寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 エッセイがとりもった友情(上)=原田公平

 原田さん(エッセイ作者)のプロフィール

①1942年徳島生まれ
②アパレルメーカー一筋。外国に行くことが多く、海外に関心を持つ
③1993年、50歳記念で道元禅師の中国の寺を訪問。そこで座禅をして旅は行動と悟
④1996年、53歳、インド釈迦の足跡を訪ねて、釈迦の悟った菩提樹の下で座禅する
⑤61歳で退職し、アメリカ一周鉄道の旅、英語に目覚める
⑥2010年、ピースボートで初めての世界一周の船旅、スエズ、パナマ運河に感動
⑦2014年、ピースボート二度目の世界一周 は初めて赤道の南を回り、地球大発見する

撮影 : 宮内幸男さん 2014年1月29日、ウユニ塩湖(ボリビア・南米)にて

     「18回総合写真展」の準大賞作品  


ウユニ塩湖の水平線  (2014年2月13日 船上・エッセイ教室提出作品)

 ボクは見渡す限り山ばかりの田舎で生まれた。常に山の向こうに何があるかを想像しながら育ち、果てしない地平線を見るのが夢だった。

 61歳の時、アメリカ一周鉄道の旅で、ニューメキシコ州、アルバカーキーからテキサス州のエルパソまで、500㌔をバスに乗る。視界は360°砂漠の地平線の世界で、車窓に魅入った。地平線に沈む夕日も圧巻だった。

 バスの程よい揺れでうつらうつらしていた。突如、真っ暗な地平線に長い光の帯が現われた。これ、何!眠気が吹っ飛んだ。メキシコとの国境のエルパソの街の火だとわかるには、少し時間がかかった。あの瞬間に見た地の果て、地平線の光の帯の光景は、強く記憶された。

 このシーンがボクの最高の地平線風景であったが、それを上回る光景に出合ったのである。

 81回の船旅、オプショナルツアーはチリのバルパライソから8日間の「マチュピチュとウユニ塩湖」である。しかし期待たっぷりのツアーが、とてつもない苦痛の旅となった。

 4000㍍の世界は呼吸が苦しく、眠りは浅く、夜は何度も激しい頭痛に悩まされた。
 世界最も高地の都市、4100㍍のボリビアのラパスの後、ウユニ湖観光が始まった。

 トヨタのランドクルーザーに4人乗り、7台が列を成してウユニ塩湖に入っていく。季節は雨期、いい時期だったのだ。塩の結晶の上に約5㌢の水が一面に張っている。東京都の3倍の広さ、見渡す限り水平線、ところどころの山並みの起伏が心をなごます。

 ドライバーは何が目印なのか、ゆっくりとゆっくりと右に行ったり左にと、そして着いた。
 塩湖にぴったりの真っ白な長靴を履いて、湖面、いや湖上に立つ。白い雲、青い空、足元は亀甲模様の白い塩の結晶で、白とブルーだけの別世界、ウユニは3700㍍の天空の鏡に着てきた真っ赤なジャケットと黒い襟巻姿に柄の帽子も湖面に映り、高地を忘れて天界を楽しむ。


 現地ガイドさんが、「今日は夕陽の条件が揃っている」と話すので、待つ。椅子が出され熱いコーヒーとケーキが用意されていた。
 やがて地平線、いや水平線に夕日が沈んでいく。船では何度もみた光景だが、ウユニはちがっていた。空には少し雲があった、しかしこれが最高の条件だという。

 どれほど待っただろうか、太陽が沈んでしばらくして西の雲が輝きだした。そして段々と強くなり、すべての雲が真っ赤に、いや黄色やオレンジに一気に燃え出した。それが湖面にも映し出され、空と湖面が真っ赤になった。
 と現地のガイドツアのトシさんが全員一列の並んでください、写真を撮りますと、万歳をしたり、いろんなポーズをする。

 10㌔もある大型カメラを持参の宮内幸男さんは列に加わらず、色んな角度からカシャカシャと連写で撮っていく。

 ウユニから船に戻り数日間は、ひたすらに過酷な条件下にあった身体を休めた。元気になった頃、宮内さんの写真の発表会がホールで行われた。多くの一般参加者もいる。
 私たちが主人公となった写真が次々と大きなスクリーンに映し出される。小道具とカメラアングル、卓越したカメラワークから新しい写真の世界がかもしだされる。だれもがウユニをさらに堪能させてもらう。そして写真は続く・・・
 会場が一瞬静まり、そして歓声が上がった。

 水平線の夕焼けの下に参加者全員が横一列となり、燃えるような夕焼けと黒い人のシルエットである。水平線の上に、そして下に、2つの光景が神秘的な「一枚の絵」となった。
 ボクの水平線の思い出が、書き換えられた瞬間である。
 カメラマン・宮内さん、ありがとうございました。
 天空の鏡、究極の水平線、いや我が人生最高となるだろう絶景の思い出となりました。
 

【寄稿・エッセイ】 クリニックにて : 三ツ橋よしみ

 血液検査の結果を診て、ドクターが言った。
「ちょっとコレステロール値が高いですね。このまま放置すると生活習慣病になりますよ」
「生活習慣病ですか。具体的にはどんな病気になるんですか?」
 わたしは身をのりだした。

「腎臓病、糖尿病、心臓病、関節炎などですね。そして病気になると、検査や治療にお金もかかりますし、かかった本人もつらいでしょう。介護も必要になります。まだ若いのだから、今から気をつけて下さい。」
「わかりました。どんなことに注意すればいいのでしょうか?」
「まず体重を減らすことですね。それには食事療法と運動です。毎日歩く習慣をつけることが大切です。」
「でも先生、うちの場合、朝夕の散歩は欠かさないんですが?もっと散歩時間を増やさないといけませんか?」
 ドクターは顔をあげると、こっちのお腹に目を向けた。

「食事はどうです? 間食とかしますか?」
「ええ、ちょこちょこと、つい」
「それがよくないですね。食事を控えめにして、おやつを止める。それだけでけっこうやせます。まあ2、3カ月がんばってみて下さい。それで様子を見ましょう。今日のところは薬は出しませんよ」
 といってドクターはカルテを閉じた。

「先生にやせなさいって言われちゃった。やっぱりねえ、チーズや肉がいけなかったのね。犬のあなたに罪はないの。飼い主が悪いのよね。」
 振り返ると、我が家の愛犬、柴犬の雑種のジンが、お腹をゆさゆささせながら、ペットクリニックの階段を元気よくおりてくる。

 2014年1月、大きな年間カレンダーに犬のダイエット目標をかきこんだ。
「くびれをつくろう!」なかなかいいスローガンだ。
 目標、13キロを12キロに。


 それから10カ月が経った。カレンダーの1月から3月までには毎日、体重の書き込みがある。が、4月からぱったりと途絶えている。しつこく餌を欲しがる犬に負けて、ダイエットに挫折してしまったのだ。

 今は何キロくらいあるのだろうか。ここのところ体重も計っていない。お腹周りをみればこの春からやせていないのは、一目瞭然だ。
 犬を抱いて体重計にのるのもおっくうなのだ。何しろ13キロもあるんだから、わたしの腰が痛くなっちゃうのよ。

 冬の暖かい日に庭で、犬と一緒に日向ぼっこをした。
 来年になったら、またダイエットに挑戦しようね。犬は気持ちよさそうに寝息をたてている。

【寄稿・エッセイ】 渡り鳥がやって来た : 三ツ橋よしみ

 11月になり北風が吹きはじめた。茶色くなった葉がはらはらと舞い散る。わたしは、ガサガサと葉を踏みしめる。がーがーと鳥の声がした。公園の池にカモが泳いでいた。

 今年の春には北へ帰った渡り鳥が戻ってきたのだ。マガモとコガモ(だとおもう)が30羽あまり、ゆったりと水草をついばんでいた。お帰りなさい、鳥たち、皆さん長旅ご苦労様でした。みんな元気でしたか。
暖かい日曜日には、家族連れが水辺で、野鳥たちに餌をやっていた。
大人たちは,ふだん渡り鳥なぞに、目もくれない。日々の暮らしが忙しすぎるのだろう。そんな大人たちも、子供と一緒だと、がぜん自然に目がむくようになる。「鳥さん、鳥さん」と声をかける。


 水鳥たちは、餌をついばみ、あきると日向ぼっこをし、毛づくろいをする。
 いつもは相手にされないスズメまでもが、餌のお余りに集まってきた。


 渡り鳥を見ていたら20代の頃に読んだローレンツ博士の著作「ソロモンの指環」を思い出した。
 今はもう手元にはないので、図書館に借りにいった。


 1903年ウィーン生まれの著者、コンラート・ローレンツ博士は、1930年代より魚類、鳥類を主とした動物の行動の研究を行い、動物行動学という領域を開拓した。その業績により1973年にはノーベル生理学法医学賞を受賞し、1989年に亡くなった。

 旧約聖書に登場するソロモン王は魔法の指環をはめて、けもの、魚、鳥と語ったという有名な言い伝 えがあり、鳥たちと語ることのできた、ローレンツ博士の書名の由来になっている。

 「ソロモンの指環」は博士と動物たちとの触れ合いをえがいた、動物行動学の入門書で、動物好きにはお勧めの本である。
  本の挿話の一つに、V字の編隊をくんで空を飛んでいるガンの群れを見て、左列二番目のガンの、初列風切羽が一枚かけていたので、博士は、「ああ、あれはオスのマルティンだ。わたしのペットのハイイロガンのメスのマルティナの婚約者だ」という。

 最初に読んだときに、渡り鳥に知り合いがいる、自由に飛んでいるあの鳥を知っている、なんて素敵な学者なんだろうと、若いわたしは感激したものだった。

 そして今、わたしは近所の公園で渡り鳥をながめている。1羽1羽の識別は出来ないが、目の前にいるカモたちの何羽かは、去年に会った鳥たちなのだ。カモは冬の間にこの地で卵をうみ育て、そして春には北へ帰っていく。

 シベリアねえ、わたしは行ったことがないの。どんなところかしら。
 暖かい日、池のほとりで、のんびりと遊ぶカモたちに、人間はどんなふうに見えているのだろうか。

【寄稿・エッセイ】 山登り = 青山貴文

 秋の空に千切れ雲が浮かんでいる。午後の暖かい陽射しが、2階の書斎の本棚の片隅に差し込んでいる。その日だまりにA5サイズの青い表紙のノートが鎮座している。これは10数年前より、私の登山記録を克明に手書きしているものだ。

 初めて山らしい山に登ったのは、このノートには記載ないが、大学1年の夏の槍ヶ岳であった。今は亡き一歳年上の姉が勤めていた立川市役所の登山部の方がたに連れられて登った。穂高岳と槍ヶ岳の3泊4日の登頂であった。始めて布製のキャラバンシュウズを買って、ザックは登山部の方のものを借りた。

 梓川の清流の水量の多さと冷たさが新鮮であった。当時、穂高などの山名も良く知らなかった。
そのときの強烈な記憶が、いまだに脳裏に残っている。槍のくさり場で、数珠つなぎになりながら登っているとき、頂上近くの裏手の方から、
「人がおちたぞ」
 という叫び声が聞こえてくる。はるか下方の登り始めた山小屋から、数人の救助隊の人たちが出て来た。豆粒のように見える。彼らは、急な斜面を降りてゆく。私は握っていた鎖を握り締めなおして、恐怖と期待の入り混じった思いで、槍の頂きをよじ登った。

 槍の頂上がどんな眺望であったか、今となれば、確かな記憶がない。朝陽にあたった山塊の感触だけが深く身に沁み、ただ登り詰めたという安心感と達成感で一杯であった。やがて、落ちて行った方がどうなったか知らないまま、精も魂もつき果てて梓川に下りて来た。

 浪人の時、住み込み店員をしていたので、体力と忍耐強さには自信があった。しかし、生と死の隣り合せの登山の厳しさは違っていた。
 下山した時の写真がある。頬が落ち込み、目も力なく窪んで、みすぼらしい顔をしている。若い体力と無鉄砲さが成し遂げたものだと思う。

 その後、軟弱な自分の体に合わないものと、山とは遠去かった。ただ、このような華奢な身体では何もできないと、エキスパンダ(5列スプリング)や鉄アレイを購入し、日々それらに打ち込んでいた。
鉄鋼会社に入社して、研究係の4人で妙高に登ったことがある。槍を踏破したというだけで、勇ましく出かけたのはよかったが、3人のバイタリティには、着いて行けなかった。

 その後、仲間と登るとどうしても遅れるので、一人で黙々と登るようになった。山とは、マイペースで、息継ぎを上手くやると、時間はかかるが、なんとか登れるという自信がついてきた。就職さきの熊谷工場は、秩父の山々が近く、登山には事欠かなかった。

 仕事がうまくいかないとき、あるいはうまくいった時、どちらにしても休日には近くの山を目指した。武甲山・小持山・大持山の周遊登山には武甲山の麓に車を置いて、何回も出かけた。さらに両神山、二子山、妙義山、赤城山、雲取山などの低山登山を楽しんだ。山頂に立った時の達成感は何とも言えない。仕事の出来不出来などは小さいことのように思えてくる。いつでも受け入れてくれる山のやさしさが何ともいえず、その大きな包容力に一段と魅せられるようになっていった。

 結婚してからも、妻に山の楽しさを教えた。何かと言うとタクシーに乗りたがる妻も、歩くことを率先するようになる。彼女も、山の歩きかたを覚えた。私の両親の看病の辛さも、山に捨てて来るようになった。山頂を極めたのち、近くの温泉に浸かって疲れを取り去る。二人して登山が趣味になった。

 尾瀬には妻と二人して尾瀬ヶ原から至仏山を踏破したり、燧岳(ひうちだけ)の長い稜線の下りに足の指先が靴底にめり込んだりしながら下山してきた。一面のニッコウキスゲに出あって疲れもふっ飛んだ。時には、二人の娘達を連れて、延べ15~6回ほど出かけた。

 ロープウエイを使い、尾根伝いの谷川岳を縦走したり、那須岳から三斗小屋の露天風呂につかったりした。夏山は3000m級の尾根は涼しく、下界の暑さを忘れさせてくれる。

 青い山ノートには、妻と猿倉から雪渓を登り、お花畑を横切り白馬荘に泊まり、尾根伝いに下山したことが詳細に記されている。さらに、ノートの最後の方には、数年前に5時間掛けて一人で登った甲武信岳の記録がある。大きく明るい星ぼしが満天の夜空に輝いていた。

 ノートを読み終えたあと、
「甲武信岳の星は、なんと言っても圧巻だったな」
 と私が懐がしかると、未だ登ったことのない妻が残念がる。彼女も登って見たいという。今となっては、私は伴奏して登る自信がない。というよりも、妻の知らない山々の魅力を独占し、亭主の優位を保っておきたい思いがある。
                           

【寄稿 エッセイ】 似顔絵= 奥田 和美

 この75歳くらいの男の人は、どうも私の描いた似顔絵が気に入らないらしい。そばにいる女性が「よく似ている」とほめれば褒めるほど、「そうかな、こんなかな」と、ますます険悪になってくる。隣の先生の描くのを覗いて、
「あっちは色が付いてるよ」
 と文句を言った。お金なんかもらわなければよかった。

 新橋ばるーんフェスティバルで、住田先生と二人で似顔絵を描いた。

 二人は15年前に三越文化センターで開かれた、「元気に百歳」クラブ創始者の鈴木将夫さんの似顔絵教室に通った、一番弟子と二番弟子である。一番が私で、一年間通って卒業したあと、住田先生が入った。
 住田先生は卒業後、自分で似顔絵教室をボランティアで開くなど、積極的に描いていた。常に葉書とカラーペンを持ち歩き、居酒屋の店主や知り合った初対面の人をすぐに描いた。延べ二千人ぐらいだそうだ。

 私はと言えば、最近はちっとも描いていない。7年前、ニュージーランドにシニア留学した時、生徒と先生たちを70人ほど描いた。英語ができなくても仲良くなれた。コミュニケーションの手段として大いに役に立った。
 10歳くらいの女の子が、
「いくら?」
 とドル札を出したのには驚かされた。
「これは私の趣味だから、要らない」 
 と断った。
 お金をもらうほどうまくはないのだ。

 私の描くのは漫画タッチで、単純な線だけの絵だ。色もあまり付けない。住田先生のは、線で描いた後、「お化粧をします」と言って顔や周りに色を塗る。普段、俳句や習字の先生をしているせいか、知識が豊富で話がうまい。最後に描いた葉書を渡すとき、
「きっと良いことがありますよ」
 の一言を添える。お客はご機嫌よく帰っていく。

 私は描くのが早い。「たった3分で青春時代を200円で描きます」と看板に出しているが、1分で描き上げる。20代のイケメンの男の子が、「面白そうだ」と言って私の前に座った。サラッと描いたら「へー、スゲー」と言って、連れの女性を呼んできてくれた。
「3分なんてかからなかったよ」
 その人も気に入ってくれた。

 女性は描きやすい。ヘアスタイルに特徴があるし、美しく描ける。、男性は、特に髪の毛のない人は、描くのが難しい。しわを入れると、より爺くさくなる。
「これじゃあ痩せすぎだよ」
 と、もう一枚描かされた人もいた。
 結局、私一人で40人描いた。お金を貰うのはなんとなく後ろめたいが、自分の稼ぎで飲むビールは旨い。

【寄稿エッセイ】会話のぬくもり = 吉田 年男

 寂しそうな表情が強く印象に残った。植木の選定作業が一段落したのか、職人が地べたに直に座って、ひとりでお茶をすすっている。お盆には、急須と食べかけの和菓子が乗いる。

 一昔前までは、職人さんに庭木の手入れなどを頼むと、彼らが一服する十時と三時には、縁側などに腰を掛けてもらいお茶とお菓子をだした。家の者も一緒になって、たわいないことを話題にして、笑いながら話をする。そんな時、ほのぼのとした会話の温もりを感じたものだ。
 今は、そういうことが煩わしいのか、挨拶だけをして、お茶も出さずにすぐに引っ込んでしまう家もあるという。 頼まれた方も、決まった仕事だけをこなして、さっさと引き上げてしまう。ビジネスだからと割り切ってしまえば、それはそれでよいのかもしれないが、会話のない付き合いは、温かみが感じられない。
   
 勤めていた会社の事務室を訪ねることになった。東京駅丸の内口を出た目の前に事務室はあった。ビル管理会社が管理しているせいか、セキュリテイがことのほか厳しい。受付まで面会者を呼び出さないと、元社員でも中に入れてもらえない。23階の受付で面会者の名前を言って、しばらく待った。

 顔なじみだった女性が現れてホッした。少し時間があったので、使用していない役員室や会議室などを彼女に案内してもらった。役員室はもとより、廊下に並んでいる各会議室に、しっかり施錠がしてある。担当者がセキュリテイカードを鍵の所にタッチしないと会議室のドアは開かない。

 目的の事務室へ向かった。入り口の付近には、部署名などの書かれた看板がどこにも見当たらない。
 事務室には、ざっと100人が執務している感じだ。広い室内はシーンとしていて話声がしない。打ち合わせやおしゃべりなどは、しないということか? それにしても静かすぎる。

 人が多いのに静まり返ったこの雰囲気は、なんとも不自然で不気味な感じがする。この時、地べたに直に座って、寂しそうな表情でお茶をすすっていた、植木職人の顔を思い出した。
 整然と並んだ各デスクの間は、セパレターで仕切られている。社員たちは、しきりにパソコンのキーボードを操作している。

 案内してくれた女性に尋ねた。「事務所内はいつもこんなに静かなの?」 「そうです。いつもと変わりません。お昼休みに、昼食をどこでする? なども隣の人とメールでやり取りをしています」
相手の目を見ながら対話をすることで、おたがいの気持ちが自然に通じ合い、顔の表情などから、親しみや温もりが感じられるのではないのか。

「隣の人とくらいは、口で言えよ」と言いたかった。
 話声のしない、無機質で異様な現実を目の前にしたとき、張りつめていた気持ちが一気に抜けてしまった。用事をすませてさっさと事務室を後にした。

 今日はなんだか気落ちしてしまった。
 ビルを出て東京駅へむかった。気分を変えようと、信号待ちの交差点に立ち止まって大きく深呼吸をした。信号が青に変わった。無言でまわりの人たちが一斉に歩き始めた。その光景は、いつもと変わらない見慣れたものなのだが、なぜかこの時は、交差点までが無機質で異様なところに思えた。


 

【寄稿・小説】 足払い (下) = 外狩雅巳

著者紹介

 外狩雅巳(とがり まさみ)さん

  私は15歳で丁稚奉公を始めました。時計の販売修理を行う老舗の大店に住み込んで働きました。盆と正月しか休めない徒弟制度の日々でした。
 「まさみ、いつまで寝てるんだっ」
 屋根裏部屋に詰め込まれて朝は兄弟子に叩き起こされます。
 「まさみ、何杯食うんだ」
 小さい茶碗に二杯目を盛ればもう叱責されます。
「まだ覚えんのか、こんな簡単な事が、馬鹿か」
 時計組立も無理偏にゲンコツで叩き込まれました。

          
文芸同志会・詩人回廊「外狩雅巳の自分説話」より
 

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  小説 「足払い」 (下)   外狩雅巳  


                 4

 左足を対手の腹の下あたりに当てて、後ろへ倒れていく。のしかかってくるその男の勢いを利用して後転していく。その時対手の衿を握った両手は強く手元へ引く。足は真直ぐに伸ばす。足裏へ対手を乗せたらもう「巴投げ」は決まったも同然だ。

 そんな相馬のもくろみは見事にはずれて股の中へ入り込んでのしかかられ、いま「上四方固め」におさえ込まれる寸前だ。負ける。頭の中に敗北の二文字が浮き上がってくる。

 するとまたあの一回戦で相馬に負けたあの男の後ろ姿が思い出されてきた。敗れて背を丸めて退場していくその沈んだ後ろ姿。そして声援に来ている自社の幹部達の前でひっきりなしに頭を下げている。社を代表して来たあの男にもう陽の当たる機会は無いかもしれなく、自分自身のためにだけ闘い勝ち抜いていきたいと強く思っていた。いま相馬には柔道しかない。

 手で頭をかばって体を丸めてまるで穴にこもったような形でただひたすら攻撃から逃れようとする。芋虫のように身をくねらせて場外との境目のそのラインを越えようと必死に逃げ回る。
 京子の目に今の自分がどう映るのか。それだからこそ今ここで敗れたくはなかった。再度の反撃で男らしい闘いを見せたい。すでに社を代表する二人の選手のうち一人として伊藤は三回戦を苦もなくクリアしている。今年こそ伊藤の優勝の可能性は大きいとあるスポーツ紙は報じている。
「そしたら私はあの人と一緒になるの。でも……」
 京子のあの言葉がよみがえってくる。でも……の次に何が言いたいのだ。

 一ヶ月前、京子が販売部の窓から見た相馬の姿。夕陽を背に受けて北風に追われるようなその姿。受注締切り午後四時を目前に販売部内は今日もまた戦場になっていた。
 ダークスーツに身を固めた戦士達が目標に向かって飽くなき挑戦を繰り広げる。実績表が壁から見下ろしている。

 その前に仁王立ちになって声を荒げて督戦するそのダブルが似合う切り込み隊長こそ課長の内辞を発令されている伊藤その人である。次代の販売部そして明日のN工業本社を背負っていく男。
 そして窓外には、北風の中ただ一人丸めた背に重そうな荷をかつぐ相馬。流通管理部万年平社員。
 それでも京子は相馬についてきた。浅黒く陽焼けした笑顔の中でまっ白い歯のまぶしさと汗の臭いの中で立ちくらんだ青春の一ページ。その日以来の誠実な青年との日々。相馬といる時間こそ自分の人間を感じる時だと信じて来た日々。

 伊藤は強引だった。それしかない男だった。自分しか京子を幸せにできないと信じ込む男だった。
 自信と突進で目標を極め続けて来た男。その男が目に涙して跪ずいて愛を告白した時から京子は揺れてきた。親達の願う貧しさのない平穏な家庭。いくつかの恋の遍歴の中で知った男達の仕打ち。打算が頭をもたげる女の二十八歳。


                 5


 外で一台のトラックがいま枕元に響く音を残して行き過ぎた。すぐ後でまた次の音がせり上がってくる。ブロロオと次第に高くなり耳元すれすれに接近して部屋とダブルベッドの上の二人をゆすぶり上げて、その音が消えた後の静寂の中で男と女の裸身がうごめいている。

 駅裏を降りると北風が正面から襲いかかってくる。コートの襟を立て肩を寄せ合って左に曲がって迷路のような飲食店街の露地をさまよい始めると、今日もまた二人の貪欲な貪り合いの時間がやってきた。
 手垢で黒光りするテーブルといびつな丸椅子しかない小さな店内にあふれる作業服姿の男だらけの中で次々に飲み干す安くて強い酒が、二軒目そして三軒目と体中から理性と知性と希望の三つを麻痺させてゆくまで、さらに獣の内臓のゴッタ煮を売る店の奥や、いぎたなく酔いつぶれて床に転がるボロ布のような男達のいる店へと二人は飲み継いでいく。気がつくと今日もまた二人はその宿のベッドの上にお互いをさらけ出していた。

 川を渡った第三京浜国道が大きくカーブを切って窓の外ピッタリに走っている。去来する車のエンジンのうなりの中で京子の発する絶叫もまたかき消されていく。
 頭を振り立てて口の端から漏れるその叫びを見下ろす相馬の目にバッサリと結びを解かれて乱れ広がった長い髪の黒さが純白のシーツの上で蛇のようにうねり波打ち、汗でギラギラとした京子の顔の美しさを女神のように際立たせる。大きくせり上がって乗っかかっている相馬の身体ごと持ち上げて反り返る白い腹から背に回した腕に相馬の力が加わる。〝クソウ。胎ませてやる〟百キロの巨体を押え込む
時よりも強く相馬は京子を組み敷いていく。

 〝やめて〟男の昇りゆく気配を感じて京子の口から拒否の言葉が出るとビクウンとさらにひとつ大きく反り返り振り立てて相馬をはねつけようとするその上でいま、男の激情が達しようとしている。頭いっぱいに広がった快感のその中心から一気にほとばしり出る激流の波の中で京子の裸身が紅を刷いたように染まっていく。

 頂点の満足感が長く続いてその後に続く空白の時の流れが終わった時の二人の目と目が刺し合っていた。
「明日の決勝戦には来ないでくれ。伊藤とやるんだ」
「いや。行くわよ」
「俺がまたあいつの下で打ちひしがれるところを見たいのか」
「そうよ。そこが見たいの、ぶざまなあなたが」


                 6


 高い視点から見下ろして薄くなり出した頭の上へ鼻からの空気をふりまきながらつかみかかって来る伊藤の組み手を切り返し切り返し相馬は広い場内を後退する。腰を大きく引いて一歩また一歩と後ずさりしていく。

 社内での練習でもいつもそうだった。無理矢理つかみ込んで来て腰に乗せる、投げる、そしてのしかぶさってくる。もう何度相馬はそうやって伊藤の胸の下でそのワキガの臭いを吸い込まされてきたことだろう。今日はその総仕上げだ。京子の目の前で決定的に踏みにじられてゆく。その先に伊藤と京子の結婚があるのだろう。

 相馬を切り捨てられない京子の心のほんのわずかな部分。そこだけで繋がって来た四年間。昨日の夜の言葉が相馬の頭に蘇ってくる。俺はここでぶざまに負けるべきなのだ。そうすれば本当に自分とのしがらみを切って京子はこの男の胸へ飛び込んでいけるのだろう。

 相馬は顔を歪めてねじくれた心の苦しさに耐えようとする。何だったのか自分は。今あの高いスタンドから、この腰を引いてヨタヨタと逃げ回っている頭髪も薄くなり出したみじめな中年入口のこの俺を、どんな気持ちで見下ろしているのだろう。相馬にはそんな終わり方での青年時代のピリオドは耐え切れないことだった。

 引きずり上げられて腰にもっていかれる。渾身の力で耐える。耐え続けるだけだ。十分間の競技時間いっぱいまで、とにかく耐える以外に方法がない。襟首をわしづかみにされて広い試合場の畳の上を右に左に前にうしろに引き回されていく。このあと伊藤の左足が畳を摺って飛び込んでくるのだ。

 いつもそうだった。高い位置で半回転させられて、回ったところで一時静止されてそのまま約百センチメートル下の畳めがけて体重を乗せてたたき落とされるのだ。五体が分散しそうな着地のショックの中で決定的な敗北を味わわされてきたのだ。今またその瞬間がやってきたのだ。

 絶望感の中で最後のひとあがき、体をゆすって組み手をふりほどく努力をする相馬。そののけぞった顔の視線の先が見つけたあの水色のワンピース。京子の顔がクローズアップで接近する。ひややかな視線と交叉した時相馬は本当に狂った。頭の芯から怒りが沸き上がってきて身体中に広がってゆき、いっぱいになって爆発した。

 大きく持ち上げられて伊藤の腰の上を回転する寸前の相馬の右足が伊藤の軸足の前を通り過ぎようとしたその時、くの字に曲がっていた相馬の足が突然ピーンと直線に伸ばされた。そして伸び切った足の先が伊藤の膝の前に引っかかった。絶対禁止の動作を行なった相馬だった。

 こうしてからまった足は、駆けていく両足の中に棒を差し入れると転倒する時と同じ状態になっている。もつれ転倒する伊藤。どちらかの足が折れる結果となる。

 引きずり回され、つまみ上げられて京子の目の前で負け犬としてたたきつけられようとしていた、その土壇場で相馬の足が引っかかった。その時はじめて京子には相馬が見えたような気がする。あのまぶしかった白い歯並びの日から長い四年目。いつも京子には相馬がはっきりと見えなかった。おぼろげながら貧相を正視出来ず酒に理性が溶け切った中でしか正対しえなかった四年間。
 それが決定的な破滅を迎えようとしている今、はじめて相馬の全身がはっきりと見えたようだ。人生丸ごと足払いされた一人の男のそのおしまいの姿。

 もつれて一体となって倒れていく二人。足が折れた音が聞こえたようだ。見つめ続ける相馬。迎えてはじき返す京子の視線。刺し合った二つの視線のままで時間は止まった。


                                (完)

【寄稿・小説】 足払い (上) = 外狩雅巳

著者の横顔

 外狩雅巳(とがり まさみ)さん

 北一郎氏の評では、外狩雅巳の作品は「現代の社会思想の変遷を見事にえぐり出した作家」と言う。
 作者自身は、「同人誌続けておりますが、社会派としての矜持は忘れないで執筆したい」と熱意を語っている。

  文芸同志会「詩人回廊」より


足払い (上) 縦書き 印刷して読む場合もこちら

  小説 「足払い」 (上) 外狩雅巳

 汗と体臭の満ちた場内に一歩足を踏み入れると八時間の単純労働にゆがんだ肉体が闘志をむき出しにして緊張を作る。
 その瞬間の快感の目のくらみを通過して今日も相馬は蘇生した。


 密生した胸毛のすべてに汗の玉をしたたらせたそのぶ厚い肉塊がたたきつけるようにかぶさって、したたかに後頭部を畳の合わせ目に打ちつけられる。
 真赤に燃えて乾いた喉の奥に、鼻から吸い込んだ春草のそれに似た青畳の香りが一抹の清涼さを運んで、極限まで疲労した肉と筋のすべてに屈服を拒否させる最後の戦いへと駆り立てる。
 巨体の胸の下でガッシリと決った「上四方固め」。
 カァーッと充血させた顔面をふりみだし、相馬の四肢が拘束からの解放を求めて牙をむく。
 汗がふき出して流れ込み目がかすむ。払う手も、ふるい落とさんがための体も固定を強制され続ける。

 肉体がそれを確認した時から相馬はケダモノになる。絞め技が首を襲う。止められてしまった呼吸の中で経過する時間は死のイメージを広げる。その時相馬の肉体を吹き抜ける快感。
 寒稽古の熱気の中でわずかの二時間がまたたく間に肉体の消耗と共にすぎてゆく。
 燃えつくした心身に今日も冷水が心地良い。やっと本当の一日が終わった実感にひたり込んでいる相馬の耳に、シャワーの音を引き裂いて同僚の誘いの声が聞こえてくる。
「打ち上げだ。飲みに行くかー。ソオマよーっ」
「前祝の景気付けに一杯どおだよぉ」
 N工業本社代表として明日から相馬は全日本実業団柔道大会に出場する。オリンピック代表選考を兼ねた今回は、全国から実力充分の強豪が集まってくる。三十代半ばになろうとしている相馬には荷の重い大会が、それでも何かしら心弾む期待感をもたせてそびえ立っている。


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 目の前をせわしなく左右に体を動かして重心を低く摺り足で後退する相馬の隙を窺っていた対手の身体がふっと沈んだかと思うと、丸まった背と腰が胸の前へスッポリとはいり込んで来た。「背負い投げ」にやってきたその対手の腰が胸に付く寸前、突然に相馬は後退を前進に切り換えてその腰を抱え込みに出た。そのまま体重を掛けてのしかかっていく。当然後退して腰を落として防御するとばかり相馬の動きを計算していた。その逆をついた攻め。
 技の決まる寸前のバランス移動中のもろいその背へ腰へ、相馬の体重がかかる。その重みを受け止めかねて対手はよろめき、そしてたたらを踏んでしばらくこらえた後で崩れるように前へ倒れ込んでいく。そのまま背にしがみ付いて相馬は馬乗りになっていく。

 驚愕の顔付きが振り向く。信じられないといったその目。その振り仰いで持ち上がった顔の下にできた隙間に相馬の左手が滑り込んでいく。衿に達すると強く握りしめて引く。
 それを背中まで引き付けた時、「後ろ袈裟固め」が完成する。喉の所で空気の出入りがストップして三十秒。指先がしびれて感触が無くなっても相馬は耐えた。背に乗せた相馬を三十センチも跳ね上げるほど、相手はもだえ苦しみ暴れ回った。その顔面をゴシゴシと畳の縁に押し付け、反撃する闘志を絶望感へと変えていく。

 相馬の胸の中で何かがフツフツと煮えたぎってくる。背筋を上がってくる密やかなエクスタシー。
「一本。それまでっ」
 主審の勝利の宣言を、まるでオモチャを取り上げられた幼児のような気持ちで聞く。スッと引いてゆく快感。勝利の喜びは湧かない。


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 左へ左へ。対手に合わせて摺り足で重心を移動する。自然体で構えて自在に対応する。気張らず軽々しくもせず。押さば押せ、引かば引け、なるがままに動く。重心はよどみなく畳面を滑らす。左へ左へ。
 一回戦をH商会代表と戦い、一本勝ちしていま二回戦。
 場外が近づいてそちらへ気がいった。上から二段目、スタンド席のちょうど真ん中に水色のワンピースを見つける。京子だ。
 右足の前を風が動いた。微かな風圧を感じて本能的に腰を引く。スタンドに京子を見たその相馬の一瞬の気の緩みにつけ入って、対手の技が仕掛けられてきた。対面していたその顔が思いっ切り後ろを振り向いて、つられて身体全体が鋭く回転する。危機を察して素早く引こうとしたその相馬の腰の前にすでに対手の尻がピッタリと密着されようとしている。

 これで組み合った腕を抱え込まれてしまえば、あとは腰と脚を跳ね上げて身体を持ち上げられ、そして空中で半回転しながらその対手の汗に濡れた胸に相馬の胸が接続しながら、試合場の畳の上へ墜落するしかないのだ。
 二回戦の見せ場を作って「払い腰」の大技の餌食となり、敗北の肢体をそのビヤ樽のように横太りした男を胸の上に乗せて観客に晒す。N工業からの後援者達の目前でそれがいま現実となりつつある。京子が見ている。
 相馬の対応はしかしすでに効力は大きく減らされてしまった。引き付けられ抱え込まれようとしている左腕を振り切ること、それのみがこの時点での唯一の防御策なのだ。セオリー通りの相馬は左腕に力を込めて引きもどそうとするが、それこそ勝敗の分かれ目と知っている対手の握力には万全の力がこもっている。

 引かれる。引き付けられる。そして抱え込まれるその寸前、相馬は我知らず暴挙に出てしまっていた。
 握った対手の衿口から手を離して、そしてその手で相手の顔面をつかもうとした。技への対抗、精一杯つっ張っていたその衿口の手を離したらもう身体を支えていることは出来ない。グラリと揺れて自分から技に掛かっていくその過程で手がその男の顔に届いた。いや正確には顔の中の鼻のその先端にやっと伸びた。

 そこから幸運が始まった。入ってしまった。スッポリと伸ばし切った指の先が、中指と薬指の先が二本、二つの穴の中につき刺さってしまった。それはまったくの偶然であり故意に行なった反則といったものではない。そして割れて血の滲んだ爪の角が柔らかな内側の粘膜にくい込んだ。

 息を荒くして穴を大きく広げて鼻から酸素を取り込もうとしていた矢先にそれがストップしたので、対手にとってそれは一瞬目の眩むような衝撃であったらしく、喉の奥から不快な擬音を発しながら顔が横に振られた。指は抜けた。すぐ抜けた。審判すら正確には事態をつかみかねるほどその短い時間の中で、いくつかの動作が、しかし裂けた爪の角にかすかに血と数ミリの粘膜を引き連れて終わった時、局面は大きく変わっていた。

 アクシデントに、万全だった対手の技の仕掛けが綻んだ。鼻の穴が詰まった。驚いて振り切った。
 不完全な形でその「払い腰」の技は終った。もつれ合ったまま二人は崩れ落ちるように畳の上にへたり込んでしまった。割って入った主審が二人を立たせて改めて試合の続行を宣告する。
 左へ左へ。再び二人の重心が畳の上を移動する。

 この男もB自動車の代表として企業の名と自分の立場を背負っていま相馬に立ち向っているのだ……と考えるとその赤い点のような血の滲みの見える鼻の穴をこちらに向けている横太りした対手に、何とはなしに同情を感じてくる。
 こうやって自分は会社で伊藤と十年間に渡ってN工業本社代表の座を争ってきて今やっとその頂点に立っているのだ。会社と社員達の名誉と声援を一身に受けて今ここに自分がいる。こうして二人は競わなければならない立場にいる。
 何のために、会社のためにか。俺もこの男もそんなことを目指して柔道に打ち込んできたのだろうか。相馬の心の中で小さな揺れが少しずつ広がっていく。


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「S大学柔道部出身の伊藤です。仕事でも力いっぱいねばり腰を発揮してガンバリます」
続いて何人かの自己紹介の後で順番が相馬のところへ回ってきた。販売事業部の朝礼の折、五十音順で新入社員が初出社の挨拶を行なった時のことだった。
「私は相馬です。伊藤君と同じ職場ですのでよろしく」
 口下手な相馬には伊藤に先に言われてしまった言葉以外を捜し出すことができなかった。高校そして大学時代、いつも伊藤が一歩先を歩いていたことがこの会社でもまた繰り返されようとしているのだ。
 そして独身寮に入居して販売事業部の二つの課にそれぞれ配属されてから十年、相馬が伊藤の前に出たことは一度もなかった。

 無数に生産されてくるN工業各地工場の完成品。その商品はすべて本社販売部で捌き切らなければならない。多くの販売代理店、そしてその先の得意先企業、商店、公社等々。

 入社して四年がたって、相馬は流通管理部へ配転された。伊藤は主任販売員になっていた。四年間相馬は受け持ちの得意先を連日足まめに回り、どんな小さな注文も地を這うようにして拾い集めてきたつもりだった。伊藤はしかし小さな客は他の部員にまかせて、弁舌と押し出しを武器に大企業に乗り込み、次々と大口の顧客を開拓し、入社の自己紹介を実地で証明していった。
「構わんですよ。まあここは私にまかせて見てはくれませんか。私も男です。半端な仕事はしませんから」
 電話口でそんな大声で笑いを放っている姿を一度相馬は目撃したことがある。三十歳にもならぬのにその腹の出た堂々たる長駆がダブルの背広いっぱいに自信をみなぎらせていた。
 その長身と体重をもって仕掛けてくる大技。「跳ね腰」は見る者の目を見張らせるような見事な決まり方をする。小柄で貧相な相馬の「送り足払い」のチマチマとした仕掛けぶりとひかえ目な決まり方。
 大向こうをうならせる伊藤の立居振る舞いは当然彼を柔道部長へと押し上げていた。
 副社長が社員を連れて声援したその年の全国大会でベスト4に入った。補欠にもなれなかった相馬は病気と偽って応援には出向かず、深酒に沈んだ一日だった。

 伊藤は係長代理になっていた。
 立ち込める煙草の煙の中で男達が受話器に口を押し付けるようにして声高に叫んでいる。女達が次々に書類を写し記入し整理している。コール音で受話器が飛び上がっている。そこでもここでも。飛びつく女。両手で受話器を握る男も見られる。販売部は戦場だ。
 片隅に来客用応接ソファがある。大手代理店の幹部達を相手に伊藤がソファにそっくり返っている。
 例の豪傑笑いが室内に流れていく。一番出世で係長の座を射止めた男の迫力がまたひとつビジネスを成功へと運んでいる。

 京子が来客への茶菓を盆に載せてそんな伊藤達の応接ソファへ近づいていった。目が合うと伊藤はひととき対話を止めて京子の視線に対峙する。きびしい管理職の顔がふっとゆるんで柔らかなまなざしで京子の目礼を受け、客にその茶をすすめる。


 空になった盆を持って帰る京子の何気なく見やった窓の外ではいま工場から大量の商品が入荷してきた。運送業者の運転手や助手達が上半身裸の姿で次々に大きなダンボール箱を肩に負って倉庫に運び込んでいる。その中のひとりにN工場の社員が入って男達を指図しながら自身もトラック助手達の倍も肩に乗せキビキビと働いている。流通管理部の大きな商品倉庫の前には数台のトラックから入荷された段ボール箱が山と積まれている。

 かなりの時が過ぎ新たな来客へ麦茶を運ぶ時、京子はその青年を再び窓の外に見つけた。もう日が傾き出し荷は大半が運び込まれ、あと少しで終了するところであった。立ち止まって青年は額の汗を作業服でぬぐっている。同じ社員として特に何という気ではなく、京子は帰りがけにひとつ残った麦茶のコップを持ってその倉庫の前に来た。
「御苦労さま。どうぞ冷たいものでも」
 立ち止まって確かめるように京子の制服を見てから青年は笑顔になって手をコップに差し出した。ひといきでグイグイと飲み干してしまってから残った氷片を齧り出した。
「いやあ、うまかったあ。ありがとう」
 礼を言いながらまた青年は額の汗をぬぐって顔を上げた。陽に焼けた浅黒い顔の中で歯の白さがまぶしい。はだけた胸に流れ落ちる汗を見つけた時、京子はふっと健康な男の匂いに包まれた気がした。

 それが相馬と京子の出会いだった。            【つづく】

【寄稿・エッセイ】 婦長さんの言葉= 武智 弘

 昭和50年の師走のある日、会社から帰っていつもの通り遅い夕食を食べながら私は壁に張ってある次男の習字をふと見ていて異常に気がついた。墨の濃淡がかすれているが、家内はそんな事はない、と言う。
 次の日近所の眼科医院に行ったら、片目がかなり激しく眼底出血をしている、と言われた。
 4年前に九州の八幡製鉄所から、木更津市郊外に建設中のこの巨大製鉄所に転勤して来て、昼も夜もない生活に突入していた。

 その後近くの中央病院に行ったりしたが、原因が分からず、片目の視力が1.5だったものが1.0、0.7、 0.5と、どんどん落ちて来た。居ても立ってもいられず思いだしたのが、八幡時代私の研究室に据え付けられた高圧電子顕微鏡の事だった。

 当時まだ全国的にこのような設備は珍しく、近くの福岡市にあった九州大学医学部眼科教室から時々使わせて欲しい、と頼まれ、研究所長の「社会貢献だ」の一言で協力した事を思い出した。溺れる者は藁をも掴む、の心境で教授に手紙を書くと直ちに返事が来て、
「それは眼の中央静脈に血栓が出来て、網膜が死にかかっている。すぐ溶かさねばならない。一ヶ月が勝負だ。すぐ来い」
 との事、驚いて福岡まで飛んでいくと、そのまま救急病棟に入れられ、その夜から血栓溶解材の点滴が始まった。

 しかし、それでも視力は落ち続ける。毎朝の視力検査が針の筵で、遂に視力は0.07まで落ちた。

 そんなある日診察室から6階の病室に帰る途中、非常階段の踊り場の扉が開いていて下を覗く事が出来た。下には白く、小さなコンクリートの床が見えた。
「もし今ここから飛び降りたら心配も消えて楽になるんだろうな」
 という考えがフト頭をよぎった。
「片方の目に血栓ができた、という事はもう一つの眼にも出来るかもしれない。そうしたら全盲の父を抱えて家族はどうするだろう」
 と思い、もう一度こわごわと下を覗いて動けなかった。

 その日の夜の消灯時間の前に巡回にこられた、おだやかな婦長さんに思い切って私は「お話があります」と言って今日の話をした。そしたら「外で話しましょう」と言われ、廊下の長椅子に並んで座ったあと、婦長さんがこんな話をされた。

「武智さん、前の病棟は内科病棟、その右は外科病棟ですよね。今でもその病棟から賑やかなラジオの音楽や笑い声が聞こえます。だけどこの眼科病棟からは物音一つしません。まるでお通夜のようですね。だけどその中で患者さんたちは病気と戦っているんです。夫々の心で戦っているんです。

 大分前に、大きな船の船長さんが甲板の階段からすべり落ちて、眼を手すりで直撃され、ここに来られました。俺は海の男だ、と泰然としておられましたが、失明と決まった時は半狂乱でした。片目になると船長の資格がなくなる、とか聞きました。
 嘘か本当かは知りません。
 しかし一方でこんな方も居られました。
 その方は福岡市内で小さな工務店をやっておられた方でまだ30台半ばでした。ある日工事現場の見回りをやっていた時、一人の工員さんが長い鉄筋の棒を肩に担いで傍を通りかかったそうですが、その時突然何か物音がして急に振り返ったそうです。

 その時、運の悪い事に鉄筋棒の先端が、傍に立っていた社長さんの片方の眼を直撃しました。結局、その社長さんもその目を失明されました。その方も随分落ちこんでおられましたが、退院する時私にこう言われました。
『婦長さん、私は30台後半になり、今の日本人の平均寿命の約半分になりました。人生が残り半分になったのですから、眼も半分になって勘定は合っとります。これでやれます』どうか武智さんもこの若い社長さんに負けずに頑張って下さい」
 そう言うと私の手にそっと手を重ね、静かに立ち上がって行ってしまわれた。

 何時か、その若い社長さんと一目お会いしたかったけれど、それも叶わず今日に至っている。それでも時々名前も知らないその社長さんを心に念じて福岡の空に向かい、「社長、がんばれよ!」と叫ぶ事がある。 

【寄稿・エッセイ】 スポーツ無情 = 山口 規子

 秋だ。スポーツ好きにとっては心躍る季節の到来である。
 けれど、わたしにとってスポーツは観るもので、自ら躯を動かしてするものではない。大の苦手なのである。

 小学生の頃をかえりみれば、鉄棒の逆上がりができない。跳び箱は跳ぶ替わりに箱の上に着地する。ドッジボールはボールが怖い。水泳は水がこわい。走りっこは先生がタイムを計り違えて選手になったことが一遍あったが、奇跡は二度と起こらない。肋木は天辺まで上がれない。運動会でさせられた肋木の最上段に両足かけてぶら下がり、上半身を起こす芸当などできるはずもない。

 運動会の時、「この種目のできない生徒もまれにおりましてぇ… 」と、担任教師に運動場に響く大音量のスピーカーを通して解説された。

 この場にいたたまれない思いをさせられた母は、わたしの中学受験を心配して、近所のM体育研究所なるスポーツクラブに連れて行き、入所させた。

 母方の祖父は、若い頃、テニス、あとはゴルフと、運動神経は悪くなかったので、娘や息子たちにもしきりとスポーツを奨励した。彼らはそれに応えて、ラグビー、登山など種目を増していく。母もその一員なので、我が子の運動神経に難あり、とはどうしても思いたくないようであった。母は亡き夫側の血のせいにしたかったようだ。父は学生時代、ボート部だったが、ボートは運動神経にはあまり関係ない、というのが彼女の持論であった。母の願いはかなわず、わたしの生来のこの方面の神経の鈍さは、一朝一夕には変化しなかった。

 学生生活が終わらなくてはスポーツと縁が切れないのか、夏休みに軽井沢に行けば、馬に乗せられ、予想外の地上から馬上までの高さに目を廻す。旧日本軍の軍人であった同窓生の父君は、『バロン西』なる馬術の達人であり、一九三二年のロス五輪の金メダリストと聞いて、憧れていたが、一遍で馬が嫌いになった。馬の方もわたしを馬鹿にしてか、歩くように指示をしても知らん顔して草など食べている。

 友人の兄上と乗り回した二人乗りの自転車『タンデム』が唯一の甘い思い出となった。その思い出の夏から何年も経たない頃、通勤途中の彼はスカウトされ、強く誘われ、東宝映画の俳優となった。のんびりした時代の話である。

 わたしは外資系の企業に入社し、世の中に出た。だが、「スポーツよ、さようなら」とはならない。
 当時はボウリングが流行っていて、退社後の親睦によく利用された。同僚の女性は『マイ・ボウル』など持っていて、得意そうに操られて、私にはトラウマとなって残った。

 その時代は、ダンスパーティーも盛んだった。音楽の伴走付きなのでまだよかったが… 。あの映画『シャル・ウィー・ダンス』以前の話である。その後、このボール・ルーム・ダンスが下火となり、勝手にステップを踏むゴー・ゴーなどが流行ってきて、わたしはホッとする。
 大晦日には夫と六本木のクラブに出かけて、一晩中若者に交じって、時には彼らの応援を受けつつ踊ったりもした。

 スポーツ能力をいま言うなら、この災害続きの世の中、エレベーターを使わずして9階のわが家にたどり着くか、地上に無事降り立つかの能力がいちばん問われるだろう。だが、これも諦めかけている。