寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 一緒に生きた物たち = 森田 多加子

 最近は、いつも頭のどこかで物の整理、というより捨てることを考えている。一番てっとり早いのは、引っ越しをすることだ。夫が現役のころは、転勤のあるたびに家はすっきりした。引っ越す前に捨てる。行ってからもその家に合わないものを捨てる。両方で捨てるので、少なくともその時点で不要なものはなくなった。

 夫のリタイア後は、転居がない落ち着いた生活をしているが、すでに二十年以上同じ家に住んでいるので、荷物は増え続けている。断捨離は大変な作業だ。

 私の母は、長男である弟夫婦と一緒に九州に住んでいたが、割に早くから身辺整理をやっていた。たまに訪れるといつもアルバムを出して、ほしい写真はないかという。子どもたちが行くたびに、それぞれに分け与えた。

 着物は、洗い張りをしてきちんと取ってあった。それらを何かに利用しなさいというが、私は不器用で何もできない。
 古い鋏や裁縫道具、鼈甲(べっこう)の櫛、ちょっと壊れている珊瑚の簪(さんごのかんざし)類、袋ものなども持って帰れという。鋏はすべて研ぎ直して刃の部分は銀色に光っていた。裁ち物鋏くらい大きい握り鋏は、確かに珍しく、どこかの博物館にでも持って行きたいくらい立派なものだが、縫い物をしない私には無用の長物だ。

 しかし、それらの品物にたいする母の思いはよくわかるので、いらないとは言えない。とりあえず家に送る箱に詰める。実家に行くといつもこの箱が数個できてしまう。

 妹に話すと、同じようにもらって帰るが、ほとんどのものは、捨てているという。たしかに、母にとって大切なものでも、子の私たちにはなんの思い出もない。特に食器などは、それが上等の塗り物であっても、なかなか使う気にはなれない。

 そういうことがあったので、断捨離の時期に入った私は、子どもたちに残すものはない、と考えている。どんなに私が一つ一つを大事にしていても、私以外の人には何の思い出もないだろう。自分の好みを押し付けることはできない。

 そんな決心をしているのに、先日、娘に洋食器の一揃いは要らないかと、つい尋ねてしまった。勿論断られた。使い易い食器を揃えているので、余分なものは要らないと言う。

 この食器は、友人たちを招いた折、コース料理もどきを作っていたものだ。お世辞でも「すごーい」「おいしい」と言われると、鼻ぴくぴくでうれしがっていた。セットで五人分揃っている。大事に使っていたが、最近は面倒な料理をしなくなったので、要らなくなった。

 その頃の経済事情から言って、一大決心をしてやっと買ったものなので、このまま処分することはどうしてもできない。
 食器類は、料理を載せられてこそ美しくなると思う。これからは普段使いにして、皿としての生涯を全うさせるしかない。
 母と同じような齢になって、その頃の母の気持ちがわかるようになった。

 周りにあるものは、全て私と一緒に生活してきたものだ。もっと言えば、一緒に生きて来たものだ。しかし、どんなに大切な宝物であっても、それは私だけの宝物であって、私以外の人には要らないものなのだ。
 最後は全部すてられるのだろう。

奥多摩 ロン・ヤス会談の「日の出山荘」 = 松元兵八

期 日 : 2012年4月29日 (日) 晴

メンバー : L松元兵八 上村信太郎 岩淵眞一 西村美智子 松村幸信 

コース : JR武蔵五日市線武蔵増戸駅前 → 網代弁天山(網代弁天洞窟)…武蔵増戸駅前(昼食) 
→ 横沢入里山保全地域…落合バス停 → 日の出山荘 → 武蔵五日市駅前 (歩行 約4時間)

「日の出山荘」掲示のロン・ヤス写真


 10時30分に、武蔵増戸駅前に集合した。
 秋川に架かる網代橋を渡り、貴志嶋神社入口まで1.3kある網代の弁天様といわれるこの神社の奥の院弁天洞窟に入る。

 洞内をヘッドランプで照らしながらいく。財宝・福徳を授ける神 毘沙門天立像(多聞天)は、高さ35センチの大黒天像(伊奈石製)のご尊顔を拝してから、下山する。駅前のベンチで昼食。
 12時10分過ぎに、駅前を出発した。

 北伊奈集落を縫って、西側の広葉樹林の尾根道を20分ほど登りつめると、目ざす横沢入里山保全地域である。ここは野生動植物保護地区に指定されている。


 ルートマップにも載っていない急坂を一気に辷り下りると、下ノ川という谷戸にでる。下ノ川の沢が、横沢入の中央を流れる横沢川に合流する。そこには戦車橋が架かっている。この橋は、横穴に残っていた旧陸軍の大砲などの牽引車の部品を利用したものだという。

 西に進むと、宮田西沢の標識があり、この谷奥には伊奈石の石切り場跡がある。さらに百歩足らず行った右の山腹に入口が急斜面になっている地下壕がある。
 根っこに掴まり、よじ登って壕の中を覗く。戦争末期の昭和20年に旧陸軍によって掘られている壕内に軍需品を保管したという痕跡を辿った。
 壕を掩う軟らかい砂岩が剥がれそうだ。我々はこの遺跡の現状を損なわないように注意しながら、崖を下りた。


 横沢入の拠点ログハウスの斜め前に、横沢川を北側に渡る橋の護岸の石垣に注目した。メンバーの皆が「あっ臼だっ」と声を上げる。
 石垣に茶臼の未成品が、そのまま組み込まれている。

 戦車橋に戻って下ノ川を渡り、横沢入の東側尾根を登る。ロープを伝って急斜面を登ること10分で、中腹となり、一休み。頂上付近からは西の山々の日の出山・御岳山・大岳山等を仰ぎ見る。

 30分位で、保全地域を通り過ぎて、日の出団地の北側のテラスに出る。ここは、伊奈石露頭で、地層が地表に露出している。
 八坂神社の脇をZ字形に下り、落合バス停へ着く。歩くと入館受付に間に合わないので、タクシーを呼んで日の出山荘へ駆けつける。

 15時からは館内見学。1983年、日米首脳会談「ロン・ヤス会談」の舞台となった記念館である。母屋の「青雲堂」中座敷に掲げられた中曽根氏の書「太平洋波静」を見ても当時、いかに日米関係が強固だったかが窺えよう。
 我ら一行は青雲堂を背景に写真撮影する。そして、武蔵五日市駅前で乾杯した。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№53から転載

道迷いでクモの巣とササやススキに難儀、扇山=松本洋子                                  

扇山(1138m)

日時:2012年9月15日(土) 晴れ

メンバー:L関本誠一、渡辺典子、武部実、石村宏昭、松本洋子  

コース:鳥沢駅(バス)⇒梨の木平~扇山(山頂直下:昼食)~君恋温泉~犬目~大田峠~梁川駅

 JR鳥沢駅に8:50に集合した。
 4~11月の土日のみ運行(9時発)のバスで梨の木平登山口へむかう。9時10分に到着する。登山口に「熊に注意!」の看板ありホントにいるのかな~?と言いながら、9時15分から熊鈴をつけて登り始める。
 最初は緩やかな登りで、30分くらいで水場に着く。滔々と湧き出る水を持参のペットボトルに入れてから、また登り続ける。

 ふたたび林の中の道をぐんぐん登っていき、急な坂を登り切り、分岐の標識には10時45分に到着した。ここが「大久保のコル」。無理をせずに小休憩をとる。

 右の道へと進路をとり、富士山の絶景が待つ扇山の山頂へとむかう。あともうひと頑張りだ。ここから扇山山頂までは、広くてなだらかな尾根道だった。

 何てことのない道のようだけれども、ただ歩いているだけで、胸の奥からわくわくしてくる。そんな道を快調に歩いていく。やがて林を抜け、突如として広場に出る。11:00に山頂に到着した。

 記念写真を撮る。晴れてはいたが、武部さんが楽しみにしていた富士山は見られずがっかり。

山頂は木陰がないので、もう少しを歩き、山頂から10分ほど下った登山道脇の木陰スペースにシートを敷いた。
地面が少し坂になっていたので、坐っているのにも気を使いながらの昼食だった。
 約30分の昼食休憩をとった後で、出発する。


 犬目に向かって歩いてたはずなのに、君恋温泉に出てしまう。
 不動尊の下にある滝のところは、アルミの階段があり、気をつけて登り、マイナスイオンを浴びながら進み、君恋温泉にたどり着く。
 煙突からわずかばかりの湯気らしきものが昇っていたが、これで温泉かと思うほどだった。

 県道に下山したあと、いったんは犬目(バス停)まで戻り、ゴルフ場の脇をとおり、大田下バス停にたどり着くも、13:33分発のバスには3分程遅かったために乗れず。
 やむなく歩いて20分位とかの近道(?)を行くことにした。

 大田峠を経て梁川駅へと向かう。いつ人が歩いたかわからないくらい、クモの巣とササやススキが生い茂った道なき道を進み、半分くずれている様なところも2、3ヶ所あったが、どうにか14:45に梁川駅へ辿り着く。
 大田峠~駅までのコースタイム20分のところ、40分もかかり、あまりお勧めのコースではない。結局は10分ちょっとの待ち合わせで、14:58発の電車に乗った。立川にて、反省会をしてから家路へと向かう。


       ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№159から転載

純白の富士山には感動、笹子雁ガ腹摺山 = 脇野瑞枝

笹子雁ガ腹摺山(1358m)

2012年5月19日(日)晴れ

メンバー:L佐治ひろみ、石村宏昭、大久保多世子、北山美香子、脇野瑞枝

コース: 初狩駅8:00集合、バス8:45発 → 新中橋9:10着 → 笹子雁ガ腹摺山10:40着 → 米沢山11:55着 ― 昼食 → 御坊山13:15着 → 大鹿山13:55着 → 景徳院15:05着 - バス15:37発 → 甲斐大和駅15:51発 → 帰路

 初狩8:45のバスに乗り、新中橋にて下車した。
 登山口から杉木立の中をしばらく登ると、そびえ立つ鉄塔の下に出る。鉄塔の右側を通り抜け、さらに登りつめて尾根筋に出ると、右手にはこれから登るだろう稜線が続く。
 藪の中、かなり急な登りを頑張ると、笹子雁ガ腹摺山(1357)山頂に着いた。

 まわりには、東国三葉ツツジ? の灌木が目立つ。山頂からの眺めは、続く山々と雪をかぶった美しい富士山とで最高です。
 10:40着。細い道を下って、やせ尾根が続き、三つのピーク、クサリ等を使ってかなりきつい。


 1時間ほどで米沢山(1357)山頂に着いた。昼食を取る。山頂は樹林に囲まれていて展望はありません。

 登り降りを繰り返し、間井沢ノ頭/トクモリ(1412)を過ぎると、西側がパッと開けて展望が良い。しばらく進むと、お坊山山頂に着いた。
 またまた一気に下がって大鹿峠に着く。
 樹林に囲まれ、道も狭く、いよいよ下山になる。目指す景徳院の道がちょっと見つけにくい。暗い樹林の中を一気に下って氷川神社を過ぎ、民家を通り抜けると、立派な山門が目に入る。景徳院です。
 この寺は徳川家康が建立している。二度の火災にあい、山門を残すのみとのこと。手入れが行き届いた庭園を見物した。

 15:37発のバスに乗り、15:51甲斐大和駅発にて帰路に向かう。立川にて反省会。

 全体に道が狭く、樹林の中で、アップダウンが思ったより激しかったように思った。笹子雁ガ腹摺山からの雪をかぶった富士山が素晴らしかったです。

 また、大菩薩山塊には三つの雁が腹摺山にあるが、いずれも雁の飛翔コースにあたるので名づけられたと思われます。
 笹子雁ガ腹摺山は大菩薩連嶺の最南端に位置しています。中央自動車道笹子トンネルはこの山の下を通っているそうです。
 リーダー佐治さん、ありがとうございました。
(なお、トンネルの天井板落下事故が起きたのは、この山行の7ヶ月後です)。

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№159から転載

【寄稿・(孔雀船)詩集より】 月を嗅ぐ犬と   脇川郁也

見えない何かを探して
水の声に耳を澄ませたように
犬が月を嗅いでいる
老いて死んでしまった大きな犬だ
その姿を見届けてから
ぼくは
凍った空から射してくる
しろい光に包まれて
死んだ犬のかたちに似せて
立ち上がる

明日には
月のうえに
もうひとつの月がのぼる
そんな晩は
秋の長雨ばかりが思い起こされて
滔々と流れる御笠川の汀にあって
記憶の中に立ちつくしてしまうのだ

まちがまだ眠っている時間に
ぼくたちは
冷たい風に吹かれながら
川べりを歩いて公園に向かった
ときに立ち止まり
周囲の気配を嗅ぎとろうとするおまえは
おもむろにしゃがみ込むのだった
おまえの糞から立ち上がる湯気も
風に消えた

夢にうなされて
悲しげに唸るおまえのことを思うと
ぼくの鼻が鳴るよ
川岸のふちにふと立ち止まれば
いまもそこにおまえの姿があるようで
ぼくは
鼻をうごめかすのだ

月を嗅ぐ犬は
尾を立て
耳を絞り
牙をむいている
ただ目だけが悲しみに満ちている


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
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【寄稿・(孔雀船)詩集より】 鼓星(オリオン)通り  高島清子

その通りはここから始まる
緩い坂が降りてゆく先の先は
道がユニオン(団結)通りと名前を変えて続くのである


歩き出せばひんやりと湿った物の怪らしきもの
後をついて来る気配止まず
地霊の声さえ聞こえるではないか
その上ここには
よからぬカビ菌共が棲みついているらしく
肩先に吹いてきた風には
江戸のその先の時代からの匂いがした


追憶の道で回路に残る店は
大儀らしく薄目をあけて
生あくびを噛み殺しながら
この昼下がりをやり過ごしていて
人は歩くともなく歩いている


鼓(オリ)星(オン)通りユニオン(団結)通りとは
よくも名づけたものさ
なにさま田舎モダンの紳士が
オン繋がりで決めたのだな
オリオン通りから星は見えない
時折吹く風が天空からの冷気を送ってきて
夜はまた一際の寂しさが漂うのである


地方都市の今は
何処もこんなものさ
千軒町屋が廃れるのは
人が遠い山裾の方へ移住して行ったからだ
そしてみんな勤め人となって
休日にはデンタル農園でキュウリの棘に参っている
元はといえばみんな先祖は農家さん
次男以下ここには要らない者が
町へ出て行ったのだが
やがて土の匂いが恋しくなり
もっくりもっくりと収穫する根菜の
あまりの真実にたまげている


田舎に住もうというのは人の遺伝子の仕業
そして何という私の誤算であったのか
来てしまった此処は
空のみが広々と青く
オリオン座の鼓の音も時には耳に届く
不可思議な場所であった


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孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船 87号」 頒価700円
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【寄稿・(孔雀船)詩集より】 式部の身の上 望月苑巳

昼の月を折る
甍の上の虚構を折る
ペーパームーンね、と笑う
その人の心を折る
遠くから歌がひとつ
手鞠のように
耳元にころがりこんでくる
あなたは何でも折ってしまうのね
それならば、棘だらけのあの歌も折れるのでしょう
と、優しく残酷に笑う。


〽かーごめかごめ、かーごのなーかの鳥は
手際よく折ると
籠の中の歌はブラックホールのように
もう、そこから抜け出せない


人生は迷宮からできているんだよ
それがたとえ薄の穂先や
誰も住んでいない廃寺の中
あるいは、父母の血族が途絶えても


あら、鳥が可哀想
私と同じ身の上ね


骨のように細い筆で
その人は書き終えたばかりの
夢の浮橋に自分を閉じ込めた
関白様の誘いをていよく断った証として。


*「紫式部日記」に藤原道長からの誘いをうまくはぐらかした、という記述があることから紫式部は道長の妾ではなかったか、という説がある。



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【寄稿・(孔雀船)詩集より】 天空のポスト  北川朱実

志摩半島を迂回して登った
スカイラインの山頂には

夜明けと
真っ赤な郵便ポストだけがあった

この天体の不在届のような静寂

  どこへ帰るつもりだったんだろう
打ち上げられたトビウオを
思いつくまま砂浜に並べた人は

あれから
背中をまっすぐに濡らして

眼下に広がる街の病院で
うずくまる生きものみたいな
文字を並べ直している

何がおかしかったのか
淡く光る海岸を歩きながら
笑いころげ

よそ見した瞬間
遠く流れ出そうとした人

膨らんだり縮んだりしながら
速達便でやってきたあなたの詩集の

肩から背中から
まぶたから知らない太陽が昇ってくる

朝焼けを全部投函する

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【寄稿・(孔雀船)詩集より】 きみの島に川が流れ   須永紀子

レビヤタンに追われたきみが
逃げかえる島
平坦に過ぎる丘と
疎林のような森があり
以前は友人もいたが
長い無音が水を呼び
時間をかけて川になった


岸につながれたボートで
みんな向こうへ渡ってしまい
「じゃあ、またね
実のないことばが
ぱらぱら足もとに落ちてくる
鳥たちがそれをついばみ
「aui aui
代わりに蹴ちらしてくれる


ひとが消えても
川は川としてあり
島全体が湿って
忘れられた映画のポスターのようだ
下方に並ぶ小さな名前
「そんなひともいたね
ようやく思い出されるタイプの
きみは一人で
生きてきたように死んでゆく
ひそかに望んでいることが
ふるまいにあらわれる
暗幕と暗闇を好み
多くのものを遠ざけた
未来もまたそのようにあると思われた


けれど明日
レビヤタンに追いまわされ
島に逃げこんだきみは
鳥を友に、ボートに揺られて
向こう岸へ行くこともできる

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【寄稿・(孔雀船)詩集より】 孤独な手帳から  望月苑巳

お母さん
淋しい蚊が寝息の深いぼくを狙っています
でも振り払って助けてくれましたね
蚊だって生とつながりたくて、必死になっていたのに。
松阪木綿の表紙が美しい手帳に
そう書き留めてから半世紀
しんしんと淋しくなりました。

青年を脱ぎ捨て
影まですっかり痩せてしまったぼくは
こうして寒い歳をむかえたのですが
天動説が顔を利かせていた柳通りの縁日で
十円硬貨を握りしめて
金魚すくいに興じたあの夜のユウコちゃんは
どこにいったのでしょう。


父も母も、もう返ってくるはずがないのに
銀河をゼンマイのように巻き戻せば
淋しい蚊が慌てて線香の渦に巻かれ
クルクルと死に際のダンスをしています
だからあの日の露地裏に
ぼくの血がしたたるダリアが咲いていたのですね
お母さん。


でも青春という熱を出して
正しい骨格をした故郷の祭りは
戻ってくるのでしょうか
水のごとく生きて
風のごとく果ててください
そう乱れた文字で
ぼくの松阪木綿の手帳に書き留めた人。


ぼくは致死量の愛が欲しいだけなのに
孤独ばかりがしんしんと、
抱擁した分だけ降ってきますね
お母さん。


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