70歳で、マナスル(8125m)に挑戦
内田耕治さん(70)が、来週27日に成田空港をたち、ネパール・カトマンズに入る。メンバーは内田さんを含めた9人のパーティーだ。高所シェルパーは6人。9月23日のマナスル登頂を目ざす。
出発を前にした、忙しい内田さんから約3時間にわたり、取材できた。他方で、日本テレビからも取材申込みがリーダーにきているという話し。ひと足速く、PJニュースで紹介したい。
内田耕治さん(70)が、来週27日に成田空港をたち、ネパール・カトマンズに入る。メンバーは内田さんを含めた9人のパーティーだ。高所シェルパーは6人。9月23日のマナスル登頂を目ざす。
出発を前にした、忙しい内田さんから約3時間にわたり、取材できた。他方で、日本テレビからも取材申込みがリーダーにきているという話し。ひと足速く、PJニュースで紹介したい。
海抜〇メートル(田子の浦)から、富士山頂まで登った。3日間のうち、2日間は台風の影響で大雨だった。下山の途中で、サブリーダーから、富士山の山小屋が8月末の撤収時に出す杜撰(ずさん)なゴミ処理で、山が汚く荒れてしまったと教えられた。
さいたま市に在住の松尾清晴さんは、巨大な1500ccで2000年10月から05年まで、世界ひとり旅で、82ヶ国を回った。
オランダからスタートして、まる1年経ったときのことである。一度家族に会うために、ニューヨークからサンフランシスコ経由で、成田への帰路についた。
ニューヨークには三つの大きな空港がある。買い求めたチケットは、01.9.11のケネディー空港発サンフランシスコ行き、ユナイテッドで、早朝の9時15分だった。
貿易センタービルに突っ込んだのは、ニューアーク空港発サンフランシスコ行、ユナイテッドだった。航空会社も、行き先も、時間帯もおなじ。松尾さんはケネディ空港とニューアーク空港の違いで命拾いしたという。
ある意味で、数奇な運命だ。
松尾さんから貴重な体験談を聞く機会があった。それをPJニュースに書かせてもらった。
江戸時代には、海抜〇メートルからの富士登山がおこなわれていた。現代は五合目から割に楽に登れる。むしろ、富士山は五合目までパスでいき、そこから登るものだと現代人の多くは考えている。体力に自信があり、登山好きな人は富士吉田市の浅間神社から登る。厳密に言えば、そこからでも海抜ゼロではない。
江戸時代の太平洋岸の〇メートルから登る、富士登山道は風化してしまった。倒木とか、雑草とかで、道が消えてしまったのだ。それを100年ぶりに発見したひとがいる。
椎名誠さんが約20分間、北極圏(シベリア、アラスカ、グリーンランド)に生活するエスキモーとの生活の体験談を語った。
冒頭に、椎名さんは差別用語に触れた。PJニュース『差別用語は、本当に差別なのか?』で、それについて紹介した。
【講演が全般に渡りユニークだったので、ウェブで再現したい】
アラスカの旅で、椎名誠さんは森林限界の生活実感を得たという。ツンドラには樹木や草などないので、住民の主食はアザラシである。若者すらも鉄砲や槍で上手に獲物を射止める。
獲物は即座に、氷点下40度の氷のうえで解体する。解体後、かれらはさっとアザラシの体内に手を入れる。
東京・文京シビックホール(小ホール)で、3日の13時半から、シニア大樂の『演多亭(えんたてい)』が開かれた。会場には306人の観客が埋め尽くした。多種多彩な芸が一堂で見られた。ことしは3回目だった。
芸人たち一人ひとりがいまに至る人生。それをテーマにすえて、PJニュースの記事として書いた。かれらの人生は奥行きが深かった。こちらが欲張りすぎ、ボリュームが多すぎた。当然ながら、記事に載せきれない話題が多かった。
世界報道写真財団(オランダに本部)、朝日新聞社が主催する『世界報道写真展2006』が恵比寿ガーデンプレスで開催されている。朝日新聞社から取材協力と写真提供があった。
東京都で最も低い山はどこか。素朴な疑問から、国土交通省国土地理院(つくば市)に電話取材してみた。窓口の人は『東京都ですか? 日本一の低い山ならば、大阪の天保山ですが……』とおどろいていた。最近は低山ブームで問合せはあるらしいが、東京都に限定した質問は初めてのような雰囲気だった。
大学で、ゼミ長をしていた久能くんと再会した。かれは半官半民の企業から、北陸の某県立大学の経済学教授に赴任していた。短期で見切りをつけ、東京に帰ってきた。話しを聞いて納得できた。
新聞社などマスコミで記事を書いていた人、雑誌や週刊誌に記事を載せていたライター。かれらがジャーナリストとして、世のなかで活躍している。私はちがう。