ジャーナリスト

戦争が子どもらにどう影響するか = 世界報道写真展2016

 リニュアルした東京都写真美術館で、9月3日(土)から『世界報道写真展2016』が開催される。主催は世界報道写真財団(本部・オランダ)、朝日新聞社である。10月23日(日)まで。

 世界のプロ・ジャーナリストから約6000人、8万3000点を超える応募があり、その中から、大賞など選ばれた150点の入賞作品が紹介・展示されている。

 昨年(2015年度)は、難民がテーマになった。どうして、祖国から出たくなるのか。戦争が、どう子どもたちに悲惨な状況を醸し出しているか。

 報道記者たちは密着取材で、それを世に伝えている。

 今年の「スポットニュースの部」の大賞は、オーストラリアのウォーレン・リチードソンさんで、シリア難民の男性と子どもが、国境の有刺鉄線を越える瞬間を写し撮っている。

 警備隊に見つからないように、フラッシュなし、月明かりのもとで撮影されている。生死を分ける、強い緊張感が読み取れる。

 他にも、オランウータンの愛らしい子どもたちが展示されている。主催者の解説によれば、約10頭それぞれ母親がいない孤児です、と教えられる。とたんに、哀れになってくる。

 日本人カメラマンも、入賞している。チェルノブイリ原子力発電所事故の犠牲者を追う、組み写真である。

 主催者の世界報道写真財団によれば、世界中の100か所以上で、展示会をするという。

 こんかいは、大怪我の民兵クルド人がベッドに横たわり、医者の手当てを受けている写真が入賞している。ドクターの背後には、トルコが反社会運動主義者だと認定している人物のポスターが貼られている。


 トルコ関係者から、世界報道写真財団に、同国内の展示会では、その写真を外してほしい、と要請があった。
「私たちは、いかなる写真も外さない」
 と拒絶した。
 それで、トルコ国内の展示会はなくなったという。

 ジャーナリストたちは命をかけている。写真を通して、戦争の厳しさ、つらさを世に報じている。同財団は、政治圧力に決して屈しない、と強く打ち出したもの。その判断は高く評価し、賞賛したい。


【関連情報】

東京都写真美術館t
 
 観覧料は一般800円、学生600円、中高校生および65歳以上は400円である。

みごと東京都写真美術館のリニュアルオープン、『杉本博司 ロスト・ヒューマン』はおどろきだ

 東京都美術館が、約2年間の改装で、2016年9月3日から、リニュアルオープンする。同館は発足から21年目である。
『TOP MUSEUM』と名付けられた。9月1日、記者に公開された。荒木誠副館長がパワーポイントで、新たな施設を説明した。コンセプトは「また、訪ねたい、誰かに紹介したい」であり、美術館専用LED照明、可動式の展示壁です、と数々の特徴を説明した。

「TOPとはちょって恥ずかしいのですが」と同館事業企画課長の笠原美智子さんが、壇上で照れていた。「TOKYO PHOTO~、そういう意味か」と納得できた。そして、今後の展示スケジュールを発表した。


 内覧会の『杉本博司 ロスト・ヒューマン』では、まず杉本さんの説明から入った。杉本さんはニューヨークを拠点に活動されているアーティストである。

 サブタイトルが『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない』で、33作品を展示しているという。文学的にも、解ったような、判らないような、すんなり頭に入ってきにくい。 
 

「真新しくなった美術館なのに、作品が古くて、ぶち壊しのようですが……」という前書きが、杉本さんの口から何度もでてきた。
 それすら、意味合いが分からず、記者からも突っ込んだ質問は出なかった。


 同館の3階展示場に入って納得した。

 展示壁が、古く錆びたトタン張りだ。

「リニュアルの第1回の展示が、古くて、ぶち壊しのようですが~」という意味も理解できたし、これを企画した東京都写真美術館の大胆さにも、おどろいた。

「同館の企画段階では、きっとリスクの問題も出ただろうな」

 その意外性からしても、先頭打者、初球を一発、場外ホームランを放ったようだ。

 


 トタン板ののぞき窓から、艶めかしい女体が見える。

 『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれないけど、私は男に愛されるためだけに生まれてきました。中略、~老人が、私を最後に愛してくれた人でした。でも、ごめんなさい。私は不妊症。そして、この世に、人は生まれなくなったのです』

 1枚のわら半紙に手書きされた内容は、33作品とも読ませる。そうか、こうして人類が消えた、と杉本さんは展開しているのだ、と観る側を納得させる。

 


『文明が終わる33のシナリオを自身の作品や蒐集した古美術、化石、書籍、歴史的な資料などから構成しました』と杉本さんは語る。

『(この展示会をみれば)、私たちが作り上げてきた文明や認識、現代社会を再考せざるを得なくなるでしょう」と語る。

 
『地球の歴史からみれば、人間なんて、氷河期の後のわずかな時間に存在していた生き物ですよ』
 という言葉が強く印象に残ったし、展示会を見れば、十二分に説得力があった。


  文学にでも求められる、人間とは何か、文明とは何か、社会とは何か、歴史とは何か、永遠のテーマが33さんのシナリオを通して、ものの見事に表現されている。

 底流には、過剰人口と、人間の起こす戦争という内在されたふたつのテーマがよみとれた。


 これら33点は、私が過去に観た数々の展示会場で最も感動したものだった。老若男女を問わず、いちどは観ておかれるとよい。


 2階では、「廃墟劇場」 が展示されている。京都の「三十三間堂」の千手観音を幻想的な空間として表現している。

「平安時代の乱世の末法を現代に再現してみました。三十三、という数字、日本人は奇数が好きです。それはワビ、寂に通じています」
 杉本さんじしんは、その奇数にこだわると協調していた。


 私も、小説の作品タイトルには、かならず1、3、5、7文字の奇数をつかう。そこらは共通点を感じさせられた。

天草下島の見聞の旅=景観と歴史

  天草にきたな、という実感がわきます。

  河浦の地には、コレジョ(大神学校)が開講されました。(1591-1597年)

  


 案内者の坂本龍爾さんが、崎津教会に案内してくれました。


 天草の民家の造りを見れば、豊かなところだとわかります


 開放感に満ちた光景が、旅の心をのどかにさせてくれます。

 陶芸工場に立ち寄ると、江戸時代の大変珍しい、陶器を利用した藩札をみせてくれました。


 
 世界平和大使の人形の館です。

 57か国・117体のお国柄の人形は、見応えがあります。民族衣装にはウットリさせられます。



 水産高校の練習船が停泊していました。船長にモデルになってもらいました。



 

  富岡港に停泊する水産高校の練習船です


 グーデンベルグ印刷機です。

 日本初の金属活字による印刷が行われました。

  



 「天草市立天草キリシタン館」を訪ねました。

 天草四郎の陣中旗などが展示されています。なぜ、天草・島原の乱がおきたのか。それが理解できます。

 夏休みの子どもの学習には最適です。


 天草沖合に出れば、イルカの群れがみえるそうです。

国民の祝日「山の日」の意義を知ろう=山の恩恵と日本人

 世界で初めての、ナショナルホリデー「山の日」の成立過程から、意義、そして日本人が山を愛でる心まで、インターネット 超人大陸で、衆議院議員 務台俊介さんがとても、わかりやすく説明されています。

 タイトルは『2016年8月11日「山の日」 国民の祝日がスタート それは地方を 元気にしていくこと」衆議院議員 務台俊介氏』


 山の恩恵の歴史的・文化的な意義が、『燃える山脈』によっても描かれていますと、務台さんは作品の骨子とテーマにも、簡素にして明瞭にうまく紹介されています。

 拙著『燃える山脈』の本に関心がある人、祝「山の日」の意義を知りたい人、外国人が山を敬虔な存在としてみる日本人をどう見ているか、ことしの8月11日に開催される「第一回全国大会・上高地」がどんな祝典が計画されているか。皇室の方々は参加されるのかしら……、

 それらも知りたい人は一度は見てほしい、You Tubuです。


【関連情報】

① インターネット 超人大陸ここを左クリックしてください。

②山岳歴史小説「燃える山脈」は、各書店、ネット販売でも、品切れ続出です。山と溪谷社は増版の印刷に入っています。6/16頃までお待ちください。

小さな駅で見つけた「鉄のアート職人」=鈴木格子さん

 見知らぬ土地に旅する。おもわぬ発見があるものだ。
 浜名湖・天竜川のあたりを走る天浜線・一両編成に乗っていた。旧国鉄の二俣線のままの駅舎でとても古風で、文化財だった。旅の情感は存分に味わえる。
「ブリキに興味がありますか」
 中年男性から話しかけられた。地元のカメラ愛好家らしい。

「めずらしいものがあれば、どこでも」
 教えられた駅名は、いちどで憶えられない発音だった。遠江一宮駅(とおとうみいちのみやえき)だという。
 

 駅校内の蕎麦は名物だとも情報を入れてくれた。昼食時間に近かったが、蕎麦屋は店休だった。限りなく無人の乗降客だから、商売にはならないのだろうか。あるいは火曜日休みなのか。いすれにしても、昼食にはありつけそうもない。


「遠州の小京都」という巨きな看板があった。駅前にあると聞いたブリキらしい造形品は、見当たらない。あっちこっち歩いてみるがどこにもない。駅まで帰ってきた。
 鉄工所があったので、溶接をする職人の方に聞いてみた。
「ブリキなんてないな」
「そうですか」
 ここまできて、空振りか。天竜川の最寄駅で降りればよかったな。なおもぶらぶら探していた。昼休みになり、職人が工場から出てきた。
「鉄じゃないの」
 職人が声をかけてくれた。
「たぶん」
「だったら、この鉄工所の奥さんが鉄細工をしているよ」
 鉄とブリキはたしかにちがう。

 いきなり大蛇を見せてくれた。気色が悪いな。くにゃくにゃ曲がるし……。
「テレビを観て来たの?」
 大蛇を抱える奥さんが訊いてきた。
「いいえ。放映していたんですか」
「きのう、ボクサー出身のタレント・内藤さんがTVクルーと一緒にふいに来たのよ。事前に連絡がなくて、突然はめずらしいわよ。ほとんど突然のふりして、事前に打ち合わせには来るからね」

 ボクサーの内藤元選手なら、おなじ葛飾・立石の宮田ジム出身。きのうと今日の違い。そんな話題など別段関係ないので、話題にせず、彼女の作品を見せてもらった。
 現物は手元から離れているので、写真集だった。
 ぜいたくな庭園におしゃれな鉄製のテーブル、椅子などはとても高級感に満ちていた。作品全体からすると、葉っぱの形が好きなようだ。そのうちに、名前が、鈴木格子さんとわかってきた。
 さらには個展を開くなど、職人ではなく、本格的な鉄アート芸術家だと判明した。

 公園の動物ベンチも下地が鉄製だったり、神社に牛二頭が奉納されたり、ユニークなものが多い。著名な紙細工作家とコラボで行燈・スタンドなどもつくる。池坊大学(京都)から花瓶の筒が鉄製だった。その一つの実物があったので、持ち上げさせてもらうと、見た目よりも、はるかに重いが安定している。
 
「鉄を曲げるのは火力ですか」
「手作りのベンダーですよ」
  生まれつき手が器用なのだと、感心させられた。 、
「鉄は錆びますが、処理方法はどうしていますか」
「さび止め塗装は、5回くらいしています。色違いにして、何回塗ったか、わかりやすくしています」

 棚に置いた鉄製の小物は形よく上品だった。これらを見ながら、なおも質問した。
「製品の完成した達成感と、企画から制作のプロセスとどちらが好きですか」
「プロセスですね」
「ぼくも、作品ができるまで、何度も推敲するけれど、いったん手放すと、自作は見たくないし、送られてきても、読まないですよ」
 打ち解けてきたので、この段に及んで作家だと明かした。

「小説家と話しするのは初めてです。訪ねてこられたのも、初めて」
 メディアの対応慣てしているはずの鈴木さんだが、ずいぶん驚かれてしまった。話しの流れから、私が出身地が広島だというと、
「あら、私が生まれたのは、尾道の奥の御調郡ですよ。父はダム関係で、全国の転勤族でした」
「エリート官僚ですね」
 そんな話から、こちらの話題になってしまった。

 彼女は鉄ばかりか、竹細工も、木工もやられる。さまざまの物にたいする好奇心が強い人だった。
「想像力と好奇心は一体だな」
 そんな共通の想いだった。
 

巨大だな、大胆だな、おどろきの墨ト會書展=轡田隆史

 日本ペンクラブで親しい轡田隆史(くつわだたかし)さんから、書道展の案内状をもらった。2015年11月5日から3日間にわたり、千代田区・ポーラ銀座で開催される「墨ト會書展」だった。

『文字も、わたしたちニンゲンも、自然のいちぶです。漢字やひらがなたちといっしょに、わたしどもは天と地のあいだで楽しく遊んでいます』 と明記されていた。さらに、
『高野早苗さんをかこむ、ささやかな会です』
 とつづいていた。

 この日から、私は東京を離れるので、同日11時の開催時間に出むいた。記帳は一番だった。「えっ、字が下手なのに。書道展でトップに書くの」と躊躇(ちゅうちょ)したけれど、しかたないや、と乱筆そのもので記入した。

 轡田さんの作品をみて、おどろいた。江戸時代に、江戸の大火の犯人で、火あぶりの刑になった「八百屋お七」の戒名だった。『花月妙艶信女 』

 戒名を堂々と筆に書き、さらには堀口大学の「八百屋お七」の詩をつけている。すごい着想のジャーナリスト・文筆家だな、と感心するばかりだった。

  八百屋お七が火をつけた
  お小姓吉三にあいたさに
  われとわが家に火をつけた
  それは大事な気持ちです
  わすれてならない気持ちです

 さらには書と並んで、誕生寺の写真が3枚あった。轡田さんが撮影してきたものだという。
「15歳ではりつけ、火あぶりの刑のお七は大罪人であり、江戸で墓を建てられなかった。墓も位牌もないのは不憫だと言い、両親が何らかの縁で、岡山県津山に近い誕生寺に、戒名と位牌をたのんだ」
 法然の生誕地である。こうした点も教えてくれた。
「当時の住職が、死刑の少女の戒名を与え、位牌を置かせたのです」と轡田さんが説明する。
 
 後の世に、振袖お七が人気となり、展示された振袖が切り取られて持ち去られたことから、今ではぼろぼろになっている、と説明を受けた。

 轡田さんは、早稲田大学のサッカー選手として活躍し、朝日新聞社社会部次長、編集委員、8年間に渡り夕刊1面コラム「素粒子」を執筆した。読売新聞のナベツネが「朝日の素粒子だけは読まない」と言わしめたジャーナリストだ。
 その後、テレビ朝日系の『ニュースステーション』で、久米宏とのコメンテーターを務めた。夜桜などの中継で、記憶にある人も多い。

大看板の球団の制裁に甘く、選手に厳しい処分だ=佐々木信也

 75歳まで野球解説されていた佐々木信也さんは、82歳の現在でも、駅の階段を2段ずつあがる、という。実に健康人間だ。佐々木さんの「成功する監督のリーダーシップ」の講演が、11月13日に千代田区の海事センターで行われた。昼の弁当を食べながら、お話を聞く趣向だった。主催者はNOW観光情報協会で、同理事の近藤節夫さん(日本ペンクラブ)から声掛けされて参加したたものだ。

 

 50年間も電波に乗っていた佐々木さんの声は溌剌としていた。 

 幼いころ「病的といえるほど、無口でした」と佐々木さんは語る。小学校の同級生どうしでも、彼はろくに話せなかったと、回顧する。
 82歳でも流暢に講演する様子から、とても信じがたいものだった。野球界に入ったあと、落語家との交流から、会話ができるようになったと語る。
 
 前段の話から、人生最大の想い出から入った。かれは神奈川県の湘南高校(県内有数の進学校)の在学中(1年生)に、甲子園出場した。かれのバンド決勝スクイズが決まり、甲子園出場が決まった瞬間は、いつまでも忘れられないという。

 かれは1年生で強打者でもないし、7番ライトで甲子園に出場した。好打の連続で優勝ヒーローになった。夏休みが終わり2学期に入った初日は、学校にいけば、一躍ヒーローになっていたのでおどろいたという。
 その後、慶應大学~プロ野球「高橋ユニオン」(現・千葉ロッテマリーンズ)に入った。二塁手とした活躍した。新人ながら154試合に全イニング出場した。154試合出場はシーズン試合出場の日本タイ記録。26歳(1960年)のときに、西本幸雄との確執から退団している。

 放送局に誘われて野球解説の道に入った。話し方もうまくないし、「先天的な無口な、お前が解説するなんて、無理だ。止めておきなさい」と言われたほどだった。

 26歳の解説者の佐々木さんに対して、先輩の解説者から、「足で解説しなさい」と言われた。だれよりも早くに球場に行って、隅々を見てまわると、何かしら話のネタがあった、と教示的に話す。

 ある選手が球場に入る前、深々と最敬礼する。その姿に感動した佐々木さんは、それをマイクの前で語るチャンスを待っていた。後日、その選手が良いところでヒットを打った。「球場自体に感謝の念をわすれない、素晴らしい選手だ」と紹介すると、多くの人から、その選手のもとに賞賛の声がとどいたという。
 

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ジャズグループが浅草で世界一の記録(上)=驚異的な300回

 東京・浅草で、ギネスブックの記録をぬり替えて、世界一の記録をつくるジャズグループがいる。そのバンドは『ハブ デキシーランダース』で、結成から25年。リーダーは小林淑郎(ひでお)だ。

 プロのジャズ演奏家たちが、メンバー・チェンジを一度もせず、月1回度の演奏をつづけてきた。ことし(2015年)11月15日(日曜)に、浅草で、来月記念すべき300回を迎える。
 海外からも「ぜひ、記念すべき日に聴きに行きたい」というフアンもいるほどだ。

 浅草を拠点とする『ハブ デキシーランダース』というジャズバンドを立ち上げた「春川ひろし」によると、
「ギネスブックに、同一のプロメンバーで22年続いた記録があります。私たちはその記録を塗り替えます」
 とおしえてくれた。

 どの世界でもトップクラスの人材ともなると、個性派が多く、主義主張もあるし、見方、考え方、目指す方向性も微妙にちがってくる。歳月を重ねるほどに、まずもって意志疎通に問題が出てくるものだ。
 それがやがて意見の対立となり、5年に一度くらいは、ごく自然にメンバーが入れ替るのがふつうだろう。
 
『ハブ デキシーランダース』はなぜ分裂もせず、同一メンバーで、300回もの演奏会がつづけられてきたのか。

 プロ演奏家にも健康の問題とか、個人的な転居とか、思いもかけない物理的な理由も生じるだろう。人間には個性があるし、わがままもあるし、自己主張もあるから、それとなく遠のく者もでてくるはずだ。
 それが人間だともいえる。そう考えるほどに、同一メンバー、浅草の同一場所での演奏300回となると、簡単にはできない驚異的な記録だ。

 ジャズ発祥の地はアメリカである。約100年間にわたり、世界じゅうを魅了してきた音楽である。この間にも、伝統が守られ、アレンジされ、進歩しながら、息の長い音楽としてジャズの活動が世界各国で続けられている。
 
 リーダの小林淑郎(ひでお)はクラリネットとテナーサックスだ。昭和8年生まれだ。10代の多感な時代に、ジャズに出会っている。

 日本へジャズが入ってきたのは戦前で、横浜港、神戸港、長崎港からだ。新しく・派手な音楽として拡大していった。
 大きなブームがきたのが終戦後で、進駐軍と呼ばれた米軍基地を中心とした繁華街で、ジャズが演奏され、バンドが結成され、日本じゅうに旋風が巻きおこった。
 それを第1期ジャズブームとすれば、小林は第2期だったといえるだろう。
「無理してやってきた、という感じがないのです」
 ジャズが小林のからだと同化し、体内に息づいているのだ。

 トランペットを受け持つのが下間哲(しもま てつ)である。トランペットは日本人好みだ。哀愁の曲、親しみのあるメロディーなどは特に心にひびくものがある。一方で、快活なリズムのトランペットも心を躍らせる。

 プロとはお金を稼げるひとだ。お客を魅了するのは演奏だけでない。司会進行の小気味な明るいトークが必要だ。下間にはお客を笑わせる芸がある。わずかなトーク時間も、お客の立場からすれば、支払うお金のうちだ。

 ただジャズ演奏が巧ければ、それで良しとならない。音楽とトークで、お客と一体になることが魅力なのだ。その役目のひとつトークはとても重要だ。
 下間は、音楽に付加価値をつけているといえる。

 バンジヨー坂本誠(さかもと まこと)、ひたすら演奏に没頭する。チーム内で無言・無口を売る。これが不思議なチームワークになっている。
 
 最近は舞台、テレビなどで、やたら喋っている歌手が多い。トーク訓練がなされていないうえ、「この作詞家、作曲家、唄との出会いですけれど」という毎回、おなじ紋切型だ。
「あんたの長話しなど、どうでもいいんだよ。はやく歌いなよ」
 そんな罵声の一つも浴びせたくなる。

 お客が呼べなければ、メンバー同一による、300回の演奏など根底から崩れてしまう。

 坂本はちらっ、ちらっと司会役の下間を見ている。「愉快だけれど、長々と話をするなよ」と目線で抑えている。これがお客との絶妙な間合いになっている。


 金管楽器のなかでは最も大きいチューバは、菊池和成(かずなり)だ。おおきな目で、にこっと笑う。この顔が素敵だ。

 チューバはリズミカルな曲となると、かなり肺活量を必要とするのだろう、演奏ちゅうはマラソンランナーのような顔つきにもなる。
 曲が終わった、わずかな合間のトークに、かれは上目の笑みで補完している。それが、客を魅了している。

 人間はことばが通じなくても、笑顔で世界の人と会話できる。演奏会場の浅草『HUB』には、外国人がことのほか多い。

 
 ピアノの清水納代(のりよ)は唯一の女性だ。にこやかに演奏している。彼女はどこか浅草的だ。
 浅草といえば、演芸・芸能のメッカである。1930年代の日本を代表するコメディアン「日本の喜劇王」といわれたエノケンや、古川ロッパが浅草をより有名にした。その後も、ぞくぞくと多くの芸能人が浅草を活動拠点にしてきた。
 映画「男はつらいよ」などに出演した渥美清、ビートたけし、かれらも若手時代に浅草で芸を磨いた。

 清水のピアノは、どこか浅草の下町の方々が、親しみを持てる雰囲気で鍵盤にむかっている。清水のピアノの横から、お客を見ていると、
「このジャズグループは、浅草の財産だ」
 という目と耳で、聴き入っている。
 

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ジャズグループが浅草で世界一の記録(下)=驚異的な300回


「かわすみ はるか」(写真)は、歯医者のドクターである。彼女は『ハブ デキシーランダース』のフアンである。10年まえにこのバンド・メンバーを知り、浅草に通っていた。
「一曲、歌わせてあげるよ」
 と言われて、それからやみつきになっている。

 歯科医院ともなれば、歯が痛い。患者は顔をしかめている。「お客さんには、いま歌っている心地好い、この気持ちを分けてあげたい」
 日本一のアマチュアのシンガー・ソングを目指したい、と彼女は抱負を語っていた。


『ハブ デキシーランダース』(リーダーは小林淑郎・ひでお)は、ジャズグループを結成してから25年間にわたり、メンバー・チェンジをしないで演奏活動をしている。あと1回で、世界一の記録だ。

 人間は個性があるし、自己主張もある。それぞれ何らかの理由で、メンバーから離れていくのが常だ。同一メンバーの演奏活動の継続10年は、すごいな、となんど考えても感慨を覚える。まさに賞賛に値する記録だ。

 観客席で、オーストラリアから来ていたトニー・フォグーさんは、
「大フアンなんです。日本に来る目的は、『ハブ デキシーランダース』のジャズを聴くためです。きょうの299回もシドニーから、これが目的できました」
 と決してビジネスなどの合間でなく、あえてこの演奏を聴きにきたと語っていた。

「日本にはじめてきたのは1971年で、領事館勤務の貿易促進のしごとでした」
 その後、1979年から8年間ほど、イラク、ユーゴスラビアで働いていた。イラクはジャズはない。ユーゴのジャズはなじまなかった。

 1996から8年は大坂に住む。東京にきた折、浅草に案内されたトニー・フォグーさんは、『ハブ デキシーランダース』を聴き、一度で大好きになった
「日本のジャズの情感が、オーストラリア人の体質に合っています」
 帰国しても、このメンバーのジャズを聴くために、折々に日本へ来ているのだ。

「300回記念は涙が出るくらい感動するはずです。もちろん、300回記念もシドニーから駆けつけますよ」
 と語る。


 
「日本人の心にひびく、日本人の心をつかむ、それには聞きなれた曲とリズムです」
 ドラムの春川ひろしは、それをくり返し強調する。
 
 お金を払って軽くドリンクを取り、音楽に聞き入っても、全曲まったく知らないとなると、お客はリピーターにはなってくれない。

 童謡は誰でも知っている。演奏しているさなか、観客は口ずさんでいる。それが観客が支えてくれる源になっている。
「この曲は知っている。観客は、それを聞きたいのです」
 多くはリクエスト曲が中心だから、馴染み曲が大半だ。



「演奏してしまえば、終わりではありません。ジャズメンバーと観客が一体になれる。間合いも大切にすることです」
 クラリネット/アルトサックス後藤雅広 (まさひろ)は小休憩中も、かれらは客席に入りこむ。観客の立場からすれば、生演奏を目の前で聴けて、さらにはミュージシャンと接することができる。いま聴いた音楽を語れる。

 小休止に間、楽屋に引っ込んだメンバーは誰もいなかった。これがまさに演奏者と観客との一体化で、魅力だ。ギネスに載るだろう世界一になるだろう、300回も支持してくれたのだ。

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【戦後70年・特別寄稿】中國と仲良くしよう=桑田冨三子(河本大作の孫娘)

 地学を学び、石油資源開発の専門家になった同級生から、メールが届いた。新聞にも投書したらしい。
 東シナ海ガス田問題について、「中國は合意を守っていない」と首相が国会で懸念を表明した。また
「中國が一方的に資源開発を進めるのは、極めて遺憾」と官房長官が発言した。
 これに対して国民やメディアが、共感している。長く石油開発の仕事に携わった僕としては、合点がいかない。


 日中両国は、2008年に東シナ海で共同開発を目指すという合意をした。そして中國側から、
「中國企業は、日本法人が中国の法律に従って開発に参加することを歓迎する」
 という提案が来た。

 これにたいして、日本企業はどこも参加せず、中國の要請にこたえていない。こういう事情だから、日本は、中國側が今進めている開発事業に異を唱える名分はないだろう。

 僕は、あれだけ広い海域のことだから、油の可能性がないとは言えないと思っている。掘ってみるべきである。石油・ガスの共同開発の最大の目的は、リスク分散である。こういう新地域こそ共同探鉱にとって絶好の場所だと思う。


 このメールに対して、私は「耳よりな話。いいことを聞いた」と共感した。私は、今も昔も変わらず、強く願っている事がある。
「日本は、中國と仲良くしなくてはならない」
 過去において、日本はいろいろと失敗をした。
 だからこそ、これからの日本にとって、隣の大国と友好的にやっていくことが何よりも大切、と私は信じている。


 友好的関係を保つには、じっとしているだけでは駄目である。
「中国との間に、なんとか友好関係を育んでいこう」
 とする心構えと、覚悟と努力が必要である。

 共同で事業を行うためには、友好関係が必要であり、その関係を続けることによってますます友好関係が深まる。東シナ海の中間線の日本側海域こそ、その良い対象地域であるという。
外交は不得手と言われている日本のことだ。


 東シナ海ガス田問題は、外交手腕をふるう最良のチャンスである。海上保安庁の巡視船で威嚇したり、文句をつけて挑発するより、
「一緒にやってみよう」
 という方が、はるかに優れたやり方ではなかろうか。

 軍艦や武器をそろえ、戦うための強化訓練などにお金をかけるより、この平和的手段をとれば、最終的には、より国益にかなうだろう。

 国のお金の使い方には、いろいろあると思う。直ぐに利益に結びつかなくても、こういうところにこそ、国はお金を使ってほしい。

 外交上もプラスだし、資源開発をしながら、人材や技術を回し、雇用だって、多分、増えるのではないか。
 国境にこだわる話は、ナショナリズムを煽るから、双方にとってリスクである。


 東アジアに、国境という概念が作られたのは、せいぜい19世紀後半である。中國・朝鮮・ロシア・日本・は、樺太(サハリン)や、沿海州などで、住民が混在して生きていた。
 そこでは、共同管理の雑居地として、互いに認め合い、うまくやっていた。東アジアの民族は、そういう知恵をもっていたのである。易しくはないかもしれないが、やる気さえあれば、日本人には充分に出来ることであろう。


 今日は、8月25日で、中國の収容所で生涯を終えた祖父・河本大作の祥月命日である。祖父は、生涯、「支那と戦争をしてはならない」と主張し続けた。
 孫の私には、同じ思いが伝わっている。