【戦後70年・特別寄稿】東京大空襲を語り継ぐ (下)= 川上千里
日本の大都市から地方都市まで
ルメイは日本の6大都市を焼き尽くせば、日本は大混乱になり、降伏するはずだと考えていた。ところが予想に反し、日本は徹底抗戦の姿勢をとり続けた。
米国空軍が発注したB29は次々と生産され1000機にもなり、焼夷弾も量産されてくる。
早急に実績を上げる必要に迫られたルメイは6月17日から全国の都市爆撃を開始した。
大都市で焼け出され、地方都市へ避難した人が再び被災した。
『廃墟と化した大阪市内』
爆撃を受けた都市は全国で200ヶ所にのぼり、60都市の市街地が灰燼に帰したのである。
無差別爆撃の始末
無差別爆撃に関しては、ドイツ軍はスペインのゲルニカに対して実行したり、日本軍は重慶を爆撃し、イギリス軍はドイツのドレスデンに行ったことなどが有名である。しかし、国中の都市を焼き尽くす作戦を実施したのはアメリカのみであり、しかも広島、長崎に原爆も投下している。
ハーグ条約には軍事関連施設以外の爆撃は禁止されている。だが、戦後、無差別爆撃について国際的に議論がなされることはなかった。
「私は米国の将軍だったから英雄になったが、敗戦国の将軍だったら処刑されていたであろう。」ルメイは言っている。
戦後の日本は自国の反省も充分行わず、相手の無法さを指摘することもなく、悲惨な事実に真正面から向き合う姿勢が欠如していた。
その上、占領軍のアメリカの非が追及されることなく、今日に至っている。
『ルメイ将軍』
事もあろうにルメイ将軍には1964年、佐藤栄作総理の時代に「日本の航空自衛隊育成に協力した」と勲1等旭日大授章を贈っている。
天皇陛下は贈呈の際、直接手渡す親授はしなかったという。この異例な行為は亡くなった国民に対する配慮であろう。
知っていることを話す
私は飛騨の山奥育ちで、小学校2年で終戦になったので、真の戦争体験者とは言えない。しかし伯父をはじめ、多くの村人が戦死した事実に遭遇し、戦後の生活を通してかなりの知識はある。
定年後に戦前・戦後の写真集やDVDを買い集め、パワーポイントで子供達への語り部を始めた。
子供たちだけでなく親や大学生なども、ほとんどの人達は初めて詳しい戦争の話を聞いたという。これまで学校では近代史を教えていないのである。我々世代が語り継ぐべきと考え、出来る限り今後も続けたい。
『写真週刊20世紀 100冊 』
早乙女さんの言われた言葉が胸の底に響いている。
「知っているなら伝えよう。 知らないならば学ぼう。平和は歩いてきてくれない。」
【了】
資料提供【東京大空襲・戦災資料センター】