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信州・三郷から上高地に至る=大滝山・蝶ガ岳

 天保時代の信州を背景にした歴史小説を執筆のための取材に入った。7月27(日)、28(月)の2日間、安曇野側から大滝山・蝶ガ岳経由で、上高地に下る登山を行った。


 松本市にある「浅間温泉・山の会」が、飛州街道の約半分を歩く。長野選出の務台(むたい)俊介代議士も登るというので、私も同行させていただいた。

                                撮影:赤羽俊太郎さん(代議士秘書)

 務台さんは超党派「山の日」制定議員連盟の事務局長である(写真・右から2人目)。そして登山中には文化・文政、そして天保時代の信州・歴史的な知識を授けてもらった。

 日本ペンクラブ・広報委員の新津きよみさんから、「務台代議士は、かつて松本深志高校で同じ英語研究会だったのよ」と聞かされていた。その面でも、親しみを覚えた。

                               撮影:赤羽俊太郎さん(代議士秘書)
 

 大滝山荘で一泊した。同山荘の関係者に不幸があり、山小屋の主は下山しており、務台代議士も弔辞を読まれるので、宿泊はなされなかった。

 
 7月27(日)は大半が雨だった。翌朝は雲海が眼下にあるので、ご来光がしっかり拝めた。


 飛州街道の歴史の道を歩く。山頂近くの池塘(ちとう)にはサンショウウオがいる、と聞かされた。確認はできなかったが、水が澄んでいた。

 飛州街道の道は当時と違い、一部が迂回している。昨日は雨が降り、ガマガエルが登山道に出ていた。2日目は朝のうち快晴で、高山植物が眼を楽しませてくれた。

「厚真温泉・山の会」の皆さんは、植物の名前をよく知っている。興味と関心度が違う、と感銘させられた。

 播隆上人が41歳の時、1826(文政9)年に、小倉村の中田又重の案内で、初めて槍ヶ岳を登頂した。
 ウェストン氏(上高地を紹介)が名高いために、槍ヶ岳初登頂と勘違いされている。播隆上人の知名度を上げないと、この誤解は根づいたままになってしまう。

 新田次郎著「槍ヶ岳開山」が世に出たけれど、結婚もしていない播隆上人が、若いころ一揆で妻を殺して出家したと記す。物語は面白くなるが、作家の良心として、これはやってはいけない。

 歴史小説も当然ながら創作が入る。過去のわずかな資料から膨らませるのだから。しかし、史実を極端に折り曲げ、人殺しで人的なイメージを壊す。著名・無名の作家を問わず、許される範囲があるはずだ。新田次郎氏はそれを逸脱している。
 なぜならば、多くの人は「歴史小説だから、史実に近いところで書いている」と信じ込むからだ。

 私は、そんな想いで槍ヶ岳を見つめていた。


 飛州街道を作ったのが、小倉村の中田又重だ。務台代議士の配慮で、その子孫がこんかいの登山に加わってくれた。道々に、新道づくりの説明を受けたり、資料を頂戴したりした。

 6尺(1.8メートル)の新道を延々と作る。それも北アルプスの標高2700メートルを越えたり、稜線伝いにだから、想像を絶する。私財をなげうった中田又重には、どんな信念があったのだろうか。
 歴史小説として、どこまで迫れるだろうか。
 
 中田又重のスケッチ図が残されている。よく似た顔立ちなので、写真を正面から撮らせていただいた。後日、再取材する予定である。

『二十歳の炎』がすごい=論説委員が、書評「著者に聞く」を書く

 中国新聞社は、ことし(2014)1月16日付で、「戊辰戦争と広島藩テーマ」「藩士 髙間省三の死に光」と大きく報じてくれた。
 私はまだ初稿の執筆中だった。
 同記事では、高間省三は福島県・双葉町に眠る。「放射線量が高い一帯は住民帰還が実現しない」町で、私が同町・自性院の墓地で手を合わせる写真を載せている。
 「3・11被災地・福島の墓を訪問」。広島護国神社の藤本宮司、同紙の岩崎論説委員と3人が、町教委の特別な協力でやっと実現したものだ。


 中国新聞社の文化欄で6月27日には、「二十歳の炎」が私の顔写真と、書籍の写真とで紹介された。
 この7月6日には、同紙の岩崎論説委員がみずから筆を執り、『著者に聞く』の欄で「二十歳の炎」の書評を載せてくれた。
 タイトルは「広島・福島 維新から続く縁」である。

 記事を抜粋しておきます。

『幕末維新を語るうえで、まず出てこないのが広島藩。その動きを本格的に負う小説は初めてだろう「封印されてきた歴史に光を当てたつもり。実在した藩士髙間省三に光を当てた。「神機隊」と呼ばれる農民隊を率いて戊辰戦争に加わり、福島県浜通りの戦場で満20歳の命を散らした』

『執筆は苦労続きだった。自宅のある東京から広島に繰り返し足を運んだが「どこにいっても原爆で焼失して資料はないと言われ……」。神機隊の生き残りを含む元藩士がまとめた「藝藩志」に、戦場の描写をはじめ当時の様子が克明に書き残されていたのに助けられた』

『「薩長、薩長土肥で討幕を成し遂げたというのは真実ではない。広島には平和な国を作ろうとした多くの優秀な人材がいた」。維新150年向けて地元で再評価の機運が高まり、埋もれた史料が掘り起こされるのを期待している』

『広島と福島の知られざる縁。主人公が戦死する「浪江の戦い」など小説のクライマックスの舞台は、原発事故から逃れた住民が帰りたいと願う古里に他ならない。「歴史に思いをはせることで福島の今、そして原発とは何かも考えてほしい」』


 論説委員は社説を書くのが主たる仕事。あえて、『二十歳の炎』の書評を書いてくださった。その理由については、岩崎論説委員はこう語った。

「いろんな見方 立場はあるとは思いますが、メディア界からすれば、単なる広島藩のローカルな歴史ではなく、「3・11」「フクシマ」と関係があるということでニュース性が際立つことが考えられます。好むと好まざるにかかわらず、その点をうまく生かせば、輪はさらに広がると思います」
 と『二十歳の炎』の今後に期待してくれている。


 なお、中国新聞の文化欄には「緑地帯」コラムがある。私は8回連載の仕事をいただいた。むろん、テーマは『二十歳の炎』の関連内容である。
 7月下旬あたりには紙上に出るだろう。

『二十歳の炎』がすごい=戊辰戦争・浜通りの戦いは歴史の新発掘だった

「二十の炎」の発売後、私の最も驚きは、福島・浜通りの戦いがこうも知られていなかったのか、また小説にすら書かれていなかったのか、という点です。


「幕末の広島藩の活躍は知らなかった」
 これは十二分に想定していました。しかし、戊辰戦争の浜通りの戦いが、まさかここまで歴史から消されているとは思ってもいませんでした。

 献本した南相馬博物館、相馬市教育委員会などは取材先にも関わらず、大切な資料として保管にしますとか、日本文藝家協会のパーテーで名刺を交わし、くちで「二十歳の炎」で説明したNHKエンタープライズ・ライツアーカイブスセンターの部長が購入してくださり、浜通りの戦いをはじめて知ったとか、メールをくださった。

 その一部を紹介させていただきます。


『早速に新刊を拝読いたしました。長編にふさわしく重厚な内容、今までにない幕末視点が新鮮で、薩長土と広島藩の関係がとても面白く、一気に読み進んでしまいました。
ここまでの物語を構築されるだけの取材力には頭が下がります。

広島藩執政の辻将曹、土佐の後藤象二郎の「動き」が語られるあたりはとても面白く、ああ、こういうことがあったのだ、と歴史の裏で渦巻く「人」の思惑が大乗小乗とりまぜて浮沈するさまが伝わると同時に、幕末史観が変わったように思います。

それらとは極めて対照的に高間省三ら神機隊の面々が純粋そのものといった行動力で突き進むのが爽快でありながら、しかし哀しい物語として胸に沁みました。

福島浜通が官軍と奥羽越列藩同盟との激戦地であったこともご著書によって初めて知りましたが、省三終焉の地が浪江であることは今日的にはとてもセンセーショナルな気がします』

 このように、メディア界の方すらも、「浜通りの戦い」が歴史の発掘として捉えてくださっている。


 他にも宮城・福島の出身者が「会津は知っているけど、浜通りの戦いを知らなかった」とおどろいている。……。知っていたという人に、私はまだ出会っていません。

 その面で、「二十の炎」が芸州広島藩と、浜通りの戦い、と二重の掘り起こしになったようです。髙間省三がだんだん立ち上がっていく、浜通りの戦いが世の中に知れ渡っていくでしょう。


 これまでの幕末史は、歴史作家の作り物の面が多々あります。一方で、敗者で消された歴史もあります。歴史作家はそれを起こすのがしごとです。
「二十歳の炎」が史実・事実による展開から、「戊辰戦争の浜通りが、官軍と奥羽越列藩同盟との最大級の激戦地であった」と歴史教科書が書き換えられる、その役目を担うだろう、と考えます。

『二十歳の炎』がすごい=中国新聞・文化面で紹介

 中国新聞の文化部で、「広島県大崎上島出身の穂高さん「二十歳の炎」と題して、作品を取り上げてくれた。「広島の幕末史 藩士生き生き」と表記されている。

 戊辰戦争で若くして命を落とし、東日本大震災の被災地に現在も眠る旧広島藩士を主人公にした歴史小説「二十歳の炎」が刊行された。~中略~。主人公は高間省三で、藩の学問所の助教を努めた人物だ。倒幕の内乱では、農家の志願兵らで結成した「神機隊」の砲隊長に就き、新政府軍の一翼として、激戦地の東北へ。現在の福島県浜通り地方で、有利な戦いを繰り広げながら、浪江の戦いで銃弾を浴びて絶命した。
 ~中略~。
 小説では、若き省三の姿がリアルに浮かぶ。正論をぶちつけ、戦い方も強気。同じ神機隊員が後年まとめた、藩の記録「藝藩志」が礎になったという。
 こうした文献調査から、広島藩が瀬戸内海の要港・御手洗(現呉市)で長州や薩摩、土佐の志士と密議を交わし、大政奉還に絡むなど、時代の変革に深く食い込んでいた実態をあぶりだしていた。

 全体をまとめたうえ、私が広島や福島第一原発で帰還困難区域の取材してきた過程を紹介している。

 記名記事なので、文化部の林淳一郎さんと電話で語り合った。「二十歳の炎」のなかで、第15章「子供を大事にしてやれ」で取り上げた『戊辰戦争余話』(大熊町史)にふれられていた。

 若い母親が、煮え立った鍋で子供を火傷させてしまった。官軍が来るぞ、山に逃げるぞ、といわれても、若い母親は、泣き叫ぶ子を連れていけば、敵に居場所がわかってしまうと言い、逃げなかった。「官軍は鬼だ。若い女に何するか、解らないべ」と父親が執ように誘うが、彼女は断った。

 翌日、大砲が聞こえた。官軍がやってきた。そして、兵士たちが裏手の井戸で水を飲んでいた。若い母親は仏殿にむかって拝んでいた。兵士の1人がこちらに気づいた。
「おんな、なぜ逃げない」
「この子が火傷したから」
「おまえ偉いな、子どもを看るために残ったのか」
 兵士は仏壇を見て、一向宗か、おれもそうだ、久しぶりだ、拝ましてくれ、と汚れた手を合わせた。
「もう兵隊は行った、心配するな。子供を大事にしてやれ。戦争が終わったら、おれも安芸の国に帰る。では、達者でな」
 と立ち去っていった。
 母親は涙が出て止まらなかった。

 現地で拾った逸話だが、他にはなかったですか、と林淳一郎記者に聞かれた。
 取材をはじめた時から、福島県の人たちは、
「えっ、浜通りでも戦争があったんですか」
 と驚かれたほど、現地の人すら、会津戦争だけだと思っているようです、と説明した。
 でも、『戊辰戦争余話』(大熊町史)のような、エピソードが掘り起こせば、まだあるでしょう。維新150年ですから。

『子供のころ、路傍の石に小便していたら、バカ者、とお爺ちゃんに怒られた。相馬藩と仙台藩の戦死したお侍さんが眠っているんだ。官軍は墓を造れたが、わしらの先祖は路傍の石だったんだぞ』
 老人がそんな記憶をよみがえらせてくれました。紙面の関係で、それは「二十歳の炎」には載せませんでしたけれど、と説明した。

 福島の人たちは、官軍の兵士の墓に、いまだ花を添えてくれたり、3.11で倒壊してひび割れた墓を修理してくれたりしている。これには頭が下がる思いだった、と林記者には語った。

「二十歳の炎は一気に読みました。後半になると、高間省三は死ぬとわかって読んでいるだけに、ページが少なくなっていくのがもったいなかったです」と林さんは話されていた。読み終えて、奥さんにも勧められたという。

 地元・広島の記者すらも、幕末広島藩史について、ここまで広島の活躍の認識はなかったようだ。「二十歳の炎」は既成の歴史作品にとらわれず、広島藩からの史料・資料で書き上げた。それだけに、小説とはいえ次から次へと「新発見」が展開されるので、「これはすごい」と反響が大きいのだろう。
 
 

幕末歴史小説・『二十歳の炎』の反響がすごい=薩長同盟は存在せず

 6月20に発売された、発幕末歴史小説『二十歳の炎』(穂高健一書著・1600+税)が、出版された。同書の帯にはサブタイトルで『芸州藩を知らずして幕末史を語るべからず』とつけた。
「幕末はなんでも薩長」と信じ込んでいた人には、カルチャーショックだったようだ。読んだ人が、ほとんど驚いている。

 「二十歳の炎」は広島藩の視点から幕末を書いた、初めての小説である。(私の知るかぎり)。これまでは、薩長土の視点しか書かれなかった。広島藩が関わったところが、幕末史の空洞だった。
 後世の歴史作家たちが、好き勝手に想像で埋めてきた。

 私は4年半の歳月をかけて、原爆でなくなったと言われていた、広島藩の史実を掘り起こし、より事実に近いところで書いた。「長州なんて、倒幕に役立つ藩ではなかった」とずばり切りこんでいる。

 長州藩は「禁門の変」で京都の町を焼き、朝廷に銃をむけて朝敵となった。その後、京都に入れば、新撰組、会津・桑名の兵士に殺された。長州藩は大政奉還はカヤの外だった。小御所会議の王政復古の大号令で、明治新政府ができた。
 ここで倒幕が成立した。
 朝敵の長州はここまで、いっさい関わっていない。それは自明の理である。


 第二次長州征伐で、幕府軍が長州(藩)に侵略してきた。それをせき止めたのが精一杯である。長州藩は侵略者をただ自藩から追い払っただけである。
「萩藩、下関藩、岩国藩など各藩士の行動はバラバラである。それを一本化して、京都や江戸に戦いを挑んで、德川政権を倒幕できる勢いも、能力もなかった。願いはただ朝敵を外してほしい、という一本でしかなかった」(下関市の龍馬研究者・著名な学芸員)。

 この言葉を聞いた時、山口県の研究者がここまで言い切るのか、とおどろいたものだ。しかし、調べるうちに、それは歴史的事実で、「長州は倒幕になんら寄与していない。後世の作り物だ」と明確になってきた。

 広島はどうなのか。頼山陽は、広島が生み出した日本最大級の思想家である。かれの尊皇思想は日本じゅうに広まり、頼山陽著「日本外史」(にほんがいし)は、維新志士たちの必読書となった。広島発が、倒幕の思想的な重要な背景となったのだ。

 浅野藩主も、家老も、執政も、優秀な心材はみな広島・学問所の出身で、頼山陽の後輩である。皇国思想を学んでいる。「朝廷と幕府と二か所から政策が出てくる国は、いずれ滅びてしまう。徳川家が政権を取っていると、日本は植民地になる、倒幕を目指すべきだ。それが民の為だ。ここで、広島が動かなければ、日本の国はつぶれる」と強い決意と使命感で、藩論が倒幕で統一されたのだ。

 当時はまだまだ德川が怖くて、島津公は公武合体、山口容堂は徳川家を守る、松平春嶽も徳川家擁護。毛利公など「そうせい公」で政権略奪には無関心だった。
 全国を見渡しても、最終的に、藩論統一(藩主みずから倒幕を目指す)を決めたのは広島藩だけである。
 

 名まえを出して悪いけれど、司馬遼太郎の推量などは、執筆中に原爆で広島藩の資料がなかったにしろ、とてつもなくトンチンカンである。
 にせものの船中八策だの、あり得ない薩長同盟だの、龍馬と後藤象二郎が大政奉還を発案したと、主要なところは虚偽で塗りつぶされている。

 慶応2年1月、木戸準一郎が京都・小松藩家老邸で、わずか一度の会合(予備折衝)をおこなった。それ手紙にしたためて、龍馬に送り付けて裏書させた。それは備忘録のメモにすぎない。決して薩長同盟の調印書ではない。藩主レベルの締結にはとても及ばず、効力はない存在だ。

 それなのに、「薩長同盟による倒幕」まで作品を仕立て上げて、独り歩きさせてきた。なにしろ、長州藩は倒幕まで京都に入れなかったのに、なぜ長州藩がかかわったと、でたらめを書けるのか。作家の良心を疑う。
 司馬ファンはそれを歴史の正しい認識だと信じ込んできたのだから、罪づくりだ。


 倒幕の主体は薩芸(さつげい)の連帯だった。薩摩の軍事力は広島の御手洗(大崎下島)における密貿易(イギリス、フランス、オランダ)で、軍艦17隻も外国から買っている。幕府すら9隻だった。「二十歳の炎」では広島藩側の資料から、薩摩が何を輸出して、軍艦や最新鋭の鉄砲が買えたのか、と密貿易の実態を展開している。
 薩摩と広島が政治・経済で、いかに濃厚なつながりだったか。それが倒幕の核になった、と同書で明瞭に展開している。
 薩芸倒幕が、こいに薩長倒幕にすり替えられてしまったのだ。それはなぜか。作家たちは広島藩を知らずして、明治時代の薩長閥の政治家たち=幕末と歴史を見ているからだ。

 大藩・広島は頼山陽、その後輩など、有能な家臣が多くいた。広島・辻将曹(つじしょうそう)が主導し、長州をダシに使って取りまとめた「薩長芸軍事同盟」がある。勘違いしてはいけないのが、それと薩長同盟とは無関係の存在である。

 薩芸(さつげい:薩摩藩と広島藩)が倒幕を推し進めた。慶応3年12月「小御所会議では長州の朝敵を外させる。そのときには京都御所の警備に就かせる。それまで、西宮と尾道に待機せよ」と広島藩は、長州藩2500人の兵を率いる長州藩・家老たちに命じたのだ。

 かれらはその通りにする。これまで幕府と長州の橋渡しをしてきた広島に対して、長州は命令通り、言うなりで従う藩だった。少なくとも、主体ではなかった。

「二十歳の炎」は、このように広島側から数々の史料を掘り出し、「藝藩志」を中心にして幕末史を証拠で構築している本である。

 戊辰戦争といえば、会津戦争だと思っている。それも一つの戦い。だが、福島・浜通りで、平将門の血を引く相馬藩と、東北の雄・仙台伊達藩とが熾烈な戦いを行っている。この「浜通りの戦い」は、全国、ほとんどの人が知らない。
 奥羽越31藩をまとめあげた仙台藩を叩かずして、奥州戦争の決着はなかった。いわき城から仙台青葉城まで長い距離で、なおかつ連日の激戦つづき、官軍を含めた双方の死者は凄まじいものだった。しかし、なぜか歴史から消されている。

 この浜通りの戦いを正面から取り上げた小説は、これまで殆どなかった。どんな激戦だったのか、「二十歳の炎」を読めば、リアルにわかる。

 広島藩の砲隊長・髙間省三は、福島・浪江で死す。満二十歳だった。川合三十郎・橋本素助編「藝藩志」には戦いがくわしく載っている。編纂した川合と橋本は、髙間省三とともに「神機隊」の隊長として参戦している。実体験者の記述だから、一級史料だった。

 会津戦争は、世羅修三の殺害からと一般的に言われているが、これも正確ではなかった。「藝藩志」では、世羅殺害から42日前に、京都・朝廷から、芸藩に「会津追討」「の錦の旗が芸州・神機隊に渡されている、と明記している。会津戦争の歴史書も小説も、広島藩が皆無の取り扱いだっただけに、「二十歳の炎」から新たな戊辰戦争が発見できるはずだ。

 第二次長州征伐~戊辰戦争。この2年間を広島側から知れば、薩長、薩長土肥で討幕を成し遂げたというのは真実でない、と理解できる。戊辰戦争も、相馬・仙台藩らのし烈戦いをなくして、兵糧攻めに徹した会津落城などは語れない。(仙台が落ちるまで待つ。官軍は兵糧攻めに徹し、無益な血を流さず、夜間の会津城の出入りなど自由だった)。

 広島藩がわかれば、これら幕末史の空白と矛盾を埋めてくれる。


 歴史小説作家「ととり礼二」さんが手紙で次のようにコメントしてくれた。

 楽しみにしていましたから、さっそく拝読しました。
「あまりにも片寄った薩長土肥の誇張の陰に隠れ、それまで尽力してきた藩、あるいは人物のことがないがしろにされている日本の歴史」。穂高さんが申されるように、「隠されている真実を掘り起こすことが大切です』。同著はそれをまさに実践されたものにほかなりません。
 綿密な調査と史料の読み込みが十分に行われたうえで、時代背景も巧く描かれています。
 それよりもなによりも、行間から髙間省三の生きざま、息遣いが直接伝わってくるようで、主人公へ思い入れができる。それが最大の強みと思いました。
 綾との恋模様が淡く表現され、作品に花を添えているのも見逃せません。「藝藩志」やその他の資料を読破されたのは、さぞや大変だったであっただろうと、ご推察します。こんな素晴らしい作品が生まれて万々歳です。

戦争か平和か。戊辰戦争で学ぶ。「二十歳の炎」は国会議員の必読書に

 江戸時代260年間は国内外で一度も戦争がない平和国家だった。明治時代になると、10年に一度は海外で戦争する軍事国家になり、日本人の庶民の多くの血をとてつもなく流させた、広島・長崎の原爆まで。
 戊辰戦争とはなにか。戦争と平和とは何か。「二十歳の炎」はそれを問う歴史小説である。

『歴史の真実はとかく隠される。それを掘り起こすのが作家の仕事だ』私は、同書のサイン本には、それを明記することに決めた。

 戊辰戦争は会津戦争ばかりが強調されて、仙台藩と相馬藩が官軍(広島藩など)とし烈なる戦いを行った。その歴史は明治政府から消された。
 広島の浅野家が明後40年代に編纂した膨大な『藝藩志』があった。明治政府は、それが世に出ると、「薩長倒幕」の化けの皮がはがれると、発禁処分にした。

 禁門の変で朝敵になった長州は、京の都に入れなかった。大政奉還も蚊帳の外、小御所会議で新政府ができるまで西宮(大洲藩の陣)と、広島・尾道に待機し、長州は倒幕にまったく関わっていなかった。それが『藝藩志』で如実に書き記されている。
「なんでも薩長」は後世の作家の作りものだ。

 政治家は主義主張は違っても、それは当然だが、真実の歴史認識は持っていただきたい。平和を願わない議員はいないけれど、ミスリードが怖い。
 戊辰戦争は平和か、戦争かの境目だった。わずかな判断の違いから、国家が大きく軍事国家に変わってしまった。歴史から学ぶ。それが国や国民のためになる。

 祝「山の日」推進委員のメンバーの私は、超党派「山の日」制定議員連盟の方と面識がある。アポを取り、厚かましく訪ねることに決めた。

 6月26日(務台俊介代議士・長野第2区)、27日(衛藤征士郎代議士・第64第衆議院副議長)に、千代田区の衆議院第一議員会館を訪ねた。

 それぞれの議員には、「二十歳の炎」の作品趣旨を説明させてもらった。そのうえで、幕末志士たちが頼山陽(広島藩)の「日本外史」を必読書にしたように、国政に関わる皆さんには、「二十歳の炎」をぜひ読んでほしい、とお願いした。(これって陳情かな?)

「私たちの勉強会にきて話してもらおうかな。その前に私が読んでみるよ」(務台俊介代議士)
「広島選出の自民党代議士に読んでもらおう」(衛藤征士郎代議士)

 こうした手ごたえを受けた。

【写真の説明】
 
 務台代議士(写真・左)監修「いま『山の日』制定」と、穂高健一(写真・右)著「二十歳の炎」をエール交換する。

 撮影は政策担当秘書の佐藤帯刀さん、衆議院第一会館、6月24日     

山岳歴史小説の執筆依頼をうける。舞台は天保時代の安曇野(長野県)

 6月24日、務台代議士(同推進委員・事務局長)を衆議院議員会館に訪ねた。務台さんは超党派「山の日」制定議員連盟の事務局長である。
「いま『山の日』制定」の書籍の監修もおこった。(写真)

 この折、2年後の「山の日」(2016年8月11日)にむけた、山岳歴史小説の執筆を依頼された。たんに登山だけでなく、山とかかわりあう人間の群像です、と要望を受けた。背景は、長野県の山と山麓にからむ天保時代である。

「天保の改革」の失敗、「天保の飢饉』による、大勢の餓死者が出たきびしい時代だ。小説としては、そのまま書くと暗さと厳しさが前面に出すぎて、読み手が息苦しくなってしまう。歴史小説だから、極度のひょうきん者など入れて、明るく笑いをとる人物設定などは難しい。

 人間はきびしい中にも、明るさとか愛がある。そこらがポイントになるだろう。
 
 天保時代のころ、僧侶たちの山岳登山が盛んになってくる。槍ガ岳を登った播隆上人の小説だけになると、「山の日」が登山の祝日と誤解を招く。
 山とともに暮らす人々の群像を描く必要がある、と務台さんは語った。地元選出だけに、詳しいので、素材を提供してもらった。
 当時は信州から飛騨に抜けて日本海に出る、「塩の道」の生活山岳道路がつくられた。さらには安曇野には大規模な治水による農地開墾があったという。
 この3つを絡めた歴史小説でいきますと、私はお引き受けをした。

 先々月から、「二十歳の炎」が脱稿し、次なる取材のひとつ阿部正弘(福山藩主・開国の首席老中)の取材に入っていた。ひとつ前の水野忠邦の「天保の改革」時代だから、さして違和感がない。

 私には山岳小説の小説受賞作がいくつかあるので、登山は書ける。有名な播隆上人は過去に著名作家が書いている。それに影響されないように、当座は資料のみを読みこなせば大丈夫だろう。

 山岳道路関係は、信濃大町の飯島善三を子孫を訪ねて調べたことがある。(明治初年に、いまの黒部アルペンルートを開拓した)。その時の知識は残っている。

『水を制する者は国を制する』
 古代から江戸時代まで、各大名は治水には苦労している。新たな治水をするとなると、水の流れ、地形、地質あらゆる条件が付加する。
 題材としては面白そうだが、私は江戸時代の河川工学を学ぶところから始めなければならない。

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幕末歴史小説 穂高健一著『二十歳の炎』が全国で販売を開始しました

 芸州広島藩から書かれた幕末小説は、皆無だった。これまで幕末史は、小説家や歴史家が薩摩藩、長州藩、土佐藩の視点から書かれたものばかり。
 どんな著名な歴史作家でも、広島藩を組みしていない。なぜか。理由はかんたんだ。原爆でお城や武家屋敷などが総べて消滅してしまったからである。

 もう一つある。明治政府の政治家は薩摩出身、長州出身が主体で、広島が目立たないように、と芸州広島藩の浅野家が編纂した『藝藩志』を発禁処分にした。なぜ、発禁か。薩長の恥部を知っているからだ。それを暴露されると、不都合だからだ。

 二つの理由から、広島藩の史料はないのが定説だった。しかし、私は150年前はまだ史実が見つかる。その想いで、約4年半の歳月をかけて取材してきた。
 
 ここに穂高健一著『二十歳の炎』を発刊することができた。
   

            『二十歳の炎』 表紙

 出版社は日新報道で、定価は本体1600円+税。6月24日から全国書店やアマゾンなどネットで販売されている。

 第二次征長(幕長戦争)、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、そして戊辰戦争・浜通りの戦い(相馬藩・仙台藩)へと2年間に絞りこんだ。登場人物はすべて実在である。

 史料がないのは芸州広島藩だけではなかった。戊辰戦争といえば、白虎隊の会津中心に考えてしまう。
 しかし、新政府にとって東北の雄・仙台藩が最大の敵だった。平将門の血を引く相馬藩と2藩が、福島・浜通りを北上してくる官軍と熾烈の戦いを行った。
 
 仙台藩を落とさずして、会津だけ攻めても、新政府の勝利とはならない。この単純な構図が、現代では作家にも歴史家にも理解されていない。ましてや、現地の住人も「ここで戊辰戦争があったのですか」と聞くくらいだ。

 明治政府のトップにすれば、仙台藩や相馬藩の戦いがこれまた目立っては不都合。これまた、歴史事実から消されてきた。

 
 会津城と比べると、浜通りの戦の研究者は少なく、実に薄い資料だった。
 
 それでも、楢葉町、富岡町、双葉町、浪江町、南相馬町、相馬市の各教育委員会の歴史専門員が協力してくださった。
 原発事故で、まだ立ち入り困難区域だった。役場職員だから、一次帰省で、市役所や公民科の資料室から該当資料を運び出してきてくれた。頭が下がる思いだった。 

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「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(下)

 人気アナウンサーの堀江慶子さんの活動を知りたくなった。同行取材となると、こちらも日程を合わせるのが大変だし、おおかた早朝から真夜中と、不規則な時間帯になるだろう。
 それは不可能だ。そこで、慶子さんから、取材中の写真の提供をもとめた。
「テレビカメラに向かっているので、終わった時に皆さんとの記念写真が多いのです」

 『けいこの街なび』はことし(2014年)4月から始まった。まずは、足立区ギャラクシティでクライミングにチャレンジだった。
「この岩場を登る、この体勢から、リポートしました」

 慶子さんは若いね。

「だって、若いもの」
 そんな答えが返ってきそうです。

 「けいこの街なび」は第2、第4木曜日に生中継です。

「ギャラクシティで中継後、ご案内頂いた坂下さん(女性)と、ディレクター、カメラマンの皆さんと記念撮影です。こちらは子どもたちが、落書きができるコーナーですよ」

 慶子さん、あなたがいたずら書きしたのでは?

「ばれたかしら。本番まえに、わたしがスタジオのキャスターのふたりを描きました」

 いたずら書きって、便利なことばですね。上手、下手は問わずですから。


「こちらは、『足立区綾瀬普賢寺バレーボール』の皆さんです。慶子の時間で取材にうかがいました」

 慶子さんのアタックしたところ、運動神経を知りたかったな。

「それはケーブルテレビで見てくださいね」

 再放送はあるのかな? ところで、ママさんバレーに男性がいるの?

「前列の男性は『NOXAH』というバンドの皆さんです。ゲストでいらして歌って下さいました」

 応援歌つきとはすごい。


「みなさんは『AGB467合唱団』の方々です。練習風景の撮影でした」

 国立音大卒のプロアナウンサーだから、最も得意とする分野ですね。

「そうです。もっと質問してください」

 どこにお住まいの方々ですか

「あら、私の音楽力のインタビューの質問じゃないの。♪♪♪足立区綾瀬4丁目、6丁目、7丁目の歌の好きなおじさま、おばさまたちです」

 次に行きましょう。

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「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(中)

 堀江慶子さんは、人前で話すのが大好き人間だ。
「話すのが楽しく、人の話を聞くのも、楽しくて仕方ないんです」
 慶子さんはレポーターとしても、取材相手とたちまち仲良くなる。親しくなる、そんな性格だと話してくれた。

 足立ケーブルテレビとの出会いも面白いんです。父親からふいに、
「おまえにぴったりかもしれないね」
 と局の発足の新聞記事を見せられた。
 当時の慶子さんは、結婚後も、子育てに入っても、テレビ朝日やテレビ東京の番組、さらには千代田区の広報の番組をも担当していた。
「ケーブルテレビって、どんなことするんだろう」
 そのていどにしか思っていなかった。

 1月の成人式で司会をした折り、
「こんど足立区にケーブルテレビが出来るんですよね」
 とかるい話題の一つとして教育長にうかがった。
「堀江さんはとても明るく、元気一杯なので、もしかしたら、あなたに似合う番組があるかもしれないね。興味はありますか?」
 ある日、慶子さんが住むマンションの隣のビルに、ケーブルテレビの看板が出ていたので、びっくりしたという。

「あまりにも偶然なので、神様からやりなさい、と言われた気持ちになりました」
 約2週間後、教育長を介してケーブルテレビの社長室で面談した。同年4月からアナウンサーとして関わることになったのだ。
 ここでフリーのアナウンサーの道に入った。

 かえりみると、テレビ朝日「築地ホット情報」は5年半、テレビ東京「株式ニュース」9年半、千代田区は18年にわたる。この実績はケーブルテレビでも、エネルギッシュに生かされている。こちらもいまや18年が経つ。


 足立区を取材やインタビューで駆け回っていると、沢山の人との新しい出会いがある。とくに驚きの一つがノコギリ音楽だった。

『のこぎりキング下田』(足立区在住)は、世界一のノコギリを使った演奏をおこなう。
「えっ、ノコギリから音が出るんですか」
 慶子さんが下田さんにそう訊いたのが、いまから10年くらい前だった。話すうちに、おなじ梅島小学校の出身だとわかり、感激した。
 その縁から、下田さんのコンサートの司会を行う。

「音楽公演の司会は実に楽しいです。下田さんとは、いまでは家族ぐるみのお付き合いです」
 彼女の交流範囲はさらに広がっていく。


「私の父は警察官でした。退職してから地元綾瀬の警友会に所属し、いろいろな活動をしていました。その縁で、区内警察署の地域安全の集い、警視庁音楽隊の司会などさせていだたいております」
 慶子さんにとって、とくに印象深いのは平成10年7月、101番目の警察署として話題になった竹の塚警察署のイベントだ。その司会役だった、と話す。


 足立区内の魚屋さんを訪ねる。
 かつてテレビ朝日の「築地ホット情報」という番組を担当した時を思い起こしたという。当時は月曜から金曜日まで、太陽が昇る前の、早朝の東京中央区の築地に出向いていた。

 魚屋や魚市場の皆さんから、「大きな声がいいね、元気が出るよ」と褒められたものだ。その時の言葉がいまだに記憶に残る。
「私はアナウンサーに向いているんだ」
 そう自分に言い聞かせて励んでいる。

「慶子さんはちゃきっちゃきの江戸っ子だね。ヌルヌルしたヒラメを素手で触った女子はめずらしい」
 と妙に感心された、そんな記憶もある。

 最近の感動として、
「クリスマスに近い頃です。千住緑町のパン屋さんに取材にうかがいました。店の方が、頭にはトナカイの被り物で、学校帰りの子どもたちを迎えるんです」
 近所の子どもは、パン屋に立ち寄り、「ただいま」と挨拶してから、自宅に帰って行く。『街のお父さん、お母さん』という存在である。

「町全体が家族なんです。それには感激しました」
 アナウンサーとしてレポーターとして、町の人に触れ合うほどに、話すほどに、一般には得難い体験や知識やおどろきがあるのです、と慶子さんはなんども語った。
 
 下町・千住は『奥の細道』で、芭蕉が深川をスタートし、最初に立ち寄った宿場だ。当時の面影はさほど残っていないにせよ、宿場町のおとな・こどもの連帯感は受け継がれてきているのだろう。千住を代表する足立はそういう町場でもある。