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令和はもはや六年が経つ。下田尚嶽「七言絶句」の作品からふりかえる(1/3)

 昭和は戦争つづきの激動の時代だった。一変して平成はいろいろな出来事もあるが、戦争から解放されて平坦であった。
 令和は六年目に入った。世界を見渡せば、ヨーロッパ、中近東の戦争、さらにアジアまで中国・台湾の緊張が高まっている。わが国はことし正月早そうから、まさかという大惨事がおきた。
 先行きは嫌な予感もするが、戦争には巻き込まれないでほしい。ただ願うだけでなく、国民が戦争をしない代議士を選ぶべきなのだ。

 明治以降の改元は、天皇の「一世一元」制である。まだまだ先のある話しだが、令和の先の天皇は男系に拘泥するのか、あるいは女性天皇が誕生するのか。国民の関心は高い。選挙の焦点になってほしかったな。

 第二次世界大戦の終結において、日本はポツダム宣言(13の条件)を受け入れた。そのなかの一つには、天皇に権限が集中する軍国主義を排し、民主的な国民主権の政府をつくるという条件があった。
 一般にいわれる日本は無条件降伏ではない。(ドイツはヒットラーが自殺し無政府になったから、無条件降伏で、東西ドイツが分断された、占領軍による直接統治)。
 日本の場合は13の条件を受け入れて降伏した「条件降伏」である。けっして無条件降伏ではなかった。国会も、日本人による政府も、そのまま継続できた。アメリカを代表する占領軍の立場からすれば、13の条件を日本が成すまで見守る間接統治だった。

 そのうえで、天皇親政を排除し、新たな国民国家として、日本人の手による日本国憲法ができた。同時に、民主主義の理念から「国民がみずから皇室典範を変更できる」ことになった。これも戦後の日本政府がみずからつくった。当時の昭和天皇は現人神(あらひとがみ)でなく人間宣言をなされた。

                     *

 さかのぼれば、明治二十二年に、伊藤博文による大日本帝国憲法と皇室典範が同時に制定された。皇室に関する規定はすべて皇室典範に組み入れられた。その結果、帝国議会(国民の代表)は皇室に関する事項については、まったく関与することができなかった。まさに「天皇は神聖にして犯すべからず」であった。

 しかし戦後、この旧皇室典範は廃止された。新「皇室典範」(昭和22年法律第3号)は名称をそのまま残しているが、神道的儀礼部分を削除して簡素化された。内容は皇位継承、皇族の範囲、摂政(せっしょう)、成年・敬称・即位の礼、皇族が結婚するときの手続き、皇籍離脱、皇室会議の仕組みなどについて定めている。

 この皇室典範はふつうの法律とおなじ扱いである。国会で変更できるのだ。国会の代議士が過半数をしめれば、皇室典範の改定で女性天皇も可能になるのだ。(憲法改定のような2/3というハードルの高さはない)。
 つきつめれば、政治家(代議士)でなく、国民一人ひとりが天皇を決められるのだ。

 こんな思慮をしているさなかに、「のこぎりキング下田」さんから、漢詩を四点ちょうだいした。七言絶句だった。


       下田尚嶽作「祝賀恩列の儀に題す」(しゅくが おんれつのぎに だいす)

下田 漢詩 天皇.JPG

晴朗皇居爽気催  光輝宝冠興佳哉

歓迎祝福天恩洽  歓正是令和幕開

 祝賀パレードは晴天だった。すがすがしい雰囲気のなか、皇居・宮殿より赤坂御所へ出発された。秋の強い日差しに照らされた皇后雅子さまのティアラが燦然とかがやき、とてともうつくしい。
 沿道を埋めつくした観客者は、日の丸をふって祝福する。天の恩恵で万民が福を受け広くゆきわたる。

 天皇・皇后両陛下は、国民に感謝のこころを恩顔で応える。

 まさに令和の幕開けを披露した祝賀パレードの儀となる。

               ☆ 

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「関連情報」 七言絶句(しちごんぜっく)とか、五言絶句(ごごんぜっく)とか、学校の国語で習ったな。もうわすれたな。何だったけ......? そうだ、一句あたり何文字か、それを数えればよいのだ。句のなかに七文字の漢字があれば、七言絶句だったな。

 

未来に危機を、太古にロマンを。下田尚嶽「七言絶句」の作品から(2/3)

  地球環境はきびしい。動植物の生態系の狂い、温暖化など気候の兇変、核戦争の予知など、この破壊は一体どこまで進むのだろうか。
 
 人間は欲が強い。必要以上にかかえこむ習性がある。ほかの動物にはないものだ。大金持ち、武器商人、科学者などはあくなき欲と、進歩という破壊をおこなう。個人および国家の利益が破壊循環をつくりだしている。

「人間よ。もう700万年の歴史に区切りをつけて、ここらで地球の表面から立ち去ってくれ」と40億年におよぶ地球から、人類に退避命令が出てそうな気配だ。私たちの子々孫々、わずか2、3世紀先でザ・エンドとなるのか。SFの世界でとどまればよいのだが......。

 2000年の眠りから目覚めた古代のロマン「大賀蓮(オオガハス)」がある。
 昭和26(1951)年3月30日の夕刻、花園中学校(千葉市)の女子生徒・西野真理子さんが古い地層の地下約6mの泥炭層から、ハスの実を1粒を発掘した。さらに翌月6日には2粒、計3粒のハスの実が発掘されたのだ。大賀一郎博士が発芽・生育に成功した。蓮として世界最古だという。
 こうした古代ロマンには、新鮮な息吹を感じさせてくれる。


     世界最古の大賀蓮を観る (作・下田尚嶽)

下田 大賀蓮.JPG 

       佛暁池塘満紅蓮  清風一陣郁香伝 

       出泥緑蓋揺揺処  玉露煌煌映日鮮 

  明け方の池に縄文時代の蓮の紅い花が一面に咲いている。
  さわやかな風がひとしきり吹き、より香りがだたよう。
  泥のなかに清らかな花を咲かせる。蓮の葉がゆらゆらとゆれうごく。
  玉のような露がキラキラ光りかがやき、太陽を映し鮮やかであった。

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東京五輪をどうみるか。下田尚嶽「七言絶句」の作品から(3/3)

 フランスの教育学者クーベルタン男爵の提唱により、1896年に第1回オリンピックがギリシャ王国のアテネで開催された。
「スポーツによる青少年教育の振興と、世界平和実現のために、古代オリンピックを復興しよう」という呼びかけから開催におよんだ。オリンピック憲章には「アマチュア選手のみが参加できる」という規定があった。

 日本には昭和15(1940)年の「まぼろしのオリンピック大会」があった。
 国際連盟が1932年に日本の傀儡((かいらい)政権の「満州国の不承認」を決議し、世界のなかで日本が孤立し、日中戦争が激化するほどに欧米からの批判が高まった。オリンピック不参加国が多数予測された。日本も中国大陸での軍事費がぼう大になった。
 日本は昭和13年(1938)年7月に開催権を返上した。開催都市がみずから大会を返上した史上唯一のケースとして知られている。

 やがて戦後の安定期に入ると、昭和39(1964)年に「第十六回東京オリンピック大会」が開催された。日本が高度成長期に乗りかけた勢いのあるときだ。このときはアマチュア選手のみで行われていた。
 当時は早稲田大学の学生であった下田尚獄さんは、「超人的なパワーをさく裂し、日本のみならず、世界中が歓喜したものです。日本が誇らしく思えました」と語る。

 第21回(1976年)モントリオール・オリンピック大会から「アマチュア」という言葉が削除された。1988年のソウルオリンピックからはプロ選手も参加できるようになった。

                   *

 第三十二回の東京大会は、パンデミックのために史上初めて1年延期して開催された。205の国と地域、1万1092人が参加し、実質19日間において3競技339種目がおこなわれた。 日本の金メダルは最多の27個だった。

 近代オリンピックの目的は、「人間の生き方を高め、人類の平和や人間の尊厳を実現することであり、スポーツはそれのための手段である」という理念がある。それゆえに、戦争の当事国が、オリンピック期間に限定した休戦が行われたりもする。

 いまや、アマチュアよりもプロの選手が活躍し、ビジネスの色合いが強くなった。すると、スポーツを食い物にする連中(政治家・大会運営者)があらわれてきた。東京オリンピックでスポンサー契約を巡る汚職事件が発覚した。

 日本人がオリンピック精神を踏みにじった罪は大きい。こんなことをすれば、オリンピックの開催期間中の休戦協定など反故にされてしまう。今年(2024)はパリオリンピック大会が開催されたが、ウクライナ戦争、イスラエル・ガザ戦争の一時休戦の声すら上がらなくなった。それにも悪影響を及ぼしているかもしれない。

 汚点をのこした第三十二回東京オリンピックだったが、下田尚獄さんの七言絶句は純朴にスポーツ讃える。スポーツ選手の精神はいつも清らかだ。まわりが汚してはならないという教訓をあらためて知る。
           
               下田尚獄作「祝 第32回 東京五輪」 

下田 熱戦.JPG下田 熱戦.JPG

     新冠瘟疫五輪開   熱戦広繰味快哉
    
     日本燦然飛躍讃   万邦団節一初催

 多様性と調和を理念に掲げた東京オリンピックをコロナのパンデミックの真っ只中ににひらいた。

 熱戦をくり広げ、胸がスカッとした爽快感を味わう。

 日本選手のきらきらと輝く最多メダルの獲得を称賛するべし。

 オリンピックにより世界が団結し、コロナの世界的な大流行がはじまって以来、

 世界205か国が初めて一つになって催せた。

【孔雀船104号 詩】 あたしはカラス  三井 喬子

公園の カラス
ゴミ籠が設置されているが すぐに満杯になる
食べ残しのパンや
飲み残しのジュース
ポリ袋 上手にめくって朝ごはんだ
カラス イラスト.jpg
あたしは カラス
裏山の カラス
朝に鳴き
夜に鳴き
誕生した新しい命を寿ぎ 死者を弔う

あたしは カラス
深山の カラス
内気な カラス
あたしたちが人間とつるみたがるのは
飛翔高度が問題なのではなく
食物の多寡と 鷹の脅威から逃れるためだ

おお あたしはカラスなのだ
時に 生意気な赤ん坊や婆さんを襲うこともあるが
虫であれ 果物であれ
油まみれの袋であれ
つつけば旨いこともある

おお あたしは
忌避されるカラスである
時に慕われ 時には唾棄される
漆黒のカラスである
ベンチの年寄りがステッキを振るが
お前の方が先に死ぬんだよ
分かってるのかあ

おお カラス
それはあたしの名前である
あたしたちの名前である
カラスの髪は緑の黒髪
この世の海辺に 揺らめいている

おお カラス
あたしの名前を呼ばないで

磯嘆きして

死別
引き裂かれてなお
飛べ!


あたしはカラス 三井 喬子.pdf=縦書きで読めます

【関連情報】
 孔雀船は104号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp


イラスト:Googleイラスト・フリーより

戦争は平和都市をつくる

 ふるさとに帰る都度、「平和」という表現をよく聞く。「広島は平和都市」だと行政も、市民も語る。

 いまや、ウクライナ戦争は緊張の度合いを高めている。アメリカ次期大統領選挙で、トランプ氏が勝てば、ウクライナ支援から撤退するという。バイレン大統領も、来年以降の追加支援予算が取れないだろう。

 アメリカ支援がなくなれば、ウクライナは孤立する。フランスは陸上軍を送りだす構えだ。イギリスも与するだろう。
 これは1853年のクリミア戦争とまったくおなじ。ナイチンゲールで有名になった欧州大戦争である。ロシア(ニコライ一世)がオスマン帝国に侵攻した。英仏がクリミア半島一帯に兵を送り込み、オスマン帝国との連盟軍としてロシア軍と戦う大規模な戦争になった。
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「歴史はくりかえす」
 170年経った今、英仏軍がウクライナ領に入り、その先ロシア領まで踏み込めば、プーチン大統領は公約通り、核弾頭ミサイルを撃ち込む。首都・キーウならば大惨事で、核被爆地「キーウは平和都市」となる。
 戦争は人間を凶器にする。「目には目を、歯には歯を」となると、英仏がモスクワに核報復する。モスクワは平和都市を宣言する。
 両国は首都を変えてでも、戦争をつづける。
 さらに被爆したパリ、ロンドンの平和都市が誕生する。NATO軍の28カ国のなかで核兵器をもたない国すら核攻撃のターゲットにさらされる。


 2023年1月現在、核兵器は一万2512発ある。核はおなじ都市に落とさないので、その数だけ平和都市が生まれる。
 思うに、一世紀前の漫画をみれば、高速道路、新幹線、旅客機による旅行など夢の世界だった。いまや違和感なく実現している。漫画とは未来像の先取りだ。SFやアニメなどには「人類滅亡」の素材があふれている。あと一世紀も待たずして人間は過去40万年の歴史を消し、他の生物に地球を譲るのか。

 ところで、毎年八月六日の広島式典では平和をうたう。「原爆投下がアメリカだったと、広島は言わない」と、プーチン大統領が批判したことがある。

 第二次世界大戦から80年が経ち、世界の若者たちはドイツ・ホロコーストも、日本がどこの国と戦ったのかも殆んど知らない。式典主催者がアメリカによる原爆投下だと言わないのは、子々孫々、後世に歴史の本質を隠す行為だ。

 曲げられた歴史はとかく利用されやすい。独裁者となったプーチン大統領が核兵器のボタンを押しても、NATO諸国に予告と警告をくり返してきたロシアだから、広島式典のように投下国の悪名が残らない、と考える。勝てば免罪符だと言い、核兵器の引き金に利用される。

                    「広島ペン2024下 寄稿」

国民の祝日「山の日」・8月11日 第8回大崎上島・神峰山大会

国民の祝日・8月11日「山の日」は、全国大会第9回目は東京大会です。

瀬戸内海の島で、なぜ「山の日」をやるの❓ という疑問からスタートして、もはや恒例となった「第8回大崎上島・神峰山大会」が8月11日に開催されます。

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第1回からのコンセプトは「全国に通用する島になろう」です。東京で活躍する著名なアーチストを招こう。普段はまず現地・広島ではなかなか聴けない一流どころの音楽を聞こう。
 かれらアーチストも、島の良さを知ってもらおう。

 全国大会を目指し、国会議員も来て挨拶してもらおう。(コロナの時をのぞき)。今年もお二人の衆議院議員と県会議員にお声がけしています。

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全国大会もしくは10回までこぎつけられたら。次の目標は決まっています。次世代にバトンタッチし、「瀬戸内海のマルタ島」として世界に名が知れる大崎上島にしてもらう。夢でなく、理想で行動する。これを合言葉にして。

 先日、チラシを日本ペンクラブの会報委員に配って宣伝したら、「なに県にあるの?」といきなり委員長から質問が飛び出した。
 こちらはもはや全国に知れ渡っている気分でした。広島県大崎上島町です。

日時 ・8月11日「山の日」 13:00 ~ 16:00

会場 ・大崎上島開発総合センター大会議室です。

プログラム 来賓あいさつ 
  
      「神峰山」と題した俳句募集の「優秀作品発表」

      和楽器演奏

      講演 穂高健一「江戸城大奥の光と影」(妻女たちの幕末より) 
 、

幕末・維新史から、「名もなき雑草のごとく偉人」の発見へ     

 小学生の文集をみると、「雑草のように生きる」という表現がよく出てくる。この雑草とはなにか。逆境にも負けず、くじけないで、力強く生きることだろう。受持ちの先生は何かと、偉人伝を読みなさい、とすすめる。読んであこがれても、そうたやすく偉人にはなれない。雑草のようなたくましい人生ならば、自分にも期待できる。そんなことから雑草をモットーにするのだろう。

 19世紀半ばに開港・開国した幕府や、明治新政府の文明開化政策から、招へいされた有能な外国人が数多くいる。やる気は充分あるにもかかわらず、ほとんどの外国人は無情にも短期の使い捨てにされた。

 それでも日本を愛し、死ぬまで逆境のなかで頑張ったひともいる。業績を挙げても、その誉れはいつしか日本人にすり替わっている。「名もなき雑草の偉人」。そんな勝手な思いで、小説に描ける外国人を可能なかぎりさがしてみた。


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【写真】 ドイツ人のカール・レーマン(1831年11月28日 - 1874年4月21日)

 カール・レーマンはドイツ人で優秀な造船技師であった。徳川幕府が長崎に軍艦造船所を建設する目的で、乞われてきた初期の「お雇い造船技師」である。ところが、幕府はフランス政府の借款で、横須賀に造船所を建設する、当初計画の長崎は破棄した。その理由からカールは、三年間という雇用契約のみで延長が認められず打ち切られた。

 人間は男女の恋で生きている側面がある。かれは長崎の丸山遊郭の芸妓と結婚し、生まれたばかりの女児がいる。解雇で無収入になってしまった。この先、どう生きたのか、と私は興味をもった。
 母国・プロシアは、宰相ビスマルクが統一ドイツの誕生をめざし、近隣のデンマーク、オーストリアなどと戦争つづきである。後詰めで高性能な射程のライフル銃が開発されて、強国をあいてに連戦勝利しているさなかだ。妻子を連れて帰国すれば、徴兵制で兵士にとられる、その怖れがある。

 かれは日本に残り、ハンブルグ出身者(外交官)と協同で、ドイツ貿易商になった。このころの日本国内をみれば、薩英戦争、下関戦争、禁門の変、長州戦争と矢つぎばやに戦争が起きている。幕府も、全国諸藩も、火縄銃ではもはや戦えないと、西洋銃に切りかえている。あす戦争となれば、だれもが勝ちたい。ドイツ製の優れた銃がほしい。もとめられてカールはあつかい品目の比重を機械から武器へとシフトした。武器商人、もしくは死の商人。これでは小中学生の教科書には載らないだろう。

 かれは、グラバー流の密貿易などしない。会津、桑名、紀州藩など長崎税関を通過する正規の銃のみをとりあつかう。幕府筋から大量注文を請け負うと、カールは最新銃を仕入にドイツに帰国する。調達して再来日すれば、会津城は落城し、幕府は瓦解していた。大量の銃は宙に浮いてしまう。まさに、絵にかいたような逆境だ。知的なカールは、ビスマルク戦術を知る剛毅なプロシア下士官を日本に連れてきていた。和歌山藩にはドイツ式徴兵制の導入と、プロシア同様の軍事訓練による戦力づくりをすすめた。

 和歌山県では身分を問わず二十歳以上の青年が、ドイツ銃で訓練をうけた。この軍隊システムは日本中におおきな反響をあたえた。和歌山県(徳川家)が全国最強の軍事力をもった。薩長閥の新政府は、徳川家の再集結をおそれて廃藩置県を早めた。中央集権制で和歌山軍を無くし、まねて日本陸軍のドイツ徴兵制の導入に踏み切った。
 ここに鎌倉時代からつづいた武士階級が消えた。カール・レーマンが日本の歴史を最も大きく変えたといえる。

                  ☆      

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    【写真】弟のルドルフ・レーマン1842年 - 1914年)
 帰国したおり、弟ルドルフ・レーマンを日本に連れてきていた。この弟はドイツでも名門のカールスルーエ工科大学(2018年現在6人のノーベル賞受賞者を輩出)で土木・機械工学を学んでいる。兄弟して大阪に民間の鋼船づくりの造船所を興す。

明治二年には明治天皇、公家、新政府の政治家が、京都からこぞって東京に移ってしまった。天皇の遷都なき奠都である。
 御所や公家邸には雑草が茂り、商人らは逃げていき、経済は衰退した。荒ぶる人々によって伝統文化や寺社が破壊されるなど廃れた。京都府参事で失明の山本覚馬(妹は八重で、大河ドラマになった)が、レーマン兄弟に「京都の復興」を託し、京都初の「お雇い外国人」として招へいしたのだ。

 千年の古い都に、西洋の近代化を導入し、日本初の京都博覧会を開いた。京都に立入禁止の外国人らにも見学を許可した。京都御所まで一般に開放し、国際観光・京都へと踏みだす。さらにドイツ語・外国語の普及、赤十字病院、日本初の幼稚園、製紙会社、和独辞典など諸々の展開をした。

 今日の京都は国際観光都市として空前の客をあつめる。「名もなき雑草のごとく偉人」のレーマン兄弟を発見した

オッペンハイマーの映画  桑田 冨三子

「オッペンハイマー? 聞いたことあるなア、だれ、その人」
 大きな声が耳に入った。
 わたしは、その時、大勢の人たちといろいろな話題でガヤガヤと歓談していたのだが、(ああ、やっぱり、日本人はこの名前がなんとなく気に懸かるんだ)と気が付いた。

 今年の春、終わりに近い頃になってやっと、日本ではこの「オッペンハイマー」の映画が見られるようになった。他の国では去年からとっくに公開され、結構話題になっていたのに。
「なぜ、日本では公開されないの。米国やフランスでは、みんな、もう見ているよ。」
「日本人は原爆を落とされて可哀そう」
「きっと日本人はこの映画をみたくないと思っているからよ」
「みせたくないのじゃないの?」
「だれが?」
「うーん、アメリカの政治家か」
「日本人は原爆のことを考えたくない。知りたくない。躊躇しているんだと思う」

 外国人たちの話を聞いていたわたしはさっそく、この映画を見に出かけた。

オッペンハイマー.jpg 6月5日のことである。ゴールデンウイークのさなかの街は閑散としていた。いつもより人出は少ないように思われたが、六本木ヒルズの映画街で入場券を購入しようとして驚いた。
 なんと開始の2時間も前なのに全く席がない。満席である。交渉して、なんとか一番端っこの席を手に入れたが、入ってみると、これまたびっくり。座席にいたのは全員、若者だらけで、年寄の姿は見当たらない。でもわたしは、ほっとした。
(若者たちがこんなに、この映画に関心を持っている。)

 映画のストーリー。1926年、イギリスのケンブリッジ大学で実験物 理学を学んでいたロバート・オッペンハイマーは、教授に勧められて、ドイツへ渡り理論物理学を学ぶ。博士号を取得し、故国アメリカへ帰国し、カリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとった。同じ大学の精神科医師で共産党員のジーン・タトロックと出逢い恋仲になる。この聡明で奔放なジーンとのロマンスは長続きしない。

(この短い期間がのちにただならぬ影響をおよぼすことになるのだが・・・)オッペンハイマーはその後、植物学者キティ(キャサリン)と気が合い結婚する。
 二人の間には子供も生まれて、幸せな家庭を築いていた。

 時は、ヒットラー率いるナチスがポーランドに侵攻、第2次世界大戦を起こし、その戦況を優位に進めていた。1941年、米国が世界大戦に参戦する。
 ルーズベルト大統領は英国との協力体制で核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」の実施を承認する。プロジェクトの責任者になったレスリー・グローヴスは、1942年、ドイツの原子爆弾開発の成功が近いと危惧し、オッペンハイマーに原子爆弾開発に関する極秘プロジェクトへの参加を打診。オッペンハイマーは喜んでこの誘いに応じた。

 彼は、まずニューメキシコ州のロスアラモスに研究所を建設し、当時の最高峰頭脳科学者を集め、家族ぐるみで移住をさせた。彼は人々を激励し鼓舞し、あらゆる決定の場に同席し、知的アドバイスを与えた。その存在が「情熱と挑戦への独特な雰囲気」を作り、世界初の核兵器製造につながる科学的発見を連鎖反応のように次々と生み出していった。

 その一方では、競争相手であったナチスは劣勢を極め、1945年に降伏してしまう。

「あとは日本を降伏させるだけ」
 となる。なんと、そのための武器として、原子爆弾の研究は続けられた。1945年7月16日、オッペンハイマーと研究所の科学者たちは、ロスアラモスの南にあるトリニティ実験場に集まった。

 世界初の核実験が行われる。「ガジェット」と名付けられた原子爆弾が、人類の未来を形づくることを、その場にいた人々は理解していた。連鎖反応で地球の大気を発火させれば、地球全体を破壊する可能性はある。緊張の瞬間。この世ではない煌めきと凄まじく轟き渡る爆発音。(この映画の特殊撮影らしい)実験は成功した。オッペンハイマーは喜んだ。でもそれは、ほんの束の間のことであった。

 8月には広島、長崎に実際に原爆が投下され、その惨状を聞いたオッペンハイマーは、深く苦悩するようになる。世界戦争は終わった。
 戦争を終結させた立役者として賞賛されるオッペンハイマーだったが、時代はそのまま冷戦に突入し、アメリカ政府は更なる威力を持つ水爆の開発を推進して行った。そのため、1947年プリンストン高等研究所の所長に抜擢された彼は、さらに原子力委員会のアドバイザーになる。
 だが彼は、この核開発競争がますます加速していくことを懸念する。水爆開発反対の姿勢をとったことで、次第に追い詰められて行く。米のマッカーシ上院議員らが赤狩りを強行。昔の恋人ジーンとの事もあり、彼の人生は大きく変わって行くのだった。映画はここで終わる。

 1954年、オッピーはソ連のスパイ容疑をかけられFBIから「共産主義者」のレッテルを貼られる。アイゼンハワー大統領の時、政府公職追放を受け彼は危険人物と断定された。1961年ジョンF・ケネデが大統領に就任すると側近にはオッピー支持者が多く公的名誉回復の動きが出る。オッピー61歳、喉頭がん。62歳で死去。

 2022年、米エネルギー省のグランホルム長官が、オッペンハイマーを公職から追放した1954年の処分は、「偏見に基づく不公正な手続きだった」として取り消したと発表。彼にスパイ容疑の罪を着せて失格を剥奪したことを、公的に謝罪した。

 わたしがこの映画を見て考えたことを述べる。

➀映画は大きな問題を観客に投げかけるが、その解決を与えていない。

②原爆の破壊力がどれぐらい地球・人間・文明に及ぶのか、それが日本で試されたこと。

③映画は世界中の人々に共通する普遍的な問題を教示している。

 わたしは映画を見に来ている若者が大勢いたことに驚いたが、それは、とても嬉しいことである。日本の若者たちが、こんなに大勢、この未解決難題にどう向き合っていくのか、わたしは、希望を持って見守っていく。

写真 J・ロバート・オッペンハイマー J. Robert Oppenheimer ウィキペディアより

奥の深いミツバチ  廣川 登志男

 昨年(令和五年)暮れに、岩手県の養蜂園からミツバチの巣箱120箱が千葉県館山市の養蜂園に、越冬のため運び込まれたとの記事があった。何気なく目についたのだが、ミツバチでも暖かい土地に引っ越すことに興味を覚え、好奇心に駆られた。

 冬場は、生物が活動するためのエネルギーが細る。落葉広葉樹は葉をおとすので光合成もできない。樹木でさえひっそりと佇む。冬をいかにやり過ごすかは、その種にとって大きな問題だ。
 昆虫のハチは今までどうして過ごしていたのだろう。以前、何気なく見つけた練馬区光が丘にある団地の記事「昆虫の冬越し」が面白くてメモに残してあった。

『バカたまご トカセ幼虫 チョウさなぎ ハチアリテントウ親で冬越し』。バッタ・カマキリは卵で冬眠。トンボ・カブトムシ・セミは幼虫で。チョウはさなぎで、ハチ・アリ・テントウムシは成虫(親)で冬越しとの説明が添えてある。
今回の記事では南の暖かい館山市まで、成虫が入った巣箱ごと遠路はるばる運ばれている。
 このやり方は、比較的近年に始まったようだ。従来の冬越しを調べてみると、河合養蜂園が提供しているインターネット上の「ミツバチ牧場」に載っていた。

ミツバチ.jpeg  一般的には『十二月の本格冬の到来期では、いよいよ巣内の温度が下がる。すると、ミツバチは全体が寒くならないように体を寄せ合い、峰球という球状のかたまりをつくり、体を温める。峰球の中心部は、自分たちの体内で発生させた熱で真冬でも暖かい。外側のハチは内側と交互に入れ替わりながら、中心部にいる大事な女王バチを寒さから守る』とあった。

 一匹の女王バチを守るために、全員で守り通すのだ。花も少ない寒い環境にあって、働き蜂は蜜を採取にいけない。春夏の期間に溜め込んだ密と花粉をエネルギー源にして生き延び熱を生むという。
 今年五月に、君津文化ホール近くにある、評判高い「はちみつ工房」を訪問した。『ハチミツとハチミツ酒ミードを「見て・聞いて・嗅いで・味わう」で、ハチミツとミードの美味しさを五感で楽しむ』を工房のコンセプトとしていた。無料参加できる工房見学ツアーもおこなっている。

 近くにいた、技術者らしき説明者に、「館山市には、東北の方から越冬のためにハチを運んでくると聞きましたが、どうなんですか?」と、尋ねた。すると、話は長かったが待ってましたとばかりに答えてくれる。
「東北の六十くらいの養蜂業者が、合わせて一万箱ほど千葉県に運んできてますね。この時期の巣箱ひとつには、だいたい二万匹は入っていますから、二億匹ほどが来ています。この辺りも含めた南総地域には半分の五千箱は来ていますよ」

「え、そうなんですか。そんなに来ていて食料なんかはどうしているんでしょうね?」
「結構、いろんな花が咲いていますから大丈夫ですし、温室栽培のイチゴなどの交配に、ハチを貸してほしいという要望も多いのですよ。この辺りはイチゴ狩りが有名で、その準備に入るんですね」
 なるほどと感じ入った。

 この工房ではいろいろな花の蜜を味見できる。当日は、ナノハナ、サクラ、アカシア、ソバなどのハチミツだった。そのなかでは『ソバ』の蜜が、アジも色も一番濃くて美味しかった。栄養価も高いという。

 疑問が浮かんだ。花の種類ごとの蜜が瓶詰めされている。ハチは、一定の花ばかりの蜜を吸い取ってくるのだろうか? 先ほどの説明者に聞いてみた。
「蜜がとれる種類の花が群生している場所を見つけたら、巣に戻ると8の字飛びをして、仲間にその場所を知らせるのですよ。こう見えても案外利口ですよ」
 なるほど、大昔からの経験がDNAに刷り込まれ、効率的な蜜の採集方法を会得してきたのだろう。


動物図鑑によると、ハチが出現したのは、恐竜と同じ2億年以上前。そして、地球上に花が広まり花粉を食料とするハチが登場。花の方も、これを受粉に利用すべく匂いのある蜜を花の中に造り出す。その蜜に誘われるハナバチが7千万年ほど前に出現した。これが、ミツバチの前身」とあった。

 ミツバチの越冬に興味を覚え、好奇心に駆られて色々調べると新たな事実に出会える。
 ローヤルゼリーの素となるプロポリスは日本人が発見した。ハチミツからできる酒・ミード。これは世界最古のお酒で、クレオパトラも愛飲したという。古代から中世ヨーロッパでは、新婚間もない頃にミードを飲む習慣があり、ハチミツの効能やハチの多産にあやかって、結婚後の一ヶ月間ミードを飲んだという。現在のハネムーン(蜜月)の語源だそうだ。
 
 ミツバチ一つとっても、奥深い新たな事実・情報に驚くとともに勉強になる。

                イラスト:Google フリーより  

【オピニオン】代議士たちよ、世界に活躍する政治家になれ。悲惨な世界を救え

 21世紀に入り、地球環境の悪化、さらにウクライナ戦争、イスラエル・ガザという戦争が連日報道されている。一般人が砲弾の恐怖にさらされている。瓦礫(がれき)に埋まる子どもらや母親たちが悲惨な叫びをあげている。気の毒すぎる。

 いま、私たち日本人は何をするべきなのか。なにか助け舟を出せられないのか。私たちはなにもできないのか。誰も助けてあげられないのか。
 傍観者になっていないだろうか。助けられる命を見殺しにしているのではないだろうか。そんな自問がある。
 
             ☆  

 テレビ・ラジオのジャーナリストやコメンテータたちは、「自由民主党の黒いお金をめぐって」バッシングしている。SNSの庶民も正義感ぶって首相の低支持率を喜んでいる節がある。

 日本の代議士は世界の悲惨なことに眼をむけず、狭い日本のなかで、黒い金の罪だ・罰だ、と党利・党略の攻守の議論をふりまわす。
 鬼の首を取ることも大切だろうが、過去の汚点を掘り返すのも程度問題だ。首相を自民党総裁に足止めしすぎている。
 G7の大国の首相ともなれば、地球がかかえる環境問題、戦地の人の命を助ける行動に尽力するおおきな役割があるはずだ。            
     
       ☆
         
 地球は狭くなった。戦地まで一日もあれば飛んでいける時代だ。罪のない大勢の市民がきのうも、きょうも血を流し、食料に飢えに苦しんでいる。

ウクライナ戦争.jpg「餓死(がし)で死ぬほど、人間の死で最も痛ましいことはない」といわれている。
 
 野党を含めて国政をあずかる代議士が、ここ1、2年で何人が悲惨なウクライナやガザに入ったというのか。政治家として、日本人として、多くの命を助ける行動にでないのか。

 いまや、世界はこんな日本の政治家に何も期待しないし、ただあざ笑っている。仲介の声もかからない。情けないではないか、おなじ日本人として。与野党ともに『世界に通用する政治家になれ』と叫びたい。

             ☆  

 私たち日本人は太平洋戦争で悲惨な体験をした。出征した父親が戦死して残された子が数百万人いた、満州から飢(う)えで引き揚げてきた子が数十万人もいた、都市の大空襲で両親を亡くした子らが数限りなく大勢いた。
 戦争孤児、あるいは原爆孤児たちはガード下や焼け野原で暮らしていた。物乞いまでして生きてきた。
 敗戦後の飢餓(きが)の日本人に、世界中が食糧支援してくれた(戦争批判はありながらも)。そして生き長らえてきた歴史がある。
 それもまだ7~80年前のことだ。

 政治家は二世、三世になった。だからこそ、勉強してほしい。悲惨な日本の現代史を紐解(ひもと)いてほしい。代が変わっても、恩返しの時ではないか、と政治の本質を理解してほしい。

 国政の代議士ばかりでなく、平和都市宣言(356)の市町村長らにも、これは言える。困ったときには助けてもらい、戦地で困窮している被災者には頬かぶりでは、情けないではないか。
 何のための役所の前の一等地の「平和都市宣言」の立て看板なのか。

             ☆   
 
 年明けて、私は中国新聞から「オピニオン」の執筆依頼がきた。「戦争を止める決意と気迫を」というタイトルにした。
 岸田首相の外交政策に期待するとしながらも、これはひとり首相にかぶせて一任するものではない。
 与党、野党を問わず、全員がもっと世界に活躍する政治家になれ、と𠮟咤する気持ちで執筆した。
 岸田首相の力量不足なれば、与党の政治家が次つぎ支援するべきだ。野党も政権を目指すならば、世界の主だった政治家と連帯する意気込みを国民に見せるべきだ。
 与野党とも、『世界に通用する政治家になれ』と期待したい。

「今を読む」2024年2月27日 中国新聞「オピニオン」.pdf


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