寄稿・みんなの作品

【寄稿・写真エッセイ】梅雨の白日夢 = 黒木 成子

『アジサイが見ごろですよ』 友人と二人で千葉県勝浦市をドライブ中に、こんな看板を見かけた。

 もう夕暮れどきだったが、「見ごろ」という言葉に惹かれて、看板に書かれた矢印の方へ車を走らせた。
 しかし、行けども行けども何もない。アジサイはもちろん、看板さえ見当たらない。

 10 分ほど走って、もう引き返そうと思った矢先、前方にちらりと青い花が見えた。 近づいてみると、小高い山の斜面にアジサイが群生している。すごい!思わず写真を撮り始めた。

 すると、犬の散歩をしていた女性が、「もっと山の上に行くと、道の両側にたくさん咲いていますよ」 と、教えてくれた。

 ここのアジサイは、町の人たちが少しずつ植えてこんなに増えたそうだ。それでもっと知ってもらおうと、市の職員が県道に看板を立てたと女性は話していた。
 それが、私が見た看板だったのだ。

 実はその日は昼間、勝浦市内を散策しようと、あちこち歩き回ったのでかなり疲れていた。

 勝浦港で陸揚げされたマグロを見たり、入り組んだ海岸線の先端、八幡岬まで行き、その後勝浦燈台まで足を延ばしたのだ。

 蒸し暑い中、かなり長い時間歩き、足も疲れたので車で帰りを急いでいた。その途中で看板を見て、ついここまで来てしまったのだ。しかし、 「途中までは車で行けるから、上まで行ってみるといいですよ」 と、にこやかに笑う女性の勧めもあって、足を進めてみることにした。

 車で急な坂を少し昇ったら、その先は人しか入れない細い山道となった。女性の言った通り、そこには、両側にアジサイが咲いており、まるでアジサイの道のようだった。

 このアジサイの道はどこまで続くのだろう? そんな素朴な疑問が湧いてきた。
「もっと先まで行ってみよう!」
 一緒に来ていた友人を誘ったが、もう足が疲れたから歩きたくないと言う。

 しかし、私はどうしても確かめたくて、すい寄せられるように、一人で歩き始めた。 行けども行けども曲がりくねったアジサイの山道が続く。

 次第にあたりは薄暗くなり始めた。よく見ると、熊でも出てきそうな山奥だ。 それでもアジサイに手招きされるように、小走りで進んだ。 登り坂で、息切れがする。

 どのくらい登っただろうか。まだまだ山道は続き、アジサイも続く。 やがて登り坂が終わり、緩やかに下り始めたとき、やっとアジサイがまばらになってきた。

 ふと後ろを振り返ると誰もいない … もちろん先に行く人もいない。 普段は恐がりの私なのに、アジサイの魔法にでもかかってしまったのか、気づいたらずいぶん遠くまで来てしまった。

 この道には終わりがないのではないか … 。このまま進むと帰れなくなってしまうのでは … そんな不安な気持ちになった。
 一本道だから迷うはずはないが、急に怖くなり、振り返って逃げるように元来た道を走り始めた。 誰かが後ろから呼んでいるような気がする …。 アジサイが、もっと見に来てと呼んでいるのか … 。いやそんなはずはない。

 両手で耳をふさぎ、下を向いてひたすら走った。

 しばらく走って顔を上げてみると、いつまでも帰って来ない私を心配して、様子を見に来た友人の姿を見つけた。 その顔を見た時は、本当にほっとした。

 どこまでも続くアジサイの道 … 偶然見かけた看板によって迷い込んだ、梅雨の合間の白日夢だったのかもしれない。

優しい風景と荒々しさの谷川岳に挑戦する=大久保多世子

谷川岳(1,977m)=大久保多世子

登山日:2013年9月28日(土)晴れ

参加メンバー:L佐治ひろみ、後藤美代子、栃金正一、武部実、関本誠一、大久保
 
コース:上毛高原駅―天神平―オキノ耳―1の倉岳―茂倉岳―駐車場―湯沢駅 

 JR東京駅に6:20に集合した。6:32発のたにがわ401号に乗り、7:53上毛高原駅に到着。バスは8:00発。ロープウェイで天神平に着いたのは9:10だった。

 身支度をして9:15出発。ナナカマドの真っ赤な実が美しい。10:00、熊穴沢避難小屋の前で水分補給。[土曜日+紅葉の季節]なので登山者も多い。
 
 ここからの登りはかなりハードで、大きな石や大きな段差の連続する。「よいしょ!」と声に出しながら、コンパスの短さを実感しながら登っていく。高度が増すにつれて、登山者の数も増え、ほとんど行列に近い。
 足場の悪い所では、下山する人とのすれ違いにも神経を使う。それでも予定より早く、10:30なオキノ耳に到着した。

 隣のピークまで進んで11:50~12:20は昼食。尾瀬方面の山々や動いて行く雲を見ながらの食事は最高だった。
 一の倉岳に向かって間もなく、ものすごく急な登りが目の前にドーンと現れ、弱音をはいたら、関本さんが、
「こんなの15分もあれば登れる、登れる」
 と励ましてくれた。


 半信半疑で登ったら、20分かからなかったので、人間の足の力を見直した気分になれた。オキノ耳を過ぎたら、出会う人もまばらで歩きやすい。
 好天に恵まれ、快適な空中散歩が続く。
 山頂は紅葉の最盛期だったが、霜でも降りたのか、あまり綺麗ではない。13:00「ノゾキ」という看板があり、恐々下を覗いた。断崖絶壁のものすごい岩場があり、残雪も見られた。
「上村さんや飯田さんは、あの岩場を登ったんだよ、すごいな」
 などと、しばらく岩登りの話で盛り上がる。


 13:30、一の倉岳に到着した。13:55、茂倉岳に到着。大きなドラム缶を置いたのかと思える避難小屋があったので、覗かせてもらった。
 座った状態なら、数人は入れそう。雷や雨の日は、助かるだろう。

 振り返れば、今日歩いてきた道がくっきり見渡せる。肩の小屋が豆粒のように見え、
「こんなに遠くまで歩いて来たんだ!」
 と口々に感嘆の声をあげる。

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神社はお参りしておくべきだった、大岳山=針谷孝司

大岳山(1267m)=針谷孝司

期日…2015年3月11日(火)  曇り時々晴れ

メンバー…(L)佐治ひろみ、武部実、中野清子、針谷孝司

コース…御岳駅8:58→御岳山駅9:30→御岳山→大岳山11:55→鋸山13:40→奥多摩駅16:30

 昨日の荒天も今日はまずまずの天気となった。
 青梅線の車中で全員がおち合い、御嶽駅からバスとケーブルカーで御岳山駅に到着した。身支度もそこそこに出発。
 御岳山神社までは蝋梅(ろうばい)が見ごろに咲き誇り、かすかな香りがただよう。東に開けるパノラマの中には新宿の高層ビル、更には横浜のランドマークタワーをはるか遠くに眺めながら、なだらかな舗装道に足を進める。


 町場通りでは、中野さんがみやげ物やの女将に声がけなどしながら、御岳山神社入り口に到着した。今日はスルーし、先に進む。ここで参拝しなかったのが災いとなったのか、後ほどハプニングが起きるとは、誰も予想できず、目指すは大岳山へ。

 芥場峠を過ぎると、ハイキング姿はいなくなり、登山道らしくなる。我々の口数は少なくなり、ひたすら大岳山を目指す。露岩にはクサリがついていて、片側が切れ落ちている場所もあるが、リーダーの佐治さん、武部さんはすいすい先にいく。中野女史は慎重に足を進める。

 大岳神社からはきつい急坂がはじまり、露岩にクサリのついた道を登る。
 先を行く武部さんが、なにやらきれいな小屋が見えているが、あれは大岳山荘なのか? 建替えたのかと、久しぶりに見る山荘の姿に懐かしさを感じているようだった。

 しかし、山荘に着くと、そこは廃屋のままで、洋館風の別館が幻かのような姿で、我々を迎えてくれた。 
 簡素な鳥居の大岳神社を過ぎると、きつい急坂がはじまり、雪が残るクサリのついた道を登ること20分。肌に汗を感じる頃、上に続く樹林には空の色が混じる。程なく大岳山頂上が現れた。

 あいにく快晴とは言えないが、1266mの山頂からは、丹沢山塊、富士山がはるかにそびえ、そしてすぐ隣には御前山がどっしりとある。
 いくつもの尾根が重なって全く素晴らしい展望だ。しばしパノラマを眺めて楽しみ、静かな山頂で昼食をとる。

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はなじょろ道(花嫁さんの道)を登る、高松山=石村宏昭

高松山(801m)=石村宏昭

日時:2014年7月20日(日)曇り

メンバー:L武部・飯田・岩淵・原田・市田・中野・赤羽(ゲスト)・石村(8名)

集合:小田急・新松田駅に8:55

コース:~(バス)田代向~はなじょろ道登山口~尺里峠~ヒネゴ沢乗越~高松山山頂~ビリ堂~さくらの湯~JR山北駅


 台風の影響もあり、今週はぐずついた空模様が続いた。
 天気予報が思わしくなく、とにかく、早めに下りてくれば雨にはあわないだろう、という判断で、8時55分、小田急線・新松田駅に集合した。9時5分のバスに乗車。田代向で下車する。
 案内板に従って林道を進み、ヒネゴ橋を渡ると、左には手製の鐘と,「はなじょろ道入口」の案内板がある。


 はなじょろ道とは、明治末期まで、沢虫地区と山北町の八丁地区を結んだ生活道である。と同時に、花嫁さんが通った道であることから、こう呼ばれてきたそうです。
 登山の安全を願って、静かに鐘を鳴らし、登山道に入る(9:35)。しばらく、杉林の中をジグザグに登って行く。杉の丸太の階段等で、よく整備された道が続く。尺里峠の分岐を過ぎ、40分程杉林を登りきると、「ヒネゴ沢乗越分岐」に着く。

 ここで、小休止をとる。天気が良ければ、ここから10分程の「富士見台」へでも、という気持になるところだが、360度の遠方は視界無し。休憩もそこそこに出発した。

 途中、鹿除け柵を横に見ながら、緩やかな坂をのぼっていくと、やがて、運動場のように広い、芝地の高松山山頂(801m)に到着する(11:35)。


 残念ながら、富士山は雲の中だった。眼下には大野山の牧場がのぞめるくらいだ。好天だったら、霊峰富士を目の前に臨む、すばらしい山頂なのだろう。ここで、昼食休憩とする。

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【寄稿 エッセイ】 ヘラブナ釣り = 廣川 登志男

「バシャ、バシャバシャ」
 音に反応して振り返ると、川辺で釣りをしているオジサンが居た。
 竿を頭上に持ち上げ片方の手に玉網(タモ)を持って、浮き上がってくる魚を網に入れようと取り組んでいた。結構大きい魚のようだ。なんとなく見たことのある風景に興味をそそられた。四十歳を過ぎて、小学校に通う子供たちとデイキャンプをするため、房総半島の真ん中にある三島湖に来ていた時だ。

 子供たちや家内は昼食の準備にてんやわんやの状況だったが、私は釣りの方に意識が向いてしまった。
 釣りのオジサンが魚を取り込んだ。次の釣りの準備に、エサを針につけているとき、声を掛けさせていただいた。
「すいません、なにを釣っているのですか」
「ヘラだよ。ヘラ」
 忙しいときになんだよ、と邪険な返事だったが、見ると懐かしい孔雀ウキだ。
 孔雀の羽の軸はスリムだが浮力が大きく、ヘラブナ釣りの「ウキ」によく使われる。
「ヘラブナ釣りだ」心の中で叫んでしまった。
 すぐに小学校時代を思い出す。

 小学校は品川区小山台にあった。目黒区と接するところで、近くに清水公園がある。ここは、都内でも五本の指に数えられる「ヘラブナ釣り」の有名な場所だ。当時、孔雀ウキなどは大人が使うもので、我々小学生はセルロイドの細い棒ウキを使っていた。
 エサは小麦粉を練ったものにさなぎ粉を混ぜた。前夜、母に手伝ってもらい準備して、登校2時間ほど前に友人と釣りに行った。

 大人でも難しい釣りに、子供がそんなに釣れるわけはなかったが、小さいときから剣道をやっていたので、ウキの動きに瞬間的に反応して竿を上げるのはうまく、たまに釣れたので結構のめりこんで通っていた。

 中学以降は部活や勉強、更に、社会人では仕事に追われヘラブナ釣りは止めていた。そのため、三島湖での出会い時は一切道具がなかった。さっそく釣具屋に出かけ一式揃えた。
 結構、良い値がしたが、当時、私は企業戦士そのもので、朝は7時頃から夜は深夜くらいまで仕事だった。下手をすると日付が変わってからの帰宅という仕事一辺倒の生活だったので、この趣味位いいだろうと我家の大蔵大臣を拝み倒して購入した。

 それからというもの、出社しないで済む休日は朝四時起きで三島湖に通い、顔や手は日焼けして真っ黒となっていった。

 再開後、しばらくして地域のヘラブナ釣り研究会に入った。月一度の例会で、たまに優勝するほどになったし、年間優勝も頂いた。
 ヘラブナ釣りは、難しいので有名だ。
「釣りは、フナで始まりフナで終わる」と云われるが、最初のフナはミミズなどで簡単に釣れるマブナのことで、最後のフナはヘラブナだ。難しい釣りなので、最後の魚ということになる。
 人工的なヘラブナ釣池が各地にある。1、2メートルしか離れていない隣の釣り師が「入れ食い」で数多く釣り上げているのに、こちらはウキがピクリともしないことがある。それほど腕がものをいう。

 当日の天候や気温、それに気圧なども影響しているようで、ヘラブナはなかなかエサに食いついてこない。食いつかせるためには数えきれないポイントがある。エサでは種類・硬軟・大小、ウキでは大小(浮力の大小)・位置(深さ)、それに糸の太さ、針の大きさ、その他諸々。更には上記をもう一度やり直すことになる竿の長さ。一つの条件で十投ほど試し、食いつきがなければすぐに条件変更だ。
 だから、呑気な人には絶対釣れない。短気な人でなければ釣れないのがヘラブナ釣りだ。
この釣りにのめり込むということは、ヘラブナ釣りを通して「短気」を習得することなのかと思ったりした。

 会社人生では、諸先輩から助言を多くいただく。また、人生論などでも参考になる言葉がある。特に戒めの言葉の多いのが「短気」についてだ。

「短気は未練の初め/短気は身を滅ぼす腹切り刀/・・・」。
 まさに「短気は損気」であって、逆に、良く言う言葉は聞いたことがない。

 しかし、待てよ。ヘラブナを釣るためにいろいろと条件を変える。あきらめずに粘り強くトライして、結果的には目的を果たして釣り上げる。これは仕事でも同じだ。
 私自身、仕事上、数多くの難題に取り組んできた。簡単にはいかなかったが、あきらめずにしつこく取り組んで解決してきた。
「そうだ」
 粘り強く解決しようとする姿勢を身に付けることができたのは、ヘラブナ釣りのお蔭だ。と良い方向に考え直して、明日もまたヘラブナ釣りに行こうと考えていた。

【寄稿・エッセイ】 幻の本 = 森田 多加子

 中学に入ると、七才年上の姉から「おさがり」がまわってきて、硝子戸付きの本箱が、私のものになった。使っている座り机と幅が同じだ。古くて小さい。
 しかし、下に木箱を置いてみると、丁度机の正面の壁全体が本箱になった。嬉しくて、持っている本を並べてみる。いっぱいにならないので、教科書もノートも入れる。しかし隙間は埋まらず、理想の本箱の景色には程遠い。

 その頃は食糧不足でもあり、お腹を満たしてくれない本は、贅沢品であった。本は借りて読むものであり、買えるような裕福な暮らしではなかった。
 近くに同じ齢の郁子が住んでいた。たくさんいる従姉妹のうちで、唯一、本好きなので、本を借りたり、時には読んだ本のことで話が弾むこともあった。
 彼女が遊びにきた。いつものように本を抱えている。
「何を読んでるの?」
「これ」
 郁子が差し出した本は、手に取ってみると、ずしりと重かった。私の本棚にはない重厚なものである。いかにも高級な感じがした。こんな本を読んでいるのかと、少し負けたような気持ちがした。うらやましげに見えたのか、郁子は言った。
「貸してあげるよ」
「ほんと?」
 郁子が帰ってから、しげしげと本を見た。小さな字が二段に分かれて並んでいる。少し読んでみたが、私には難しい。
 しかし、なんと貫禄のある本だろう。本箱に立ててみた。今までにない一冊だ。超然と光り輝いている。背表紙に『森に住む人』と書かれている。著者はトマス・ハーディだが、勿論そのころの私には、まったく縁のない名前だった。

 今まで並んでいるものは、少女小説が主だが、それがいかにも貧弱に見えた。こんな重厚な本を並べたい。父の本棚のようにしたい。私はわくわくした。

 次に郁子に会った時、私は思い切って言った。
「これ欲しいんだけど、もらえない?」
「いいよ」
 あっけないほどさっぱりした言葉に、信じられない顔をしたと思う。
「同じような本は、たくさんあるから一冊くらい大丈夫よ」
 郁子は、明るく言った。

 それから毎日机の前におかれた本棚を、というよりでんとおさまった大きな本を眺めながら、悦にいっていた。読まないで、いつも眺めるだけであった。

 数か月たったころ、郁子が来て困ったように言った。
「前にあげた本ね、返してほしいの。お母さんからひどく怒られてしまった。あれはお父さんの本で、全集の中の一冊だから、無くなると困るんだって」
「……」
「この本を上げるから、返して」
 その日に持ってきた本には目もくれず、私は強く言った。
「だって、あげるって言ったんだから、もう私のものでしょ」
 今度は郁子が沈黙……そして哀願するような必死の顔になった。
「お母さんが、ものすごく怒ってるの。お願い……」
 郁子の母親の厳しい顔が浮かんだ。私もたくさんいる叔母の中で、一番苦手である。その叔母が激しい口調で、郁子を叱っている様子を想像すると、彼女が可哀そうになってきた。ため息をつきながら、本箱から取り出し、郁子の手に渡した。

 存在感のある一冊がなくなってしまった本箱は、何だか一気にステータスが落ちて、素材の木の色が澱んだ。
 その時の悔しい思いが忘れられず、働くようになって一番先に買ったのが『日本文学全集』(新潮社)全六十巻と、『新版世界文学全集』(新潮社)全三十三巻である。毎月届けられる本を、長くかかって集めたが、私の本棚で光っていた「あの本」とは比べ物にならない簡素な装丁だ。
 数少ない嫁入り道具の一つとしたので、それは未だに、私の本棚に並んでいる。

たまには茨城の山もいいですよ、吾国山=関本誠一

 吾国山(わがくにさん)(513m)
 日時:2015年2月28日(土)  晴れ時々曇り
 メンバー:L武部、佐治、関本
 コース:JR羽鳥駅(バス)⇒瓦谷BS~団子石峠~難台山~道祖神峠~吾国山~JR福原駅

 今日行くところは、筑波山の東側にある吾国山。関東百名山のひとつということでリーダーが計画。集合はJR常磐線羽鳥駅(8:40)。上野駅から約1時間半で思ったより近い。

 8:45発のバスに乗り、瓦谷バス停で下車(9:00)。ここから尾根上の団子石峠までは緩やかな舗装された車道を歩くこと約1時間。峠で小休止していると、尾根伝いに来るハイカーがいた。愛宕山から縦走している人たちの最適なコースになって、地元では笠間アルプスといわれているそうな……。
 峠から登山道に入りいきなり急登だ。一登りすると大きな岩が鎮座……。これが団子石とか。峠の名前もここから来ているそうな。さらに登りつめたところが、三角点のある団子山である。

 一旦下ってまた急登。登りつめたところが大福山。『美味しそうな山名が続くね』と言いながら、また急な下りと登りの連続である。登山道脇に高さ10mほどの巨石が……。屏風岩とか。

 登山道はよく整備されており、笠間トレイルの一部となっている。さすが『xxアルプスと言うだけのことはある』と言いながら登りつめた所が、本日の最高峰(553m)で、三角点がある難台山。

 山頂には数人のハイカーが休憩していた。山名表示板も設置されて、近くには筑波山、加波山が見えて、次なる山行に期待が膨らむ。
 難台山からの下りも急だ。急斜面を下り切ると、ようやくなだらかな登山道だ。スズラン群落地に下りる分岐を過ぎ、まもなく道祖神峠に出る。車の往来が結構ある舗装された道路に出る。
 道端には、道祖神の石碑がポツンとあるだけの簡素な峠だ。ここから、いよいよ今回の目的地の吾国山への登り。青少年のための施設・洗心館を過ぎると、息も切れそうなくらいの急登となる。山頂に近付くにつれ、徐々に緩やかになってゆき、石垣の上に祠がある山頂に到着した。(12:30)。

 集合写真を撮ってランチタイム。

 下山はJR水戸線(初めて乗ります!)の福原駅に向けて下り。山頂直下のカタクリ群生地を過ぎ『xx丁目石』を見ながらの快適な下りだ。標識に従って進み、福原駅に到着(14:30)。友部駅で常磐線に乗り換え、一路上野へ。

 時期が早かったので、お花がわずかしかなかったが、シーズンともなるとカタクリ、スズランをはじめたくさんのお花が見られるコースだ。茨城県の山は遠くに感じていたが、電車に乗ってしまえば、奥多摩に行くのと変わらないくらいことがわかった。
 たまには茨城の山もいいですよ。ぜひ出かけてみてはいかがでしょうか……。

                記録・関本誠一(吾国山頂・祠前にて)

ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№187から転載

島崎藤村と日本山岳会=上村信太郎

 文豪・島崎藤村は、ある時期「日本山岳会」の会員だった、と聞けば意外に思うかもしれない。藤村が登山をしたということは年譜などにも記されていないし、そもそも何のために山岳会の会員になったのか解らないからである。

 藤村は明治5年(1872)、信州木曽の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)に生まれた。明治学院卒業後、明治女学校、東北学院、小諸義塾で教鞭をとるかたわら、詩人として活躍。その後、不朽の名作『破戒』『夜明け前』などの小説を発表。そのほか、「日本ペン・クラブ」を設立して初代会長を務め、昭和18年(1943)に71歳で亡くなっている。

 明治38年(1905)10月、城数馬、小島烏水、高野鷹蔵、高頭仁兵衛、武田久吉、梅沢親光、山川黙の7人によって「日本山岳会」が結成された。これは、山岳に関する研究・登山の指導奨励・会員の親睦などを標榜する人たちによる我国最初の山岳会誕生であった。初期の会員には多くの著名人が名を連ねた。たとえば、植物学者の牧野富太郎、『日本風景論』の著者志賀重昻、民俗学者の柳田國男、後の外相藤山愛一郎、西本願寺の大谷光尊門主の三男大谷光明、岩倉具視の四男岩倉道俱、与謝野鉄幹、田山花袋、日本画の竹内栖鳳、等々。

 「日本山岳会」設立の翌年に藤村入会。会員番号は84。『破戒』発表直後である。日本山岳会の会報『山岳第二年第一號附録』の会員名簿に、本名の島崎春樹の名前がある。住所は、東京市淺草區新片町一番地(現在の台東区柳橋)となっている。

 山岳会創立会員の小島烏水は、藤村入会の直後に『山水無盡藏』(隆文館刊)を出版。その序文を藤村が書いている。これ以外、藤村が山岳会会員として何かしたという形跡は見られない。ではなんのために藤村は山岳会に入会したのだろうか。また、いったい誰が藤村に入会を勧め推薦人になったのであろうか。名作「千曲川のスケッチ」のなかで、水彩画家B君として登場している小諸義塾時代の僚友、丸山晩霞に入会を誘われたのであろうか。それとも自らすすんで目的をもって入会を希望したのだろうか。

 実をいうと、藤村と烏水は山岳会が結成されるずっと以前から知己の間柄だったのだ。そのことは、藤村没後、烏水が書き残した「藤村覚え書き」(大修館書店刊『小島烏水全集』第十二巻に収録)に記されている。小諸義塾当時、雑誌『文庫』の記者として知られていた烏水に藤村が手紙を書いた。学校の職員で文集を本にするので序文を書いてほしいという内容。烏水は序文を書き、後に『山水無盡藏』出版にあたり、今度は新進気鋭の藤村に序文を依頼したのだった。

 これらのことから、藤村が山岳会に入会した動機は、烏水に自分が推薦人になるからと勧められたから、と考えるのが自然であろう。
 こうしてみると、宣教師ウェストンに影響され、英国の「アルパイン・クラブ」を倣って創立された日本山岳会は、結成当初は文化人たちが集う社交場だったことがうかがえる。

(ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№186から転載)

 

立ちはだかる月の輪熊を想像させられた、丹沢・檜岳 =岩淵美枝子

 檜岳(ひのきだっか)(1167m)
 平成26年12月10日(水) 曇り時々晴れ
 参加者:L関本、武部、佐治、岩渕(4名)
 コース:寄沢登山口8:30~雨山峠10:30~檜岳11:40(お昼~12:30)~下山口14:00~寄バス停14:45

 今日は、渋沢駅8:00集合だった。目覚まし時計は4:00にセットし、5:00に家出る。渋沢駅から登山口まではタクシー。途中、薄っすらと白く霜の降りた茶畑の中をいく。運転手さんが近道を通ってくれたのだ。有難うございます。

 出だし、幸先いいなぁ。料金も3250円と、リーダーの予想していた金額より安かったし。
 さあ、身支度を整え、登山計画書をポストに入れてから、樹林帯の中へ。看板が、この森の紹介をしてくれる。色鮮やかな木々の写真、鳥、花、観ると、ここは豊かな森のようだ。
「成長の森」と表示された看板だった。なるほど手入れの行き届いた森である。バックには企業の応援あるのだろうか、トヨペット、タカナシ乳業の他、保全林の看板があった。ほんと嬉しくなる。

 森が豊かであれば、水も綺麗なんだろうなぁ。いいな、西丹沢って。以前は何年か前に行った。丹沢の大山三峰では、赤土で石ころを抱いたスギ林があった。思いだすと、あのスギの木たちが可愛そうになった。

 ここのスギ林は葉も緑も黒々として、下草も豊かに生い茂っている。
「いいな!いいな!」
 こんな所を、今日は歩けることに、幸せを感じる。

 先月21日、熊本から帰り、飛行機の中から富士山がみえた。ふわーっと白い衣を纏った日本一の富士山を、スマホでパシャり。何枚も撮りながら、山に行きたいと思う。9月の剱で捻挫して以来、、この頃は山らしき山は行ってなく、帰ったら絶対行こうと思った。
 鍋割山、棒の嶺、そして今日の檜岳、雨山峠コースを行く。

 雨山峠までは4.2キロ、2時間ぐらいかな。川原に出た、ここから渡渉が始まる。水かさは、殆んど無く、渡りやすい。大きな石ころの上を、バランスよく飛んでいく。

 7から8回くらい渡渉があったが、面白い。両岸を見上げると、ブナの落葉樹が、すっかり葉を落とし、我々4人にむけて、ここまで上って、登ってこれるかなぁと、上から見守っている。

 あまりの静寂さに、さっきゲートのところにあった、大きな月の輪熊のイラストの看板を思い出した。目の前に、がオーッと立ちはだかる熊の顔を想像すると、背筋がぞぞぉーとする。皆には教えなかったが、あきらかに熊の糞が墜ちている。
 糞は時間経っており、黒く涸れていた。だが、あの糞は熊にまちがいない。野犬の糞だよ、と自分に言い聞かせたが、怖い……。鹿の糞、ウサギの糞みたいなのも墜ちていた。

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【寄稿 エッセイ】 社宅も良し悪し : 月川 力江

 九州から東京へ転勤の内示があった。社宅が二軒あるので選んで下さい、と物件が提案された。
 一軒は世田谷区の梅ヶ丘に一〇〇坪の土地で、木造二階建ての古い家。もう一軒は東京二三区外のマンションだった。夫は頭から世田谷を希望する。理由は見えみえで広い庭にゴルフ練習用のネットを張るつもりだ。私は広い土地は落ち葉の掃除や、草取りを考えただけでも嫌だった。
 都心から離れていても私はマンションが良いが、やはり夫の希望通りで世田谷を選び、東京へ来た。
 落ち葉の時期を想像すると、頭が痛くなるほどの大きな木がある。家は古いが、立派な建物で、玄関脇の応接間はレトロな感じで電灯のスイッチひとつでも陶器のしゃれたものだった。

 1ヶ月もしない頃、夜遅くお風呂に入った娘が「きゃ~っ」と大きな声を出した。
 戸外で誰か怪しい足音がすると言う。庭の表側はきれいに清掃されていたが、裏庭はたくさんの枯葉が積もっていた。娘はすぐに110番に電話をした。その後は裏庭も掃除をして、お風呂も早い時間に入ることにした。

 その後しばらくたって、朝起きてすぐに外玄関の郵便受けに、新聞を取りに行ったら白い物が落ちている。何だろうと近づくと、それは私の下着だった。
(あ~っ、しまった)と思った。前の日は家族で外食して帰りが遅くなり、洗濯物を取り入れるのを忘れていた。すぐに裏庭の干し場に行くと、夫と息子の物だけがある。朝食の時、
「昨夜、下着泥棒に入られて女性用の下着だけを盗まれたのよ。多分急いだのでしょうね、私の下着を落として行ったのよ」と言ったら息子が、
「落としていったのじゃないよ、お母さんのは捨てていったんだよ」
「え~っ どうして? 女性二人の下着やブラジャーなどをしっかり胸に抱えて逃げる時、慌てて落としたのよ」
「そうではない、『こんなババ用はいらない』と捨てたんだよ」
「ババ用じゃない、私のだって薄いピンクと淡い藤色よ」
「彼等は女の子の可愛いい花柄や、ビキニが欲しいんだよ」
 側にいる夫はニヤニヤしているので、助けを求める気持ちで、
「貴方はどう思いますか?」
「俺はお母さんを傷つけるような事は答えない」
「それは答えたも同じじゃないですか」
 家族四人で爆笑した日曜日の朝だった。

 その後、数日たって私は家族には内緒で、夫と私の下着を干したままにして試してみた。
あ~ 下着泥棒は我が家には見向きもしないで素通りした。


              エッセイ教室 2015年5月