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北アルプスの新街道に情熱をかけた人(上)=岩岡伴次郎と飯島善造

 江戸時代には偉人が多い。一つの目標に人生をかける。命をかける。
 歴史小説の取材をしていると、それら偉人が思わぬところで結びついたりする。信州の庄屋・岩岡伴次郎が造った飛彈新道と、大町の庄屋・飯島善造が作った「信越連帯新道」だ。ともに北アルプスの2座を越える、大工事だった。
 完成後、ともに自然の威力に負けて廃道になり、波乱に満ちている

 岩岡伴次郎の新道から紹介しよう。
 文政3(1820)年から天保6(1835)年にわたり、信州(長野県)の安曇~上高地~飛騨(岐阜県)の飛騨の上宝村を結ぶ、飛騨新道(別名・伴次郎街道)が作られた。
 伴次郎は二代にわたり長い歳月をかけて新道を開削した。そして、上高地に湯屋(旅館)を開業した。ここから問題が起きた。肝心の飛騨側の工事許可が取れなかったのだ。
 飛騨は幕領で、郡代(勘定奉行が任命した者が江戸から赴任する)が為政者だった。実質、20万石以上を支配する。
 郡代がなぜ7年間も許可を出さなかったのか。そこが小説的な好奇心だった。調べるほどに、飛騨の18年間に及ぶ悲惨な百姓一揆「大原騒動」が、底流においてかかわっていた。
 第19代郡代・大井帯刀永昌(ながまさ)は、歴代の郡代のなかで、とくに有能だった。松本藩と連帯で、幕府に自責で申請したのだ。

 岩岡伴次郎(英棟)、2代目・英総、3代目の英勝たち3代は、約41年間にわたり北アルプスに情熱をかけた。命を懸けたといっても、決して大げさではない。
 完全開通から26年間が経った。飛騨新道は暴風雨で破損し、通行不能となった。文久元年(1861)年には新道の歴史に終止符が打れたのだ。

 ことし(2014)9月30日に、伴次郎の子孫である岩岡弘明さんを訪ねた。かつて3代にわたる資料が行李(こおり)2個があったらしいが、火事で消滅したと話す。
「このままでは、岩岡家の歴史が消えてしまう」
 そう考えた弘明さんは、関係者の証言や資料を収集し、限定私家版『飛彈新道と有敬舎』を出版されていた。
 筆者のひとり植原脩市さんも、この日、同席された。飛騨新道と播隆上人(槍ヶ岳初登頂)について、私が用意した質問に数々応えてくれた。

 播隆上人は北アルプスの名峰・槍ヶ岳を初登頂し、信者たちが登れる山にした(開山)。「播隆を最も支えていたのが、野沢村の務台家ですよ」
 弘明さん、脩市さん、ともに口をそろえていた。

 歴史小説では、岩岡家3代の波乱万丈の生き方、山に対する情熱と、播隆とは深い人間な関わりをもった務台家を立ち上げていく執筆をしたい。

写真:植原脩市さん(左)、岩岡弘明さん(右)

                                     【つづく】

2人の大正演歌・歌手に出会う=岡大介、神川仁

 かつしか区民大学の『区民記者養成講座』は、記事の書き方、報道写真の撮り方、取材の仕方を3本柱としている。2014年度の同講座の5回目で、課外活動「取材の仕方」だった。9月7日、東京理科大学葛飾キャンパス(同区・金町駅より徒歩8分)で開催されていた『第30葛飾区産業フェア』に出むいた。活動時間は10時~16:30まで。

 
 東京理科大学での同フェアは初めての試みである。
 テント村で、受講生がまず取り囲んだのが、「ノンキ節」を歌うカンカラ三線の大正演歌歌手の岡大介さん(36)で、「船頭小唄」など歌っていた。三線じたいがとてもユニークで、受講生の目を惹いたらしい。


 受講生のインタビューがはじまる。
「カンカラとはなんですか?」、
「業務用の豚肉を詰めた缶詰の、空き缶です。手作りで作りました」
 岡さんは三線のボディーを指して説明する。

 受講生が経歴を聞く。岡さんはかつて流しギター歌手(ストーリー・ライブ)だった。新宿とか、葛飾では亀有の飲食街を流していたと話す。
「オッペケペー節」で一世を風靡(ふうび)した川上音二郎(かわかみ おとじろう)の大正演歌に魅させられ、26歳で、この道に進んだ。


 ギターで大正演歌は歌えない。いろいろな楽器でチャレンジしてみた。カンカラ三線にたどり着いた経緯について、
「沖縄の小学校で、児童が手作りで、このカンカラ三線を作っているのを見たのです。これだと思いました」
 弦はパラシュートの糸を使った。岡さんは沖縄の素朴な楽器を、プロの音楽界に持ち込んだ。それが人気となった。

 この独創性の楽器と美声が買われて、
「現在では浅草木馬亭をはじめとする、都内の演芸場、イベント出演など、年間350を越えています」
 と岡さんは語る。つまり、毎日、どこかで大正演歌で、観客を魅了している。

「大正時代の古き、良き曲を今に伝えたい」
 岡さんは活動への熱意を語った。

 
【関連情報】

HP:岡大介のお酒のめのめブログ
 

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中国新聞『緑地帯』のコラム、「広島藩から見た幕末史」連載はじまる

 私が執筆する「広島藩からみた幕末史」が、コラムとして、中国新聞・文化欄『緑地帯』で、8月30(土)から掲載される。2回目は9月3日(火)からで、8回連載である。

 幕末歴史小説「二十歳の炎」がことし(2014年)6月に発刊された。作品の趣旨、執筆の動機、取材のプロセス、幕末史の捉え方など、作品の背景となるものを記している。

 第1回目の書き出しだけを紹介すると、

『江戸時代の260年間、日本は戦争をしなかった。しかし明治時代に入ると、10年に1度は戦争をする国になった。広島、長崎の原爆投下まで77年間も軍事国家だった。外国から、日本人は戦争好きな国民と思われてしまった。
 誰がこんな国にしたのか。さかのぼれば、幕末の戊辰戦争に行き着く。大政奉還で平和裏に政権移譲したのに、戦争が起きた。日本史の中で最も分かりにくい。民主的な政権ができた後、薩長の下級藩士による軍事クーデター(鳥羽伏見の戦い)が起きた―とはっきり教えないからだ。~』

 と展開していく。

「二十歳の炎」は、地元の中國新聞、髙間省三を筆頭祭神に祀る広島護国神社、学問所の伝統を引き継ぐ修道学園など関係者が強く推してくれている。
 広島の書店も平積み同様に扱ってくれているところが多い。また、取材先関係者を通して、口コミで広めてくださっている。東京広島県人会なども。
 多くの読者がアマゾンのプレビューにも、書き込んでくれている。

 広島はことし何かと話題になっている。音楽家の不祥事、広島カープの活躍、広島市内の土石流災害、崇徳高校・野球部の50回延長戦とか。

 広島藩からの幕末に絞り込んだ歴史小説は、きっと初めてだと思う。読めば、これまで多くの歴史作家が無理してこしらえてきた、幕末史観が変わると思う。虚像の多さには唖然とするだろう。

 多くの作家が維新志士の美化に夢中で、その後の軍事国家をつくった危険な思想の持ち主だったという批判もほとんどなされていない。かれらは「誰がこんな軍事国家にしたのか」、という人物につながっているのだ。そんな思いのコラムである。

 幕末・広島藩が、二十歳で死んだ髙間省三を通して、世間一般に知れ渡り、正しい歴史認識になることを期待している。
 中国新聞はそれを理解してくれたから、執筆の最中の1月、書籍紹介の6月、「作者に聞く」の書評の7月、さらにはこの8月からのコラムと紙面を割いてくれたのだ。

「作家の文章は、それ自体に著作権がありますから」
 文化部の記者は、私の思い通りに書かせてくださった。

江戸時代に、槍ヶ岳に鎖がつけられたのか~=播隆上人を訪ねる

 江戸時代には、日本で鉄鎖が作れなかった。その技術がなかった。
 日露和親条約の締結にきた、プチャーチン提督の乗ったディアナー号が、1853年の東海大地震の大津波で大破した。下田から修理のために、伊豆半島の付け根にある戸田(へた)港に曳航中に、富士山の吹き下ろしの突風に遭い、沈没してしまった。

 私は今、それを素材にした歴史小説を執筆中である。
 一方で、天保の信州の歴史小説を書くために、長野と飛騨(岐阜)の両面から取材している。安曇野、飛騨高山、奥飛騨と8月18日-20日まで出むいた。(写真・飛騨高山の陣屋跡)
 ふたつの作品が妙なところで結び付いた。

 501人のロシア人を帰国させてやりたい。老中首座の阿部正弘は、戸田で新造船を作らせてやる、と決めた。このときのドラマがある。
 水戸斉昭は攘夷(じょうい)論のかたまりで、「元寇以来の神風が吹いた。ロシア船を沈めてくれたのは、神の思し召しだから、500人を皆殺しにしろ」と正弘に迫った。

 それは国際信義に反すると、御三家の意向を突っぱねた。

 斉昭はこんな狂気の思想だった。「尊王攘夷」の提唱者で、生みの親だ。なんでも薩長で、尊王攘夷が正しい、と思っている人のなかには、斉昭の崇拝者すらいる。
 攘夷とは問答無用で砲撃してしまう戦争理論であり、下関の四カ国砲撃、薩英戦争などにつづいた。第二次世界大戦までも。

 江戸時代のヨーロッパの軍艦には、船体が砲撃された時でも自前で修理できるように、造船技師や設計者が多く乗り込んでいる。母国への道を閉ざされたロシア人は、戸田で建造をはじめたのだ。

 狂気の斉昭を相手にしなかった阿部正弘は、全面協力で、木材、鉄材、銅、むろん人手も含めて最大に協力した。
 黒船来航の時代で、鉄が重要である。江戸から東海道筋の鍛冶屋が、幕府の命令で、戸田に集められた。現地では、鍛冶屋小屋の設備も作った。

 ロシア海軍だから、当時の様子が克明に記録されている。日本の大工は器用で素晴らしい、と讃えている。ただ、鍛冶屋の腕前は旧態としていたようだ。

『船首から鎖(くさり)を下ろし、錨(いかり)をうつのであるが、鉄の輪を製造することは、日本の技術と戸田村の施設ではとうてい不可能で、船の用材として用いた木の根を焼き、「木タール」を作り、これを麻縄に浸透させて「タールロープ」を作り、これをもって代用した』

 幕府が集めた有能な鍛冶屋でも、鉄鎖(チェーン)は作れなかったのだ。それからさかのぼること、1/4世紀(25年前)に、播隆上人の頃、日本で鉄鎖ができていたと思えない。その考えすらも、ありえたか否か?

 私は、できるだけ歴史的な事実に立脚した作品を書きたい。それが私のポリシーである。

 新田次郎著「槍ヶ岳開山」とか、穂刈貞夫著「槍ヶ岳開山」とかがある。作家の勘で、これはあやしいな、調べてみよう、と思うものが出てくる。

 播隆上人の初登頂は素晴らしい。だから、より事実で書いてあげたい。信州側を取材していくと、庄屋の家書には「天保の凶作で、稲が取れなかった。播隆上人が槍の穂先に使う、縄を分けてほしい、と言われたので、一昨年の古いのしかなく、それを差し上げた」と記録に残っていた。
 古い藁でも、ありがたがる播隆上人の姿がより鮮明になってくる。これぞ、あるべき人間の姿だろう。

 しかし、多くの作品は、この後、播隆上人は槍穂に鉄鎖をかけるために、各地を回り、鍋、釜など鉄類を集めてきた。松本藩に鉄鎖を差し止められた。播隆上人の死後に、念願の鉄鎖が槍穂にとり付けられた、と記す。

 幕末の造船技師の大尉や少尉たちが、指導しても、日本人は鉄鎖が作れなかったという事実がある。これに照らし合わせると、播隆上人が鉄鎖の発想をもちえたのだろうか、という疑問になる。
 鉄の輪は一見安全ではあるが、一か所でも外れると、人命にかかわるものだ。拙劣な鉄鎖は付けられない。

 ある書物には、播隆上人のかけた鉄鎖が何者かに盗まれたとある。こうなると、裏付けを消す、虚構の世界になる。
 
『開山暁播隆大和上行状記』(通称・行状記)は明治26年に世に出た。播隆上人の死後、約半世紀以上もたっているし、棚橋智暁→岡山隆応→漆間戒定へと執筆が委託されている。3人の手を回って書いているので、フィクションも加わってくる。小説と同じスタイルになりがち。歴史の真実が曲がったする。

 行状記には疑問の所が随所にある。たとえば、播隆上人の道案内役は中田又重郎となっている。

 江戸時代は庄屋でなければ、名字帯刀はもらえない。又重郎は庄屋ではなかった。松本藩の資料にも、庄屋として存在しない。中田又重郎ではおかしい。
 行状記が史実とするならば、小倉村又重郎、と正確に記するべきだ。

 播隆自身は「槍嶽畧縁起」でどのように表記したのかと、原文を調べてみた。『農夫又重郎』だった。播隆自身の表記にするべきだった。

 歴史小説の執筆は、ちょっとした疑問から、途轍もなく真実に近づくことがある。だから、時間もかかる。権威者・著名作家の名に惑わされない。どこまでも、歴史の真実を掘り起こしていく。それが私の仕事だ。

 

『読書の秋に読もう・推薦図書』 南太平洋の剛腕投手=近藤節夫

 旅行作家兼エッセイストの近藤節夫さん(日本ペンクラブ会員)が、初のノンフィクション作品『南太平洋の剛腕投手』を刊行した。サブタイトルは「日系ミクロネシア人の波瀾万丈」である。発売日は8月18日。出版社は現代書館で、1600円+税。

 作品は昨年来から取りかかっていたもの。主人公はススム・アイザワ(相澤進)で、日本人の父と、旧トラック島(現ミクロネシア連邦)酋長の娘との間に生まれた。戦中・戦後に父の故郷・藤沢市で、彼は逞しく成長した。そして、プロ野球投手として活躍した。
 その破天荒な生涯を描いている。

 ススムはプロ野球を辞めた後、トラック島へ帰島し、大酋長となった。実業家として成功した彼は、島のため献身的にボランティア活動に携わってきた。当然ながら、島民から広く尊敬を集めた。

 作者の近藤さんは、親の代から交流のある森喜朗元首相、そしてプロ野球の元チームメートだった佐々木信也氏と、ふたりの友情の絆を同書で扱った。それだけに、奇想天外のドキュメントだともいえる。

  30数年前、作者はトラック島で大酋長と初めて会った。ススムは行動力のある魅力的な人物であった。一方で、謎をはらんだ言動の多い人物だった。そのミステリアスな点についても、証言、風評を交え、取り上げてている。

 偶々大酋長がすでに鬼籍に入られていると知った。
「もうあのカリスマ的な風雲児に会えないのか。そう思うと無性に寂しい気持ちに捉われました」
 近藤さんには懐かしい気持ちが湧き上がった。大酋長の生涯を二つのふるさと・旧トラック島と湘南地方を背景に描いてみたくなったのです、とペンを執った動機を語る。

 『南太平洋の剛腕投手』は江ノ電沿線新聞社が、湘南地方、とりわけ江ノ電沿線に住民に読んでもらいたいと、座談会を催している。
 佐々木信也さんは、湘南高校時代に甲子園初優勝を成し遂げている。ススムの親戚の藤沢市商工会議所副会頭・相澤光春さん、そして佐々木氏の母校後輩となる筆者の近藤さんがトークを行った。座談会の内容については、「江ノ電沿線新聞」9月1日号に掲載される予定である。


  【著者の刊行案内から、取りまとめました】


【作者・プロフィール】

 東京・中野生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。学生時代に60年安保闘争、ベトナム反戦運動に参加した。
 学生時代・サラリーマン時代を通して、紛争地や戦地に200余り渡航している。訪問国は70数か所になる。
 著書として
『現代 海外武者修行のすすめ』(新風舎)
『新・現代 海外武者修行のすすめ』(文芸社)
『停年オヤジの海外武者修行』(早稲田出版)
 共著として
『知の現場』(東洋経済新報社)
『そこが知りたい 観光・都市・環境』(交通新聞社)

【推薦図書】 Kindleサイズ「短編集 半分コ」=出久根達郎

 Kindleサイズの紙の単行本とは考えたものだ。持ち運びが良い。満員電車でも、簡単に読める。なにしろ流行の先端を行っている。
 液晶画面でなく、紙面で読める。あらたな読者層を広めるだろう。


 出久根達郎著「短編集・半分コ」が三月書房かせ出版された。定価は本体2300円である。

 Kindleサイズの出久根さんのアイデアか。それとも出版社か。後者ならば、編集か、営業か。そんな興味もわいてくる。ご本人に訊いてみたいが、想像にとめておこう。その方が楽しい。
 
 直木賞作家で、現代では第一人者の短編小説集だ。軽妙に手軽く読める。気にいった題名から読めばいいだろう。

 人生半ばを迎えた主人公たちが、ふと過ぎし日を想う時、その何気ない言葉やしぐさに心の内を垣間見る。……どこか懐かしく、そしてほろ苦い16の小さな物語。

 『掲載作品』
    半分コ
    饂飩命
    赤い容器
    母の手紙
    十年若い
    お手玉
    空襲花
    符牒
    紀元前の豆
    名前
    薬味のネギ
    校庭の土
    こわれる
    腕章
    桃箸
    カーディガン     

安曇野に学ぶ「土木技術史」=水を制する者、国を制する

 長野県・安曇野(あずみの)は、かつて北アルプス山麓の広大な原野だった。古代から急峻な山が崩れ、その砂礫が厚く堆積した大地である。結果として、上高地から流れてくる梓川の水が、安曇野に入ると、途中で水が消えてしまう。川底から地下に水が消えるのだ。

 水が枯渇すれば、田畑の耕作に甚大な影響がでる。農家の近隣、村単位、上流と下流とで水争いが絶えなかった。

 村人や松本藩も、なんとか奈良井川の豊富な水量を広域で分け合うことができないだろうか、と考えてきた。それには川を中流で堰(せ)き止め、真横に水路を造り、水を村々で分け与えよう、と計画された。砂礫の原野に川を通す。その治水は簡単ではない。

「水を制するものは国を制する」
 戦国大名や江戸時代の為政者たちは、叡智(えいち)を集め、治水に膨大な資金をつかってきた。それでも、川は氾濫を起こす。人間は自然を力で制圧できない。
 武田信玄の信玄堤など特殊な方法らしい。


 江戸時代の後期、1816(文化13)年に、安曇野に十ケ堰(じっかせき)ができた。その調査・測量などには26年間を要している。
 総延長は15キロで、等高線に添った、ほぼ水平・真横に流れる川を造ったのだ。勾配は約3000の1。3キロ進んで、わずか1メートル下がるだけだ。
 槍ヶ岳が標高3180メートルだから、横倒しにして1メートル下がっているくらい。超精巧な川である。おどろくことに、計画に26年間を要し、工期はわずか3か月である。述べ6万7000人の人手を使ったという。

 十ケ堰が完成すると、安曇野は米や作物は豊富になり、藩外に売れるほど10か村が潤った。

 
 現在も十ケ堰は現役だ。実にゆるやかに水が流れる。江戸時代に、どんな風に川が出来上がったのか。人間はどのように水(自然)と戦ってきたのか。それを歴史小説で書くことになった。

 十ケ堰の功労者は数多くいるようだ。庄屋の中島輪兵衛がくわしい記録を残している。図書館で見てみた。文系の作家にはとても理解できない。
 歴史小説でも、事実にそくした面が必要だ。河川工学とか、土木工学とか、専門知識がないと執筆などできない。ここから勉強することに決めた。


 私は知識を得るために、8月14日、長瀬龍彦さん(都市環境エネルギー協会の専務理事)を訪ねた。そして、3時間にわたり「土木技術史」のレクチャーを受けた。ボードに数式を書いて、実例で教えてくれる。

 水は真正面から腕ずくで抑えない。水は自然の原理しか動かない。

 水は液体だが、零下になれば、氷で個体になる。温度をあげれば、湯気で消えてしまう。水は無音だが、高い処から落とせば音が出る。
「水は奥行きの深いな」。それを実感させられた。

『読書の秋に読もう・推薦詩集』 幻肢痛 = 平岡 けいこ 

  波は下腹部を打ち
  私は私の底に水の音をきく
  冷やかな藍色の音をきく
  水は廻りはじめる            (「水音」より)

  暗い感覚のクライマックス、
  読者はそのとばりの先を覗きたくなるのだ。


 幻肢痛ーー肢または肢の一部を切断後、患者があたかもその部分があるかのような痛みを感ずる状態、もしくはすでになくなっているのに先端があるように感じる症状。

 まさに欠如ゆえの痛覚こそはこの幻肢痛こそがもっともふさわしいだろう。ゆえにこそ、この症状を知ったとき、平岡けいこさんは自分の内なる欠陥を見失わないためにこそ、この言葉を配して、一冊の詩集を編みたいと熱望したに違いないと思う。

(「幻肢痛」考・倉橋健一氏より、抜粋)


【幻肢痛の関連情報】

 平岡けいこ著「詩集 幻肢痛」
 定価2500円+税
 発行所・砂子屋書房(千代田区神田3-4-7  03-3256-4708) 


『平岡けいこ・プロフィール』

 兵庫県出身
 日本現代詩人会、中四国詩人会、関西詩人会に所属

1991年 詩集「わたしの窓から」私家版

1995年 詩集「未完成な週末」近代文藝社
      (第4回コスモス文学出版文化賞)

2004年 詩画集「誕生~ぼくはあす、不可思議な花を植え 愛、と名づける~」美研インターナショナル
      (第4回中四国詩人賞) 

下田港でアメリカ家族(男・女)を初めてみた驚き=川路聖謨

 川路聖謨(かわじとしあきら)は、幕末に活躍した人物である。1854(安政元)年に、「日露和親条約」を結び、エトロフ・国後が日本領土と認めさせた。
 大分・日田代官所に勤務する父親の長男で生まれ育った。行く末は勘定奉行(現在の財務大臣)となり、ロシアとの外交交渉の日本代表(外務大臣)にまでなった。身分制度の厳しい中で、旗本の子だった勝海舟よりも、さらに出世したといえる人物である。

 川路聖謨著「長崎日記・下田日記」を読んでいて、くすくす笑ってしまった描写がある。面白いところを抜粋して紹介したい。

 その前に背景を知っておく必要がある。日米和親条約から、ちょうど一年経った頃である。長崎、下田、箱館が開港した。捕鯨船などが薪水で立ち寄ることを認めても、居住は禁止だった。

 条約の内容を十分に理解していないアメリカ商船のカロライン・フート号が、船員の家族ら11人を下田の玉泉寺に預けて、ロシアの傭船として出航してしまった。女性は船長の妻(35)、操舵手の妻(20)、商人の妻・ダハティ(23)である。ほかに子供たち。
 下田奉行は当然ながらカリカリくる。江戸表の幕府は怒る。しかし、強制退去をさせたくても、商船がいないので致し方ない。

 この頃、日露和親条約交渉が下田で行われていた。川路聖謨が最高責任者下田にやってきた。旅日記は誰しも、めずらしい見聞を書き記す。下田日記の後半になると、アメリカ人風紀がかなり多くなる。


・弁天島に参拝した折、境内にアメリカ人夫婦がいた。(川路の)伴の中間が持参していた床几を見て、この夫婦はめずらしがり、中間から借りめと、ふたりはいろいろしたし(坐ったり)、眺めていた。

・この婦人は、容貌美麗、丹花の唇、白雪の膚、衆人の目を驚かし、魂をとばす。

・アメリカ美人は、日曜日と申すに、黒襦子の衣服を着て、大造りのかみかざりをし、顏は人形遣いのごとく布(きれ)を下げ、装っている。ひょうたん型の三弦(ギター?)をひき、歌っている。人間の声とは聞こえず。されど異人は涙を流している。

・アメリカ人(軍艦?)上官が上陸してきた。遊歩(散策)中に、女湯を見て、ふし穴よりのぞき見ていた。

・今日、アメリカ人の美女をみるに、髪黒し。絹で編んだ頭巾をかぶる。瓔珞(ようらく)なるものを下げていた。腰の細きこと、蜂の如し。日本の女の半分もなし。肌は白きに誇りて、紗(しゃ)のごとき着物をきて、肌がみえることもある。

・アメリカ人の男が上陸し、女房と子供を並べ、眺めて愉しんでいた。(子どもの側で)女房の口を吸うので、番人の日本人は大いに驚いていた。

・船大将なのに、アメリカ美人の上着を持ってあげ、その女の首を抱えながら、白昼に、下田の町を遊歩する。(レディーファスト)国風とてみたり。

・玉泉寺に参り、アメリカ人より、立ちふる舞われた。境内のところどころ花をさし、魚とけだものの肉などを煮て、酒を出す。例の美女は、なり物にてさわぎ、踊る。夜四ツ(午後10時)より暁七ツ(午前4時)まで、踊りづめ。よくもくたびれないことだ。

・船が帰ってくると、夫婦は顔を見て、駆けより、抱き合って、いろいろ泣きくどき、人目を少しもはばからず、口を吸う。そのうえ、夫婦手を引きあい、一間の内に入り、戸を締めて出てこず。見るにたえず。

 
 アメリカ人の男女が白昼、堂々とキスしている。川路聖謨は驚き、奇異に映ったらしい。その瞬間の、川路の心理を読みとると、苦笑してしまう。
 一方で、アメリカ美人の賞賛などはイキイキした文章だ。美女を見つめる男の心理は、いつの時代も変わらないらしい。

 長崎言葉の「よかよか」が下田の異人たちに流行り、下田の勤番役人がなにかしら注意しようものなら、「よかよか」と言い、無視されると記している。


 
 

第12回「歴史散策」は台風接近の横須賀港

 こんかいの歴史散策は横須賀港だった。2014年7月10日は台風が接近ちゅうで、関東に達する進路予想だった。
 世話役は井出さん(日本ペンクラブ事務局次長)で、数日前から、やきもきされたことだろう。

 作家やジャーナリストたちは、それぞれ予定が詰まっている。7人の日程調整はピンポイントだから、予備日はない。「雨でも、雪でも、台風でも、交通機関があるかぎり決行する」という当初からの方針だ。 

 台風の接近だが、かまわず同港の観光船に乗る。さすが軍港だけに波静かだった。

 写真(右から):井出さん、新津さん(ミステリー作家)、山名さん(歴史作家)、相澤さん(作家兼ジャーナリスト)、吉澤さん(日本ペンクラブ事務局長)、清原さん(文芸評論家)さん、そして私(穂高健一・作家)を含めた7人全員が勢ぞろいした。

 日露戦争の日本海戦・旗艦「みかさ」の甲板で撮影。甲板下にいた若者をデッキまで呼び寄せて、「すみませんね」とシャッターを切ってもらう。


 京急汐入駅に集合は午前11時だった。 台風は九州から四国あたりに進んでいた。いちどは上陸したから、大型でも勢力が弱まりつつあった。
 当日の横須賀の予報は午前中が曇り、午後から雨だった。台風の速度はやや後ろ倒しになっていた。

 同駅前では、強風が傘や頭髪を巻き上げる。

「現地の船会社に問い合わせたところ、軍港めぐりは運航するということです。猿島のほうは中止となりました」と井出さんが説明してくれた。


 横須賀港は軍港だから、台風でも、波が立たない。港内には第7艦隊のイージス艦が接岸していた。1隻が1500億円もする。

 ディズニーランドが一つ作れる。

 戦争はまさに経済力だ。税金は使っても、人の命は使ってもらいたくないものだ。


 ヴェルニー公園には、日本海海戦の石碑などがある。

 和歌や俳句などの石碑もある。

 ヴェルニー記念館では、江戸時代に外国から入ってきた製鉄所の圧延機とか鋳造機がある。本物、模型、実演コーナーがある。吉澤さん、相澤さんが愉しむ。

 作家たちはみな文系だから、理論の吸収でなく、玩具のように遊んでいた。

 軍港めぐりツアーは事前予約が必要。台風にもかかわらず、すでに全部満席だという。

 横浜軍港めぐりは、最近、ずいぶん人気が出ているらしい。

 横須賀の軍港は、日本の海上自衛隊も使用している。

 潜水艦は横須賀と呉(広島県)だと、港内クルージングの案内係が放送していた。

 ちなみに、呉に行くと、リタイアした潜水艦の艦内なかに入れる。そんな説明はなかったけれど。

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