寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 池とザリガニ =  吉田 年男

 石の間に身を潜めていて、姿を見せようとしない。タコ糸にスルメイカを結び付け、隠れていそうなところに揺らしながら静かに持ってゆく。しばらくすると、用心深そうにスルメイカを挟む赤茶色のはみがみえてくる。

 子供たちは、今日も公園の池でザリガニとりに夢中だ。魚釣りは禁止されているが、ザリガニ取りは、生物観察のため認められている。


 池の中には、ザリガニの他に鯉と金魚、亀の親子などがいる。亀はペットとして飼っていた子亀が、大きくなりすぎて家庭では飼えなくなり、無責任にも無断で池に放していったものだ。居心地がよいのか繁殖してしまって、今ではかなりの数になっている。


 池の中では、壮絶な戦いがくりかえされている。亀につかまったザリガニが無残にも胴を食いちぎられているところを見た。それも食いついているのは小さい亀だ。
 身体が小さい亀は一見かわいらしく見えるが、動きがすばしっこくて、ザリガニを食べているところをみていると、貪欲で凶暴で憎らしい。

 夏の間、亀は石と石の隙間を物色しながら活発に泳ぎ回る。ザリガニの気配を感じると、首を思い切り伸ばしてグイグイと石の隙間に入り込んでゆく。
 ザリガニたちは、必死に逃げまわる。可哀そうだが、池の中ではひたすら逃げて石の隙間の、狭くて亀の口が届かないところを探して、身を隠すより彼らに生きる道はない。


 子供のころ田圃へ水を運ぶ小川で、伊勢海老にそっくりな大きくて強そうなザリガニを見た。あの堂々としたザリガニの勇姿はどこへ行ってしまったのか。

 池の中は、危険がいっぱいで、めったなことでは石の隙間から外に出ることができない。彼らにとって、いつも死と隣り合わせの厳しい環境が、姿まで小さくてひ弱な格好にしてしまったのか。


 そんな彼らも、スルメイカの匂いにつられて、時折、用心深そうにはさみを動かしながら姿を見せて子供たちを喜ばせる。その時の仕草は、何ともせつない。
 人工池で生きる彼らには、もう一つ厳しい試練がある。それは池の掃除のときだ。水を抜き、底の部分はもちろん、置かれているおおきなまるい石、敷きつめられた玉砂利石のひとつひとつに至るまで、高圧洗浄機できれいに洗われる。

 歳月をかけてやっとできた水垢や、そこに住み着いた彼らにとって餌となる微生物まで、すべてきれいに取り除かれてしまう。やっと探し求めた安全なねぐらも、一瞬にして奪われてしまう。
 掃除している間、鯉や金魚たちは、別の場所に移されて、生命が確保されているが、その中にザリガニの姿をみたことがない。
 彼らはどこへ身を隠しているのか? どこえ行っているのであろうか? なにを食べて生きているのだろう。
 小さくて、ひ弱な姿になったザリガニたちは、掃除のときそれを素早く察知して、給水管や、給水管につながる給水槽のどこかに、そっと身を隠しているにちがいない。
 池の掃除があるたびに、心配になりこころが痛む。

【寄稿・エッセイ】 ご先祖さま = 廣川 登志男

 亡き母が、美しい絵柄の入った回り灯篭を飾ったり、おがらを焚いていたことを思い出す。「お盆には、先祖の霊が戻ってくるのよ。だから、迎え火、送り火をする習わしになっているのよ」と母から教えられてきた。
 しかし、ご先祖さまが住む「死後の世界」というのは本当にあるのだろうか。


 死後の世界の存在を裏付けているのは「臨死体験」だ。
 例えば、病院で人が死ぬと、波打っていた脳波が「ピー」という音とともにゼロ点に戻り動かなくなってしまう。画面は時間軸なので直線がいつまでも続く。そうするとお医者様が「ご臨終です」と言って死亡が確認される。
 臨死体験とは、死亡と断定された人がのちに息を吹き返し、
「○○は、私にしがみつき大泣きしてくれたね」とか、
「△△は私の臨終に間に合わなかったね」とか、
 まるで見ていたかのように話しをする。他にも、桃源郷をさまよっていたとか、三途の川を渉り損ねたとか、いろいろあり、「死後の世界」を信ずる人は多い。


 NHKで立花隆の番組があった。番組の中で、面白い事実が紹介されていた。ピーとなった脳波(直線状で波が見えない状態)を、縦軸を大きく引き伸ばすと微かだが波が現れる。
 微小な波だったために直線状に見えていただけで、実は微かだが脳波が出ている。この微かな脳波が、死を宣告されたあとの映像を記憶にとどめ臨死体験と云われる死後の世界の体験を語らせているらしい。
 その微かな脳波が消えてしまえば本当の「死」となるのではないだろうか。


 私はもともと死後の世界なぞないと信奉する一人だ。だからこの番組で紹介された脳波の紹介が妙に頭に残り、いっそう信奉の念を強くした。
 しかし、実生活のなかでは、科学で言い表せない体験がしばしば起こる。


 3か月ほど前になるが、交差点で信号待ちをしていた時だ。一番前で停車していた。交差点は視界が悪く、交差点内に入らないと左右が見えない。信号が青に変わった。普段ならすぐに車を走らせるのに、そのときは違った。なぜかわからないが、青になったとき一瞬躊躇したのだ。
 ほんの1、2秒後、「さあ出よう」とブレーキから足を離しアクセルを踏もうとした瞬間、右から車が猛スピードで駆け抜けていった。いつものように出ていたら大変な事故になっていたかと思うと、恐ろしさで膝ががくがくした。そんなことがこれまでにも何回かあった。お陰様で、いまだに交通事故は起こしていない。


 他にもある。小学校5年の時で、遊び場だった目黒不動の縁日でのことだ。
 当時は東京の武蔵小山に住んでいた。夕暮れ時に、境内の小さな丘から駆け降りるときに怪我をした。駆け降りる先に有刺鉄線が1本、ちょうど顔のあたりに張られていた。
 薄暗がりのなかで鉄線など見えるわけもなく、一気に駆け降りて、額に引っ掛け背中から落ちた。

 近くの屋台のオバサンがキズを見てくれて一応の処置をしてくれた。不思議にあまり血は出ていなかったが、眉の間に有刺鉄線の尖った部分が刺さり肉をえぐっていた。左右にはそれぞれ10センチほど離れて小さな傷があった。
「坊や、ラッキーだったね。少しずれていたら両眼をなくしていたよ。お不動さんか、坊やのご先祖さんか、どちらかわからないけど助けてもらったんだね。このくらいで済んで良かったよ」
 死後の世界はないという信念に似た気持ちに揺らぎはないものの、
「私を守ってくれているご先祖さまがいる」
 という思いも、心の奥深くで生き続けている。

【寄稿・エッセイ】 気の利いた幹事さん = 中村 誠

 年1度の「高校のクラス会」に24名が集まった。体調不順での欠席が多かったのは、七十七歳を考えればうなずける。それに台風来襲で沖縄の仲間が残念ながら欠席した。乾杯で始まり、献杯無しのスタートは誰もが良い気分だ。

 幹事の一人で進行を引き受けた田渡君が、提案した慣例の「参加者のひと言」は次のような内容だった。
「お互い近況報告はどうしても病気とか、孫自慢になってしまうが、今日は、70年前の終戦日をどのように迎えたかを思い出して語って下さい。2分程度でお願いします。どうしても難病体験を話したい方は3分以内でお願いします」
 参加者は意外な提案に笑顔で応えた。


 高校時代は弓道仲間で、同じ大学を卒業し、職場が一緒だった山岸君は、個人的にも土地や金銭面の問題には弁護士を紹介してもらい世話になった。
「記憶はハッキリしないが、あの時は、今の中国大連に住んでいた。ジイジー鳴る玉音放送は聴いたが内容は全然わからなかった。後日、親から聞いた程度だ。当時の思い出は、隣家の娘を見初め、成人してワイフになった訳だ」
 話し好きであり、他人の話を良く聞く好人物だ。2、3分で話が終わればよいがと、いつもハラハラする。今回はさすがに、おのろけを交え上手に締めた。


 次に指名された角田君。
「当時、伊豆熱海に母と姉妹一緒に疎開していた。連合軍が上陸するとの話、噂だったかな、聞いて熱海から伊東線の先の網代に移った。玉音を聴いたお袋が泣いていたのを覚えている」
 彼の話は初耳で、当時のわが家の生活がハッキリと思い出された。


 伊東線網代の先の終点、伊東にある祖父母の住まいに疎開していた。母、兄と、私の3人が同居していた。父は昭和17年5月、真珠湾奇襲から半年後に、軍属として移動中の船で命を奪われた。当時はマル秘の惨事だった。


 角田君と同じように、伊東海岸に連合軍が上陸するとの噂があった。わが家の3人は山中湖畔の旭ヶ丘に移転した。玉音放送の当日、瞼に浮かぶのは、じりじり照りつける広場に集まった大人たち。ラジオからはジイジーの雑音しか覚えていない。

 その夕刻、食堂、居間のつり下げた灯りが漏れないようにしていた布を取り払い、一気に家中が明るくなった。湖畔の対岸にある家々に灯りがハッキリと望めた。その後、伊豆伊東に戻り国民学校、後の小学校に通った。


 懐かしい70年前の話題を引き出してくれた幹事に感謝一杯だった。

これが有名な丹沢のヒルか 丹沢山麓・自然観察=佐治ひろみ

 丹沢山麓・自然観察=佐治ひろみ                         

 期日…10月25日(土)  晴れ

 メンバー…(L)市田淳子、後藤美代子、栃金正一、脇野瑞枝、佐治ひろみ

 コース…秦野8:35→蓑毛大日堂9:00~蓑毛自然観察の森「緑水庵」9:35~石庄庵11:30/12:50~実朝首塚・ふるさと公園14:30~くずはの森14:55/15:45→渋沢駅16:30

 久しぶりの丹沢である。お天気も晴れて、気分も上々だった。

 秦野駅に8:30に集合だったが、ダイヤの乱れで、35分発の蓑毛行きバスに乗れない人もいたので、最初の見学地の大日堂で待つことにした。

 大日堂は、下車したバス停から2分もかからない所にあり、仁王門に2体の木造仁王様が鎮座している。奥の大日堂には、平安時代後期の大日如来が扉越しに見られる。
 今まで大山から蓑毛に下山することも多々あったが、まったく知らなかったので、きょう立ち寄ることが出来て良かった。

 大日堂の庭でジョウビタキの観察をしていると、次のバスが到着し、全員が揃って次の自然観察の森「緑風庵」に出発した。


 緑風庵はバス通りを少し下がった水車小屋が目印だった。かつて車中から眺めてはいたが、同庵に入るのは初めてだった。
 この森はクヌギやコナラや杉林の傾斜地になっていて、野草や鳥たちが見られるそうだ。茅葺の古民家で少し休んでから、山の中を歩きはじめた。リーダーの説明で、秋の草花や実等を見て回る。

 奥の探鳥の森に向かって、じめじめした枯葉の斜面を歩いていた時、足に違和感があった。…ズボンの裾をまくり上げると、ナント、ヒルが2匹吸いついて、1匹は靴下の中に潜り込もうとしていた。
 エ~ッ、これが有名な丹沢のヒルか! たまたまGさんが塩を持っていて、パラパラかけてみると、コロッと落ちてしまった。
 とにかく森の出口まで戻り、それぞれ足の点検をしたが、それ以外はいなかった。まさに自然の体験ができて良かった。
 
 そんなことから、緑風庵は早めに切り上げ、昼食の「石庄庵」に向かう。地元のそば粉を使った蕎麦は美味だった。私達の頼んだ蕎麦会席で、お腹は一杯になり、後半のふるさと公園へと歩く。

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勘違いが事故につながる 飯縄山(飯綱山)=藪亀 徹

飯縄山(飯綱山・1917m)=藪亀徹
                                   
登山日:215年5月23(土)~24日(日)

メンバー:L佐治ひろみ、市田淳子、渡辺典子、中野清子、脇野瑞枝、藪亀徹(6名)

コース:長野駅(バス)~飯綱登山口バス停~南登山道~天狗の硯石~西登山道分岐~飯縄山~西登山道分岐(西登山道)~林道~戸隠神社中社~ペンション・タンネ~戸隠森林植物園~
鏡池~奥社~ペンション・タンネ~森林植物園越水ロッジ入口バス停~長野駅

 東京駅発6:28(5人)~大宮駅(1人)合流~長野駅に到着8:08。

 私にとって長野駅に降りたのは40年ぶりである。善光寺が7年に一度の御開帳と重なり、駅前は賑わっていた。
 8:30、駅前のバス停にはすでに多くの人が列をなしていた。心配していた座席の確保が、3台バスが来たので安心した。約1時間余りで、飯縄登山口バス停に到着した。

 9:45に、南登山道を出発した。緩やかな森林の登山道で、さっそく小鳥の鳴き声や花が迎えてくれた。
 一の鳥居から登る登山道は、現世、来世の道標として十三体の石仏が安置されていて、それぞれに標高が表示されていた。標識代わりになり、良い道しるべになった。

 11:10頃、最初の休憩予定の場所に着く、その寸前に事件が発生した。複数人の行動につきものの、1人見当たらないのに気が付く。一番後ろを歩いていた私は、見かけていない。前を歩いていると思うが、なかなか追いつかない。

 11:28、天狗の硯岩で展望が開けた。

 12:24、遠くに北アルプスが見えてきた!

 12:39、西登山道分岐点に到着した、この辺は景色が良い。花や遠くの景色の写真を撮りながらゆっくり登る。

 途中2mの鎖場が一か所あるが、ゆったりとした登山道で、湧水が途中2か所あった。最後の尾根で女性から声がかかり、
「すにいかあ倶楽部の方ですか?」
「そうです」
「連れの方が、山頂で待っています」
 ここで、やっと安心した。もし、山頂にいなかった場合どうしようと、ずっと悩んでいたが、ホッとした。もし、山頂にいない場合の状況を考えたらゾッとした。

 脇野さんは山頂に1時間早く着いたみたいだった。話を聞いたら、前に歩いている人が連れの人と勘違いして、一生懸命追いつこうとひたすら歩いたという。後ろの方は考えなかったそうです。
 山登りは、勘違いが事故に繋がる場合があるので、お互い十分に注意しましょう。

 13:15に山頂、ここまで3時間30分予定より45分オーバーしている。山頂は360度のパノラマが利き、天気も良くて、遠くの北アルプスも見えた。
 山頂での昼食は美味しかった。

 14:00に下山を開始した、下りを始めて20分ほどすると、脚がつり始めてしまい、9か月登らなかったつけが、ここで出てしまった。

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眼下には奥多摩湖の絶景、鹿倉山= 武部 実     

鹿倉山(標高1288m)= 武部 実

登山日:平成27年7月11日(土) 

参加メンバー:L武部実、佐治みろみ、大久保多世子、岩淵美枝子、中野清子、諏訪 (計6人)

コース:奥多摩駅~バス~深山橋~大寺山~大マトイ山~鹿倉山~大丹波峠~丹波村役場~バス~奥多摩駅



 久々の晴れの土曜日とあって、奥多摩駅は登山客で大混雑だった。バス停も長い行列。無事乗れるか心配したが、鴨沢西行の臨時便が出て、我々は定時(8:35発)のバスに乗ることができて一安心。

 9:15、深山橋を出発。橋を渡って、すぐ右側には蕎麦屋の陣屋の屋号が見える。その横が登山口。最初から意外に急登だ。
 30度超えの天気予報であったが、樹林帯の登山は木陰の中を歩くので、少しは楽だ。水分補給をこまめに摂るようにして登る。

 10:40、突然、目の前には真っ白で大きな仏塔が現れる。雲取山や奥多摩の高い山から白い建造物がよく眺められたが、これが噂の大寺山の頂上(982m)だ。なんで、この山の頂上に36mもの高さの仏塔がと思うが、簡単に言うと日本山妙法寺が世界平和を祈って建立したという。初めて見た人はビックリすること間違いなし。

 10:50に出発。途中の標識に、マジックペンで書いたと思われる大マトイ山(1178m)が現れる。地図上では1178mとしか書いいないので、山名が不明だったが、これで納得できた。鹿倉山まで30分の標示。目標がはっきりすると、ガンバローという気になるもんだ。

 途中の斜面からは、さきほど登った大寺山の白い仏塔と、背後のどっしりした御前山、眼下には奥多摩湖の絶景が眺められて満足。しかし、30分たっても頂上は見えず、どうなってるのかと思いながら、ようやく45分かかって12:45に到着した。

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【戦後70年・特別寄稿】東京大空襲を語り継ぐ (下)= 川上千里

日本の大都市から地方都市まで


 ルメイは日本の6大都市を焼き尽くせば、日本は大混乱になり、降伏するはずだと考えていた。ところが予想に反し、日本は徹底抗戦の姿勢をとり続けた。
 米国空軍が発注したB29は次々と生産され1000機にもなり、焼夷弾も量産されてくる。
早急に実績を上げる必要に迫られたルメイは6月17日から全国の都市爆撃を開始した。
 大都市で焼け出され、地方都市へ避難した人が再び被災した。

                         『廃墟と化した大阪市内』

 爆撃を受けた都市は全国で200ヶ所にのぼり、60都市の市街地が灰燼に帰したのである。


無差別爆撃の始末

 無差別爆撃に関しては、ドイツ軍はスペインのゲルニカに対して実行したり、日本軍は重慶を爆撃し、イギリス軍はドイツのドレスデンに行ったことなどが有名である。しかし、国中の都市を焼き尽くす作戦を実施したのはアメリカのみであり、しかも広島、長崎に原爆も投下している。

 ハーグ条約には軍事関連施設以外の爆撃は禁止されている。だが、戦後、無差別爆撃について国際的に議論がなされることはなかった。

 「私は米国の将軍だったから英雄になったが、敗戦国の将軍だったら処刑されていたであろう。」ルメイは言っている。

 戦後の日本は自国の反省も充分行わず、相手の無法さを指摘することもなく、悲惨な事実に真正面から向き合う姿勢が欠如していた。
 その上、占領軍のアメリカの非が追及されることなく、今日に至っている。

                        『ルメイ将軍』

 事もあろうにルメイ将軍には1964年、佐藤栄作総理の時代に「日本の航空自衛隊育成に協力した」と勲1等旭日大授章を贈っている。
 天皇陛下は贈呈の際、直接手渡す親授はしなかったという。この異例な行為は亡くなった国民に対する配慮であろう。

 知っていることを話す
 私は飛騨の山奥育ちで、小学校2年で終戦になったので、真の戦争体験者とは言えない。しかし伯父をはじめ、多くの村人が戦死した事実に遭遇し、戦後の生活を通してかなりの知識はある。
 定年後に戦前・戦後の写真集やDVDを買い集め、パワーポイントで子供達への語り部を始めた。
 子供たちだけでなく親や大学生なども、ほとんどの人達は初めて詳しい戦争の話を聞いたという。これまで学校では近代史を教えていないのである。我々世代が語り継ぐべきと考え、出来る限り今後も続けたい。

                          『写真週刊20世紀 100冊 』

 早乙女さんの言われた言葉が胸の底に響いている。
「知っているなら伝えよう。 知らないならば学ぼう。平和は歩いてきてくれない。」

                             【了】
             資料提供【東京大空襲・戦災資料センター】

【戦後70年・特別寄稿】東京大空襲を語り継ぐ (上) = 川上千里 

 筆者紹介。川上千里(男性)は、岐阜県・高山市上宝町本郷の出身です。東京の薬大・製薬会社から、現在は「子ども平和教育」などに力を注いでいます。川上さんの視点はつねに「犠牲者から見た平和」があります。
 そのルーツは「本郷村善九郎」にあります。
 江戸時代中期、幕府直轄領の飛騨国で、18年間にわたる農民一揆(大原騒動)が起きました。日本最大級の一揆で、幕府の弾圧は凄まじく、刑死など犠牲は計り知れなかった。農民に銃までむけました。
 弱冠18歳リーダーで非業の死を遂げたのが「本郷村善九郎」です。かれは死しても、若者の熱意と魂は受け継がれてました。最後は大逆転で、農民の勝利でした。
 老中筆頭・松平定信が、飛騨高山陣屋の役人の腐敗を見破り、大原郡代、元締、手代、手付など「武士として切腹もさせてもらえない」斬首、遠島など、全役人がことごとく処罰されました。

「貧に苦しむ民のために戦う」善九郎の精神が、川上さんの「犠牲者から見た平和」の視点はつねに重なり合うものがあるのです。

                          写真『戦火の下で』

東京大空襲を語り継ぐ (上)  川上千里

 
 
 戦後70年にあたり、戦争の歴史を風化させるなとの声が多い。そこで、東京大空襲について調べてみることにした。
                      
                 
 以前から行きたいと思っていた江東区にある東京大空襲の資料館を訪ねてみた。


 2002年に被災者の家族や市民など4000名以上の人たちが金を出し合って、江東区北砂に作ったもので、土地は篤志家から無償提供された。
 3階建てビルの1階が受付で、入場料は300円である。

 受付の脇には戦災関連図書などが置いてあり、階段を上がると2階が展示場になっている。2階ホールではビデオ上映や、講演ができ、壁面には沢山の資料写真が掲げてある。
都内の学校ばかりでなく、地方からの修学旅行生も多いという。

                   『講演用の2階ホール』


 この資料館の館長は作家の早乙女勝元氏で、設立以来このセンターの運営に携わってきた。
 運営費、建物の修繕費などの捻出のために講演会を開いて寄付を募り、涙ぐましい努力を続けている。
 昨年、同氏の講演を聞いたが、82才の熱い思いに感動した。
                            
                       『館長の早乙女勝元 氏』

東京大空襲

 東京は昭和19年11月14日以降、米軍の激しい空襲を106回受けたが、とりわけ大規模な空襲は昭和20年3月10日未明であった。

 このため東京大空襲といえば3月10日のことを言う。325機のB29が来襲してきて、一夜にして約100万人が被災し、約10万人の死者が出た。

                        『空襲を受ける東京』     

米軍の方針

 米軍は昭和20年に入ると、日本の都市の無差別爆撃を計画した。丁度、空の要塞と言われる爆撃機・B29が量産体制の入り、と同時に日本用に焼夷弾も開発できた。
 都市住民への爆撃は非人道的だ、と拒否する将軍を更迭し、積極的に爆撃を主張するカーチス・ルメイ将軍を任命した。
 そして、東京を皮切りに日本の200以上の都市が歴史上にない大々的な無差別爆撃にさらされることになってゆく。
                         
                      

ルメイ将軍の作戦



 彼はまず、東京の市街地を焼き尽くす作戦を立てた。そして木造家屋の密集した下町に狙いを定めた。B29から、空中戦用の機関砲類や弾薬、爆撃用の照準器などを降ろし、通常の2倍の積載となる6トンの焼夷弾を積みこんだ。
 その上、普段の8000m上空からでなく、高度1600~2200mの低空から夜間爆撃を行った。
                    『焼け野原の東京』 

 東京下町の市街地へ円周状に焼夷弾を落とし、燃え盛る円の中を塗りつぶすように攻撃した。
 爆撃は2時間半にわたり、風の強い日を選んでいたため瞬く間に火が広がって、下町一帯は一夜にして灰燼と帰した。
                         
                       

焼夷弾とは

 センターには焼夷弾の実物が置いてあり、その大きさに驚いた。
 アメリカ軍はユタ州に日本のモデル市街地をつくり、日本の住宅を焼く専用爆弾として開発した。

                    『空中で中から38個が飛び出す』

 飛行機から投下される前のものは長さ1m以上、直径も30cm以上で、重さは220㎏である。中に2.7kgの6角のクラスター爆弾が38個入っており、空中でバラバラになって降りそそぐ。
 この子爆弾は落下すると5秒以内に鋼鉄製の容器が爆発し、ガソリンを含んだゼリーが1300度の高温で燃えながら半径30mに飛び散る。
 東京大空襲ではこのクラスターが40万発投下され、1㎡当たり3発落ちた計算になる。燃焼・爆発力は強力で、近くに落ちると酸素欠乏が生じ、消防車のエンジンが止まり、窒息死する人も出たほどだった。

                      『落下して爆発した残骸』

 日本側のバケツリレーやはたき消火では、高い家の壁などが燃えだすと全く無力だったという。しかも、火事の場合は逃げないで、消火活動をすることが市民の義務とされていたので、焼死者がいっそう増えた。

                           
                            【つづく】

【寄稿 エッセイ】 友人の棚おろし : 月川 力江

 50年来の親しい友人が九州に四人いる。その中の一人がご主人を亡くした時、大阪にいる息子さんが母親の一人暮らしを心配して、警備保障会社セコムの取り付けを頼んだ。
 ひと月が過ぎた頃、彼女が大変なミスをして大騒動になり、それに懲りた彼女は自分でセコムの電源を切ってしまった。しかし未使用のまま銀行口座から毎月、一万一千円引き落とされている。

 以前、この話を聞いたのは40万円くらい支払った頃だったので、セコムの解約を進めて、その後は忘れていた。

 今春、九州へ行った時、友人たちと食事をしながら面白半分で、彼女に、 
「あのセコムの件、どうしたの解約した?」
「息子に怒られるから面倒だからそのままよ」
「えっ! ご主人が亡くなってから八年よ、あの時に取り付けたのだから」
とお金の計算を始めたら
「うん 100万円を超えた」と笑う。
「貴女バカじゃないの、100万円捨てたのよ、息子さんがこれを知ったら、もっと怒られるよ」
と語気荒く私は言った。

 その上、息子さんから昨年母の日のプレゼントに携帯電話を貰った、と言う。
「よかったね。電話番号を教えてよ」
「いや、教えない、息子が2ヶ月に1回くらい、電話をかけてくるから床の間に置いているが、その度に胸がどきどきするのよ、もうこれ以上は嫌よ、頭が痛くなるから使う気はない」という。

 彼女とは、若い時からの友人であり、毎年、旅行をし、食事会をして楽しむ仲間である。性格も優しくて良い人で、普通人? なのに、どうしてこの機械類に関してはこれほどまでに嫌うとは、不思議であり、もう諦めることにした。

 そして又、驚いたことに、市役所から福祉課の人が二人来て、一人暮らしの人の調査に来たと言う。たくさんの書類を渡され、住所、氏名、年齢はもちろんの事、子供さんの住所、氏名、勤務先等々いろいろと書かされた。最後に
「貴女のかかりつけの病院の名前を言ってください」
「ありません」
「えっ! 通院している病院はないのですか?」
「はい、ありません。私は、お産以外は寝たことがありませんから、病院は行きません、行くのは歯医者さんと針治療だけです」
「それでは私達は困ります、どうぞお願いです、どこか内科の病院へ行って、事情を話して血圧、血液検査などを受けて病院を作ってください」
「では夫が亡くなる前に通院していた病院の名前を書いてください」
「そのような事はできません、どうぞお願いします、頼みます」
「でも病気でもないのに病院へ行くのは嫌です」
 役所の人は三拝九拝して頼んだという。

 福祉課の人も困っただろうが、80歳過ぎの老人が病院に全く行かないとは驚いたと思う。
 その後、彼女はしかたなく近くの病院へ行ったとの事。体が丈夫な事は知ってはいたが、これほどまでとは知らなかった。私は、自慢じゃないが、内科、(循環器科、胃腸科、呼吸器科)眼科、歯科、皮膚科、耳鼻科、脳外科、整形外科そして鍼灸院と、たくさんあるのに・・・なんと羨ましい。
「この人は不死身だね、強盗がはいっても大丈夫。セコムの必要はない」と友人三人で笑った。

【寄稿 エッセイ】免許取得 = 奥田 和美

 車の普通免許を取得してから40年近くなる。スピードが好きで、女としては運転がうまい方だと思っている。

 インドネシアに4年間住んでいて、いよいよ帰国する頃、車の免許を取得しようと思った。帰国したら、夫の実家に同居する予定だった。そこは駅から徒歩で三十分、バスを使うと十五分ほどの所だ。その上、坂が多い。車の免許は必需品である。

 40年前のインドネシアでは、外国人は車の免許が取りやすいと聞いていた。好きな車種
が取れるから、日本の男性で大型免許まで取った人がいたそうだ。
 教習所はなく、練習する広場があって、自分の車で運転の練習をするのだ。夜、夫に運転してもらい、その広場に行ってから私が運転する。エンジンのかけ方、アクセルの踏み方、ブレーキのかけ方、ライトの点け方、ハンドル操作などを教えてもらう。坂道発進を特訓した。一週間ほど練習して、試験場に行った。

 夫は仕事中だったので、ディ(運転手)と一緒に出かけた。まずは標識の絵の描いてあるパネルの前に行く。試験官が指し棒で、
「これは何?」と尋ねる。私は片言のインドネシア語と手真似で、
「右折です」
 と応えた。
「これは?」
「一方通行です」
 試験官はあちこちと棒を指す。そのうち、
「これは進入禁止だね」
「はい」
「駐車禁止だね」
「はい」
 次々と質問するが、私はうなずくだけでよかった。

 いよいよ実施試験だ。ディが車を試験場に運ぶ。彼は心配して助手席に座ったが、試験官に車から出るように言われた。私は一人で運転するのだ。ディは窓にしがみついて、
「奥さん、そっとだよ、そおっと」
 とアドバイスしてくれる。

 前に進むのはできた。次にバックをしなさいと言われた。バックの練習はしていなかった。ハンドルをどちらに切ればどう動くかわからなかった。右に切ればバックは反対だから、左に行くだろうとアクセルを踏んだ。試験官がいない方向にと思ったのに、車はグンと動いて彼の方に向かった。
「ワーッ!」
 大きなざわめきが起きた。試験場には大勢の受験者がいた。建物の屋上に鈴なりになって実施試験を見ている。順番を待っている現地の人たちだ。


「この奥さんは、本当は運転ができないんだ」
 ディが告白した。
 その後、誰がどのように手続きしたのかわからないが、免許証は十日ほどして私の手元に届いた。
 帰国して、日本の普通免許に切り替えてもらう。パスポートや住民票を持って試験場に行った。筆記も実施試験もないはずだが、不安でいっぱいだった。
 やっと日本の免許証をいただいた。ほっとした。試験場を出るとき、誰かに呼び止められるのではないかと、後ろ髪を捕まれた思いだった。