ジャーナリスト

小さな駅で見つけた「鉄のアート職人」=鈴木格子さん

 見知らぬ土地に旅する。おもわぬ発見があるものだ。
 浜名湖・天竜川のあたりを走る天浜線・一両編成に乗っていた。旧国鉄の二俣線のままの駅舎でとても古風で、文化財だった。旅の情感は存分に味わえる。
「ブリキに興味がありますか」
 中年男性から話しかけられた。地元のカメラ愛好家らしい。

「めずらしいものがあれば、どこでも」
 教えられた駅名は、いちどで憶えられない発音だった。遠江一宮駅(とおとうみいちのみやえき)だという。
 

 駅校内の蕎麦は名物だとも情報を入れてくれた。昼食時間に近かったが、蕎麦屋は店休だった。限りなく無人の乗降客だから、商売にはならないのだろうか。あるいは火曜日休みなのか。いすれにしても、昼食にはありつけそうもない。


「遠州の小京都」という巨きな看板があった。駅前にあると聞いたブリキらしい造形品は、見当たらない。あっちこっち歩いてみるがどこにもない。駅まで帰ってきた。
 鉄工所があったので、溶接をする職人の方に聞いてみた。
「ブリキなんてないな」
「そうですか」
 ここまできて、空振りか。天竜川の最寄駅で降りればよかったな。なおもぶらぶら探していた。昼休みになり、職人が工場から出てきた。
「鉄じゃないの」
 職人が声をかけてくれた。
「たぶん」
「だったら、この鉄工所の奥さんが鉄細工をしているよ」
 鉄とブリキはたしかにちがう。

 いきなり大蛇を見せてくれた。気色が悪いな。くにゃくにゃ曲がるし……。
「テレビを観て来たの?」
 大蛇を抱える奥さんが訊いてきた。
「いいえ。放映していたんですか」
「きのう、ボクサー出身のタレント・内藤さんがTVクルーと一緒にふいに来たのよ。事前に連絡がなくて、突然はめずらしいわよ。ほとんど突然のふりして、事前に打ち合わせには来るからね」

 ボクサーの内藤元選手なら、おなじ葛飾・立石の宮田ジム出身。きのうと今日の違い。そんな話題など別段関係ないので、話題にせず、彼女の作品を見せてもらった。
 現物は手元から離れているので、写真集だった。
 ぜいたくな庭園におしゃれな鉄製のテーブル、椅子などはとても高級感に満ちていた。作品全体からすると、葉っぱの形が好きなようだ。そのうちに、名前が、鈴木格子さんとわかってきた。
 さらには個展を開くなど、職人ではなく、本格的な鉄アート芸術家だと判明した。

 公園の動物ベンチも下地が鉄製だったり、神社に牛二頭が奉納されたり、ユニークなものが多い。著名な紙細工作家とコラボで行燈・スタンドなどもつくる。池坊大学(京都)から花瓶の筒が鉄製だった。その一つの実物があったので、持ち上げさせてもらうと、見た目よりも、はるかに重いが安定している。
 
「鉄を曲げるのは火力ですか」
「手作りのベンダーですよ」
  生まれつき手が器用なのだと、感心させられた。 、
「鉄は錆びますが、処理方法はどうしていますか」
「さび止め塗装は、5回くらいしています。色違いにして、何回塗ったか、わかりやすくしています」

 棚に置いた鉄製の小物は形よく上品だった。これらを見ながら、なおも質問した。
「製品の完成した達成感と、企画から制作のプロセスとどちらが好きですか」
「プロセスですね」
「ぼくも、作品ができるまで、何度も推敲するけれど、いったん手放すと、自作は見たくないし、送られてきても、読まないですよ」
 打ち解けてきたので、この段に及んで作家だと明かした。

「小説家と話しするのは初めてです。訪ねてこられたのも、初めて」
 メディアの対応慣てしているはずの鈴木さんだが、ずいぶん驚かれてしまった。話しの流れから、私が出身地が広島だというと、
「あら、私が生まれたのは、尾道の奥の御調郡ですよ。父はダム関係で、全国の転勤族でした」
「エリート官僚ですね」
 そんな話から、こちらの話題になってしまった。

 彼女は鉄ばかりか、竹細工も、木工もやられる。さまざまの物にたいする好奇心が強い人だった。
「想像力と好奇心は一体だな」
 そんな共通の想いだった。
 

巨大だな、大胆だな、おどろきの墨ト會書展=轡田隆史

 日本ペンクラブで親しい轡田隆史(くつわだたかし)さんから、書道展の案内状をもらった。2015年11月5日から3日間にわたり、千代田区・ポーラ銀座で開催される「墨ト會書展」だった。

『文字も、わたしたちニンゲンも、自然のいちぶです。漢字やひらがなたちといっしょに、わたしどもは天と地のあいだで楽しく遊んでいます』 と明記されていた。さらに、
『高野早苗さんをかこむ、ささやかな会です』
 とつづいていた。

 この日から、私は東京を離れるので、同日11時の開催時間に出むいた。記帳は一番だった。「えっ、字が下手なのに。書道展でトップに書くの」と躊躇(ちゅうちょ)したけれど、しかたないや、と乱筆そのもので記入した。

 轡田さんの作品をみて、おどろいた。江戸時代に、江戸の大火の犯人で、火あぶりの刑になった「八百屋お七」の戒名だった。『花月妙艶信女 』

 戒名を堂々と筆に書き、さらには堀口大学の「八百屋お七」の詩をつけている。すごい着想のジャーナリスト・文筆家だな、と感心するばかりだった。

  八百屋お七が火をつけた
  お小姓吉三にあいたさに
  われとわが家に火をつけた
  それは大事な気持ちです
  わすれてならない気持ちです

 さらには書と並んで、誕生寺の写真が3枚あった。轡田さんが撮影してきたものだという。
「15歳ではりつけ、火あぶりの刑のお七は大罪人であり、江戸で墓を建てられなかった。墓も位牌もないのは不憫だと言い、両親が何らかの縁で、岡山県津山に近い誕生寺に、戒名と位牌をたのんだ」
 法然の生誕地である。こうした点も教えてくれた。
「当時の住職が、死刑の少女の戒名を与え、位牌を置かせたのです」と轡田さんが説明する。
 
 後の世に、振袖お七が人気となり、展示された振袖が切り取られて持ち去られたことから、今ではぼろぼろになっている、と説明を受けた。

 轡田さんは、早稲田大学のサッカー選手として活躍し、朝日新聞社社会部次長、編集委員、8年間に渡り夕刊1面コラム「素粒子」を執筆した。読売新聞のナベツネが「朝日の素粒子だけは読まない」と言わしめたジャーナリストだ。
 その後、テレビ朝日系の『ニュースステーション』で、久米宏とのコメンテーターを務めた。夜桜などの中継で、記憶にある人も多い。

大看板の球団の制裁に甘く、選手に厳しい処分だ=佐々木信也

 75歳まで野球解説されていた佐々木信也さんは、82歳の現在でも、駅の階段を2段ずつあがる、という。実に健康人間だ。佐々木さんの「成功する監督のリーダーシップ」の講演が、11月13日に千代田区の海事センターで行われた。昼の弁当を食べながら、お話を聞く趣向だった。主催者はNOW観光情報協会で、同理事の近藤節夫さん(日本ペンクラブ)から声掛けされて参加したたものだ。

 

 50年間も電波に乗っていた佐々木さんの声は溌剌としていた。 

 幼いころ「病的といえるほど、無口でした」と佐々木さんは語る。小学校の同級生どうしでも、彼はろくに話せなかったと、回顧する。
 82歳でも流暢に講演する様子から、とても信じがたいものだった。野球界に入ったあと、落語家との交流から、会話ができるようになったと語る。
 
 前段の話から、人生最大の想い出から入った。かれは神奈川県の湘南高校(県内有数の進学校)の在学中(1年生)に、甲子園出場した。かれのバンド決勝スクイズが決まり、甲子園出場が決まった瞬間は、いつまでも忘れられないという。

 かれは1年生で強打者でもないし、7番ライトで甲子園に出場した。好打の連続で優勝ヒーローになった。夏休みが終わり2学期に入った初日は、学校にいけば、一躍ヒーローになっていたのでおどろいたという。
 その後、慶應大学~プロ野球「高橋ユニオン」(現・千葉ロッテマリーンズ)に入った。二塁手とした活躍した。新人ながら154試合に全イニング出場した。154試合出場はシーズン試合出場の日本タイ記録。26歳(1960年)のときに、西本幸雄との確執から退団している。

 放送局に誘われて野球解説の道に入った。話し方もうまくないし、「先天的な無口な、お前が解説するなんて、無理だ。止めておきなさい」と言われたほどだった。

 26歳の解説者の佐々木さんに対して、先輩の解説者から、「足で解説しなさい」と言われた。だれよりも早くに球場に行って、隅々を見てまわると、何かしら話のネタがあった、と教示的に話す。

 ある選手が球場に入る前、深々と最敬礼する。その姿に感動した佐々木さんは、それをマイクの前で語るチャンスを待っていた。後日、その選手が良いところでヒットを打った。「球場自体に感謝の念をわすれない、素晴らしい選手だ」と紹介すると、多くの人から、その選手のもとに賞賛の声がとどいたという。
 

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ジャズグループが浅草で世界一の記録(上)=驚異的な300回

 東京・浅草で、ギネスブックの記録をぬり替えて、世界一の記録をつくるジャズグループがいる。そのバンドは『ハブ デキシーランダース』で、結成から25年。リーダーは小林淑郎(ひでお)だ。

 プロのジャズ演奏家たちが、メンバー・チェンジを一度もせず、月1回度の演奏をつづけてきた。ことし(2015年)11月15日(日曜)に、浅草で、来月記念すべき300回を迎える。
 海外からも「ぜひ、記念すべき日に聴きに行きたい」というフアンもいるほどだ。

 浅草を拠点とする『ハブ デキシーランダース』というジャズバンドを立ち上げた「春川ひろし」によると、
「ギネスブックに、同一のプロメンバーで22年続いた記録があります。私たちはその記録を塗り替えます」
 とおしえてくれた。

 どの世界でもトップクラスの人材ともなると、個性派が多く、主義主張もあるし、見方、考え方、目指す方向性も微妙にちがってくる。歳月を重ねるほどに、まずもって意志疎通に問題が出てくるものだ。
 それがやがて意見の対立となり、5年に一度くらいは、ごく自然にメンバーが入れ替るのがふつうだろう。
 
『ハブ デキシーランダース』はなぜ分裂もせず、同一メンバーで、300回もの演奏会がつづけられてきたのか。

 プロ演奏家にも健康の問題とか、個人的な転居とか、思いもかけない物理的な理由も生じるだろう。人間には個性があるし、わがままもあるし、自己主張もあるから、それとなく遠のく者もでてくるはずだ。
 それが人間だともいえる。そう考えるほどに、同一メンバー、浅草の同一場所での演奏300回となると、簡単にはできない驚異的な記録だ。

 ジャズ発祥の地はアメリカである。約100年間にわたり、世界じゅうを魅了してきた音楽である。この間にも、伝統が守られ、アレンジされ、進歩しながら、息の長い音楽としてジャズの活動が世界各国で続けられている。
 
 リーダの小林淑郎(ひでお)はクラリネットとテナーサックスだ。昭和8年生まれだ。10代の多感な時代に、ジャズに出会っている。

 日本へジャズが入ってきたのは戦前で、横浜港、神戸港、長崎港からだ。新しく・派手な音楽として拡大していった。
 大きなブームがきたのが終戦後で、進駐軍と呼ばれた米軍基地を中心とした繁華街で、ジャズが演奏され、バンドが結成され、日本じゅうに旋風が巻きおこった。
 それを第1期ジャズブームとすれば、小林は第2期だったといえるだろう。
「無理してやってきた、という感じがないのです」
 ジャズが小林のからだと同化し、体内に息づいているのだ。

 トランペットを受け持つのが下間哲(しもま てつ)である。トランペットは日本人好みだ。哀愁の曲、親しみのあるメロディーなどは特に心にひびくものがある。一方で、快活なリズムのトランペットも心を躍らせる。

 プロとはお金を稼げるひとだ。お客を魅了するのは演奏だけでない。司会進行の小気味な明るいトークが必要だ。下間にはお客を笑わせる芸がある。わずかなトーク時間も、お客の立場からすれば、支払うお金のうちだ。

 ただジャズ演奏が巧ければ、それで良しとならない。音楽とトークで、お客と一体になることが魅力なのだ。その役目のひとつトークはとても重要だ。
 下間は、音楽に付加価値をつけているといえる。

 バンジヨー坂本誠(さかもと まこと)、ひたすら演奏に没頭する。チーム内で無言・無口を売る。これが不思議なチームワークになっている。
 
 最近は舞台、テレビなどで、やたら喋っている歌手が多い。トーク訓練がなされていないうえ、「この作詞家、作曲家、唄との出会いですけれど」という毎回、おなじ紋切型だ。
「あんたの長話しなど、どうでもいいんだよ。はやく歌いなよ」
 そんな罵声の一つも浴びせたくなる。

 お客が呼べなければ、メンバー同一による、300回の演奏など根底から崩れてしまう。

 坂本はちらっ、ちらっと司会役の下間を見ている。「愉快だけれど、長々と話をするなよ」と目線で抑えている。これがお客との絶妙な間合いになっている。


 金管楽器のなかでは最も大きいチューバは、菊池和成(かずなり)だ。おおきな目で、にこっと笑う。この顔が素敵だ。

 チューバはリズミカルな曲となると、かなり肺活量を必要とするのだろう、演奏ちゅうはマラソンランナーのような顔つきにもなる。
 曲が終わった、わずかな合間のトークに、かれは上目の笑みで補完している。それが、客を魅了している。

 人間はことばが通じなくても、笑顔で世界の人と会話できる。演奏会場の浅草『HUB』には、外国人がことのほか多い。

 
 ピアノの清水納代(のりよ)は唯一の女性だ。にこやかに演奏している。彼女はどこか浅草的だ。
 浅草といえば、演芸・芸能のメッカである。1930年代の日本を代表するコメディアン「日本の喜劇王」といわれたエノケンや、古川ロッパが浅草をより有名にした。その後も、ぞくぞくと多くの芸能人が浅草を活動拠点にしてきた。
 映画「男はつらいよ」などに出演した渥美清、ビートたけし、かれらも若手時代に浅草で芸を磨いた。

 清水のピアノは、どこか浅草の下町の方々が、親しみを持てる雰囲気で鍵盤にむかっている。清水のピアノの横から、お客を見ていると、
「このジャズグループは、浅草の財産だ」
 という目と耳で、聴き入っている。
 

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ジャズグループが浅草で世界一の記録(下)=驚異的な300回


「かわすみ はるか」(写真)は、歯医者のドクターである。彼女は『ハブ デキシーランダース』のフアンである。10年まえにこのバンド・メンバーを知り、浅草に通っていた。
「一曲、歌わせてあげるよ」
 と言われて、それからやみつきになっている。

 歯科医院ともなれば、歯が痛い。患者は顔をしかめている。「お客さんには、いま歌っている心地好い、この気持ちを分けてあげたい」
 日本一のアマチュアのシンガー・ソングを目指したい、と彼女は抱負を語っていた。


『ハブ デキシーランダース』(リーダーは小林淑郎・ひでお)は、ジャズグループを結成してから25年間にわたり、メンバー・チェンジをしないで演奏活動をしている。あと1回で、世界一の記録だ。

 人間は個性があるし、自己主張もある。それぞれ何らかの理由で、メンバーから離れていくのが常だ。同一メンバーの演奏活動の継続10年は、すごいな、となんど考えても感慨を覚える。まさに賞賛に値する記録だ。

 観客席で、オーストラリアから来ていたトニー・フォグーさんは、
「大フアンなんです。日本に来る目的は、『ハブ デキシーランダース』のジャズを聴くためです。きょうの299回もシドニーから、これが目的できました」
 と決してビジネスなどの合間でなく、あえてこの演奏を聴きにきたと語っていた。

「日本にはじめてきたのは1971年で、領事館勤務の貿易促進のしごとでした」
 その後、1979年から8年間ほど、イラク、ユーゴスラビアで働いていた。イラクはジャズはない。ユーゴのジャズはなじまなかった。

 1996から8年は大坂に住む。東京にきた折、浅草に案内されたトニー・フォグーさんは、『ハブ デキシーランダース』を聴き、一度で大好きになった
「日本のジャズの情感が、オーストラリア人の体質に合っています」
 帰国しても、このメンバーのジャズを聴くために、折々に日本へ来ているのだ。

「300回記念は涙が出るくらい感動するはずです。もちろん、300回記念もシドニーから駆けつけますよ」
 と語る。


 
「日本人の心にひびく、日本人の心をつかむ、それには聞きなれた曲とリズムです」
 ドラムの春川ひろしは、それをくり返し強調する。
 
 お金を払って軽くドリンクを取り、音楽に聞き入っても、全曲まったく知らないとなると、お客はリピーターにはなってくれない。

 童謡は誰でも知っている。演奏しているさなか、観客は口ずさんでいる。それが観客が支えてくれる源になっている。
「この曲は知っている。観客は、それを聞きたいのです」
 多くはリクエスト曲が中心だから、馴染み曲が大半だ。



「演奏してしまえば、終わりではありません。ジャズメンバーと観客が一体になれる。間合いも大切にすることです」
 クラリネット/アルトサックス後藤雅広 (まさひろ)は小休憩中も、かれらは客席に入りこむ。観客の立場からすれば、生演奏を目の前で聴けて、さらにはミュージシャンと接することができる。いま聴いた音楽を語れる。

 小休止に間、楽屋に引っ込んだメンバーは誰もいなかった。これがまさに演奏者と観客との一体化で、魅力だ。ギネスに載るだろう世界一になるだろう、300回も支持してくれたのだ。

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【戦後70年・特別寄稿】中國と仲良くしよう=桑田冨三子(河本大作の孫娘)

 地学を学び、石油資源開発の専門家になった同級生から、メールが届いた。新聞にも投書したらしい。
 東シナ海ガス田問題について、「中國は合意を守っていない」と首相が国会で懸念を表明した。また
「中國が一方的に資源開発を進めるのは、極めて遺憾」と官房長官が発言した。
 これに対して国民やメディアが、共感している。長く石油開発の仕事に携わった僕としては、合点がいかない。


 日中両国は、2008年に東シナ海で共同開発を目指すという合意をした。そして中國側から、
「中國企業は、日本法人が中国の法律に従って開発に参加することを歓迎する」
 という提案が来た。

 これにたいして、日本企業はどこも参加せず、中國の要請にこたえていない。こういう事情だから、日本は、中國側が今進めている開発事業に異を唱える名分はないだろう。

 僕は、あれだけ広い海域のことだから、油の可能性がないとは言えないと思っている。掘ってみるべきである。石油・ガスの共同開発の最大の目的は、リスク分散である。こういう新地域こそ共同探鉱にとって絶好の場所だと思う。


 このメールに対して、私は「耳よりな話。いいことを聞いた」と共感した。私は、今も昔も変わらず、強く願っている事がある。
「日本は、中國と仲良くしなくてはならない」
 過去において、日本はいろいろと失敗をした。
 だからこそ、これからの日本にとって、隣の大国と友好的にやっていくことが何よりも大切、と私は信じている。


 友好的関係を保つには、じっとしているだけでは駄目である。
「中国との間に、なんとか友好関係を育んでいこう」
 とする心構えと、覚悟と努力が必要である。

 共同で事業を行うためには、友好関係が必要であり、その関係を続けることによってますます友好関係が深まる。東シナ海の中間線の日本側海域こそ、その良い対象地域であるという。
外交は不得手と言われている日本のことだ。


 東シナ海ガス田問題は、外交手腕をふるう最良のチャンスである。海上保安庁の巡視船で威嚇したり、文句をつけて挑発するより、
「一緒にやってみよう」
 という方が、はるかに優れたやり方ではなかろうか。

 軍艦や武器をそろえ、戦うための強化訓練などにお金をかけるより、この平和的手段をとれば、最終的には、より国益にかなうだろう。

 国のお金の使い方には、いろいろあると思う。直ぐに利益に結びつかなくても、こういうところにこそ、国はお金を使ってほしい。

 外交上もプラスだし、資源開発をしながら、人材や技術を回し、雇用だって、多分、増えるのではないか。
 国境にこだわる話は、ナショナリズムを煽るから、双方にとってリスクである。


 東アジアに、国境という概念が作られたのは、せいぜい19世紀後半である。中國・朝鮮・ロシア・日本・は、樺太(サハリン)や、沿海州などで、住民が混在して生きていた。
 そこでは、共同管理の雑居地として、互いに認め合い、うまくやっていた。東アジアの民族は、そういう知恵をもっていたのである。易しくはないかもしれないが、やる気さえあれば、日本人には充分に出来ることであろう。


 今日は、8月25日で、中國の収容所で生涯を終えた祖父・河本大作の祥月命日である。祖父は、生涯、「支那と戦争をしてはならない」と主張し続けた。
 孫の私には、同じ思いが伝わっている。

淑徳大学・公開講座『知られざる幕末史』10月から5回(土曜)の講座

 淑徳大学・池袋サテライト・キャンパスで、2015秋・冬『公開講座』が開催されます。このたび、同大学からの依頼で、幕末史の講座をもつことになりました。

 タイトル『知られざる幕末史』で、平成27年10月17日~28年2月13日で、回数は5回の講座です。毎回、土曜日(13時15分~14時45分)です。
 5回で10,000円です。
【問い合わせ先】 03-5979-7061 ネット「淑徳大学公開講座」

『ポイント』

 江戸時代260年間は戦争をしない国家でした。明治時代に入ると、10年に1度は海外と戦争をする軍事国家になりました。それが77年間つづき、広島・長崎の原爆投下で終焉です。
 海外から、日本人は戦争が好きな民族だ、と思われてしまいました。だれがこんな国家にしたのでしょうか。
  
 明治政府は歴史を歪曲し、ねつ造しました。とくに幕末史にはウソが多いのです。それが戦後も引き継がれていますから、高校日本史は必修にできないのです。
 自国の歴史を必修にできない国家などあるのでしょうか。

 77年間の海外侵略を導いた軍事思想家はだれだと思いますか。幕末に「満洲国をつくれ」と最初に言いだし、海外侵略に大きな影響をあたえた人物は誰だか知っていますか。

 教科書では伏せています。伏せる教えない、それは隠すことです。

 この思想家を神さまとし、他国の領土に「満洲国」をつくったことで、日本は国際連盟の常任理事国でありながら、すべての加盟国から非難決議されて、経済封鎖までされました。軍部はパールハーバーへ、広島・長崎で戦争が終焉です。
 
 二度と戦争はしてはいけない。「知られざる幕末史」は、77年間の戦争国家となった起点を知り、学ぶことです。
 
 
 講座内容

 第1回 10月17日 「鎖国から開国へ」。開国は過剰人口の飢餓を救う策だった。

 第2回 10月31日 「長州藩は倒幕に役立たず」 朝敵の長州は京都に入れず、倒幕には関わっていない。明治政府のウソの教育だった。

 第3回 12月12日 「船中八策はウソの創作」 大正時代に、土佐の文人が、龍馬をおおきく見せるために創作した。明治時代まで一行も文献にはない。

 第4回 1月9日 「鳥羽伏見の戦いはクーデター」 下級藩士たちのクーデターで、軍事国家が生まれた。太平洋戦争への起点はここにある

 第5回 2月13日 「文明開化は安政から」 開国してから15年間で、日本はおおきく西洋文化を取り入れた德川の業績だった。明治から文明の起点はウソの歴史教科書だった。

【問い合わせ先】 03-5979-7061 ネット「淑徳大学公開講座」

炎天下で、インタビューの実習=かつしか区民大学

 2015年度の「かつしか区民大学」の第4回目は、7月25日、葛飾区内の都・水元公園のバーベキュー広場で行った。今回はインタビューの課外実施である。

 参加した受講生は7人だった。午後1時から3時まで、2時間に渡っておこわれた。炎天下で、汗をながしながら、そのうえバーベキューの火焔のそばで、なおさら汗だくだった。

 最初の取材は、筑波大学の「学園祭実行委員OB」たち9人(男子5・女子4)だった。リーダーの平山明広さん(26)から、話しを訊くことができた。「こんかいの予算は3000円です。年に3回ていど集まっています。水元公園は初めてです」と語った。

 水元公園の印象につていは、とても広く、緑が多くて、野鳥もいて良い感じす。アルコールは、同公園の売店で調達したひとや、金町駅前の大型スーパーで買い求めてきたひと、さまざまだった。


 
 バーベキューをたのしんだ後、スイカ割りに興じるグルーフがあった。品川区・南品川からきた、安倍幸信さん(29)グールプは約30人だった。
「友だちの友だち、ご近所の人たちです」
 と自然にできた集まりだった。

 このなかに招かれたのが、お笑い芸人「P&M」の2人だった。ひとりは「ぶってい」さん(三重県出身)は、岩下志摩と映画共演をしている。もうひとり「まっさん」さん(群馬出身)は、高橋秀樹さんと時代劇に出演したと話す。

 かれらはTVにも活躍する芸人で、コンビを組んで2年になる。
「バーベキューの盛り上げで、小さなネタを披露しました」と語っていた。

スイカ割り大会で、ゲットした男女が楽しげに、おいしそうに食べていた。

 かつしか区民大学・受講生たちは、個別に分かれて、それぞれ実習した。2時間で、2グループほどインタビューができた。
 最初に答えやすい質問から入り、最後に名前と年齢を訊く。この基本手順を学び取った。作品の提出は1か月後である。

「山の日」関連の歴史小説を取材中。長野県の地元新聞で紹介される

 私は現在、祝日「山の日」に関連した、山岳歴史小説を執筆ちゅうである。天明・天保時代の松本市と飛彈高山市の周辺取材をはじめてから約一年が経った。この作品は、新しく祝日となった「山の日」を盛り上げる狙いがある。2016.8.11からカレンダーに赤い祭日の印がつく。

 現在、現地で展開する取材のようすが、2015年7月2日(木)の信濃毎日新聞で紹介された。タイトルは『「山の日」盛り上げる歴史小説 執筆中』である。サブタイトルとして、『舞台は上高地や「飛州新道」」としている。

 同記事のなかで、「山の日」が超党派の国会議員連盟によって制定された。そのメンバーから、東京の作家・穂高健一に執筆を勧められたもの。昨年5月から、長野・岐阜の両県で精力的に取材している、と記す。

 作品の背景となる飛州新道(現在の安曇野市三郷小倉から大滝山、上高地を経て、焼岳の肩の中尾峠から奥飛彈に至るルート)に、記事は多くの紙面を割いている。
 新道開削に関わった岩岡家が文化時代に、上高地に湯屋(宿屋)をつくった。主人公は、その上高地の温泉宿で過ごした岩岡家の娘である。
 安曇平(現在の安曇野市)は、荒れ地で水不足で苦しんできた。天明、文化・文政のころに、当時の農民たちがみずから、約20年間にわたる苦労の末に、巨大な15キロにもおよぶ農業用水路「拾ヶ堰」を開通させた。荒廃地が一躍、水の豊かな農耕地帯になった。
 作品はここから書きだす、と同記事で紹介されている。

 掲載の写真撮りは、同年6月17日、松本市・安曇(上高地の麓・島々)でおこなわれた。資料など槍ヶ岳山荘・社長の穂苅康治さんが、同記事のなかで、『小説が「近代登山が始まる以前の地元の歴史や、山の生活が発信される貴重な機会になる」と、出版の日を心待ちにしている』と述べている。

                            【了】

私たちの歴史は平和として描かれるのか(下)=平和は瀬戸物なり

 幕末を大名家でなく、「藩」単位で見ていると、司馬遼太郎史観など、薩摩とか、長州とかの「藩」の見方がまかり通る。

 戦場で戦う者は武士であって、農商工の領民は無関係である。為政者の大名家が勝とうが負けようが、年貢が変わらなければ、生活は変わらないのだ。大名家どうしの戦い。この認識は重要だ。民を巻き込んだ戦いは明治の徴兵制からだ。

 龍馬を描く小説は決まって薩摩藩とか長州藩とかになる。「德川家」と「毛利家」の戦いにしない。「そうせい公」と毛利家は隅にやっている。そうでないと、巨大な大名で強い権力を持った毛利家の前で、脱藩浪人の龍馬が貧弱に見えるからだ。


 当時、長崎・グラバーという武器ブローカーが南北戦争で余った兵器を密輸入していた。各藩の武具奉行たちは、武器の買い付けに長崎にでむく。グラバーはおおむね安価で古い銃を売りつけていた。地方の大名家の家臣は火縄銃よりも西洋銃の方が良いというていどの認識だった。

 連発銃などは高くて、藩財政に影響するから、安価な西洋銃で数の辻褄(つじつま)合わせをしてきた。
 海運業を興した龍馬は、あちらこちらで蒸気船を借りた、それら武器の運び屋だった。

 德川家は藩をつぶす政策は取っていない。あくまでも、『家』の存続か取り潰しなのだ。長州藩自体はつぶさない。
 毛利家が改易(お家取りつぶし)、転封(てんふう・他に移る)なっても、次なる長州藩の大名家にはおおかた岡山・池田、熊本・細川、阿波・蜂須賀などが大ものが転封してくるだけだ。仮に細川家ならば、龍馬はその家臣に武器を売り込めばよいのだ。

 龍馬が毛利家に忠義をつくす必要は何もない。相手が細川でも、蜂須賀でも、密貿易の鉄砲を買ってくれるならば、誰でもよい。
「儲かれば、どの家にでも武器を売買する。密輸で儲けさせてもらう」
 現代社会で拳銃を売買すれば、法律に違反する。德川時代もおなじルールがあった。
 この違法な行為をした龍馬は、正義でなく、まさに死の商人なのだ。あえて言えば、それが鳥羽伏見、戊辰戦争で、多くの日本人を殺傷した兵器となった。これは「戦争ごっこ」ではない。おなじ民族の大量の流血の大惨事となったのだ。


 第二次長州征伐には大きな後遺症があった。国内経済が急激に悪化し、物価高騰で、庶民の生活は圧迫された。となると、武器を持たない民衆だが、許しておけない。大反発のパワーが「ええじゃないか運動」となり、愛知から広島・尾道まで、男女を問わず一気に荒れ狂ってしまった。
 将軍家の徳川といえども、民衆に武力で鎮圧できない。為政者と民衆が血と血で戦うと、国家の破滅に及んでしまうからだ。


 徳川慶喜には外交能力はあるが、優秀な経済ブレーンがいなかった。結果として、「大政奉還」で、天皇家に政権を返上したのだ。だれも「徳川家」を倒していない。これは倒幕ではなかったのだ。
「薩長による倒幕」は、明治政府が自分たちに都合よく作った、歴史のわい曲だった。

 攘夷(外国人へのテロ)を叫ぶ下級藩士たちが、戊辰戦争を引き起こした。そして、東京に明治軍事政権をつくった。政治家となった、毛利家の下級藩士の山縣有朋が武力主義で、明治6(1873)年に「徴兵令」を発布した。


 国民に武器を持たせたのだ。明治22(1889)年には法律にまで昇格させた。それが第二次世界大戦まで77年間もつづいた。国家総動員令で、婦女子までも巻き込まれた。

 戦国時代まで、戦争は武士のしごとだった。
 農商は戦場へと荷運びを手伝わされても、戦いが始まれば、逃げてもよいのだ。流れ弾に当たらなければ、畑仕事をしていてもよい。その意味では、国民皆兵を導入した山縣有朋の罪は末代までも重い。
 一度飲んだ麻薬の味は忘れられないという。

 私たちの子孫が、外交の失敗で戦争にでもなれば、自衛隊の隊員数だけでは国が守れない、国民皆兵制が早急に必要だ、と政治家や軍人は言いだすに決っている。

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