロシア・ウクライナの小麦を中心とした穀物輸出の大幅に減り、アフリカなど食糧飢饉になるのではないか。あるいは餓死の悲惨な状況に陥ってしまうのではないか。

 日本においても、ウクライナ侵略に触発されて、中国が「一つの中国を掲げ、台湾に侵攻し、日本も、その戦争にまきこ乗れるのではないか」と案じた人たちがとてつもなく多い。
 中国・台湾が戦争になれば、米軍の出動が沖縄からになる。中国は敵基地攻撃で沖縄を攻撃する。日米安保は軍事同盟だから、あるていどの覚悟が必要だ。

 沖縄を守るために、今の自衛隊員だけで日本防衛ができるのか。日本の成人男子は戦闘要員として与しないと、またたくまに兵員不足で惨敗するだろう。
 これはGNPの軍事予算比の問題でなく、「60歳まで徴兵制で、日々の厳しい野戦軍事訓練で、戦場らおもむいては命を賭せますか」という、あなたへの問いかけになっている。
DSC_0440 銀閣寺 ②.jpg
              *
 このようにヨーロッパ大陸のロシア・ウクライナの2カ国の戦争が、またたく間にアジアに波及し、日本への影響、庶民の暮らしに跳ね返ってくる。むろんきょう現在も石油や食糧の不足から、物価は高騰し、日常生活にまで直結して影響している。

『歴史は自国の都合だけでうごかない』という格言が、2022年2月のロシアウクライナ侵攻で、得られた実感である。

               *

 明治以降に編纂された幕末史が、いかに大嘘だったかと、白日の下に晒されている。政府や学者や歴史作家は、裏を返せば、いかに嘘の幕末史で国民をだましてきたと、それが実証された。

 さかのぼると約170年前、現在のロシア・ウクライナ侵攻とまったく同じことがヨーロッパで起きたのだ。それが1853年の世界史でも最大級に有名なクリミア戦争である。
「野戦のナイチンゲールが活躍で有名な戦争ですよ」
 といえば、ああ、なんとなく解る、という方も多いだろう。
 それほど有名な戦争である。
                             【つづく】 
 

 

『いたましい海難事故』 1955(昭和30)年5月11日は? 土岡健太

 土岡健太です。広島県・呉市在住です。

 広島県大崎上島がご出身の穂高健一先生の著作「神峰山(かみのみねやま)」を再度ご紹介させてください。

 この本は5作の短編で構成されています。先夜、その中の「女郎っ子」をまた読んで、また泣きました。
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 1955(昭和30)年5月11日、大崎町木江南小学校6年生の修学旅行で、主人公の乗船していた"宇高連絡船"「紫雲丸」が高松沖で沈没。多くの方が犠牲になりました。

 犠牲者は168名に上り、うち修学旅行中の四校の児童生徒、先生は100名を数え、木江南小学校は児童22人、先生3人が犠牲になったとあります。大惨事でした。
 主人公も亡くなりました。

 じつは父の実家が香川県にあるので、幼いころこの宇高連絡船には何度か乗って、四国に渡ったことがあります。

 連絡船は岡山県の宇野港から高松港まで貨車も積む大きな船で、出航を知らせるドラの音も懐かしく思い出されました。

 その記憶と小説の描写が重なります。また、私(土岡健太)の修学旅行も「金毘羅さん、屋島」、とよく似たコースでしたので、尚更共感しました。

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   栗林公園で昼弁当 1962(昭和37)年


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   丸亀城 1962(昭和37)年

  1957(昭和32)年4月12日、広島県生口島瀬戸田港近くで起きた、忘れてならない身近な大海難事故に「北川丸沈没事故」があります。

 あらためて、ご冥福をお祈りしたいと思います。

                        【了】   

クリミヤ戦争 = 黒船来航 =  北方四島 =  ウクライナ侵攻 ②

 日本人の特徴は、「過ぎたことは水にながす」である。これは木の文化(燃れば、きれいさっぱりなくなる)だからであろう。
 かたや、西洋の特徴は長い歴史の上に現在がある、という考え方である。これは風化しない石の文化である。もめ事も風化しない、恨みもいつまでも忘れない。だから、同質の戦争がくり返しがおこなわれる。
 
 欧州と日本の違い。それは木の文化と意志の文化の違いである。

 西洋の戦争でいえば、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるバルカン半島、紀元前からの中近東の不安定な対立がつづく宗教戦争であったり、国境・領有権の争いであったり、十字軍からの未解決問題が、いまだに歴史的に解決できない争いとなり、なにかの拍子に火を噴く、これが周辺国も巻き込み、連鎖して拡大して大戦争にまでおよぶ。

  日本人的に一口いえば、いつまでも西洋の戦争は執念深いのである。

             *

 執念深い西洋は、日本と戦争をどう見ているのだろうか。
『ヨーロッパが戦争のさなかに、アジアから目を離せば、日本は抜け駆けで領土を奪う国家である。油断もスキもない」
 これがほぼ共通認識だろう。

 第一次世界大戦のさなか、日英同盟を口実にして、日本軍はドイツ領・青島に奇襲攻撃をかけた。そして山東半島のドイツの利権と南太平洋の島々を奪い取った。目が離せない。青島攻撃.jpg
青島の攻撃 大正3(1914)年10月31日 ~ 11月7日

 イギリスは欧米諸国から反発されて、ワシントン条約で「日英同盟」の破棄になった。裏を返せば、欧米諸国からイギリスは圧力をかけられ、明治時代に結んだ条約を破棄させられたのだ。

 第二次大戦でも、
 ナチスドイツがポーランドに侵攻した、すると、日独伊軍事同盟にもとづいて、日本は突如として仏領のインドネシアに侵攻し、石油資源などを奪い取った。さらに捕虜の英仏兵を虐待した。

 これが戦争犯罪だとみなされた日本軍将校は、太平洋戦争の終戦のあと、B級C級犯罪者として裁かれたのである。

             *

 木の文化の日本は、太平洋戦争から77年も経っている。日本人のほとんどは過去の出来事だと思っている。
 西洋は石の文化である。17世紀以降の歴史は近現在なのだ。だから100年、200年はまだ自分たちの歴史のなかにあるのだ。

  このたび(2022年2月)のロシアがウクライナにに軍事侵攻をおこなった。ロシアの動きをみていると、『ヨーロッパが戦争に突入すると、アジアから目が離れる。日本は抜け駆けの戦争を仕掛けてくる』という固定観念が色濃く出ている。
 ウクライナ侵攻の直後から、極東ロシアによく現れている。ロシア海軍が北方四島、日本海での軍事演習を行っている。軍事演習とは軍事的に日本を威嚇しているのだ。

 かれらはきっと日本の自衛隊が北方四島に上陸・侵攻し、日米安保条約の下に米軍の支援をもとめて居座り続けるだろう、とロシアは本気で真剣に考えているのだろう。
 歴史をみれば、日本のシベリア出兵もある。
シベリア出兵.jpg
 大正7(1918)年には、ロシア革命に干渉するため、日本はシベリアに軍隊を送った。米・英・仏が撤兵したのちも、日本は駐留をつづけた。国内外の非難により1922年に撤兵している。
               *
  
 ロシアがウクライナに簡単に勝利できず、苦戦しているならば、極東の陸海軍をウクライナに回せば、それなりに有利な展開はできるだろうに。
 日本人の大半は戦争解決など望んでいないし、この機会に北方領土を攻めよ、という国論などない。ところが、
「日本はシベリア、千島列島が手薄になれば、何をしでかすかわからない」
 ロシアの警戒心がゆるまないのだ。
 
 日本政府は「北方四島はわが国の固有領土だ」と主張する。固有領土。このことばは実に危険な用語だ。長い歴史のなかで、いつから固有領土なのか。それに応えられる日本人は少ない。政府の受け売りだ。
 領土問題は微妙なだけに、客観的に公平に吟味しておかないと、双方の交渉のテーブルは常にかみ合わず、挙句の果てには「武力で盗られた領土は武力で解決する」という、剛腕なナショナリストの為政者が出かねない。
 ウクライナ侵攻のあと、ロシアが平和条約交渉の破棄を伝えてきた。これを契機に、日本側はしっかりした歴史認識をもつ必要がある。
 次回はそれについて深堀をしてみたいい。
                      『つづく』
 

                  『つづく』   

クリミヤ戦争 = 黒船来航 =  北方四島 =  ウクライナ侵攻 ①

 あなたは、「1853年」と聞いて、なにを思われますか。
「クリミア戦争と黒船来航の年です」と答えられば、日本史と世界史に精通している方です。

 わが国の歴史教育といえば、嘉永6(1853)年6月に、アメリカ東インド艦隊のペリー提督が浦賀に来航した。わが国は開国か、攘夷か、と国内対立が起こた、としっかり教える。
ペリー提督.png 最近の教科書から消えだが、明治10年に読まれた狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たった四はいで夜も寝られず」とか、鬼の顔のようなペリー提督の顔を教科書に載せて、日本人がはじめてアメリカ人に接し、恐れ、慄いたと教えられていた。

それはバカバカしいほど歴史的矛盾である。まさに、下級武士を主体とした明治政府が自分たちを大きく見せたくて、故意に江戸幕府を陥れるプロパガンダ教育だった。「ペリーの砲弾外交に蹂躙(じゅうりん)されて、おろおろ開国した」と刷り込んだのである。

 この歴史をわい曲したプロパガンダ教育は、最近は批判されつつあるが、少なくとも、明治、大正、昭和、太平洋戦争まで軍国少年づくりに使われたし、平成においても未だ私たちは偽りを教え込まれてきたのだ。

 教科書の嘘にたいして国民は実に弱いものだ。小・中・高生は歴史的事実としてうのみに信じなければならないのだから。

               * 

 嘉永6年に話しをもどせば、同年7月にロシア海軍のプチャーチン提督が長崎に来航し、開国をもとめた。ペリー提督も、プチャーチンも、米・露ともに黒船(蒸気船)と帆船であった。
 
 この1853年のクリミア戦争はナイチンゲールが活躍したことでも有名である。わが国の幕末は、世界の動き(戦争)とリンクしている。歴史は自国の都合だけで動かない。

プチャーチン.jpg プチャーチンが2度目に来航したのが翌年(元号がかわり安政元年)の下田港だつた。なおクリミア戦争のさなかだった。そこで日露和親条約がむすばれた。
 百数十年にわたり、蝦夷地、千島列島、樺太の国境が不明瞭であり、双方が武力のいざこざが起きてきていた。そこで、日露和親条約をもって択捉、国後は日本領であり、クルルからきたの千島列島はロシアと決めた。樺太は線引きせず、双方が共同管理で使うと決められた。

 ここまでの学校教育が正確におこなわれていたならば、2022年2月に勃発したロシアのウクライナ武力侵攻戦争は、日露でも無縁でないと理解できるだろう。

              *  

 ロシア国防省がことし5月から、ロシア太平洋艦隊が日本海で、新型対潜水艦ミサイルの発射演習をくりかえし実施している。ロシアは海軍力がさして強くない。それだけに同国としては規模が大きい。
 ふつうに考えれば、日本海・千島列島近くで、ロシアは軍事演習などしないで、黒海ににまわし、ウクライナ・クリミア半島の海軍力強化につなげればよいのに、とおもってしまう。ましてや、黒海で旗艦・モスクワが沈没させられたのだから。北海道のまわりで、巡行ミサイルなど飛ばしていないで。

 ロシアが単に日本の対露経済制裁を強化する日本に反発している面だけでないし、歴史的な日露戦争までさかのぼっている領土問題があるのだ。

                             《つづく》

戦争を終わらせるための核兵器 = 祈る、願う、広島平和運動の限界 (下)

 2014年6月13日、フランスで行われた「ノルマンディー上陸作戦70年記念」で、欧州やロシアなど20カ国以上の首相が参加した。盛大なイベント会場では、大スクリーンに日本へ原爆を投下するモノクロ映像が流れた。
 現職のオバマアメリカ大統領が、ガムを噛みながら、原爆投下の瞬間に拍手をしていた。
『あまりにも酷(むご)い。これが西洋社会か。原爆が爆発する映像が流れ、戦争を終わらせたとして賛美し、拍手する各国首脳に反吐がでる』 (ユーチューブのコメントより)

 どのくらいの日本人が、この式典の事実を知っているのだろうか。

 これはオバマ米大統領が広島に来る2年前である。ともに、現職大統領だった。
 ドイツのメルケン首相は拍手せず、ロシアのプーチン大統領は胸の前で十字架を切って哀悼の意を表していた。

https://www.youtube.com/watch?v=USqLx7un7Fw&t=3s

《ユーチューブのコメント》

①この映像にたどり着いて、プーチンを見たとき涙がでた。
②この映像を残して下さいまして感謝します。 ウクライナとロシアの戦争で 日本人はプーチン批判ばかりのマスコミ報道に疑惑を感じなくてはならない
③プーチンは今はウクライナの戦争で悪者扱いだが、本当はとても優しい人なのかも知れないな
④オバマのノーベル平和賞を白紙にして欲しい
⑤ガム噛みオバマ  慈悲神プーチン


           *

 この2年あと、2016年8月6日に、オバマ大統領が広島の原爆式典にきて、列席する被爆者ひとりの肩を抱いた。そのあとの原爆資料館の見学は、わずか約10分間の滞在である。およそ歴史的な訪問といえない。
 後日、広島市はオバマ大統領がアメリカの原爆投下を謝罪したかのような演出につかっている。これはある種の情報操作である。プロパガンダともいう。

          *       

 今回(2022年)のウクライナ戦争のさなかにおいて、ロシア・プーチン大統領が、
「毎年、8月6日に広島で原爆式典が行われているが、原爆投下はアメリカ大統領の指令によるものだと一言もいわない。日本は教科書でそれを教えていない」と痛烈な批判を送ってきた。

 胸元で十字を切ったプーチンだけに、たしかに調べてると広島の式典をよく見ている。慰霊碑のまえで広島市長にしても、小学生ら男女が肩をならべて追悼文を読んでも、1945年の原爆投下はアメリカだったと一言もいわない。
 これは大人が追悼文の原文から削除したのか。現に、教わっていないのか。

0_IMG_0832 広島の教科書 (2).jpg
《広島市内の小学校4~6年用》原爆投下したアメリカが未記載。

 学校の副読本を取り寄せてみると、なんとプーチン大統領の批判通りである。
 広島県内の小学校では、1945年の原爆投下した国がアメリカ合衆国だと教えていないのだ。資料を要求する際の私すらも、B29エノラ・ゲイってなんの話だと思ったほどだ。アメリカ米軍爆撃機のB29エノラ・ゲイと書かなければ、日本中の子供などわかるはずがない。
『正確に教えないことは、嘘をつくことおなじだ』
 こんなにも、わい曲された教育が、戦前の言論統制の軍国教育ならばまだしも、現代社会の日本の教育現場でも、まかり通っていているのか、と私は背筋が寒くなった。

 親御さんは、正確な歴史を教えられないような、こんな歪んだ学校に大切なわが子を預けたくないだろう。
 昨今、海外からハイスクールの学生らが大勢で広島にやってくる。広島市の姿勢がこれでは、おおかた原爆ドームは単に戦争史跡に過ぎない。ローマ時代の遺跡見学のように。

『戦争を終わらせるための核兵器』

 NATOか、ロシアか。いずれかがウクライナ戦争を終結させるために、トルーマン大統領のように戦術核をつかう可能性がある。
 果たして、どちらか。
 もういちど2014年6月13日の、ノルマンディー上陸作戦70年記念にもどると、このとき世界の主要な国の首脳があつまり、当時のウクライナ情勢の緊迫化を受け、重要な外交折衝の舞台ともなった。

 フランス紙は、次のように記す。
『米国のオバマ氏とロシアのプーチン氏が顔をそろえた。加えてウクライナのポロシェンコ次期大統領を招待していた。ウクライナ問題を巡る討議の役者はそろった』
 ここで首脳たちが決ったのが、NATOは1センチたりとも軍事力をロシアに近づずけさせない、という約束だった。
 ときが流れて独立国のウクライナが、ポロシェンコ大統領へ、さらに選挙でゼレンスキー大統領に代わると、かれはNATO加入を表明した。

「約束違反だ」とプーチンが激怒したのだ。ことし2022年に入ると、『ウクライナのNATOは白紙に戻せ、中立化させよ」とロシア軍が国境を越えてウクライナに侵攻してきたのだ。

         *

 日本のTV・情報番組のなかで元政治家・現弁護士(Hashimoto)が『プーチンを暗殺できる軍事クーデターが必要です』と堂どうと言っていた。
 胸に十字を切る大統領を暗殺せよ、軍事クーデターで別政権を立てろ、という無責任極まる人物が、偉そうぶってTVで正論のごとく語る。
 かりそめにもロシア国民が選挙で選んだ大統領である。それを暗殺させて、ミャンマーのような軍事政権をロシアに誕生させてどうするのか。
 ロシアが軍事独裁国家となれば、このさき100年の大きな遺恨になるだろう。

 日本がかつて2.26事件の青年将校のクーデターで、政治家が正論を吐けなくなり、やがて太平洋戦争の道にすすんだ。こうした日本の負の歴史すら念頭になく、ウクライナ戦争を劇画のごとく語る。こうしたコメンテーターを採用するディレクターを含めて、他国の戦争をドラマでしか見ていない。
「これは報道のニュース番組でなく、娯楽の情報番組です」とTV局に言い逃れがあるのかもしれない。しかしながら、視聴者は情報番組と報道番組の差など判らない。一体化して映像を観ている。

 ニュースを加工した商業主義番組であっても、最低限のジャーナリズム精神と責任感が必要である。
 そればかりか、他国の選挙で選ばれた大統領にたいして生命を狙え、と軍事暗殺など嗾(けしか)けるなど、言論自由が保障された日本だといえども、道義的、倫理的、青少年に対する教育的にもやめた方が良い。、
           *

 プーチンは胸に十字を切った大統領だ。ロシアの豊富な核兵器で脅したけれど、案外、人道的に使わない性格かもしれない。
 むしろ怖いのは、原爆に拍手したNATO首脳たちのほうだ。ウクライナ戦争を巧妙な情報操作で、世界中に同情世論を作りだし、
《戦争終結のために、ロシア国内に小型の戦術核核を使用せざるを得なかった。必要悪だ》
 NATO首脳がそんなふうに胸を張るかもしれない。まさに歴史はくりかえされる。それはトルーマンが広島・長崎に原爆を使ったロジックである。
 
 広島市の関係者は、この難問に真摯に立ち向かわないと、核兵器の廃絶とはまさに名ばかりで、広島は世界に通用しない。いまやまさに、その兆候が顕著に現れている。
 ドイツといえば、謙虚に過去からの負の歴史をつつみ隠さず出してくる。広島は歴史の真実を隠してしまう。この違いが広島平和運動に限界をつくっている。
 2022年ウクライナ戦争を境に、広島平和活動の関係者らは、過去からの「祈る、願う」活動から脱却し、新たに体質改善を図るときである。いまは21世紀の危機だけに、却って広島が飛躍する好機である。

   実現可能な目標を定めるとよい。

 広島市長といえば、安保理に特別に招かれて、日米の戦争歴史を雄弁に語り、『紛争国には、核を使わせない』という信念と権威と外交力を各国に感じさせる。世界から期待される権威者の広島市長にまで昇華する。それが被爆国日本の財産になる。
 そこまでの第一歩として今から何をやるべきか。


【関連情報】

 小学六年生の男女

「平和への誓い」全文
 「75年は草木も生えぬ」と言われた広島の町。
 75年がたった今、広島の町は、人々の活気に満ちあふれ、緑豊かな町になりました。
 この町で、家族で笑い合い、友達と学校に行き、公園で遊ぶ。
 気持ちよく明日を迎え、さまざまな人と会う。
 当たり前の日常が広島の町には広がっています。
 しかし、今年の春は違いました。
 当たり前だと思っていた日常は、ウイルスの脅威によって奪われたのです。
 当たり前の日常は、決して当たり前ではないことに気付かされました。
 そして今、私たちはそれがどれほど幸せかを感じています。
 75年前、一緒に笑い大切な人と過ごす日常が、奪われました。
 昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
 目がくらむまぶしい光。耳にこびりつく大きな音。
 人間が人間の姿を失い、無残に焼け死んでいく。
 町を包む魚が腐ったような何とも言い難い悪臭。
 血に染まった無残な光景の広島を、原子爆弾はつくったのです。
 「あのようなことは二度と起きてはならない」
 広島の町を復興させた被爆者の力強い言葉は、私たちの心にずっと生き続けます。
 人間の手によって作られた核兵器をなくすのに必要なのは、私たち人間の意思です。
 私たちの未来に、核兵器は必要ありません。
 私たちは、互いに認め合う優しい心を持ち続けます。
 私たちは、相手の思いに寄り添い、笑顔で暮らせる平和な未来を築きます。
 被爆地広島で育つ私たちは、当時の人々が諦めずつないでくださった希望を未来へとつないでいきます。
 令和2年(2020年)8月6日 
 子ども代表

戦争を終わらせるための核兵器 = 祈る、願う、広島平和運動の限界 (上)

 ウクライナ戦争がぼっ発した。歴史作家で広島出身者の私に、時おり、
「戦争は無くなりますか」
 と質問がむけられる。


「戦争は縄張りの争いだから、無くなりませんよ。たとえば、夫が浮気すれば、妻が憤り、相手の女性が夫婦の領域(縄張り)の侵入者とみなし、攻撃的に排除します。これと同様に、戦争の領土問題、宗教問題、政治資源の独裁など縄張りの紛争です」
 と応えると、東京在住の質問者から、
「いま、核戦争も辞さないと、プーチン大統領が強硬な態度です。とても怖いです。被爆都市・広島がなぜ平和運動として、ウクライナ紛争の核問題の解決に入ろうとしないのですか。そういう姿を見せていない」
 そんな疑問が私に投げかけられる。

「広島の行政も、教育者も、活動家も、平和運動そのものが『祈る、願う、被曝を語る』という枠から脱皮できず、旧態依然としています。そのうえ、『なぜ、広島に原爆が投下されたか』。歴史から語れる訓練ができていない」
 いずれの戦争も、ウクライナの戦争、イラン・イラク戦争、アフガン戦争でも唐突な侵略戦争におもえても、その実、背景には長い歴史を抱えています。それを歴史的に洞察できる鋭い感性がなければ、国際紛争の調停などできないのです。

        *
  
「広島が核問題で沈黙するから、日本も戦争抑止のために、核保有国になれと、世論は高まっていますよね」
 質問者はこういう。わが国は尖閣諸島(対中国)、北方四島(対ロシア)、竹島(対、南北朝鮮)に火種を抱えている。世論がウクライナ戦争の教訓から、日本も侵略される恐れがあるし、核保有国になれという意見が成熟してきている。
 日本政府は核武装をするかもしれない。広島はそれにたいしても無力に思える、という。

        *
 私はその質問を否定できない。それなりの理由があるからだ。
      
「広島の平和活動は歴史にもとづかず、表層的で、被害、被曝の立場でしか語れない。ここに問題があります。たとえば、鉄道事故がおきても原因を追究せず、被害者の傷ましさばかり訴えているのと、同じです。原爆投下の原因もどこにあるのか、歴史から探求しなければ、再発防止には役立たない」
 悲惨な戦争をくりかえさないためにも、広島は本来ならば、より戦争の歴史を知らなければならない。
 ところが行政も運動家らも、戦争を正面から取り組まず、目のつかない処へ遠ざけている。公的な書籍、教育現場、イベントなど、戦争ものはほとんど否定に近い。
「戦争」関連を広島市内から排除すれば、それが「平和・広島」の姿だと錯覚をしている。
『戦争を知らずして、平和などわかるはずがない』。まさしく真逆の姿である。

「原爆の歴史は真珠湾攻撃。日中戦争からですか」
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「もっと前です。明治時代の日露戦争からです。広島人は日露戦争からの仮想敵国が理解ができていない。日米戦争へ至った第一ステップを学ぼうとしない」

  日露戦争における日本海海戦、旅順攻略などで日本軍が勝った。ただ、軍事財政に疲弊していた。ロシアも革命の予兆が起きていた。

 アメリカ合衆国の斡旋の下で、ポーツマス条約が締結された。日本はロシアから賠償金を得られなかった。先の日清戦争では多額の賠償金を得たのに、と。
 これはアメリカが策謀だと言い、日本人は反発した。
 日比谷焼打ち事件、アメリカ大使館襲撃、こうした反米感情が全国に及んだ。国民の外交批判の声に押された帝国日本は「帝国国防方針」を作成し、アメリカを仮想敵国して軍備を拡張した。
 敵は海向こうだからと、帝国海軍の強化が図られた。

 アメリカ・ルーズベルト大統領は日露戦争の終結の労でノーベル平和賞をもらった。
 日本としては面白くない。
 アメリカも戦争を調停したのに、日本に憎まれる面白くない。

 当時、広島市出身の加藤友三郎(海軍大臣・内閣総理大臣)も関係する海軍力強化策を取った。

 アメリカは日本の軍備拡張を察し、反発して「オレンジ計画」(1920年代から1930年代において立案された、将来起こり得る日本との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画である)を立てて、日本を仮想敵国にした。

 このように日露戦争の直後から、帝国日本およびアメリカはともに仮想敵国なった。
 両国は中国問題でもつねに険悪な状況が生れていた。交渉はなにかと決裂し、ことごとく火花を散らしていた。

広島?2022.4.1.0002.JPG
 帝国日本の戦力拡大はいきなり仮想敵国のアメリカでなく、中国大陸の領土拡大にむけられた。満州事変、日中戦争へと戦火を拡大していった。
 張作霖爆死事件、盧溝橋事件など一連の事件は中国人がおこなったと日本側は嘘をついて(プロパガンダ)、それを戦争口実にしたものが多い。


 国際連盟の参加国は、満州国という傀儡(かいらい)政権までつくった帝国日本にたいして全会一致で非難決議をした。 (一か国は棄権)。国際連盟を脱退した日本は日独伊三国同盟を結んだ。

 欧米はとうとう満州から撤退を頑なに受け入れない日本にたいしてABCD経済封鎖をおこなった。
 石油の欠乏は時間がたつほどに軍事関係も、庶民生活も影響してきた。ついには、帝国日本は石油の必要性からインドシナ半島に侵攻した。と同時に、「石油があるうちに仮想敵国アメリカを攻撃する」と真珠湾攻撃になった。

         *

 帝国日本は戦争が拡大すると、一億総動員令を発布した。少年・少女らが学校で軍事訓練を受けはじめた。それはなにを意味するか。すべての日本人が民間人でなくなり、兵士になったのだ。
 そのうえ、帝国日本は「鬼畜米英」といい、敵兵を動物とみなして殺せ、と軍国少年にまで教えた。

 米軍は首都・東京を攻撃で房総半島、鎌倉海岸に上陸すれば、少年・少女たちも敵兵として射殺する必要が生じた。上陸作戦で日本側の捕虜になれば、鬼畜米英で、皆殺しに遭う。
 昭和二十年の沖縄戦線において、少年・少女たちも兵士となった。それが実証された。
 ここは陸上戦はなく、空爆しかなかった。トルーマン大統領が戦争終結のために原爆投下を命じた。

         *

 1975年10月31日、日本記者クラブで、中国放送の秋信利彦記者が昭和天皇陛下に、「広島に原爆が投下された、どのように受け止められますか」
「こういう戦争中ですから、広島市民に対して気の毒ですが、やむを得ないことと、私はおもっています」
 帝国日本の最高指揮官だった天皇陛下が、心の奥を述べられた。
『こういう戦争中ですから』
 長く苦しんだ歴史の重みを感じさせるお言葉である。

                  「つづく」

(下)は 原爆投下の大画面の映像に、オバマは拍手した。メルケルは顔をゆがめ、プーチンは十字を切った ここからはじまります。

   

木霊(こだま)  廣川 登志男

 神社の奥に行くと、樹齢2100年といわれる大楠がドーンと鎮座していた。周りを歩きながらその年月を刻んだようなゴツゴツとした表面に触りつつ、普段はしない「家族の幸せと健康」を祈っていた。昨年お参りした。熱海の来宮神社の大楠だ。幹周りを一周すると寿命が一年延びると言われるように、樹木には、不思議と神の存在を匂わせる雰囲気がある。

 庭木を植える時に思うことは、単に緑が欲しいからといった動機も在るのだろうが、やはり、自然の中で生きる樹に癒やされ守られたいと思うことも大きな理由の一つだと思う。

 40年前に家を建てたとき、家相に詳しい家内は、表・裏の鬼門と玄関周りに邪気除けの樹を庭師に頼んだ。小さいときからお茶・お花に親しんでいたせいもあるのだろう。表鬼門には古木の白梅、裏鬼門には金寿木蓮、玄関は南天を入れた。そして庭には辛夷の樹を頼んだ。やはり、樹の神様に守ってもらいたい一心だったのだろう。


 6年ほど前、家内がバラを趣味にするようになった。庭のウッドデッキを囲むようにL字型のバラ用の柵を作った。高さ約3m、幅14、5mほどある。今ではその柵に、つるローズうららなどが、春に数え切れないほど色とりどりの花を枝びっしりとつけてくれ、暖かい日差しの中で、その華やかな色彩や優しい良い香りに癒やされる。

2022.3.22.001.jpg バラ柵づくりのためには、デッキ周りのカイヅカイブキ15本と裏鬼門に植えていた金寿木蓮を伐り倒す必要があった。長年、我が家を守ってくれていた木々に申し訳ないと、家内は心が痛んだのだろう。

「神主さんを呼んでお祓いをしようか」と、ボソッと言っていた。私は、「そんな大仰なことはせんでも良いよ」と気にもとめず切り倒した。

 しかし、半年ほど後の、秩父三十四観音霊場巡りをしていたときのことだ。八番札所の西善寺で急に心臓が苦しくなった。20分ほどじっとしていたら、幸いにも収まった。何とか運転して家にたどり着いた。
 その後、一ヶ月ほどの間に二回発作が起き、最終的にはカテーテル手術を受けステントなる血管拡張子を二本入れて事なきを得た。
 家内は、しきりにバラ柵造りで切り倒した樹の祟りだと言った。


 木を伐ったことによる災いらしき出来事は他にもある。


 二週間ほど前のことだが、部屋飼いのかわいい小型犬が急性白血病に罹り、あっという間に亡くなってしまった。その三ヶ月前に、玄関横にある邪気払いの南天を切り倒していた。 家内は涙に暮れていたが、ふと、「南天を伐ったのが良くなかったのかしら」と言い出した。
 確かに、今回の件といい、6年前のカイヅカイブキといい、何か不幸があるときには、その少し前に樹の伐採をしていた。

 以前より、「木には精霊が取り憑く」との話は知っていた。「木」に「霊」と書き、「こだま」と読む。インターネットで調べると、「でじかん」氏のブログ「木霊と樹木神」に詳述されていた。

 要約すると、
『木霊とは樹木の生命と一体になった精霊のことであり、樹木神とは樹木から自由に抜け出すことの出来る精霊をいう。木が伐採されると木霊は死んでしまう。何かの用に役立てようと木を伐採するときは「ヨキタテ」なる儀式を行って木の神の許可を得る。許可が得られなければ、伐採を諦めねばならない。これらの儀式は、伊勢神宮の式年遷宮でも行われている』
 むやみやたらに木を伐るのではない時でさえ、神の許しを乞う習慣があるのだ。

 今回の我が家の伐採は、「邪魔になったから伐り倒そう」という不純な動機だった。なるほど、木の神様のご機嫌を損ねたということだったのか。

 しかし、「祟り」というような不幸な出来事ばかりではない気がする。

 家を建てた時に植えた辛夷の樹だ。まだ若い樹だったが、幹の直径は二十センチもあろうかという立派な樹だ。植えた翌年には白い花を見事に咲かせてくれた。その翌年も見事なものだった。その夏、幼い長男に木登りはこうやってやるのだぞと、辛夷の木に登って見せた。するとどうだろう、なんと秋には枯れてしまった。
 当時、35歳の働き盛りにあった私の周りでは、大病で会社を休んだり、大怪我をしたりする同年代の人がいた。今にして考えてみると、「あの時の辛夷の木は、私が大病などせずに生きながらえるようにと、私に命をくれたのだろう」と思うようになった。

 樹に宿る「木霊」が、私たちの身の回りでいかに大きな影響をもっているかに、改めて気付くことができた。自然界はまだまだ大きな存在だ。樹と言わず、小さな雑草ひとつにも、謙虚かつ尊敬の念を持って生きていかねばならないと、強く思い知らされた。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

                         了