寄稿・みんなの作品

【転載】『詩集・花鎮め歌』 わが父祖の地 石巻 =結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)
       1934年東京・杉並区生まれ
       日本ペンクラブ(電子文藝館委員)、日本比較文学会、
       埼玉詩人会、日本詩人クラブの各会員
       日本歌人クラブ発行「タンカジャーナル」編集長
            
        著書 2006年 詩と短歌による組詩集『できるすべて』(砂子屋書房)   
            2007年 『原爆詩181人集 英語版』共訳  
            2010年 詩集『紙霊』(北猽社)
            2012年 詩集『花鎮め歌』(コールサック社)
            他に歌集7冊、評論集1冊、訳書8冊など

             
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わが父祖の地 石巻 結城 文   『詩集・花鎮め歌』より 

 


戦死した父のうぶすな産土(うぶすな) 石巻
旧北上川に沿った古くからの港町
私の知らない父方の親族が住んでいたかもしれない町
津波で
大きな被害をだした町


旧北上川の河口まで歩いたことがあったことがあった
海を見下ろす日和山からの夕景
青い霧の底にきらめく
漁船の灯火


広濟寺──
禅宗──臨済宗の寺には
千葉家代々の墓があった
墓誌には
私の知らない先祖の名の後に
「昭和二十年七月十日 千葉 敏雄 四十二歳戦死」
と刻まれていた


寺はどうなったのだろうか?
墓はどうなったのだろうか?
そこで生活していた人々の安否さえわからない今
墓のことなど
尋ねることさえははばかれるが
日にいくたびか


思いは
石巻に立ち返る
父の眠る広濟寺の墓地に
旧北上川の満々たる流れに
川水の渦まく
石巻石に *
川に沿った潮の香りのする町に

・*旧北上川の河口の近く水面に先端のみを見せる石の名。
地名の由来はこの石からと思われる


【写真はイメージです:穂高健一、宮城県内の被災地で撮影】

【寄稿・エッセイ】 片づける=三ツ橋よしみ 

【作者紹介】

三ツ橋よしみさん:薬剤師。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセィ」の受講生です。

             片づける 縦書き PDF


片づける=三ツ橋よしみ 三ツ橋よしみ

  
 
 昨年、母がなくなった。遺品を前にして、姉とふたりで整理した。家の二階に、衣装箱が40個ほどあった。洋服、セーター、上着、コート、着物などがぎっしりだった。値札のついたまま、衣装箱のなかで流行遅れになってしまったワンピース。黄ばんだ絹のブラウス。箱を開けるたびに、20年、30年の時がよみがえった。
 作業のはじめは、リサイクルが出来る服はないか、一つひとつ傷み具合をチェックしていた。ところがあまりの品数に、目と心が疲れた。結局、目をつぶって、機械的にゴミ袋に詰めこんだ。

「お母さん、なんでこんなに洋服を、買ったのかしら。同じようなものばっかりじゃない」
 とわたしが言うと、姉が母のかたをもった。
「人のことはいえないのよ。わたしたちだって似たようなものよ。洋服ってなぜか増えちゃうのよ。お母さんの遺伝かしら。街へでかけるでしょ。デパートに立ち寄る。ショーウインドウによさそうな服がならんでいる。近くによってながめる。値札をちらっと見ると、おもったより高くない。店員さんが寄ってきて、『お買い得ですよ』とか、『今年の流行なんです』とか、耳元で言う。そして、ちょっと身体にあわせてみようかしらと思う。鏡をのぞく。『よくお似合いですよ』とかなんとか言われる。『そうかしら』とまんざらでもない気分。『こんど旅行に行くときに着ようかな』と思う。そして気がついたときは、もうデパートの紙袋をかかえて家にかえる途中。はな歌なんか歌ちゃってるのよ」

「それって衝動買いじゃない?」
 と言うと、姉が首を振る。
「ぜんぜん違うとおもうけど。だって大切なのはプロセスなの。洋服を見つけて鏡をみる。そのときにいろいろなことを考えるでしょ。この服にはあの靴はどうか、あのバックはどうか。お友達と行く海外旅行にはどう? クリーニングはできる? 縫製は大丈夫? 服を選ぶとき、頭の中をかけめぐる様々なおもい。すごく脳を使ってる感じがするわ。すごく集中してるの、服を選んでいるときって。その時間の興奮が、たまらないのよ」
 
 その後、今年になって、姉夫婦が引越しをした。
 一軒家を手放し、世田谷のマンションにうつった。長年住みなれた一軒家には愛着もあったが、六十五才をすぎて、庭の手入れが億劫になったらしい。買い物や病院が遠く不便だったこともあって、狭いが便利のよい都会のマンションを選んだのだ。バリアフリーで小さなテラスがついていた。老夫婦にはこれで十分よと、姉は言う。

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【寄稿・エッセイ】「幸せの黄色いリボン」=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています


           幸せの黄色いリボンPDF

           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


「黄色いリボン」 久保田雅子


 私のはじめてのライブ体験は、もう40年以上も昔だ。そのころはまだライブという言葉もなく生演奏と言った。

 六本木の交差点に近い『ジェームス』だった。地下の店内に向かう階段から音楽が響いてきて、入る前からわくわくしたものだ。
私は初めての生演奏の雰囲気にすっかり興奮して、友人たちとその後もよく通った。
 カントリー・ウエスタンが専門で、店員たちはウエスタン・ハットをかぶりバンダナを首にまいて、演奏がはじまると手拍子で盛り上げた。
 それにあわせて観客も手拍子で、店内はいつも大いに陽気に盛り上がった。リクエストをすることもできたので、私は大好きな『幸せの黄色いリボン』を毎回リクエストして楽しんだ。

                         (写真:赤坂カントリーハウス店のHPより引用)        

3年の刑期を終えた男が 家路に向かうバスの中だ
彼女には手紙で伝えた まだ僕を愛していてくれるのなら
家の樫の木に 黄色いリボンを結んでおいてくれないか
もし黄色いリボンがなかったら 僕はバスを降りずに通り過ぎるよ
バスの運転手さん リボンがあるかどうか僕のかわりに見てくれないか
自分じゃ怖くて見られない
バスの乗客が騒いでいる 目の前の光景が信じられない
古い樫の木いっぱいに たくさんのリボンがゆれている
                                        (訳詞:久保田)            
          

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【寄稿・エッセイ】「家政婦のミタ」を見た=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています
             
                       

                 「家政婦のミタ」を見た PDF


                 作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


「家政婦のミタ」を見た 久保田雅子


 昨年の秋に放送された、テレビドラマ『家政婦のミタ』を見た。
 かつて人気シリーズだった『家政婦は見た』という市原悦子さん主演のドラマを連想していたが、まったく別のものだった。
 初回から過激なシーンもあったせいか、漫画チックなわざとらしい展開なのに、なぜか引き込まれてしまった。そして毎週、楽しみに見てきた。
 家政婦・ミタさんは、父親が育てる3人の子供たちのいる四人家族の家庭にやって来る。その家では、母親が父親の不倫を理由に自殺しているのだ。
 子供たちは突然母親を失い、だらしのない父親に失望し、まったくどうしてよいのかわからない。そのなかで、淡々と仕事をする彼女の存在に、バラバラになりかかっていた家族が少しずつ立ちなおっていく過程を描くものだ。
「承知しました」となんでも引き受けるミタさんに、家族みんなでいろいろなお願いをする。自暴自棄になった長女は「死にたいから私を殺して」と頼む。ミタさんはナイフを持って本気で彼女を追いかける。長女はおそろしくなって逃げ回り、自分が死にたくないことを知る。

 暗い過去のあるミタさんは、決して笑わない。仕事は完璧だ。毎回、かならず食卓のシーンがあった。ばらばらになりそうな家族が、彼女の作るおいしい食事に心をなごませる。家族の絆は食卓から…、と伝わってくる。
 業務命令であれば、彼女はどんなことでもする、不思議な人だった。
 いつも黒いカバンを持っていて、必要なものはなんでもそこから魔法のように出てきた。

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【寄稿・写真】気仙沼大島を襲った大津波=伊東勝正

 写真提供者の紹介:伊東勝正さんは、宮城県気仙沼市の『休暇村 気仙沼大島』の営業リーダー。島をよく知り、3.11の大津波を体験した。同島は、3隻のフェリーボートが運航不能になり、本州との交通網、連絡網が断たれた。
 島では山火事が発生した。退路のない炎上である。島民として恐怖のなかで、伊藤さんはシャッターを切った。 メディアも救援隊も入れなかった。この時の大島の惨事を写真で残す。貴重な写真提供である。
 ちなみに、アメリカ第7艦隊「ともだち作戦」で、米軍の兵士が同島に最初に上陸してきたのが、3日後である。日本の救援隊(自衛隊、海保)よりも、数段に早かった。


 写真は気仙沼と大島を結ぶ、係留していたフェリーが桟橋ごと陸に打ち上げられたものです。これで本州との行き来は途絶えてしまいました。(3隻とも被害で使用不可)

 3.11の震源地に近いために、2時46分の揺れはすさまじいものでした。

 地震の被害で『休暇村 気仙沼大島』は数か月間、営業ができない状態に陥りました。


 激しく揺れた地震の後、大津波警報が出ました。津波の高さは6メートルでした。ここからならまず安心、という気持ちで、カメラを持って待ち構えていました。ところが、とんでもない大津波でした。


休暇村の直下にあった、「体験四阿」が大津波に飲み込まれていく瞬間です。

「緑の真珠」と呼ばれた、日本でも有数の海水浴場でした。美しい海岸と砂浜が無残に姿になりました。


 島の津波は、太平洋側と、気仙沼湾を襲った後の津波が逆方向からも来ました。島は真ん中で分断されました。
 倒れている電柱の方角が、襲われた場所ごとに違い、逆方向になっていました。

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【寄稿・エッセイ】 タローのご招待=三ツ橋よしみ

【作者紹介】

三ツ橋よしみさん:薬剤師。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセィ」の受講生です。

             タローのご招待  縦書き PDF


タローのご招待 三ツ橋よしみ

  

 正月の早朝だった。飼い犬が玄関ドアをひっかいている。散歩の催促だ。もう少し寝かせてと言い聞かせても、ひっかくのをやめない。しょうがない。起きて散歩の支度をはじめた。犬は一張羅の毛皮だが、私はコート、マフラー、帽子、手袋とたいへんだ。

 タローは柴犬の雑種だ。毛が密生していて、冬が大好きなのだ。引っ張られて公園につくと、犬はうれしそうに草むらをかぎまわる。仲間のにおいがするのだろう。枯れた芝生を駆け回り、からだをこすりつける。霜柱の地面でも平気だ。
 公園の木々は枝ばかりだった。光が地面まで抜けるので、冬の草むらは意外と明るい。丘の茂みから、初日の出がゆっくりと、顔をだした。拝んだ。

 家にもどり、元日の食卓を囲む。娘はお雑煮を食べ終わると、ぴょんぴょんとはねるように、彼氏のもとへ出かけていった。大学は出たが就職が決まらない娘である。心配してもはじまらない。本人が元気なら良しとするか。
 
 夫婦二人の静かな正月となった。
 家の電話がなった。近所のK奥様からだ。一月四日のお昼に、とお誘いを受けた。私たち夫婦とタローを是非にとのことである。
 奥様は、八十才くらい。足が弱って最近は車椅子での生活だ。五人のヘルパーさんが交代でお世話をしている。一人暮らしだが、いつもおしゃれな素敵なご婦人である。

 そんな奥様に、我が家のタローが見初められた。
 奥様は散歩のおり、我が家の前を通る。タローはフェンスから鼻をつきだしていた。奥様はおもしろがってタローに餌をやった。タローは大喜びだ。それからは奥様が通るたびに、しっぽを振り、甘えた声で鳴く。しまいにはフェンスから身を乗り出し、婦人の顔をなめまわす。奥様はいやがらず、たいへん喜ばれた。
「毎日の散歩が楽しくなったわ」と奥様は、おろおろするヘルパーさんに笑顔をむけていた。
 

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【寄稿・詩】 いわきの海 = 村山 精二

【作者紹介】村山 精二さん

1949年 北海道赤平市生まれ

日本ペンクラブ 電子文藝館委員会 副委員長 

日本文藝家協会、日本詩人クラブ、横浜詩人会・各会員

2010年  日本ペンクラブ国際ペン東京大会実行委員

2009年~日本詩人クラブ60周年記念大会実行委員


  詩集・著作は多数あります

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いわきの海  村山 精二


小名浜に巨大岸壁が出現したのは
昭和32年
ぼくが木造二階建ての
湯本第二小学校に上がった年だ
常磐線に乗って
おずおず覗きに行った

ボタ山には夕陽
炭住街には同級生の悪ガキの群れ *
禁じられている坑内に入り込んで
板切れに刺さっていた釘をゴム靴で踏み貫いた

小名浜の海の
岩牡蠣を潮で洗って食べたのは
岸壁ができる前だったろうか
もちろん近くに原発ができるずっと以前だ
親父の自転車に弟と載せられ
ガタガタの砂利道を延々と走ってたどり着いた

それからぼくたちは
北海道・静岡と渡り歩いて
神奈川の片隅に住み着き もう40年
フクシマを思い出すこともまれになったが

踏み貫いた傷とともの半世紀
炭鉱はスパリゾートになってしぶとく生き抜いている
ぼくは電気をたくさん使う化学工場の技術屋になって
定年を迎えた

ぼくの右足が癒えることはない
寒い夜には
今でも疼く

 * 炭住 炭鉱住宅
     炭鉱労働者家族のための社宅

【寄稿・エッセイ】 マスク依存症=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています
             
                                   

                 マスク依存症 縦書き

                 作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


マスク依存症 久保田雅子

 私はマスクが苦手だ。うっとうしくなってすぐに外してしまう。
 3月の東日本大震災の時、避難所では皆さんがマスクをしていた。それをテレビで見て、1日中マスクをして過ごすなんて大変だなぁ、と思った。ボランティアの人たちも、もちろん皆マスクだ。

 最近、なんでもないのにいつもマスクをつけている人がいるのに気づいた。
 私がよく行くスーパーのレジで時どき会話をかわす女性も、かならずマスクをしている。最初のころは「風邪をひいているの?」と聞いたりしたが、そのうちに見慣れてしまった。
 夏になってもマスクを外さない。(暑苦しくないのかしら…)彼女のマスクなしの顔はいまだに見たことがない。

 以前、通院していた歯科の先生がマスクを外した時、想像と違う顔立ちに驚いたことがあった。目から下の顔は見るほうが勝手に想像してしまうのだ。
           
 娘が開業するクリニックにも、いつもマスクをつけている女性スタッフがいる。仕事中だけでなく通勤でもミーティング中でもマスクを外さないという。
 病院なので職業上、マスクをやめさせることはできない。私もたびたび顔を合わせるが、彼女の目から下は私の想像だけの顔だ。鼻が高いのか、口が大きいのか…、なにか隠したいものがあるのか…。お化粧をしないで済むからだとしたら、なげやりすぎる。娘は「マスク病なのよ」と言う。不思議だ。

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【寄稿・写真】 アメリカ西部6つの絶景を巡る=久能康生

 学友・久能さんは大学教授(経済学)をリタイア後、国内外を旅しています。国内では、旅先の路地裏の酒場で、夫婦で日本酒の地酒を飲むのが楽しみと話す。
 1年間に数回は海外旅行をしています。風景写真を得意としています。その実、彼は高校時代、北陸の某市の写真屋に4年間住み込み、そこで働きながら学校に通っていた。苦学時代の10歳代で、プロから写真技術を叩き込まれている。その下地があるので、とても良い写真を撮ります。

ブライスキャニオン。風雨に浸食された砂岩が無数の尖塔のように見える


ホースシューベント。コロラド河が大蛇行して馬のひずめのように見える奇岩です


アンテロープキャニオン。ナバホ族の聖地。風化した砂岩が織りなす美の世界です

巨漢のナバホ族ガイドが吹く、インディアンフルートの不思議な音色が洞窟にこだまする


駅馬車が走って来たり、ジョンウェインがひょっこり現れそうな気分になる

デスバレー。海抜マイナス85mのまさに死の谷。バッドウォーターは死の塩水です

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【寄稿・エッセイ】鳥島と漂流者たち=久保田雅子

 【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています
             
                                    久保田雅子


                 鳥島と漂流者たち 縦書きPDF

                 作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から


鳥島と漂流者たち 久保田雅子

 私がはじめて読んだ漂流物語は、野上弥生子氏の<海神丸>だった。
 女性作家が壮絶な漂流状況を書いたことにおどろき、感動したものだ。と同時に、漂流物語にはことさら興味を持つようになった。

やがて、いろいろな物語を読むなかで伊豆諸島の無人島である、鳥島(東京から約600キロ)に何度も出会う。
 アホウドリの生息地としても有名な火山島の、この島には江戸時代に数々の漂流した船が流れついた。この島のおかげ(存在)で生還できた漂流民は80名以上だという。
 
 鎖国以前の日本は、天測航法技術を持っていて、太平洋を横断する航海もできた。御朱印船が活躍し、南洋諸国とも盛んに交易をしていた。
 だが、江戸時代になると、鎖国政策のため船は国内運搬用のみの廻船となった。陸上の山見航法で、暴風雨などに巻きこまれて陸から遠ざかってしまうと、船位がわからなくなってしまうというお粗末なものだった。

 収穫が終わった新米を江戸に運ぶ季節が、ちょうど冬の北西季節風で、船乗りの恐れる<大西風>のころだ。
 もしも、黒潮に乗ってしまうと日本から遠く流されてしまう。
 嵐の最中におみくじで占いをして、帆柱を切り捨てるという無知な行為から、天候が回復した時にはもはや帆船航海ができなくなり、漂流だ。

 活火山の鳥島は食用になる植物もなく水もない。漂流者は洞窟を住まいとしてアホウドリと魚を食糧に、水は雨水を貯める工夫などをした。

 
 1719年に漂着後、鳥島で20年もの長きに渡ってのサバイバル生活の後、生還を果たしたのは遠州(静岡県)の大鹿丸12名のうち3名だった。<鳥島漂着物語>(小林郁著)絶版。

 このときは島が活動期で火口から火種を得て、夏には立ち去ってしまう渡り鳥のアホウドリの干し肉を作り、保存食として夏を過ごす工夫をしている。
 20年後に島に漂着してきた江戸の宮本全八船17名とともに、伝馬舟でついに八丈島に帰着を果たす。


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