人物の名づけは難しい? (下)= 現代かわら版
カルチャーセンター「小説講座」で、折々に、登場人物の読み方が判らない作品に出合う。ルビをふってくれると、それなりに人物像が描けるが、「純紀」、「海月」、「凛々魅」になると、『なんて読むんだろうな』とそちらばかりに気がとられて、人物の造形が薄らいでしまう。
講師の立場だと、途中で投げ出さないが……、そこらが解っていない受講者もいる。
名まえに凝る時間があるのなら、もっとテーマにこだわってよ。そう言いたくなる。「騎士」(きし)と読み込んで添削し、教室で受講生と向き合うと、「ナイト」だという。
ペンネームが読めないひともいる。プロ作家になって、作者名が難しいと不利になる。そう思うのだが、当人がこだわって名づけたのだから、あまり余計なことは言わない。
大人のペンネームは自責だけれど、親が出産後につける出生の名まえとなると、読みづらくて、その将来は如何なものか、と思う。
昭和時代には、繁華街のキャバレーやパーの女性の名だな、そんな名刺をもらったな、という記憶がよみがえる。このごろはその手の名まえがずいぶん多い。当て字がやたら目立つ。
横文字を日本語にあてたりしている。「愛」(ラブ)となると、誰もが「あいちゃん」と読んでしまう。
あなたのお子さんの名前は? と問うて、「すばる」、「ありす」、「たける」、「あいら」と返ってくると、とうてい漢字がすぐに浮かばないし、書けもしない。無理して、ここまで名前を凝る必要があるのかな。小学校の先生は大変だろうな、と気の毒に思う。
「柊」が書けるようになるのは、中学生くらいだろうか。それを「のえる」と他人に読ませるとなると、至難の業だ。
親が、わが子を「あーちゃん」と読んでいるから、どんな字ですか、訊くと、「あとむ」だという。もはや漢字まで訊いても、小説では使えない。
現代をかわら版的に風刺すれば、名前がすんなり読めると、「個人情報保護の時代」に見合っていない。人物名まで伏せ字にする時代だ。
これら難解な名まえブームは、この子らが大人になるまでか。なに事にも反動がある。わが子には読みやすい名まえをつける時が到来するだろう。
路上で、「あいらちゃん、こっちよ」と呼ぶから、ふり返ると、ペット犬だったりする。人間にもおなじ名まえがあったな、と妙な感慨を覚える。
動物には戸籍登録はないし、どんな難解な名前でも、ご自由に……、と思ってしまう。
名まえには、「真知子」、「裕次郎」など、つねに時代を反映した流行がある。かつて寺の住職や漢学者や知識人に命名してもらうブームがあった。難解な名前が多かった。
気取って名づけられた子ども、親も迷惑なはなしだ。頼んだ手前、「先生、もっとやさしい名まえにしてくれますか」と親は拒絶もできず、そのまま出生届けになってしまう。
ちなみに、私の妻は「倭香」である。電話で、相手にどう伝えるべきか、ひと苦労である。「人偏に、右は……」という。あるいは「倭寇という字に……」、「わこうって、どんな字だったけ?」、と問い返される。「ところで、どう読むの?」 ひらがなにすれば、義経の愛妾とおなじである。
さすがに、いまだ犬にはこの名前を聞いたことがない。