寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 ひとりご飯 = 森田 多加子

 お昼だ。今日は何にしよう。冷蔵庫を開けてみる。卵が可愛いい顔をして並んでいる。
(うーん、ベーコンがあるから、卵の大好きな夫にベーコンエッグでも作るか)
 汁物がないと機嫌が悪いのでスープを作ることにする。
 これに、昨夜素揚げしておいた茄子に生姜とおかかを載せたもの。お昼はこれだけ決まれば、あとは、常備菜と保存食のいくつかあれば、それでいいだろう。

 それにしても、毎日3食どうして食べなければいけないのだろう。買い物に行く、献立を考える、食事の用意、後片付け。毎日これを3回やっていると、昼間のほとんどの時間が失われる。これを何十年も続けてきた。

 結婚した当時は家族2人、子どもが2人生まれて4人、両親と同居して6人、そして両親が亡くなりまた4人、現在は子どもが独立して振出しの2人に戻った。

 子どもがいる間は、作ったものを「おいしい、おいしい」と食べてくれるので、面倒とは思わなかった。今は夫婦とも齢をとり、食欲はなくなり、嗜好も狭くなった。おまけに作る方も手抜きが多くなっている。
 作ったものが全て「おいしい」とはいかない。夫が仕方なく食べているように見えると、本当に情けなくなる。


 まだ私の子どもが幼児のころ、お隣さんは小学生二人の子持ちだった。昼前になり、立ち話をやめようとした時、彼女が言った。
「子どもたちは給食だし、私は今から一人ご飯よ」
「一人ご飯? それは淋しいわね」 
「えっ、どうして? 一人でのんびりできるのよ。こんな楽しいことはないわよ」
 私は、まだ小さな子ども二人と、お庭で食べたり、お握りを持って、公園に行ったりしていた。その子たちがいなくなって、一人で食事など、考えられなかった。

 今の私は、一日三食二人ご飯なので、時には一人でゆっくり食事がしたいと思う。たまに夫が何かの用事で外出すると、いそいそとお昼の準備をする。準備と言っても、茶碗一杯のごはんに、残り物と常備菜だけである。
 しかし、それだけをお盆に載せて、テレビの前に陣取り、録画している好きな番組を見ながらの昼食は、何よりのご馳走に思える。この何もしないで食べられる、という時間が、たまらなくうれしい。


 夫の親しい友人が訪ねてきたときの話だ。
「その日、外で夕飯食うことになっていたのだが、急に取りやめになったんだ。家に帰ってびっくりしたよ、アイツ、うまそうにステーキを食っていたんだよ。そんな大きなもの、オレは食ったことないよ、というと、だって、今日は二人分の食事代を私ひとりで使えるでしょ、とシャーシャーと言うんだぜ、まいったよ」
 あまり怒っている風でもなく、むしろのろけているような笑顔に魅せられて、大笑いをした。こんな一人ご飯もあるのだ。

 しかし、これがずっと続くとどうだろう。我々夫婦は、もう五十年以上も一緒に暮らしている。やがてどちらかが残され、一人になる。残された者の「一人ご飯」はどんな味だろうか。
 今の一人ご飯の楽しみは、夫婦が元気な時だけの、贅沢な時間なのだ、と改めて考えた。贅沢はたまにで結構。なるべく長く二人ご飯を続けたい。

100年、数100年後を見据えた壮大な計画だった、明治神宮の杜=市田淳子

 お正月の参拝者数は全国一といわれるのが明治神宮です。原宿駅の真横にあり、交通の便も抜群。表参道という若者の街も至近距離にある、この地に神様の杜があります。

 古代の神社には社殿がありませんでした。動植物を神霊としたり、森そのものを神社と考えていたりしたようです。
 神社をモリと読ませ、社(モリ)は杜(モリ)の同義語だったというのも、うなずけることです。


 明治神宮の杜は明治天皇崩御のあと、国民の間で、ご神霊をおまつりしたいとの熱い願いが湧き上がりました。
 1915年(大正4年)から1920年(大正9年)にかけて、当時、畑や田圃、アカマツが生える代々木御料地に、全国からの献木によって明治神宮がつくられました。


 その杜で2016年1月24日に、日本山岳会・自然保護委員会が主催する自然観察会が行われました。樹木に詳しい森林インストラクターが、明治神宮の樹木の見方などを、丁寧に解説してくださいました。

 雑木林だと、冬は木々が落葉して明るくなるのですが、明治神宮は違います。そのうえ、神社によくある杉並木もありません。

 明治神宮の杜づくりを計画したのは、本多静六、本郷高徳をはじめとする当時の林学・農学・造林の第一線の学者たちです。
 敷地脇を機関車が走ったり、西新宿方面には工場があったりという立地でした。将来は大気汚染も予想していたのでしょう。さらに、乾燥した土地だったので、それら条件をも加味しながら、最終的にカシ類、シイ類、クスノキ類などの常緑樹の杜をつくることでした。
 このように百年、数百年後を見据えた壮大な計画だったのです。


 私たちがいつも登る山の自然環境とは違い、自然界では絶対に隣り合っているはずのない木が、明治神宮では、いっしょに元気に生きています。
 つくられた杜とはいえ、それなりの生態系が出来上がっています。そんな杜は、登山を趣味とする私たちのとてもよい勉強の場となっています。

 もともと私は、ピークハントのために登山をする気は全くなく、山に登る途中、その地に生きる樹木や昆虫や鳥獣類に出会えることこそが、登山の一番の愉しみであり目的です。
 このような観察会に参加することは、登山の愉しみが増え、山に対する気持ちを新たにしてくれる大切なことだと思いました。
 自然が存在するには、必ず意味があります。それは長い間の自然界の変化だったり、人間の影響だったりします。この世に意味のないことはなく、ただ私たちには計り知れないだけだと思います。

 百年後を見据えて杜をつくった英知は、今後、国立公園などの自然保護にも受け継がれるべきです。これから先、ずっと日本の山が破壊されることなく、自然を大切にする心を持って登山を愉しむ、こうした文化が続いて行くことを願います。(森林インストラクター)


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№197から転載


瀬戸内しまなみ海道サイクリング = 飯田慎之輔  

 2015年7月2日(木)自転車で、「しまなみ海道」を走ってきました。

 しまなみ海道は尾道から四国の今治まで、橋と島で結ばれた道です。約70キロ、一番長い橋は来島大橋で、長さは4.105キロ、高さは80メートルくらいあります。橋は全部で7本あります。

 こんかい私の友人と、北山さんの次男隼地(はやくに)君と、私の3人で走ってきました。隼地君はすにいかあ倶楽部のホームページを作成してくれた人です。

 私の友人とは東京駅の新幹線で、隼地君とは福山駅で11時頃に集合しました。

 1日目は福山から川沿いに18キロぐらい鞆の浦へ向いました。そこは古い家並みの残る小さな潮待ちの港です。自転車だと30分走ると全部です。
 レストランを探してうろうろ。一日10食限定のランチを食べて、3人は元気になり尾道を目指して走りました。

 60㌔くらい走って、4時過ぎにホテルに到着し、シャワーを浴びてビールです。一休みして尾道の街にくり出し、夜ご飯です。

 2日目は8時に出発し、まずは尾道港から向島まで渡船で渡りました。1.5㌔100円です。自転車代が10円です。
 島の道路には、しまなみ海道沿いにブルーのラインが引いてあり、それに沿って走れば今治まで走れます。

 1本目の橋、因島大橋の取り付け道路で、友人の自転車が車輪同士が接触して、落車した。転車は何ともなかったのですが、本人軽い脳震盪を起しました。40分くらい休んで、友人は元気になり、次の島因島へむかう。


 しまなみ海道からはずれた因島水軍城を見学し、次の島生口島へむかう。景色の良い海岸線をはしってサンセットへ。ここでお昼ご飯を食べて大休止となる。
 多々羅大橋を渡り、大三島友人の知り合いの家に寄ってから、大山祗神社。そして、ミュージアム大三島、伊東豊雄建築ミュージアムを覗いて伯方島へ……。

 次の島大島の友浦港が、今日の宿です。3日目の天気が良くないので、今治まで行くことになり、大変です。
 一番大きな橋来島海峡大橋を渡って、今治のサイクルターミナルには夕方5時に着いて、一休みしてから友浦港の民宿へ。7時に着いて、7時半から食事です。120キロも走ったので、全員が疲労困憊ですぐに就寝です。

 3日目は、朝7時に食事、8時には出発です。ところが、友人の自転車がスローパンクしてやり、パンク修理に手間取り、出発が9時過ぎになりました。
 昼頃から雨が降り出す、との予報で、同じ道を一生懸命走って11時半には尾道に到着した。この間が50キロです。
 尾道駅12時45分発の普通列車に乗って福山へ。新幹線待ちで、ビールを飲んで昼飯を取り、2時50分の新幹線に乗って帰宅。梅雨の晴れ間のサイクリング、くたびれましたが、楽しかったです。


         ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№190から転載

落葉が黄色・黄緑・オレンジ・赤色・緑の絨毯(じゅうたん)だった、鎌倉アルプス=藪亀徹

平成27年12月5日(土) 晴れ

参加メンバー : L武部実、渡辺典子、野上とみ、松本洋子、中野清子、砂田亮子、籔亀徹、他2名

コース : 北鎌倉駅~明月院~大平山~天園~獅子舞~鶴岡八幡宮~鎌倉駅


 北鎌倉駅に9:40集合した。(円覚寺寄り)。予想通り、きょうは土曜日と紅葉の時季が重なり、かなりの人手であった。
 どうにか、全員が揃い、円覚寺前から10時に出発する。武部さんの友人2名を加え、9名の参加でした。

 鎌倉アルプスは約3時間のハイキングコースである。入山は明月院の手前から入り、民家の脇からコースの入り口になる。

 竹やぶの登り道で、やぶ椿も見えた。
 紅葉はどこにも見ることなく、所どころで富士山が見えたり、スカイツリーが見えたりする場所などがあった。人出は多く、気楽な歩きなので、後ろから来る人は先に行かせた。

 ある程度登ると、後は尾根を歩くコースである。11:35には、鎌倉市最高地点(海抜159.2M)の大平山に到着した。

 山頂らしき場所には、小さな看板があるだけだった。その直ぐ下には広場があり、多くの人が休んでいた。真横には、鎌倉カントリークラブがある。このコース途中にはトイレは無く、この広場を過ぎたところに一箇所だけある。

 12:15には広場を離れ、出発する。10分程で、天園峠を通り過ぎる。さらに10分程で、本日のメインである獅子舞の紅葉の場所に到着した。

 ここは大きい木が多くて、色とりどりで…黄色・黄緑・オレンジ・赤色・緑、落葉が黄色の絨毯(じゅうたん)になっていた。
 太陽と空の青が、いっそう色彩を鮮やかにさせていた。ここを後にして……沢を横に見ながら、下山する。
 民家が見え出すと、永福寺跡の整備がされている場所に出る。ここは源頼朝が建てた大寺院跡である。この後、鎌倉宮に出て鶴岡八幡宮へ。大勢の人の中で、結婚式が執り行われていた。 

 記念撮影をして、いざ鎌倉へ……。鎌倉駅には14:35に着いた。ここまで4時間30分の所要時間だった。
 いちおう解散という事で、男性4人はいざ天狗へ……。ところが、女性も合流して全員で乾杯になりました。17:00前には、気持ち良く電車の中へ。
 こんかいは野上さん、松本さん、砂田さんとは初めての山行でした。

 (鎌倉八幡宮にて)
                 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№197から転載
                           

【寄稿・エッセイ】 一緒に生きた物たち = 森田 多加子

 最近は、いつも頭のどこかで物の整理、というより捨てることを考えている。一番てっとり早いのは、引っ越しをすることだ。夫が現役のころは、転勤のあるたびに家はすっきりした。引っ越す前に捨てる。行ってからもその家に合わないものを捨てる。両方で捨てるので、少なくともその時点で不要なものはなくなった。

 夫のリタイア後は、転居がない落ち着いた生活をしているが、すでに二十年以上同じ家に住んでいるので、荷物は増え続けている。断捨離は大変な作業だ。

 私の母は、長男である弟夫婦と一緒に九州に住んでいたが、割に早くから身辺整理をやっていた。たまに訪れるといつもアルバムを出して、ほしい写真はないかという。子どもたちが行くたびに、それぞれに分け与えた。

 着物は、洗い張りをしてきちんと取ってあった。それらを何かに利用しなさいというが、私は不器用で何もできない。
 古い鋏や裁縫道具、鼈甲(べっこう)の櫛、ちょっと壊れている珊瑚の簪(さんごのかんざし)類、袋ものなども持って帰れという。鋏はすべて研ぎ直して刃の部分は銀色に光っていた。裁ち物鋏くらい大きい握り鋏は、確かに珍しく、どこかの博物館にでも持って行きたいくらい立派なものだが、縫い物をしない私には無用の長物だ。

 しかし、それらの品物にたいする母の思いはよくわかるので、いらないとは言えない。とりあえず家に送る箱に詰める。実家に行くといつもこの箱が数個できてしまう。

 妹に話すと、同じようにもらって帰るが、ほとんどのものは、捨てているという。たしかに、母にとって大切なものでも、子の私たちにはなんの思い出もない。特に食器などは、それが上等の塗り物であっても、なかなか使う気にはなれない。

 そういうことがあったので、断捨離の時期に入った私は、子どもたちに残すものはない、と考えている。どんなに私が一つ一つを大事にしていても、私以外の人には何の思い出もないだろう。自分の好みを押し付けることはできない。

 そんな決心をしているのに、先日、娘に洋食器の一揃いは要らないかと、つい尋ねてしまった。勿論断られた。使い易い食器を揃えているので、余分なものは要らないと言う。

 この食器は、友人たちを招いた折、コース料理もどきを作っていたものだ。お世辞でも「すごーい」「おいしい」と言われると、鼻ぴくぴくでうれしがっていた。セットで五人分揃っている。大事に使っていたが、最近は面倒な料理をしなくなったので、要らなくなった。

 その頃の経済事情から言って、一大決心をしてやっと買ったものなので、このまま処分することはどうしてもできない。
 食器類は、料理を載せられてこそ美しくなると思う。これからは普段使いにして、皿としての生涯を全うさせるしかない。
 母と同じような齢になって、その頃の母の気持ちがわかるようになった。

 周りにあるものは、全て私と一緒に生活してきたものだ。もっと言えば、一緒に生きて来たものだ。しかし、どんなに大切な宝物であっても、それは私だけの宝物であって、私以外の人には要らないものなのだ。
 最後は全部すてられるのだろう。

奥多摩 ロン・ヤス会談の「日の出山荘」 = 松元兵八

期 日 : 2012年4月29日 (日) 晴

メンバー : L松元兵八 上村信太郎 岩淵眞一 西村美智子 松村幸信 

コース : JR武蔵五日市線武蔵増戸駅前 → 網代弁天山(網代弁天洞窟)…武蔵増戸駅前(昼食) 
→ 横沢入里山保全地域…落合バス停 → 日の出山荘 → 武蔵五日市駅前 (歩行 約4時間)

「日の出山荘」掲示のロン・ヤス写真


 10時30分に、武蔵増戸駅前に集合した。
 秋川に架かる網代橋を渡り、貴志嶋神社入口まで1.3kある網代の弁天様といわれるこの神社の奥の院弁天洞窟に入る。

 洞内をヘッドランプで照らしながらいく。財宝・福徳を授ける神 毘沙門天立像(多聞天)は、高さ35センチの大黒天像(伊奈石製)のご尊顔を拝してから、下山する。駅前のベンチで昼食。
 12時10分過ぎに、駅前を出発した。

 北伊奈集落を縫って、西側の広葉樹林の尾根道を20分ほど登りつめると、目ざす横沢入里山保全地域である。ここは野生動植物保護地区に指定されている。


 ルートマップにも載っていない急坂を一気に辷り下りると、下ノ川という谷戸にでる。下ノ川の沢が、横沢入の中央を流れる横沢川に合流する。そこには戦車橋が架かっている。この橋は、横穴に残っていた旧陸軍の大砲などの牽引車の部品を利用したものだという。

 西に進むと、宮田西沢の標識があり、この谷奥には伊奈石の石切り場跡がある。さらに百歩足らず行った右の山腹に入口が急斜面になっている地下壕がある。
 根っこに掴まり、よじ登って壕の中を覗く。戦争末期の昭和20年に旧陸軍によって掘られている壕内に軍需品を保管したという痕跡を辿った。
 壕を掩う軟らかい砂岩が剥がれそうだ。我々はこの遺跡の現状を損なわないように注意しながら、崖を下りた。


 横沢入の拠点ログハウスの斜め前に、横沢川を北側に渡る橋の護岸の石垣に注目した。メンバーの皆が「あっ臼だっ」と声を上げる。
 石垣に茶臼の未成品が、そのまま組み込まれている。

 戦車橋に戻って下ノ川を渡り、横沢入の東側尾根を登る。ロープを伝って急斜面を登ること10分で、中腹となり、一休み。頂上付近からは西の山々の日の出山・御岳山・大岳山等を仰ぎ見る。

 30分位で、保全地域を通り過ぎて、日の出団地の北側のテラスに出る。ここは、伊奈石露頭で、地層が地表に露出している。
 八坂神社の脇をZ字形に下り、落合バス停へ着く。歩くと入館受付に間に合わないので、タクシーを呼んで日の出山荘へ駆けつける。

 15時からは館内見学。1983年、日米首脳会談「ロン・ヤス会談」の舞台となった記念館である。母屋の「青雲堂」中座敷に掲げられた中曽根氏の書「太平洋波静」を見ても当時、いかに日米関係が強固だったかが窺えよう。
 我ら一行は青雲堂を背景に写真撮影する。そして、武蔵五日市駅前で乾杯した。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№53から転載

道迷いでクモの巣とササやススキに難儀、扇山=松本洋子                                  

扇山(1138m)

日時:2012年9月15日(土) 晴れ

メンバー:L関本誠一、渡辺典子、武部実、石村宏昭、松本洋子  

コース:鳥沢駅(バス)⇒梨の木平~扇山(山頂直下:昼食)~君恋温泉~犬目~大田峠~梁川駅

 JR鳥沢駅に8:50に集合した。
 4~11月の土日のみ運行(9時発)のバスで梨の木平登山口へむかう。9時10分に到着する。登山口に「熊に注意!」の看板ありホントにいるのかな~?と言いながら、9時15分から熊鈴をつけて登り始める。
 最初は緩やかな登りで、30分くらいで水場に着く。滔々と湧き出る水を持参のペットボトルに入れてから、また登り続ける。

 ふたたび林の中の道をぐんぐん登っていき、急な坂を登り切り、分岐の標識には10時45分に到着した。ここが「大久保のコル」。無理をせずに小休憩をとる。

 右の道へと進路をとり、富士山の絶景が待つ扇山の山頂へとむかう。あともうひと頑張りだ。ここから扇山山頂までは、広くてなだらかな尾根道だった。

 何てことのない道のようだけれども、ただ歩いているだけで、胸の奥からわくわくしてくる。そんな道を快調に歩いていく。やがて林を抜け、突如として広場に出る。11:00に山頂に到着した。

 記念写真を撮る。晴れてはいたが、武部さんが楽しみにしていた富士山は見られずがっかり。

山頂は木陰がないので、もう少しを歩き、山頂から10分ほど下った登山道脇の木陰スペースにシートを敷いた。
地面が少し坂になっていたので、坐っているのにも気を使いながらの昼食だった。
 約30分の昼食休憩をとった後で、出発する。


 犬目に向かって歩いてたはずなのに、君恋温泉に出てしまう。
 不動尊の下にある滝のところは、アルミの階段があり、気をつけて登り、マイナスイオンを浴びながら進み、君恋温泉にたどり着く。
 煙突からわずかばかりの湯気らしきものが昇っていたが、これで温泉かと思うほどだった。

 県道に下山したあと、いったんは犬目(バス停)まで戻り、ゴルフ場の脇をとおり、大田下バス停にたどり着くも、13:33分発のバスには3分程遅かったために乗れず。
 やむなく歩いて20分位とかの近道(?)を行くことにした。

 大田峠を経て梁川駅へと向かう。いつ人が歩いたかわからないくらい、クモの巣とササやススキが生い茂った道なき道を進み、半分くずれている様なところも2、3ヶ所あったが、どうにか14:45に梁川駅へ辿り着く。
 大田峠~駅までのコースタイム20分のところ、40分もかかり、あまりお勧めのコースではない。結局は10分ちょっとの待ち合わせで、14:58発の電車に乗った。立川にて、反省会をしてから家路へと向かう。


       ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№159から転載

純白の富士山には感動、笹子雁ガ腹摺山 = 脇野瑞枝

笹子雁ガ腹摺山(1358m)

2012年5月19日(日)晴れ

メンバー:L佐治ひろみ、石村宏昭、大久保多世子、北山美香子、脇野瑞枝

コース: 初狩駅8:00集合、バス8:45発 → 新中橋9:10着 → 笹子雁ガ腹摺山10:40着 → 米沢山11:55着 ― 昼食 → 御坊山13:15着 → 大鹿山13:55着 → 景徳院15:05着 - バス15:37発 → 甲斐大和駅15:51発 → 帰路

 初狩8:45のバスに乗り、新中橋にて下車した。
 登山口から杉木立の中をしばらく登ると、そびえ立つ鉄塔の下に出る。鉄塔の右側を通り抜け、さらに登りつめて尾根筋に出ると、右手にはこれから登るだろう稜線が続く。
 藪の中、かなり急な登りを頑張ると、笹子雁ガ腹摺山(1357)山頂に着いた。

 まわりには、東国三葉ツツジ? の灌木が目立つ。山頂からの眺めは、続く山々と雪をかぶった美しい富士山とで最高です。
 10:40着。細い道を下って、やせ尾根が続き、三つのピーク、クサリ等を使ってかなりきつい。


 1時間ほどで米沢山(1357)山頂に着いた。昼食を取る。山頂は樹林に囲まれていて展望はありません。

 登り降りを繰り返し、間井沢ノ頭/トクモリ(1412)を過ぎると、西側がパッと開けて展望が良い。しばらく進むと、お坊山山頂に着いた。
 またまた一気に下がって大鹿峠に着く。
 樹林に囲まれ、道も狭く、いよいよ下山になる。目指す景徳院の道がちょっと見つけにくい。暗い樹林の中を一気に下って氷川神社を過ぎ、民家を通り抜けると、立派な山門が目に入る。景徳院です。
 この寺は徳川家康が建立している。二度の火災にあい、山門を残すのみとのこと。手入れが行き届いた庭園を見物した。

 15:37発のバスに乗り、15:51甲斐大和駅発にて帰路に向かう。立川にて反省会。

 全体に道が狭く、樹林の中で、アップダウンが思ったより激しかったように思った。笹子雁ガ腹摺山からの雪をかぶった富士山が素晴らしかったです。

 また、大菩薩山塊には三つの雁が腹摺山にあるが、いずれも雁の飛翔コースにあたるので名づけられたと思われます。
 笹子雁ガ腹摺山は大菩薩連嶺の最南端に位置しています。中央自動車道笹子トンネルはこの山の下を通っているそうです。
 リーダー佐治さん、ありがとうございました。
(なお、トンネルの天井板落下事故が起きたのは、この山行の7ヶ月後です)。

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№159から転載

【寄稿・(孔雀船)詩集より】 月を嗅ぐ犬と   脇川郁也

見えない何かを探して
水の声に耳を澄ませたように
犬が月を嗅いでいる
老いて死んでしまった大きな犬だ
その姿を見届けてから
ぼくは
凍った空から射してくる
しろい光に包まれて
死んだ犬のかたちに似せて
立ち上がる

明日には
月のうえに
もうひとつの月がのぼる
そんな晩は
秋の長雨ばかりが思い起こされて
滔々と流れる御笠川の汀にあって
記憶の中に立ちつくしてしまうのだ

まちがまだ眠っている時間に
ぼくたちは
冷たい風に吹かれながら
川べりを歩いて公園に向かった
ときに立ち止まり
周囲の気配を嗅ぎとろうとするおまえは
おもむろにしゃがみ込むのだった
おまえの糞から立ち上がる湯気も
風に消えた

夢にうなされて
悲しげに唸るおまえのことを思うと
ぼくの鼻が鳴るよ
川岸のふちにふと立ち止まれば
いまもそこにおまえの姿があるようで
ぼくは
鼻をうごめかすのだ

月を嗅ぐ犬は
尾を立て
耳を絞り
牙をむいている
ただ目だけが悲しみに満ちている


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

【寄稿・(孔雀船)詩集より】 鼓星(オリオン)通り  高島清子

その通りはここから始まる
緩い坂が降りてゆく先の先は
道がユニオン(団結)通りと名前を変えて続くのである


歩き出せばひんやりと湿った物の怪らしきもの
後をついて来る気配止まず
地霊の声さえ聞こえるではないか
その上ここには
よからぬカビ菌共が棲みついているらしく
肩先に吹いてきた風には
江戸のその先の時代からの匂いがした


追憶の道で回路に残る店は
大儀らしく薄目をあけて
生あくびを噛み殺しながら
この昼下がりをやり過ごしていて
人は歩くともなく歩いている


鼓(オリ)星(オン)通りユニオン(団結)通りとは
よくも名づけたものさ
なにさま田舎モダンの紳士が
オン繋がりで決めたのだな
オリオン通りから星は見えない
時折吹く風が天空からの冷気を送ってきて
夜はまた一際の寂しさが漂うのである


地方都市の今は
何処もこんなものさ
千軒町屋が廃れるのは
人が遠い山裾の方へ移住して行ったからだ
そしてみんな勤め人となって
休日にはデンタル農園でキュウリの棘に参っている
元はといえばみんな先祖は農家さん
次男以下ここには要らない者が
町へ出て行ったのだが
やがて土の匂いが恋しくなり
もっくりもっくりと収穫する根菜の
あまりの真実にたまげている


田舎に住もうというのは人の遺伝子の仕業
そして何という私の誤算であったのか
来てしまった此処は
空のみが広々と青く
オリオン座の鼓の音も時には耳に届く
不可思議な場所であった


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船 87号」 頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738