A020-小説家

共通一次試験「国語」、作者が解けず腹が立った=黒井千次(作家)

 『青い工場』は現代国語の試験問題に、よく取り上げられるんですよ。大学入試・共通一次の現代国語の設問でも、その作品が取り上げられました。私は(新聞に出た)入試問題を解いてみたんです。
 『これを書いた時の作者の気持で、一番正しいと思うものを選べ』
 黒井さんは、おかしな設問だな、という気持ちで向い合った。手を離れた作品だし、あまり覚えていない。マークシートだから、おおかた解答3-4から選択する方式だろう。

「一つひとつ答えを読んでみたけれど、どれも、私の気持ちに合致していない。まじめに解答を考えているうちに、私はだんだん腹が立ちましたよ」
 挙句の果てには、答えは違っていた。
「私の作品なのに、私が答えを出せない」
 そう笑いながら話すのは、黒井千次さんだ。

 日本文藝家協会が主催による「文芸トークサロン」が、文藝春秋ビル新館5階で、午後6時から2時間、月一度のペースで開催されている。参加者はいつも20人程度で、大半が熱心な文学愛好者だ。作家の本音がボロボロ出てくるから面白い。

 私は同協会の会員であり、時間が許すかぎりトークサロンに出向いている。
 
 こんかいは24回で、4月18日(金)、トークは著名作家の黒井千次さん(2002年−2007年 同協会理事長)で、題目は『小説家として生きて』だった。
 

 小説は体験+虚構によって成立する。どんな体験だったか。それを知ってもらう必要がある、と前置された黒井さんは、人生の前半で、小説家を目指したころに話を集中させていた。

 1945年の春に、小学校卒業式があり、全員が集まったところで空襲警報が鳴りひびいた。卒業証書を貰わず、逃げた。府立中学の入学試験は、大勢が集まると危険だと言い、書類選考だったと思う。(黒井さんの推測)。
 中学生になったときから、11人が同人誌活動を行った。(いま現在亡くなった人は5人だから、もう一人出ると、生存者の方が少なくなる)。そこが小説家活動一筋のスタートだった。

 学制改革で、府立中学が都立高校になった。だから、入学試験は大学(東大・経済学部)だけだったと語る。
 父親がずーっと役人(最高裁判事)だったから、生産する民間企業に勤めたかった。地方にはいきたくなかった。東京・もしくは近郊の会社を狙った。日産を受験したが、マルクス経済学の学生の身には、近経の設問は難しくて、不合格だった。

 中島飛行機の解体後にできた「富士重工業」に入り、太田工場など勤務した。ベルトコンベアーの前で働く労働者がめずらしく、かれらとの対話(雑談)などが小説の材料になった。5年ほど経つと本社勤務で、マーケットリサーチが主な仕事だったという。
 勤務のかたわら同人誌活動を展開してきた。最初のうち、黒井さんは会社内で小説活動は隠していた。やがて、どこからか知れ渡ってしまった。
「小説とは良い趣味ですね」
 このことばが一番腹立たしかったという。
「趣味で、こんなものが書けるか」
 黒井さんはつよい反発を覚えていた。

 小説は書きたいモチーフや衝動だけで、作品を書けるものではない。「何を書くか」、それを「如何に書くか」と考え、創作していくものだ。それは趣味をはるかに超えたものだ。
 小説家になってからも、小説ひと筋で、余裕がなく、世間でいう趣味らしいものはなかった、と話す。

 20代で『青い工場』を発表して注目される。36歳の時には、『聖産業週間』で芥川賞候補になった。38歳のときに発表した「時間」で、芸術院奨励賞をもらった。この段階で退職した。
 退職してから、食べることが大変で、ルポ、ノンフィクション、なんでもやったという。

「青年時代は何かを言いたかった。言いたい衝動があった。それを小説にしていた。学生時代、かけだしの勤務時代を書いたものが、わりに大学入試問題や、模擬試験に取り上げられるのです。男女の恋心も含めた作品が、毎日新聞の課題作文にもなりました。応募者の9割が女性だったと聞いています」
 
 10代、20代はまだ精神の自己形成のさなかであり、自分をコントロール不能な熱い想いがあった。そこらあたりが注目されて、入試の出題に取り上げられやすいのだろう、と黒井さんは解析する。
 
「連載中に、試験問題に出題されることがありました。これには困りものだと思いました。小説は書き終わってみて、はじめてテーマ(狙い)が明確になるものです。途中だと、筆者はまだ内容を明確に固めておらず、それなのに試験問題の設問されてしまうと、おかしなものだ、と戸惑いすら感じました」

 冒頭の共通一次の国語問題で、黒井さんは回答が違っていた、と息子さんに話したという。返ってきた、ことばが、
「作者の立場で問題を解こうとするから、解けないんだよ。入試だから、設問した試験官がどういう気持で、この作品を取り上げたか、それが回答のポイントだよ」
 そういわれても、自作品が解けなかったことはおかしな話だ、という想いが未だ黒井さんには残っているという。


【関連情報】

 公益法人・日本文藝協会は、作者の著作権管理をおこなっている。媒体、雑誌、入試などで会員の作品を使うときの窓口である。会員作家の健康保険組合をもった職能団体である。

 ちなみに、日本ペンクラブは思想信条の自由を押し出す、作家グループである。「公益法人」になって国に管理されるのを嫌い、一般法人である。

 日本最大の文学協会は両輪で回っている。ともに官公庁の天下りはゼロで、理事手当もゼロ。すべての活動が手弁当である。(事務員は別)。だから、政治・政府批判が平気でできる体質が双方にある。

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