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拡がる趣味の世界 石川 通敬 

「百歳クラブ」内のスマホ同好会に入会して間もなく一年になる。

 初参加に際し、会のホストから説明されたのは、「ZOOMの背景は何にしますか。好きなものを使ってください」だ。

 予備知識がなかった私は、あわてて手持ちのアルバムから目についた写真を3枚取り出して、これまで使ってきた。
 この先、何事にも凝る性分の私は、段々背景を定期的に入れ替えたいとの思いが募っていった。そんななかで思いだしたのが、エッセイ作品で取り上げた「癒し系 趣味―鳥」だ。

 まず考えたのは、写真のイメージだ。次の二点を反映させたものにすること。
 その一つは、美しさ、面白さなど見て楽しいもの。それには、どんな鳥を狙うのがよいかだ。

 これまで我が家の庭に飛来した野鳥は19種だ。その中で毎日押し寄せる常連は、スズメ、シジュウカラ、メジロとワカケインコ(正式名 ワカケホンセイインコ)の4種。これらが候補だ。
次に取り入れたいのが、鳥が集まってくる場所だ。

2022.3.22.004.jpg これは30年ほど前に、「庭に小鳥を」という小冊子を、散歩の途中で見つけたことが発端となり作られたものだ。
 その冊子は、我が家の近くにあった鳥獣保護財団の売店にあった。現在の環境は同書のアドバイスに沿って作られている。
 それに加え運がよかったのは、その店に、英国から輸入された赤い屋根がついているかわいらしいえさ台といかにもイギリスを彷彿とさせる濃いグリーン色の鳥かごが売りに出されていたことだ。

 私はこの3点を買い、小さい庭の片すみに、野鳥がやってくる場所を作ったという歴史がある。
 こんなイメージをもって庭にでると、写真撮影は簡単でないとすぐわかった。鳥たちは群がり、争って夢中でそれぞれ好みのえさをつついていたが、私の動きを察知すると、パッと一斉に飛び立ち、なかなか戻ってこない。
 そこで一計を案じ駐車している車に乗り、彼らが気付かないところまで近づき、スマホのレンズを最大限望遠に設定して待つことにした。
 
 撮影場所の環境は、日当たりもよく、えさ台の赤い屋根と濃い緑色の鳥かごが庭木を背景にうまく収まっている。環境は申し分なく美しい。
 問題はどの集団を撮るかだ。しばらく観察するうち狙いが定まった。それはワカケインコだ。スズメ、シジュウカラ、メジロは警戒心が強く、私が庭に出たあと姿を消したきりだ。よく考えると、仮に運よく撮影のチャンスが見つかっても、個体が小さく、スマホのカメラの性能では迫力ある写真は撮れないはずだと気が付いた。


 そんなことを考えながら待っていると、ワカケが戻ってきた。この鳥は、もともと中国南部からインドに生息するものだが、日本にはペットとして輸入されてきた。それが野生化し、大田区の東京工大あたりを中心に大きな群れになっているそうだ。体長は4〇センチと大きく、首回りに細い茶色の輪があり、目の周りが黄色、全身が鮮やかな明るい緑色、長い尾が水色と美しい。

 東急ハンズでは、ペットとして一羽3万から5万円で売られているものだ。それがタダで自宅の庭に来てくれるのだから有難い話だ。

 スズメ、メジロ等の小鳥に比べるとずば抜けて大きく、ワカケがくると彼らは追い出される。気が付くと、この日はえさ台に2羽、鳥かごに2羽ずつ仲良く湯然としてえさを啄んでいた。
 周囲にはスズメも目白もいない。シジュウカラも影を潜めている。しかも車内からではあるが、私が撮影を始めても慌てて逃げないのがうれしい。


 私は夢中で30数枚ほど写真を撮った。撮影がすむと早速書斎に戻りZOOMの背景に使える写真を探した。
 結果は上々イメージ通りの写真が数枚見つかった。後はこの中から一枚選び、これをパソコンにインストールする作業だけとなった。
 しかしこれが問題だった。スマホ同好会の皆さんは、簡単に自分で出来ると言っておられたが、物の数分で私にはできない作業であることがわかった。

 こうした難問に遭遇した時の助っ人が、私の場合NTTのサポートセンターだ。
 今回も早速NTTに電話して助けてもらった。写真の最終処理を含めプロでも二時間以上の時間がかかったが、イメージ通りの画像を無事インストールされた。突然の思い付きだったが、この試みは大成功裏に終わった。

 背景写真作成案の立案、撮影からパソコンへのインストール完了までには、合計丸一日もかかった。しかし次のスマホ同好会で、新しい背景を皆さんに披露できることになった達成感と歓びはひとしおだ。

 それ以上にうれしいのは、これまでほとんど取り扱いに関心がなかったスマホを活用した写真の扱いに大いに興味がわいたことだ。
 写真撮影とその加工・処理が自分の趣味の一つに加わると遅ればせながら人生の楽しみが一つ加わることになる。

             イラスト:Googleイラスト・フリーより     

                           了

戦争プロパガンダで 日本人の意識が変わった=国会でゼレンスキー、プーチン大統領、双方の主張を聞き、冷静に判断すべき

 戦争の宣戦布告(同日の演説)で、為政者らはいずれも平和ためだと声高にいう。
「われわれは戦争を望んでいるわけではない。ひたすら平和解決を望んでいる。和平を目的としてあらゆる努力を惜しまない」
 聞く方は感動的である。
「この戦争は自国の防衛のためのもので、苦渋の決断です」
 開戦には、決して積極的ではないとつけ加える。
 その実、裏では暴力的で残虐な計画がおおむね隠されている。武器商人の利益が潜んでいたり、領土拡大の野望があったり、あるいは権力や宗教の色合いが色濃くあったりする。

        *
 
 戦争の火ぶたが切られると、双方とも為政者から虚偽と欺瞞とウソが飛び交う。もっともらしく言い放たれる。真実は終戦までおおむね判らないことが多い。情報を自分に有利に使う。それら作為的な大嘘をプロパガンダという。

 これは戦争当事国だけでなく、報道する側においても国営放送が自国に不都合な点を隠す。民放がスポンサーの不利益だと忖度する。これも一種のプロパガンダだともいえる。

 一例をしめすと、私がふいにNHKニュース番組を見たとき、ウクライナのゼレンスキー大統領がことし(2022)3月16日、米議会でオンライン形式で演説している光景が報じられた。
「あれ冒頭の大切なスピーチが削除されている、なぜだ? NHKにとって何が不都合なのだろう」と不可解だった。
 TVが最大の情報源の年配者などは、ネットをみず、これでは正確な情報が得られない、と私は批判的な眼になった。

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 ゼレンスキー大統領が冒頭でこう述べていた。

『1941年12月7日の(日本による)真珠湾攻撃を思い出してほしい。空が戦闘機で黒くなった。2001年9月11日米同時多発テロを思い出してほしい。あなた方独立国家が空からの攻撃で、街が戦場になった。我々はロシアによる空からの攻撃で毎日、毎晩、この3週間、同じこと(米国が経験した空からの攻撃)を経験している」と述べた。その上で「ウクライナに飛行禁止区域を設定してほしいと願うのは、過剰ですか」と問いかけた。

 NHKはそこまでをすべてカットしていた
 かたや、ゼレンスキー大統領がキング牧師の有名な演説『私には夢がある』という言葉を引用していた。きょうの私は、私には必要なものがあると申し上げます。私は空を守る必要があるのです」と述べた。

 そして、ウクライナの都市へのミサイル攻撃による死者や負傷者を映した生々しい映像が流れた。
 スピーチの最後はジョー・バイデン大統領に英語で語りかけ、「あなたは一国のリーダー、偉大な国のリーダーだ。世界のリーダーにもなってもらいたい。世界のリーダーであることは、平和のリーダであることだ」と締めくくった。
 
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 NHKがなぜ冒頭の肝心スピーチを流さなかったのか。

 同大統領の演説のあと謎が解けてきた。かれこれ2-3時間も経つと、SNS上で『真珠湾攻撃が9.11と同じくくりでテロ扱いされた』とゼレンスキー大統領にたいする批判が、数千通の投稿となり、批判ごうごうとなった。
 NHKの報道編集局はおおかた生々しく報じれば、ゼレンスキー大統領批判に「火に油を注ぐ」と思ったのだろう。これまでウクライナは侵略された被害者であり、視聴者の同情を中心テーマに報じてきた。
 ところが一気に、それが真逆になった。報道関係者が日本人に不都合なことは流さない意識がはたらいたならば、これは情報操作である。
 もとより大平洋戦争の戦時下で新聞・ラジオが、軍部に気づかい日本人に不都合な負け戦の戦況を流さないという姿勢、つまり「日本式のプロパガンダ」が今日まで底流で生きているのだと私は思った。

「SNS」を取り上げてみたい
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① 「日本の真珠湾攻撃は、軍港などの軍事施設を標的にしたのであって、民間人を標的にしたわけではない。日本は戦後どれだけアメリカとの関係を保つことを努力してきたことか。それを一瞬で壊しかねないことを平気で言いながら、ゼレンスキー大統領は日本にも援助を求める。この外交は無神経すぎる」

② 「ゼレンスキーは、相手の心情とかを考えず軽々しく発言しちゃうところがある。ウクライナ政府側が正しいことを主張していたとしても、結局はロシアが怒ったから侵略行為につながっているわけでしょう」

③ 「確かに真珠湾攻撃は良くない攻撃でした。日本も反省しています。これが演説をさせてほしいとお願いしてくる国の取る言動でしょうか?お願いする相手に失礼だと思います。日本国民の心情を考えると国会での演説は認め難い」

④ 「ウクライナ国民はロシアからの侵攻を受けて気の毒だと思います。でも、これはゼレンスキー氏のNATO加入の表明が少々強引だった部分が要因の1つになかったでしょう。フィンランドやスウェーデンもNATOには加入していません」

⑤ 「日本がアメリカを攻撃したのは事実。日本で演説するときには、東京大空襲や原爆の被害に言及するんだろうな。ソ連、ロシアの脅威を語るのに、終戦間際の不可侵条約破棄せずに攻撃したことも、満州での蛮行を持ち出す必要がある」

⑥ 「日本人の多くに、ウクライナを支援する気持ちを萎えさせた。アルカイダは無差別テロ。真珠湾攻撃は、敵の軍艦、敵基地攻撃。死傷者が出たのは同じだが、本質は違う」

⑦ 「わが国の政府や国会を挑発したり、同調を求めても、戦争当時国の一方に加担することはわが憲法の平和協調義務に反するから不可能だ、ということは理解しておいた方がいい」

⑧ 「日本の国会でやる時はちゃんと関東大空襲出してくださいね。それなら納得します」

⑨ 「ゼレンスキーの大統領としての資質。言葉の質が軽い。ウクライナ国民の安全を考えればロシアへの返答の拒否一辺倒はゼレンスキーの独りよがりだと思う。侵略されてウクライナ国民はゼレンスキーを支持しているというけど、停戦終戦ともなり興奮が覚めれば、本当にこんな大きな犠牲を被る必要があったのかと考え直すでしょう」

⑩ 「リルタイムでゼレンスキーの演説を聞いていて、真珠湾攻撃が出てきたところは、ああ、出た〜と思ったと同時に少なからず動揺した。同時に、そういう感情が湧いた自分自身も意外で、複雑な気持ちになった」

⑪ 「第二次世界大戦では、日本は原爆を2発や無差別大空襲を受け大量の民間人が殺戮された。ロシアにも侵攻され、未だに返らぬ国土が存在する。当時の戦勝国ルールに今も縛られているし、いつまでも過去の行為を反省させられ非難され続けている。ゼレンスキー大統領がドイツも経済優先だと批判されているが、経済を軸に復興したドイツを簡単に批判できるだろうか」

⑫ 「ゼレンスキーに対し正直懐疑的になりました。日本には原爆が落とされている問題を含め、日本がなぜあの当時アメリカに戦争をしかけなければならなかったのか? 歴史的な別の問題がある。戦時、日本で死んだ多くの人に対してあまりにも失礼過ぎる。ゼレンスキーはそれを理解していないで、この発言はいささか日本人全体に対して喧嘩を売っているとしか思えない」

⑬ 「日本の報道はウクライナで起きている戦争に同情しているだけで、結局やっている事はネタとして消費しているだけではないか」

⑭ 「日本人がウクライナの歴史を知らないように、真珠湾攻撃のイメージが無差別攻撃のように思われてるのかもしれない。真珠湾攻撃は事実だが、民間人を標的にしてはいないから、例に出されるのは不適切、不快、となる」

⑮ 「クライナを応援しているが、守るために寄付金で戦闘機を買ったり他国の武力を使ってロシアを攻撃してしまったら、核を落としたアメリカと変わらない。ロシア市民を殺してしまったら、きっとゼレンスキー大統領も偉大な英雄ではいられなくなる」

⑯ 「ゼレンスキーは日米開戦の歴史的事実も知らないで、真珠湾を引用したのは、日本はどうせアメリカに追随する国だと高をくくっているのでしょう。日本の国会で話をするなんて、無神経では」

⑰ 「NATOに入りたかったのは、自国の平和のためだったのに現状は戦争。挙句、停戦条件に中立国化でもいいと言ってる。落ち着く先がそれなら、今回の戦闘が全く意味のないことになる。一歩引いてみるとゼレンスキー大統領が世界大戦を引き起こしたがっているようにしか見えない。一般の国民は内心 終戦だけを願ってるんだと思うんだけど。力強さも大事だが、引くことも大事」

⑱ 「民間人を標的にしたジェノサイドという意味であの戦争から引用するなら、民間人攻撃を厳禁した真珠湾攻撃ではなく、東京大空襲、ヒロシマ、ナガサキが適切だが、まさか、アメリカ議会で持ち出すわけにはいかないからね」

⑲ 「ゼレンスキーは大統領選挙でロシアに支援を受けたにも関わらず、当選するやNATOに秋波を送り続ける態度がプーチンの怒りを沸点に達したことは、開戦時からみんな分かっていた。裏切られたと感じたプーチンの怒りも少し理解できた気がする」

⑳ 「日本人(黄色人種)は人間とは見なされずに核を実験的に投下されたわけだし、詳しい事情が分からないまま、日本がこれ以上ロシアを刺激するべきではないと思います。ゼレンスキー大統領のやり方に流されていくと、今の戦争がさらに世界に広がって行くと思われます」

21 「この戦争を止められるのはプーチンとゼレンスキーでもある。戦争を続ける事でリスクがあるのはプーチンとウクライナ国民だ。ゼレンスキーは国民や各国をあおって戦争を辞める気はないと思います。ウクライナの人々はかわいそうだが、冷静にゼレンスキーの評価を考えた方が良いと思います」

22 「ロシアが悪いのは百も承知だが、やはり双方の意見を聞くべき。それが平和のために議論するって事でしょう。国会で、プーチンの話も聞いてみたい」

       *

 ゼレンスキー氏がこの3月23日に日本の国会で演説すると固まった。SNSではさっそく、
「日本を戦争に引きこむような発言はやめてくれ。日本はウクライナの同盟国ではない。ロシアの標的にされたくない」
「真珠湾と9.11はまったく違うから。間違わないように」
「日本の立場からすれば、ウクライナは中国や北朝鮮の軍事強化に協力した国家だ。その結果、中朝にさえ警戒しなければならない事態になった」
「日本の最高機関で、ゼレンスキー氏が演説すれば、ロシアを全面的に敵にまわす。日本が参戦国とみられる。北方領土問題を考えると、リスクが大きすぎる」
「アメリカの言いなりで、ロシア制裁への参加やウクライナの肩入れは、憲法の平和精神に反する」
「日本は戦後70年近くロシアと時間をかけて北方領土問題や平和条約締結を議論してきた経緯がある。ウクライナは時間をかけて、ロシアと議論してきたのか」
「真珠湾攻撃の発言はとうてい容認できません」
「演説後、議員が拍手すれば、ゼレンスキー氏を支持していると受け止められる、極東でロシアと日本が緊張関係におよぶ」
「ロシアにたいして非常に危険だ。演説に反対だ」

 ゼレンスキー大統領が米国議会で冒頭に「真珠湾攻撃」を引き合いに出したことから、大半が上記のような反発となり、国会で演説反対とか、なぜやるのか意味が判らないとか、ちょっと反対かな、居心地が悪いとか、SNSには怒涛(どとう)の如く巻き起こっています。 
      

【参考資料・開戦時の議会での演説】 

 ドイツ・ヒットラーが議会で、
「ポーランドで、100万人ドイツ系住民が迫害を受けた。住居を追われている。ポーランドは国家総動員令を発してドイツに挑発している。不本意ながら、もう堪忍袋の緒が切れた。戦争の責任はポーランドにある。ドイツではない」
 このような演説をしている。

 東条英機は、1941年(昭和16年)12月08日に、
「宣戦の御詔勅が発せられました。アジア全域の平和は、これを念願する日本帝国のあらゆる努力にもかかわらず、遂に決裂のやむなきに至ったのであります。これまで政府はあらゆる手段を尽くし、対米国交調整の成立に努力してまいりました。彼(米)は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英蘭比と連合し、支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要してまいりました。これに対し帝国は、あくまで平和的妥結の努力を続けてまいりましたが、米国はなんら反省の色を示さず、今日に至りました。もし帝国にして彼らの強要に屈従せんと、帝国の権威を失墜、支那事変の完遂を切り得たるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆(きたい)に陥らしむる結果となるのであります。事ここに至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うするため、断固として立ちあがるのやむなきに至ったのであります」。
 

 アメリカのルーズベルト大統領
「副大統領、下院議長、上院議員及び下院議員諸君。昨日、1941年12月7日――この日は汚名と共に記憶されることであろうか。アメリカ合衆国は大日本帝国の海軍及び空軍による意図的な奇襲攻撃を受けた。
 合衆国は、同国との間に平和的関係を維持しており、日本の要請により、太平洋の平和維持に向け、同国の政府及び天皇との対話を続けてきた。
 実際、日本の航空隊が米国のオアフ島に対する爆撃を開始した1時間後に、駐米日本大使とその同僚は、最近米国が送った書簡に対する公式回答を我が国の国務長官に提出した。この回答には、これ以上外交交渉を続けても無駄と思わせる記述こそあったものの、戦争や武力攻撃の警告や暗示は全くなかった。
 次のことは記録されるべきであろう。ハワイから日本までの距離を鑑みれば、昨日の攻撃が数日前、あるいは事によると数週間前から周到に計画されていたことは明らかである。この間、日本政府は、持続的平和を希望するとの偽りの声明と表現で、合衆国を故意に欺こうとしてきた。
 ハワイ諸島に対する昨日の攻撃は、米国の海軍力と軍事力に深刻な被害をもたらした。残念ながら、極めて多くの国民の命が失われたことをお伝えせねばならない。さらに、サンフランシスコとホノルルの間の公海上で、米国艦隊が魚雷攻撃を受けたとの報告も受けた」


 プーチン大統領・国民向け演説 2022年2月24日、この日にロシアがウクライナを侵攻

「ロシアはNATOの東方拡大へつよく危機感をもっている。1980年代末、ソビエト連邦は弱体化し、その後、完全に崩壊した。私たちロシア人はしばらく自信を喪失した。あっという間に世界のパワーバランスが崩れたのだ。
 NATOが1インチも東に拡大しないと我が国に約束した。しかしながら、西側諸国の無責任な政治家たちが露骨に、無遠慮にNATOの東方拡大し、その軍備がロシア国境へ接近している。
 この30年間、私たちが粘り強く忍耐強く、ヨーロッパにおける対等かつ不可分の安全保障の原則についてNATO主要諸国と合意を形成しようと試みてきた。しかしながら、NATOは、ロシアのあらゆる抗議や懸念にもかかわらず、ロシアの国境のすぐ近くまで迫っている。
『政治とは汚れたものだ』とよく言われる。そうかもしれないが、国際関係の原則に反し、道徳と倫理の規範に反するし、ここまでしない。ここ数年で、アメリカ国内で真の「うその帝国」ができあがっている。正義と真実はどこにあるのだ?
 さかのぼれば、国連安保理の承認なしにベオグラードに対する流血の軍事作戦を行い、ヨーロッパの中心で戦闘機やミサイルを使った。数週間にわたり、民間の都市や生活インフラを、絶え間なく爆撃した。
 リビアに対して軍事力を不法に使い、リビア問題に関する国連安保理のあらゆる決定を曲解した結果、国家は完全に崩壊し、国際テロリズムの巨大な温床が生まれた。リビア人道的大惨事にみまわれ、いまだに止まらない長年にわたる内戦の沼にはまっている。
 この地域全体の数十万人、数百万人もの人々が陥った悲劇は、北アフリカや中東からヨーロッパへ難民の大規模流出を引き起こしている。
 シリアにもまた、同じような運命が用意されていた。シリア政府の同意と国連安保理の承認が無いまま、この国でアメリカと西側の連合が行った軍事活動は侵略、介入にほかならない。
 何の法的根拠もなく行われたイラク侵攻だ。その口実とされたのはイラクに大量破壊兵器が存在するという信頼性の高い情報をアメリカが持っているとされていることだった。
 アメリカの国務長官が、全世界を前にして、白い粉が入った試験管を振って見せ、これこそがイラクで開発されている化学兵器だと断言した。
 あとになって、それはすべてデマであり、はったりであることが判明した。イラクに化学兵器など存在しなかったのだ。国連の壇上からもウソをついたのだ。信じがたい驚くべきことだが、事実は事実だ。その結果、大きな犠牲、破壊がもたらされ、テロリズムが一気に広がった。
 国際法を軽視した例はこのかぎりではない。
 90年代、2000年代初頭、ロシア南部の分離主義者や傭兵集団を支援していたとき、コーカサス地方の国際テロリズムを断ち切るまでの間に、私たちはどれだけの犠牲を払い、どれだけの損失を被ったことか。にもかかわらず、何の根拠もなく、私たちロシアを敵国と呼ぶ。
 2021年12月、私たちは改めて、アメリカやその同盟諸国と、ヨーロッパの安全保障の原則とNATO不拡大について合意を成立させようと試みた。アメリカの立場は変わらい゛、自国の目標を追い求め、私たちの国益を無視している。
 2014年にウクライナでクーデターを起こした勢力が、権力を乗っ取り、お飾りの選挙手続きによって、権力を維持し、紛争の平和的解決を完全に拒否した。
 終わりの見えない長い8年もの間、私たちは、事態が平和的・政治的手段によって解決されるよう、あらゆる手を尽くしてきた。すべては徒労に帰した。
 NATOによるウクライナ領土の軍事開発は受け入れがたい。NATO諸国の軍によって強化され、最新の武器が次々と供給されている。NATOが東に拡大するにつれ、我が国(ロシア)にとって状況は年を追うごとにどんどん悪化し、危険になってきている。
 しかも、ここ数日、NATOの指導部は、みずからの軍備のロシア国境への接近を加速させている。私たちにとって受け入れがたいことだ。
 ドンバスの人民共和国(ドンバスウクライナの東南部に位置する)はロシアに助けを求めてきた。ドンバスには数百万人の住民に対するジェノサイドがある。これを直ちに止める必要があったのだ。
 第二次世界大戦の際、ヒトラーの片棒を担いだウクライナ民族主義一味の虐殺者たちが、無防備な人々を殺したのと同じように。彼らは公然と、ロシアの他の数々の領土も狙っている。さらに核兵器保有までも求めている。そんなことは絶対に許さない。
  これを受け、国連憲章第7章51条と、ロシア安全保障会議の承認に基づき、また、本年2月22日に連邦議会が批准した、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国との友好および協力に関する条約を履行するため、特別な軍事作戦を実施する決定を下した。
 その目的は、8年間、ウクライナ政府によって虐げられ、ジェノサイドにさらされてきた人々を保護することだ。そしてそのために、私たちはウクライナの非軍事化と非ナチ化を目指していく。また、ロシア国民を含む民間人に対し、数多くの血生臭い犯罪を犯してきた者たちを裁判にかけるつもりだ。
 ただ、私たちの計画にウクライナ領土の占領は入っていない。国連憲章第1条に明記されている民族自決の権利を取り消すものでもない。私たちの政治の根底にあるのは、自由、つまり、誰もが自分と自分の子どもたちの未来を、自分で決めることのできる選択の自由だ。希望するすべての人々が、この権利、つまり選択の権利を行使できるようにすることが重要であると私たちは考えている」


『註釈』
 プーチン大統領の侵攻は、ウクライナの「非武装化」と「中立化」、2014年にロシアが併合した南部クリミアでの主権承認などを求めるもの。
 額面通りにとらえれば、ロシアの国境のすぐ近くまでNATO軍を入れるな、という国土防衛(自衛権)である。

       SNSコメント:Yahoo!ニュースより   
       イラスト:中川有子

【特別・寄稿】 津田正生と『天保鎗ヶ嶽日記』=上村信太郎

 槍ヶ岳は登山者なら登ってみたくなる日本を代表する名山である。記録に残る槍ヶ岳開山は意外に新しく、江戸時代の文政11年7月、念仏行者「播隆(ばんりゅう)」と安曇野の村人たちによって成し遂げられた。


 播隆が3度目の槍ヶ岳登山をした天保4年に、尾張の地理学者、津田正生(つだまさなり)が槍ヶ岳に登頂してその記録を『天保鎗ヶ嶽日記』として1冊の書物に纏めたとされている。
 だが、新田次郎の小説に津田は登場しない。また、平成17年発行の『日本登山史年表』(山と溪谷社)にも津田の名前は出てこない。

 なぜかといえば、登山史研究者の間では津田の日記は「幻の登山日記」とも呼ばれていて長い間存在は知られているのに、原本を見た者が殆んどいなかったからだ。

槍ヶ岳.jpg
 ところが昭和57年に進展があった。『天保鎗ヶ嶽日記』の草稿が発見されたのだ。発見の経緯は『岳人』(419号)に杉本誠氏が《幻の書ー世に出る》の見出しで写真入り4ページにわたって紹介している。

 ただし、愛知県下の旧家(服部家)から発見されたのはあくまで草稿で、和紙2枚の表裏に墨書して綴じた4ページ分と別紙1枚である。


 文章の冒頭に、槍ヶ岳登山の動機が述べられている。

 それによれば、39歳のとき加賀白山を登った折りに、ひときわ高い飛騨の乗鞍岳と信濃の槍ヶ岳を望見して、その時からずっと登りたいと思っていた。そして58歳になった天保4年7月、いよいよ友人と尾張を出立した......。と書き始めている。だが、中山道の妻籠に入ったところまでのわずか3日分で終わっている。

 草稿発見のスクープを中日新聞社の杉本氏に知らせたのは、杉本氏の友人である民俗学研究者の津田豊彦氏(津田正生から6代目子孫)だった。

 一方、『天保鎗ヶ嶽日記』の写本を実際に目にしたという人物がいるのだが、結局みつかっておらず今でも「幻の書」なのである。

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 ところで津田正生とはいったいどんな人物なのだろう。安永5年に尾張国(現愛知県愛西市)の津田與治兵衛盛政の子として生まれる。

 生家は酒造りを営み、地元では近村に並びなき豪農と言われていたという。幼い頃より様々な習い事を体得し、20歳頃から学問に励み、旅行や史跡を訪ね、高山にも登った。

 やがて寛政12年頃から号を「六合庵」と名乗り、多数の書物を著す。なかでも文化年間から長い期間を費やし天保7年に完成したのが『尾張地名考』全12巻。尾張藩に納められた。今では尾張地方の歴史研究には必需書とされているという。

 平成9年、槍ヶ岳山荘の穂刈三寿雄氏、長男の貞雄氏共著による『槍ヶ岳開山 播隆〔増訂版〕』(大修館書店)が刊行され、この本で初めて津田の登山について初めて簡単に紹介された。

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 国民の祝日「山の日」が平成28年に新設された。これを記念して『燃える山脈』というタイトルの安曇野と上高地を舞台にした時代小説が執筆された。
 作品は前年~翌年にわたり地方新聞『市民タイムス』(本社・松本市)に連載され、連載終了後に山と溪谷社から単行本として出版された。


 著者は穂高健一氏。小説では槍ヶ岳を登攀した津田正生が出てくる。

 穂高氏は、執筆前に津田の故郷、愛知県愛西市を訪れて取材を重ね、津田の槍ヶ岳登山を裏付ける有力な史料を確認している。それは《尾張路を立て日々を重ねて信州鑓ヶ嶽とほ登りしに1番にあらず2番と代わりしも口惜候也...》と記された短冊だという。

 また、津田の2年後には安曇野の庄屋・務台景邦が信仰心からでなく槍ヶ岳に登った記録が松本の玄向寺に残されているという。当時の槍ヶ岳には津田のような知識人が他にも登っていたかもしれない...。(白山書房刊『山の本』119号記事を縮小)


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報268から転載

【歴史から学ぶ】ロシアのウクライナ侵攻と、昭和12年の日本帝国の日中戦争はそっくり

 21世紀に入り、まさか西洋諸国どうしの大戦争が勃発するとは、予想外のおどろきである。
 ロシアがウクライナに侵攻した。ロシアがなぜこうもクルミア半島やウクライナにこだわるのか。帝国主義の発想なのか。

 双方の事情を知るほどに、昭和12年から、日本帝国が遼東半島にこだわり、中国に侵略する暴走と実によく似ていると思う。

 昭和初期の日本帝国は、国際連盟の常任理事国という大国の地位にいた。軍事力も優れていた。ロシアは安保常任理事国である。まさに、国力はよくにている。


 このたび侵攻したロシアは、隣国のウクライナを弱小国家として上から目線でみていた。おおかた数日で陥落すると目論(もくろ)んでいたと思う。

 昭和12年の日本帝国は、中国の兵器や軍事力は劣っているし、中国人の士気は弱いと侮っていた。いとも簡単に落とせると豪語し、中国の首都(南京)や主要な都市に攻撃をかけたのである。

 当時の中国といえば、国内の政権が分裂し、蒋介石(しょうかいせき)の国民軍と八路軍(はちろぐん・共産軍)が内戦同様にいがみ合っていた。

 日本側とすれば、八路軍は農兵で粗末な武器でしか戦えないと、あまく見ていたのだ。

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 ところが、日本帝国が侵略したとなると、中国側の蒋介石の国民軍と毛沢東(もうたくとう)の八路軍がともに手をたずさえて死力をつくし、日本に挑んできたのだ。

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 現在のウクライナ情勢に目を移すと、戦況はどうだろう。ロシアの侵攻にたいして、ウクライナのゼレンスキー大統領が、私は逃げないし、死を賭(と)して祖国を守ると、全国民に徹底抗戦を呼びかけた。すると、民は祖国愛から士気を鼓舞し、強力なロシア軍と戦っている。

 これはとりもなおさず中国の蒋介石が南京が陥落しても、首都を奥の都市へ移してでも、日本軍に降伏しないと宣言した。それゆえに軍、官、民の固い結束で日本帝国に挑んできたのだ、その構図はいまのウクライナ国民の戦闘とよく似ている。

 ウクライナにしろ、中国にしろ、侵略してきた軍隊を駆逐(くちく)することにある。こうして、またたく間に、本格的なウクライナ戦争、日中戦争に突入し、ともに全土の戦いになったのだ。

              *
  
 クライナ軍は士気が高く、当初の予測よりも、よく持ち堪え、侵略者・ロシアを国外に追いだすまで徹底抗戦の気構えだ。
「あらゆる困難に耐え、抗戦の意思を持続させる」
 ゼレンスキー大統領は首都に留まり、全土の戦いへと一歩も引いていない。

 約100年前と見比べると、ウルグアイの政府軍と、中国の国民軍と八路軍(日本が農兵と侮っていた)の武器は希薄でも、強い意思をもって臨む戦い方がよく似ている。
 
 現在のロシア側は圧倒的な軍事力で、プーチン大統領が核兵器をもちらかせる。昭和12年の日本帝国は圧倒的な火器をもち優位にある、と奢(おご)っていた。

             *

 いまや、侵略国ロシアは世界の各国から強い批判を浴びせられている。結局のところ、世界各国から厳しい経済封鎖されはじめた。
 
 日中戦争に突入したあと、欧米諸国は日本帝国がこの戦争をやめないと、石油輸出禁止にするといくども警告を発していた。
 日本は都市部の攻撃で連戦連勝であり、勝ち戦なのに、相手が完全降伏しないかぎり和平に応じられないとした。

 これはいまのプーチン大統領の考えとまったく同じである。

 外国から「礼儀正しく秩序を重んじる日本国民だったが、別の国民になってしまった」といわれた。「ロシア人は他国の市民を殺す無情な国民になった」といわれる。
ここらも、良く似ている。

               *  

 西欧諸国は、日本が樹立した満州国を認めず、ホロコーストのドイツ・ナチスと手を組んだ(日独伊三国同盟)日本は中国大陸からの撤兵の意思なしと見なした。やがて、欧米は手を取り日本列島の周辺にABCDラインという経済封鎖を布いた。そのうえで、日中戦争の即時停止と中国からの撤兵をもとめてきたのだ。

 日本国内はしだいに備蓄の石油が無くなりはじめ、軍艦、戦車、飛行機の戦略にも影響が出はじめた。
「石油があるうちに、仮想敵国のアメリカを攻撃した方がよい」という意見も飛びだす。
                 
              *

 現在のロシアは2014年3月11日にクルミア半島を独立国家にさせた。日本がかつて満州国を樹立し傀儡(かいらい)政権をつくったように。実に、よく似ている。

 ここまで似るのか、と思うほどだ。

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 古今東西。戦争突入は簡単だが、和平は難しいといわれてきた。『戦いは安く。和は難しい』という格言になっている。

 ロシアはいま勝利している側だ。ここが重要だ。
 プーチン大統領としては叩きのめすまで戦う。勝っている以上は自分の要求は通すまで講和しない、という気持も解らぬではないが、経済封鎖が利いてきてロシアの国力が弱ると、それはかつて日本帝国が失敗した道なのだ。

① ロシアはいま、ウクライナ側のゼレンスキー大統領から和平をもとめられているのだから、すみやかに「和平と講和」のテーブルにつくチャンスだ。交渉は有利に展開できる。いまが休戦、停戦、講和へと進む最上の道だ。
 なにはともあれ、最高の「講和の機会」のチャンスというとらえ方だ。ここを見間違うと、たいへんな戦争犯罪者になっていく。
 日本でいえば、東条英機元首相のように。

② さらに第三国から和平の斡旋があるいまは「躊躇なく」それに応じることだ。フランス、トルコ、イスラエルなどから和平斡旋の手があがりはじめた。最大の和平の好機と見なす。
 これをむげに蹴(け)っていると、昭和16(1941)年に太平洋戦争に突入した日本帝国のように、世界を見渡しても仲介国が一カ国もない状態になってしまう。外交努力すらもできない。

 プーチン大統領は、帝国主義の古い発想だ。ゼレンスキー政府を倒し、ロシアの意図とする臨時政権をつくっても、それはまちがいなくウクライナ内戦を呼び起こす。泥沼の惨事になるだろう。
 その先は、かつてのアフガンのような最悪の状況になり、五年、10年後にはロシアの経済力がいつそう衰えて撤退する結果になる。
「あの時、止めておけばよかった」
 あらゆる戦争の最後の言葉を吐くことになる。


 最悪のシナリオがある。1853年のクルミア戦争のように、小さな戦争があれよあれよ、という間に英仏とロシアというヨーロッパの大戦争になった。この過去の教訓を生かすべきだ。
 もし、おなじ道になると、NATOとロシアの対立構造というヨーロッパ大戦争になる。戦争がはじまると、双方で冷静さが失われる。
 こんかいも原子力発電所が狙われた。
 となると、戦争犯罪者としてプーチン大統領の命狙いでモスクワ・クレムリン宮殿に戦術核が落とされないとも限らない。

 その危険な状況にもはや近づきある。日本帝国が歩んだ、日中戦争、太平洋戦争、東京大空襲、広島・長崎は他人事ではない。
 まだ100年も経っていないのだ。

 いまは核戦争を止められるのは、プーチンロシア大統領のみだ。 
  
 

国際ペン ― 世界の作家のウクライナに関する声明 ― ノーベル賞受賞者、作家、芸術家

 世界中のノーベル賞受賞者、作家、芸術家は、1000人以上が署名した前例のない手紙でロシアのウクライナ侵攻を非難します

 文学と表現の自由の組織であるPENインターナショナルは、世界中の1000人以上の作家が署名した手紙を発表し、作家、ジャーナリスト、芸術家、ウクライナの人々との連帯を表明し、ロシアの侵略を非難し、流血の即時終結を呼びかけました。
ウルグアイ 中川.png

クライナの友人や同僚に

 私たち世界中の作家たちは、ロシア軍がウクライナに対して解き放った暴力に愕然とし、流血の終焉を緊急に求めています。

 私たちは無意味な戦争を非難し、プーチン大統領がモスクワの干渉なしに将来の忠誠と歴史を議論するウクライナの人々の権利を受け入れることを拒否したことで団結しました。

 私たちは、作家、ジャーナリスト、芸術家、そして最も暗い時間帯を生きているウクライナのすべての人々を支援するために団結しています。私たちはあなたのそばに立ち、あなたの痛みを感じます。
                   
 すべての個人には、平和、自由な表現、自由な集会の権利があります。プーチンの戦争は、ウクライナだけでなく世界中の民主主義と自由への攻撃です。

 私たちは、平和を求め、暴力を煽っているプロパガンダを終わらせるために団結します。

 自由で独立したウクライナがなければ、自由で安全なヨーロッパはあり得ません。

 平和が優先されなければなりません。
             
         (イラスト:中川有子) 
 
【原文・英語】

Nobel Laureates, writers and artists worldwide condemn Russia's invasion of Ukraine in unprecedented letter signed by over a thousand
Sunday 27 February 2022 - 5:30pm
Read the briefing in full
Nobel Laureates, writers and artists worldwide condemn Russia's invasion of Ukraine in unprecedented letter signed by over a thousand

PEN International, the literary and free expression organisation, has released a letter signed by over 1000 writers worldwide, expressing solidarity with writers, journalists, artists, and the people of Ukraine, condemning the Russian invasion and calling for an immediate end to the bloodshed.

Read in Ukrainian, Russian, Arabic, French and Spanish.

To our friends and colleagues in Ukraine,

We, writers around the world, are appalled by the violence unleashed by Russian forces against Ukraine and urgently call for an end to the bloodshed.

We stand united in condemnation of a senseless war, waged by President Putin's refusal to accept the rights of Ukraine's people to debate their future allegiance and history without Moscow's interference.

We stand united in support of writers, journalists, artists, and all the people of Ukraine, who are living through their darkest hours. We stand by you and feel your pain.

All individuals have a right to peace, free expression, and free assembly. Putin's war is an attack on democracy and freedom not just in Ukraine, but around the world.

We stand united in calling for peace and for an end to the propaganda that is fueling the violence.

There can be no free and safe Europe without a free and independent Ukraine.

Peace must prevail.

【孔雀船99号 詩】 思い出集め  望月苑巳

公園で孫とキャッチボール

鬼ごっこ

かくれんぼ

家では誕生日のケーキの上の蝋燭を吹き消す

(何だか命の灯を消すみたいで悲しい気分になるが、本当のことは誰にも言えない

お正月、普段顔を見せない娘夫婦が

birthday-cake 2022.2.14.pngこぞって笑顔を持ってくる

(作り物でないことを祈ろう

そんな時、ビデオで撮っておきたいと思う

ビデオならいつでも再生できるから

(ただ、ビデオには心まで映らないから残念だ

友人が訪ねてくる

スリッパを出す

たくさんの人を招き入れたスリッパだ

匂いがつけば鼻つまみものにされ

ボロボロになれば即お役御免

それまでは文句ひとつ言わず

どんなに臭い足で

穴の開いた水虫たっぷりの靴下も

受け入れてきた可哀想なスリッパよ

お前も思い出集めの仲間になりたくはないか

そうだお前こそ家族の一員だった

ビデオの主役になる権利がある

だからこっそり撮っておこう

孫たちから文句が出ようが

消去しはしない

(そう決めたのに今朝起きてみるとスリッパラックにお前がいない

妻に問えば「昨日、ごみに出したわよ」

思い出集めの終楽章はいつもこんなに

たわいなく残酷だ


思い出集め (1).pdf


【関連情報】

 孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

「良書・紹介」 明治に育った『或る船長の生涯』=山崎保彦 (著者・90歳にて)

 山崎保彦さんが、『老船長のLOG BOOK』につづいて、第2作目を出版された。題名は『明治に育った「或る船長の生涯」(大成丸学生航海修行日誌)』で、ことし(2022年)1月10日に発売された。

 著者は山崎保彦さんは90歳である。平易な文章で濃密な内容をもって父・彦吉の人生を世に送りだした。それはとりもなおさず、明治、大正、昭和中期までの海洋・海運および日中戦争の貴重な目撃証言である。
 
                *

 明治時代は近代化、西洋化で海洋国家を目指した。ところが、江戸時代の長い鎖国の影響から当時は大型の外洋船もなく、機関知識も、航海術すらもなかった。

 そこで政府は欧米の先端技術を導入し、造船業を盛んにする。なおかつ高度な操船ができる上級船員を養成することが急務だった。全国から最優秀な生徒が官費であつめられた。
学生たち.jpg かれらは招へいされた外国人教官の下で、英語による航海学・機関学を学んだ。実習は欠かせない。沿岸の練習船において、未熟な学生らの海難事故が多々あった。


 かつて幕末に勝海舟が咸臨丸(オランダから購入)で太平洋を横断したように、東京高等商船学校の学生らは、学び得た高度な操船技術を、その実力をいよいよ試すときがやってきたのだ。

 官立(国立)の東京高等商船学校の帆船・練習船(大成丸)が、明治43年10月26日に横浜港から後藤新平逓信大臣らに見送られ、初の世界一周の航海にむかった。

 その1期生として山崎彦吉(著者の父)が乗船していた。それから15ヶ月、3万6000海里の大航海に乗りだしたのである。暴風雨のなかでも毎日、義務として英文で「商船学校学生航海修業日誌」を正確に記す。現存する日誌は、学生が必死に克明に書きつらぬいた筆跡である。

 その貴重な資料をもとに、山崎保彦さんが英文を日本語にして書き綴った作品である。作中で、読者にわかりやすく東京商船大卒の中川有子さんが随所にイラストを挿入している。
 彼女は帆船の練習船に乗船した経験から、イラストはとてもリアルでビジュアルである。練習船の大成丸とはどんな練習船か。現在、横浜みらい博物館に係留されている帆船・日本丸だと想像してもらえばわかりやすい。
 
出版社 : 紙とペン書房

定価  : 1400円+税

 第1章 彦吉の生涯

 第2章 練習船大成丸世界一周(彦吉の航海日誌)
 
2022.1.30.yamzzaki.JPG               *

 
 第一部の「彦吉の生涯」について、

 現・東京海洋大学のHPによると、官営(国立)の東京高等商船学校は、明治・大正・昭和を通して難関校として有名である。俗に「陸士・海兵・高等商船」と受験生から呼ばれ、陸軍士官学校・海軍兵学校と並び称されるほど、全国から秀才が集まったと記されている。

 練習船・大成丸に乗船し世界一周した彦吉は、超エリートの東京高等商船学校を卒業すると、大正2年4月5日から国策会社の日新汽船に入社した。それは男爵・渋沢栄一が、揚子江流域の航海権を欧米と競う新会社として設立したものだ。むろん、航海士として日新汽船に入社するのは狭き門である。

                   *

彦吉船長 ①.jpg 山崎彦吉の勤務地は上海で、天津、大連など海域を航行する船の航海士であった。このころ中国において排日運動が盛んになりはじめていた。やがて昭和になると、第一次上海事変、さらには満州事変へと戦争が激化してくる。彦吉の日々は生死の境目に立つ航海である。
 
 商船は砲撃の対象になるし、昭和7年には日新汽船は民間事業として成立できなくなった。希望退職が募られた。父・彦吉はすでに結婚し広島を定住の地としており、帰国する。

 しかしながら、旧日本軍は揚子江流域にくわしい彦吉をふたたび上海にひきもどした。
 揚子江水先案内人(マリン・パイロット)として招へいされたのだ。上海港に出入りする民間船・軍用船を問わず、乗り込む水先業務である。やがて、第二次上海事変、さらに本格的な日中戦争へと進んでいく。まさに戦時一色である。

 昭和20年になると、日本側には船舶がなくなり、戦局が最悪になり、揚子江水先案内人の仕事もなくなった。彦吉は帰国を決意した。交通機関も満足になく、難行苦行で朝鮮半島の先端へ、さらに佐世保にわたり、列車で妻子がいる広島・宇品の自家にたどり着いた。

 苦労はそればかりか、翌8月6日は原爆の投下による大惨事である。悲惨な光景の町とか、恩師の娘さん・女子学生の死とかが、保彦氏の筆で客観的に描かれている。
 決して大げさな用語はない。それだけに事実の悲惨さがかもし出されている。

 ちなみに晩年の彦吉は、呉と江田島を結ぶ小さなフェリー船の船長になる。やっと平和な父の姿があった。
                   *

 息子の保彦氏も東京商船大学卒で、外国航路の大型船の船長や、大阪湾の水先案内人を務められた方である。
「航海日誌は事実しか書けません。どんな暴風雨のなかでも、冷静に記録します。ですから、フィクションは書けないのです」
 それだけに父親・彦吉が残した数々の日誌、手帳、手紙に冷静な目で向かい合ってより忠実につづられている。

 これらは日中戦争の下で、民間の商船エリートが正確に遺した史料としても第一級であり、加えて貴重な歴史証言といえる。山崎保彦さんはとてもよい仕事をされたと思う。


「関連情報」

①『明治に育った「或る船長の生涯」(大成丸学生航海修行日誌)』

 出版日 :令和4(2022)年1月10日
 出版社 : 紙とペン書房
 定価:1400円+税

 【お問い合わせ先 geihanshi@gmail.com 住所、氏名、電話番号、注文数】
  
②『老船長のLOG BOOK』

 出版日 :令和2(2020)年12月10日 (2版)
 出版社 : 紙とペン書房
 定価: 1600円+税

 【お問い合わせ先 geihanshi@gmail.com 住所、氏名、電話番号、注文数】
  

「元気100教室・エッセイ」 治験 武智 康子

 令和四年一月四日の夕方、突然、自宅の固定電話が久しぶりに鳴った。電話の相手は、私が、日本語教師として学校で最後に教えた卒業生からだった。

「王健です。先生、明けましておめでとうございます。やっと、僕の研究が実を結びそうです。今朝、事初めの席で部長から報告をいただきました。・・・・・・・・・」
 彼の声は喜びにあふれていた。
「それは素晴らしい。本当によく頑張ったね。・・・・・・・・・」
 私も嬉しかった。


 彼は、二十年前、中国のエリート高校を卒業して十八歳で来日した。初めて会った時は、青年というよりまだ少年のような顔つきだった。
 私は、始めて会った学生には、折を見て個別に面接をしていた。その時の彼は、他の学生と違って顔は少年でも、考えや留学の目的がはっきりしていた。まず、日本語を勉強した後、日本の大学で、医学か薬学を学び、「癌」の治療薬を作りたいという目的を持っていた。それは彼の叔母が白血病で非常に苦しんで亡くなったからだった。

 当時の日本は、アジアの最先進国であり工業技術や医学など科学技術の分野においては、世界に冠たる国であった。

 彼は、非常に真面目で、日本の大学に合格するには、普通は二年かかるところを一年で日本語教育を修了して、信州大学で生命科学を学び、大阪大学の大学院に進学した。そして日本のバイオテクノロジー大手の企業に就職して、研究所で十年越しの白血病の治療薬の研究に勤しみ、やっと治験に辿り着いたのだった。

 今は、三十八歳となり結婚もし、チームのリーダーとして活躍しているそうだ。

 ただ、動物実験に成功したからと言って、必ずしも人で成功するとは限らない。思わぬ副作用が出てくるやもしれない。彼自身も嬉しさの反面、一縷の不安ものぞかせているのは事実だ。
 新薬の臨床試験である「治験」は、厚生省により募集されるが、厳しい健康チェックの後、一、二週間病院に隔離される。もちろん謝礼は払われるが、それをアルバイトにしている人もいるという。

 しかし、治験には危険も付きまとう。大半は安全だが、時に「死」に至った人もあったそうだ。だから、アルバイトではなくボランティアであって、報酬ではなくあくまで協力に対する謝礼であると定義されている。

 一方、彼は、研究中思うようにいかずに、やめたいと思ったこともあったという。動物実験では何匹もの動物の命を奪ってしまった。その時「生命とは何か」を考えたそうだ。その気持ちは、私もよくわかる。
 私自身も学生時代に、人における呼吸酵素の働きを解明するための免疫学の実験で、モルモットやウサギの命を奪った経験がある。その時の気持ちは、今も忘れていない。

 そして、彼は最後に
「やっと治験にたどり着いた今、実験で犠牲になった動物たちに感謝するとともに、これから治験に参加してくれる人達、それが例えアルバイトであっても命を懸けてくれる人たちに感謝したいと思っている。そして、薬が安全で効果があることを証明したいと思っている」
 と話してくれた。

 私は、少年のようだった彼が、単に自分の研究成果だけでなく、研究を通して動物や治験者へも感謝の気持ちを忘れない、立派な一人の人間に成長したことが、何よりも嬉しかった。

 治験が成功すれば、世の中の多くの白血病患者が救われる。誠実な心の持ち主である「王健」の治験の成功を、私は祈らずにはいられない。
 コロナ禍で、心が沈みかけている、令和四年の新春に、この明るいニュースを受けた私の心は、少し華やいだ。
                         了

【寄稿・エッセイ】若返った私 青山 貴文

 令和4年の正月の朝が来た。私は、朝型人間で、正月だろうが4時ごろ目が覚める。といっても朝5時頃は真っ暗だ。

 数年前、「正月くらいはのんびりしなさいよ」と妻にいわれ、目が覚めてから、寝床の中でいろいろ考えたり、本を読んだり、ラジオを聞いたりした。

 その日は、一日中だらだら過ごしてしまりがなく、体調がおかしくなった。それ以来、正月でも目が覚めると、すみやかに床を離れる。


 書斎で、お湯を沸かしお茶を飲みながら、読書や調べものをしたり、数日前に記述したエッセイの推敲をしたりする。文章を数日寝かせると、矛盾点や表現のおかしなところがたやすく見つけられる。
 そこで、いつも数編のエッセイ原稿を、パソコンに保存し、これはという数編を選んで推敲を重ねたものだ。ところが、81歳ともなると、作文力が落ちたのか、1編をパソコンに保存するのがやっとだ。その一編を、数日おきに推敲して、今までなんとか毎月一回、私のブログに掲載してきた。


 私は、新橋のエッセイ教室に、毎月一回通い続けて14年になる。このブログに載せた作品をエッセイ教室に投稿し、穂高健一先生や読者の皆さんのご意見をいただいている。

 先生や皆さんの感想文・ご意見を原作文の次にブログに載せる。数日して、主に先生に添削していただいたエッセイを改作文としてブログに掲載する。エッセイ好きの読者の中には、「青山さんのブログは、どのように改作すればよいか分かるのですごく勉強になる」と言われる。

 「エッセイを志す後輩あるいは同志のために、恥を忍んで、拙作エッセイを世間様に晒している」人間何か一つ世の中のためになることをやっていると、生きがいを感じ、若返るものだ。
 
 私には、この早朝が新鮮で、脳細胞が活性化して事象を深く把握し、文章化できる唯一の時間帯だ。この朝のひと時を有意義に楽しく過ごせば、午後からは何をしても充実した1日になる。
 さて、そんな凡庸な朝型人間だが、今年の正月の雰囲気はいつもとどこか異って感じる。特に、居間から見える奥行きのない狭い平凡な庭の景色も、いつもと変わりはないか、今年はなにか明らかに違う。


 昨年暮れに夫婦して、居間の一間半の大枠の透明ガラス引き戸の網戸を取り外し、裏の軒下に冬場だけ置くようにしてみた。居間から見えるいつもの庭の垣根や草木が、二倍広く見え、大げさだがパノラマの景色を見ているようだ。
 
 さらに、昨年暮れ、吹き抜けの玄関の間接照明にもなっていた二階の洗面所の鏡の蛍光灯を取り外した。そして、LED電球に変えた。すごく明るいわりに電力は17ワットと少なく頗る経済的だ。
 この蛍光灯は、30数年前、家を改築した時の古いものだ。ここ数年接触が悪いのか、点いたり消えたりし、最近はつかないことが多かった。
 
 居間の網戸を外し、二階の用をなさない蛍光灯をLEDに変えた。ともにいつかやろうとしていたことを実行したまでだ。
 懸案の2カ所を明るくしただけで、今年の正月は若返った気がする。

                                  了

「元気100教室・エッセイ」 現状維持 金田 絢子

 令和三年十二月、雪の便りも届き、ぐんと寒くなった。ところどころ、一重の椿がしおらしく赤色を覗かせている。

 ある日、買物の帰り狭い歩道にさしかかると、八十三歳の私と同年輩の紳士が向うからやって来た。私を見ると立ちどまり「どうぞ」という風に身をかがめた。
 私が通り易いように、道の端に体を寄せてくれている。私は「ありがとうございます」と丁寧に言って、通りすぎたが、多分、私の歩き方にどこか不安定なものを感じとったのだろう。

 実は、同年十月十五日、私は左脚の付け根から踝にかけて、激しい痛みに襲われ、その場に凍りついた。かかりつけの内科医に紹介してもらい、歩いて十分ほどの総合病院の整形外科に行った。

 レントゲン検査の結果、左の腰骨のゆがみが神経を圧迫しているのだと診断された。痛みどめと胃ぐすり、寝しなに飲む神経をやわらげる薬を処方してもらった。

 痛みは日を追って楽になっていったが、玄関の三和土におりてドアをあける動作は、向こう脛にひびく。歩くのはあきらめて、四、五日外へ出なかった。家の中はかがんで歩いた。

 それまでもよろよろ歩いていたのだが、なおいけなくなった。力を入れても脚が思うように言うことを、聞いてくれない。年よりだから快復は遅いだろうが、歩かなくてはと痛切に思った。
コロナのせいで、月に一度の新橋のエッセイ教室はしばらく通信で行われていた。が、九月から対面でも実施される運びとなった。

 九月はいそいそと出かけたが、十月は生憎、脚の神経痛で参加できなかった。十一月三十日は思い切って出席を決めた。決めたものの落ち着かず、早すぎる時刻に家を出て、地下鉄の都営浅草線に乗り、新橋まで。駅の長い階段をやっとのことでのぼって、教室のあるビルに辿り着いた時には、全身がふるえるほど嬉しかった。


 思えば、この日の外出は、私にとって久々の遠出であった。

 世界中が、コロナ騒ぎと縁の切れないまま、年が明けた。寒冷前線が猛威をふるい、北国に大雪をもたらし、六日、東京も雪に見舞われた。

 私は七日の十時に歯科の予約が入っていた。テレビは「凍結に充分注意してお出かけ下さい」とくりかえしている。

 普段は、我が家のわきの坂道を通って三分で行かれるのだか、危険なので迂回することにした。医院の入口まで、娘が付き添ってくれた。娘に言われて傘を杖がわりに持って、決死の覚悟で出発した。ともすれば、つるりとすべりそうになる。傘が役に立った。

 診察を終えて、受付のあたりで、
「あしを痛めてから、脚力がにぶりました。でも歩かなければと自分に言い聞かせて、極力歩いています」
 するとS先生は言葉をかみしめるようにこう、応じられた。
「歩いていれば、よい結果がついてきます」
 私より五つ年下のS先生は、ずっと以前から、長距離歩行をご自身に課して来た人だ。信憑性のあるひとことは、胸にしみた。

 歩みをはじめたばかりの新年を前に、勇気づけられ、爽快な気分で、家路についた。幸い往きも帰りも、転ばすにすんだ。

 今さら完治はのぞめないにしても、何とか現状維持で、この年をのりこえられそうな、嬉しい予感がする。