寄稿・みんなの作品

【寄稿 エッセイ】 野島の浜のゴミ拾い = 林 荘八郎

 わたしは海が大好きだ。大きな空、広い海原を眺めていると童心に返り、心が大らかになる。磯や砂浜も更に好きだ。訪れたことのある砂浜の中では石垣島、九州の唐津、西伊豆の松崎の砂浜が好きだ。松と砂とのコントラストが映えて美しい。

 ところで横浜市にも昔ながらの砂浜が唯一残っている所がある。わずか100メーター程のものだが正面に八景島シーパラダイスを眺める金沢区の野島公園の浜だ。潮干狩りの名所でもある。というと風光明媚な浜と思われるが現実はそうでもない。


 その浜は北に面しているため、北風が吹く日は東京湾のゴミが流れ着き、無残な景色と変わる。台風が近くを通過したあとは大変だ。そのときの量は特別に多い。

 10年ほど前、台風の過ぎ去ったあと浜に出たら雑木、芝、竹などが山のように流れ着いていた。手を付けようがない状態だった。その光景を目の当たりにして町内の人たちと途方にくれた。それらは日が経つと水分が蒸発し乾燥した。軽くなり、また汚いものではないので自分が片付けてみようと思い、暇を利用し少しずつ道端に引き上げ、一緒に流れ着いたロープを活用して束ねた。

 一週間余り要して全部引き上げ、横浜市の清掃局(今の環境事業局)へ回収を依頼した。1トントラック三台分くらいの量になっていた。浜の姿を元に戻した達成感を抱いたが、これが初めてのゴミ拾いだった。


 その後、西伊豆の松崎へ旅したとき、綺麗な砂浜に出会った。夕方、二人の老人が熊手を手にして談笑していた。浜の掃除をした後だったのだろう。その姿は清々しかった。村の大事な美しい砂浜を守っている喜びと誇りにあふれた表情だった。それがわたしの手本になった。それ以来、野島のゴミを拾い始めた。

 昨今のゴミはいろいろな種類がある。その中では化学製品が圧倒的に多い。発泡スチロール、ペットボトル、各種のプラスティック製品、レジ袋、菓子袋。そして缶製品。時々、テレビ、冷蔵庫も流れ着く。いちどゴミとなった化学製品は厄介だ。いつまでも残り朽ちていかない。化学品メーカーはせっせとゴミの材料を作っていると言われても仕方がない。

 わたしは雨さえ降らなければ毎朝、野島を一周する散歩に出かける。そのとき浜でゴミに気が付くと放っておけない。そして少しずつ袋詰めして片付けている。

 ところがその袋をどこへ運ぶかが問題になった時期がある。家庭ゴミではないので町内の集積場へ運ぶわけには行かない。そこでひと先ず浜の近くに置き、まとまった量になったら環境事業局へ回収を依頼していた。ところが潮干狩りに来た人たちの格好のゴミ捨て場として利用されてしまい、未公認の集積場になった。

 野島公園の管理事務所は「不法投棄をするな!」という立て看板を取り付けた。私のすることは管理事務所にとって迷惑な行為のようだった。

 ある日、浜にいたら所長が近づいて話しかけてきた。
「海のゴミの管轄は港湾局です。船で回収しています」
「浜に打ち上げられたゴミはどこの管轄ですか」
「さぁー。私たちの役割は公園の管理です。浜は管轄外ですが、一応毎月第三土曜日には業者を入れて清掃しています」
「月に一回ですか。わたしはゴミが多い時に見かねて拾っているのです」
まるで余計なことをしてくれるなと言いたげだった。しかし話し合った結果、それ以降は袋を公園内の遊歩道まで運べば回収することで落着した。


 残念なことに横浜市には海を清掃する部署はあっても浜を清掃する部署がないことが分かってしまった。市内に砂浜は僅かしかないのだから尤もなことだ。確かに海の浮遊物を回収している船を時々見かける。だが浜が今のままでは
「横浜市の野島には昔ながらの自然の砂浜が残っている」
 という謳い文句が泣く。浜に流れ着くゴミは、浜に捨てられた物か、海へ捨てられた物か、風に吹かれ海へ落ちた物だろうが、海は自ら綺麗になりたくてそれらを浜に排泄しているのだろう。

 野島にも近ごろゴミ仲間がいるらしい。町内の人が教えてくれた。まだ顔を合わせたことはないが、通じ合うものがあって楽しい。お互いに静かにゴミ拾いをしたい。今のままで行こう。それでいいのだと思う。

 朝の散歩とゴミ拾いは私の健康法だ。拾うときの姿勢はまさにスクワット体操そのもの。私の腰痛予防には打ってつけだ。
 まあいいか、これからもこれは続けよう。相手は大好きな海の排泄物だから。

【寄稿 エッセイ】ブリヂストン美術館 = 筒井 隆一

 京橋駅でメトロを降りた。地上に出て、通い慣れた中央通りを日本橋に向かう。交差点を挟んで、大きなビルが新たに二棟建ち上がり、周辺の再開発も、あちこちで進んでいる。建て替え時期を迎えたビルが多いのだろうか。ここ数年で、あたりの景色がすっかり変わってしまった。

 私が、この地に本社を持つ企業に入社したのは、丁度五十年前だった。今年は入社五十年の記念の年である。街も五十年経てば、変わるのが当たり前、とあらためて思った。

 私の入社と前後して、京橋に開設されたブリヂストン美術館も、入居している本社ビル建て替えのために、数年間閉鎖されることになった。京橋に勤務していた頃、会社と美術館が近接していたので、仕事の合間に気軽に立ち寄っていた。5月17日の閉館前に、お気に入りの絵画作品を、ゆっくり楽しんでおこうと、今日は京橋まで出てきた。

 ブリヂストンタイヤの創業者、石橋正二郎は、西洋絵画に造詣が深く、特にモネ、ルノワール、セザンヌなど、私の大好きな印象派の作品を重点的に集めていた。京橋にブリヂストンの本社ビルを建設した際、その二階を美術館とし、石橋が所有していたコレクションを寄贈して、ブリヂストン美術館がオープンしたのだ。

 現在も二千数百点の絵画が所蔵されており、今回はそのうち厳選された百六十点が展示され、「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展として公開されている。

 絵画展の楽しみ方には、いろいろある。海外の美術館で保有する有名な絵画、例えば『ミロのヴィーナス』『モナリザ』などを、日本に持ち込んで公開する、特別展の場合だ。海外に出掛けなくてもよいし、話のタネにもなる。

 しかし、入館前に長い列をつくって順番を待たねばならない。入場してからは、決められたスピードで歩くことを要求される。目玉作品の前では、警備係員の「立ち止まらないで下さい」の声に誘導され、評判の絵は一瞥できるものの、ゆっくり楽しく鑑賞できた、という気分には程遠い。

 これに対し、美術館の常設展を見る分には、好きな時間だけ自分好みの絵の前に立ち止まり、絵画から適度な距離を置いてゆっくり鑑賞することができる。


 家内と二人で海外に出掛ける時には、必ずその地の美術館に立ち寄ることにしている。お互い見たい絵が違うし、それぞれの絵に対する鑑賞時間にも差がある。美術館に入ったところで、何時集合と決めて別れる。約束の時間に再び集合するまでは、お互いに違った世界を楽しむのだ。

 鑑賞とは、これと思った絵画をじっくり見ることで味わい、理解し、作者がどんな環境、思いで描いたのか想像しながら、楽しむことだと思う。ぞろぞろつながって歩き、横目で見ながら通り過ぎるのは、鑑賞ではなく、ただ「見た」というだけになってしまう。

 ブリヂストン美術館は私にとって、展示作品の規模、内容ともピッタリだ。ここでゆっくり鑑賞している時間は、美と歴史について共感の世界が拡がり、心が豊かになる。
 5年後の美術館再開と、大好きな印象派の絵画との再会が待たれる。

【寄稿 エッセイ】欲しいもの、必要なもの = 森田 多加子

 朝、部屋に入るとルンバが駆け寄ってくる。丁度以前飼っていた猫のように、車椅子の足元にまとわりつく感じだ。私は思わず「ルンバちゃんおはよう」と言ってしまう。
 自動掃除機の(ルンバ)は、毎朝シャーシャーと音をたてながら、リビングで働いている。命令を出しているのは私より早起きの夫である。
「おーい、そこはもう何度もやっただろう」
「キッチンには入るな」
「テーブルの下は、スポット(集中清掃)でやってもらうぞ」
 骨折をして車椅子の生活を与儀なくさせられているので、床の掃除くらいは自動掃除機でと、子どもたちからプレゼントされた。

 最初はどれほどのことがあろうかと高をくくっていたが、どうしてどうしてなかなかたいした働き手である。

 カーペットを敷いていたが、つまずいて転ぶ事故も多いと聞くので、足腰の弱くなった最近は取ってしまった。床をフローリングにしていたのも幸いした。ルンバは快適に動き回っている。


 最新式の器具のもう一つは、キッチンのガスレンジだ。火を使用するので、一番怖いのが消し忘れだ。高齢者が起こしやすい事故なども、想定範囲に入れて選んだ。今までも不便ではなく、それなりに機能的なものだったが、今回は、一つのコンロを使い終わると、3分でメインスイッチが切れるという。感震停止機能もついている。わが家の家計簿からは、ちょっと贅沢かと思えるが、この際安全のための必需品だと思った。
 しかし……、である。
 テーブルの下に、何やらわけのわからないスイッチがいっぱいだ。

 コンロの上に鍋を置かないと、火はつかない。大きすぎる炎などは調節してくれるが、私のしたいことは無視して勝手にやる。
(左コンロ、温度が高くなっております。火力自動調節に切り替わりました)
 少々じっくりと煮込む料理には、途中で
(右コンロ使用中です)と何度かいうので、  
「知ってるよ、もう、うるさいなあ」と、怒鳴ってしまう。

 ココットや、グリルプレートなどたくさん便利なものが付いているし、全ての料理が自動で出来るらしいが、使いこなせない。

 こんなに複雑なものは、取扱い説明書を見なければ、わからない……。これがまたネット上にしかないのだ。印刷しようと思うと、なんとA4で28ページもある。仕方がないので、ざっと見て必要なページだけ印刷した。

 読んでみると、自分の使い易いように、設定変更が可能という。音声ガイドはオフになる。ガスの消し忘れ時間、出来上がりお知らせ時間などの変更は勿論、ご飯のおこげを五段階に設定できるというのを見ると、笑うより笑われているような気がした。

 どう考えても、私の理想のガスコンロは、もっとシンプルなものだ。火力は思うとおりに調節ができなければならない。今までのガステーブルでよかったのだ。我が家にとっては大金をはたき、何のために買い替えたのだろう。

 後悔の中、先日、ガスを止めるのを忘れたのか、スイッチが出たままになっているのを見つけた。しかし、メインスイッチは切れている。
 不満が高じて、買い直した動機を忘れていたことに気づいた。

 これが一番大事なことだったのだ。器具に注意されたら、文句を言わずに感謝しなければいけないのだろう。

 天ぷらも焼魚もきれいにできる。こんがりきれいに焼けた魚、なんと美しい姿だろう。だけど綺麗すぎないか? 
 ああ、焼魚は、油をボトボトおとしながら、少々焦げ過ぎたか、と思うくらいのものがいいのだ。

【寄稿・エッセイ】頭の体操いたしましょう=三ツ橋よしみ

 混んだ電車で、若い女性に席をゆずられた。気持ちはうれしかったが、少しさみしくもあった。いつまでも若くありたいという思いでいるのに、現実は無残にも、あなたはもう若くないの、年相応に老いさらばえているのよ、と突き付けられたのだから。

 つやつやとしわ一つない肌をした二十歳前の娘さんから見たら、そりゃあもう六十過ぎの私は、もう立派なおばあさんなのだろうけれど。

 見た目の老化は致し方ないとしても、脳の働きが老化するのは少し困る。迷子になって行方不明になったりしたら、周りにも迷惑をかける。来るべき老いに向かって何か打つ手はないだろうか。
 そんな折に、書店で本を見つけた。
「百人一首の音読・暗誦で脳力がグングン伸びる」と表紙にある。ほんとうかな。

 著者は元小学校の校長で、富山市の小学校に在職していた時に、全校生徒一丸となって、百人一首の暗誦に取り組む活動を推進した。
 結果は目覚ましく、生徒たちの成績が上がり学習意欲の向上がみられた。小学校で百人一首の暗誦に熱心に取り組んだ生徒は、その後、中学、高校でも良い成績を収めた。
 昔の人の英才教育は、論語の素読や史書五経の暗誦だった。吉田松陰や福沢諭吉もそのようにして学んだ。
 真言宗には求聞持聡明法(ぐもんじそうめいほう)という、繰り返しマントラを唱えることで、脳の深部の回路を開き、難しいお経がすらすら覚えられるようになる秘法がある。
 ノーベル賞受賞者の三文の一がユダヤ人であるともいわれる。彼らの教育は、幼いころから膨大なユダヤ経典を暗誦させることでも知られている。


 世のため人のため、何よりも自分のため、来るべき脳の劣化に立ち向かおうと、私は思った。百人一首の暗誦に取り組むぞ。

 なあんだ、百人一首か、とあなどってはいけない。ただ漫然と百首を憶えるのではなく、加速度をつけて音読するのだ。
 最終ゴールの名人級は、「百首を、なにも見ないですらすらと7分以内で詠む」のである。
 7分は420秒だから、一首を4.2秒で詠まなければならない。躊躇したり、言い淀んだり、えーっといって、考えこめば、すぐに3秒4秒と時間がかかってしまう。新幹線のごとく、息も切らさず、突っ走らなければ7分以内で詠みきることはできない。

 ためしに、上の句5文字を、本を見ながら早口で音読してみた。うろ覚えの歌もあったので、百首に25分以上かかってしまった。これは大変だ、大丈夫かな、できるかなあ。
 通勤の電車の中で、地道に暗誦にとりくんだ。高校時代に国語の先生に暗記させられた、ばつざんがいせい、かれんちゅうきゅうなどの四字熟語が思い出された。あの頃は、一夜漬けでもなんとかなった。若かったなあ。

 久しぶりに負荷を与えられた、私の脳はとまどっていた。なによこれ、こんなもの出来るわけないじゃないと、弱音をはく。そこをしらんぷりして、今やらなかったら、次は70歳になっちゃうんだから。そんなときに後悔しないように頑張ろうよと言い聞かせる。

 普通の記憶と、百首を一気に7分で詠む記憶は、脳の使う部分がことなる実感がした。頭の手前部分に血が通うように思えた。
 小さな声で音読するのだが、スタート時は、舌はもつれ、頬の筋肉がくたびれ、目が疲れてと散々だった。一方はじめ抵抗していた私の脳は、久しぶりの自分の出番に目覚めたのか、とても喜んで疲れを知らない。
 ともあれ、暗誦練習をするようになって、通勤の行きかえりの退屈な時間が、あっという間にすぎ、快感に満ちたものとなった。


 暗誦をはじめて1カ月半たった。
 ようやく百首を10分以内に詠める「特級レベル」に到達した。この先、10分を、7分未満にする「名人」への道は、まだまだ大変だ。老化のせいで、覚えたはずのものを翌日は忘れていたりする。それでも回数を重ねればなんとかなるはずだ。希望をもとう。
「特級レベル」達成後、私の脳は気を良くしたのか、もっといろんなことに挑戦しようよと言いだした。
 体操嫌いの私には、ぴったりの脳の体操を見つけた気がする。

壮大なパノラマがあった大菩薩峠 = 松村 幸信

 平成26年5月19日(日)晴れ ~20日(月)晴れ
 参加メンバー:L武部実、石村宏昭、中野清子、松村幸信

 コース:塩山駅~裂石~丸川峠~大菩薩嶺~大菩薩峠・介山荘泊~石丸峠~小金沢山~牛奥ノ雁ヶ腹摺山~川胡桃沢ノ頭~黒岳~湯ノ沢峠~湯ノ沢峠入口~やまと天目山温泉~甲斐大和駅        


【1日目】
 塩山駅に集合し、8:30発のバスで柳沢峠に向かう計画でしたが、アクシデントによりひとり遅れ、9:30発の大菩薩峠登山口(裂石)行きに乗車する。
 裂石から舗装道路を歩き出して間もなく、雲峰寺の山門が見える。25分程で丸川峠入口を過ぎると山道となる。
 日に照らされた新緑が眩しく、時折青空の下に、真っ白な富士山が顔を覗かせ、気分は最高。丸川峠への後半の急坂の辺りより、上の木々はやっと芽吹き始めたところでした。
 12:20丸川峠に着いた。昼食休憩を摂り、13:00出発。40分位進むと、今年の大雪の名残りの雪が現われ、この時期はまだ凍った部分もあり、注意して進む。

 14:30大菩薩嶺に着。映画などで、誰もが名前は知っている山なので、初登頂に期待も膨らんでいたが、達成感も眺望もなくがっかり。14:50雷岩に着。

 壮大なパノラマが目に飛び込む。富士山、南アルプス、乗鞍岳、八ヶ岳の山々には雪が残り、真っ白に光って実に美しい。15:40大菩薩峠・介山荘着。
 夕食後、18:35の日の入に合わせ、夕日と富士山の両方を見るために、親不知ノ頭まで走る。その後は部屋に戻り、持参した焼酎を飲んで20:30就寝。


今年の西暦同じ 小金沢山2,014mにて

【2日目】
 4:35奥多摩方面からの日の出。西側には今日も南アルプスが美しく見える。
 6:50介山荘を出発。7:20笹原の中の石丸峠に着。石丸峠から湯ノ沢峠までの尾根を小金沢連嶺と呼ぶ。
 8:35今回の山行のメインである2,014mの小金沢山に到着した。9:30牛奥ノ雁ヶ腹摺山に着。途中、山道の真ん中に、子鹿の死骸を発見。今年の大雪で餌がなくなり、餓死したらしい。11:00に黒岳着。
 途中道が深く抉れているため、笹原を切り開き、新しく作られたルートを進むが、出来て間もなく刈り取った笹の根が邪魔をして実に歩き辛い。

 11:50湯ノ沢峠に着。避難小屋の近くに腰を下ろして、やっと昼食である。ここから水場を抜け、柳木場沢沿いの道を渡渉を繰り返しながら下る。
 13:05湯ノ沢峠の登山口。残りはやまと天目山温泉までの舗装道路を1時間強歩くことになる。この最後がうんざりするほど長い。
 ところが温泉まで半分くらい歩いた頃だろうか、疲れ切った顔をして歩いていた最後尾の中野さんの前に一台の車が止まり、バラバラに歩いている我々を次々に拾って、やまと天目山温泉まで送ってくださったのです。
 ひとりで登山に来ていた方でしたが、まさしく地獄で仏に会った思いです。

 13:50やまと天目山温泉に着。汗を流した後生ビールで喉を潤す。残念ながら駅までのバスは17時台までないので、タクシーで移動する。
 15:55甲斐大和駅に着いた。17:15高尾駅近くの居酒屋で反省会を以って終了する。

                 記録・松村幸信


【関連情報】

 ハイキンク・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№179から転載

迫りくるドカーンと大きな浅間山 = 栃金 正一

1.期日 : 2010年7月31日(土) 天気:晴れ
2.参加メンバ : L 栃金正一 上村信太郎 武部実 
3.コース : 浅間山荘~火山館~湯ノ平口~前掛山~火山館~浅間山荘


 4:30、天狗温泉浅間山荘に車にて到着。駐車場はまあまあ混んでおり、奥の方の空いている場所を見つけ駐車する。
 朝食をとり準備を終え5:00に出発。山荘の脇の林道を沢に沿って登って行く。林道の終点が一の鳥居である。
 ここは分岐になっており山側の道を進む。白樺や唐松のあざやかな緑に囲まれた傾斜の緩やかな道をゆっくり登る。
 二の鳥居に到着し、休憩をとる。更に行くと左手に外輪山の大きな岩壁が見え、右手には牙山が大きく尖ってそびえている。

 イオウ臭い沢を横切ると7:10火山館に到着した。ここはトイレ、水場もあり絶好の休憩ポイントである。火山館の裏手の道を少し行くとお花畑になっており黄色のマルバタケブキが群生している。
 その隣の草原にはアザミに似たタムラソウやクルマユリ、ヤマボタルフクロ等が色あざやかに咲いており目を楽しませてくれる。

 湯ノ平口を過ぎ前、掛山登山口に到着する。このあたりから周囲は灌木になり、左手には黒斑山が見えてくる。更に登ると右手にドカーンと大きな浅間山がせまってくる。あまりの大きさに圧倒される。火山灰のザレた道をひたすら登る。

 傾斜が緩やかになったところには、避難ドームが二つ設置されており、その向こうのやせ尾根の先に前掛山が見える。
(火山活動により山頂火口への登山が禁止されていた。)
 そのやせ尾根をどんどん行き9:30前掛山頂に到着。ここの山頂からは眼下に黒斑山を眼下に見ることができる。

 記念写真を撮り下山し、避難ドームで少し早い昼食をとる。展望はすばらしくさっき登った前掛山が小さく見える。

 10:50下山を開始した、ザレた道をピッチよく軽快にとばす。12:15火山館到着、休憩後、一気に二の鳥居まで下り、ここからは沢沿いの道を行き豪快に落ちる不動の滝を見て、14:00に浅間山荘に到着。早速、山荘の温泉に入り汗を流す。

 このコースは時間がかかるが、危険なところがなくスケールの大きな浅間山を充分堪能でき、変化に富んだお勧めのコースである。

                     記録・栃金正一

【関連情報】

 ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№131から転載

木々の新緑が美しい・御岳山 = 渡辺 典子

 平成26年5月20日(火) 曇のち晴
 参加者:L横溝憲雄、針谷孝司、脇野瑞枝、松本洋子、渡辺典子、その他1名    

 行程:御嶽駅(バス)~滝本駅(ケーブルカー)~御岳山駅~御嶽神社~長尾平展望台~日の出山(902m)~金毘羅尾根~武蔵五日市駅 

 御嶽駅に9:15集合、9:21発の滝本行きバスに乗車。滝本駅よりケーブルカー6分乗車し、御岳山駅に着。身支度をして10:00スタートした。

 道標に従い急坂のある舗装道路を歩く。旅館や宿坊を眺めながら、階段を登りつめ御嶽神社へ10:30着。以前、来た時は大勢の人達で賑わっていたが、平日の為か、又、天気予報が前日悪かった為か、かなり少ない。
 ゆっくり参拝を済ませ、リーダーお勧めの展望の良い長尾平展望台を目指す、10:45着。広々としたヘリコプター離着陸場がある。
 ガスがかかり眺望は少ないが、木々の新緑が美しい。東屋で休憩し、いよいよ日の出山に向かう。畑が広がる道をしばらく進み樹林帯に入る。ゆっくり登ると鳥居が見えてくる。 

 段々と急坂になり、左手には東雲山荘、右手に山小屋風のトイレがある。一段上の山頂迄ひと踏ん張りの急坂。ジャスト12:00日の出山、山頂に着いた。
 山頂は広いが人出は少なく東屋に3人程、やはり展望は余り無く、御岳山、大岳山等近くの山々が連なる。早速東屋にて昼食。昼食が終わる頃次第にハイカーが増え、20~25人位になり賑わってきた。


 12:50に、金毘羅尾根下り出発。このコースはマウンテンバイクで走る人達には有名なコースらしい。おだやかな下り一辺倒の道が続く。麻生山を通過。樹林帯が続きタルクボ峰あたりで視界が広がりホッとする。
 誰にも会わずバイクの走者もいない。同じ景色の道が続き少し疲れが出て来た時、ひときわ綺麗な黄色の花が目に入る。全部で10本位見ただろうか。皆に元気を与えてくれた。
 山野草ガイドブックで調べると“キンラン”でした。雑木林に咲く花で減少しているようだ。

 静かな下りをひたすら歩くこと3時間、15:45に金毘羅山に到着。昨年、交流山行で宴会をあげた琴平神社横の広場は閑散、ツツジも終わっていた。
 見晴台で五日市の市街地を眺め、駅へと下る。登りはわずかで美しい新緑を楽しみながら下り続けた山行は6時間の歩行、16:45五日市駅に着いた。横溝さん復帰でき、立川で反省会をして解散。お疲れ様でした。

                      記録・渡辺典子

【関連情報】
 ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№177から転載

スペインぐるり・ちょこっとポルトガル = 岩月和子

 サグラダ・ファミリアin バルセロナ     

   よいよ出発だ!

 昨年10月に亡くなった親友の森さんとスペインへ行こうと話していた。残念ながら、代理の夫と2016年2月21日から、3月1日まで彼女の追悼の旅に出かけることになる。
 私たちは、昨年ともに病気とご縁のある年だったので、
「今回は大丈夫かな」という思いはあった。

 でも、夫は空港でも機内でも、アルコールはいっさい飲まなかった。これには驚いたが、少しほっとした。私の不整脈は、予測不可能なので、リラックスしていることが大事とのことである。
 こちらも、幸いおこらなかった。


忘れられない感動の瞬間

  バルセロナへ到着する。はじめに超有名なガウディのサグラダ・ファミリア教会へでかける。旅のハイライトだ。実際に訪れると、「すごい!思っていたより、ずっとずっとすご~い!」と感嘆の声をあげてしまった。
まず、外観、イエスの誕生から、人生、受難を表現したファサード(塔のようなもの)が、にょきにょき立っている。18本建てられる予定が、現在10本が未完成である。

 一部は現在も建築中とのこと。古い部分のみが、世界遺産だそうだ。

 その場に不似合な巨大なクレーンが、デーンと居座っている。が、それでもその偉大な教会の姿に、魅了された。

      右側のステンドグラスからの太陽で室内が照らされている(写真・上)

 内部に入るとさらにステンドグラスの多さ、色調とキリストにまつわるストーリーのデザインなど、どこをとっても非の打ちどころがない。
「なんだ、このステンドグラスの数とデザインのすごさ、色彩の見事さは」
 とまたまた圧倒される。
  特に午後、太陽が教会内に差し込み、室内を緑、赤、黄色に染めあげる光の魔術には言葉を失ってしまった。サグラダ・ファミリアは、ガウディの死後100年の2026年に完成される予定だそうだ。あと10年はかかる。

 ガウディは、2代目の建築家であった。民間のカトリック団体「サン・ホセ協会」が、すべて個人の寄付により建設される贖罪教会として、計画した。

 初代の建築家のビリヤールが無償で設計を引き受けたが、意見の対立から、一年で辞任。1883年、当時まだ無名の32才のアントニ・ガウディに白羽の矢がたった。

 彼は一から設計を練りなおし、1926年に亡くなるまで、43年間、サグラダ・ファミリアの設計と建築に取り組んだ。
 彼の死後,時代毎の建築家が、彼の構想を推測しつつ、建設を継続中である。早く、完成後の姿を見てみたいものだ。

    サグラダ・ファミリアの前(写真・左上)

  建築家の人生って
  
 ガウディは、子供のころ、リュウマチにかかり病弱で、内気な少年であった。バルセロナ郊外で育ち、その境遇が彼の建築に影響を与えていると言われている。

 自分の周囲の造形、特に動植物をじっとよく観察していたそうだ。
 ガウディの作品が曲線で描かれているのも、幼いころかの環境により、培われたものだろう。クリスマスの時など、紙細工で風変わりな家を、すでに作っていたとか。
 この頃から、彼の才能は、すでにめばえていたのかもしれない。      

 また、彼の父方も母方も銅板工職人の家系で、空間の把握と曲線のみが使われているという彼の建築家のベースになっていると言われている。

         ガウディ(写真・右)

 彼のキーワードは「宗教」と「自然」だそうだ。彼は遅々として進まない教会についても、「神は完成をお急ぎではない」と、語ったそうだ。
 彼のスポンサーとなるグエルに、その才を認められ、多くの建築の注文を受けた。その出会いにより、ガウディの才能は花開くこととなる。

 彼はサグラダ・ファミリアの製作にも、没頭していく。

 彼の建築学校の師であったルシェンは、
「彼が狂人なのか天才なのか、わからない。時があきらかにするだろう」
 と言ったと伝えられる。

 彼は、女性恐怖症で生涯独身であったそうだ。晩年は友人や身内の不幸が続いたらしい。パトロンでもあったグエルの死もあった。
 さらに、1926年6月7日ミサへ行く途中に、ガウディは路面電車にはねられ、その3日後の6月10日に,73才で亡くなった。

 その後、サグラダ・ファミリア教会に埋葬された。自分が全力をかけた教会の進行具合を、今もじっと見守っているのだろう。そして建築中の地下で、その完成を、まだかなと、楽しみに待ち続けているように思える。

    現在、建設中のサグラダ・ファミリア


 あとがき

 サグラダ・ファミリアのすごさの何分の一も表現できなかったが、それでも書かないよりは、書いておきたいと言う思いがあった。
 世界には、言葉では表現しつくせないものが沢山ある。でもそれを見たり、経験したり、感動した個人個人がその思いを、少しでも書き残すことは大切ではないだろうか。これからも、いろんな人、物、場所、景色をみてみたい。
 そしてそれらを書き残しておきたいと思う。

【寄稿・エッセイ】 手のかかる相棒 = 和田譲次

 私にはチェロいう名の分身がいる。分身と言うよりも音楽活動の相棒である。
 この楽器、図体が大きい割に軽いが、ほとんどが木で組み立てられ、釘、ネジなどを使わずに、膠で張り合わせている。温度湿度の変化に敏感で振動に弱い。そのため扱いには細心の注意を払い、頑丈なケースに入れて持ち歩いている。

 楽器の重さは5キロほどだが付属品とケースを入れると10キロを超える。体力のあるころは手提げ鞄を持つように片手で持ち歩いた。今では背負って歩いている。電車の乗降やエスカレーターを利用するときには手で抱えあげる。人間を扱うより力と神経をつかう。

 ヴァイオリンをはじめ小さな楽器でも、カラフルなケースに入れ背負って歩くのが、若い世代、特に女性の間ではファッションになっている。おじさん達は重いので仕方なく背負っているのだが。
女房よりも、この相棒を大事に扱っているが私の思うようには反応してくれない。練習不足のときにはその兆候がより目立つ。

 季節の変わり目には人間と同じように不安定な状態になる。2月末にフランス人技師が経営する楽器工房に調整のため入院させた。 
「よく面倒を見てください」
 と楽器を預けたときにフランス人のパオリさんに頼んだ。
「ウィ、夜はボルドーの美味しい赤があるから匂いをかがすよ、あそこにはカマンベールが入っているし、チェロも喜ぶよ」
 と片隅の冷蔵庫を指しながら言った。さすがフランス人、洒落たことを言う。

 4日後に受け取りに行き試奏したらいつもの相棒の音と違い、豊かな音が出た。
「ワインの効果が凄いね」とお礼を言ったら、私の目の前に赤ワインのグラスを差し出した。フランス語、日本語なまりの英語でも、話は通じあう。
「これを飲んで弾いたらもっと良い音が出るよ」
 と言いウィンクした。
 芳醇な香りが口中に広がった、高額なロマネコンテかもしれない。お代わりをしたいが、相棒をぶじに連れて帰るには、これ以上は飲めない。

 私が検査で1週間入院しても4人部屋なら1万円かからない。今回相棒のためには数倍の支払いをした。ホテルで高級なワインを飲んだと思えば安いかなと納得した。

「和田とは50年来付き合ってきているが、今日の音は良かった」
 と私たちの弦楽四重奏の演奏を聴きに来た渡辺に言われた。彼とは学生時代から合奏を楽しんだ仲で、音楽評論の世界で活躍している、滅多に人をほめない男に言われて面食らった。
 同じ演奏仲間の第一ヴァイオリンの菊池は、
「ここ2~3か月、チェロらしい音が出ないと悩んでいましたね。今日は朗々と鳴っていました」
 と、ニコニコしながら言ってくれた。

 別のグループの若手チェロ奏者は終演後、私の側に来て、
「楽器を見せてください、モーツアルトらしい柔らかい音が出ていました」と言いながら楽器の内部をのぞきこんだ。

 いまの弦楽四重奏のメンバーは同じ大学オケの同窓ということもあり気が合う。
 私が一番先輩だが、お互いに遠慮はなく、練習時は厳しく問題点を指摘し合う。第二ヴァイオリン、ビオラという、アンサンブルを支える内声部を練習熱心な女性が担当するようになり、演奏レベルが向上し、この日の良い結果につながった。
 弦楽四重奏に精通した連中が聴きにきて皆が一応に「良い音が出ていた」と評価してくれた。

 相棒だけが、素晴らしい音だと誉められているのに後で気がついた。音を出した私は、相棒の陰に隠れている。一身同体なのだから、まあ、それでも良いかと納得した。
 弦楽器のことが話題になりがちな今の音楽の世界ではやむを得ない。

【寄稿・エッセイ】 海辺のお花畑 = 林  荘八郎

 江戸時代の版画家、安藤広重が金沢八景を描いた版画の中に「乙舳の帰帆」というのがある。乙舳(おっとも)は風光明媚な漁村であったようだ。漁を終えた数隻の帆かけ舟が沖から岸へ戻ってくる様子は周りの景色と溶け合い、美しい眺めだったことを物語っている。

 しかし残念ながら、近年の道路の整備や住宅地の開発のため景観は少しずつ失われた。今では「八景」の一つだったと言われても信じ難い。一方、盛んだった乙舳の漁業は海岸の埋め立てに伴い廃れ、当時の漁業の様子は浜辺に僅かに残っている漁具の収納小屋、舟置き場、陸に揚げられたままの2、3の伝馬船で偲ぶことができるだけだ。
 多くの漁師は漁業補償金を受け取って遊漁船に転業し、今は釣り客で賑わう所となった。そんな乙舳町に私は住んでいる。

 その舟置き場の脇に10坪ほどの雑草地があった。利用価値のないスペースだ。だから雑草が茂った。雑草を刈るのは我が家の隣に住む元漁師で古老の暇つぶしの仕事になっていた。ところが古老が亡くなってから放置されたままだったので、我が家から近いこともあり私が雑草刈りを続けた。
 2011年春にそこに花でも植えようかと思い、鍬で耕して雑草を根こそぎ取り払った。自分は農作業になど向いていないと思いながらも長靴を履いて畑を耕したときは、畑の持ち主になったようでちょっといい気分だった。
 作業をしている時に何が始まったのかと野次馬が集まってきた。通りがかった町内会長に、
「勝手なことをしますが、ここは誰のものですか」と聞くと「関東財務局管理の管理地ということになっています」という。
 無断使用することについては「多分文句は言ってこないでしょう」が返事だった。そのやりとりを聞いていた町内の古老は、
「ダメだと言ってきたら、ハイわかりましたといってやめれば良いんですよ」と笑った。
 ご苦労なことだ、いつまで続くことやら、と素っ気ない人もいた。
 家内もその一人だった。

 間もなく気がついたことがあった。私が楽しそうに花を植えているのを見る目は、好意的なものばかりではなさそうだと。この町内にもうるさ型の主婦はいる。どのように見ているか、顔つきを見れば黙っていてもわかる。すれ違えば気配で感じる。
 ある一家の顔つきは「国有地を勝手に利用している」と言いたげな明らかに非難の目に思えた。余計なことを始めてしまったかなという思いも抱いた。

 やがて、その場所はゴミ集積場所に適しているということで、町内会は網で作ったタタミ一畳ほどの大きさのゴミかごを畑の中央に設置した。私は残るスペースに花を植え続けた。しかし園芸の知識がないし、失敗を重ねた。水不足でサルビアを全部枯らしたこともある。台風の時に波しぶきを浴びて花が全滅したこともあった。

 町内には花作りをしている人がいるし応援してくれる人たちが現れた。むかし田舎で花を栽培した経験のある婆さん、いま植木鉢で熱心に花を育てている奥さん、散歩にきて咲きだした花を褒める人、自分の花壇の苗を持ってくる人、農作業をしていると親しみを感じてか声をかけてくる人。その人たちから感想も指導も頂く。毎朝ゴミ箱に来る奥様方もお礼や励ましの声をかけてくれるようになり、花を介して仲良しが次第に増えた。

 畑の正面に住む80歳のご婦人は日当たりの良い部屋から釣舟が行き交うのを眺めながら毎日静かに花畑を監視している。
 種を蒔いたばかりの畑が乱れているのに気づき何があったのだろうと思って佇んでいると、猫が来て畑を踏んづけていった、たくさんの雀が来て砂浴びしていった、子供たちが畑を駆け抜けていった、浜へ降りる人が畑を横切っていった、などと報告してくれる。朝夕の散歩でやってくる飼い犬は決まって畑で用を足していく。
 みんなの畑だから仕様がないと言い聞かせている。

 いまは朝起きて先ず足を向けるのは花畑だ。花は元気かと見に行く。花いじりを始めた当初はポットに入った花を買ってきて整然と植え畑が美しくなっているのが楽しかった。邪魔な雑草が出てきたら目の敵のように抜いていた。

 そのうちに畑の様子が変わってきたことに気がついた。雑草ではなさそうな芽が多く出てきて、それが嘗て植えたことのある花の苗であることがわかった。その後は雑草だけ抜くことにしてあとは草が自然に育つことに任せることにした。そのためか整然とは咲いていないが、いろいろな花が元気よく咲いている畑となった。ここの土壌に合う草花も次第に分かってきた。

 コスモスは放っておいても芽が出てきて秋に咲いてくれる。球根類は手間をかけなくてもどんどん増えるので有難い。私の花いじりはそのようなレベルだが、始めて6年経って大分花畑らしくなってきた。
 花の中で私の最大の協力者は梅雨時に咲く野生の立ち葵だ。初めは花好きの漁師が道端に植えたものらしいが、生命力が強いので町内に広がり続け、今では乙舳町の名物にまでなっている。
 この立ち葵がその時期にはお花畑を一層引き立ててくれる。
 小さな花畑はキャンパスのようだ。今年の春は40本のチューリップが咲いた。「いつまで続くことやら」という目を意識しながら花いじりを続けている。