A010-ジャーナリスト

ニューヨークの大停電、私たちはそこにいた=2作品の偶然

 この偶然にはおどろかされた。「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室の指導を引き受けてから、約9年に達する。この教室がはじまった頃(2007年2月)に、和田譲次さんが30年間前(1977(昭和52)年に米国・ニューヨークで起きた大停電の体験記を提出してきた。


 大停電自体も当初信じられない思いだったが、和田さんがエンパイアステートビル88階の展望台にいたというから、これにはおどろかされた。まるで大都市停電の空中見学ではないか。すごい場所にいたものだと思ったものだ。

 同教室は1年に10回開催されている。その都度、平均15作ほど提出される。1年ごとに製本されているので、8冊できている。私は単純計算でも、9年間で1350作品を読んで、添削し、講評してきたことになる。
 数多くの作品のなかでも、和田さんのニューヨーク大停電はつよく記憶に残る一つだった。

 それから8年が経った。ことし(2015年3月)の作品で、武智弘さんがニューヨークの大停電の体験記を提出してきた。「えっ」と思った。
 武智さんは女子プロテニス・ゲームを観戦していた最中に停電が起きた。真っ暗闇のマンハッタンは大墓地で、人々がその中を歩いていたという。

 天空の和田さん、大墓地と感じた武智さん、2つの作品に共通するのは、「人間は国籍を問わず助け合うものだな」と、心温まる人間の触れ合いだ。そして、ふたりしてアメリカが大好きになったと記す。ともに、感動作品だった。

 私が書き過ぎると、作品の妙味がなくなるので、ここらで筆を止めます。じっくり味わってください。

ある日のニューヨーク武智 弘

 忘れもしない1977年(昭和52年)7月13日の夕刻、私はデトロイトから 空路ニューヨークに入った。翌日に会社の事務所で報告をすませてから、日本に帰る予定だった。
 ホテルにチェックインした後も連日の猛暑で、また街に出て行く元気は無かった。だが、一人で部屋に居ても仕方がないので、コンシェルジュに電話をして、今夜のイベントを聞いてみた。

 マディソン、スクエアガーデンで女子プロテニスがあるという。出場者を聞くと新聞やテレビでよく見る名前の選手が多かったので、切符を予約して貰って、とにかく行ってみる事にした。


 満員の観衆の中で見るトップクラスの女子プロテニスのゲームは、想像以上の迫力があり、私はぐんぐんと周囲の雰囲気に引き込まれて行った。
 選手たちの気合いの入った掛け声、観衆の拍手、ボールを打つラケットの響きに次第に我を忘れていた。丁度、1時間も経ったと思われる頃、どうした事か、突然館内の照明が全部消えてしまった。

 静まり返った館内に10分程して場内放送が、
「突然の停電で原因は分かりません。回復次第ゲームを再開します」
 という意味の事を何回も言ったけれども、回復する気配は無かった。30分程経っても真っ暗闇は続き、観衆が騒ぎ出した頃また放送があり、
「まことに申し訳ありませんが、この停電は直ぐ回復する見込みはないようなので、今晩のゲームはこれで中止致します。お気をつけてお帰り下さい」
 という事になった。

 冷房の消えた館内は、大観衆のせいもあって急速に暑くなってきたので、観衆は我勝ちに出口に殺到し始めた。私も大勢の人々に押され、突かれ、踏まれながらやっと外に出た。館外に出てから、暫くの間に見た光景は一生忘れがたいものとなった。

 ここニューヨークのマンハッタンは林立する超高層ビルで知られ、特にビルの窓という窓に灯の入る夜景の美しさは私もよく知っていた。
 それが、何だこれは……? とわが目をこすりたくなるような光景に変わっていた。

 その時下から仰ぎ見たビルの灯火は全部消え果て、目に入る黒々とした長身、巨大なビルの立像はそのまま人の居ない夜の大墓地にまぎれこんだら感じるであらう様な恐怖感を与えていた。
 しかも、その大墓地はマンハッタンの中を右にも左にも、前にも後ろにも、延々と伸びているのだ。そしてその墓場の中を何万という群集が、無言でひたすら歩いて居るのだった。


 しかし本当に驚くものが別にあった。
 マンハッタンは東西南北に街路によって、碁盤の目のように分割されている。これらの街路が交わる比較的大きな交差点には、当然の事ながら一つひとつ交通信号がついている。
 今は、その交通信号も停電で消えてしまっている。という事はヘッドライトをつけて走れる自動車ですらスムースに走れない状態になっている筈だ。しかも、交差点の数はマンハッタン全体で物凄く多いと思われる。
 そこに思い至った私は目の前の現実として、ノロノロではあるが、どちらの方向にも自動車が流れているのを見て、改めて愕然とした。しかし、その理由は直ぐ分かった。

 どの交差点でも、誰かが交通整理をしているのである。
 よく見ると彼らは一般の歩行者達で、背広を着たサラリーマン風の人、Tシャツを着たお兄ちゃん、髭をはやした老人、など色々な人達が、消えた信号の下で手を振り、方向を指示し、ドライバー達とやりあっていた。
 ドライバーの方も、その俄か警官の指示に従い、徐行して窓ガラスをあけ、笑顔で話しあいながら通り過ぎて行く。緊張感もなく、お互いに当然の事をしている、という自然な態度に私は心を打たれた。


 ホテルまで通りの名前と、番号標識を薄明頼りで確かめながら、一時間以上かけてやっと帰り着いた。私は、入り口でルームキーと火のついた蝋燭を一本貰い、ホテルの非常階段をトコトコ上がって16階の自室までやっと帰った。
 そこは窓も開かず、蒸し風呂のような暑さとトイレも動かず、冷蔵庫も役に立たない暗黒の世界であった。

 この部屋の中で、何とか朝まで頑張った私は、夜が明けると再度決心をして1階まで歩いて降りてみた。案の定、食堂は閉鎖で食べる物は何も無かった。
 仕方なく外へ出て、近くの路地裏あたりを歩きまわっていたら、道端の上に戸板を並べてパンを売っている所があった。

 誰がどこから集めて来たパンなのかさっぱり分からなかった。私はおなかが空いていたので一番長いパンを2本買い、抱きかかえてホテルに向かって帰って行った。

 そうしたら何時の間にか、沢山のアメリカ人が私の周りに集まってきて、
「そのパンはどこで買ったのか。教えてくれ」
 と言うのでいちいち説明するのも大変だから、
「僕についておいで」
 と歩き始めたら次第に人が増えて、大部隊になったのには驚いた。
 その大部隊を連れてパン屋に着いたら、皆が「サンキュー」「サンキュー」と言って握手を求めてきたり肩を叩いてくれたのは嬉しかった。


 前日から半日にも満たない僅かな経験であったが、私は人種の差など気にせず、誰にでも気軽に話しかけ、頼みごとをしたり、他人や全体のためになる、と思えば、すぐボランティアとして飛び込んで社会奉仕をするアメリカ人を見て、何ともいえない爽やかさを感じた。
 もし、今後私が困っている他人を見たら、アメリカ人のように率直に、その環の中に飛び込んで行こう、そして他人のためになりたい、と思っている。


  ニューヨーク一人ぼっち 和田 譲次

 

 私には、変わったアクシデントに遭遇した体験がある。いままであまり話題にした事がないが書いてみよう。
 今から、30年前のニューヨークでのできごとである。学会に出席のため一週間ほど滞在した。
 ある日の夕方、ジャズクラブへ出かけるためホテルを出た。食事をとりにチャイナタウンに立ち寄ろうとタクシーをつかまえた。夏時間実施中で七時でも明るい。前方にひときわ高いビルがみえてきた。
 あっ、あれがエンパイアステートビルだと気がつき、まだ時間があるので、おのぼりさんになって上からマンハッタンを見ようとタクシーを降りた。

 エレベーターを乗り継いで88階の展望台にでた。
 マンハッタン島、ハドソン川をはさんでニュージャージー州が私の目のなかに飛び込んできた.息を呑んで見とれていると、周囲が暗い。展望台の電気が消えている。
 我々が外を見やすいようにわざと暗くしていると思った。そのうちに街中が停電中と気がついた。午後8時を過ぎてあたりも暗くなりかけている。

 管理人から説明があり、只今ニューヨーク市全体が停電で、いつ復旧できるか連絡はないが、エレベーターが動かないのでこのまましばらくお待ちくださいという。

 この時、展望台には120~130人いたと思う。
 皆静かに事態を見守っていた。観察すると日本人どころか東洋系の人間もいない。私も少し気になりだした。この状態が続いたらどうなるだろう。

 その時、あちこちのグループから笑い声が聞こえてきた。
「カーターに電話しろ」とか、「原子力より昔からの石炭の方がいい」とか、少し前に停電の原因が説明された。ニューヨーク州の北部の原子力発電所が落雷の被害にあったという。

 これではすぐには復旧しそうにもない。夜が更けるにつれ、私も言いようもない孤独感と不安感に襲われてきた。言葉も不自由である。

 近くに長身の若い女性のグループがいた。そのなかの一人が微笑みながら話しかけてきた。オスローからきた学生で、昨日船でこの地に着いたという。
「私たちお金がないからブルックリンのはずれに泊まっているの。こんなに遅くなったら帰れないわ」という。

 私も、どうしたらよいのか迷っていたのだが、彼女に強気で、
「停電はすぐには回復しないよ。夜行動するのは怖いよ、明日の朝まで待とうよ」
 といった。
 これが大正解で、下界では商店の打ちこわしとかトラブルが起こっていたようだ。周りにいるアメリカ人は厳しい状況下でも陽気に振舞い、これで私も救われた。


 夜が白々と明け、イースト川の方角から日が昇ってきた。
 素晴らしいサンライズを迎え感動の一瞬である。さてこれからどうするか。七時過ぎから歩行でおりる人が増えてきた。安全灯もついたという。
 私が動き始めたら管理人が「若いの少し待て」という。あとに続く老夫婦の面倒を見てくれということだった。
 お年寄りのペースにあわせ、下まで一時間ぐらいかかっただろうか、下には暖かいコーヒーが待っていた。さきについた人たちを含め数人で「ウィーアーハッピー」といいながら頬をふれあい分かれた。
膝が笑うという表現があるが、このときの私の状態がまさにそれだった。

 ここは五番街の34丁目、ここから七番街の57丁目までどうやってたどり着くか。もちろん歩くしかない。幸い涼しい朝だったのでぶらぶら歩くうちにホテルについた。
 もうヘロヘロである。部屋は十九階だった。もう我慢はここまでである。ロビーの奥にバーがあった。「ビア プリーズ」といったが、冷蔵庫が機能していないから冷たいビールがあるわけがない。
 疲れ切った私の様子をみて、バーテンダーが、
「おまえどこから帰ってきたのだ」
 と聞く。
 これこれしかじかと話すと、「お前は貴重な体験をしたな」といいながら、冷蔵庫の奥から氷を取り出し「これが最後のキューブだ」とウィンクしてジントニックを作ってくれた。美味しかった。このときの感激はいまでもわすれない。

 私は、この事故を契機にアメリカ人が好きになり、ニューヨークもアップルキャンペーンの前だったが、アイラブニューヨークが体にしみ込んだ。あの独特な街の匂いもいい。

 この秋に久しぶりに訪問し、エンパイアステートビルの展望台から心ゆくまでニューヨークの街をたんのうしてみたい。

                              (2007年2月 記)

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