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サッカー通でもないのに、メッカ「Jヴィレッジ ホテル」に宿泊する

 サッカー通ではない私が、10月1日に「Jヴィレッジ ホテル」=(福島県・楢葉町)に宿泊した。
センターハウス1階にショップ「ブルーガーデン」があった。そこまでの通路にはJヴィレッジでしか買えない、というオリジナルのサッカーグッズがあった。
DSC_0615 サッカー.jpg
 廊下には歴代の選手や名場面のパネルが飾られていた。きっと、ファンには興味深く、たまらないだろうな、見ごたえがあるだろうな。そんな単純なきもちでただ眺めていた。
 
 ホテル通路には選手団がいた。著名な選手がいたとしても、私にはわからない。
 夜型の私は太平洋側の日の出など拝めない。それでも、私にとって早朝には、宿泊ホテルの窓越しに、眼下にひろがるピッチに、青いユニフォームのサッカー選手たちが大勢があつまっている。

 今年は中東で「2022FIFAワールドカップ(W杯)カタール大会」がおこなわれる。その認識で、私は散策代わりに練習風景をみてみよう、ときめた。
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 見学者の登録とかその手続きとか、実にややこしくて面倒だった。ちょっと見たいだけなのにと、いい加減に嫌になった。
 それでも、部屋からここまで歩いてきて、手続きの順番を待って、いまさら放棄してひき返すのも、なにかしら無駄な時間の浪費に思えた。いちおう時間をかけて手続きをしてみた。
DSC_0620 ピッチ2.JPG
 サッカーの選手たちは準備運動だろうが、手で投げて飛ばすブーメランに熱中している。どのチームだ。ボールはどこも蹴っていない。

DSC_0622 手投げ遊び.jpg

広いピッチがかぎりなくつづく。どこも、練習はおなじ手遊びだ。
 こちらが飽きてしまった。ブーメラン、子どもの遊びを見にきたんじゃない、部屋に帰って執筆している方がましだ、と引き返してきた。


■「2022FIFAワールドカップ(W杯)カタール大会」 試合スケジュール
11月23日(水) 22:00 ドイツ [ドーハ/ハリファ]
11月27日(日) 19:00 コスタリカ [アルラーヤン]
12月01日(木) 28:00 スペイン [ドーハ/ハリファ]

歴史の裏側から、真相が如実に見えてくる =  幕末ストーリーは明治時代につくられた

 新聞連載「妻女たちの幕末」が公明新聞で、8月1日から、スタートして、3カ月半が経過してきた。
 家斉の大御所時代、そして水野忠邦の「天保の改革」へと進んできた。この時代から、天明天保の飢饉という内憂、アヘン戦争のような外国からの脅威という外患、つまり「内憂外患」の時代になった。
 剛腕な水野忠邦を失脚させて、満25歳の阿部正弘を老中首座(現・内閣総理大臣)にさせたのが、大奥・上臈奥女中の姉小路である。彼女は彼女は公家の娘で、悧巧で頭脳明晰で、洞察力に優れていた。
 将軍家慶は重要な問題にたいして大奥・上臈奥女中の姉小路に判断を仰いでいる。つまり、彼女は将軍・家慶の政事代行であった。同時に、幕閣の人事、諸大名の養子・婚姻縁組なども、彼女が采配をふるう。たとえば、諸藩が次の藩主を決める際、姉小路の判断が与されていたのだ。

 阿部正弘の時代~ペリー来航・家慶死去まで、約10年間は『姉小路の時代』といえる。

 姉小路はバランス感覚が良い。彼女の独裁政権ともいえず、老中首座阿部正弘をうまく盛りあげている。二人三脚と称した方が正確かもしれない。
 
 

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 私が新聞連載「妻女たちの幕末」で、いまは主人公・姉小路の目で書いている。それだけに、幕末史のねつ造がよく見えてくる。下級藩士だった薩長の武士たちが、明治時代に入り、自分たちに都合よく幕末ストーリーを作ったか、それがよくわかる。

 上臈奥女中の姉小路の時代は、薩長閥の政治家にとって不都合なものが多い。むしろ、彼女の時代は教えてはならないものだ。
 
 その一つが徳川幕府がもっている海外情報量の膨大さだ。長崎出島の商館長(カピタン)が毎年、往復約90日間の道のりで、江戸にくる。そして「ヨーロッパおよびアジア情報」を報告する。情報提供がオランダがヨーロッパで唯一貿易を独占できる条件だった。幕府はそれら情報を期待している。
「鎖国とは盲目になることではない。より情報の密度を高めることだ」
 その江戸参府はなんと166回に及ぶ。
 オランダはキリスト教徒の国だ。商館長らオランダ人は長崎奉行所の官吏らの警護で、長崎を出発し門司へ、瀬戸内海は船便、大坂に上陸し、京都で所司代に会い、東海道、箱根を超えて江戸にでむく。どの宿場町も白人がくると、どこも大騒ぎだ。
  幕府はカピタンから詳細を聴き取りするので、かれらの滞在は約1カ月間である。日本橋・本石町の長崎屋に宿泊している。まいにち、江戸っ子が白人をみにくるのである。
 
 日本人の画家は写実主義で、美人画などもきれいに描く。北斎をはじめとして、多くの画家がオランダ人を描いている。実にリアルだ。

カピタン 長崎屋.jpg

 これらをなぜ教科書に載せて教えないのだろうか。
 いまだに中・高校生の歴史教科書には、幼稚園児が想像で描いたような、ペリー鬼顔を載せている。印象操作(プロパガンダ)もはなはだしい。

 狩野派の画家たちも任務で浦賀に行ってペリー提督を実写しているはずだ。それを教科書に載せる。徳川幕府の政権下で、オランダ人166回も江戸にきたとなると、日本人が黒船来航ではじめて白人を見て怖がった。おびえて、ペリー提督に蹂躙された、というストーリー建てのつじつまが合わなくなる。

                   ☆

 島津斉彬は藩主としてわずか6年間である。斉彬が領民にどんな良い政治ができたのか。明治以降に西郷・大久保が持ちあげに持ち上げて斉彬を名君に仕立てている。はなはだ疑問だ。西洋に通じていたとするが、幕府が持っている海外情報の質と比べると、足元にも及ばない。
 老中阿部正弘が斉彬の西洋知識を当てにしたという創作までしている。阿部正弘を小説にした取材経験からすれば、老中の阿部正弘にしろ、牧野忠雅にしろ、外様大名に海外知識を乞うなど、そんな事実などない。
 
さらに一橋派(慶喜を将軍跡継ぎ)のストーリーを作った。それが通説となり、安政時代には南紀派と一橋派が将軍継嗣で争う、という筋書きになる。しょせんは無意味な創作である。

 徳川将軍は誰にするか。歴代において権力をもった大奥の影響力がおおきかった。絶大なる権力をもっていた姉小路の時代に十四代将軍は慶福(のちの家茂)と決まっていた。
 かれは家慶の甥っ子で、家定のいとこ、嘉永2年(1849年)にわずか4歳で御三家の紀州藩主になった。

 嘉永5(1852)年に将軍家慶が、三河島の鷹狩に、一橋家の慶喜を連れて行こうとした(継嗣を決める行事)。ところが、姉小路と阿部正弘が、慶喜の鷹狩同行を断らせた。ここで慶喜の将軍継嗣はなくなった。慶福が6歳のときである。

 かえりみれば第7代将軍・徳川家継はわずか4歳で将軍になっている。それは新井白石の力によるものだ。姉小路は新井白石よりも影響力をもっていたと認識すれば、嘉永5年に慶福6歳で決着がついていた。7代将軍・徳川家継の事例から、別段、不思議ではなかったのだ。南紀派は余裕綽々だ。

 安政5年(1858年)安政大老・井伊直弼(彦根藩主)によって、抗争の末に継嗣問題が決着つけられてというのは、明治時代の創作(歴史捏造のプロパガンダ)は、島津斉彬をより大きくみせるための作為である。

 一橋家とは将軍の家門である。一橋家の家主として慶喜は自覚があり、嘉永5年の鷹狩に将軍に不同行で決着付いていると知っている。大奥に嫌われている親父が出てきて将軍家の相続で騒いでほしくなかったのだ。
 慶喜はまわりが騒がしいので、江戸城の井伊直弼に確認に行ったくらいだ。
「家茂と決まっている」
 と井伊に言われて
「そうだろう(将軍家慶がすでに決めている)」
 慶喜は納得して帰ってきているのだ。
 
 strong>なぜ紀州派とか、彦根派とかいわず、「南紀派」というのか。
 そこに回答がある。

 南紀の大物が嘉永時代にすでに大奥の姉小路、将軍家慶、老中首座・阿部正弘から、14代徳川将軍は幼い紀州藩主・慶福(よしとみ・のちに家茂)と取り付けていたからである。
 

不老山(928m)でサンショウバラ鑑賞 武部実

2022年5月28日(土) 晴れ

参加メンバー:L武部実、佐治ひろみ、市田淳子、針谷孝司、金子直美、古賀雅子

コース:駿河小山駅からバスで明神峠 ~ 湯船山(1041m) ~ サンショウバラの丘 ~ 世附峠 ~ 不老山 ~ 駿河小山駅

 
 今回の山行の主目的は、ちょうど見ごろをむかえたであろうサンショウバラを観賞することである。
 出発点の明神峠は、サンショウバラを求めて路線バスで来た人たち以外の登山客も大勢いた。M山岳会のメンバーは貸し切りバスを利用して、30数人が参加とのことだった。

 9:30 標高900mの明神峠を出発した。
 アップダウンがなく平坦な登山路は、ブナの葉などにおおわれていて下界の暑さが噓のような涼しさであった。
 山ツツジが赤い花をそこかしこに咲かせていた。40分ほど歩くと、今回のルートで一番標高が高い湯船山(1041m)に着いた。山頂の周りは樹木で見通しはない。
 この辺りのブナの木は巨木が多いのが印象的だ。


 明神峠から歩いて2時間位からサンショウバラを見かける。この辺からサンショウバラの丘までが群生地である。
 バラは、木という感じはしないが、サンショウバラは木に咲いているのだ。ちょうど見ごろで大小のピンクの花びらを咲かせて、いい香りを漂わせていた。
 ゆっくり観賞したり写真撮影したりで、サンショウバラの丘に11:50に着く。先着の登山客もここでみなで昼食を摂る。
 箱根方面の眺めも良い格好の休憩場所だ。


 12:30出発。5分も歩くと世附峠だ。ここからの登りがこのコースで、一番キツイところ。登山客が増えているのだろう、いままでなかった簡易トイレが設置してあった。
 40分かけて登りきったところが、不老山山頂と駿河小山駅へ下る分岐だ。
 10分ほどで不老山山頂に着く。たしかここにもサンショウバラの木があったと思ったが、二本とも花は無く葉のみ。

 集合写真を撮って下山を開始した。
不老.jpg

 駅に向かう下山ルートは二つあるが、今回は金時公園まわりだ。途中、林道の法面が陥没している箇所があり早期の修理が望まれる。キイチゴを食したりして、順調に駅近くまで来たら、私の足が前に進まなくなった。

 初めての経験であり、皆さんにサポートしてもらい、なんとか16:34発の電車に乗ることができた。
 二か月前に頭を打った後遺症なのか、はたまた別の要因か、電車に乗って休んだら元通りになったが、年とともにアクシデントは起きるものだ。
 ご心配とご迷惑をおかけしたことをここでお詫びします。

 山行としては、初期の目的であった、サンショウバラが丁度見ごろで良かったのではないかと思う。ある旅行会社が私たちと同じルートを一週間後に企画し8800円で募集していた。
 今回はこれ以上の価値があったと思う。


ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№272から転載

山岳信仰の霊山・両神山(1723m) 金子直美

日 時  2022年6月12日(日)
メンバー L佐治ひろみ、武部実、佐藤京子、金子直美

 前日の天気予報が急変してしまい、朝方に雨は上るけど、12時と15時に傘マークが追加された!
 それも最近頻繁に発生してるゲリラ豪雨予報でした。だが、佐治リーダー武部さん佐藤さん私の日頃の行いを信じて、決行となりました。


 山名の由来は、イザナミ、イザナギの神を祀っているから両神、「龍神を祭る山」が転じて両神山など、諸説あるそうです。

 今回のお山は、秩父の両神山です。
 日帰りは少々厳しく、始発のレッドアローでは町営バスに間に合わず、たまたま私の親友が秩父在住なので甘えてしまい、西武秩父駅から白井差登山口まで車で送ってもらうことが出来ました。
 そこで待っていたのは、前日に入山予約電話を入れたお相手・山中氏(両神山の地主)です。
 コースタイムに余裕が無いのに、話しは面白かったけどちょっと丁寧すぎる説明のあと、入山料(環境整備協力金)1000円は、無事に下山した時にお支払することで、まずは10時に登山を開始した。


 今回の白井差コースは、見事な滝を見ながら渓流沿いを、その先は葉高の広葉樹林帯である、頂上の直前には少しの鎖場。山中氏が小綺麗に整備されたとても歩きやすい登山道でした。

 水晶坂の辺りで声が聞こえるので振り返ると、長靴を履いて片手にクリネックスの空き箱を持って登ってきた山中氏がいた。ここの400mがきついだけだよ、今100m、200mとエールを送ってくれていたのに、いつの間にかお姿は消えてました。

 その後、ブナ平辺りで雷と小雨が降り始めたので、豪雨に備えカッパを着込みました。結果は着なくてもいい程度でした。でも、頂上では雹が降っていたみたいです。
両神山.jpg
 私たちが頂上に到達した時には、太陽が微笑んでくれていたので、頂上で昼食を摂る。13時10分に下山を開始する。

 気がつくと、帰りのバスの時間ギリギリになっていて、佐治リーダーが山中氏の家まで先に下り、入山料をお支払した。
 リーダーの交渉のお陰かな? 山中氏にバス停まで軽トラックで送って頂ける事となりました。みんな大喜び! さらにバス停で、16時22分の町営バスが来るまでの約1時間、山中氏の色々なお話をたっぷりと聞くことができた。
 とても楽チンで、たいへんお勉強になった山行となりました。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報272から転載

【孔雀船100号 詩】  のどけからまし  望月苑巳

夜桜イラスト.jpgさくらは下を向いて咲く

そろりと

人に見上げてもらいたくて

静かに


ぼくの心から出ていってしまった人も

そろりと

咲いたことがありましたね


本郷三丁目駅の

クジラの目のような出口から

春も咲きました

うるうると目頭を押さえて

一歩、二歩、三歩

電車が散ってしまっても

つまづきながら咲きました


あれから長い時が

短い慟哭を越えてゆきましたね

けれど伊勢物語のように

春の心は のどけからまし

というわけにはいかなかったのです


夜になって

夜鬼がでしゃばって

さくらの枝がしなりました

きっと

そんな過去は折ってしまえと思ったのかも知れません


そろりと

地下鉄はぼくを呑み込んで

クジラになりました


*世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平(伊勢物語八十二段)

PDF・縦書き のどけからまし.pdf


【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

平山城址公園と多摩丘陵ハイキング  藤田京子

2022年1月13日(木)晴れ
参加メンバー: L佐治ひろみ、SL古賀雅子、開田守、蠣崎純子、武部実、渡邊典子、藤田京子

コース:長沼駅 → 長沼公園 → 平山城址公園 → 七生公園 → かたらいの道 → 高幡不動 →
高幡不動駅


 からっと晴れた日差しとは裏腹に館の風が頬に凍みるなか長沼駅を出発した。(10:00)

 間もなく都立長沼公園の看板を見て、枯木の木立を進んでいった。ここは多摩丘陵の北側の端だそうだ。可愛いアオジが餌をついばんでいた。
 時期が合えばウグイスなど色々な鳥が見られるらしい。

 丘陵を上っていくと、景色が良くなっていった。春から秋の頃は花や緑で気持ちいいだろうが、冬の今は葉がなく見通しが良い。つまりどの季節でも良いと言うことだ。

 となりの平山城址公園へ行くには、急な階段を降りて、住宅地を抜けていく。

 LとSLのリードで無事に平山城址公園へ。
 本当の城はあったのかなかったのか? そんなことを話しながら適度なアップダウンを繰り返し、中央付近の京王研修センターの入り口に着いた。
 ここからは歩きやすい道だ。見晴台で昼食。ここは奥多摩~奥武蔵の山々の眺めが素晴らしい。(11:55)写真撮影。

 新型コロナのオミクロン株の急拡大が心配されるので、ディスタンスを十分にとって、しばしの休憩。腹ごしらえもできて後半へ。(12:40)
多摩.jpg
 平山城址公園を出て、多摩メモリアルパークでトイレ休憩。そこを抜けると、以前は多摩テックがあったところ。そのそばを通り広い道路に出た。信号を渡り、ふたたび里山らしい雑木林の道へ。
 家のゆずが鈴なりに実って、道路に飛び出していた。ここは都立七生公園の中らしい。やがて「かたらいの道」の看板がでてきた。

 またしても、アップダウンの道を辿っていくと、多摩動物公園のフェンス伝いの道に出た。Lが下見の時はオランウータンが見られた、という。そこに期待していたのだが、オミクロン株のために休園だった。
 オランウータンは残念だったが、少し先の猛禽類の檻で鷹か鷲か?の勇姿が見られた。ラッキー! アップダウンは少々きつかったが、時おり聴こえるかわいい鳥の鳴き声に癒やされて高幡不動の八十八カ所巡礼地に入っていった。


 ここではお参りの人が巡るらしく、出会う人の数が増えてきた。椿・紫陽花・彼岸花も有名である。今度は花の時期に来たいと思った。
 立派な五重の塔がそびえ立ち、私たちの到着を迎えてくれた。本堂では護摩焚きが行われ、線香の煙が疲れた身体をほぐしてくれた。
 仁王門は古めかしく、この寺の歴史を感じさせてくれる。
 ゆかしい門を出て高幡不動駅へ。(15:10)

 久しぶりの山歩きで心も体もスッキリ。ありがとうございました。

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№268から転載


【孔雀船100号 詩】  千人針 苅田 日出美

七度目の年女になってしまった
寅年うまれの女の子は
武運長久
縁起がいいからお願いね

千人針.jpeg真夜中に起こされて
白い晒し木綿に赤い糸で結び目を作らされた
母さんに手を取って教わった
結び目の作り方も知らなかった
五歳の私

『虎は千里行って千里帰る』と縁起良し
千人針の腹巻をしていたら
鉄砲玉にあたらない

赤い結び目ぎっしりの
白い晒しを真っ赤に染めて
ニューギニアで戦死した叔父

結婚して一週間で出征して
骨さえ無かった叔父の
引出しに残されていた
タガログ語の字引が空しい

真夜中に起こされて
時間がないから
あと五枚ほどお願いね
寅年うまれの女の子だった私の
結んで作った赤い糸結びの赤い玉
千人針に心を込めるしかなかったのね
母さんたち

PDF・縦書き 千人針(苅田.pdf

【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

新聞連載小説「妻女たちの幕末」 = 8月1日より開始

 今年度(2022年)8月1日より歴史小説「妻女たちの幕末」公明新聞で連載されます。
 現在は宮部みゆきさんの小説「三島屋変調百物語青瓜」が7月30日で終了し、そのあと穂高健一「妻女たちの幕末」がはじまります。むこう一年間(日祭日を除く)です。


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 これまで、私を含めて男性側の視点から歴史小説が書かれています。大別すれば、薩長史観&徳川史観という対立構造です。
  
 この世には男性と女性が半々いるし、対立もする。歴史は男だけで動かない。思い切って女性の視点から幕末史にチャレンジします。むろん、随所には男性の活躍も加わります。

「歴史は庶民がつくる』
 現在でも国会議員だけが歴史をつくっているなど、誰も考えていないでしょう。それなのに、歴史となると学術書も、小説も、為政者に偏っています。

 できごと、事件のとき組織の頂点にいだけでしょう。先頭に立つて采配をふるったとか、先見の目があったとか、英雄が創作された。おおむね単なる飾り物か、後世の美化でしょう。

 極限られた少人数の英雄たちだけで、千年もつづいてきた封建制度、および武家政権が短期間に都合よく消えるわけがない。

 そこにはおおきな民衆の力と渦巻く流れがあった。かれら民衆が、やがて徳川幕府を瓦解させた。その本質を忘れ得ずして、市民の目線も加えて展開していきます。


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 ただし、私の連載小説は日曜日版の掲載がありません。

 

「元気に百歳」序文から = なぜ、人を殺したがるの

「人生五十年」(織田信長)、一つの到達点に立った。この時、これまで以上の悲惨さとか、おぞましさとか、その見聞はもうないだろうなと考えていた。

 なにしろ顧みても、子どものころ銭湯に行けば、ケロイドの人がいた。広島市街地はバラック建てで、気味が悪いほど乞食同然の人があちらこちらに浮遊していた。
「こんな戦争をしたのは大人が悪いんだ。原爆はアメリカが強いから落としたんだ」
 小学校から帰路で、仲間どうし、そう語り合っていた。
 当時はみなが極貧で、広島の島でも食べ物はなかった。米穀の弁当など持っていけない。バナナをはじめて食べたのが小三、チーズは小五だった。遊郭の女郎は美味しいものを食べていたな、という記憶がある。

「もはや戦後でない」、「所得倍増論」、「高度成長期」と世の中がすすみ、私は東京の私大入学で上京し、その後は「経常収支の黒字」と拡大成長がつづく世のなかで生きてきた。

 敗戦直後の惨事な出来事などほぼ忘却していた。

 世が好景気のさなか登山にも夢中になれた。その後の私は長い闘病生活、執筆生活の失敗や挫折も多かった。貧困ゆえに夫婦げんかも絶えなかった。
「なんで、うちの両親は離婚しないのだろう。毎日、喧嘩しながら」。そんな子供の声もあった。夫婦が喧嘩するのは八、九割はお金と子供の教育だといい返してやりたかったけれど喉もとでとめおいた。

 五十年の折り目から先も、ほぼ予測可能な社会だった。

 ところがここ数年、突如としてコロナウイルスが世界中に蔓延し、あらゆる活動が停滞した。100年前の第一次世界大戦中のスペイン風邪とそっくりだった。地中海のマルタ島まで、その取材を兼ねてでむいた経験から、コロナも三年はかかるだろうと、覚悟できた。

 2022年にはウクライナ戦争が勃発した。第三次世界大戦か、核兵器の使用か、と世界中の人々を震撼させた。広島が叫んでいた「平和」は無益だったな、と思わせた。

 安倍晋三元首相が、奈良市の街頭演説のさなかに射殺された。一報を聞いた時、奈良は天皇陵が多い土地柄だ。天皇関係の射殺かな、と思った。過去から「君側の奸」(くんそくのかん)で天皇を利用したと批判された人物が暗殺されている。大久保利通、岩倉具視、2・26事件などが脳裏にひらめいた。

 報道では宗教関係が絡みだという。人間は「殺したい」という殺意が実行に移るとき複数の動機がある。一つだけではまず殺さない。ここらはミステリー小説を書くときの基本である。
 政治家の暗殺事件は裁判にならないと、動機とか真実とか、まず世に出てこないだろうな、と思う。
 ジャーナリストたちは生活のためか腰が引けているし、真実がストレートに伝わってこない。SNSの生の書き込みの声とはずいぶん乖離している。

 ことし(2022年)6月半ば、小説上で不可欠な公家ことばの指導をうけるために京都にでむいた。約束時間より一時間半ほど間があった。京都駅に近い東本願寺の広い本堂で本でも読んでいようと考えた。そこに足を運ぶと同寺には『第13回非戦・平和展』のパネル展があったので、のぞいてみた。

 明治43(1910)年に、おぞましい「大逆事件」が起きている。パネルは同事件の「新宮グループ」六人を中心にした内容だった。
 全国で26人が逮捕されて、24人が死刑判決を受けた。内12名は判決翌日に、天皇の恩命として無期懲役である。

 当時は未曽有の大事件だった。敗戦後、国家による捏造(ねつぞう)事件であると判明した。見入った私はその日のうちに新宮に入った。翌朝、事件にくわしい方を取材した。

 事件の犠牲者は6人で、アメリカ医学を学んだ開業医、出版など手掛けたジャーナリスト(中央大学出身)、雑貨商、臨済宗妙心寺の僧侶、地方新聞の記者、牧師らである。取材するほど、息苦しくなった。日本人のシンボル、象徴の天皇を利用した、悪質なえん罪などなぜ行うのだろう、とむごさに心を痛めた。

 ウクライナ戦争でも、為政者は奪った領土をあの世に持っていけるわけでもないのに、むきになって人を殺す指令をだすのか、と狂気を感じさせた。

歴史とは自国の都合だけでうごかない。 世界情勢と連動している

 1853年といえば、世界史では有名なクリミア戦争(野戦のナイチンゲールが活躍)がぼっ発し、3年間つづいた。英仏とロシアが大戦争をはじめ、その戦火がアジアにも拡大してきた。

 鎖国とは世界にブラインドを下ろすことではない。積極的に世界の情報を取りにいかないと危険きわまる。阿部正弘は老中首座(現・内閣総理大臣)になったときから、アジアで発行されている英字新聞をオランダ語に翻訳させて(別段風説書)逐一、世界の動きをみていた。

――クリミア戦争に突入した欧州は、いま日本に派兵できない、清国が被ったアヘン戦争の二の舞にならないと阿部はみなした。

 嘉永6(1853)年6月に米国のペリー提督が浦賀に来航し、翌7月にはロシア帝国のプチャーチンが長崎にきた。ともに黒船(蒸気船)を従えていた。

――ここは千載(せんざい)一遇(いちぐう)のチャンスだ。

 鎖国から開国と舵を切った。翌七年三月に、まずクリミア戦争と無縁なアメリカと日米和親条約をむすんだ。半年後の八月、イギリスがカムチャッカ半島に領土的な野心からロシア軍を追撃してアジアに出兵してきた。かれらは長崎に寄港し、幕府に燃料・食料の供給基地として、長崎・函館の港の利用をもとめた。

「米国と同文ならば、和親条約を結んでもよい。さもなければ、貴国の軍艦がわが国に立ち寄ることはいっさい断る」

 長崎奉行の水野忠徳(ただのり)が高飛車な姿勢を貫いた。イギリス艦隊司令・スターリングは、日本側の条件をうけ入れた。これに怒ったのが、東洋を管轄するイギリス香港総督で、
「通商規定の条文がゼロで、日本の港では日本の法律に従うと明記されている。屈辱だ」
 と破棄の添え書きをつけて、イギリス政府にその条約文を送った。

 イギリス国会はクリミア戦争に勝つことが最優先だといい、批准してしまったのだ。
 その翌安政二年、クリミア戦争の敗戦が濃厚なロシアにたいし、日本側は有利な立場で、「日露和親条約」をむすび択捉・国後を日本領土とした。

 阿部政権は、クリミア戦争が日本に有利な風だととらえて米、英、露の三か国の大国と和親=平和条約を一気に結んだのである。


 わが国の歴史書となると、嘉永6(1853)年といえば、世界最大のクリミア戦争をまったく教えず、アメリカの黒船が来航したといい、鬼のような奇異なペリー提督のかわら版の顔をのせる。

 そのうえ狂歌『泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(かみきせん)たった四はいで夜も寝られず』と記す。それは明治10年に創作された狂歌だと、いまや化けの皮がはがされた。

             ☆

 令和4年のいま、ウクライナ戦争が世界中に、武器供与、経済封鎖、石油、穀物輸入など影響をおよぼしている。戦争当事者でなくとも、アフリカは食糧危機に直面しているし、世界のいずこの国も、無関心でいられない。

 1853年に勃発したクリミア戦争では、勝利国となった英仏も、敗戦国のロシアも、非戦の米国も、わが国が鎖国だろうが、関係なく、軍艦や商船でなんども来航している。
 伊豆下田港では、なんとロシア海軍兵がフランス商船の掠奪の戦闘までしかけている。
 日本の下田奉行は厳重な抗議をした。

 クリミア戦争当事国の英・仏・露は、軍艦の燃料・食料の中継機能として、日本の港が喉から手がでるほど欲しかった。幕府はこの地の利で、外交交渉で優位な立場にいた。

 ところが、下級藩士によって樹立された明治政府は、かつて上級武士が支配した徳川政権を恣意的(しいてき)に見下すために、
『徳川幕府はアメリカに蹂躙(じゅうりん)されて、砲弾(ほうだん)外交で開国されられた』
 と歴史をねつ造した。
 まさに幕末史のプロパガンダである。

 そもそもペリー提督が江戸湾にやってくる七年前に、アメリカ東インド艦隊のピッドル提督が浦賀に米大統領の親書をもって来航している。
 捕鯨船マンハッタン号、イギリス艦、デンマーク軍艦も来航している。幕末史は黒船以前の歴史から紡(つむ)がないと真実はみえない。