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【孔雀船102号 詩】 夢の傾斜 脇川郁也

黄昏をついばんで山鳩が啼く
姿を求めて見上げれば
竹林を吹き抜ける爽やかな風だ
生まれたての緑色をして
まだ残る空の青さと
はっきりしない明日の行方を示している
竹林.jpg
ゆうべ
危うい夢の傾斜に
おののいて目覚めたのは
うなされたままのぼくの分身
もう片方のぼくは観念して
すでに冷たい視線を送っている

見知らぬ土地の記憶を追って
しばらく彷徨ってみたけれど
神がかたどったころの手触りが
ほんのわずか残っているのだ
夢のなかでさえ後悔ばかりの吐息
立ち尽くし足もとの影を見つめた

その日
尖った顎をさらに細くして
ぼくは静かに眠るだろう
目を閉じてから
小さな声をあげるだろう
圧迫された言葉は苦しげだろう
そのとき誰かが空を仰ぐだろう

空は赤く燃えているか
それとも静寂に満ちているか
湿った空気に包まれていようか
焦げた匂いが漂っているだろうか

あした雨にならないように
子等はてるてる坊主を吊すだろう
そしてぼくが死んだ後も
いまと同じように空は青いだろう
やりきれない青さで満ちているだろう

夢の傾斜 脇川.PDF 縦書き

【関連情報】
 孔雀船は102号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp


イラスト:Googleイラスト・フリーより

終戦記念日にあえて問う。戦争抑止は「兵器廃絶」なのか、政治家の資質なのか

 8月15日は、太平洋戦争の終戦記念日である。日本の主要都市は廃墟になり、もう戦争は止めよう、と国民がみんなして誓った。

 そして大日本帝国憲法が破棄された。あらたに日本国憲法が発布された。前文のなかに、『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し』と謳(うた)う。
 明治・大正・昭和の77年間における10回の海外戦争は、その発議が政治家にあったと断言できる。

 毎年、終戦記念日を前にして広島・長崎の原爆被爆の式典がおこなわれる。各メディアは大々的に取り上げている。
 核兵器廃絶とか、核の抑止力はなくなった、という論議が中心に座っている。これは「兵器」には核物質をつかうな、という戦術面である。

 核以外ならば、どんな兵器でも許されるか、という反問にもつながりかねない。
 これでは広島・長崎の主張は、核廃絶が達成すれば、それでよしとするもの。本質的な戦争禁止への論旨ではない。

「被ばく=平和」その結合が間違っている。広島・長崎のセレモニーは、「戦争をやめよう」という強い論議につながっていない。なぜならば、投下国がアメリカだとひと言もいわないからだ。

 ウクライナ戦争においても、広島・長崎の声が戦争抑止に役立ったとも思えない。政治家の両県知事や市長が行動で示していない。単独でモスクワに乗り込んで、プーチン大統領を諫(いさ)める、という意気込みすら見えてこない。

 きょうこの日、無人の兵器によって、容赦なく民間の住宅地に攻撃されている。ウクライナが核兵器(1240発の核弾頭と、当時世界第三位の核兵器保有)をすべて廃棄すれば、他の武器でロシアから攻められる、という弊害を生んだ。これでは核兵器を失くそうという大国は現れないだろう。
 民の命を思うならば、「無人兵器の製造禁止条約」をさけんだほうが、まだ現実的だ。
 
               *
   
 どうすれば戦争をなくすことができるのか。プーチン大統領の姿勢をみれば、政治家の資質を問うことである。
 これはロシアだけの問題ではない。
 わが国の副首相(元総理)の麻生氏が82歳にして、台湾に訪問し、「日本は戦う覚悟だ」とまるで日本人を代弁しているような発言をする。元首相となれば、老人の戯言だと笑ってすまされないだろう。

台湾出兵 (2).jpg
1874年(明治7年)に、明治政府がはじめて海外に出て行ったのが台湾への軍隊派遣である。この台湾出兵から太平洋戦争へと連鎖した。

            *

 いずれの開戦前も、政治家・官僚など戦場に行かない高年齢の世代が、勇ましく国民に戦争をあおっている。
 その結果として日本やアジアの人たち、軍人・民間人をふくめてとてつもない戦争被害者を出した。
 
 プーチン大統領のウクライナ侵攻と、麻生氏の台湾での行為はさして変わらない。戦争で解決しようとするもの。タバコを吸う人(中国)の前に火薬をおきに行くようなものだ。

 ウクライナ戦争がはじまったとき、ロシアの若者は数百万人も国外に逃避したという。日本人は戦前とちがい、政治家・麻生氏の尻馬にのって武器をもって台湾海峡で戦う若者たちはさして多くないだろう。はたして何割いるのか。よくよく調べて行動するべきである。

 議員・麻生氏は公人としての行動が『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し』と謳(うた)う日本国憲法の根幹に抵触するものだ。

 勇ましい弁が立つ政治家が戦争を起こす。これは歴史が教えることだ。
 
 

、、

終戦記念日=太平洋戦争はなぜ始まったのか。薩長史観の歴史教育がまねいた惨禍だった

 石原莞爾(かんじ)は関東軍の参謀で、満州事変を起こした首謀者である。かれの〈世界最終戦争論〉が、太平洋戦争の発端となる思想だった。

『いずれ日本はアメリカと航空機戦を戦うことになる。それに耐えうる国力をつける必要がある。五か年計画で経済力をつけてきたソ連が、満州を奪う前に、日本がまず植民地にし、持久戦になっても、アメリカと戦える国力を保持するべきだ』

 この石原理論が実行された。関東軍は占領下においていた奉天(ほうてん)・吉林・黒竜(こくりゅう)江(こう)省に満州国を樹立した。そして清朝(しんちょう)最後の皇帝だった愛新覚羅(あいしんかくら)溥儀(ふぎ)が就任させた。
 それはまさしく傀儡(かいらい)国家だった。

 日本国民は石原理論と関東軍の行動を熱狂的に支持した。それが太平洋戦争につながった。
 12月8日の真珠湾攻撃の日に、軍艦マーチによって米国との開戦が国民に知らされた。ここにおいても国民が熱狂したのである。

 こうした国民の熱気が太平洋戦争への最大のけん引力になった。軍部・政治の強烈な指導にしろ、国民の声をないがしろにできないからである。

 戦争責任を問えば、それは国民にある。

 太平洋戦争の敗戦のあと、東京裁判がおこなわれた。石原莞爾は病気や開戦前に反東條英機の立場だったことから、戦犯が免(まぬ)がれた。ただ重要な証人として、アメリカの判事が石原の自宅を訪ねて訊問している。

「太平洋戦争のA級戦犯は、だれだと考えていますか」
 ーー戦犯は原爆を落としたトルーマンだ。アメリカ大統領こそ真の戦犯だ。
 あ然としたアメリカ判事が次のように質問した。
「日清・日露戦争までさかのぼれば、戦争を起こした最大の責任者はだけですか」
 ーーそれならば、東京裁判にペリー提督を呼んで来い。日本は約三百年間にわたり鎖国政策の下で、他国に対していっさい干渉もしない国だった。自給自作で、国民は平和に暮らしていた。ところが黒船を率いたペリー提督に脅迫されて開国させられた。
 西欧の侵略帝国主義の列強から身を守るために、日本はみずからも帝国主義になった。太平洋戦争に突入した、すべての元凶はペリーにある。
ペリー提督.png
 日中戦争当時において最高の知能といわれた石原莞爾すら、小学校の教科書の『鬼の顔のペリー像』が頭脳にすり込まれた。生涯消えなかった。

              *

 教育が人間をつくる。人格も思想も形成する。

 徳川政権は260余年の平和を維持し、海外といちども戦争をしなかった。幕末に戦争をしたのは薩英戦争(薩摩・島津家)と下関戦争(長州・毛利家)の2つだけである。  
 
 明治に入ると、この二家の薩長閥の政治家たちが天下を取った。
 前政権を見下すために、江戸幕府の老中首座・阿部正弘は、ペリー来航におびえ、砲艦外交に屈して開港・開国した。そんな弱腰だから腕力・武力・知力にすぐれた薩長が倒幕したのだという。
 
 はたして事実だろうか。ペリー初来航はわずか9日間である。かれは統領国書を手交する久里浜に一度だけ上陸し、四隻の海兵はほかに一度も上陸させていない。
 当時の江戸は天然痘のパンデミック下にあり、「自粛」というべきか、市内には人出はなかった。死の街だ。黒船見学や騒動などあり得ない。
 江戸城といえば、将軍・世子の家定の正室および継室(二番目の妻)も天然痘で死去する。将軍・家慶も病で倒れる。
 こんな江戸城にペリーが行こうとしない。うかつに天然痘を艦船に持ち込むと幽霊船だ。
 ペリーは外交の予備交渉すらせず、久里浜で国書を渡すと、さっさと退散した。わずか九日間のうち、浦賀すら上陸していない。そのペリーは日本を離れると、マカオで居を構えている。
 そこで一年間待つつもりでいた。

 明治時代派から始まった義務教育で、少年・少女らに事実無根を教えた。
『太平の眠気(ねむけ)をさます上喜撰(じょうきせん)たった四杯(しはい)で夜も眠られず』
 これは明治十年に詠まれた狂歌である。さも、ペリー初来航の強化だと教科書に載せた。

 さらには、江戸城内も大騒ぎ、右往左往し、政治はノーコントールになったと教える。そんな徳川幕府側の資料などない。

ペリーの似顔絵 (2).jpg 挙句の果てには、ペリー「夜叉面の鼻の高い」似顔で、米国にたいする恐怖を煽り立てる。
 当時の幕府は狩野派など精緻な画家をたくさん抱えていた。二度目の来航の時に、写真とほぼ同じような絵画をたくさん残している。
 それなのに、明治政府の教科書編纂委員は、あえて精緻なペリーの顔は載せず、「鬼の顔・ペリー」をどこかから見つけたきたのだろうか、もしかすれば、あえて描かせたのかもしれない。それを載せて、少年・少女に「米国憎し」と洗脳したのだ。

 この薩長史観は、力と腕力に勝れたものが政治の勝者になれる、と教えた。すべからく軍国少年となった。

           *  

 明治政府は富国強兵を目標にした。世界の一流国に肩を並べたいがゆえに、帝国主義で大陸侵略となる日清・日露戦争を起こした。
 かたや、軍国少年らは優秀な生徒があつまる兵学校・士官学校を目指した。海上・陸上で階級を上りつめて、やがて海軍大臣・陸軍大臣となり、さらに内閣総理大臣となった。
 軍人が政治に関与する軍事国家になった。
 国民も、教科書で習ったペリー憎しの歴史を信じていた。政府が言う敵国の米英鬼畜をすなおに信じた。全国民一致で太平洋戦争に突入した。
「教える歴史がまちがうと、国家が破滅する」
 それが石原莞爾が後世に残した教訓だろう。

 教育は見方を変えれば、これほど怖いものはない。この歪んだ教育は、石原莞爾の時代で終わったわけではない。
現代でも、この鬼の顔が平然と載っている教科書があるし、私たちはなおも洗脳されているのだ。

新聞連載の「妻女たちの幕末」は、原稿用紙で何枚くらいですか

新聞連載の歴史小説「妻女たちの幕末」が昨年(2022)8月1日から、ことし(2023)年7月末まで一年間つづいた。そして完結した。日曜日をのぞく毎日で、298回である。
 
 数多くの読者から、「何枚くらいですか」あるいは「400字詰めしてどのくらいですか」と質問される。
 単行本を出版してくれる南々社においても、同様の質問を受けた。

 執筆さなかの私は、日々に与えられた文字数(縦19文字・横26行:これは全国紙・朝日や毎日とおなじ)で、その枠内で書き出しと結末でエッセイのように完結型にさせる。そこに重点をおいていた。
 文字数は気にしなかった。

 第一行目にはつよい求心力に気をつかった。
「疫病が歴史をおおきく変えることがある」
 きょうから連載を読みはじめた方にも、連載の入り口になるように誘い込む。

「ペリー艦隊は初来航で9日間しかいない。それも国書を手交するわずか1日だけである。理由わかるだろうか」
 こうした疑問形で誘い込む。

「大奥の廊下の黒煙が逆巻(さかま)き、奥女中らに襲いかかってくる」
 まさにいま、危機に置かれている、と読者の感情移入を呼び込む。

「天保の改革を知らずして、幕末史を語るべからず、といっても、いい過ぎではない。幕末史における重要な根っ子である」
 ときには2行で引き込む。、
銀閣寺 ①.jpg
 一日分は四00字詰めで2枚+5~7行くらいで、約1000文字である。

 1日の結末は明日の紙面への期待につながらないと、連載もそこで断ち切られてしまう。
「長文のぶった切り」では、読者が不完全なモヤモヤ感(未消化)に陥ってしまう。この点はことのほか気をつかった。
 その理由は簡単である。
 私が約15年ほどカルチャーセンターの小説講座の講師として指導している。受講生のほとんどが一気に書き下ろし作品として完成できず、「つづき」ものになる。そのほとんどが単なる「ぶった切り」作品がなる。
 講師としてはつねに未消化な気持ちにさせられる。

「次が読みたくなるような区切り方にしなさい、伏線を張っておきなさい」と口酸っぱくいっている。
 こうした小説指導が、私の新聞連載の1日分のなかで完結型へと重要なチェックポイントとなっていた。

 むろん、「妻女たちの幕末」は全部が全部、1日で完結とはいかないけれど、せめて3日分くらいで政治的な出来事・事件のひとつ舞台としてロットの区切りがつくように思慮した。

「妻女たちの幕末」は298回において四百字詰め原稿用紙に換算すれば、685枚である。ちなみに拙著「安政維新・阿部正弘の生涯」(2019年10月発行)は530枚である。役、3割増しの厚さである。

「妻女たちの幕末」は,先輩作家の海音寺潮五郎、吉川英治、司馬遼太郎氏にない技があった。

 新聞連載の歴史小説「妻女たちの幕末」が昨年八月一日から、ことし七月末まで一年間つづいた。そして完結した。日曜日をのぞく毎日で、二九八回である。
 新聞社は一般に辛口である。文化部・部長から「後半(ペリー来航から)は、新たな幕末史観を興味深く読めたといった感想も多く聞かれ、小説の狙いは成功だったと感じています」と好評だった。
DSC_0509 福山会 (2).jpg
 ここで、私の執筆の手順を明かしてみたい。まず英雄史観の通説は疑ってみる。私は純文学で世に出てきた作家である。
「人間って、こんなことはやらないな」という疑問をあぶりだす。
 歴史は勝者がつくる。国内の史料はかなりねつ造や隠ぺいがなされている。そこで外国の関連資料から疑問をひも解いてみる。

「ここまでウソをつくか」とあ然とさせられる。

 IT時代でAIがすすむ現代、百六十年前の海外新聞が瞬時に日本語に変換できる。これは先輩たち大作家の海音寺潮五郎、吉川英治、司馬遼太郎氏などにはできなかった芸当だ。かれらは明治の薩長閥の御用学者の術に乗せられている、とわかった。

 面白いほどに、新たな発見があった。国立国会図書館も、デジタルで著作権のおよばない幕末関連の資料は面白いほどに難なく入手できた。
「井伊家史料」などもネットで古本として安く入手できる。先輩諸氏が足で神田古本屋をまわったものだが、雲泥の差になった。次つぎに通説をくつがえす傍証が容易にさせてくれた。

「妻女たちの幕末」は単行本として十月に発行予定。多くの読者が通説の嘘に気づくだろう。

阿部正弘の直系の阿部氏と(福山会にて)

新聞連載小説「妻女たちの幕末」、一年間の完結。文化部長より、「成功でした」とコメント

 新聞連載小説「妻女たちの幕末」が昨年8月1日に、作家・宮部みゆきさんから引き継いで連載を開始しました。この7月31日で完結しました。日曜日をのぞく毎日で合計298回でした。
 かえりみれば、コロナ禍のなかで歴史講演などが止まり、その分の約2年間は「妻女たちの幕末」の関連資料の読み込みに集中できました。むろん、京都や新宮や都内の各所に必要不可欠な取材には出むいています。

二人の天皇.jpg 幕末史と言えば、明治政府の薩長閥の政治家に迎合した御用学者たちが、事実を歪曲し、ねつ造した。「薩長史観」で腕力・武力に勝れたものが勇者だとした。明治から、それを教育で使った。義務教育から軍国少年がつくられた。かれらは兵学校・士官学校を目指し、やがて首相や海軍・陸軍大臣になった。当然ながら、軍人が政治に関与する軍事国家になった。
明治・大正から太平洋戦争終結まで、政治家も、軍人も、国民も、「薩長史観」の英雄崇拝の歴史を信じたことで、国民一致の戦争に突入した。


 現在も少なからず、薩長史観が信じ込まれています。私たちはいかにねつ造の歴史から抜け出せるか。これが連載小説の目的でした。

                          *

 そこで私は、外国関連の文献・当時の古新聞など可能なかぎり追いもとめました。通説の英雄史観にある事象から「人間って、独りで、こんなことはできないな」という私の純文学の頭脳で、まず疑問を抽出し、外国から傍証(ぼうしょう)する作業に費やしたのです。

 AI時代です。関連文献や新聞が見つかれば、即座に日本語に変換できる。ありがたかったです。これは過去の著名な歴史学者・歴史小説家(海音寺潮五郎氏、吉川英治氏、司馬遼太郎氏など)にはできなかったことです。

「妻女たちの幕末」の冒頭において、、
『江戸城が無血開城した。それなのに、なぜ上野戦争(彰義隊&新政府軍)が起きたのか。その答えは海外にもとめることができる』
と記しています。

 これこそ、まさにIT時代が幕末史の通説を変える典型的な傍証でした。......明治政府がひた隠しにしたもの、日本に二人の帝(天皇)が誕生したという記事であった。瞬間的にしろ、南北朝時代の到来である。当時のニューヨークタイムスの記事で、それを知ることができたのです。(イラスト:中川有子さん)

 なぜ、現在でも教えたくないのか、私たち国民が考えることです。
 
                          ☆  

 私は国内関係は極力一次史料にまで手を伸ばし、丹念に読み込みました。すると、徳川将軍家の史料に軍配が挙がるのです。
 幕府の昌平黌(しょうへいこう)出身や教授らなど超エリートたちが外国奉行になった。来航する外国人よりも、ディベート力(論理と頭の回転の速さ)ははるかに勝っていた。どの条約も日本側の希望がほぼ通っている。安政の通商五カ国条約など、それぞれ五か国とも言語がちがう条約締結を3カ月でやってしまう。
 現代の外務省や各省庁など、徳川政権の頭脳と交渉力は足元にも及ばない。

 一例として、フランスは主要輸出品目・ワインに35%も輸入関税をかけられた。中国・インドはわずか5%なのに。日本には屈辱の不平等条約をむすばされてしまった。と、現代のフランスは、当時の歴史をそう捉えている。(シラク仏大統領)。

                    *

 掲載してくださった新聞社の社会部長から、7月末日に、「特に後半は、新たな幕末史観を興味深く読めたといった感想も多く聞かれ、小説の狙いは成功だったと感じます」とコメントが寄せられた。新聞社はおおむね辛口ですから、「成功」という言葉は、このさき幕末史が大きく転換する契機になるかな、と思います。

                    *

「穂高健一ワールド」は、その新聞小説が後半に入り初めころから、意識して停止しました。
 なぜならば、複数の方が、私のアーカイブを使い(パクリ)で、書籍出版されています。平気でパクる心無い歴史家に、「妻女たちの幕末」の新しい歴史観がかれらの自説を付加し汚されないためのものでした。

 たとえば、老中・若年寄が7-8人では、幕府による諸藩の統率「武家諸法度」および順守など、少人数の幕閣で力を発揮できるはずがない。登城した勤務時間は約5時間くらいで、なおかつ老中の月番担当制だ。となると、だれが行ったのか。

 一例として御三家・御三卿・300藩の大名家のすべて婚姻は幕府の許可がいる。旗本・御家人の婚姻もある。さらに、大名家が朝廷から冠位をもらう幕府側の申請手続きもあるし、多々、輻輳(ふくそう)している。
 これらの処理は老中(男の政事)に持ち込まれても、対応できるはずがない。それならば、だれがやるのか。大勢の女性が処す集団的組織が向いている。それが千数百人を抱えた大奥(奥の政事)の機能だった。論理的にも、そこには矛盾なかった。当初は推量から入り、(刑事が見込み捜査をする手法)、多面的に傍証(証拠)をあつめて構築しました。
 裏付けが次々にとれました。幕府内人事や大名昇格権(官位)の窓口・対応など、歴代将軍が大奥に付与してきた。だから、大奥には老中を左遷させるほどの実権があった。

 ついては、心無い作家たちに、新吉原か、大奥か、将軍ハーレムのごとき通説の作り話で歴史が汚されたくない、と「穂高健一ワールド」を半年間ほど休止いたしました。

                        *  

 なお、「妻女たちの幕末」は南々社から、10月か11月には単行本で出版する予定で作業に入っています。「安政維新・阿部正弘の生涯」とおなじ出版社です。

 連載の7月末の「エピローグ」で、最後の数行のなかで、
『あらためて徳川幕府が二百六十余年も政権を維持できた背景を問う。表の政事(男)、奥の政事(女)の両立が寄与した寄与した側面がある』
 と記しています。

 上臈御年寄・姉小路の女の視点「妻女たちの幕末」、阿部正弘の男の視点「安政維新・阿部正弘の生涯」と二つを併用して読むと、いっそう克明に幕末がとらえられるからです。

                                              「了」
 
 
 、

 

安政七年三月三日 上巳の節句 = 土岡健太P(呉市安浦町) および 上野の東京国立博物館・展示中

安政七年三月三日 上巳の節句

 旧暦の出来事を新暦で伝える違和感はありますが、まずお許しください。

 いま我が家の娘たちも嫁し、「お雛様」は倉庫に収められたままになっていることへのお詫びの気持ちで、以前の記事、画像ブログ/2021-01-01(穂高健一著 紅紫の館)を再掲させてもらっています。ご容赦を。

 広島県・大崎上島出身の穂高健一先生の歴史小説には「桜田門外の変」が起こったこの日、江戸城内で、時の将軍家茂公が正室皇女和宮に、このお雛様を披露する予定だったとか。

 ところが大事件が起きて、それどころではなくなり、このお雛様は持ち出され、豪農「日比谷家」にお蔵入りになったと書かれています。

紅紫の館.jpg

 後に「東京国立博物館」に寄贈?された人形の箱には「安政七年」と墨書されているそうです。

 先生は、その小さな符号からいろいろ調べられストーリーを作られたようです。小説とは言え、失意の中で節句の「お雛様」を片付けなければならなかったかもしれないということが、後の日本の進展を象徴しているように思われてなりません。

「関連情報」

① 上野の東京国立博物館にて、「おひなさまと日本の人形」が開催されております。展示期間は【2023年2月28日(火)〜 3月19日(日)】となります。
 そのなかに日比谷家伝来の「古今雛」も展示されております。

東京国立博物館『おひなさまと日本の人形』


② 穂高健一先生は、現在「公明新聞」に昨年8月1日から、1年間にわたり、「妻女たちの幕末」を掲載中です。
 通説を次々にくつがえしており、論説でも、「読者の声」においても賞賛と驚きの声がずいぶん多く寄せられているようです。
 
 本日(3/7)も同紙で読者が、幕末史が好きで今まで小説、テレビドラマはみていましたが、ペリー来航以前に、徳川幕府がこんなにも欧米やアジアの海外情報を国別に知りえていたとは驚愕です。(現代の高校歴史よりも詳しく)、雄藩(薩長土肥)などは足元にも及ばなかったとは......。

 先生にお話をお伺いすると、この3月中旬から「ペリー提督来航」、4月中旬から、将軍継嗣問題、安政の大獄へとストーリーが運んでくるそうです。

 私に「私たちは将来の指針を歴史(過去)から学んで見定める。歴史は国民の財産だよ。薩長が自分の都合で、改ざん、ねつ造された幕末史を正さないとね。5-10年後は日本史の教科書は変わるよ」と話されました。


② 桜田門外の変とは
 安政7年3月3日(1860年3月24日)に、江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で、水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃し、大老・井伊直弼を暗殺した事件です。

【孔雀船101号 詩】 春の椿事 望月苑巳

人を省略する息
ひとつ
下駄の音
かなしそうな男が
かなしそうな桜を見上げている
瞳がひらく
凍る時間の外で
未来もかなしそうになる
金縛り
下駄.jpeg君と僕の醗酵した部屋が
子どもを産んでいる
我田引水な看板が
ふらついている
神籬(ひもろぎ)
いろめく
階隠(はしかくし)のこちらがわ
を蹴って出てしまう
のどかに降る雨は
そよめく青空の顰に倣って
我が道を行く
君と僕が醗酵を終えて
息を省略
するから
下駄の音
かなしくなる
春の一日は
そこはかとない椿事

              *神籬・・・神代の神坐。ひるがえって神社をさす
    
春の椿事.望月苑巳PDF 縦書き


【関連情報】

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「孔雀船」頒価700円
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【孔雀船101号 詩】 霧の籬 青木由弥子

くちづけはいのちをすいあげる行為だと
おずおずと舌をからませながら
立ち戻ってしまって
だからあなたは
いつも濃い霧のむこうにいるのだけれど

口づけ (2).jpgうすやみに浮かぶまなざしの
目じりのあたりのこまかい皺や
かたちのよい鼻すじやくちもとが
浮かんでは消える
日盛りの道を
互いに
自分だけの影を踏みながら
歩いた日
たどりついた巣穴は
幾千年の積層で壁を
埋め尽くされていて
干し草の馴染んだようなにおいの
岸辺とも島の奥深いところともつかぬ場所で
言葉の続いていく安堵に身をゆだねる

あの日の薄やみが
わきたち烈しく流れる雲の
乱れた空の下に漂っていて
丘のくぼ地で濃く溜まっている
梅の香に芯を
すすがれてゆくときのように
わたしを受け止めてくれる
霧に充たされていくのを
待ちながら
これで今日を
生きていくことができる

〒146-0085
東京都大田区久が原2‐7‐15
090‐6715‐6319

青木由弥子

Poetess21@gmail.com

詩集『星を産んだ日』土曜美術社出版販売2017年
詩集『しのばず』土曜美術社出版販売2020年

『しのばず』の帯(裏面)に、「モノローグからダイアローグへ――詩と思想新人賞から五年 あらたな境地を開く新詩集」と入れています。


霧の雛  青木由弥子.PDF  縦書き


【関連情報】

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【孔雀船101号 詩】 タローはびよびよと 福間明子

秋田犬のタローは
朝四時には吠える
雨の日もタローはびよびよと
風の日もタローはびよびよと
吠えては父を呼ぶのであった
散歩に出かけるのは父の日課だった
この日課は十一年間続いたことになる
物語の犬はいろいろ聞いたことがあるけれど
犬との関係も盟友といえるのだろうか
「ただいまや 過去聖霊は蓮台の上にて
dog_akitainu (2).png ひよと吠え給ふらん」
平安時代の『大鏡』に播磨の国の僧侶が
愛犬家の犬の法事にての説法の話
千二百年前にも畜生の法事をしていたとは
仏教の教えであろうか
タローは盂蘭盆の十五日に
帰省していた家族全員に看取られて身罷った
「散歩しましょうと言いながら あの世で
姿を現すことを信じている」と 父は言った
その父も亡くなった
あの世でタローはびよびよと
吠えては父を呼んでいることだろうか

*平安時代の書物には犬の鳴き声は
「ひよ」または「びよ」と記されている


タロウはびよびよと福間明子 .PDF 縦書き


【関連情報】

 孔雀船は101号の記念号となりました。1971年創刊です。

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