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【孔雀船105号 詩】 夜空の向こう側 脇川郁也

ふり返ると
紫色の空にいくつか星の光が見えた
見晴台から望む街の夜景を眺めながら
あのひとつひとつに
だれかの家庭があるんだねと
あなたはつぶやいた

なだらかな長い坂道を
ふたりで登った
いつの間にか息が上がっていて
そっとつないだ手を引き合って笑った

明かりの数だけある家庭で
暖められる笑い声もあるけれど
時がたつと
あきらかな月の光が
いつの間にか雲にかすんでしまう

知らぬ間に闇が降りてきて
世界を覆ってしまうことがある
どれだけ手を伸ばしてみても
届かないもどかしさに
秋の風はいつも吹き来るのだ

虫が鳴いているね
あれはね、羽を擦り合わせているんだ
恋する人を呼んでいるんだ
でもそれが
哀しげに聞こえるのはなぜだろう

ワイン.jpg予約したのは
夜景がきれいなレストラン
すこし気取って
ぼくらはワイングラスを傾ける
弾けるようなグラスの音に
見つめ合って笑顔を交わした

夜空の片隅に星が流れた
遠く音もなく
光を点滅させたジェット機が
飛んで行く
ポケットの膨らみは君に贈るプレゼント
どこにも月は見えなかった

夜空の向こう側(脇川.pdf


【関連情報】
 孔雀船は105号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp

イラスト:Googleイラスト・フリーより

遠い昔から繋がる・・・ 吉武一宏

 日本人がいつからこの大地に現れたのか、正確には分かっていない。ただ、1970年に沖縄県の港川で約2万2千年前の旧石器時代の人骨が発掘された。

 その人骨(港川人)からDNA解析によって、縄文人や弥生人や現在の日本人の直接の祖先ではないことが分かった。港川人は縄文人と共通の祖先から枝分かれしたと考えられている。残念ながら港川人は子孫を残せず途絶えたとみられている。旧石器時代は約3万8千年前から1万6千年前までの約2万2千年間である。

吉武②.jpg  その後、日本では縄文時代へと移っていく。
 日本各地によって違っているが、縄文時代は約1万3千年前から3200年前までの約1万年間続いた。その後に弥生時代となる。縄文人から弥生人、そして現在の日本人へと続いていった。縄文人と弥生人の顔・形が違うのは狩猟民族が農耕民族となり、あごの発達等が変化した結果である。くわえて中国や南方の民族と新たな結合があったからであると考えられている。ともかくも、諸説あるが、日本人は縄文時代から約1万3千年も脈々と繋がって現在に至っているのである。


 2024(令和6)年5月29日、格安九州ツアーで吉野ケ里歴史公園を訪れた。

 吉野ケ里遺跡は佐賀県神崎郡(かんざきぐん)吉野ヶ里町と神崎市にまたがる吉野ケ里丘陵にある遺跡で、国の特別史跡に指定されている。およそ117ヘクタール(1,170,000m2)にわたる弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落(周囲に堀を巡らせた集落)跡である。1986(昭和61)年からの発掘調査によって発掘され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園となっていた。

 佐賀県知事が「邪馬台国」だと宣伝し話題になった遺跡である。私は「広い野原を観光名所として作られた公園程度だろう」と、思いながら入園した。


 田手川に架かる天の浮橋を渡り、そのまま道に沿って奥に進む。古い薄汚れた木柵が目に飛び込んできた。左右に物見櫓のような建物が建っていた。見た瞬間は観光客を集める舞台装置のようなものだと軽く思った。中に入る。広い、学校のグランドの数倍もある広さだった。その中に茅葺き屋根の家が数軒建っていた。
 
 ガイドの指示に従って、北墳丘墓まで進む。そこは吉野ケ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓だった。14基の本物の甕棺が展示されていた。甕棺と聞き、なんとなく気味が悪いと思ったが、お金を払ったので一応見ることにした。
 私はせこい、性格である。

吉武 九.jpg
 吉野ケ里遺跡は紀元前400年から紀元300年の700年間に渡って存在したといわれている。長い、実に長い期間だ。江戸時代の2倍強である。徳川は15代で終わった。「何人の王様が君臨していたのだろう」と、墳墓を観ながら考えてみた。
 単純計算でいけば、40人弱である。当時は平均寿命も低かっただろうから、多分50人は王様として君臨していたのではないかと勝手に推測した。では、「なぜ、これほどにも長くこの地は存続できたのだろうか」と、疑問が沸いた。同時に、私は「2000年前の人々はどんな暮らしをしていたのだろうか」と、二つ目の疑問が浮かんだ。

 時間の都合で北墳丘墓から、駐車場に向かって戻る。道はコンクリートで固められたいた。
 しかしながら、左右の道端は生い茂る野草で溢れていた。春にもかかわらず、暑い日差しが身を包み、野草の柔らかい香りが漂っていた。墳丘墓で感じた重苦しさが消えて行くのを感じた。

 見学する時間はあまりないが、二つの疑問の答えを見つけるために南内郭に建てられた住居等を急ぎ足で見て回ることにした。
 吉野ケ里遺跡には何人の人々が暮らしていたか、当然ながら諸説あり正確には分からない。一説には1,200人程度が暮らし、吉野ケ里を中心としたクニ全体では5,400人ほどが暮らしていたと言われている。
 単に、人々が集まった集落ではない。国の形ができていたのだろう。支配者層と被支配者層に分かれていたことは、埋葬の違いで分かっている。ここに住んでいた人々の生活模様が少しは分かるように、南内郭には数々の四角い竪穴住居が並んでいた。竪穴住居とは地面を掘り下げて床面を構築した建物である。

 寒さを防ぐためだろうか、家の真ん中には丸い囲炉裏のような穴があった。王様の家は他の家より少し豪華であった。隣の建物は「王の女の家」と書かれた説明看板が設置されていた。王と王女は別々に住んでいたのだ。私は、奈良時代から平安時代初期の風習だった「妻問い婚」だったのではと想像した。

吉武 ③.jpg
「妻問い婚」とは夫が夜に妻のもとに通い、朝起きると自分の家に帰る風習である。弥生時代の風習が奈良時代まで続いていたのだろう。
 近くには養蚕の家があり、機織りの家があった。支配者層は絹の衣服を身にまとっていたのだ。現在と同じだ。裕福な支配者は絹を身に着け、支配される側は一生懸命働きながら麻の衣服を着ていたのである。
 支配者が生まれたのは、狩猟から稲作に生活様式が変わったためである。狩猟時代は獲物を求めて転々とあちこちを巡る。稲作になれば、一か所にとどまり生活圏を作っていく。知恵があり、体力があるものが広い大地を我が物とし、労働者を使って一層権力を持つようになったのではと説明看板を読みながら私は思った。


 面白いことに「煮炊き屋」なる建物があった。
 説明看板を読む前は、ここで暮らす人たちが集まる食堂だと思った。ところが違った。支配者層の王様や大人(たいじん)のための台所なのである。
 それにしても私は知恵の回らない男であった。なぜならば、弥生時代には通貨などないのだ。全て、物々交換の時代である。お店などあるはずがない。なんと、トンマナ野郎だろうと自ら笑ってしまった。

 近くに面白い家を見つけた。
 私が大好きな「酒造りの家」である。これも王様や大人のためであろう。説明文には新米を蒸してと書かれている。どのようにして、お酒を造っていたのか調べてみた。
 なんと、九州・近畿では加熱した穀物を口でよく噛み、唾液に含まれる酵素(ジアスターゼ)で糖化して野生の酵母によって発酵させる「口噛み」といわれる方法で、お酒を作っていたのだ。どんな人が考え出したのだろうと好奇心が沸いたが、たまたまお米を噛んでいるうちにお酒ができたのだろうという結論に達した。

 とはいえ、いつの時代にも飲んべーはいるものである。

 その他にも、南内郭には右の絵のように兵士の詰め所や集会の館や王の住まいとは別に支配者層の住まいが建てられていた。更には、食糧を保全する高床倉庫も建っていた。
 南内郭は堀と木柵で囲まれ、物見櫓が3ヶ所と堅固に守られていた。稲作が始まり、支配者層と支配される層が生まれ、クニができた。結果、稲作のための水や蓄えられた食物を得ようとして戦いが始まったのではないかと思う。
 そのために、兵士を作り、堀を掘り、木柵を建てるといった面倒なことが起きたのだろう。いつの世も人間とは愚かな動物であることかと情けなくなった。

吉武 7.jpg
 700年も続いたと思われる吉野ケ里が平和であったわけではない。
 吉野ケ里では丘のいろいろな場所に甕棺がまとまって埋められていた。戦いで亡くなった人もいるが、腹部に10本の矢を撃ち込まれた人もある。何らかの罰で処刑されたのでは考えられている。また、当時は乳幼児の死亡率が高く、小さな甕棺もあるそうだ。決して、幸せな人々だけが暮らしていたわけではないようだ。

 人の競争意識は今も昔も変わらないのではないだろうか。

吉武 十.jpg 上の写真をみてほしい。素敵な空間ではないか。
 暖かな春の陽を浴びながら、私は目を閉じてみた。すると、裸の子供たちがどんな遊びをしているかわからないが、大きな声で笑いながら飛び跳ね、駆け回っている。その横では麻の寸胴(ずんどう)な服を着て帯を締めた人々が、楽しげに語らい生き生きと生活をしている姿が浮かんできた。

 現代のように便利な機械や道具があるわけではない。全て、人の力で作られた町だ。みんな、ここで生まれ育って、そして死んでいく。私は思った。間違いなく、2000年前ここに人々は住み、短い寿命の中で一生懸命生きていたのだと。当時の人たちの正確な寿命は分からないが、現在よりは短かったことは間違いない。

 親から子に、子から孫へとつないで行った。

 現代とも変わらない、歯を食いしばって耐えなくてはいけない辛いことや、涙も枯れてしまうほどの悲しいこともあっただろう。同時に、天にも昇るような嬉しいこともあったのではないだろうか。

 これは私の推測だが、最も嬉しいことは生まれた我が子が無事成長し、新たな家族を迎えた姿を見ることではなかっただろうか。なぜなら、当時の乳幼児の生存率は非常に低く、また成長しても戦などで死んでしまうことも多々あったのではと推測するからである。
「なぜ、700年もの長い時間クニが続いたのか」
「どんな暮らしをしていたのか」
 二つの疑問に対する答えは見つからなかった。更に、新たな疑問が生じた。「ここに住んでいた人たちはクニが滅びたのちにどこへ行ったのだろうか」である。これも、答えは見つからない。しかしながら、私は人々はクニの名前が変わり、支配者が変わっても命を繋ぎ続けてきたと思っている。

 DNA鑑定によって日本人は縄文人から現代人へと繋がっている。人は必ず死を迎える。しかしながら、繋ぐことができれば、新しい世界が生まれる。現在は一瞬にして人々を滅ぼしてしまう兵器もある。己の欲望のため人々を殺してはならない。生きている人にとって最も大切なことは次の時代へとバトンタッチすることだと私は思っている。
 自らを決して消してはならない。次の世代へと繋ぐ、それこそが、今生きている人の務めであり、一万年以上に亘って続けてくれた祖先への感謝となるのではなかろうか。

                                 2025年2月5日

「関連情報」

 吉武一宏さんは、朝日カルチャー千葉の「フォト・エッセイ」の受講生です。

太平洋戦争はほんとうに負けてよかったな

 新たらしいコーナーをつくりました。時事問題や、人生観、歴史観などを綴っていきます。一回目はなにを書こうかな。きょうはトランプ大統領の就任だ。

  映像を観れば、韓国の現職の大統領が逮捕されたあと、賛否に分かれた抗議の人とか、官憲とか、それぞれがすごいエネルギーで争っている。
 かれらは明治時代のころから太平洋戦争まで被植民地を経験し、日本の敗戦のあと平和とはならず、おなじ民族が南北に分かれてし烈な戦争をしてきた。その分断がいまなおつづく。
 映像でみると、一人ひとりが歴史上に生きているな、という感じだ。かれらは地位や立場にかかわらず、自分で考え、発信し、そして自身の意志ではげしく行動している。

 この点では、為政者や組織のトップに従順な日本人と本質がちがうな、とおもう。

 近現代史の歴史小説を書いていると、日本人の本質を身近に感じる。申すまでもなく、明治から太平洋戦争まで、戦火の中で兵士らは個性を殺し、将兵から二等兵まで、一丸となって敵陣に突っ込んで死ぬ。それが玉砕といい、当然なのだ。「ドイツ人は敵の殺し方を教える、日本人は死に方を教える」。ここにも民族性が出ていたようだ。

 下士官から「上官命令は天皇の命令だ」「これらの捕虜を殺せ」と命じられたら、「国際法違反じゃないの」と知っていても、己は銃の引き金を引く。

 資料を見るかぎり、戦地の兵士らはつねに没個性で行動している。戦争でなくても、日本人はとかく画一的 同質的、類型的な体質である。
 日本は単一民族だし、日本人の本質は何だろう。このごろ外国人の日本居留は多いけれど、この際はそれを省いての話しである。
 
                   *

 いまの韓国、および北朝鮮を報道でみていると、戦前の日本の思想・文化・価値観の陰をいくらか感じるも、本質は違うなと思う。かれらの資質は大陸民族である。
 ここで日本人を見てみよう。細長い日本列島で、7000の島があり、縄文時代から1万6000年間の「日本文明」をもって現代におよぶ。日本人とはおおむね紋切り型 没個性、同一行動をとる。

 世界の国々の社会科教科書において、世界八大文明のひとつとして「日本文明」が記載されている。その特徴は現代の日本人の特質、特性にかなり似通っている。いくつか列記してみると、

① 日本の縄文土器は世界最古級の土器文化をもっていた。縄目模様のうつくしい装飾が施されている。実用性だけでなく、芸術性や精神的な意義をもつものであった」

② 伊豆諸島や小笠原諸島と本州との間でも交易がおこなわれていた。縄文時代の航海術はたんなる移動手段ではなく、文化の発展と交流の基盤であった。

③ ヒスイ、琥珀などを素材にした装飾品が多くみつかっている。とくにヒスイ製の勾玉(まがたま)は、交易を通じて広範囲に広まっていた。独自の高度な技術と知識をもっていた。

④ 植物の繊維をつかった織物が作られており、布を染める技術ももっていた。

⑤ 地面を掘り下げた竪穴住居が一般的で、断熱効果があり、夏は涼しく冬は暖かい構造である。

⑥ 弓矢、罠や網、魚釣りの漁労がおこわれ、それら獲物を燻製(くんせい)にしたり、干物にしたり、保存・加工技術も工夫も高度であった。さらに、植物は加工し、毒抜きして保存食にしていた。

               *
 
 人間の脳みそは一万年前と現代とさして違わない。考古学がもっと進歩すれば、微分・積分をつかった建造物や土木なども発見される可能性がある。
 ここで考えられるのは、なぜ、災害列島で1万6000年間も一つ民族が滅亡せず生きつづけてきたのだろうか、という素朴な疑問である。くる年も、くる年も、春・夏・秋・冬といずれも大災害がひんぱんに起こる。人間ならば、きっと部族間の激しい戦いもあったであろう。それなのに、日本人という単一民族が廃れていない。世界でも最長の民族である。

 青森県三内丸山遺跡では、巨大な柱を使用した建物跡が発見されている。共同の儀式や集会に使われていたらしい。そこにヒントを見いだせる。「災害時には集団で助け合う。平素からその心構えでいる」。村社会で共同で暮らすからには、画一的 同質的、一律的な没個性で共同の行動をする。その統一精神と叡智が必要である。滅亡しなかった知恵は同一性だろう。
 
              *

 ところが、いまから80年前の太平洋戦争で「一億総玉砕」と日本民族の滅亡を戦争に利用しようとした軍人の総理大臣がいた。かれが悪いのではない。幼いころから「皇国史観」に染まっていたからだ。
 日本人ならば、全員が一つ枕で死ねると本気で考えていたのだ。戦争が起きても、海外逃亡した日本人は聞かない。
 
 ところで、現代でも日本の社会科教育で、「世界八大文明」の呼称をおしえない。いまだに陳腐な世界四大文明だ。それというのも、皇国史観で、創造神・イザナギとイザナミが国を生み、初代天皇・神武天皇が即位したという。この史観と整合性が取れないからだろう。
 というのも、皇紀元年を西暦にすれば紀元前660年である。ここから万世一系で日本の歴史が歩まれてきた、と岩倉具視あたりが言いだした。それが明治のプロパガンダ「天皇は神聖にして犯すべからず」で、国家統制につかわれた。

 1万6000年間のうち、天皇支配はわずか2700年じゃないか。そこは教えない。

               *

 皇国史観の下で、日清・日露戦争から、第一次世界大戦、シベリア出兵とつづく。むろん、大本営の軍人は死なない。死ぬのは戦場の兵卒だ。
 2・26事件は昭和維新を掲げたクーデターである。1500人の兵卒はほとんどが農民の徴兵だ。陸士出の上官が、官邸に突入し、首相や元大臣を殺せといわれたら、兵卒は従順に暗殺する。「こんなことはやってはいけないよ」と一人も口にしない。命令に従うのみだ。

 軍人政治は、なんでも軍事が最優先だと思っている。おおむねギリギリのところで国民の生命や安全など考えていない。

 2・26事件のあと泥沼の日中戦争・太平洋戦争へとつづく。1941年7月、アメリカが日本の東南アジアへの侵攻で、石油の輸出を停止した。日本の軍人はさあ大変だ。これでアメリカが攻めてきたらどうする。当時は、石油備蓄量で世界最大とも言われていた日本だ。まだ、1年半はあるぞ。それを使って日本のために、国家・国民のために何をするべきか。そんな思慮は働かなかった。海軍軍人として勇ましさを見せてやる。
「最初の半年から一年は暴れられるが、それ以上は保証できない」。じゃあ、その先はどうするの。自分の尻ぬぐいもできない、戦争のやめ方も知らずして、戦争などやるなよな。それだけの石油があれば、国民生活にまわして3年も持たせれば、その間の米英蘭との外交交渉で石油解禁も得られただろうに。上から下まで、これが言えないのが日本人の特性だ。

 真珠湾攻撃は戦術的には成功したものの、戦略的にはアメリカを徹底的に怒らせる結果となった。暗号は解読されており、本人が乗った飛行機は撃ち落されてしまう。外交文書も軍事司令も敵に筒抜けだから、巨大な軍艦や空母は撃沈されるし、飛行機は追撃される。制海権・制空権は奪われて、B29は思うまま、東京・大阪・名古屋・神戸に焼夷弾を落とす。「まだ降伏しないの」とビラを撒いて、13都市の爆撃を予告する。そして日々に、焼夷弾で毎日何万人と焼死する。

 それでも軍人政治家は戦争のやめ方がわからないらしい。頼みの綱はソ連だけしかない。停戦の仲介を頼む。ソ連にはロシア革命で新しい国家ができたとき、シベリア出兵の日本兵士たちが、七年間にわたって残虐な殺戮をおこなったという怨みがある。(現っ代でもロシアの歴史教科書に載っている)。連合国との橋渡しの仲介などするはずがない。

 日本列島が焦土の焼け野原になっているのに、「国体を守る」と、そんな訳のわからないことを言う。このままでは1万6000年間の「日本文明」をもった日本民族が消滅する危機に及んでも。

 在モスクワの日本大使が、無理難題をつきつけてくる日本の外務省に、電報で、ひとりの国体(天皇)をまもり七千万の日本人を犠牲にするのか、と打電しているらしい。
 このままというべきか為すすべもなく、挙句の果てには外圧(原爆・空爆・ソ連参戦)で終止符を打つべきときに及んだ。
 昭和天皇はさすがに見かねたのだろう、日本民族の滅亡は避けたい、ポツダム宣言を受理して戦争は終わらせたい、と最後の決断を下したのだ。

               *

 私には小学二、三年のころから島っ子として記憶が残っている。通学のさなかに原爆の話、GHQのマッカーサー元帥の話題が多かった。そのなかでも強く心に残っているのは、友人に「太平洋戦争は負けてよかったんだよ」と語っていた幼い自分の姿だ。
「二等兵で入隊したら、毎日、ビンタ(平手打ち)だって。軍人にはなりたくないものな。日本が負けてくれてよかった」
 私は二等兵、一等兵の立場でいつも自分を見ていた。これはいまでも変わっていない。
 

  注)世界四大文明は、紀元前3000年から紀元前2000年にかけて生まれたメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明の4つの文明を「世界四大文明」としている。日本の考古学者、江上波夫が携わった1952年発行の山川出版社の教科書『再訂世界史』だとされている。戦後から7年目で、まだまだ皇国史観の歴史が色濃く残っていたころである。
 ちなみに、欧米やアジアでも、世界四大文明は通じないらしい。

穂高健一著「歴史は眠らない」立ち読み ③ 窮地に立つ女子・音大生の逆転の発想

 ③の立ち読みは穂高健一著「歴史は眠らない」の「九十二年の空白」のシーンのひとつです。
 

『まえがき』
 主人公の白根愛紗美(あさみ)は、21歳の東京の音大生です。彼女は望まずして大学恩師の教授の紹介で、瀬戸内の島の中学校に教育実習にやってきました。
 赴任してみると、正式な音楽科教師(女性)は、素行の悪い生徒たちと折り合いが悪く、妊娠を理由に退職してしまった。後任がいない。
 校長に口説かれた愛紗美は、大学実習生なのに、なんと音楽の代用教員扱いとなり、そのうえ、同校が目指す音楽コンクールの検体か県大会の指導(顧問)を引き受けさせられます。
 音楽合唱部たちの初顔合わせの日に、いきなり合唱部員がゼロになります。やり場のない気持ち彼女の心象を描いたばめんです。


『作品・本文より抜粋』

 白根愛紗美(あさみ)が、豊町中学(広島県)の男女混声合唱団の顧問(外部指導者)として、教育委員会から認可された。いまのところ部員は六人だと聞かされていた。
 めざす合唱コンクール大会の募集要項によると、中学生の部は最低参加人数が六人であった。
「大会の当時に欠員が一人でも出たら、出場できない」
 それを考えると、彼女はミラノの国際コンクールを犠牲にし、八月まで顧問を引き受けたのは迂闊だった。赤石校長に断る策はないかしら。妙案はなかった。
 最初の合唱部員との顔合わせは、金曜日の放課後で音楽教室だった。集まってきたのはわずか三人である。ほかの三人はすでに菊池先生に退部を届けて認められている、という。
「えっ。そうなの」「もうずっと前よね」
(三人だけでは県大会の出場ができない...)
「きょうは三人でレッスンして、次は飛雄(とびお)君も入ってもらいましょうか。先生から話して」 飛雄は中二の悪ガキの男子生徒である。
「だったら、わたし部活をやめます」「わたしも」「ひとりなんて、いやです。合唱にならないし」
 三人は背中をみせて立ち去っていく。呼び止めて話し合う余裕もなかった。怒るよりも、呆れてしまった。むずかしい年頃だけに、三人を呼び戻すのはむずかしいし、ムダな労力になるとおもった。
 愛紗美はグランドピアノの椅子に腰かけた。顧問になった早々に全員を失くした今、気持ちの置き場がなかった。県予選への意欲とやる気の魂を奪われてしまい、一体なにからはじめたらよいのか、まったくわからなかった。
――校長先生。部員がゼロになりました。当初通り、六月十日をもって豊町中学の教育実習を終了させていただきます。
 それは情けない話し。彼女は放心というか、思慮が停止した心境だった。このまま独りいても虚しいし、と教室を出た。彼女は一階への階段を下りはじめた。踊り場で、すれ違う浅間輝(ひかる)に呼び止められた。
「この間の、僕の授業の感想を聞かせてほしいんだ。忌憚(きたん)のない意見を」
「ここで?」
「いや。どこか別の場所で。どうだろう、あしたは土曜休みだから、ぼくが御手洗(みたらい)の史跡を案内しながら、白根先生の感想とか意見とかをきかせてもらう、ということで」
「いいんですか。わたしの評価は厳しいですよ。遠慮しない性格ですから」
 彼女は、胸にある部員ゼロの鬱屈を吐きだす気持ちだった。
「厳しい方がありがたい。僕にとって勉強になるし、今後の参考にしたいから」
「年下の大学四年生が、歴史も知らないで、なにを生意気な、とおもうはずですよ。聞かない方がいいです」
「そんなことはおもわないよ。教育実習の同期だと、ふだんそうおもっている」
(こんな日に、素直にうけるのも癪(しゃく)だわ)
「七卿館で、朝の十時に落ち合うことで」
「午前中は困ります。いろいろ用が立て込んでいますから、午後一時なら都合をつけられます」
 時間ずらしも、単なる気晴らしであった。彼女は踊り場から階段を降りはじめたとき、ちらっとふり向いて、上っていく彼の姿をみた。
(なによ。バツイチの三十男が、デートのひとつも声がけしないくせに。自分の頼みのときだけじゃない。憂さ晴らしをしてあげるから)
 彼女のモヤモヤ感は尽きなかった。

            ☆
 
 この先、白根愛紗美(あさみ)が「逆転の発想」で、中二の悪ガキの男子生徒・飛雄の力を借ります。明るい方向にすすみます。
 先日、元中学校校長の方とお会いし、私は「九十二年の空白」の意見をもらいました。
「この小説に描かれた、逆転の発想は取材ですか。実にリアルです」
 元校長は違和感を感じなかったようだ。
「いいえ。私の想像です。これしか解決はないかな、と考えました」
 と前置きし、推理小説の執筆の手法で、難問にたいして解決の方法は何かないか、とかんがえつづけて、ここにたどり着いたのです、と応えさせてもらった。
「現実に、こういう子(生徒)はどの中学校でもいます。小説の創作とはいえ、現実に近いところで書かれるのですね」
 中学校内の教職員や生徒ばかりが出てくるドラマだけに、私は安堵した。

【関連情報】
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穂高健一著「歴史は眠らない」立ち読み ② ペリー提督の来航で大騒ぎ、それはウソでしょ

 ②の立ち読みは穂高健一著「歴史は眠らない」の「九十二年の空白」のシーンのひとつです。


『まえがき』
 ペリー来航は、大騒ぎだった。この通説ははたして本当だろうか。まず40キロの距離はどのくらい離れているか。皆さんの住まいから気にとめてください。次に、ペリー提督よりも7年前の1846年に来航したアメリカインド艦隊のジェームス・ビッドル提督はご存じですか。この時はとてつもなく大騒ぎです。
 ペリー提督の初来航は実に静かです。明治に入ると、歴史学者が7年前のビッドル来航の大騒ぎとすり替えたのです。『太平の眠気(ねむけ)をさます上喜撰(じょうきせん)たった四杯(しはい)で夜も眠られず』これは明治十年につくられた狂歌(ペリーよりも25年後の創作だった)と判明されて、現代の教科書から削除されています。
 明治時代から為政者は教科書に載せて、なんと150間後の現在までも、事実無根の狂歌をまるで真実のように教え込んできたのです。

 登場人物の院大生(浅間輝・ひかる)は元建築技師で、大きな設計ミスから転職し、緻密な理数系でなく、大学院の史学科に入った。妻と離婚し、歴史のねつ造は戦争につながる、という信念をもつに至った。それを生徒たちに教えたいと教職課程をとり、教育実習で教壇に立っている情景です。
 この場面では、東京からきた音大四年生の実習生・白根愛紗美(あさみ)が、教室の後ろで、その指導ぶりを眺めているばめんです。


『作品・本文より抜粋』

「アメリカはペリーが浦賀に来航するわずか七十年まえまで、イギリスやフランスの植民地だった。独立戦争に勝って合衆国となった。そんな新興国だ。さて、いよいよペリー来航の話しになるが、黒板に書いた和親とはどういう意味かな。女子にも答えてもらおう。佐藤さん」
――和は、和をもって尊し、とおもいます。親とは、親しく仲良くするです。
「正解だ。つまり、日米平和条約という意味だ」
 かれは黒板を指し、ちらっと白根先生の顔をみた。しっかり聞いている態度だ。
「石川君。なんで黒船というんだろう。みんなに教えてあげて」
――それは、えっと、ペリーが乗ってきた船が真っ黒だったから、だと思います。
「それは正解といえるのかな。半分だな」
 室町時代から、南蛮船は真っ黒だった。木造船は海水で腐るし、カキがつくから、防ぐために真っ黒なコールタールを塗っていた。だから、徳川家光が鎖国するまで、南蛮渡来の船はみな黒船とよばれていた。
 ペリー提督来航は1853年であるが、それより7年前の1846年に米国のジェームス・ビッドル提督が軍艦二隻で浦賀に来航している。ビッドル提督はアメリカ大統領の国書を持参してきた。当時の老中首座の阿部正弘は国書を受理をしなかった。
 ビッドル提督は初めて江戸湾に外国軍艦がきたといい、江戸湾警備の川越藩などの藩船や、駆りだされた漁船が数百隻も軍艦をとりかこんだ。約十日間は観光客があつまり大騒ぎだった。
「ペリーの黒船がきて日本中が大騒ぎした、という。これはウソだ。
 ペリー来航のとき庶民は騒いでいない。数年前にコロナ騒ぎがあったよね。パンデミックということばをおぼえているかな。天然痘が大流行の年で、パンデミックで街に人は出ていなかった。将軍も病死だ。ただ、病名は不明だがな。大奥のお女中は何人も死んでいる。
 ペリーの黒船は四隻のうち二隻は帆船で、めずらしくもなんともない。二隻は蒸気船で後ろにすすめる。わずか地元民が珍しがっただけだ。江戸日本橋から浦賀沖まで、直線でははるか遠き四十キロもある。黒船の煙は肉眼で見えない。御手洗と広島・宇品はおなじ四十キロの距離だ。見えるかい」
――見えるわけがないよ。山に登ってみても、米粒かな。
「コロナで外出禁止のときに、君たちは御手洗から伝馬船で広島・宇品港まで見物に行くかい」
――そんなことしないよ。一度見ているんだよね。ビットル来航で。
「ペリーの初来航はわずか九日間で消えてしまった。ビットル来航の大騒ぎと、歴史はすり替えられているんだよ」
――なぜ、太平洋から来なかったんですか。
「当時は蒸気船で、石炭を焚いて船を走らせていた。太平洋に石炭基地がない。だから、アフリカ、アジアの港で石炭を補充しながらきた。ペリー提督は学術調査が主目的だから、アフリカ・アジアの港に半月、一か月と立ち寄りながら、動植物の採取とか、農耕とか、家屋とか、いろいろ記録をとっていた。吉澤君、質問がありそうだな」
――白人は珍しかった、とおもいます。だから、大騒ぎになったとおもいます。
「そうかな。幕府は、長崎出島のオランダ商館の商館長(カピタン)に、毎年、海外情報をもって江戸に来ることを義務づけていた。松平定信のときから、四年に一度になった。三年は長崎奉行所での聞き取りになった。江戸には合計百六十六回やってきた」
 江戸庶民も宿泊所に行けば、窓から顔を出す。白人とは言わず、紅毛人(こうもうじん)だよ。だから、さして珍しくなかった。
「みんなは豊町中学の生徒だから、『カピタン江戸参府』はよく覚えておいたほうがいいな。なぜかな。白根先生に答えてもらうか」
――有名な医師のシーボルトが御手洗に来て、病人を診察しています。その記録が残っています。むかし下関から大坂までを御手洗航路とよんでいました。大坂にも御手洗にもおなじ住吉神社がありますから、それを裏付けています。カピタン江戸参府の百六十六回のうち、たぶん百回は御手洗に入港していたようです。
「音楽の先生をやめて、社会科の先生になってもらうか」
 大笑いになった。拳で机をたたいて笑うものもいる。
「どこまで話したのかな。忘れてしまった」
 またしても、大笑いになった。


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穂高健一著「歴史は眠らない」立ち読み ① これは恋愛小説なの、歴史小説なの

穂高健一著「歴史は眠らない」の『立ち読み』シリーズを書くにあたって。そのきっかけとなったのが、読者の声からである。

「男女の恋がはらはらして、引き込まれて、四作品とも一気に読めました。こんなにも男女の機微(きび)を上手に書ける作者とは思いませんでした」
 そんな声が多く寄せられた。
「ぼくはかつて純文学作家だよ、数十年は苦節で売れない小説家だった。8つの文学賞(本名での受賞)はすべて純文学作品だったし。本業だよ。男女の機微を書くのを得意としていたし、文学賞も多くいただいた」と電話とか、SNSとかでそれをおしえた。

「なぜ、歴史作家になったのか」。このシリーズ「立ち読み」に入るまえに、予備知識として、私の作品歴をかたっておこう。その方が作風もわかるし、だから穂高健一はこんな執念で、歴史の通説をくつがえすことに燃えて執筆しているのか、と読者に理解していただけるとおもうから。

             ☆  

《純文学の小説家で、歴史作家から縁遠かった》              
 五十歳代のときに、著名な作家から酒の場で、「穂高よ。お前はストーリーテラの素養が充分あるんだ。貧乏もいいけれど、奥さんのために、いい加減に、売れる作品を書いたらどうだ」という叱咤(しった)に近い助言があった。妻のためか......と胸が痛むことばだ。
 シェパード3匹も飼う邸に、お嬢様育ちの女性が、私と結婚し、数十年も貧乏生活をつづけている。内職しながら、女性特有の、あなたは家事をいっさい手伝わないし、とボヤキがはじまる。「苦節10年だ、待ってくれといわれ、20年も待ったわ。もうすぐ苦節30年ね」と妻から嫌味を聞かされる。

《風向きが変わった》
 知人から雑誌社を紹介されて、ミステリーの連載小説を書くことになった。毎回、読者のコーナーに作品への期待が載るほど好評だった。

 毎月の連載は、頭脳(あたま)のなかで、ストーリーを先読みし、計算し、状況を組み立てて、犯行と遺留品と目撃者などをリンクさせておく必要がある。
「書き下ろしミステリー作品」ならば、犯人の手がかりや証拠などは、一冊分が一通り書き上げたあとから、出版社にだす前、さかのぼって伏線を忍ばせられる。
 ところが、月々の連載となると、そうはいかない。発売後に手を入れられないからだ。

 私の技巧は、自分でも解決できないような犯行の手口、解決のむずかしい高高度の設定をだしておく。さて、どう解決するか、と考える。たとえば、

ーー北アルプスに単独登山の20代の若者が遭難した。不可解な死から司法解剖すれば、胃袋から海に浮遊するクラゲが採取された。透明性が高いクラゲは心臓も血管もなく、栄養分もなく、人間は食べない。なに一つ犯行として結びつかない。

 作者の私には、解決の道筋がまったく判っていない犯行の設定である。だから、ひも解いていく読者にも犯人像などわかるはずがない。この予想外の設定が、読者の興味を引きつけていたようだ。

ーー解決のヒントは、南極のペンギンは頻繁にクラゲを捕食していることだ。
 雑誌連載だから、後もどりして〈犯行現場は北アルプスでなく、水族館に修正する〉ということがきない。
「失敗したな、こんな乱暴な設定で」と苦しむ。そこで、「逆転の発想」「どんでん返し法」をつかい、私の頭がフル回転させて殺人犯にたどり着く。ストーリーテラといわれる所以(ゆえん)だった。
 それなりに私自身も謎解きに参加できるし、解決できた安堵感は心地よかった。

《それでも、ミステリー作家は嫌いだった》
 あらたな作品は毎度、血なまぐさい殺意を入れる。人殺しは人間の尊厳(そんげん)を失うものだ。その考えから、私はいつも自己嫌悪に陥った。ミステリーは自分の体質に向いていないな、と常づね思いつづけていた。
《サスペンスは人を殺さないで書ける》
 危機一髪をいかに乗り越えるか。これならば、私は自分に合っていた。主役はスーパーマン的な頭脳と、ごく自然に生まれる偶然をどう展開させるか。危機から脱出させていく。臨場感がある。書き手としてゲーム感覚でたのしい。
 ただ、サスペンスも文学作品から縁が遠く、「人間の本質を追求する」という小説家の本来のしごとでなく、たんに売り物の作家だな、という未消化な気持だった。

《とびこんできた歴史小説》
 連載していた雑誌社の女性編集長から、「坂本龍馬を連載で書いてくれませんか」という依頼があった。「えっ。龍馬とか、家康とか、秀吉とかは大物作家の領域でしょう」
 おどろく私の脳裏には、吉川英治、司馬遼太郎、池波正太郎、大佛次郎など次々に大物の名まえが横切った。
「穂高さんなら、良い歴史ものは書けるわよ。取材力と推理力があるから。文章力は高いし」
 女性編集長の煽(おだ)てかもしれないが、私はすぐさま自分を納得させられた。
 さかのぼれば、中学生の時には鎌倉将軍3代、足利将軍15代、徳川将軍15代はすべて漢字で書けるほど歴史ものは好きだった。引き受けた。

『人間は数千年経っても、おなじことをくり返す。歴史から学べば、過去を知り、将来の指針となる』
 私は読者に役立つ歴史作品を書こう、と決意した。

 為政者(政治家・軍人)はとかく歴史を作為する。国民を都合よく誘導するためのプロパガンダである。さかのぼれば明治、大正、昭和(~太平洋戦争)、戦後においてさえも、政治家はじぶんたちに都合よくプロパガンダで国民を誘導してきた。
「疑いのない通説ほど、巧妙なねつ造がある」
 これを破壊するぞ。私の執筆する態度は売れるとか、損得とか、儲け意識とかは土俵外においた。ともかく、歴史の通説の欺瞞(ぎまん)をぶち破る精神であった。

「より史実(経歴、出来事、諸々)に近いところで書く」
 刑事に似た気持ちで取り組む。「これはきっと後世の作り物だ」という人間洞察から疑問がわいてくる。まずは「刑事は現場100回」というミステリータッチの捜査から「取材」を心がける。足しげく現地を訪ねる。子孫や郷土史家から思わぬ話しを拾い上げる。そして検事・裁判官のような立場で、裏付けの史料をあさり、物証を重ね合せていく。ゆるがぬ歴史の真実の新発見がある。

 私にはもう一つの特技がある。純文学は「人間の本質」を追求するもの。「人間って、こんな行為などしない。こんな超人的な活動などできない」という疑問がつねに脳裏で回転している。
 通説と向かいあえば、おおむね「ねつ造」がどこかにある。それが解(と)ければ、裁判所の「逆転判決」という局面におよぶ。私は確証をえたならば、それを通説をくつがえす歴史小説として世にだしてきた。

「明治政府のおこなった歴史のわい曲は、日本国民のためにならない」
 それが私のライフスタイルになった。

 歴史小説は私の体質に合っているし、歴史ものを何年も書きつづけてきた。このたびの「歴史は眠らない」は「歴史教育のわい曲こそが戦争を招いた」がメインテーマである。ぜひとも、大勢の人びとに、日本はこんなひどい歴史の隠ぺいやわい曲やねつ造をおこなってきた、と知ってもらいたい。
「読んでもらい、口コミなどで大勢に広めてもらいたい。政治家がウソで広めたプロパガンダを知ってもらいたい。それには中高校生以上ならば、よみやすく、男女の愛や情や温かさに興味をおぼえるストーリーで展開する。歴史の真実がごく自然に理解できるように」
 むろん私は純文学作家だから、男女の恋心や情感など大の得意とする。まさに「水を得た魚のごとく」イキイキと登場人物を立ちあげている。

 四つの収録作品は、いずれも魅力的な人物を克明に描いた。それを列記しておこう。

・「九十二年の空白」はサンフランシスコ生まれの東京の音大四年生の女子が、望まない瀬戸内の島に教育実習にいくはめになった。魅力的な彼女は、おなじ中学に教育実習にやってきた実に風采の上がらない三十初めの離婚歴のある院生と出会う。問題児をふくめた男女生徒や教職員らが島の中学校で生き活きと活動し、読者が映像で観るように展開させている。

・「幕末のプロパガンダ」は、開港した横浜の富貴楼・女将のお倉はとても艶っぽく、彼女が幕末動乱の歴史をより興味ぶかく誘い込んでくれる。

・「俺にも、こんな青春があったのだ」は、主人公の若き海軍中尉・高間完が、日英同盟にもとづいて地中海のマルタ島に任務ででむく。マルタ島で革命家の女性と禁じられた恋をする。

・「歴史は眠らない」は、太平洋戦争のあと、琉球人女性が学生用パスポートで東京の大学に留学していた。そこで恋に落ちた。妊娠するも日本には法律でとどまれず、男子大学生と涙の別れで琉球(沖縄)に帰国した。沖縄復帰から数十年が経つ。沖縄歴史ツアーの講師の歴史作家と、参加者の女性薬剤師と恋が芽生えはじめた。その実、ふたりの間には三親等の血がつながりがあり、結婚できない。歴史がつくった国境の愛と人間の葛藤ドラマである。
 

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ケネディ元アメリカ大統領&トランプ次期大統領 戦争回避の秘策とは

 アメリカが新大統領にトランプ氏を選びだした。かれは選挙戦のさなかに「24時間以内に、戦争を終わらせるみせる」と自信たっぷりに豪語している。戦争当事国のウクライナとロシア、イスラエルとガザに対して、どんな秘策があるのだろうか。

 歴史から学ぶ。そこでケネディ元アメリカ大統領を思いおこした。1962年秋の「キューバ危機」である。米国の裏庭と呼ばれたキューバに、ソ連が核ミサイルの発射台をひそかに建設をはじめたのだ。アメリカ政府や国民は騒然となった。


 ケネディは「ソ連の脅しには断固として屈しない」とソ連船がキューバに近づけないように海上封鎖した。一触即発で、第三次世界大戦か。世界中のほとんどの人が固唾(かたず)をのんだ。ソ連のフルシチョフが基地建設を断念し、屈辱の撤退となった。

 ケネディが優れているのは、軍部やタカ派を抑えきった指導力である。かたや、勝利に酔うことなく、「忍耐つよく平和の道をさぐろう」とひろく内外に呼びかけた点である。

ケネディ大統領.jpgジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy) 大統領公式肖像(1963年7月11日)            
       
 ケネディ大統領の暗殺事件(1963年11月22日)の半年前となる、同年6月10日にアメリカン大学で講演「平和のための戦略」(THE STRATEGY OF PEACE)がおこなわれた。それをひも解いてみた。

「大国どうしのアメリカとソ連は、いちども戦争をしたことがありません」と言われてみると、そうだな、とおもう。ちょっと意外であるけれど。

「第二次世界大戦中に、最も大きな苦難を味わったのはソ連です。2000万人が命を落としました。国土の三分の一、工業地帯の三分の二が荒廃し、多くの住民や農園が焼失し、略奪の被害をうけました」
 大学生のまえで、ケネディはそう語っている。相手の悼みを述べているのだ。

 といわれてみると、列島が焼野原になった日本の犠牲者(軍人・民間人含む)は320万人である。日本軍の侵略によるアジア人の死者数1500万人といわれている。ソ連はひとつの国でそれ以上の死者を出しているのだ。ケネディの口からあらためてソ連の犠牲の大きさを知る。
 
 ケネディの平和論は、ソ連の悲惨な歴史を前提に語られた。
「戦争は人間が作り出したものですから、人間の手で解決できるはずです。人間は、その理性と精神によって、解決不可能に思われた問題をも解決してきました」
 国どうしの対立は永遠に続かないものです。
 
「一方の疑念が、他方の疑念を生み、新しい兵器がそれに対抗する兵器を生み、危険な悪循環に陥ります。
 両国の違いについて盲目であってはならないのです。同時に、両国には共通する利益があり、両国の違いを解消する可能性のある方策があるのです」

 トランプ氏は選挙中にロシアによるウクライナ侵攻について、「私が大統領なら、24時間以内に終わらせる」と述べている。文字通りに解釈すべきではないかもしれないが、すぐに戦争を終わらせたい気持ちは強いのだろう。

 ケネディーの講演のから、ひとつ該当しそうなものを拾ってみた。
「核保有国(ロシア)は、相手国(ウクライナ)に屈辱的な退却か、核戦争かの二者択一を強いるような対決が起きることを避けなければなりません。核の時代に、そのような対決への道筋を採れば、政策の破綻を招き、全世界の死を望むことにほかならないからです」
 ここらはキーポイントになるだろう。

             *

 戦争ははじめるよりも、終わるのがむずかしい。それはかつて日本が経験している。太平洋戦争で1945(昭和20年)春には、南洋諸島からのシーレーンは断ち切られ、生活物資は入らず、日本列島の主要都市は連日の空爆で次つぎと焼野原だ。一億総玉砕が現実か。そう思えるほど国民の命が瀬戸際まで陥ってしまったのだ。

 1945年7月26日に連合国からポツダム宣言(13箇条)がだされた。受託すれば、即時降伏・終戦である。ところが昭和天皇の御前会議で、終戦への覚悟が定まらなかった。
 鈴木貫太郎首相が記者会見で「黙殺」と発言した。
「日本が拒否」とうけとられてしまい翌月には広島・長崎の原爆、ソ連の千島列島の侵攻となった。ちなみに、ドイツはヒットラーの自殺である。そして、第二次世界大戦は終結した。

               * 

 アメリカは民主党が戦争を起こし、共和党が戦争を終わせる。

 ここで注目されるのが、ウクライナのゼレンスキー大統領が、「トランプ氏が重視する『力による平和』はウクライナに真の平和をもたらす。共に(和平を)実行に移すことを期待する」と述べている点である。これはなにを意味するのだろうか。

 トランプ次期大統領がロシア・プーチン大統領から「今後とも核は使わない」と言質をとれれば、ウクライナ国民の恐怖心の一端をはらうことになる。それで状況がうごく。つまり、ロシアがアメリカに核兵器を使用しないと約束すれば、核のパワーバランスがはたらく。ロシヤはもはや約束を破れない。もし破れば、米露の核戦争となってしまう。
「ロシアの核の脅しには断固として屈しない」と貫いてきたゼレンスキー大統領としては、ウクライナ国民の生命・財産を守る一翼がこれで明確に確保できたことになる。だから、いくつか提示される和平案には段階的に歩み寄りができるだろう。
 
 ケネディ元大統領の講演「平和のための戦略」のなかの一節として、こういう。
「たがいに寛容な心をもち、実現可能な平和に目をむける。関係者全員の利益にかなう、具体的な行動と、有効な合意の段階的な積み重ねによる平和です」
 争いを公平に解決する手段が平和である、とケネディはいう。

           *  

 イスラエル・ガザの戦争は紀元前の旧約聖書が起因だから、自然崇拝(神・仏・太陽・富士山・キリスト行事)型の日本人には予測がつかない。
                          (了)

 

トランプ氏の次期大統領で、琉球王国(沖縄問題)の再熱か。まさに「歴史は眠らない」

 穂高健一著「歴史は眠らない」の出版と時同じくして、トランプ氏が次期アメリカ大統領に決まった。
 返り咲いたトランプ政権の再来で、この先はなにが起きるかわからない。世界じゅうが戦々恐々とし、トランプ氏の言動が最大の関心事になっている。

 アメリカ大統領の歴代の特徴として「正義」が大好きだ。戦争にしろ、平和にしろ、この正義という大義が大統領の言動の前面にでてくる。
 トランプ氏から、「琉球国の復古問題は未解決だ」と150年来の問題をゆり起こす、発言が飛びだすかもしれない、と私はおもった。そうなれば、まさに「歴史は眠らない」となる。

琉球王国.jpg 
  写真(ネットより)=琉球王国のシンボル「守礼門」

・ 18代米大統領グラントは明治初期に琉球国問題で調停の労をとった。

・ フランクリン・ルーズベルトは太平洋戦争の参入から沖縄戦へ導いた。

・ マッカーサー元帥は戦中・戦後の日本に大きくかかわった。

・ 第37代ニクソンは沖縄返還協定で、有事の核兵器持ち込みの密約をしていた。

・ 次期大統領トランプは、なにが予測できるだろうか。
 
              *  

 ある日、突如として、トランプ政権から、国際条約の「ウィーン条約五十一条」による琉球国の独立をいいだす。明治政府による「琉球処分」は国際法違反である。この条約は150年経とうとも、時効がないのだ。
「琉球人による琉球国の復興、そして琉球政府をつくる」
 そんな歴史問題を持ちだされると、日本政府や国民は予測しておらず、慌てふためく。これでは「危険」な状態である。

 危機と危険は違う。
「危険」とはなにも考えず、たとえば日本政府は自分の都合よく考えて、日米の防衛協力関係からして「沖縄から米軍が手をひく。絶対にありえない」と盲目的に信じて、まったく備えがない。それが「危険」な楽観論である。

 トランプ大統領が、アメリカ国力最優先で、海外駐留コストの大幅削減から、沖縄米軍基地を撤兵する。「政治の世界に絶対はない」という予測はないのだ。
 近いところでは1992年にフィリピンが米軍との地域協定を破棄し、米軍が全面撤退した。その事例すらもある。

               *   

「琉球国は独立させて、琉球の将来は琉球人みずから決めるべきだ」
 三期目のない剛腕なトランプ大統領が「正義で名をのこす」と日本に強烈に迫ってくることも予測もできる。

 おおむね歴代アメリカ大統領のブレーンは、世界じゅうの各国の盲点や強さを研究する。今回は、トランプ氏の側近が、日本研究者から、明治維新政府がまだ未熟なころ独立国・琉球を軍事圧力で日本が強奪し、沖縄県に組み入れている。この「琉球処分」は国際慣習法の違反であり、時効がないから、現代でも明治までさかのぼり、解消できる。その問題をとりあげて大統領に進言する。
 そしてトランプ大統領の「正義の発言」になることも予測できる。

 かたや、日本の政治家や官僚は、学生時代に「琉球処分」という用語しか習っていないし、琉球問題の本質がわかっていない。ただ慌てふためくだけである。
   
 危険に対して「危機」とはなにか。それは過去のできごとから歴史を学び、今後(未来)において想定されるいかなる変化にも対応も能力を備えることである。ここでいう危機とは、琉球問題の真の歴史をしっかり学ぶことである。
 
ペリー琉球.jpg この琉球問題の原点は、1854年にペリー提督が琉球王朝の首里城(イラスト)で、「琉米修好条約」を締結し、アメリカの議会でそれを批准した。琉球国を国家承認したのである。他に、フランスも、オランダも、琉球国を独立国として承認したのだ。

 三カ国が琉球を「国家承認」しているのに、明治維新後の未熟な政府が、米仏蘭との話し合いもせず、「琉球処分」という軍事威圧で、国際慣習法に違反して奪いとったことである。
 この琉球処分が日米中(清)関係で国際問題になり、日清戦争、日中戦争、太平洋戦争、ポツダム宣言まで、直接・間接にずっと尾を引いてきた。
 
 18代米大統領グラントが、清国を訪問したおり、李鴻章(りこうしょう)に要請されて日清間の調停に乗りだした。まずグラント元大統領は日本側の明治天皇・伊藤博文・井上馨と面談したうえで、1880年には琉球諸島の二分割案を提案した。

ーー沖縄本島周辺は日本として、宮古列島、八重山列島は清に渡す。その代償として中国内で欧米なみの通商権を得る。(分島・増約案)。
 
 日本と清国の間で、この分割案が合意に達した。翌1881年には、日清の代表者が石垣島で調印するまでに至った。
 ところが清国の国内からは、グラントの分割ではなく、「日本からの琉球国の完全復興」という世論が盛りあがった。
 調停寸前で、日清間であらためて琉球国の独立問題が協議された。決裂する。歴史がすすみ日清戦争の火種のひとつになってしまった。

 日清戦争で勝利した日本は、伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章による下関条約が結ばれた。日本は台湾を植民地にし、遼東半島を割拠し、さらに厖大な戦争賠償金を得だ。
 しかしながら、清国の李鴻章は琉球国問題にたいして妥協せず、下関条約にこの問題は組み込まれず、未解決のままの状態となった。
 
 ここらの歴史は、現代の日本国民は知らないのだから、
「明治天皇がいちどは宮古列島、八重山列島を清国に渡すと承諾した」
 えっ、それは教わっていないぞ。おどろきだというだろう。現政府や関係者が隠しても、歴史的事実は消えないのだ。

              * 

 ところで、アメリカ合衆国と中国は歴史的にはとても仲が良いのだ。ほとんどの日本人にはその認識が欠如している。

 日清戦争のあと「三国干渉」が起こった。それを契機にして欧州列強および日本が広大な中国領を割拠する競争に狂乱した。アメリカはそれをしなかった。

 日露戦争のあとから日米の仲が悪くなり、やがて日中戦争が勃発した。中国軍が貧弱で日本軍の拡大が目覚ましかった。中国は南京が陥落したあと首都を重慶に移した。日本軍は夜間の空爆のみで、陸上軍がさし向けられなかった。
 アメリカのルーズベルトは軍事力のない中国政府に加担し、武器、航空機、弾薬を次づきと支援しつづけた。さらに有能な軍事指導者を送り込み、近代的な軍隊組織づくりが為された。
 こうなると、短期決戦のつもりだった日本は五年におよんでも、日中戦争の決着がつけられず見通しも及ばず、中国と米軍と両面で戦う太平洋戦争に突入した。

カイロ会談.jpeg 太平洋戦争で日本劣勢となると、ルーズベルト大統領の提唱でカイロ会談が開催された。(写真の左から 蒋介石、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相)。三国において、「琉球王朝」の日本の国家強奪は国際法違反である、と共通認識を確認した。

 アメリカ・ルーズベルトは「歴史の不正を糺(ただ)す」という正義感から、日本から武力をもって琉球を切り離す、と中国(蒋介石)に約束した。そのうえで、沖縄戦へと動いた。太平洋・陸海空軍の殆んど55万人の米将兵という、ぼう大な戦力を沖縄へむけたのだ。

 連合国はポツダム宣言(13箇条(その一つがカイロ宣言を含む=沖縄は日本領でない)を降伏条件として日本に突きつけた。
 日本は沖縄を手放すという条件を承知で、ポツダム宣言を受諾した。1945年9月2日に軍艦ミズリー号で、降伏に調印した。ここにおいて琉球(沖縄県)が完全に日本国領土ではなくなった。
 沖縄・首里に琉球政府ができた。日本の施政権は及ばないし、日本憲法の影響を受けにない。「琉球政府が独り立ちできるまで、アメリカが沖縄を統治する」と琉球(沖縄)に星条旗が掲げられたのだ。

 アメリカは、敗戦国の日本はいっとき国際連盟の常任理事国であったが国際連合には加盟させず、中国を戦勝国として国連の常任理事国に推薦したのだ。
 
             *
 
 共産主義を嫌う米国は冷戦下にあっても、ニクソン大統領が、日本の頭越しに米中国交回復を成した。
 こうして長い歴史をみても、米中は相性が良く、仲が良いのだ。

 トランプ次期政権が米中の経済問題の障壁を取りのぞけば、政治的には米中の蜜月時代に突入するかもしれない。「昨日の敵が今日の友」となる。そして、トランプ氏が日中の障害となってきた「琉球処分」を解消することがアジアの安定につながる、と主張する。
 
「アメリカ政府が佐藤栄作元首相との間で、琉球政府の立ち合いもなく、1972(昭和47年)に沖縄を日本に渡したのは合法性がない。当時のアメリカ政府の判断はまちがっていた。琉球国にもどすのが国際法に沿うものだ」
 トランプ大統領ならば、大胆に、自国の過去の歴史修正も厭(いと)わないかもしれない。21世紀の琉球新政府は、基地経済から脱却し、欧米およびアジア各地から優良企業を各諸島に誘致し、みずから国家運営するべきだ。その方が豊かになれる。
 600年も戦争なく自由貿易港だった歴史ある琉球国ならば、こんごの自国防衛においても、琉球人の判断によればよい。それがむしろアジアの平和になる、とトランプ氏ならば主張してくるだろう。

 私たちは学校教育で、正しい琉球処分の知識を教わっていない。ここはいちど危機管理から「歴史は眠らない」を読まれた方がよいとおもう。

【関連情報】
 
 題名「歴史は眠らない」(左クリックでアマゾンに飛びます)

著者:穂高健一

出版社: 未知谷(みちたに)

定価 : 2500円 + 税

社会不安・闇バイトの強盗は、西郷隆盛の御用盗に類似する。拙著「歴史は眠らない」の「幕末のプロパガンダ」より

 首都圏には「闇バイト」による暴力的な住居侵入による金品の強奪事件が多発している。ここ連日の報道が社会不安を高めている。
 2年前に逮捕された広域強盗「ルフィ」という犯人たちとはちがうようだ。新たな犯人グループだろう。こんな凶悪な事件が、この先も底なしに起こるのだろうか。

 日本はアメリカのように銃社会ではない。深夜にバールやハンマーで侵入する凶悪な犯人に対し、わが身は無抵抗である。もとより治安で拳銃をもてる職業といえば、警察(および自衛隊)のみだ。
 だから事件が起きないと、警官やパトカーは駆けつけてくれない。(とはいっても、私たちは拳銃社会をのぞんでいないけれど)

                *

 11月10日発売の穂高健一著「歴史は眠らない」(出版社:未知谷)のなかに、中編歴史小説「幕末のプロパガンダ」が組み込まれています。薩摩御用盗(さつまごようとう)が物語の中心に座っています。
 この薩摩御用盗とは、かわら版屋がつけた呼称である。

 幕末の江戸に、闇バイトよりも凶悪な強盗事件が起きたのである。300人から500人のグループがそれぞれに徒党を組み、江戸および近郊の民間の家に押し込み、鋭い日本刀を家人に突きつけて金品を脅し盗る。抵抗すれば、容赦なく殺す。帰りまぎわには婦女子を強姦する。

 かれらはあざ笑って堀川にうかべた小船で、櫓をこぎ、三田(現在・港区)の薩摩屋敷に逃げこんでいる。奪った金品で武器を買うか、かれらの遊興費であった。
西郷隆盛.jpg 

             *  

 現代の歴史家の多くは薩長史観である。西郷隆盛といえば英雄扱いで、社会の混乱をおこした江戸騒擾(そうじょう)は倒幕のための必然だという。これはおかしい。古今東西、古来から現代まで、無辜(むこ)の一般市民をねらわないのが、あるべき道徳・倫理だ。
 
 イギリス市民革命、フランス革命、アメリカ市民(南北)戦争、いずれも市民のための国家(国民主権)をつくる革命であり、その過程では暴動もおきている。
 それに比べると、西郷隆盛は徳川政権を島津政権に変えようとした私欲だった。かれら犯罪集団は、武器をもった武士階級は危ういので狙わず、日本橋かいわいなどの無抵抗な一般市民の商人たちを襲っているのだ。 

 西郷を英雄視する学者は、「慶喜が大政奉還を成したから、西郷はすぐさま騒擾の中止命令を手紙で送った、と擁護(ようご)する。これは詭弁(きべん)である。
 数百人の暴徒が、一度や二度の手紙でとまるはずがない。そんな騒擾を仕掛けること自体が、非人間性・非道徳性が問われるのだ。

              *

「幕末のプロパガンダ」では、江戸騒擾の詳細を展開しているが、ここで「薩摩御用盗」の史実をすこしさかのぼってみよう。
 
 慶応三年十月十四日に、十五代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返還した。時おなじくして、京都にいた西郷隆盛が江戸騒擾(そうじょう)を企てて、藩士の益満(ますみつ)休之助、伊牟田(いむた)尚平を江戸・三田の薩摩屋敷に送り込んだ。

 伊牟田は、万延元年(1860年)12月に、アメリカ公使館員の有能な青年通訳ヘンリー・ヒュースケンを暗殺した。西郷は殺人犯と知りながら江戸騒擾の主謀者として送り込んだのである。
 
 凶暴な伊牟田と益満があつめたのは、水戸天狗党の流れ者、攘夷思想の脱藩人、無法者、入れ墨男、凶状持ち、ならず者たちである。かれらはまるで暴徒のように二か月半にわたり、連日、首都圏で押込み強盗をくりかえした。

 現代の闇バイトグループが3-4人だとすれば、10倍の強盗団グループがあらゆるところに出没し、凶悪な強盗をくりかえす。その社会不安は想像を絶する。

 当時の徳川幕府は世界一の治安の良さであった。それゆえに、江戸の治安を守る南北奉行所の与力、同心はほんのわずか少人数で、ふだん「岡っ引き」らに市中を見回りを任せているていどだ。取締りが後手、後手にまわった。薩摩御用盗は、番屋(現代の交番)にまで銃弾を撃ち込んだ。

 あげくの果てには、伊牟田尚平が裏で手をまわし篤姫(薩摩出身の将軍のもと正室)のお抱え女中に、江戸城二の丸を放火させたのだ。二の丸は全焼となった。

 薩摩御用盗のこれみよがしのやりたい放題に、小栗上野介忠順(ただまさ)など重臣たちは激怒した。フランス式の幕府陸軍が三田の薩摩屋敷を焼き討ちした。
9dk2.jpg「責任者の慶喜が、こんな大騒動の江戸にいなくてどうする。政権は返上したのだ。大坂城などもはや必要ない。城を爆破して慶喜をつれもどせ」
 小栗忠順が、陸軍の知恵者の浅野氏祐(うじすけ)を大阪にむけた。かれが大坂城に入った日の夜に、慶喜は東帰する。そして数日後、大目付の妻木頼矩(つまきよりのり)が薩長の兵士を大坂城に招き入れておいて、火薬庫を大爆破させたのだ。

 徳川宗家の慶喜が、江戸の危機管理の必要性から江戸に呼び戻されて帰ってきた。

 薩長のプロパガンダで「慶喜は逃げた」といい、西軍の大名を薩長がわに引き込む情報操作であった。それを仕掛けたのが大久保利通である。

 現代ではいずれの歴史書も、「幕末のプロパガンダ」から解放されず、うのみにして信じているのだ。

 【最後に、あなたに質問です】
 あなたが元将軍・慶喜の立場ならば、鳥羽伏見の小規模な戦場の決着がつくまで、勝ち負けに拘泥し、現地に踏みとどまりますか。
 私たちは災害列島の日本に住んでいます。だからこそ、瞬時に起きた危機の管理はとても重要です。慶喜のシュミレーション(疑似体験)しなから、私ならば、どうすると考えてみる。それ自体が『過去から学び、将来を考える』歴史思考です。


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歴史は眠らない 表紙カバー.JPG

九十二年の空白
     ぺリ―来航の目的は学術調査だった?!
     瀬戸内の島の中学校を舞台に
     歴史を探求する教育実習の男女二人......

幕末のプロパガンダ
     大政奉還の直後、徳川慶喜の東帰
     倒幕側は慶喜が江戸に逃げ帰った
     逆賊だと汚名を喧伝した

俺にも、こんな青春があったのだ
     江田島の帝国海軍兵学校を卒業
     第一次世界大戦でマルタ島へ
     日英同盟で参戦した青年将校の物語

歴史は眠らない
     太平洋戦争の史跡巡りに
     沖縄へ発った歴史講座の一行
     琉球・沖縄の歴史を知るうちに
     国際法違反の奪略の意外な事実......

歴史は眠らない 裏カバー.JPG

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