北アルプスの新街道に情熱をかけた人(上)=岩岡伴次郎と飯島善造
江戸時代には偉人が多い。一つの目標に人生をかける。命をかける。
歴史小説の取材をしていると、それら偉人が思わぬところで結びついたりする。信州の庄屋・岩岡伴次郎が造った飛彈新道と、大町の庄屋・飯島善造が作った「信越連帯新道」だ。ともに北アルプスの2座を越える、大工事だった。
完成後、ともに自然の威力に負けて廃道になり、波乱に満ちている
岩岡伴次郎の新道から紹介しよう。
文政3(1820)年から天保6(1835)年にわたり、信州(長野県)の安曇~上高地~飛騨(岐阜県)の飛騨の上宝村を結ぶ、飛騨新道(別名・伴次郎街道)が作られた。
伴次郎は二代にわたり長い歳月をかけて新道を開削した。そして、上高地に湯屋(旅館)を開業した。ここから問題が起きた。肝心の飛騨側の工事許可が取れなかったのだ。
飛騨は幕領で、郡代(勘定奉行が任命した者が江戸から赴任する)が為政者だった。実質、20万石以上を支配する。
郡代がなぜ7年間も許可を出さなかったのか。そこが小説的な好奇心だった。調べるほどに、飛騨の18年間に及ぶ悲惨な百姓一揆「大原騒動」が、底流においてかかわっていた。
第19代郡代・大井帯刀永昌(ながまさ)は、歴代の郡代のなかで、とくに有能だった。松本藩と連帯で、幕府に自責で申請したのだ。
岩岡伴次郎(英棟)、2代目・英総、3代目の英勝たち3代は、約41年間にわたり北アルプスに情熱をかけた。命を懸けたといっても、決して大げさではない。
完全開通から26年間が経った。飛騨新道は暴風雨で破損し、通行不能となった。文久元年(1861)年には新道の歴史に終止符が打れたのだ。
ことし(2014)9月30日に、伴次郎の子孫である岩岡弘明さんを訪ねた。かつて3代にわたる資料が行李(こおり)2個があったらしいが、火事で消滅したと話す。
「このままでは、岩岡家の歴史が消えてしまう」
そう考えた弘明さんは、関係者の証言や資料を収集し、限定私家版『飛彈新道と有敬舎』を出版されていた。
筆者のひとり植原脩市さんも、この日、同席された。飛騨新道と播隆上人(槍ヶ岳初登頂)について、私が用意した質問に数々応えてくれた。
播隆上人は北アルプスの名峰・槍ヶ岳を初登頂し、信者たちが登れる山にした(開山)。「播隆を最も支えていたのが、野沢村の務台家ですよ」
弘明さん、脩市さん、ともに口をそろえていた。
歴史小説では、岩岡家3代の波乱万丈の生き方、山に対する情熱と、播隆とは深い人間な関わりをもった務台家を立ち上げていく執筆をしたい。
写真:植原脩市さん(左)、岩岡弘明さん(右)
【つづく】