A020-小説家

かつしか区民大学「写真と文章で伝える、私のかつしか」で野外実習

 表題の講義は昨年11月13日(金)にスタートした。講師を受け持ち、4回目となった。これまでは「柴又学び交流館」の室内で、金曜日の夜の座学だった。
 1月17日(日)は晴天で風は弱く、真冬にすれば、天候に恵まれた。同日は10時~17時まで、葛飾・柴又かいわいで野外活動を行った。

 一級河川・江戸川の土手にはランニングやサイクリングを楽しむ人出が多かった。
此岸の河川敷グランドでは、いくつもの少年野球チームが練習する。対岸には緑豊かな市川市の丘陵が横の帯状に広がる。同市の円い独特の給水塔が童話に出てくる帽子のように見える。上流、下流の鉄橋ではともに電車が行きかう。都会の喧騒とした町並みから開放された、視野の広い快い光景だった。

 午前中は写真の撮り方で、構図を中心とした実技を行う。
「一枚の写真から、説明がなくても、『葛飾』の風景だとわからせてください」 と受講生たちに課した。

 下流の駅舎には「新柴又駅」の表示がある。土手のポールには「海からの距離」、河川敷備品倉庫には「葛飾区施設」と記されている。少年野球のユニフォーム「葛飾」を指し、構図のなかに取り込むようにとアドバイスした。
受講生が一団となって、熱心にシャツターを切る。


 寅さん記念館、山本亭、矢切の渡しなど、葛飾・柴又を代表するスポットに足を運んだ。写真の「キャプション、タイトル」を考えながら撮影し、メモも取るように、と指導する。

 昼食は帝釈天の参道の店で、とそちらに出向いた。
「すごい人出だ。寅さんブームの再来だ」
 受講生からは、おどろきの声があがった。

 初詣客の賑わいで、帝釈天の参道は通行もままならない。とても料理屋に近づけない。ここで店に入っては時間を浪費してしまう。
 受講生のだれもが地元・柴又を知る。混雑した参道を迂回し、駅横の路地に入った。ここでも昼食の店を探す観光客が流れ込んでいた。飲み屋が昼食として店を開いていた。席が人数分取れただけでも、ラッキーとという気分にさせられた。それぞれが海鮮丼などを頼む」

 午後1時半から一時間は川甚の天宮一輝社長のインタビューだ。インタビューアーは受講生。社長から冒頭に、同店の歴史についての説明があった。
 江戸時代の荷の運搬の主力は水路だった。銚子から利根川、江戸川の水路を通って東京湾に荷が運ばれていた。柴又には桟橋があり、船宿が発達していた。 川甚はその一つで創業1790年で、220年の伝統ある。

 尾崎士郎「人生劇場」の青春編のモデルにもなっている。
 昭和38~39年の江戸川河川の大改修から、川辺から現在の場所に移設してきた。地震を想定し、鉄筋コンクリートの構造にしたという。

「この商売は一日一日が勝負です。雪が降って交通機関がストップすれば、お客さんは来れませんから」
 一日の積み重ね、という真剣勝負が伝わってきた。

 ユニークな話が随所に出てきた。天宮甚平衛門、という名前が2代おきに引き継がれてきた。一輝社長は本来ならば甚平衛門だが、そのサイクルが止まったと明かす。

「私の父親は慶応卒で、GHQで通訳をやっていました。英語が好きだったけれど、この商売を継ぎました。父は一度も私の前で、商売の愚痴や泣き言をいいませんでした。だから、私はすんなり、30代で、この仕事に入れました。もし私の親が子どもの前で常日頃から、儲からない、先がない商売だ、と暗い話題を聞かせていたら、私はこの店を継ぎたくなかったでしょう」
 世間には、後継ぎ問題で頭を悩ます人は多い。天宮社長の話は教示的で、傾聴に値すると思った。

 2時半から1時間は、帝釈天の境内や参道で、受講生たちによる取材実習だ。参拝者に質問が向けられた。柴又の印象、柴又は何度目ですか、どこからきましたか、今後の柴又に期待するもの、という内容が向けられた。
「今年は寅年だから、寅さんの柴又にきました」
 そう答えたカップルがいた。なるほど、と思った。


 夕映えの情景を楽しみながら、「柴又学び交流館」にもどってきた。次回の講座までに、この日の取材活動をまとめて提出する。それらの説明をおこなった。

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