【寄稿・写真エッセイ】梅雨の白日夢 = 黒木 成子
『アジサイが見ごろですよ』 友人と二人で千葉県勝浦市をドライブ中に、こんな看板を見かけた。
もう夕暮れどきだったが、「見ごろ」という言葉に惹かれて、看板に書かれた矢印の方へ車を走らせた。
しかし、行けども行けども何もない。アジサイはもちろん、看板さえ見当たらない。
10 分ほど走って、もう引き返そうと思った矢先、前方にちらりと青い花が見えた。 近づいてみると、小高い山の斜面にアジサイが群生している。すごい!思わず写真を撮り始めた。
すると、犬の散歩をしていた女性が、「もっと山の上に行くと、道の両側にたくさん咲いていますよ」 と、教えてくれた。
ここのアジサイは、町の人たちが少しずつ植えてこんなに増えたそうだ。それでもっと知ってもらおうと、市の職員が県道に看板を立てたと女性は話していた。
それが、私が見た看板だったのだ。
実はその日は昼間、勝浦市内を散策しようと、あちこち歩き回ったのでかなり疲れていた。
勝浦港で陸揚げされたマグロを見たり、入り組んだ海岸線の先端、八幡岬まで行き、その後勝浦燈台まで足を延ばしたのだ。
蒸し暑い中、かなり長い時間歩き、足も疲れたので車で帰りを急いでいた。その途中で看板を見て、ついここまで来てしまったのだ。しかし、 「途中までは車で行けるから、上まで行ってみるといいですよ」 と、にこやかに笑う女性の勧めもあって、足を進めてみることにした。
車で急な坂を少し昇ったら、その先は人しか入れない細い山道となった。女性の言った通り、そこには、両側にアジサイが咲いており、まるでアジサイの道のようだった。
このアジサイの道はどこまで続くのだろう? そんな素朴な疑問が湧いてきた。
「もっと先まで行ってみよう!」
一緒に来ていた友人を誘ったが、もう足が疲れたから歩きたくないと言う。
しかし、私はどうしても確かめたくて、すい寄せられるように、一人で歩き始めた。 行けども行けども曲がりくねったアジサイの山道が続く。
次第にあたりは薄暗くなり始めた。よく見ると、熊でも出てきそうな山奥だ。 それでもアジサイに手招きされるように、小走りで進んだ。 登り坂で、息切れがする。
どのくらい登っただろうか。まだまだ山道は続き、アジサイも続く。 やがて登り坂が終わり、緩やかに下り始めたとき、やっとアジサイがまばらになってきた。
ふと後ろを振り返ると誰もいない … もちろん先に行く人もいない。 普段は恐がりの私なのに、アジサイの魔法にでもかかってしまったのか、気づいたらずいぶん遠くまで来てしまった。
この道には終わりがないのではないか … 。このまま進むと帰れなくなってしまうのでは … そんな不安な気持ちになった。
一本道だから迷うはずはないが、急に怖くなり、振り返って逃げるように元来た道を走り始めた。 誰かが後ろから呼んでいるような気がする …。 アジサイが、もっと見に来てと呼んでいるのか … 。いやそんなはずはない。
両手で耳をふさぎ、下を向いてひたすら走った。
しばらく走って顔を上げてみると、いつまでも帰って来ない私を心配して、様子を見に来た友人の姿を見つけた。 その顔を見た時は、本当にほっとした。
どこまでも続くアジサイの道 … 偶然見かけた看板によって迷い込んだ、梅雨の合間の白日夢だったのかもしれない。