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播隆フォーラムin大口「おおぐちにやってきた播隆さん」

 山岳関係の歴史小説の取材をしている。メインテーマは、「山の恩恵」だ。天保時代の信州と飛彈が中心となる。各地の関係者を訪ね歩いている。

 山岳信仰があり、国(藩)境越えの生活道路があり、農業用水による田地の豊潤な実り、川水が海に流れて魚介類の栄養源など、山の恩恵は尽きない。これらを複合的に、小説として人物を登場させながらストーリーを付けて書く予定だ。

 本覚寺(岐阜県・高岡市)、玄向寺(長野県・松本市)には、播隆の自筆の史料がある。双方の住職のご配慮で、現物を見させていただいた。安曇野の務台家には、務台景邦の庄屋日記がある。それには播隆上人が出てくる。
 信州大学のデータ・ベースに『槍ケ嶽略縁起』という木版刷りの史料があった。ここらを使って書きたい。

 播隆はふだん濃尾平野の各地で布教活動をしていたらしい。ここらはまったく取材していないので、11月30日、愛知県・大口町歴史民俗資料館で開催された「播隆上人のフォーラム」に出かけてみた。

 播隆ネットワークの主幹・黒野こうき氏と一心寺の住職・竹中純瑜氏との対談があった。司会は同資料館の学芸員の西松さんだった。
 飛騨と信州にまたがる槍ヶ岳を開山したのは、念仏行者・播隆(ばんりゅう)上人だ。天保五年だった。1968年(昭和43年)には、 新田次郎著の伝記小説『槍ヶ岳開山』が出ている。

「史実からかなり外れている。歴史小説でなく、時代小説だ」と黒野氏から批判があった。


 私は執筆に影響されるので、同書はまったく読んでいない。どこまで史実か、どこがフィクションなのか。批判する側の黒野氏の根拠となる史料はなにか。ここらは解らないままに聞いていた。

 一心寺の住職は前日、インドから帰ってきたばかり。同寺に関わる前は、播隆上人は知らなかったという。現在でも、登山関係者と一部の人しか知られていないようだ。

 翌12月1日は、行者たちが修行の場にしていた伊吹山に行きたかった。だが、大雨で止めた。同月2日は名鉄電車で出むいて、黒野こうき氏の住まいに近い喫茶店で、2時間ほど会った。播隆研究『ネッワーク播隆』1-13号まで読んできたので、私なりの確認事項が多かった。

 黒野氏は、新田次郎の著作にふれて、時代小説と歴史小説の違い、さらに実名の使い方について持論を語っていた。私は一つの意見として拝聴するにとどめた。

「播隆の初登頂が文政年間のいつなのか」。黒野氏はその年月にかなり拘泥していた。私はあまり関心なかった。
 なぜならば、平安時代にはすでに険しい「剣岳」に行者が登っていたからだ(錫杖が見つかった)。
 谷川岳の断崖絶壁の一ノ倉すら、江戸時代には登られている。どの時代にも、軽業師のような天才的な身軽な人物がいるし、チャレンジ精神が果敢な人もいる。だから、播隆以前にも、槍ヶ岳に登っている人がいた可能性は高い。

 いま現在、それを裏付ける史料がないだけかも知れない。現在よりも、さらなる後世で、円空あたりが登っていた史料が発見されるかも? そう思うと、播隆の初登頂の年月は、私にはあまり興味がもてなかった。
 山岳信仰として、播隆上人が「槍ヶ岳講」を作った事実だけでよかった。

 黒野氏から、他には教わることが多くあった。

 今年(2014)の7月初旬から、飛彈・信州の「山の恩恵」の関連取材を行ってきた。顧みると、こと播隆上人となると、推理・推論が多く、やたら一人歩きしていた。手にした出版物を見ても、裏付け史料が明確でない。なにが事実だろう、と首をかしげてしまう面に出くわす。
 
 明治時代の半ばに、弟子たちが書いたという播隆上人の『行状記』がある。「後世に書かれた昔の話は嘘が多い」という格言がある。まさに、それだと思う。

 槍ケ岳で猿や六匹の熊が出てきて播隆を敬服するとか、小倉又十郎なる者が槍ヶ岳を初めその他の山々を残らず支配しているとか、槍ケ岳の描写もやたら大袈裟で、これは実際に見ていない書き手だと明瞭に解るほど、怪しげな内容が多い。
 おおかた娯楽読本として書かれたものだろう。

 播隆上人論では、大なり小なり、『行状記』を採用して書かれている。しかし私は、明治時代以降に書かれたものは、二次加工だろうと思い、『行状記』は史実として採用しないつもりだ。

 史料の数など少なくても、別段、関係ないとおもう。務台景邦の庄屋日記、本覚寺、玄向寺に遺る播隆の自筆からストーリーを付けていく。小説は史料と史料の隙間をストーリーで埋めていくものだから。

 天保5年が槍ヶ岳開山(開闢・かいびゃく)だ。この年には、上高地から焼岳・中尾峠を越えて飛騨側に行く新街道づくりの歴史が動きだす。これまでの通説を覆す、古文書も入手できた。
 小説は盛り上がった処から、書きだす。これは鉄則だ。第1行はどうするか。主人公はだれにするか。最も魅力ある人物は誰だろう。
 いまは頭のなかで、それを常に考えている。

江戸時代の恐怖の拷問を考える=飛彈高山陣屋

 飛彈の山々の広葉樹が紅葉した10月30日、高山に出むいた。目的の一つは飛彈高山陣屋の内部にある「白州」を確認することだった。刑事関係の取調べ場所である。
 現代は証拠主義だ。江戸時代は「自白主義」だった。
「やつが犯人だ」「こやつが怪しい」と思えば、徹底的に問い詰める。拷問をかけても自白を取る。

 江戸時代は、映画やTVで、町奉行が死罪を命じる場面があるが、それはあり得ない作り話である。死罪は老中の決裁が必要だった。町奉行、勘定奉行、寺社奉行、道中奉行、あらゆるところが罪を裁くが、死罪は老中が決めるのだ。あるいは認める。

 当然ながら、老中決裁は2-3年経つことも多かった。この間に、獄中死すれば、塩漬けにして、老中が決裁を待つ。現代では信じられないが、死体を保持しておいて、「獄門」など死罪が決まると、死体を打ち首にしたり、獄門台にさらしたりするのだ。
 
 遠島、死罪(獄門、磔など)、追放、百叩き、おもだった刑罰はそんなものだから、現代でいう刑事罰は死罪か追放か、二者択一に近い。なにしろ禁固刑や懲役刑がないのだから。

 容疑者は奉行所や代官所などの白州で取ら調べられる。
 現代感覚の些細な窃盗(10両くらい)、使い込みでも、死罪だ。奥さんと不倫も獄門だ。関所破り、贋金づくりなど、ともかく罪を認めれば、死罪で命を捨てることになりやすい。

 どんな拷問を受けても、「ハイやりました」と言わなければ、老中決裁で、死罪はまず成立しない。白州が生命の分かれ道だ。

 農民一揆は気の毒だ。農民たちが、不正な年貢の取立てだとか圧政を訴えて、江戸に出て直訴すれば、死罪だ。拷問の末に、獄門・晒し首だ。

 飛彈高山で、大原騒動が起きた。18年に間に渡る。農民一揆だ。大原とは大原彦四郎郡代、そして息子の大原亀五郎郡代(現在で言えば、県知事)が、弾圧を加える。農民は徹底して抵抗運動をする。幕府は武器で鎮圧する。それでも、農民は武力なしで、死を決した直訴で抵抗する。

 強訴、籠訴、越訴、など身分の高い人(江戸の勘定奉行・老中など)に直訴すれば、その場で捕まる。飛騨に送りもどされる。白州の取り調べが待っている。


 白州は尖った小石が敷かれている。茣蓙を敷いて、その上に朝から夕方まで正座させられて尋問を受けるのだ。
「誰の命令で直訴してた。名主の指示か」と問い詰める。応えないと、洗濯板のような拷問台に座らせて重い石を抱かせる。自白すれば、芋づる式に白州に呼び出される。だから、答えない。

「これでも白状しないのか」と、役人は逆さづりしたうえで、鞭で叩く。

「殺すな」と指図する。拷問で死んでしまうと、こんどは役人が老中の許可なしに、死罪にした、と責任を問いつめられるのだ。
 だから、調べる側も調べられる側も、命がかかっているのだ。

  私はこれまで「大原騒動」はまったく知らなかった。子どもの頃から農業に縁遠かったせいか、「農民一揆」には殆ど関心を持たなかった。

 歴史小説の仮題「天保の信州」の取材をしているうちに、飛騨側からも覗いてみようと、脚をむけた。そして、田沼意次時代の飛彈の農民一揆を知った。膨大な金額の搾取が、田沼に流れていたのだ。大原郡代は武力で農民の鎮圧を計りつづけた。しかし、抵抗は止まない。

 本郷村善九郎(前・上宝村)が18歳の命を散らした。若い妻は身ごもっていた。彼は飢餓で苦しむ村人のために、壮絶な人間ドラマを演じていたのだ。

 縁遠く思っていた飛騨の歴史だが、「人間はここまでやるか」と為政者側と農村側に、かれらの死闘の極限と炎をみた。
 かれが拷問に遭った。白州を見に出かけたのだ。

 壮大なドラマは18年後に、新たな展開を生んだ。老中・松平定信邸の門前に張り出した、農民の直訴の訴状が、定信の目にとまったのだ。

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「拾ケ堰」を歩き、十返舎一九を発見する=安曇野ブームの原点③

 小説は取材に裏づけられないと、面白くない。だから、私は書く上で取材人間に徹している。
「取材に行けば、かならず得るものがある。新発見に巡り合える」
 それが私のモットーである。
 無駄かな、と思っても、ささいな情報でも、あえて出かけていく。敷居が高くても、拒否は解っていても、ときには強引にアポを取って押しかけたりもする。

 歴史小説・仮題「天保の信州」を書く上で、安曇野(あずみの)市の大規模な拾ケ堰(じゅうかせき・用水路)の掘削事業は外せない。農民の提案から松本藩を巻き込み、紆余曲折の末に成功させた。結果として、荒れ地の扇状地の豊科が生まれ代わり、安曇野と名を変えるほど、豊かな農耕地になった。と同時に、風土と文化を変えた。

 人間どうしの戦い、人間と自然との闘い。そして、和睦(わぼく)へと運んでいく人間の知恵は、小説で描くに十二分に価値あるものだ。まずは現地を知る必要がある。


 地元新聞が紹介したイベント「拾ケ堰開削と十返舎一九の藤森家滞在」10月25日に参加した。大糸線・島内駅8:40から、旗を持ったツアーだ。これまで登山、観光地で、よく見かける光景が、私にすれば初めてのツアー参加だった。
 参加者は地元の人たちばかりで、東京からの参加は私ひとりだった。
 
 奈良井川(ならいがわ・木曽川)の取水口から、拾ケ堰(じゅうかせき)の用水路が真横に伸びる。総延長15キロのうち、川の取水口から約3キロを歩いた。
 

 本流の奈良井川は木曽の山奥から流れて、この安曇野にとどく。木曽の御嶽山で噴火事故を起こした後だけに、ちょっと複雑な心境だった。奈良井川をのぞき見れば、その水流は豊富だ。勢いが良く、水の音にも強い響きがあった。川底が段さになると、白波が立つ。東京で見る淀んだ穏かな川とはまったく違う。

 イベントの主催者が、堰(用水路)の土地確保など如何に苦労したか、どう成し遂げたか、と道々に語ってくれる。

 1799年(寛政11年)に、 庄屋・中島輪兵衛などが計画した。土地買収、測量、一方で住民の妨害などがあった。絵図面と見積願書を松本藩に差し出すまで、約17年の歳月がかかった。

 やがて藩の許可が下りて着工となると、1816年(文化13年)の雪解けの 2月11日から工事に着手し、3か月で工事を完成させた。(新暦だと1か月遅れ)。投入された人足が5万3000人強で、まさに人力による突貫工事であった。

 
 拾ケ堰は奈良井川の取水口から、総延長15キロへと真横に伸びていく。北アルプスの山奥から平野に縦に流れてくる川にいくつも出合う。
 拾ケ堰はこれらの川と十文字の交差する。
「現代ならば、川底の地下に土管を埋めれば、流れるけれど? 江戸時代はどうしたのだろう」
 参加者は口々に疑問を投げかけていた。

「梓川といちど水を合流させ、あらためて水の取り入れ口を作った。梓川の真下を通るサイホン方式は、大正時代になってからできた」
 案内者はそう説明していた。
「ちがうな」
 私はあえて口にしなかった。

 江戸時代にもサイホン方式があった。私はことし土木史学の専門家(大学助教授、水関連の専務理事)に取材し、その施工知識を持っていた。中島輪兵衛の記録にも明瞭に記録されている。この案内者は古い土木用語を知らないから、見落としているのだ。
「小説のなかで展開すればよいことだ」
 あえて主催者に異論を唱えなかった。

 3キロ歩いた後、信濃教育生涯学習センターで座学となった。成相新田組の大庄屋の藤森家善兵衞が当初、十か堰に乗り気でなかった。奈良井川の周辺を中心として、掘削予定地の約半数の土地を持っていた。それを供出するには抵抗があった。
 各村は水不足がちで困っている。水が不足すれば、稲の育ちが悪く、稲穂が病気になる。凶作の都度、救助米を願い出たり、年貢の猶予を申し出るありさまだった。
「大庄屋の権力は強いのです。十か堰など作らなくても、自分たちはさして困らない」
 他の村々は、長年、指をくわえていた。あるいは隠れて測量をした。

 文化11年8月11日。十返舎一九が安曇野の藤森家にやってきた。一日泊まった。そこから藤森家の流れが前向きに変わった、と解説者の丸山さんが推論を述べていた。
 松本藩が856両、民間でも白沢民右衛門が2000両を寄付する。大事業だ。人気がある戯作者の一九が仲介の労を取った。その解釈は無理だな、と思った。
 しかし、流れは変わったことは事実のようだ。やがて拾ケ関の完成につながった。

 この座学で紹介された「安曇野文学」を2冊買い求めた。帰路のバスで読むと、同NO.29には、十返舎一九「御法花(みのりばな)」が翻刻版として載っていた。
 一九が善光寺参りの途中で、安曇野の満願寺に滞在し、そこで得た逸話を小説化したものだ。読んでみると、奇抜な発想の講談の面白さがあった。
 一九は江戸時代に執筆だけで食べられる人気作家だった。「御法花」の作中から、霊魂やキツネなどの登場を削除して読むと、「人間の業と慾」を巧く捉えている、なるほどな、と感心させられた。


 一九の小説が木版で増刷続きとなるほど、全国に一躍その名を知らしめた。その背景には、江戸中期には寺小屋制度の発達があった。女児も簡単な読み書きができる時代になった。だから、平がなで、女子も読める絵本風で、一九作品は人気を馳せた。
 勧善懲悪とか、野次サン・喜多さんの愉快な物語が爆発的に受けたのだ。

「安曇野文学」の「御法花」を読みながら、こんなにも漢字が使われていたのかな、当時の女子はこれだけ漢字があって読めたのかな、と疑問を持ちながら読み進んでしまった。この疑問が私の脳裏で彷徨していたから、感情移入して楽しめなかった面もある。

 作品の解説で、現代用に漢字に置き換えて読みやすくしている、と説明があった。最初に明記してほしかった。


 同誌のなかで、太田千代子作「山田多賀市『人間寄進』を読む」が目にとまった。安曇野を背景とした、悲惨な物語だと紹介している。読んでみたい気持ちになった。

 同誌27号でも、一九の藤森家の訪問が取り上げられている。一九が訪問した8月11日は2016年8月11日から施行される祝日「山の日」と重なっている。
 これも、奇縁だなと思った。

「中房温泉」で発見。松本藩の隠された歴史=安曇野ブームの原点②

 長野・あずみの市の取材協力者から、地元新聞のイベント情報の小さな記事がFAXで入ってきた。それは『拾ケ堰開削と十返舎一九の藤森家滞在』だった。10月25日(土)8時40分に松本市JR島内駅(大糸線)に集合である。

 「拾ケ堰」(じっかせき)は私の歴史小説の主要素材の一つ。これまで車で何度か拾ケ堰を見ているが、一度は丁寧に歩いてみたいと思っていた。

「前泊で行こう」
 夜に到着してホテル入りでは、勿体ない。そこで、24日(金)の早朝、いきなり自宅を出て新宿に向かった。
 朝9時頃のタイミングで、中房温泉の百瀬(ももせ)社長に、午後の取材を申し込んだ。
「今日のきょうのアポだ、どうかな? もしだめならば、松本市文書館に出むく」
 と択一の気持ちだった。

 百瀬氏は快諾してくれた。

 大糸線の最寄駅から乗った山岳バスは1時間余り。車窓の左右は山が燃えている紅葉の盛りだった。乗客はふたり。贅沢三昧な気持ちになれた。中房温泉に到着しても、標高は1500紅葉が周辺の山肌を染めていた。

 文政4年に、庄屋だった百瀬茂八郎(ももせもはちろう)たち、5軒が中房に温泉宿を作った。松本藩が日本でも有数な「みようばん」の採掘をはじめたのだ。採掘の工夫たちが泊まる宿だった。
「ミョウバンは湯に溶かし、絹糸をほぐすと艶が出るんです。高く売れました」と百瀬氏は教えてくれた。
 絹の着物は贅沢(ぜいたく)品だと言い、江戸幕府はなんども奢侈禁止令(しゃしきんしれい)を出している。江戸時代の三大改革など、奢侈禁止法につきる。

 幕府から武士を含めて、贅沢(奢侈・しゃし)禁止を出す。倹約を推奨・強制する。その法令が出されても、その時だけで、直ぐになし崩しになる。人間は禁止されるほどに、贅沢品や嗜好品を手に入れたくなる。むしろ、絹の需要は却って高まるばかりになった。

 松本藩はくるしい藩財政を救うために、幕府の目をかいくぐり、あるいは方針に逆らい、秘かに養蚕振興を推し進めていた。桑畑は目立つからつくるな。しかし、畦に鍬を植えれば、根が強くて畦の補強になる、と口実を設けた。藩は庄屋を通じて、「農商の女は夜なべして養蚕と織物に勤めよ」と命令を出している。


「松本藩は幕府に洩れないように極秘にして、通行手形がないと、中房温泉には入れなかったのです。麓の有明には関所が2か所ありました」
 百瀬社長が語った。
  
 ミョウバンは鉱石でなく、結晶なので、雨に溶けると教えられた。だから、湯に溶けて繭の糸をほぐすことができるのだ。絹の売買は一日市場(大糸線に駅名が残る)などで、藩外からきた商人によって取引がなされていた。

 百瀬家の歴史をひも解くと、長野・三郷の小倉村の庄屋も兼ねていた。槍ヶ岳登頂の播隆(ばんりゅう)上人が登山基地にした村である。だから、播隆とも関わりが深い。
 なぜ、播隆が信州に来たか。それには独自の解釈を持っていた。播隆が百瀬家に長く滞在したので、それなりの根拠があるのだろう。新田次郎氏も、「槍ヶ岳開山」の執筆前に、百瀬家に取材に来たと話されていた。

 通説の播隆の槍ヶ岳登山ルートとは違った見解を持っていた。今後、それらも参考にし、検証していきたい。

【つづく】

「あずみの」開拓は信玄・謙信の侵略から=安曇野ブームの原点①

 長野県・安曇野(あずみの)は、いまや年代層を問わず人気スポットだ。過疎化ばやりの地方にして、安曇野は流入する人口が増加している。その人気の秘密はなにか。
 
 全国でも最大級の美観の土地だが、江戸時代中期まで、豊科と呼ばれ、荒れた扇状地だった。飛騨山脈の裾野にあって山肌が数千年、数万年前にわたり崩れて、川で運ばれ、堆積した石と砂礫の不毛の土地だった。
 上高地から流れてくる梓川は、この扇状地の豊科までやってくると、厚い砂利の堆積岩が、底の抜けた笊(ざる)と同じで、川水が地下水に変わってしまう。
 結果として、山間の上流には水があるが、扇状地の下流に水が及ばない。上流の田畑でたっぷり給水してしまうと、下流の水が枯れ、凶作になる。村どうしの対立が数百年もつづく。さして遠くから、足を運んでくるほどの景観でなく、緑のない灰色の大地だった。

 水は高い処から低いところに流れる。川は上流から下流に流れる。これは水の原理である。

 それを覆(くつが)して、水を真横に流す用水路(横堀)ができれば、扇状地に広域に川水がいきとどく。耕作の水があれば、新田開発ができる。米の石高も上がる。
 江戸時代初期から、しだいに真横に川水を流す、開削技術が発達してきた。この技術は信州地方で自然発生的にできたのではない。

 信州の歴史をひも解くと、武田信玄と上杉謙信が何度も侵略を試みた。その都度、地元の武将や民が犠牲になってきた。戦争は悲惨なもので、人間の醜さが極度に現れる。斬殺された山城も信州に残る。戦争は美化してはならない。とはいっても、一面で兵器や高度な科学技術が持たされて、民政に転用され、その進歩が産業を興したり、発展に寄与したする面がある。

 甲州・武田はなんといっても金銀掘削の鉱山技術が優れている。さらに「信玄堤」で有名な河川土木の技術は日本一だった。
 武田軍勢の豊富な資金と優れた戦術と巧妙な戦術は、信州の武将が太刀打ちできず、落城続きだった。武田軍勢の強い武将たちが、つど長野への侵攻となった。
 侵略者たちは占領地の民から搾取ばかりでなく、経済の向上を図るのが常だ。それがを安定した統治になるからだ。

 武田の鉱山技術や河川土木の技術が信州に入り込んだ。
 それを裏付けるとなるのが、安曇野には甲府武士たちの苗字をもった子孫が実に多い点にある。このことは何を物語るか。武田軍の侵略後、武士は統括の為政者として住み、甲州の技術と知恵を授けながら、信州に定住したきたと解釈できる。

 安曇野には、大小の横堰(真横に流れる川)がおどろくほど多い。これらは『信玄堤』の河川の掘削技術が信州に入ってきたから、成せる技だった。

 代表的な用水路が「十か堰」(じっかせき)で、1817年(文化14年)に完成した。奈良井川(別名・木曽川)から川を横に引き、水を取り入れ、約15キロにわたり、ひたすら標高570メートルに沿って、狂いもなく真横に流れる用水路を作ったのだ。

 この十か堰の完成で、川が養分が豊かな水を運び、豊科の扇状地全体が肥沃な土地になった。 本流の奈良井川にしろ、梓川にしろ、雪解け水で冷たい。稲は南洋からの植物だ。横に流れる浅い川は、本流の冷たい水を直接引き込むよりも、水温が高くなる。それが稲の発育を促した。まさに、松本藩は安曇野だけでも、一万石の石高が上がったのだ。

 松本藩は安曇野だけでも、年間2万5000俵の増産となり、緑豊かな稲作地帯となった。


 安曇野のどの地点に立っても、広大な田園と山岳に囲まれた絶景である。風光明媚な情景にみせられてしまう。聳(そび)え立つ豪快な峻峰が西北にどこまでも連なる。魅せられて見飽きない。黄金色に染まった夕陽が、稜線の肩に知てくると、自然の神秘が心の奥まで染めてくれる。

 江戸時代の長野・善光寺参りの人々はこの美観に感銘し、あえて安曇野を通っていく参拝客が増えてきたのだ。飛騨山脈の美峰が聳(そび)え、安曇野の緑の大地が拡がり、そのコントラストが途轍もなく、旅人の心を潤してくれる。
 それが現在における、安曇野観光ブームの原点にもなったのだ。
 
【つづく】

  

光と影=恩師と私

 私はいま2つの歴史小説を追っている。一つは「阿部正弘と日露和親条約」、もう一つは「天保の信州」である。阿部は福山藩主だったから、広島・福山へ。信州は長野、岐阜へと取材に飛び回っている。
 むろん、歴史小説には、史料(資料)の発掘と、その読み込みが不可欠だ。読むべきものが机の周辺に高く積まれている。寝床の周りにも……。

 私は区民大学、カルチャーセンター、NPOなどの「小説講座」、「エッセイ」、「写真エッセイ」など、各講座を持っている。すべて添削がともなうから、往復の車中やホテルでは、それに集中する。
「大変だな」と自分のハードなスケジュールに呆れることが多い。


 そんなときには、私の恩師・伊藤桂一先生を思い浮べる。直木賞作家で、売れっ子でハードなのに、「講談社フェマース・スクール」で、私たちの小説作品を実に丁寧に読みこんで指導してくれた。むろん、プロ作家の目で講評するのだから、実に厳しかった。

 伊藤先生のことばを思い浮べる。「講師の話しがきた当初、講談社に断りつづけた。結果として、引き受けた。やるからには後輩を育てる、それを生き甲斐にする」と述べられた。それには感動した。この先生のもとで、プロ作家になるぞ、と強い意志を持ったものだ。


 講談社が絵画部門の不採算で、4年くらいでクローズした。私は皆を代表して、伊藤先生に引き続き小説指導を頼み込んだ。快諾してくれた。同人誌「グループ桂」が生まれ、いまなお指導してくれている。
 たしか今年で95歳だと思う。頭脳は若い。なにしろ、ビッグな文学賞の選者として活躍されているのだから。


 私は約7年くらい前から、後輩指導で、みずから講師に乗り出した。「伊藤先生が私を育ててくれた。それを次世代に引き継ぐ」という精神である。
 人間の命は有限だから、今持っている私の技量を基本的に全部出し切る。私が永年蓄積したものをこの世に残していきたい。だから、出し惜しみはしない。手抜きはしない、と私自身に言い聞かせている。
「良い面を育てる。瑕疵(かし・キズ)は改善してもらう」と作品に赤とか、青とか、ていねいに入れて指導している。

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「二十歳の炎」が「東都よみうり」で紹介=幕末史の視野を広げる1冊

『東都よみうり』は、隅田、江東、江戸川、葛飾、港区台場など20万世帯に配布される。毎週金曜日。同紙が10月17日号で、幕末歴史小説「二十歳の炎」を取り上げてくれた。
 タイトルは「幕末史の視野を広げる1冊」である。幕末の動乱のなかで、命を散らした広島藩士を主人公にした小説がこのほど出版された、と書き出す。

『幕末といえば、薩摩、長州、土佐、徳川家、会津などを時代を時代の主役に据えた物語が多いが、それ以外の地域や人々が決して時代のうねりと無縁で生きていたわけではない。この小説を読めば、そのことに気づかされる』
 このような講評などが盛り込まれている。

 同書はいま広島で、中国新聞、広島護国神社、修道高校、および関係者が推してくれている。漸次、拡大している。
 髙間省三を全国で知ってもらうために、メディアを通じた首都圏の販路拡大が課題である。その一歩が踏み出せた。

 当日、よみうりカルチャー金町から、「文学書を目指す小説講座」の新規申込者が複数ありました、と案内がきた。おなじ「よみうり」系列だけに、反応が早いな、と思わせた。

 かつしか区民大学の受講生に、同区・葛飾鎌倉図書館の女性職員がいる。彼女も同新聞の記事を読んでいた。
「幕末史に興味をもった住民の方々向けに、図書館内で講演してあげましょうか」
 と提案すると、喜んでもらえた。
『東都よみうり』の縁から、即日に、次なるステップへと歩み出した。

「神機隊と髙間省三」の講演をおこなう=広島・海田町

 10月8日、広島県・海田公民館で、「海田郷土文化研究会」の主催で、「神機隊と髙間省三」について講演を行った。13:30から2時間。
 その発端は、ことし(2014)8月30日から始まった中国新聞・文化「緑地帯」のコラム「広島藩からみた幕末史」の連載だった。8回目の最後の記事は、
「修道学園には原爆投下前の学校疎開によって、頼春水、山陽父子以来の広島学問所の史料が保存されている。神機隊の子孫の家には従軍日記などが残っている可能性が高い。広島はこれから幕末史料の宝庫になるかもしれない」と結んでいた。

 
 同研究会の土本誠治さん(後列・左端)から、「神機隊の日記があります」と同紙の文化部に情報が寄せられた。そして、記者から私に連絡があったので、土本さんとコンタクトをとった。
「会のメンバー(出野さん・前列・右から3人目)の、曾お爺さんが神機隊隊士の堀田幸八朗さんです。その従軍に日記が現存しています」
 新聞で予想したことが、まさに的中したのだ。
 
 「二十歳の炎」の取材では、「海田町ふるさと館」の青木義和さんにお世話になった。そんなお話から、「海田郷土文化研究会」に招かれたものだ。

 神機隊の本陣があった志和町の取材で、協力してくださった吉本さん(前列・右から2人目)もいらしてくださった。再会が懐かしかった。

 講座の前に、桐箱に入った『堀田幸八朗・従軍日記』を拝見した。「二十歳の炎」で福島・浜通りの戦いがはじまった、久ノ浜(いわき市)から記載されていた。和紙で丁寧に書かれている。

 神機隊は農兵とはいえ、入隊時に苗字・帯刀を許される武士扱いになる。だから、庄屋を通して、勉学と武術ができる優秀な人材の推薦をもとめた。堀田日記はまさに学力の高さを示すものだ。

 1行ずつ読んでみると、目のまえに戦場が浮かぶ。髙間省三は浪江の戦で死んだ。「堀田幸八朗・従軍日記」は相馬・仙台藩が熾烈な戦いを行う、駒ケ岳の戦いや仙台城に凱旋の入城から、帰路まで書かれていた。
 大変貴重なものだ。

 その日記も参考にさせてもらいながら、「二十歳の炎」の描かれた2年間について語った。そして、質疑応答では、神機隊の本拠地・志和の方も出席しており、数々の質問があった。
「木原秀三郎をもっと描いてほしかった」という声もあった。神機隊の生みの親だから、その想いが強いのだろう。ただ、木原は従軍する前に、広島藩に呼び戻されているので、そこらは触れていない。

 広島護国神社の筆頭祭神・髙間省三は、広島藩きっての秀才だった。「子孫はどうなんですか」という質問があった。省三は戦死したが、実弟の子どもは海軍中将でした。さらに追うと、東大・物理学者ですが、私は取材していません、と答えた。

 省三の子どもを産んだ「綾」についても質問が出た。広島護国神社に綾の和歌が3通残されている。子孫の方が東京に在住し、仏間には「二十歳の炎」の表紙と同一写真が遺影として飾られている。
「綾の子(女子)の子孫だ、間違いないと確信を持ちました」と話した。

 語る方も、聞く方も、有意義な時間だったと思う。

 
 

 

北アルプスの新街道に情熱をかけた人(下)=岩岡伴次郎と飯島善三

 ことし(2014)8月には、飛騨高山市の市史編纂室の学芸員を訪ねた。飛騨新道が小倉村から神河内まで出来た。そのさき飛騨まで、なぜ7年間も新道掘削の許可がなされなかったのか。その背景を知らずして、小説は書けないと思った。
 飛騨郡代の職域を聞いた。幕府の勘定奉行の直轄下にあった。その権限は強く、実石20万石以上があり、大大名に匹敵していた。

 飛騨郡代は、勘定奉行の直轄にあったと知った瞬間、
「これだと、小さな松本藩も、まして庄屋も手も足もでないな」
 とすぐさま理解できた。
 実際に、松本藩は小藩だし、郡代の足元にも及ばず、新道共同掘削などつよく申しできなかったようだ。
 むしろ、7年にして、よく許可が下りたな、と思った。

「飛騨代官、郡代のうち、19代の大井帯刀永昌(ながまさ)が、最も好かれた人物でした」
 学芸員からそう聞いて、幸運だったな、と思った。


 新田次郎著「槍ヶ岳開山」で、庄屋の伴次郎と、農夫の又重郎を並列に置いているのは、かなり違和感がある。

 播隆上人と道案内役の又重郎が槍ヶ岳に登った。それは間違いない歴史的な事実。庄屋の岩岡伴次郎と、農夫の又重郎がふたりして、飛騨新道許可(上高地から飛騨の間)を求めて、本覚寺の椿宗(ちんじゅ)和尚に頼みに行った、と物語は展開する。

 寺の住職は寺社奉行の管轄であり、飛彈郡代に影響を及ぼさない。もし、僧侶が大名格の飛騨郡代に直訴すれば、重罪だった。(1770年代の飛騨・大原騒動で、郡代の施政に口出しした僧侶や神官は死罪になった)。かれらが椿宗和尚に頼むことは、死を覚悟させることであり、あり得ないだろう。大原騒動は上宝村が中心の一つだから。

 さらに、庄屋と農夫とでは、身分の差がありすぎる。新田氏は、庄屋の機能をあまり掌握していなかったのか。あるいは史実が判らず、想像で埋めてしまったのか。
 故人になったから、もはや聞きようがないけれど。


「森を伐り開いて、どのような工法で牛馬が通れる山道が造れるのか」
 小説で新道作りの技法を描くとなると、私には知識がない。そこで、岩岡さんに訊ねてみると、新道の開削技術に関連した資料が焼失しているので解らないという。


 岩岡伴次郎と飯島善三にはしっかりした共通点が見いだせる。幕末と明治初年と、多少の年月のずれはある。しかし、安曇野と信濃大町は隣り合っている。
 北アルプスを越える新道づくり。その掘削技術はほぼ同じだろう。となると、10年前の飯島善三取材が、いまや伴次郎史料の不足を補ってくれる。

「善造は北アルプスの新道現場に何度も出向いている」
 庄屋は多忙だ。伴次郎も当然ながら、時おり、飛騨街道の新道現場に出向いていただろう。実際に道路を作っていたのは、開削技術を持った黒鍬職(くろくわしょく)に依頼していたはずだ(請負業)。

 現代の文献を見ていて、大名や藩がからむ「御普請」制度をあまり理解していないのではないか、と懐疑的になる。松本藩が飛彈新道に対して、ある割合で費用分担している。これは「御普請」である。
 松本藩(役所)を窓口とした請負契約が必要となる。現代でいえば、請負はゼネコン(黒鍬職)である。江戸時代の行政のやり方が、現代に通じている面が多々ある。行政が金を出す決定となると実に長いが、一旦、予算が下りると、工事は短期に仕上げる技術がある。


 工事を請け負ったゼネコン(黒鍬職)は測量や土木技師や監督官をだす。村人は一般に特殊技術がないので、単なる手間賃の労働者だ。飛彈新道が「御普請」である以上、小倉村の農夫だった又重郎(播隆上人筆『槍ヶ岳略縁起』の表記)は、道路人足、単なる下働きだった可能性が高い。むしろ、そう考える方が自然だ。

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北アルプスの新街道に情熱をかけた人(中)=岩岡伴次郎と飯島善三

 北アルプスは登るだけでも難儀だ。そこに街道を通す。難工事がかんたんに想像できる。

 信濃大町の大きな庄屋・飯島善造は、信濃大町から針ノ木峠(標高約2800m)を越え、黒部川に橋をかけ、立山(標高約3000m)を越え、富山まで道路を完成させた。幕末期から計画を立て、明治に入ると、松本藩と富山・加賀の双方に許可をとった。
 緻密な計画と設計と、膨大な人員の投入で2年間で完成させた。新道は越中から牛馬で塩を運ぶ道となり、日本初の有料道路だった。

 しかし、冬場は雪崩や土砂崩れで、メンテナンス費用の調達が難しく、完成からわずか2年で廃道に追い込まれた。そして、飯島家は破産してしまった。
 それから150余年が経って、新たに黒部アルペンルートとして蘇(よみが)えってきた。いまは立山、針ノ木峠はトンネルで抜けられる。

 私が今から10余年前に、長野県大町市の飯島善造りの子孫に取材した。電話で取材を申し込んだ当初、御主人は電力ダムに勤務する技術屋だった。

「私は歴史はなにもわからないんですよ。養子にきた善造が、新道作りで庄屋を破産させて、座布団が数枚しか残らなかった、という言い伝えしか聞いていません」
 と拒絶された。
 そこは厚かましく粘り、あえて大町市の自宅にお伺いした。

 1時間ばかり夫婦の話に耳を傾けた。電話の通り、なにも新しい情報がなかった。ほぼ雑談だった。
「納屋の奥に、むかしから長持ち(約1.2m)が2つありました。何が入っているか、知りません。子どもの頃から明けたことがありませんし。作家の方がくるので、とりあえず、別室に出しておきました」
 と案内された。

 長持ちを開けてビックリした。アルプス越えの新道開削の資料がびっしり詰まっていたのだ。設計図、人足の延べ人数、黒部川に架けた橋の設計図。富山側からの掘削の費用や延べ人員。さらには新街道に沿った旅館開業や宿賃、通行券、各種の看板の資料が目一杯詰まっていた。
 さらには江戸初期の検地の史料までも残されていた。

「150余年、密封された長持ちを開けて、空気に触れてので、専門家による保存をする必要があります」
 私は子孫の方と、その日のうちに、「大町山岳博物館」に出向き、学芸員の方に事情を説明し、文化財として保護をお願いした。
 数か月後、520点余りが大町市の指定文化財になりましたと連絡がきた。その新聞発表の記事が私のもとに送られてきた。無事保管で、安堵したものだ。

 歴史小説の取材をしていると、随所で、思わぬ発見がある。過去の作家が知りえなかったと思うと、灌漑を覚える。
 飯島善三の史料は私の経験のなかで、最大の発見だった。