ジャーナリスト

2015年度かつしか区民大学・区民記者養成講座が開講する。

 2015年度かつしか区民大学「写真と文章で伝える私の葛飾」の第1回が4月25日・同区内の青砥地区センターで開講した。
 副題は「歩く、撮る、書く、区民記者入門講座」である。講師は穂高健一、受講生は15人、主催は葛飾教育委員である。
第1回は、「取材した人の写真の上手な撮り方」である。

 事務局の秋本さん(同委員会・生涯学習課)にモデルになってもらい、受講生には撮り方の実践を行った。
 単に正面から、カメラ目線で撮るのではなく、両サイド、ハイアングル、ローアングル、背後から、と7カ所から撮影する。その技法を行う。受講生たちは、みんなして秋本さんの廻りを取り囲んだ。
 

 講座回数は5回である。曜日は第4土曜日の2時からである。課外活動(インタビューの実践・7月)は1回あり、午前から夕方までである。
 同講座の主目的は4つである。
 
① 報道写真が撮れる技術が学べる

② 記事が楽に上手く書ける方法が学べる

③ 聞いて、伝えてあげる。インタビュー技術が会得できる

④ 読んでもらえる記事・紙面が作れる

講座が終ると、アフターである。この講座がはじまったのが5年前で、毎年、恒例になっている。

 今年から、受講生は葛飾区内限定を外した。内尾さん(写真)は品川区在住で、国立科学博物館に勤務する、理学博士である。
「かつしかPPクラブ会長」の浦沢誠さんとはおなじ職場で、彼の推薦で入られた。彼女から話しを聞けば、広島大学から東工大・博士課程に進んでいる。私は広島県の島だが、彼女は広島市内出身だった。

 東立石在住の中川亮さん(ファイナンシャルプランナー)など、身近な住いの人もおり、講座の学べるスキルなどの質問が出るなど、会話が弾んだ。


 

「先の大戦で」は不適切、「明治から77年の軍事国家」を総括すべし

 終戦から70年を機にして、「先の大戦」という言葉が躍っている。「先の大戦」の謝罪や反省の文言にばかり捉われている。それはちがう。

 日本が大きな罪を犯したのは、第二次世界大戦(太平洋戦争)だけではないはず。明治政府が生まれて間もなく、明治5(1873)に徴兵令を敷き、海外侵略の「征韓論」をとりはじめた。かれらの発想は傲慢な豊臣秀吉の発想とまったく変わっていない。
 韓国はなにも悪いことはしていないのに……。

 あえていえば、吉田松陰が獄中で書き残した、中国大陸への海外侵略の思想が、明治をつくった長州藩士たちに受け継がれた。
 薩長土肥が中心となった明治政府はしだいに長州閥が強まってきた。山方有朋たちが強兵思想を高め、国民の眼を「強い国家・強い政府」という求心力につかった。
 「日本には神風が吹く」と平民を信じ込ませて、軍服を着させて、海外に送り込んだのだ。そして、強引に領土拡張を展開してきた。


 日清、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと、広島・長崎の原爆投下で終結するまで、77年間は戦いが続いた。
 この77年をもつて日本人は外国人から、「戦争好きの国家、国民」に思われてしまったのだ。戦争を知らない私たち世代すら、そんな目でみられている。
 だれがこんな国家にしたのだ。そう叫びたいのは私たちだ。

 岸元首相、佐藤栄作、安倍現首相と、戦後も長州から歴代首相がでている。安倍首相は東京生まれにしろ、基盤は長州閥の流れを汲んでいる。
 明治の軍功・元老といわれる山方有朋などの長州閥が軍部・政治の核を動かし、日新、日露という大戦争を引き起こしたのだ。中国・韓国は別段、日本に何も悪いことをしていないのに。安倍首相に長州の血があればこそ、「先の大戦の謝罪」だけでなく、「明治からの77年の謝罪」がもっとも相手国の心につたわるし、美くしくひびく。ある意味で、長州人だから、チャンス到来なのだ。


 太平洋戦争の末期には焼夷弾で、日本列島の町が数多く破壊されてしまった。親を失った戦争孤児たちは食べられず、大勢が餓えて死んだ。原爆孤児もしかり。満洲から引き揚げて棄てられた子供もいる。
 その過酷な状況のなかで、生き残った子どもが、いっさい戦争をせず、戦後70年間の平和を築いてきたのだ。

  
 ABCラインの経済封鎖があった。だから、太平洋戦争へ突入したと正当化する影の声は多い。それはちがう。いま現在で考えてみればわかる。北朝鮮の拉致問題にしろ、クリミア問題のロシアにしろ、経済制裁や経済封鎖を課しているのだ。
 他人の領土に「満洲国」という国をつくれば、世界中からバッシングを受けて当然だし、国際連盟から制裁が課せられるのはあたりまえのシナリオだ。

続きを読む...

歴史記録写真集「明治 大正 昭和 志和」 = 吉本正就 

東広島市・志和町(しわまち)の吉本正就さんが、このたび歴史記録写真集『明治 大正 昭和 志和』を発行された。
 吉本さんは、地元の歴史に造詣がふかい郷土史家である。歴史関係資料や写真のコレクターでもある。自宅の2階には陳列ケースがしっかりした展示室をつくられている。

 古写真の収集が1000点ほど溜まったことから、約1年間の編集・追跡取材を行い、発行に及んだものだ。

 私たちは「明治は遠くになりにけり」と言われて育ったものだ。祖父母がまだ明治生まれだったけれど、当時の話をさして聞いておらず、いまとなれば悔やまれる。ただ、それはいつの時代になっても、口から口へと伝承される限界なのだ。

 私たちが祖父母になってくると、いまや「昭和は遠くになりにけり」である。昭和天皇が没したのはつい先日のように思えるが、もはや27年が経っているのだ。
 平成元年生まれの子が、27歳で社会現役の最先端で頑張っている時代だ。
 
 私たちは、両親が生きた太平洋戦争のできごとは、さして言葉で引き継いでいない。敵とは言え相手は生身の人間だ、しょせん人殺しだ、銃弾の殺戮を語りたくなかった親も多かった、と知る。

 小さな記録文、写真を探しだして歴史記録として遺す。70年経ったいまはラストチャンスだ。もう半世紀たつと、写真の裏付けの話しは聞けないし、写真といえども、古文書のように影が薄くなってしまう。


 写真は歴史の断面を正確伝えられる。政治・経済・文化の面からも、実に重要なことだ。ただ、古写真の収集作業は、ことばでいうほど簡単でない。最近はやたら個人情報という弊害が目につく。先祖の写真すらも、提供を嫌がる人もいるだろう。
 吉本さんのように脚で訪ね歩く地道な努力とともに、協力者も必要だ。


 とくに強く印象に残ったのが、昭和14(1939)年に撮影された、看護学校の卒業女子たちの写真である。西志和の女性7人が盛装し、記念写真に収まっている。
 彼女たちは広島市内の病院勤務だった。

 昭和20年8月6日の原爆投下の地獄のなかで、看護に勤務しており、4人が亡くなっている。半数以上の乙女が無残にも命を失くす。

 吉本さんがそこまで追跡して、写真キャプションに書いている。だから、昭和史の大きな出来事の原爆投下の惨さが、集合写真でありながら、しっかり遺されるのだ


 吉本さんはに「歴史記録」と位置づけて、3つの時代明治、大正、昭和と良い面、辛い面、拙劣な面も含め、公平・客観の目線で遺されている。

 志和といえば、私の著作・幕末歴史小説『二十歳の炎』の神機隊が発足し、訓練地した場所である。

 主人公の髙間省三、幕末史に大きく関わった船越洋之助、加藤種之助などが同隊の一員として、農兵とともに、教育・訓練をした土地なのだ。

続きを読む...

沖縄に、ジャンヌ・ダルクが出たら、どうするの=日本政府は?

 日本政府は沖縄に関して、実に危険なことをしている。もし、ジャンヌ・ダルクが沖縄に現れたら、日本政府の誰がどのように責任をとるのか。
 沖縄県民が民主主義のルールで選んだ地元政治家に耳を貸さない。無視する。威圧する。それは過去から日本が沖縄にやってきた傲慢な政治的態度と類似している。

 かれらが独立に目覚めて、沖縄という表現から琉球ということばに置き換えたら、どうなるのか。激しい独立運動が起きるのではないか。

1429年から1879年の450年間は、沖縄本島の琉球王国が存在した。この450年は重要な歴史的な事実だ。約600年のうち500年は琉球國なのだ。


 1853年(嘉永6年)5月は黒船が来航した。アメリカ海軍のペリー提督は、琉球を独立国と見なし、首里城に入って開港をもとめた。
 翌1854年には、琉米修好条約を締結した。まさに、日米修好条約とまったく同一なのだ。アメリカは琉球王国を独立国として認めていた。これも歴史的な事実だ。


 琉球王国は、1609年に薩摩藩の侵攻を受けて支配下に入ったふりをしていたが、独立国家として消滅したわけではない。首里城が歴然と存在していたのだ。
 かれらは中国大陸、南方の国々と三国間貿易で、独自の国家と文化を築き上げていた。


 1871年、明治政府は廃藩置県で、琉球王国の領土を鹿児島県の管轄しようとした。しかし、琉球は従わなかった。
 1879年3月、明治政府は約600人の軍隊と警察を従え、武力的威圧のもとで沖縄県の設置を行った。これがいまの沖縄県の根拠になっている。

 第2次世界大戦後、明治政府が作った沖縄県は消滅した。1952年(昭和27年)から1972年(昭和47年)まで、琉球政府が存在して、独立した行政を行ってきた。わずかに約40年前なのだ。


 450年間にわたる琉球王朝の支配は、そう根本から日本に同化しない。文字を持たなかったアイヌ民族とはちがう。歴然とした国家と文化と言語を持っていたのだ。


 日本政府が過去の薩摩藩、明治政府ように、おごり高ぶり、服従支配の態度で支配しようとすれば、単に反発ではすまなくなる。高飛車に出れば出るほど、琉球王国の独立運動につながってくる可能性がある。
 東南アジア、中国の経済発展はめざましい。琉球はしだいに観光立国として、自主独立できる環境が整いつつある。

 奄美諸島に目をむければ、琉球王朝の支配下にあった時が長い。米軍統治下でも、琉球政府の支配だった。
 沖縄ジャンヌ・ダルクが現れて、独立を叫びはじめたら、九州と奄美諸島との間で国境をどうするのか、という複雑な問題に及ぶ。とてつもない争いに及ぶ恐れがある。


 現代は、時々刻々とTVでものごとが伝わる。
 日本政府の官房長官の表情や発言ぶりなど、まるで民族独立運動を呼び起こすような態度だ。薩摩藩、明治政府の真似事は止めた方が良い。
 一介の政治家の発言や傲慢な態度が、国家の大きな危機にまで及ぶ。それは古今東西の歴史が教えることだ。


 政治家はもっと歴史から学ぶべきだ。たとえば、長州藩の下参謀だった世良修蔵(せら しゅうぞう)が、まるで支配者の顔して仙台で傲慢(ごうまん)な態度をとり、それが端を発して、暗殺され、奥州32藩の結束から、戊辰戦争に突入した。とんでもない犠牲者が出た。まだ150年前の生々しい事実だ。


 政治家ならば、ここらも熟慮し、謙虚にしてもっと懇切丁寧な態度をとるべきだ。沖縄ジャンヌ・ダルクが現れてからでは手遅れで、日本の悲劇におよぶ。世良修蔵のような、個人の汚名だけではすまないだろう。


写真提供 : 滝アヤ

出久根達郎さんが『半分コ』で「芸術選奨」の文部科学大臣賞を受賞=再掲載

 文化庁が3月12日に、第65回芸術選奨の受賞者を発表した。直木賞作家・出久根達郎さんが『半分コ』で文部科学大臣賞を受賞されました。

 この「穂高健一ワールド」で紹介した、推薦図書『半分コ』を再掲載いたします。


【推薦図書】 Kindleサイズ「短編集 半分コ」=出久根達郎


 Kindleサイズの紙の単行本とは考えたものだ。持ち運びが良い。満員電車でも、簡単に読める。なにしろ流行の先端を行っている。
 液晶画面でなく、紙面で読める。あらたな読者層を広めるだろう。


 出久根達郎著「短編集・半分コ」が三月書房かせ出版された。定価は本体2300円である。

 Kindleサイズの出久根さんのアイデアか。それとも出版社か。後者ならば、編集か、営業か。そんな興味もわいてくる。ご本人に訊いてみたいが、想像にとめておこう。その方が楽しい。
 
 直木賞作家で、現代では第一人者の短編小説集だ。軽妙に手軽く読める。気にいった題名から読めばいいだろう。

 人生半ばを迎えた主人公たちが、ふと過ぎし日を想う時、その何気ない言葉やしぐさに心の内を垣間見る。……どこか懐かしく、そしてほろ苦い16の小さな物語。

 『掲載作品』
    半分コ
    饂飩命
    赤い容器
    母の手紙
    十年若い
    お手玉
    空襲花
    符牒
    紀元前の豆
    名前
    薬味のネギ
    校庭の土
    こわれる
    腕章
    桃箸
    カーディガン     

ニューヨークの大停電、私たちはそこにいた=2作品の偶然

 この偶然にはおどろかされた。「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室の指導を引き受けてから、約9年に達する。この教室がはじまった頃(2007年2月)に、和田譲次さんが30年間前(1977(昭和52)年に米国・ニューヨークで起きた大停電の体験記を提出してきた。


 大停電自体も当初信じられない思いだったが、和田さんがエンパイアステートビル88階の展望台にいたというから、これにはおどろかされた。まるで大都市停電の空中見学ではないか。すごい場所にいたものだと思ったものだ。

 同教室は1年に10回開催されている。その都度、平均15作ほど提出される。1年ごとに製本されているので、8冊できている。私は単純計算でも、9年間で1350作品を読んで、添削し、講評してきたことになる。
 数多くの作品のなかでも、和田さんのニューヨーク大停電はつよく記憶に残る一つだった。

 それから8年が経った。ことし(2015年3月)の作品で、武智弘さんがニューヨークの大停電の体験記を提出してきた。「えっ」と思った。
 武智さんは女子プロテニス・ゲームを観戦していた最中に停電が起きた。真っ暗闇のマンハッタンは大墓地で、人々がその中を歩いていたという。

 天空の和田さん、大墓地と感じた武智さん、2つの作品に共通するのは、「人間は国籍を問わず助け合うものだな」と、心温まる人間の触れ合いだ。そして、ふたりしてアメリカが大好きになったと記す。ともに、感動作品だった。

 私が書き過ぎると、作品の妙味がなくなるので、ここらで筆を止めます。じっくり味わってください。

ある日のニューヨーク武智 弘

 忘れもしない1977年(昭和52年)7月13日の夕刻、私はデトロイトから 空路ニューヨークに入った。翌日に会社の事務所で報告をすませてから、日本に帰る予定だった。
 ホテルにチェックインした後も連日の猛暑で、また街に出て行く元気は無かった。だが、一人で部屋に居ても仕方がないので、コンシェルジュに電話をして、今夜のイベントを聞いてみた。

 マディソン、スクエアガーデンで女子プロテニスがあるという。出場者を聞くと新聞やテレビでよく見る名前の選手が多かったので、切符を予約して貰って、とにかく行ってみる事にした。


 満員の観衆の中で見るトップクラスの女子プロテニスのゲームは、想像以上の迫力があり、私はぐんぐんと周囲の雰囲気に引き込まれて行った。
 選手たちの気合いの入った掛け声、観衆の拍手、ボールを打つラケットの響きに次第に我を忘れていた。丁度、1時間も経ったと思われる頃、どうした事か、突然館内の照明が全部消えてしまった。

 静まり返った館内に10分程して場内放送が、
「突然の停電で原因は分かりません。回復次第ゲームを再開します」
 という意味の事を何回も言ったけれども、回復する気配は無かった。30分程経っても真っ暗闇は続き、観衆が騒ぎ出した頃また放送があり、
「まことに申し訳ありませんが、この停電は直ぐ回復する見込みはないようなので、今晩のゲームはこれで中止致します。お気をつけてお帰り下さい」
 という事になった。

 冷房の消えた館内は、大観衆のせいもあって急速に暑くなってきたので、観衆は我勝ちに出口に殺到し始めた。私も大勢の人々に押され、突かれ、踏まれながらやっと外に出た。館外に出てから、暫くの間に見た光景は一生忘れがたいものとなった。

続きを読む...

私たちは歴史の主役です。70年の平和を後世に伝えよう(下)

 3月7日、朝日カルチャー・千葉の講演『「二十歳の炎」で、幕末史観が変わる』において、戦後70年の平和づくりを強調した。

 文明開化は安政の開国からです。「安政維新」なのに、明治維新だと偽る幕末志士たちの美化はもうやめましょう。


 徳川幕府は大政奉還で平和裏に政権移譲した。直後、薩摩・長州の下級武士が軍事クーデターを起こした。鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争、遷都もなく、東京に明治天皇を移した。ここに明治軍事政権が誕生した。

  
 それ以降10年に一度は海外と戦争をする軍事国家になった。、天皇と軍事を結びつけた「天皇+戦争」。明治天皇だって、決して戦争を望んでいたわけじゃない。それなのに、為政者たちは「天皇ばんざい」と言え、と国民皆兵で銃を持たせた。家庭を壊させて、死線をさまよわせた。

 1945年まで、77年間は外地で戦わせた。最終的には、第二次世界大戦で日本国土を焼け野原にさせてしまったのです。挙句の果てに、海外から、日本人は戦争好きの国民と思われてしまった。
 こんな戦争国家77年を作った政治家、上級軍人たちは、私たち現代人からすれば、大迷惑なのです。

 坂本龍馬にしろ、いろは丸事件で、金塊や最新銃を積んでいたと大ウソをつき、紀州藩から8万3000両を奪い取った。(実際は7万両が支払われた)。南北戦争後の銃をグラバーを介して輸入し、長崎から日本じゅうに売った「死の商人」です。船中八策など、ありもしない、偽物すらない、でたらめなつくり話を司馬遼太郎など歴史作家がもっともらしく書き上げてきた。


「こうした特定の人物を美化したり、「天皇+戦争」を推進した、日清・日露戦争からの東郷元帥、乃木将軍、山本五十六など英雄視して、後世に中継ぎすることはやめましょう。もう、断ち切りましょう」
 
  私たちは子供のころ、焼夷弾や原爆など爆弾投下の廃墟でした。実に悲惨な状況下で、生まれ育ったのです。みんな飢えて空腹でした。
 同世代の戦争孤児たちの多くは餓死しました。満州から引き揚げる子供も大勢が死にました。

 生きながらえた私たちは、成人してから精いっぱい企業・商店・農水産業で働き、汗水たらして平和国家70年を作ってきたのです。この間、外国から日本人は戦争好き民族だと批判されても、反論せず、先人が迷惑をかけた賠償金を払いながら、ひたすら文句を言わず、耐えて平和を築いてきたのです。

 戦後の食糧難から、私たちは一途に平和を探究してきたのです。企業戦士だと言われてきた私たちですが、1945年8月15日から、日本人は外国人を銃で1人も殺していないのです。
 
 幕末志士は英雄でなく、軍事思想家たちです。鳥羽伏見でクーデター起こし、77年間の戦争国家を作った。かれらへの陶酔はやめましょう。かれらと私たちを比べてみましょう。廃墟からの戦後70年間の「天皇+平和」は比較にならない、りっぱな国家づくりだったのです。

 この平和は世界に類を見ない、世界最大級の自慢すべき財産です。私たちは胸を張って平和づくりの現代史を優先して後世に語っていきましょう。

  朝日カルチャー千葉の講演より。


                写真 : 栗原 量子さん(朝日カルチャー千葉)

                                         【了】

私たちは歴史の主役です。70年の平和を後世に伝えよう(上)

 3月7日、朝日カルチャー・千葉で講演を行った。タイトルは『「二十歳の炎」で、幕末史観が変わる』だった。

 私たちは、正しい幕末~明治の近代史を知っているだろうか。質問を交えて、話を進めていった。

 安政の開国で、日本は新しい国家への道を歩みはじめた。そこから明治までの15年は一気に欧米の文化が入ってきた。

  天保・天明の飢餓は過剰人口が原因だった。日本の銀産出量は世界の1/3も占めていたから、外貨に不足はない。開国と同時に、輸入食品が入り、大勢の日本人は飢餓から救われた。阿部正弘、井伊直弼の功績は計り知れない。

 しかし、明治政府が作った日本史では、鎖国から開国に踏み切った阿部、井伊の二人をとかく見下している。

「みなさんは、ペリー提督が来航した1953年の1年後には、英文、オランダ語、日本語で外交文書が取り交わされました。なぜ英語が理解できたと思いますか? 皆さんの英語力と比較してみてください」
 講座で、そう質問した。だれも答えられない。英文の日米和親条約はこちらをクリック


 ジョン万次郎は、阿部正弘老中首座が江戸に呼び旗本に取り立てたけれど、漁民で身分が低く、同条約の通訳メンバーに入っていません。

「江戸時代の貿易相手はオランダ、朝鮮、中国でした。19世紀初め、ナポレオンがオランダを占領し、オランダ国家がなくなりました。これは歴史的事実。長崎出島のオランダ貿易はどうなりましたか?」
 これも答えられない。

「アメリカ船が長崎に来て交易をしていました。だから、米国には浮世絵、下駄、蛇の目傘、諸々の日本の物品が現有しているんですよ。当時、日英辞典もできました」
 日本が江戸時代(19世紀初)、アメリカと貿易していたとは教科書で教えない。教えないことは隠すことだ。真実を教わっていないから、誰も答えられない。 


 阿部老中首座(現・内閣総理大臣)は海外通で、上海、香港の英字新聞を日本語に翻訳させて、つねに読んでいた。
「鎖国の国家ゆえに欧米情報に敏感だったのです。現在の北朝鮮がアメリカ情報に敏感なのと同じ。鎖国とは海外に対して目を閉じることでなく、より敏感になることです」


 長崎の通詞(通訳)たちに、イギリス大英帝国、アメリカ独立戦争後の台頭から、オランダ語よりも英語に切り替えさせ、徹底して勉強させた。だから、アメリカの提督がきても、すぐに対応できた。

 ペリー提督よりも、7年前、1846年には東インド艦隊の司令官のビッドル提督が浦賀に来航した。このときの阿部正弘は、アメリカ大統領の親書は受け取らず、丁寧にお断りして、生鮮食品、薪、飲料水を目いっぱい与えて、お引き取り願った。
 ビッドルとペリーの2人はまったく同格の提督だし、艦隊の規模もほぼ同じ。

 阿部老中首座の立場で、ペリー提督来航は、2度目のアメリカ艦隊だ。それも同じ浦賀だった。おどろくわけがない。オランダを介して、やってくる軍艦名までも伝わっているのだから。

 阿部は欧米の産業革命を知っていた。ベリーが初来航した、2週間後には長崎奉行から、オランダに軍艦(蒸気船)4隻を発注させた。その一隻が咸臨丸である。この1週間後には、ペリーから受け取ったアメリカ大統領の国書を全藩に公開しているのだ。


 薩長土肥の貧乏な下級藩士が、思いもかけず国家の頂点に立ったものだから、江戸幕府の有能な上級職を片っぱしから貶(けな)す。悪質なねつ造も多々ある。

『太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず』
 幕府のトップがあわてふためていたと、明治政府は偽りをおしえている。こんな狂歌を面白おかしく教科書に載せている。
 
 阿部正弘が正確な欧米情報を持っていなければ、ペリー来航から即刻、2週間後に最新鋭の蒸気船など発注できない。

 明治政府がつくった歴史教育は、徳川幕府が19世紀にアメリカと交易していたと教えない、真実からおよそ遠いものだった。
 だから、それを受け継いだ現代の学校教育の現場でも、『長崎通詞が複数で日米和親条約の英文を吟味した』という単純な事実すら、教えられないのだ。

                                    【つづく】

                      写真 : 栗原 量子さん(朝日カルチャー千葉)

わが青春のムーラン・ルージュ(下)=戦前と戦後を生きた若者たち

 こんかいの公演『ムーラン・ルージュ』のモデルは実在人物ばかりで、主人公は中村公彦(きみひこ)である。申し訳ないが、私は知らなかった。それが良かったのかも知れないと思える。先入観なしに、演劇からのみ、何かを知ろう、得よう、としたからである。

 中村は子供の頃から絵が好きだった。だが、親は芸術の道に進ませなかった。濟々黌(せいせいこう・現熊本県立高校)、早稲田大学商科へと進む。早大に入っても、美術願望ばかりだった。世の常で、卒業後は三菱重工業本社に入り、勤務する。

 軍事工場だから、中村が戦地に行ったのか、内地に残ったのか、見落としてしまった。ただ、戦争末期、結核療養のために熊本に帰省させた妻と幼子を亡くす。ここにも人生の転機があったようだ。

 戦後はサラリーマン(半官半民会社?)の傍ら、「ムーラン・ルージュ」でアルバイトの舞台美術の絵描きになった。
 その後、舞台美術として中村は名を馳せた。舞台に登場してくる森重久彌(浜畑賢吉)の説明によれば、「ムーラン・ルージュ」が消えた後には、映画の世界に入り、大活躍をした人物だという。

 木下恵介監督「日本の悲劇」「女の園」「二十四の瞳」、川島雄三監督『幕末太陽伝』、井上梅次監督「嵐を呼ぶ男」「明日は明日の風が吹く」、今村昌平監督「豚と軍艦」「にあんちゃん」、裏山桐郎「キューポラのある街」など、戦後映画の数々の名作の美術を担当してきた。

 そして、後世にその名を残す舞台美術家、映画美術監督となったと、森繁が語りつづけた。

 
 中村公彦のあだ名は「男爵」だった。かれの風貌がジャガイモに似ていたのか、あるいは戦前まで存在した男爵家の息子か。そこらがわからなくても、むしろ、経歴を知らないほうがミュージカルの踊りと、愛の演劇と、懐かしい歌と、観劇としてはスピード感もあり楽しめた。

「ぜいたくは敵だ」という軍国社会のなかで、「ぜいたくは素敵だ」とダンスに興じる若者達とか、絵描き・童話作家になれずして、文系の学生は卒業を待たずして「祖国のためと銃を持たされ」戦地に送られるとか。最後の早慶戦の野球が神宮球場で行われて「海ゆかば」が合唱されるとか。当時の世相が次々に展開される。
 

 終戦後の焼け野原で、「ゴム紐売り」が現れる。豊かな現代ではあり得ない露天商だ。こうした昭和の大きな分岐点の社会が、歌や踊りとともに、ごく自然に理解できる演劇だった。

 暗い世相、焼け野原のなかでも、出演者たちが明るく踊る、歌う。あるいは涙する。この舞台には「生きるとは何か」と問いかけるテーマがあった。演者たちは、昭和史の中で生きた若者たちは、みな懸命に生きようと努力している姿をしっかり見せてくれた。

 だからこそ、出入り口で見送る演劇人たちの顔が、とてもすてきにみえた。


【関連情報】

主催 新宿くまもと物語「わが青春のムーラン・ルージュ」制作上演委員会

委員長 副島隆

〒862-0959熊本市中央区白山1-6-31
(株)お菓子の香梅内
TEL. 096-366-5151 FAX. 096-372-1857

熊本アイルランド協会
http://www.kumamoto-ireland.org
E-mail office@kumamoto-ireland.org

主催者から一言いただきました。
「笑いあり踊りあり歌あり楽しい舞台になっています」

【了】

わが青春のムーラン・ルージュ(上)=戦前と戦後を生きた若者たち

 昭和はやや遠くになってきた。戦争がその昭和を二分していた。文化も、生活も、生き方すらも違う。ただ、戦前と戦中の暗い世相でも、若者たちのエネルギーを発散させるモダニズムがあった。そのうえ、廃墟から立ち直った終戦後には演劇人が育つ土壌が生まれた。
 ここをみごとに再現・演じたのが、「新宿くまもと物語」シーリーズの「わが青春のムーラン・ルージュ」である。
 東京公演が2月24日(土)に、東京・新宿区の四谷区民ホールで、熊本公演は、昨年(2014)11月18日に開催された。

 新宿と熊本の関連とはなにか。夏目漱石、小泉八雲がともに熊本・五高で教鞭をとっていた。ふたりのさらなる共通点は新宿である。漱石においては新宿が生誕・終焉の地であり、八雲は終焉の地だった。

 ふたりの文豪を題材にした創作舞台「新宿くまもと物語」が製作され、双方の地で演じられている。ことしは3回目である。
 
 第1回は平川祐弘・東大名誉教授の脚本『青柳』である。八雲の「怪談」が題材になっている。

 第2回(昨年度)は、直木賞作家・出久根達郎の初脚本『庭に一本(ひともと)なつめの金ちゃん』で、熊本の古本屋が舞台だった。

 第3回(今年度)は、新宿の学生たちを背景にした歌と踊り、そして演劇の「わが青春のムーラン・ルージュ」である。

 作家仲間の親しい出久根達郎さんから、同劇のお誘いとお招きを受けた。私が指導する小説講座の受講生ともども四谷区民ホールで観劇させてもらった。


『ムーラン・ルージュ』は何となく聞き覚えがある。映画の題名かな、ミュージカルかな、昔の歌かなと思う。その程度のばくぜんとした知識で観るのが、この舞台は最も良い、それが私の感想である。

 昭和6(1931)年11月、映画館の新宿座を改装した、実にモダンなレビュー劇場が誕生したのだ。建物の屋上には風車があった。
 吉行エイスケ(吉行淳之介の父)が、パリの「ムーラン・ルージュ」を真似て名づけられた。新風を巻き起こすダンスに演劇にと、インテリ層や学生らを一気に引きつけた。

 若者たちのアイドルとなった明日待子(まつこ)、望月美恵子(のち望月優子)、小柳ナナ子などがスター誕生となる。

 昭和20(1945)年5月の東京大空襲で、建物は焼け落ちる。終戦後、焼け跡から復活してくる。
 同22(1947)年2月4月に、新生「ムーラン・ルージュ」が復活する。座主は宮阪将嘉、三崎千恵子(のちの「男はつらいよ」のおばちゃん役)、由利徹、春日八郎、楠トシ子、満州の引き揚げ者の森繁久彌らがいた。
 しかし、昭和25年9月、「ムーラン・ルージュ」は幕を閉じた。この間に、多くの演劇人、舞台人が生まれた。


 写真提供 : 写真家・宮田均さん

                             【つづく】