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「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(上)

 元気で、朗らかな、気さくな人柄は多くの人に好かれる。それが人間のつながり(連鎖)と拡大になっていく。プロ・アナウンサーの堀江慶子さんはじつに明るく、それを感じさせる。まさに、人柄と人徳だろう。

 慶子さんは国立音楽大学ピアノ専攻を卒業した後、テレビ局のアナウンサーとなった。
 人間は明るくても、落ち込んだりするものだ。明るい慶子さんの場合はどうなのだろうか。いきなり、失敗談を語ってもらおとしたけれど、

「わたし楽観主義なんです。みなさんが失敗だと思うことでも、『ああいい経験した』と思ってしまうのです。失敗という意識が薄いのです」
 彼女の辞書には、後悔、くよくよ、失意、落胆はないようだ。

「取材中に、むかしの私を知るひとに出会っても、変わらないわね、慶子ちゃんは。明るいね、とよく言われます」
 彼女にはつねに笑顔がある。

 テレビ朝日『築地ホット情報』、テレビ東京『株式ニュース』を担当した。千代田区広報番組『わが町千代田』、さらには日本フィルハーモニー交響楽団『ファミリーコンサート』などの司会を経て、現在フリーアナウンサーとなっている。

「こちらは足立区役所です。午後5時になりました、外で遊んでいるお子さん達はおうちに帰りましょう」 都民にはおなじみの有線放送だ。足立区の放送は慶子さんなのだ。

「この声のおかげで、足立区の住民とのつながりがいっそう深くなりました。子供ころ、お世話になった商店街や地域の皆さんが、あら、慶子さんの声だったの、と感銘してくれます」
  彼女にはよい宣伝塔(放送)になっているようだ。なにしろ、毎日、一回は区内のどこかで聞くのだから。無意識に、たとえ聞き流したにせよ、どこかに慶子さんだと、ごく自然に入っているはずだ。

 「子どもの頃」どんな性格の女子だったのか、慶子さんに語ってもらった。九州出身の両親のもと足立区・梅島で育った。3姉妹の長女だった。

「元気いっぱいの子供でした」
 慶子さんは迷いなくそう言い切った。

 幼稚園時代に木琴を担当した。それで音楽好きとなり、慶子さんはピアノを習い始めた。ちなみに父親は警察官だった。
「わが家に冷蔵庫やテレビを買う前に、テープレコーダー、ピアノを買ってくれました。それほど両親も音楽好きで、わたしがピアノを弾いていると、ご機嫌でした」

 慶子さんはピアノ、次女はピアノとエレクトーン、三女はバイオリンと、三姉妹はみな楽器を習っていた。音楽一家だった。

「ともかく、世話好きの性格でした。教室のオルガンを弾いてクラスメイトの歌の伴奏をしたり、小、中学校では生徒会役員に選ばれました」
 文化祭では司会を担当した。
「まさか、自分がプロアナウンサーになるとは、夢にも思っていなかったです」
 白鴎高校では、合唱のとき歌の伴奏をしていた。大人になったら、音楽の先生になるんだと、かたくなに決めて、それを目標としていた。 

 国立音大に入っても、ピアノ講師を目指して、子ども達にピアノを教えていた。

 大学の就職掲示板をみていると、アナウンサー募集が出ていた。
「わたしの今までやってきたことが、生かせるのではないか。子ども番組や音楽番組のアナウンサーをやってみたい」
 その想いが突如として募ったのだ。

 テレビ局に国立音大出の先輩はいないだろうか。学生課に問い合わせたうえで、テレビ局に電話を入れて先輩に会いに行き、アドバイスを受けた、と経緯を語ってくれた。

「いざという時は積極的になります。そのお陰で、合格したのかな、と思います」
 入社後に、人事課の方から『下町育ちの元気さがよかった』とほめて下さった、と慶子さんはつけ加えていた。

 テレビ朝日「築地ホット情報」やテレビ東京「株式ニュース」を担当が長く続いた。その頃、足立区役所の方から夕焼け放送のアナウンスをしてほしいと頼まれた。
 それを受けて、最初に録音したのが、今から23年ほど前だった。

 地元紙『足立読売』が、夕焼け放送のアナウンサーとして慶子さんを取り上げた。その記事を読んだ足立吹奏楽団」のメンバーから、足立区に音大出身のアナウンサーがいるなら、司会を頼みたい、と話が舞い込んできた。
 
それは『足立区成人の日の集い』の演奏にかぎった司会役だった。慶子さんは国立音大出だから、演奏会の司会は楽しいだろう、と引き受けた。

 
「せっかくなら、成人式の全体の司会をして欲しい」
 成人式の関係者から、話がさらに拡がった。
「じつは式典とアトラクションの間に、新成人が外に出てしまう人が多い。最後まで会場にいてもらえるよう、頑張って欲しいのです」
 と主催者から要請された。
「頑張るぞ」
 慶子さんはそこで張り切った。

 それから20年も経つ。今年(2014)も、「成人の日の集い」の司会を担当している。成人式の催しは毎年違う。同吹奏楽団との縁もその後に及び。その司会も平成6 年1 月のポップスコンサートより、連続42回目(21年間)担当している。
 双方とも、ロングランのお付き合いとなっている。

 慶子さんの話を伺うほどに、明るい人柄の人物はひとたび縁ができると、長く結びつくものだと思う。笑顔と明るい性格は人間関係を円満なものにする。歳月とか、回数とかが、まさに実証している。



いまはJ:COM足立のアナウンサーとして 生放送「デイリー足立」の「けいこの街なび」という中継リポータ―をしている。女子プロレスの皆さんと撮った写真を提供してもらった。
 慶子さんの明るい表情を如実に写し撮っている。

 フットワークが良い。慶子さんはすぐに現場に出むいていく。
「話すのが楽しい。ともかく、わたしに見合った職業です」
 堀江さんはいまや足立区内において最も人気のプロアナウンサーである。


                                   写真提供:堀江慶子さん

心臓手術4回の80歳でエベレスト登頂。攻めの健康法で成功した

 2016年8月11日には、祝日「山の日」としてカレンダーにのってくる。山にどう向かい合うべきか。
 80歳でエベレストを登る冒険家もいれば、那須の山道の腐葉土を歩きながらふわふわ感を楽しむ山歩きもある。山と動植物の保護の視点から、後世への影響を考える研究者もいる。あるいは断崖絶壁を登る若手クライマーもいる。

 山には数々の楽しみ方がある。山から学ぶこともあるし、一方で後世を考える機会にもなる。

 栃木県の主催によるシンポジウム『ふるさととちぎの山の魅力・山の恵み~「山の日」を考えよう~』が、5月27日(火)に、栃木県総合文化センターで開催された。第1部はパネルディスカッション、第2部は『最高齢エベレスト登頂への道のり』と題した、三浦雄一郎さんの講演が行われた。
 
 福田富一栃木県知事は冒頭のあいさつで、「地元出身の船村徹さん(作曲家)から、「山の日」の提案がなされました。そして、祝日になりました。これからはいっそう山に魂を吹き込み、育て、守り、次世代に引き継ぎましょう」と述べた。


 第1部はパネルディスカッションで、コーディネータは磯野剛太さん(全国「山の日」制定協議会事務局長)である。
「山の魅力は登山やハイキングだけではありません。海に対する恵みを生みだすところです。祝日を機会に、山としっかり向かい合ってほしい」
 と制定後のありようについて語り、パネリストに引き継いだ。

 ・ 萩原浩司さん(山と渓谷社・編集長)は、NHK百名山の編さんに携わる。
「奥日光はコンパクトで美しい配置になっています。山岳、中禅寺湖、戦場ヶ原など天が創造した傑作です」
 と栃木県の山の魅力を語った。

 ・ 谷本丈夫さん(宇都宮大学名誉教授)は、森の生い立ちからの研究に取り組む。最近は特に注目する事柄として、
「酸性雨の被害で、日光の杉並木が衰退しています。鹿と餌の関係で、尾瀬ヶ原などの貴重な高山植物が荒らされています」
 と山が抱える問題点を取り上げた。

 ・ 安間佐千さん(あんま さち、プロフリークライマー・写真左)は、宇都宮生まれの大学生。フリークライマーの世界チャンピオンである。
 2012年、2013年と連続してワールド杯の総合優勝をなしている。フリークライマーの何が面白いのか、と自問して聞かせてから、
「岩場は世界中にある。アイスクライミング、アルペンクライミングと、いろいなスタイルがあります。岩の形状はみな違うし、晴ればかりか、雨風もあります。自然のなかで、人間がギリギリに登れるか否か、そんな山もあります。私は世界の魅力ある岩を登たい」
 とみずから限界に挑戦していく意欲を語った。

 ・ 本間裕子さん(那須平成の森インタープリター)は東京生まれの東京育ちで、小笠原の母島で都レンジャーとして森の保護活動をしてきた。その実績で、那須に移り住む。
「那須に訪ねてきた人たちに、山をゆっくり時間をかけて山と森を観察してもらっています。樹皮のザラザラ感や樹木の温度。腐葉土のふわふわ感など、自然そのものを感じることができるのです。拾ってきた葉っぱを並べてみると、木々が生きてきた歴史の違いが解ります」
 とインタープリターの役割について説明する。 

 
 第2部の講演で、三浦雄一郎さんは70歳、75歳、80歳と3度もエベレスト登頂を成し遂げた。
「80歳で登頂した後、下山では体力を使い果たし、死神の甘い声が聞こえてきました」
 それは人間の限界だったと語る。

 講演では、エベレスト登山そのものよりも、日々の鍛錬を主として語った。登山は登りで体脂肪を燃やし、下りで糖を燃やす。と同時に、心肺機能を高める。こうした医学的な予備知識を聴衆に与えてから、三浦さんは60歳代で、体脂肪40、体重90キロもあり、そのうえ狭心症で心臓がすぐドキドキする、メタボの体だったと前置した。

 ここは体質改善をかねてエベレストを登ろうと目標を定めた。不整脈で4度も心臓手術をしているし、膝の半月板がすり減って1ミリもないし、これまた痛い。そのうえ、スキーで骨折もしている。

 こんな状態で、家族にエベレスト登山など話すと、反対されるに決まっているから、黙っていた。そこで、足腰を鍛えるために、『攻めの健康づくり』に励んだという。それはいかなるものか。
「足首に1キロの錘(おもり)をつけて、ザックを背負い、町なかを歩きました。食生活も改善し、早寝早起きに徹しました」
 そうすることで、体を改善し、鍛えることができた。膝の痛みが少しずつ取れてきて、半月板が4ミリになった。富士登山にも出向いたことから、骨の骨密度が20歳代になりました、と話す。

 エベレスト登山の成功の秘訣は、高度順応(高山病の予防)のために、ベースキャンプまで、若い登山家人よりも2倍の日数をかけて歩いた。それが良かったので、標高8500メートルまで元気よくつけた。ここでは登山の常識をくつがえし、「ウニの缶詰、鮭、手巻き寿司、お茶会もやりました」と面白く、食べ物にも凝ったと話す。
 この先は冒頭の死神がささやくほど、体力と脚力を使い果たすのだけれど。

 三浦さんのふだんの足腰をつくる攻めの健康法は、山好きな聴衆が多い中で、それぞれに体質改善、体力向上のやる気、あるいは何らかのヒントをもたらしたと思われる。

ここしか生きていく道はない=クラッシック歌手・川島由美(下)

 川島由美さんは正統派のクラッシック歌手である。活動の範囲は広く、昭和音楽大学の非常勤講師、東京都ヘブンアーティストの活動も積極的である。ソプラノ弾き語りスタイルで、上野公園、都営地下鉄(新宿西口駅)などにおいて日本の童謡、唱歌、世界の名曲を広める演奏活動をおこなう。

 「円盤投げと歌唱でつかう深部の筋肉は同じです」
 そう語ってくれた川島さんは、身体の軸の使い方などの指導をふくめた、ボイストレーニング講座の活動もおこなっている。

 石井武則さんは3年前から、川島さんから、町田教室でボイストレーニングで声の出し方を学びはじめた。最初の1時間は、胸、横隔膜、腹部の体操である。あとの1時間は歌の発声となる。
「声の出し方がわかりやすく、川島さんは上手に説明してくれます。知っている体験をすべて出してくれます。出し惜しみがない。それが魅力です。だから、生徒数が増えています」
 石井さんは彼女の誠意と情熱に感動し、「川島由美後援会」を立ち上げた。後援会の事務局長である。夫婦でコンサートには出むく。


 川島さんは5月20日に和光大学ポプリホール鶴川(町田市)で開催された『川島由美・CD「四季のうた」発売記念コンサート』では、童謡、歌謡曲、ミュージカル、オペラアリアまで、2時間21曲を歌った。
「すごい体力です。歌手が連続21曲など、ふつうはできません。歌う表情が豊かで、聴く人の心に届くソプラノシンガーです」
 石井さんは体力の賞賛のみならず、彼女の幅広い音域とレパートリーも讃える。秋葉原駅コンサートで聞いた直後だけに、それは納得できた。

 同駅に出むいていた『母よ』の作曲家の石黒さんは、川島さんについて、「母の力強さを明るいイメージで歌ってくれます。たとえ80歳、90歳の老齢になっても、その方が母を思い出すと、それは若い日の母親です。それを歌で表現してくれています」と話す。


 CD『母よ/この街で』が発売されている。このなかの「この街で」は、新井満さん(日本ペンクラブ常務理事)の作曲だ。
 日本ペンクラブは毎年3月3日に、「平和の日」を全国各地の持ち回りで開催している。(大江健三郎さんが提案し、国際ペン・本部ロンドンが3月3日に「平和の日」と決めてから、約25年間余りにわたりイベントを行っている)

 2005年の日本ペンクラブ主催「平和の日・松山の集い」の開催前日に、関係者が市役所に市長を表敬訪問した。「21世紀に残したいことば」で松山市長賞を受賞した「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい」が新井さんの目にとまった。この言葉に感動した新井さんが、即興で作曲した。翌日の1000人以上の大ホールで披露した。それが全国に広がったものだ。

 新井さんが日本ペンクラブのフォーラムなどで、折々に歌う曲だ。川島さんの「この街で」は、新井さん同様に感動をうまく歌唱していると思う。


 CDは 『四季のうた』(ダニーボーイ、アメイジンググレイス、津軽のふるさと、百万本のバラほか)などがある。それらは聴く人の感動を誘う。

 彼女のCDはすべて「手作りCD」である。世界の愛唱歌や名曲、明治から昭和までの叙情歌を選曲する。そして、演奏家や音響のプロの友人の力を借りて、デザインや入稿、選曲から、音の選定まですべて自分で手がけている。

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円盤投げの選手から、華麗なる音楽家への道=川島由美(中)

 東京都ヘブンアーティストたちは都営地下鉄の駅構内などでも、演奏活動をする。川島由美さんには演奏者の立場から、第1回「駅ライブ・イン・秋葉原」(主催はJR東日本)は従来(地下鉄駅)と比べて、どうですかと聞いてみた。

「地下鉄駅などでは、ふだんピアノ(ポータブル)を運んできたり、演奏者兼スタッフです。会場はコンコースですから、演奏でお客さんを集めるほどに、かえって乗降客の流れに邪魔になっていないかと、そちらも気になってしまいます。きょうの秋葉原はスタッフがしっかりついてくださり、聴く方の整理をしてくださり、良いスピーカーを使っているし、歌と演奏に集中できました」
 と明るく語ってくれた。
 
 コンサート会場のお客さんはチケットを買ってくるから、どんな曲、ジャンルでも、予備知識があり、じっくり聞いてくれる。駅の場合は、行き交うお客さんの足を止めないと聴いてくれない。その点の選曲について、川島さんに聞いてみた。

「テンポの速い曲でないと、お客さんは立ち去ってしまう、という焦燥感にかり立てられます。しかし、ゆったりした『月の沙漠(さばく)』などは不思議に、集まってくれるのです」
 聴く人は心をクリアし、気持ちを真っ白にしてから、歌に聞き入る。だから、足を止めて集中してくれるのです、と川島さんは解説してくれた。

 たしかに、『アメイジンググレイス』、『翼をください』、『ダニーボーイ』、『花は咲く』など、いずれも郷愁に満ちた曲であった。駅構内で立ち止まった聴き入るひとたちの顔を見ていると、心に邪念がなくなり(童心に戻る)、耳を傾けている表情だった。
「わたしが歌い、その歌が聴く人のものになるのです」
 そう語った川島さんは、30分間の持ち時間内で、最大限に郷愁を提供していた。

 母親の川島温子(はるこ)さんが、よき応援団として観客のなかにいた。どんな娘さんですか、と訊いてみた。
「努力家で、興味津々で、体力があります」
 音楽家の体力とはなにですか。
 高校時代の由美は円盤投げ、槍投げ、砲丸投げの選手だった。記録も持っていますと話す。砲丸投げとソプラノ歌手とはイメージと合わない。
 人生にどんな転機があったのか。

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第1回ステーションライブ・秋葉原で、川島由美が懐かしの曲を歌う(上)

 5月24日、JR秋葉原駅構内の2階コンコースで、生演奏の音楽が流れていた。利用客が足を止めて演奏に聴き入る光景があった。それは第1回「駅ライブ・イン・秋葉原」(Station Live in Akihabara)で、主催はJR東日本だった。
 主催者側の説明によると、JR秋葉原駅の生演奏は初めての試みであり、今後は月1回ほど開催したいと話す。東京都内でも乗降客の多いターミナル駅で、こうしたライブは東京駅に続くものだという。

 過去の日本国有鉄道時代を知る人たちにとって、4月、5月はじつに憂鬱(ゆううつ)だった。賃上げ闘争にからむ順法闘争で、乗客に迷惑をかけっ放し。通勤・通学の時間帯の満員の車内で、乗客は定刻通りに走らない電車にイライラし、ストレスがたまる一方だった。

 民営化した以降のJRには、乗客を大切にする考え方が浸透し、私鉄・地下鉄との競争激化から、より高いサービス向上をめざす。従前は駅構内の人の流れをいかにスムーズに流すか、そこに趣きがおかれていた。、現在は快適にも駅を利用してもらう発想から、構内でイベントがあちらこちらで行われている。
『駅ライブ・イン・秋葉原』のメインテーマは「心躍る時間をあなたに」である。足を止めて愉しんでも乗らう。まさに隔世の感がある。

 第1回は12時から17時まで、全4ステージを行う。各30分毎だった。

 STAGE1 『Dot & Line』(ドット アンド ライブ) NHKラジオなどに採用されているオリジナル曲

 STAGE2 『川島由美』(ソプラノ歌手) 弾き語りスタイルで、ピアノを弾きながら世界の名曲を歌う

 STAGE3 『TOMA』(トマ・苫米地義久) 自然派サックス奏者で「人がやさしく元気になる」ソロ演奏

 STAGE4 『沙羅璃』(しゃらり) 津軽三味線とバイオリンの和洋の楽器によるコラボレーション

 ステージの演奏者たちはすべて『東京都ヘブンアーティスト』(東京都の審査会に合格したアーティストやパフォーマンス・芸人たち)である。

 司会の田中杏奈さんは、「曲がはじまると、年齢や男女を問わず、多くの人が集まってくれました。聴き入る皆さんが心から楽しんでいるのが、伝わってきました」と話してくれた。

 STAGE2のソプラノ歌手の川島由美さんから、話を聞くことができた。曲目としては、『あの素晴らしい愛をもう一度』、『 琵琶湖就航の歌』、『四季の歌』、『みかんに花咲く丘』とつづく。なじみのある曲ばかり。駅構内のお客さんは、親しみをもって聴くことができたようだ。

 川島さんには演奏者の立場から、感想を聞くと、
「秋葉原駅のコンコースが広く、足を止めてくださった聴衆が多くて、気持よく、弾いて歌えました。心がかるく演奏できました」
 と心境を語ってくれた。
 音楽人生まで語ってもらうと、川島さんの意外な面が発見できた。

                         【つづく】

 

国民の祝日「山の日」が、えっ、こんなにも早く成立=平和を願う議員

 全国「山の日」制定議会(谷垣禎一会長)の通常総会が、2014年5月28日(火)に、衆議院憲政記念館で行われた。法人、個人も合わせた148人の会員(穂高も一員)の過半数以上(委任状も含めて)をもって開催された。

 同総会の冒頭において、「こんげつ23日に、「山の日を制定する」法案が参議院を通過し、可決成立しました。こんなにも早くに制定されるとは思わなかった」と、谷垣同会長はニコニコ顔だった。
 多くの法案は数多くの根回しを要し、「長年の念願だった」と涙と笑顔で語るのが常だ。
 祝日「山の日」は、148人の推進者たち全員があ然としたり、驚きの声を上げたりしているのだ。これまでは、推進の輪が一部報道で紹介されるくらいだった。
 2年後の2016年8月11日から施行される。これも単純な理由で、来年だと、カレンダー屋さんの印刷が間に合わないからだ。
 
 かえりみると、作曲家の船村徹さん(栃木県出身)が、2008年に新聞紙上で「山の日」を国民の祝日にしょうと提唱したことからはじまる。
 2010年、山岳5団体が活動をはじめた。2013年11月11日に、「山の日」制定議会が発足した。並行して、超党派「山の日」制定議員連盟(衛藤征士郎会長・衆議院副議長)ができた。

 祝日は6月がよいか、8月がよいか。山の日が成立するならば、どちらでもいいが、「海の日」のように流動的な日でなく、固定しよう。
 そんな意見や趣旨が固まりつつあった。まずは全国に広く賛同を呼び掛ける。県や市町村など地域ごとに山の日を作ってもらう。こうした地味な努力がはじまったばかりだった。

「市町村から、国の法律を作る手順だと、時間がかかりすぎる。国の法律を作るのは政治家だ」
 超党派で法案を提出しようと、衛藤征士郎会長が最短距離を推し進めた。

 それから約半年後に、あっという間に、衆議院、参議院を通過し、祝日「山の日」が制定されたのだ。この間には、小渕優子議員が8月12日は日航巣鷹山の大惨事と重なり合うから違和感がある、と懸念を示したので、同月11日に修正されたくらいである。

「こんなにも早くと制定されるとは、だれも思っていなかった」
 それが関係者の偽らざる喜びで、口々にそう語った。

 そのひとつの例として、今年(2014)5日27日、栃木県総合文化センター(宇都宮市)に1600人を集めた、『山の日を作ろう! シンポジュウム』が予定された。開催日には同法案がすでに成立していたのだ。関係者には予想外で、会場のパネル、配布資料、背景のスクリーンは「つくろう」のままだった。(別途に紹介)



『山の日』制定議員連盟の衛藤征士郎会長(写真・手前)と日本山岳会の森 武昭会長(写真・奥、24代会長)らが打ち合わせる(2014年5月28日、衆議院憲政会館)


同法案の成立は、国会議員の努力に負うところが大である。同議員連盟の事務局長である、務台(むたい)俊介衆議院議員が、
「山の日は、国民がこぞって、山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日です。日本人は心優しい民族である、とウォール・ストリート・ジャーナルにも紹介されました。日本人は、海の日、緑の日、さらに山の日、と自然を大切にする祝日をもちました。日本人は素晴らしいと、海外メディアが評価してくれています」
 と挨拶された。
 近隣諸国の中においては、反日の日、南京虐殺の日などと、政治色や軍事色が強い提案が出されている。方向性がまるで違う。

 単に祝日が一つ増えるだけではない。日本を代表する衆参議員の大多数が賛成し、スピード採決で、法案を成立させた。この意義は大きい。そこに政治家たちの良心をみることができる。
「祝日法」の第一条を紹介したい。
『自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、または記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける』

 自由と平和と、美しい風習、より豊かな生活。日本人はみんな戦争のない国を願っているのに、政治家たちはときに危なかし方向に進んでいる、とみられがちだ。

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1000万人の安全登山を考える=祝日『山の日』にむけた「勉強会」

 山登りは緑と川と聳(そび)える峰が楽しめる。魅力あるスポーツだ。国土の大半が山だけに、初級から上級まで、その人に見合った山は日本中あらゆるところに存在する。
 一方で、登山は命の危険と隣り合わせである。事故は初心者だけではない。ベテラン登山者でも毎年、遭難事故を起こしている。それを回避するには、初心者もベテランもリアルに山を認識することが大切である。

「山の日」制定協議会は総会の都度、登山知識、山の知識を学ぶ「勉強会」を行っている。国会で「山の日」が制定された直後の、5月28日には、同会が衆議院憲政会館で行われた。

 勉強会のメインが「山の安全」「山の恵み」であり、広く一般の人にも知りえてほしい内容を包括している。

 角谷道弘さん(日本山岳ガイド協会理事)が、題目『山と自然 最新の登山装備と安全』について講演した。
 登山に大切なものは4つある。
  ①準備
  ②体力
  ③登山技術
  ④経験
 登山中の事故で最も多いのが「道迷い」、「転倒、転落・滑落」、「疲労」である。

 道に迷うと、現在地の掌握が難しくなる。迷った時は、位置が分かるところまで引き返すことである。低山は仕事道、枝道も縦横にあり、高山よりも迷いやすいから注意が必要です、と話す。
 地図とコンパスの熟知が大切である。最近はGPSの活用が広がってきた。石井スポーツ勤務の角谷氏によると、5-10万円だという。腕時計の高度時計も必需品の一つ。2万円前後である。
 角谷さんの説明によると、最近は精度が上がり、1時間に登っている標高差なども表示されている高度計があるという。

 転落や滑落は人体に大きなダメージを与える。足腰を鍛え、つまずかない体力を維持することだ。靴ひもをしっかり結び、足が靴の中でぐらつかない。これらの心がけが転落予防の一つにもなる、と話す。

 疲労は、熱中症と低体温症を引き起こす。夏の高温、多湿環境の下で長時間行動すると熱中症が起こりやすい。水分補給を怠ると、体温調整が利かなくなる。

 低体温症は、風雨雪の長時間行動で、身体の深部まで温度が下がってしまい、寒気を覚え、小刻みに体が震えてくる。寒気の段階で、温かいものを飲み、温かい衣類に着替えることが大切である。

 近年、ゴアテックの防寒、雨具が発達してきた。軽くて丈夫な素材である。ただ、下着に濡れないものを着ていないと、雨風にさらされると、低体温症などに襲われる危険性がある。


 阿部守一(あべしゅういち)長野県知事が出席し、自然の宝庫である同県の取り組みについて語った。
 長野県は森林面積が日本で第3位である。3000メートル級の山岳が15座あり、全国で第1位。県民の共通の財産として「山に感謝し、山を守り、育て、活かす」目的で、県独自の『信州 山の日』をつくり、7月第4週日曜日とする。

「山の魅力を発信する一方で、登山の安全対策にも力を入れていきます」と同知事は述べた。

「体力の低下を認識しない中高年者の遭難が多いのです。それに、山の怖さを知らない初心者が増加しています」
 力量を超えた入山者がいるので、遭難防止対策として、山の難易度をつけたグレーディングを行う、と語った。

 グレーディングとはなにか。誰もが登山をする前に山選びをする。その指標となるものだ。
 初心者からベテランまで、「あなたの体力と技術で、どの山が登れるか」、それをより具体的な山岳名でわからしめる情報提供である。

 同県の山岳は地形上の特徴から、5段階の難易度をつける。体力は10段階にする。
 この組み合わせで、初級、中級、上級者Ⅰ、上級者Ⅱの技量に見合った山岳名が示されるのである。グレーディングは初めて山に入る登山者にも、山岳名を教えてくれる。

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社交ダンスは心身を磨く(中)=80歳で優雅な踊り

 阿出川好一さん(81)歳が橘ダンススクールにやってきた。姿勢が良い。身長が高く、手足が長い。格好いい感じだ。
 1955(昭和30)年に早稲田大学・商学部を卒業し、メーカーで経理畑を歩んできた。退職後の生き方として、保護司の活動と、ダンスを習いはじめた。いまやダンス歴は20年に及ぶ。

 橘ダンススクールに通いはじめて約6年間である。自宅から同教室まで40-45分かかる。これまで、幾つかダンス教室の門をたたいたようだ。
「プロにも、ピンからキリまであります。中高年齢者に対しては中途半端な指導する人がいる。それでは困る」と前置きしたうえで、
「橘さんは元全日本チャンピオンで、雲の上の人です。しかし、技術は出し惜しみしない。初心者でも丁寧に教えてくれます。橘さんは本当のテクニックを教えてくれる。ダンスは楽しいし、やりがいと生きがいになっています」
 と阿出川さんは話す。

「阿出川さんは探究心が強い。ダンス用語に対しても質問される。素朴だけれど、大事なところがあるのです。私自身がはっとさせられたりします」
 橘弘子さんは話す。
 技術的な面は如何ですか。
「阿出川さんは年齢から見たら、ダンスのテクニックがすごい。リズム感は良いです。頭脳が明晰です。新しいことは大変だけれど、コツコツ努力される。あきらめない精神があります。ステップは時にあれっ、と思う、間違いはままありますけど、まだ伸びますよ。できないと悔しがる」、その熱意と向上心があるかぎり、大丈夫です、と言い切った。

  人間は誰もがいつか年齢的な限界に突き当たる。阿出川さんは何歳までダンスをやられますか。
「教室の客種として、私は自分の存在を考えています。老人がダンス教室にトボトボやってくれば、迷惑になります。悪貨は良貨を駆逐する。変な客が一人でもいると、全体の質を下げてします。そこらが見極めだと考えています。それまでは精一杯やりたい」
 ダンスに対する熱意が、若さの秘訣になっているのだろう。

 長野在住の娘の好美さんが、父親のレッスンを見に来ていた。感想を聞いてみた。

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社交ダンスは心身を磨く(上)= 元全日本チャンピオンが語る

 ノーベル賞の授賞式パーティーでは、盛装した男女が社交ダンスを踊る。年配者でも、流れるようにリズムに乗り、踊っている。じつに輝いて見える。メイク、ドレス、優雅な非日常の世界がある。日本人の憧憬の一つだろう。
 
 ダンスは健康に良い。流れる音楽で、からだが応じて足腰、リズムを取る。相手(パートナー)がいるから、身体を使う、気を使う、頭を使う。若さを維持できる。

 わが国ではしだいに人口の高年齢化がすすむ。単なる長生きだけではつまらない。欧米のように、社交ダンスを愉しみ、ダンディーな若さを保つ。そうした生き方の心がけも必要だろう。

 81歳になった阿出川好一(あでがわ よしかず)さんが、元全日本チャンピオンの夫婦が経営・指導する橘ダンススクール(東京・駒込)で学んでいると聞いた。5月12日、同スクールに取材に出むいた。阿川さんは午後2時から30分間のレッスンだったので、先立つこと橘弘子さんから話を聞いた。

 指導者の橘正幸さん(61)歳と妻の弘子さんは、プロ競技選手として、「1999年・全日本オープン選手権」で優勝した華やかな経歴がある。現在は夫婦して同公認審査員である。

「わたし東京下町・葛飾立石に生まれ育った。看護婦でした」
 弘子さんは聖路加看護大学の在学中に、友達に誘われて同校「ダンス部」に軽い気持ちで入会した。スポーツ部員として活動したが、学生競技会では、記録を残すほどの成績はなかった。
 彼女は病院勤めの看護師になっても、ダンスを習っていた。夜勤を終えてダンス教室に通っても苦ではなかったというから、根は好きだったのだろう。

 その教室で、あるときプロの橘正幸さんの練習相手に選ばれた。「無料で学べる、ラッキー」と思い、彼女は練習に一段と熱が入った。一方で、好きで進んだ看護師を続けるか、ダンスを選ぶべきか。将来はどちらに行こうかと迷いはじめた。親との対立もあったようだ。

 結果として、夫・正幸さん=ダンスを選んだ。つまり、プロ競技選手(ダンス教師)となったのだ。それは甘くない、いばらの道だった。57キロの体重が2年後には46キロにも落ち込む。漸次、成績を重ねながら、夫婦はイギリスにも留学し、やがて全日本チャンピオンとなった。

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第78回 元気100エッセイ教室=おしゃべりとエッセイ

 エッセイの源泉はすべて体験と経験である。
 人生の部分的な復元でもある。日常会話のおしゃべりもおなじ。自然発生的に、頭に浮かんだ事柄を口にすれば、おしゃべりである。
 おしゃべりは話す相手によって内容を微妙に取り換えられる。直前の事柄から遠い過去の出来事などに及ぶ。話しの組み立て方、話し方など、脈絡などはさして評価されない。曖昧な表現でも通じてしまう。

 多くのおしゃべりは、相手を見て、必要な事柄だけを口にすればよい。事実を伝えてから、「私」はどう考えたか、どう感じたか。相手の顔色とか反応とかを見ながら、感情のおもむくままに話しても、多くは成立する。
 相手がそれを嫌えば、適宜、話題を切り上げれば、すんでしまう。

 それをいざエッセイで書こうと身構えても、文章にはなかなかできない。
 素材があるのに書けない。芸術的、文学的なものは要求されていないにもかかわらず、過剰になりすぎ、途中でとん挫が多くなる。
 経験や体験が豊富な人でも、エッセイは量産できない。おしゃべりは冗漫さが許容されるが、活字では嫌われるからだ。事実に向かい合って簡素に書いてしまえば、メモとか、日記とか、作文とかになってしまう。エッセイはたんなる備忘録ではない。

「さらさらと書いた」
 多くの場合は嘘が多い。事実だとしても、口にしない方が賢明だ。文章の上手下手は別としても、エッセイの形式で書くとなると、文章を念入りに仕上げる、その工程は必然であるからだ。

『おしゃべりで話しを感動させても、文章にすると駄作になる』

 エッセイには創作力が必要である。
   ・テーマ(主題)
   ・構成(ストーリー)
   ・表現力の工夫。
 これが作品を読ませる力の三大要素だろう。

 作者はひとつくらい感動作品をまぐれでも書ける。だが、連続となると、書く経験と、文章力や表現力が必要だ。おしゃべりのくり返しは嫌われるが、エッセイ作品は時間をおいて、くり返し見直しすれば、磨かれてくる。それが筆力になる。