寄稿・みんなの作品

【孔雀船85より転載・詩】 列 車 = 坂多 瑩子

 さきほどまでは

 いつもの街並みだった


 まいにち乗っているんだから

 いねむりしたって

 ああ あのかんばん

 ああ あのアパート


 だけど どうしたのだろう

 見慣れない景色のなかを

 おおきくゆれながらごとごと走っている


 だれの子だろう

 目のまえの席に赤ん坊が寝かされている

 わらっているよ


 お腹がすいたらばー山ひる取って食わそー 

 山ひる食べればよー血をば吸われて死ぬわいなー *

 死んだらいいさ

 ばあさんが歌っていたっけ

 産めばいいさ またいっぱい

 車両をひっぱっている運転手の背中がみえる


 赤ん坊はかわいいね

 お乳あげよう

 もういちど腹にもどしてあげよう

 ほら わらっている

                   * 三枝和子『隅田川原』


【関連情報】

列 車 坂多瑩子 縦書き・印刷用


孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船85号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

【孔雀船85号より転載・詩】 変 妖 = 松本建彦

 幾百株のボタンの古木に囲まれた

 牡丹屋敷と呼ばれている その古い家の中で、

 若い母は まだほっそりと

 心狂わせる花盛りの牡丹と競って

 露しげき朝夕をすごした

 細い色糸のように立ち昇る

 忍び音のうぐいすが

 幾たびとなく 来たり去ったりしていたが

 牡丹の花々の匂いが

 あたりの空気を ねっとりと灼き上げ

 しゅると伸びている 今年は竹のゆらめき

 春の男部屋には 作男たちの 噂の種がつきない

 女部屋の小女たちの くぐもっている

 濃い日向闇の 裾よけの拡がりの

 むれているほのあたたかい 秘めやかな風ひとつ

 春天の一変して 容赦なく吹き荒れる青嵐

 一夜にして 牡丹花は引き千切られて

 若い母は 裏庭で青い乳汁をさらしの布に

 しぼっている

【関連情報】 


変 妖 松本建彦  縦書き・印刷用


松本建彦詩集 『玩物綺譚』(セコイア社刊)

 
孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船85号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

身も心も洗われた『出羽三山』=野上とみ

・日 程 2014年7月29~31日

・コース(1日目)羽黒山(晴):鶴岡~羽黒センター~羽黒山山頂
    (2日目)月 山(晴):羽黒山山頂~月山八合目~仏生池小屋~月山頂上小屋
    (3日目)湯殿山(小雨):頂上小屋~装束場~湯殿山神社~湯殿山参籠所~鶴岡

・メンバー L武部実、渡辺典子、中野清子、松本洋子、野上とみ


『羽 黒 山』

 バスを降りると、すぐに随身門(13:42)、いよいよここから神聖な地に入って行く。石段を下り神橋を渡ると、目に入るのは延々と続く石段(2446段)、両側には樹齢300~600年の杉並木が続いている。
 左奥には1070年前に平将門が建立したといわれる五重塔がある。杉の大木の中に佇む姿は幻想的であり、心を和ませてくれる。
 五重塔を過ぎると、一の坂、二の坂の石段。二の坂の茶屋で氷を食して休憩、三の坂を登り切ると大きな赤い鳥居があり、羽黒山山頂である。
 山頂の手前左手奥に今日の宿(斎館)がある。荷物を置いて羽黒山山頂へ(15:30)。大きな広場状になっていて、厳島神社、蜂子神社、他に7~8社が並んでいた。
 その中でも三神合祭殿は羽黒山、月山、湯殿山の三神を合祭した日本隋一の大社殿で、厚さ2m程もある茅葺屋根は迫力があり、驚きでもあった。

 今年は140年ぶりの出羽三山開祖の蜂子神社の一般公開に当たり、私達もお祓いを受け、お札を頂き、身も心も洗われた気分になった。
 斎館は山伏達が住んでいた遺構として残る唯一の建物であり、月山山麓で採れる山菜を素材にした精進料理は格別な趣があった。


『月 山』

 羽黒山山頂からバスに乗り、月山八合目に着く(9:00)。レストハウスの西の方を巻いて登って行くと、弥陀ヶ原の広大な湿原で、小さい池塘が点在し、ニッコウキスゲ、ワタスゲ等が咲き乱れている。
 一周し本道に戻り、鳥居をくぐって月山へと登って行く。
 足元には高山植物が次々と現れ、立ち止まる回数も増えていく。やや勾配のきつい鍋割を過ぎると、現れ出した雪渓周辺の植物が美しい。ピークを登りきったところが仏生池小屋(12:55)。小屋の周りにはフウロウ、イワカガミ、シャジン等の大群落で雲上の楽園のようだ。

 ここから先は緩やかな登りが続いている。色とりどりのお花畑の中を進む。チングルマは既に花の時期を終え、穂が風車のように風に揺れていた。
 霧が出てきた。霧の切目から月山神社が見えた。目指す月山山頂は近い。大きな雪渓の横を登り進めると月山神社に到着(14:30)。月山頂上小屋で休憩後お花畑の散策に出かける。どこまでも続く緑の草原、花の群れ、雪渓、池塘と岩との絶妙な配置に感動した。


『湯 殿 山』

 目覚めると、小屋の周辺は霧におおわれ、風が強く吹きつけている。湯殿山に向かって出発(7:00)。外に出ると風は予想外に静かである。
 霧で周りは見えないが、目の前にある花々の群れがぼんやり見える。石ゴロの急坂を下って行くと牛首に着く(8:15)。牛首から金姥までは整備された歩きやすい道。金姥からは修験の道に入る(8:39)。
 雨が降り出してきた。かっては登拝者がワラジを履き替え、衣装を正して月山に向った場所である装束場跡(現在避難所)で休憩(10:02)。ここから、いきなり標高差200mの月光坂である。

 前半は鉄梯子と鎖にすがって下る急坂の連続、後半は沢の中の岩の道を慎重に下って行くと、本殿も拝殿もない湯殿山神社に着く(12:19)。シャトルバスで湯殿山参籠所へ。下界は真夏の太陽が照りつけて暑かった。


 記録・野上とみ


【ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№183から転載】

花と景色、そして達成感の滝子山(1590m)=佐治ひろみ

・日程:2014年5月13日(水)晴れ

・メンバー:(L)大久保多世子、渡辺典子、蠣崎純子、脇野瑞枝、松村幸信、中野清子、佐治ひろみ

・コース:笹子駅8:35~寂ショウ入口9:27~山頂12:45/13:30~桧平14:10~初狩駅17:00


 夜中に降っていた雨は朝になっても止まず、傘をさして家を出た。予報では天気回復というが、岩場は濡れていないだろうかと心配しつつ、電車に乗った。高尾を過ぎる辺りから、道路は全く濡れていなかったので、ひと安心。

 笹子駅で7人集合し、吉久保集落に向かう。庭先にはジャーマンアイリスや花々が綺麗だ。中央高速の上を通り桜森林公園を過ぎると、ひっそりと寂ショウ庵の看板が立っている。
 そこを入って行くと、廃屋があり大きなサラサドウダンの木が赤い花を付けていた。ここからやっと登山道。30分位で林道に出て小休止。息を整えて急坂を登って行くと、両側は美しい自然林になり、あちこちに山ツツジの赤い花が目立ってきた。

 そのうち大久保リーダーが何かを発見。足元に落ちていたクルクルした葉っぱを手に持ち、「おとしぶみ」といって、中の虫が葉を折り曲げて住処にしている、と教えてくれた。リーダーのレクチャーは続き、今度はブナの実を見つける。三角形でちょうど蕎麦の実のようだった。

 こんな風に山道も飽きずに登って行くと、1時間ほどで岩場が現れる。大きな岩場を右に行ったり、左によじ登ったりしながら、高度をかせいでいく。リーダーのペースは常に一定でとても登りやすい。
 一段落すると岩の間には、今回お目当てのコイワカガミが現れ、一同黄色い歓声を上げる。あっちにもこっちにも小さくてピンクの可愛らしい花が咲き乱れて、疲れも吹き飛ぶ。花を見ながら、岩山をよじ登る事1時間半で、ようやく尾根に出る。
 ここから小さなピークを3つ超えると頂上。踏ん張りどころだ。

 山頂に着くと綺麗な富士山がお出迎え。北に目を向けると、雁ヶ腹摺り山や小金沢連嶺、大菩薩の山々が見渡せる。みんな大満足して昼食をとる。
 ゆっくりお弁当を食べた後、初狩に向けて急坂を下る。分岐では男坂を通り桧平へ。ここで小休止し、また暫く尾根道を快適に歩く。今度は尾根を外れて暗い杉林をジグザグに下る。
 飽きてきた頃、沢の音が聞こえ始め、水場に到着。

 最後は沢沿いに何度か渡り歩くと、林道に出た。駅に向かい民家の花々を見ながら下ると、何やらけたたましい鳴き声が聞こえてきた。『ガビチョウ』という外来種で、この里に住み着いていると教えてもらった。その鳴き声は大音量で、遠く離れても響いていた。大きな桐の木には紫の花が満開だった。

 足も疲れてきた頃、5時のチャイムと同時に駅に着いた。
 電車の時刻にはまだ間があるので、駅構内のベンチで簡単な反省会。今日一日、本当に良く歩きました。お天気も、花も、景色も素晴らしい、達成感のある山行になりました。


     記録・佐治ひろみ


【ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№178から転載】

伝説の金時山(1,212m)はご存じ? 冬山は侮れません=横溝憲雄

 平成26年3月18日(火)は、曇り・みぞれ(春一番)でした。
 参加者:L横溝憲雄、渡辺典子、後藤美代子、野上とみ、中野清子、針谷幸司、他1名     
 行程:新宿(高速バス)~乙女峠バス停~乙女峠~長尾山~金時山~地蔵堂~新松田駅 

「まさかりかついだ金太郎伝説の金時山~」、3回目の登山です。天候が今一で気になったが、とんだ登山になるとは……。

 金時山は神奈川県足柄郡箱根町と静岡県駿東郡小山町の境に位置する山です。皆さんご存知ですか? 頂上の金時茶屋と金太郎茶屋の間が県境です。
 金時山は姿が、高く突き出たイノシシの鼻のように見えることから、猪鼻嶽とも呼ばれています。

 金時山の登山ルートは5ルートあります。今回は乙女峠バス停から登る乙女峠ルートです。頂上付近の急登が一番短いのと、以前丸岳へのルートで使った乙女峠への登りが楽であったことから選びました。
 無論、新宿から高速バスという利便性もあります。  

 山にはまだ残雪(20㎝)ありとの情報で、軽アイゼン持参です。乙女峠へ向けて登ると、程なく雪道になりました。
「アイゼンはきまーす」
 初参加の会社の女子にも、モンベルで、軽アイゼンの購入を勧めておきました。みんなザックからアイゼンを取りだしました。何やら箱を取り出しています。
「何!箱のまま持ってきた!」「アイゼンのつけ方がわからない?」
 となると、左足、右足と、苦労して装着の手伝いです。
 「若い娘には親切だねー!」「いや、いや.....」
 そんな軽口をたたきながら、20分? 30分? やっとの思いで、アイゼンの装着が完了しました。

 登山開始です。ゆっくり登り、やがて乙女峠へ。富士山も周りも全く眺望なし。集合写真もなし。

 次なるは長尾山へと向かう。これが意外と長い距離です。アイゼンを外して、またつけて、と結構大変です。天候も“春一番”の突風で歩きにくい。今にも雪が降りそう。

 長く下って登り返し、やっと頂上へ着きました。吹雪?のようなみぞれが降っていました。立っているのがつらい。視界が全く効かずです。
 みんな急いで金太郎茶屋の室内へ入った。
「駄目ですよ、アイゼンはいたままでは。床が木なので傷つけてしまう」
 吹雪? みぞれ、戸外で脱ぐ間もなく上り込んでしまったから、叱られた。寒い。みんな暖かいうどんを注文。持参した弁当は開く間もなし。でも、うどんはあったかい、旨い。

 さて、下山です。地蔵堂へ下る予定ですが、傾斜が強いので危険だ? 乙女峠に戻る方が長い雪道の下りでもっと危険? 判断に迷う。

 店主に相談し、急傾斜もてすりがしっかりしている地蔵堂へと下る。ゆっくり安全に30分程かけ、平地の鳥居へ出ました。もう安心、後は歩きやすいハイキングコースです。
 想定より時間を費やしましたが、無事に地蔵堂の茶屋につきました。ここでビール!、甘酒も。       

 しばし休憩後は、始発のバスで新松田へ出ました。いつもの〝華の舞〝で無事下山を乾杯です。本日の山行は猛吹雪?のみぞれの中、全く視界が開けず、何の山に登ったかわからず仕舞でした。次回に期待します。

        記録・横溝憲雄


【ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№177から転載】

【新曲発表】 紫蘭会の『山の歌』(四十年の軌跡)

 紫蘭会の設立40年を記念して、平成26(2014)年8月に創作されました。そして、翌27年1月21日に、「紫蘭会40周年記念イベント」で、初披露されました。


                          作詞 小倉董子  (写真)


                          作曲 久新大四郎
                      
                        
『山の歌』、紫蘭会のコーラスがYou Tubeで聴けます。こちらをクリック                        


楽譜をダウンロード(印刷してお使いください)

歌詞をダウンロード(印刷してお使いください)

 

紫蘭会の『山の歌』  (四十年の軌跡)


    憶えていますか  出会った日のこと
    幸い棲むという  あの山に登りたい
    可憐に咲く高嶺の花たちに  出会いたい
    みんなの瞳が   キラキラとまぶしかった


    憶えていますか  山との出会いを
    雨と風に見舞われて  彷徨った不安を
    試練の先には   喜びがきっとある
    枯れ枝にきらめく 満天の星たちよ


    憶えていますか  歩けそう地球の果てまで
    ピレネーで     あなたがつぶやいた
    今度はどの山に  行こうかみんなで
    仲間と自然と    ちょっと冒険 (※リピート )
   ※喜びを分かち合い  支え合えば叶えられる
    絆は強く      笑顔がはじける

    

【寄稿・エッセイ】 腕試し=筒井 隆一

 2週間ぶりに銀座に出たので、ヤマハ銀座店四階の管楽器売り場に、立ち寄ったときのことだ。
カウンターで、『フルートワンポイントレッスン』と印刷されたチラシを見つけた。
「受講の枠に、まだ余裕がありますか?」
「はい、2月15日(日)の経験者向け最後の時間に、2名だけ空きがあります」
 レッスンは一時間刻みに組まれており、講師は武蔵野音大を出た30代の女性だ。初心者と経験者が交互に受講し、日々の演奏の悩みにワンポイントのアドバイスをする、とチラシには書いてあった。3人1組でレッスンを受け、料金は一人1000円と割安なので、あと先を考えず、申込んでみた。


 40数年前にフルートを吹き始めて以来、今も同じ先生から月に一度、個人レッスンを受けている。仕事の忙しい時期に、半年~1年の中断は何回かあったものの、私の習いごとの中では一番長く続いている。師匠にとっても、私が最古参の弟子になってしまった。

 著名な演奏家として高い評価を受け、指導者としても豊富な実績があり、心から尊敬、信頼できるレッスンをしていただける。

「そのような素晴らしい指導者についていながら、何を今さら他でレッスンを受けるの?」
と言われそうだ。私の持って生まれた、浮気こころ、悪戯こころが、頭をもたげたのだろう。

 長年習い続けている師匠と違って、この講師がどのような指導をするのか、知りたい。「武者修行」、「腕試し」という気分だ。他の指導者の教え方、考え方を知り、我が師匠の素晴らしさを、あらためて確認できればよいのだ、と勝手な理由をつけて、当日ヤマハのスタジオに乗り込んだ。


 定刻、楽器売り場横手の小スタジオに、受講生3人が集まった。半年ほど前から、月2回個人レッスンを受けているという40代の女性と、トランペットのケースを抱え、他の管楽器にも興味があるという30代の男性だ。

 その場限りのこととはいえ、彼らはどれだけの経験と、力量があるのか分からない。最初は少々緊張したが、3人で順に音出しし、簡単な旋律を吹いたのを聴いて、私の方が少しばかり年季が入っているな、と思い一安心した。

「筒井さんが、今困っていらっしゃることは何ですか?」
「やはり70代半ばになると腹筋が衰え、肺活量もめっきり減ります。今までのように息が続きません。音量が落ちるのを承知で吐き出す息を減らし、吹き続けるのでしょうか。それとも目立たぬよう、頻繁に息継ぎをするのですか」
「筒井さんの音色には輝きがあるし、音量も豊かなので、今のままで心配することはないと思います。遠慮なく、息継ぎの回数を増やせばいいんですよ」
 私に対してのワンポイントレッスンだ。言ってほしかったことを、そのまま指導され、今の私に対する、的確なアドバイスだと感じた。他の2人も、唇への楽器の当て方、指使いの間違いを、指摘されていた。

 このような単発的なレッスンに参加するのは、昔少し吹いていたことがあり、時間ができたので、また始めてみたい、という人が多いようだ。
 何か新たに始めてみたい、再開したい、と思いながら、そのチャンスに恵まれない人は、結構いる筈だ。その人たちにとって、このワンポイントレッスンは、新たなもの、もう一度やってみたいものと取り組む、腕試しの、とてもよいきっかけになると思う。

 また、指導者は、一言ほめて本人のやる気を引きだそうとしている。それが、本人にとっては再挑戦する動機付けとなり、レッスン教室の発展、拡大にもつながる、と感じた。

 常日頃、私が師匠から指導されているような、長所を伸ばし、短所を改善する、きめ細かくゆとりのある指導は、時間的制約もあり、ワンポイントのレッスンではとても無理だろう。しかし、何を習うにもよいきっかけと、的確な指導者にめぐり合うのが一番大切なのだ、とあらためて分かった。

 私にとって、尊敬する師匠に習い続けられるのは、本当に幸せだ。これからも師匠の下でレッスンを続け、今まで指導されたことを、まとめあげる時期だと再確認した、この日のワンポイントレッスンだった。

                                     【了】

【寄稿・エッセイ】 男のひなまつり = 和田 譲次

 娘が結婚して家を出てから15年余になるが、女の子がいないのに我が家では、なぜか3月3日の前後2週間ほどお雛さまが和室の一角を占めて飾られる。

 初節句の時、祖母が大奮発して七段飾りの豪華な雛飾りを送ってきた。ありがたいが、まだ家を増築前なのでどこに飾り、どのように収納するか夫婦二人は頭を悩ませた。
 雛飾りは、必要がないので、娘に持たせたかったが狭い家では飾りようがないという。そのうち女の子が生まれたら欲しがると思っていたら、男の子二人で子づくりを止めた。いまだに、お雛様は我が家の押し入れの中で眠っている。

 いちまる10年ほど前から、雛祭りの前に娘がお雛様を飾りに来るようになった。
 彼女は自分に贈られたものを観てみたいという気持ちと、外気に触れさせた方がお雛さまも永持ちすると考えたのだろう。
 孫が母親の飾り付け作業を面白がって手伝うようなった。上の子が小学校に入るころ雛まつりは女の子のお祝いと気がつき、
「なんで俺たち男の子のお祝いはないのだよ」
 と、ふてくされた。

 今は端午の節句という呼び名も死語になりつつある。柏餅を食べるのが昔の風習の数少ない名残だろう。ひな壇の前で家内が
「3日にお雛様の食事を作りましょう、男の子もいるでしょう」
 と人形を指さしながら慰めた。

 それ以降雛まつりのお祝いを男の子用ににぎやかに行うようになった、食卓には、チラシ寿司、ハマグリの吸い物、菜の花の和え物など、伝統的な料理が並ぶようになり,色彩が鮮やかで孫たちも喜んで食べるようになった。

「おばあちゃん、お寿司にエビ、いくら、アナゴをいっぱいいれてね」と、数日前ひな壇の準備をしている家内に下の孫が頼んでいた。
 この子は、かたづけるときに、飾ってあった雛あられをもらうのを楽しみにしている。


 ご近所の皆さん方に、和田家にはお雛さまが飾ってあるということが少しずつ知れ渡り、友人知人を連れて観に来る人が増えてきた。
 なかには外国の方もいて、ホテルやお店で観られるのに、わざわざ不便なところまで来るのかなと疑問に感じたこともある。普通の民家で生活に根づいた形で飾られているのが、今の時代としてはめずらしいようだ。

 ふすま,しょうじ、床の間、鴨居などがある和室に置いてあるので、子供たち、とくにマンション住まいの子は異国に来たような印象を持つらしく、お雛様を観る前に部屋を隅々まで珍しげに見て回わる。この家ができて
 45年になるが、われわれ夫婦と同じように老化が進み過去の遺物になりつつある。
 ひな壇のぼんぼりに明かりを点けて静かに眺めると、日本の伝統文化の素晴らしさが感じとれる。次の世代にもこの良さを引き継がせたい。
 人形の着物、手に持つ楽器などの小物まで見事な細工が施されている。

 家は近い将来スクラップされるが、この人形たちをどうするか、娘は勝手に嫁入り先を見つけてきたが、お雛様の嫁ぎ先も考えておこう。
 

【寄稿・エッセイ】 お雛様がいっぱい = 三ツ橋よしみ


  稲取文化会園内の「雛の館」に飾られた、15段飾りのお雛様です。雛段の左右につりさげられているのが、名物の「つるし飾り」です。


 2月のなかば、伊豆の稲取温泉に行きました。「雛のつるし飾りまつり」の開催中でした。雛段の左右には、ふくろう、猿、ほおづき、羽子板、はまぐり、お手玉といった、縁起ものやおもちゃを、ちりめんの布でつくり、紐でつりさげます。

 稲取では、江戸の終わりごろから代々、お雛様の周辺飾りとして受け継がれてきたのです。
 雛の和裁細工のさげ物は、九州柳川地区、山形酒田地区、そして伊豆稲取地区に伝えられ、日本三大つるし飾りと言われているとのこと。

 かわいらしいお雛様を囲んだ、沢山のつるし飾りを間近に見て、その丁寧な手仕事に、感動してしまいました。
 初節句を迎える子供や、孫がすこやかに育つように、幸せになりますようにと、願ったいにしえの母や祖母の思いが伝わってきます。

 呪力があるというふくろうは,福や不苦労の思いをこめ、厄が去るようにとお猿さん、婦人病の薬効があるほおずき、ハマグリは貞節の象徴、俵ネズミは大黒様のお使いで、金運、霊力、子宝に恵まれますようにと願います。
 よだれかけはほうそうよけ、お金に困らないように巾着袋、厄除け延命長寿をもたらす桃、色鮮やかな縮緬の小布をつかい、丁寧に手作りされたぬいぐるみたちが、紐にぬいつけられ、雛段の周囲をいろどるのです。

 良い子に育ってね、幸せになってね、つるし飾りが、ゆらゆら揺れながらささやきます。沢山の飾りの一つ一つに込められた、女性たちの暖かいまなざしに、お雛様のお顔も微笑みます。

 今は何もかもお金で買える時代です。デパートでお雛様を買い、服を買い、おもちゃを買って、はいどうぞで終わりです。でも、ちょっとちがいました。ちゃんと心をこめなくちゃいけなかった。

 ひと針ひと針、小さなつり飾りに思いを込めましょう。女たちの思いが、祈りとなって、子供たちを見
守り育てるのです。

【寄稿・エッセイ】 遺言状 = 横手 泰子

「10年先にはお母さんは居ない」
 何かにつけて娘たちに言い続けた。気が付いたら十年を遥かに過ぎている。そこで最近では「死ぬまえに」と「最後の」が出てくる。

 60歳の誕生日を迎える時、娘たちから何が欲しいか聞かれた。「かんじき」をリクエストした。おしゃれな「スノウシュウ」が届いた。積雪2メートル、雪が障害物を覆って行動範囲が広くなり、動物の足跡を追ったり、植物の冬芽を観察する好機だ。真冬でも水が湧き続ける沼に、アメマスの産卵も見に行ける。

「樹齢1000年のオンコ(イチイの方言)が最近見つかったから見に行きましょう」
 東大演習林のA教官から声が掛った。

 早速出かける。雪の林内を縫って歩き、汗が滲む頃たどり着いた。
 A氏によると、長年林長を勤めたドロガメさん(本郷キャンパスで一度も講義をしたことのない東大教授)に聞いても山子さん達に聞いても、誰もしらなかった。鳥の研究が専門のA氏が偶然見つけたと言う。

 樹齢300年、400年のエゾ松なら見本林で見られる。200年たつカツラのひこばえが2本見事に立っているのも見た。
 1000年のオンコは大地に何本も根を張り、うねるように盛り上げて、不動の幹から、枝を四方に悠然と広げていた。千年と言う歳月風雨に耐え、雪に押しつぶされることもなく生き続けた、森の精は、どれだけ多くの鳥たちを休ませ、何を見て来たのだろう。言葉もなく立ちつくした。

 2年先に80になる。「終活」という言葉が横行する。ほっといてくれ、と思っている。しかし、遺言状なるもの、書いておかねば、という気持ちは…ある。

 幸か不幸か子ども達が争う様な財産など無い。私の遺骨は、一本の桐の木の根元に置いて欲しい。それが願いだ。願わくはその桐の木が1000年生き続けて欲しい。私はそれを見上げて眠っていたい。

「お前が産まれた時、植えた」
 と言われた桐の木が並んでいた。
 春になると薄紫の花がさいた。筒型のその花で、毎日遊んだ。本来、箪笥になるはずのその樹は、戦後の物不足の時代に下駄に加工されて、消えてしまった。故郷に向かう列車に乗ると、車窓から見える景色の中に桐の木が見える。「私の桐の木」と言う思いが心をよぎる。

 今年の誕生日には、とりあえず「遺言状」の下書きでもしてみよう。本物になったりするかもしれない。
動物歳時記
介護犬アイ